やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅵ) 頁24
《頁24》
ひとり葉卷を吸ひ居れば
雪は幽かにつもるなり
こよひはきみも
ひとり小床に眠れかし
きみもこよひはほのぼのと
きみもこよひはしらじらと
きみもこよひは冷え冷えと
みどりはくらき楢の葉に
ひるの光のしづむとき
つととびたてる大鴉
ひとり葉卷きをすひ居れば
雪は幽かにつもるなり
こよひはきみもしらじらと
ひとり小床にいねよかし
ひよりいねよと祈るかな
[やぶちゃん注:最終行の「ひより」はママ。
ここに編者によって『以下、欄外』とある。]
黄龍寺の晦堂老師
吾爾に隱すことなし(論語)
[やぶちゃん注:これは芥川龍之介直筆原稿の一部を「澄江堂遺珠」の箱の装幀で実見することが出来る。
「黄龍寺の晦堂老師」「晦堂」は「まいだう(まいどう)」と読む。宋代の黄龍祖心禅師(一〇二五年~一一〇〇年)で晦堂祖心とも称した。参照させて戴いたのは霊芝山光雲寺住職田中寛洲老師のサイト「道楽庵」の「禅修行の法悦」で、そこには以下のようにある。祖心禅師は『建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧であり、その嗣法の弟子には死心悟新禅師や霊源惟清禅師などの卓越した禅僧がいる。有名な黄庭堅(山谷)も在俗の身で祖心禅師の法を嗣いでいる』。『十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もなく辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさとした。そこに弟子の大成を願う、法に対する古人の大悲心が感じられる』。『祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはできなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。文悦禅師が遷化されたのち、石霜山にとどまって修行に専心した』。『或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出くわした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。この一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手法)の何たるかを徹見した』。『ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らんばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこれと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねることをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わしはお前を台無しにしたことであろう」といった(『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章)』とある。以下もリンク先で是非、お読み戴きたいが、そこで田中寛洲老師も述べておられるように、この話は見性開悟の機縁と公案の在り方について素晴らしく印象的である。
「吾爾に隱すことなし(論語)」これは「論語」の「述而第七」の二十三章、
子曰、二三子以我爲隱乎。吾無隱乎爾。吾無行而不與二三子者。是丘也。
子曰く、「二三子(にさんし)、我を以つて隱(かく)せりと爲すか。吾、爾(なんぢ)に隱すこと無し。吾は行ふとして、二三子と與(とも)にせざる者、無し。是れ、丘(きう)なり。
の「吾無隠乎爾」の部分を引いた。人口に膾炙する訓読では、「乎爾」を句末の強勢辞ととって「のみ」と読んで、「吾、隱すこと、無なきのみ。」と読むのが一般的でそれが意味上は正しいように思われるが、しかし、日本語の訓読では上記の芥川が採った訓読の方が、私のような凡愚でも平易に理解し得ると感じられる。なお、「者」は人称代名詞ではなく、「吾」の「行ふ」こと、自身の行動/行為/行状を指している。「WEB漢文大系」の同条の注に下村湖人の「現代訳論語」(昭和二九(一九五四)年池田書店刊)の訳が引かれてあるので、孫引きする。「先師がいわれた。おまえたちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをおまえたちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、おまえたちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。丘(きゅう)という人間はがんらいそういう人間なのだ」。]
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