耳嚢 巻之九 勿來の關の事 但櫻石に成る事
勿來の關の事 但櫻石に成る事
奧州なこその關は、むかしは山を越えて往來せしや、今は右關ありし山は通路なく、中むかしより右山の麓海岸を通ふ事の由。潮みちぬれば通路なりがたく、飛鳥井(あすかい)殿の歌に、
こゝつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその關といふらん
右當時、通路を九々面と書(かき)てこゝづらと云(いふ)由。いにしへ、名こそに櫻を詠(よみ)し古歌もあれど、いまはさくらなし。しかれども、大木の櫻伐採ありて今は石になり、今に櫻の木目(きめ)も顯然とある由。萩原某見分御用にて見候て、右のいわれも聞しと語りぬ。然(しから)ば楠(くす)などにかぎらず、何れの木も消化(しやうげ)して石になりもせしや。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「勿來の關」歌枕。江戸の終わり頃からは「奥州三関」の一つに数えられているが、所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説もある。以下、ウィキの「勿来関」より引く。『「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味の両面接辞『な~そ』に、『来(く)』(カ行変格活用)の未然形「来(こ)」が挟まれた「な来そこ」に由来』し、「来るな」の意で、『「なこそ」の漢字表記では、万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて「名古曾」「名古曽」「奈古曽」と書かれる例と、訓であてて「名社」と書かれる例がある。また、漢文において「禁止」の意味で用いられる返読文字「勿」(~なかレ)を用いて「勿来」と書き、語釈から「なこそ」と読み下す例がある。関の名称であることから「来」に「越」の字を当てて「勿越」「莫越」と書く例も見られる』。『「なこその関」は関とよぶも関所とはよばない。また、目下のところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に「なこその関」を見出すことすらできて』おらず、『一般に「なこその関」は、白河関、念種関(『吾妻鏡』の表記。江戸時代以降は鼠ヶ関、ほかに念珠ヶ関とも)とともに「奥州三関」に数えられ、『「奥州三関」は、「奥州三古関」「奥羽三古関」「奥羽三関」とも呼ばれる』ものの、そもそもが『「奥州三関」がなこそ・白河・念種の三関を指していたのかの確証はな』く、『奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、「なこそ」が来るなという意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられるが、今のところそれを積極的、直截的に示す根拠』もない。十一世紀、能因が「平中物語」の一節を引いて、『遠江国(静岡県西部)に所在すると考えた『能因歌枕』の説のほか、十七世紀に西山宗因が紀行文『宗因奥州紀行巻』のなかで「なこその関を越て」磐城平藩領に入っていると記していることなどから、現在の福島県いわき市に長らく比定されている。吉田松陰の『東北遊日記抄』にも現いわき市勿来町関田字関山付近を「勿来故関」と記録されて』はいるものの、「なこそ」の地名がこの周辺に存在した証は、やはりなく、『福島県いわき市勿来町に所在したと考えられている菊多関の別名とする説もあるが、最近では区別されている』。歌枕として、「なこその関」は多くの歌人に詠まれ(平安から近代以前まで百二十五首に及ぶ短歌形式の和歌に詠みこまれている)、『それらの歌からは陸奥国(東北地方の太平洋沿岸部)の海に程近い山の上が情景がイメージされる。しかし、一般に近代写実主義に拘束されていない近代以前の和歌においては、歌枕を詠むにあたってその地に臨む必要はな』く、『なこその関を詠んだ歌についてもその多くは現地で詠んだ歌とは考えられていない』。『陸奥国府・多賀城(地図)や松島丘陵の軍事的な意味合い』や、十九世紀頃の江戸の絵図「陸奥名所図会」などを根拠として、『奥大道と名古曽川(なこそがわ。現在は「勿来川」と書く。砂押川水系)が交わる宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽に比定する説もあ』るものの、『周囲は惣の関ダムが建設されたため地形が大きく変わり、現在は「なこその関」の説明看板と江戸時代に建立された「勿来神社」の碑』及び『利府街道沿いに「勿来の関跡」の誘導看板が設置されている』に過ぎない。『なお、「勿来神社」の碑から』南約四キロメートルの位置に多賀城政庁跡があり、約七百メートル北東には北宮神社があって、『これは陸奥府中の北端を示す「北宮」だったと』もされる。江戸初期には『現在の福島県いわき市勿来町関田字関山に「なこその関」を見立てるようになったため、観光地化』が始まり、『江戸時代に関田村を領していた磐城平藩は』、十七世紀、『桜の植樹をするなど、関跡に見立てた整備事業をたびたび行っている』。明治三〇(一八九七)年に『日本鉄道海岸線(現・JR常磐線)に「勿来駅」が開設され、その駅名にならって、大正一四(一九二五)年、『石城郡窪田村が町制を施行する際に改称して』勿来町(なこそまち)と『なり、「勿来」という地名が初めて生まれ』ている。昭和二(一九二七)年には『福島民友新聞社が「勿来関趾」の碑を建立し』てもいるが、『考古学的な発掘調査を根拠とした所在地の推定は』全くなされていないのが現状である、とある。
・「飛鳥井殿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、最後に補説示す重出記事が載る(但し、同版では本話とそれは「巻十」に所収。本文と同記事の九つ後に配されてある。殆んど酷似した記事でここに参考再掲する価値を私は認めない)が、そこでは「飛鳥井亞相」(「亞相」は「あしやう(あしょう)」で大納言の唐名)とあり、この人物について同書の当該項にある長谷川氏の注では、
*飛鳥井雅親(応永二三(一四一六)年~延徳二(一四九〇)年)
《室町中・後期の歌人で公卿。法名は栄雅。権大納言。勅命により近古以来の和歌を撰進した。蹴鞠や書も能くした。和歌の飛鳥井流祖》
か、
*飛鳥井雅章(慶長一六(一六一一)年~延宝七(一六七九)年)
《江戸前期の歌人で公卿。雅親の五代後の直系飛鳥井雅庸(まさつね)の四男。権大納言・武家伝奏。後、兄飛鳥井雅宣の養子となって飛鳥井家を継承した。後水尾天皇朝の歌壇で活躍、明暦三(一六五七)年には後水尾院から古今伝授を受けている。門弟に松尾芭蕉の師格であった北村季吟がいる。》
の二人の名を掲げておられる。
しかし、国立国会図書館のレファレンス事例を見ると、この後に出る和歌は、
江戸前期の歌人で公卿の飛鳥井雅宣(まさつら)の和歌
であることが分かる。
●飛鳥井雅宣(=難波宗勝)(なんばむねかつ 天正一四(一五八七)年~慶安四(一六五一)年)
《安土桃山から江戸初期の公卿。飛鳥井雅庸の次男。権大納言。兄に飛鳥井雅賢(まさかた)が、弟に前記の雅章(後に彼を養子として飛鳥井家を継がせたことは前注通り)がいる。この家系の旧当主であった難波宗富の死後中絶していた難波家を再興した。後に名を飛鳥井雅胤、雅宣と続けて改め、飛鳥井家を継いでいる。慶長五(一六〇〇)年に「難波宗勝」として叙爵し、侍従に任ぜられ、慶長十二年には左近衛少将へと昇ったが、翌慶長一三(一六〇八)年に美男の傾奇(かぶき)者として知られた左近衛少将猪熊教利(いのくまのりとし)や兄で飛鳥井家嫡男の雅賢らとともに、御所の官女と密会して乱交に及ぶ「猪熊事件」(複数の朝廷の高官が絡んだスキャンダルで公家の乱脈ぶりが白日の下に晒され、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇退位の動機ともなった。詳細は参照したリンク先のウィキや、そのまたリンク先に詳しい)、後陽成天皇の勅勘を被って、慶長一四(一六〇九)年に磐城平藩鳥居氏預かりとなった(配所は菊多郡上遠野で、これは現在の福島県浜通り(陸奥国・石城国・磐城国)の南端にあった郡である)(兄雅賢は隠岐に配流されたまま、寛永三(一六二六)年に流刑地で享年四十三で死去した。主犯格の猪熊教利は西国に逃亡するも、直きに潜伏先の日向国で捕縛され、京都にて斬首に処せれている。享年二十七)。しかし、慶長一七(一六一二)年に勅免され帰京、翌慶長一八(一六一三)年には名を雅胤と改め、生家飛鳥井家の相続を赦された(難波家の方は彼の子の宗種が継承)。寛永一六(一六三九)年に権大納言となったが、翌年にはこれを辞している。寛永二一(一六四四)年、武家伝奏、慶安四(一六五一)年)三月十六日に従一位に叙されたが、その五日後に六十六歳で没した(以上は概ねウィキの「難波宗勝」に拠ったが、配流先は国立国会図書館のレファレンス事例を採った。因みにウィキには「伊豆」とある)。》
まさに、この配流の砌り、その孤愁茫漠たる思いを、実際に越えて行った勿来の関で、この一首に託したと読むと、私はすこぶるしっくり来るし、この歌の味わいもいや増しに増すように思うのである。
・「こゝつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその關といふらん」「こゝつら」(九面)は、現在の福島県いわき市勿来町九面(ここづら)の地名として残る。「ここつら」は地名に「ここ面」(この辺り)、「満ち来」と「道来」(同時に「道」に「満ち」も響く)が掛けられ、「道無し」が「勿来」で「な来そ」(来る勿れ)に係っている。五回繰り返される「こ」音が悲愁の風音の如く響く。なお、現在の非実証的な「勿来の関」跡とされる場所は、海岸線から内陸に五百メートルほどの海岸端に位置し、本文の叙述はそれにマッチするとは言える。
・「名こそに櫻を詠し古歌」「千載和歌集」の「巻第二 春歌下」の源義家朝臣の和歌に、
陸奥國(みちのくに)にまかりける時、
勿來の關にて花のちりければよめる
吹く風をなこその關と思へども道もせにちる山ざくらかな
などとある。「道も狹(せ)にちる」で、桜の花の落花によって路も狭くなってしまうほど、一面に散るの謂い。参考にした岩波新古典文学大系の注によれば、本和歌は唐詩の辺塞詩の翻案で、軍旅で辺地に入る境に於ける惜春を詠んだ、とある。義家は前九年・後三年の役で陸奥に出撃しているが、それぞれ秋と冬の頃で、本歌は嘱目の吟ではない。
・「櫻石」ここははっきり「木目」とあるので、桜の花弁のような紋を持った(菫青石(きんせいせき Cordierite)と呼ばれるものの成分が白雲母(Muscovite)などに変質したもので、断面が桜の花に似ることから「桜石」と呼ばれる。各地のホルンフェルス(Hornfels(ドイツ語):接触変成作用によって生じた変成岩で再結晶が完全に行われ、細粒で等粒状鉱物からなり、片理を示さないものをいう)の中に比較的よく見られるもので、渡良瀬川産や京都桜天神産のものが有名)ではない。なお、ネット上では宮内庁書陵部所蔵資料として小山田(高田)与清なる作者の「勿来関桜石記」なる書を画像で見られるが、残念ながら私には全く判読出来ない。
・「楠」「和漢三才図会」の「香木 巻八十二」(十八・十九折)の「楠」の末尾に、
其根株經歳者變爲石
(其の根株、歳を經(ふ)る者、變じて石と爲る)
とある。
・「萩原某」不詳。先行話に「萩原」姓の者はいないことはないが、このような根岸の情報屋と思しい人物としては、それらしい人物は以前に認められないように私は思う。
■やぶちゃん現代語訳
勿来(なこそ)の関の事 附けたり 桜の石に成る事
奧州勿来の関は、昔は山を越えて往来致いたものか、今は、かの関所の御座った山は通路もあらずなって、ひと昔以前より、かの山の麓の、海岸縁(ぶち)を通うようになっておる由。
潮の満ち来れば、これ、通行成し難き由にて、かのあちらへ配流となられたことのあらるる飛鳥井雅宣(あすかいまさつら)殿の御歌(ぎょか)にも、
ここつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその関といふらん
とも御座る。
さても当時は、この関所周辺の通路を、これ、「九々面」と書きて、「ここづら」と称したる由。
古くは、この歌枕で御座る勿来の関に、桜を添えて詠みたる、例えば八幡太郎義家公の古歌などもあれど、今は桜は、ない。
しかれども、大木の桜の御座ったを、伐採して、今はそれが石と変じ、今もその岩肌に、桜の木目(きめ)の、これ、歴然としてある由。
萩原某(なにがし)、地方検分の御用にて、かの地へと参り、たまたま、その桜石なるものを見、また、こうした謂われも聴いて参ったとして、語って御座った。
……さてもしからば、楠(くす)などに限らず、孰れの木にても、その命を長らえて遂には木として死するという折りには、これ、変じて、石なんどへも変化(へんげ)致すものにて、これ、御座ろうか?

