日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 鹿児島の印象
こんなに魅力に富んだ景色にかこまれていながら、汽船が翌朝夙く長崎へ帰船するので、たったこの日一日だけしか滞在出来ぬということは、誠に腹立たしかった。新しく建造された鹿児島市それ自身は、巨大な石垣に依って海に臨んでいる。家屋は貧弱で、非常にやすっぽい。二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し、人々は貧乏で、往来は泥だらけで木が無く、家の多くは依然として一時的の小舎がけである。十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された。これは友人が警告したにもかかわらず、江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入(ちんにゅう)して殺された、一人の高慢きわまる英国人の、かたきをとるためにやったことなのである。外国人が一般的に嫌われていることは、男の敵意ある表情で明らかに見られ、また外国人が大いに珍しいことは、女や子供が私を凝視する態度で、それと知られた。二百マイル以内に、外国人とては私一人なので、事実私はここに留っている間、多少不安を感じた。この誇りに満ちた町は、同時にアジアコレラの流行で苦しんでいたのであるが、我々は数時間後で、そのことを知らずにいた。我々はみすぼらしい茶店へ導かれたが、そこの食事は如何にもひどく、私には御飯だけしか食えなかった。ああ、如何に私が伽排一杯をほしく思ったか!
[やぶちゃん注:「この日一日」これは後の叙述を見ると、明らかにおかしい。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、鹿児島入船は明治一二(一八七九)年五月二十二日の早朝と推定され、『その日と翌日ドレッジを試みた』が、『これは、動物学者による鹿児島底生動物調査の最初で』、叙述からもこの翌日、鹿児島市対岸の元垂水に於いて自然堆積し隆起を起こした貝殻層を調査していることは明らかである(その日は夜遅くに鹿児島に戻っていることも後述されてある)から、ここはやはり磯野先生の推定通り、『鹿児島を去ったのは二十四日早朝』で、都合、鹿児島には実質上、二日間(二泊)滞在している。
「二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し」西南戦争の城山籠城戦。明治一〇(一八七七)年九月二十四日。薩摩軍と政府軍との戦いは七ヶ月にも及ぶ壮絶なものであった。
「十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された」文久三年七月二日(一八六三年八月十五日から
七月四日(同八月十七日)に生麦事件(武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて薩摩藩主島津茂久(忠義)の父島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人四名(女性一名を含む)を供回りの藩士が殺傷(男一名死亡・男二名重傷)した事件。後注)の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾に於ける戦闘で、鹿児島では「前の浜戦(まえんはまいっさ)」と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた。以上はウィキの「薩英戦争」に拠る)。
「江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入して殺された、一人の高慢きわまる英国人」上海のイギリス人商人チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson, 一八三四年~一八六二年九月十四日)。私は幕末史に冥いので、まず、ウィキの「生麦事件」より引用させて戴く(注記番号は省略し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『文久二年(一八六二年)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光』(当時四十五歳)は、幕政改革を志して七百人もの軍勢を引き連れて江戸へ出向いた後、『勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より一日早く、八月二十一日に江戸を出発した。率いた軍勢は四百人あまりであった』。『行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。四人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある』。『生麦村住人の届け出書と神奈川奉行所の役人の覚書、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った』。『行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人四人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局四人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった』。『四人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から二百メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった』。「薩藩海軍史」によれば、『リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門』(当時、三十一歳。薩英戦争では海江田信義とともにスイカ商人に扮して敵艦を奪おうと画策したが失敗、その後は主に京都で活動し、元治元(一八六四)年の禁門の変では出水隊の物主(隊長)として活躍した。慶応元(一八六五)年没。同人ウィキに拠る)『であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休』(「くきむらはるやす」と読む。昭和一二(一九三七)年の『国史教育』に九十四歳の彼が「生麦事件で夷人(外国人)を殺した私」(口述筆記)という記事を残しているようであるから、長生きしている。この年齢が当時のものであるとすれば、事件当時は満十九歳である)『が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義』(薩摩藩士有村仁左衛門兼善次男。文久元(一八六一)年に日下部伊三治の次女まつを娶ると同時に婿養子となって海江田武次信義と改名した(海江田は日下部の旧姓)。幕末期は有村俊斎の名で活動、戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀となり、江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐、勝海舟らとも交渉するなど活躍したが、大村益次郎と対立、彼の暗殺された後に実行犯処刑の妨害を企てたとして謹慎処分となった。明治三(一八七〇)年に大久保利通の尽力によって官職に復帰、廃藩置県に先立って県となっていた奈良県知事に任命されるも翌年の廃藩置県で解任される。その後、薩摩に帰って隠遁するつもりが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となり、翌明治五(一八七二)年には再び左院四等議官として官途に就いた。三年後の明治八年の左院廃止により、鹿児島に帰郷した。明治一〇年の西南戦争の際は病床にあったが、西郷の死を悼み、翌年の大久保利通の遭難(紀尾井坂の変)に際してもその死を悼んだ。その後、明治二〇(一八八七)年には欧米各国視察を命ぜられて渡航、翌年帰国後も貴族院議員・枢密顧問官を歴任、明治三九(一九〇六)年、七十五歳で没した。事件当時は三十歳であった。以上は同人のウィキに拠る)『であったという。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという』。殺害の状況はネット上の情報によれば、リチャードソンは奈良原喜左衛門に左鎖骨から肋骨数本を切断され、さらに行列の前方に乗馬のまま逃げたが、そこで待ち受けていた久木村利休によってさらに左脇腹を斬られた。そこからさらに一キロメートルほど馬を走らせたものの、内臓が露出し落馬、まだ息があったが追って来た数名に止めを刺されたとされる。(中略)『事件から二日後の八月二十三日(一八六二年九月十六日)、ニール代理公使は横浜において外国奉行津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して奉行は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている。ニールは本国の外務大臣への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している』。『八月三十日には、老中板倉勝静邸においてニールと老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた』。『当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった』。『一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。閏八月七日(一八六二年九月三十日)に久光は上洛、九日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無冠の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠
天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、二十三日に京都を発って鹿児島に戻った』。『文久三年(一八六三年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、二月十九日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金十万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した』。『折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(五月二日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった』。『再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、五月八日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌九日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。一方、横浜に滞在していた慶喜は小笠原と入れ違いに江戸に戻っており、小笠原との間に賠償金支払いを巡って黙契が存在していたという説がある。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された』。『幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、六月二十七日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、七月二日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、四日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した』。『十月五日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた二万五千ポンドに相当する6万三百両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった』。「事件発生の背景」の項(下線部分はやぶちゃん。モースの本文での謂いはこれらの主に(一部はイギリス人によるものも含む)アメリカ人が関連する本事件への発言や記事を念頭においたものであろう)。『当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、アメリカの友人への手紙にこう記している。「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」。ただしこの光景はバラが直接観察したものではなく伝聞によるものであり、バラはその情報源を述べていない』。『ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は島津久光の通行より一日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行はイギリス領事館からの正式な告知は受けていなかったものと思われる。しかし林董の回顧録に、リチャードソンたちは「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる』。『事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人四名を非難する意見を述べている』。『また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している』。『また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信(半ば公の通信)の中でこう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」』。『以上に見るように、生麦事件はリチャードソン一行の礼儀を欠いた行動によって発生したという見方もイギリス側の一部には存在したものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く』、『上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようである。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を無視することはできなかった』。『さらに肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾を大きく露呈させたものでもあり、以後薩摩藩が真剣に、朝廷を中心として条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった』。『事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」』。『こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩がすでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として十里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任をイギリス側は強硬に追求することができたのである』。『余談だが、当事件の数ヶ月前に同じ生麦を大名行列として通過した尾張藩の見物をジェームス・カーティス・ヘボンが近所の丘の上からオペラグラスで行っているが、一行への礼を表したため不問に付されている。そもそも外国人のみならず当時の日本人にとっても、華美な大名行列の見物は娯楽のひとつであった』(ウィキの「生麦事件」からの引用はここまで)。次に、この殺害されたチャールス・リチャードソンのウィキペディアの記載を引く(変更は同前)。『ロンドン出身』で、『一八五三年にサザンプレス港から上海へ渡海し、そこで商社を設立して商業に従事していた』。一八六二(文久二)年、『仕事を引き払ってイギリスへ帰郷する際に、観光のために日本へ入国する。上海で交友のあった横浜商人ウッドソープ・クラークと再会し、クラークやウィリアム・マーシャルの案内で、ボラディル夫人を加えた四人で川崎大師へ向かうことになる。その途中、生麦村で島津久光の行列と遭遇』したとある。彼は『親孝行で物静かな性格であったとの話の一方、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、リチャードソンに対して冷ややかな見解を持って』いたとして、先の引用文が載る。因みに彼の墓所は横浜市中区の横浜外国人墓地である。
「二百マイル」約三百二十二キロメートル。当時の最寄りの外国人居留地は長崎で、直線距離で百五十八キロメートルで短か過ぎ、神戸では凡そ五百四十キロメートルで長過ぎる。「圏内」と言っているから、陸路での長崎との距離を述べているものか。
「アジアコレラ」コレラ菌(Vibrio cholerae)の型の一つ(従来は知られていたのはこのアジア型
(古典型) とエルトール型であったが、一九九二年には新たな菌種である「O139」が発見されている)。コレラ菌の中でもこのアジア型は高い死亡率(治療を行わなかった場合、七五~八〇パーセントでエルトール型の一〇パーセント以下と著しい差がある。但し現在では適切な対処さえ行なえば死亡率は一~二パーセントと極めて低い)を示し、ペストに匹敵する危険な感染症であるが、ペストとは異なり、自然界ではヒト以外に感染しない。参照したウィキの「コレラ」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行
(パンデミック)を示したのは十九世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前三百年頃のものである。その後は、七世紀の中国、十七世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は一八一七年に始まる。この年カルカッタに起こった流行はアジア全域からアフリカに達し、一八二三年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。一八二六年から一八三七年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、一八四〇年から一八六〇年、一八六三年から一八七九年』(ここに本記載の年に含まれる)、『一八八一年から一八九六年、一八九九年から一九二三年と、計六回にわたるアジア型の大流行があった。しかし一八八四年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった』とある。「日本におけるコレラ」の項の関係する箇所までを引いておくと、『日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ一八二二年(文政五年)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、三回目は再び日本に達し、一八五八年(安政五年)から三年にわたり大流行となった』。『一八五八年(安政五年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで十万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。一八六二年(文久二年)には、残留していたコレラ菌により三回目の大流行が発生、五十六万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い』。『一八五八年(安政五年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている』。(以下、下線はやぶちゃん)『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実一八六八年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二~三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。一八七九年(明治十二年)』(まさに本記事の当該年である)『と一八八六年(明治十九年)には死者が十万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ』とある。]
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