橋本多佳子句集「命終」 昭和三十一年 信濃の旅(Ⅲ)
信濃落合
雪解犀川(さいかは)千曲(ちくま)の静にたぎち入る
[やぶちゃん注:「信濃落合」長野駅の東南五・二キロメートルの千曲川に犀川が合流する地点に架けられた落合橋附近の嘱目吟。底本年譜に昭和三一(一九五六)年五月の条に、『二十日、長野県「七曜」俳句大会に誓子と出席。開会までの数時間、長野市の山崎矢寸居に案内され、落合橋の、犀川(男流)と千曲川(女流)の合流地点に行く。犀川の渦巻く雪解け水が、静かな千曲川に流れ入っている』とある。「男流」「女流」は「おながれ」「めながれ」と読むか? こういう呼称は初めて聴いた。ネット上でも検索にかからない。識者の御教授を乞うものである。因みに、『山崎矢寸居』とあるが、これは小諸の青燕俳句会刊に「山崎矢寸尾句集」があるから、俳人山崎矢寸尾の誤植かと思われる。因みに、ここを頂点として西に延びる三角状の平坦地こそが、かの武田信玄と上杉政虎(謙信)が激しく激突した、川中島の戦いの舞台であった。
「たぎち」「浪(たぎ)つ」「激つ」などと漢字表記する。万葉以来の古語で(上代は「たきつ」とも)、水が激しく湧き流れる、湧き上がる、逆巻くの意。後に転じて、心が激しく動く、揺さぶられるの意ともなった。多佳子は後者の意味も含ませていると私は読む。この十一句の連作はそう読んでこそ、深い味わいがあるのである。しかもそれはこの当時、多佳子の心臓発作が続いていたであろう(同年年譜の最後には、『十一月、心臓発作つづく』とある)なんどということとは、無論、違った意味で、である。]
よろこびに合へり雪解の犀千曲
雪解犀川砂洲を見せては瀬を頒つ
こゑ出さばたちまち寂し雪解砂洲
假橋にて雪解水嵩に直(ぢ)かに触れ
[やぶちゃん注:「假橋」(「假」は底本の用字である)以下の句群の句柄からは間違いなく落合橋としか思われないのであるが、Zenmai 氏のサイト「信濃路の風・信濃路の橋」の信濃路の橋のデータを見る限りでは、当時、落合橋は仮橋ではない。しかし、他の橋のデータを見ても昭和三一(一九五六)年当時に仮橋であったものも見出せない。識者の御教授を乞うものである。]
假橋にて雪解犀川鳴りとほす
ひざついて雪解千曲をひきよせる
雪解落合ふ嬉々たり波鬱たる波
犀・千曲雪解を合はす底ひまで
[やぶちゃん注:「底ひ」古語。現代仮名遣「そこい」。「涯底」などとも書く。物事の至り極まるところ。果て。極み。「退(そ)き方(へ)」(遠く離れた場所・最果て)や「退(そ)く方(へ)」と同語源かとされる。]
眼の前の雪解の千曲かちわたらず
雪代の光れば天に日ありけり
[やぶちゃん注:「雪代」「ゆきしろ」で、雪解け水。ゆきしろみず。「代」は「形代」などと同じく、代わりとなる代用の「代」で、雪の溶けて変じたものの謂いであろう。春の季語。]
木曽溪
紫雲英打つ木曽の青天細き下
[やぶちゃん注:「木曽溪」は一般的な呼称ではない。木曽川上流の流域を意味する木曽谷のことかと思われる。ウィキの「木曽谷」によれば概ね、『長野県木曽郡の全域(上松町、木曽町、南木曽町、王滝村、大桑村、木祖村)、岐阜県中津川市の一部(神坂、馬籠、山口地区)に該当』し、『木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が』延長約六十キロメートルに亙って続き、その主線は概ね『北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある』とある。以下、中仙道(中央本線或いは国道十九号)を名古屋に下った際の嘱目吟である。
「紫雲英打つ」「れんげうつ」或いは「げんげうつ」(多佳子がどっちで読んだかは確証がない)。これはマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ
Astragalus sinicus を緑肥(りょくひ/「草肥(くさごえ)」ともいう)とする作業を指す。昔は、八~九月頃、稲刈り前の水田の水を抜いてレンゲの種を蒔いておき、翌年の田植えの前にこのレンゲ畑を耕して、レンゲをそのまま鋤き込んで田の肥料とした。]
青木曽川堰きて一つ気にまた放つ
五月空真白くのぞき木曽の駒嶽(こま)
[やぶちゃん注:「木曽の駒嶽」木曽駒ヶ岳。長野県上松町・木曽町・宮田村の境界に聳える木曽山脈(中央アルプス)の最高峰で、標高二千九百五十六メートル。しばしば木曽駒(きそこま)と略称もされる。]
雪嶺の赤恵那として夕日中
[やぶちゃん注:「赤恵那」恵那山。長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈最南端の山。標高二千百九十一メートル。「赤富士」同様に夕陽に照らされたその美観を実際に「赤恵那」と呼称する。]
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