耳囊 卷之九 蘇生せし老人の事
蘇生せし老人の事
文化六年の春なりしが、赤坂裏傳馬町一丁目に靑物商ひ致(いたし)候、吉兵衞といへるもの、當巳年七十一歲なり。右の者富士淺間を信仰して年々富士山へ參詣なし、去(さる)辰六月迄に四十三度參詣せしが、當巳二月廿六日には死去いたし候由。兼々(かねがね)申(まうす)、知音(ちん)へ暇乞いたし、當正月十八日より絕食にて水と酒斗(ばかり)を給居(たべゐ)、二月朔日菩提所赤坂三分坂(さんぶんざか)淨土宗常敎寺へ罷越(まかりこし)、廿六日に死去致候旨相屆候得(あひとどけさふらえ)ども、當人の屆にては承知なりがたく抔笑ひ答えける故、同所政左衞門と申(まうす)ものを以(もつて)屆置(とどけおき)、二月三日よりは水斗(ばかり)給(たべ)罷在(まかりあり)、廿七日明(あけ)六ツ時死去致候處、晝九ツ時ころ息吹返し候故、附添候もの共(ども)水など爲飮(のませ)、おも湯など給(たべ)させ候得ば、言舌(げんぜつ)も少(すこし)く分(わか)り候故、息吹返し候樣子尋(たづね)候得ば、心願有之(これあり)蘇生いたし候旨申(まうし)候由。尤(もつとも)死去の節、知人共(ども)方より香奠(かうでん)などおくり金壹兩三歩貮朱程集り候得ども、右の始末ゆゑ夫々(それぞれ)へ差戾し候由。其最寄專らの風聞の旨、其筋の者より書出(かきいだ)し候。
□やぶちゃん注
○前項連関:これも「其最寄專らの風聞の旨、其筋の者より書出し候」という末文の表現一致から、前話に登場した町奉行根岸の子飼いの部下の情報担当からの報告書に載るものであることが分かる。されば、直近の都市伝説公式文書からの摘録の直連関となる。
・「赤坂裏傳馬町一丁目」底本鈴木氏注に『港区赤坂伝馬町一-三丁目。赤坂見付の外、今の青山御所との間の地域に、北に裏伝馬町、その南に表伝馬町(赤坂表町丁二丁目)があり、各東から一丁目、二丁目となる』とあるが、正確には明治五(一八七二)年に元赤坂町・赤坂伝馬町・赤坂裏伝馬町などが合併して「赤坂裏」となり、その後に赤坂区に所属、後に赤坂表・赤坂裏・四谷仲町などの一部を編入して、昭和二二(一九四七)年に港区に所属、さらに昭和四一(一九六六)年に「住居表示に関する法律」によって赤坂表町・赤坂伝馬町・元赤坂町・赤坂青山権田原町・赤坂表町・赤坂青山六軒町などを合わせた地域が「元赤坂」となって現在に至っているから、岩波の長谷川氏注の通り、港区元赤坂とするのが正しい。
・「當巳」「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)。
・「去辰」前年文化五年戊辰(つちのえたつ)。
・「富士淺間」富士山を神格化した富士浅間権現。「耳嚢 巻之九 駒込富士境内昇龍の事」の私の注の、「駒込富士」の注の中の富士講及び「淺間の社」の注を参照されたい。
・「二月朔日」この年の一月は大の月で三十日までであるから、絶食を始めて十四日目に楚相当する。但し、相応にカロリーのある酒を飲んでいるので絶食とは言えない。
・「三分坂」現在の東京都港区赤坂五丁目五番と七丁目六番の間にある坂の名。昔、この坂があまりに急であったことから、駕籠舁(か)きが駕籠賃の追加として三分(さんぶ)を取ったことを名の由来とすると伝える急坂。
・「常敎寺」未詳。この近隣には切絵図を見ても近似した名の浄土真宗の寺はない。但し、三分坂下右側には知られた浄土真宗の報土寺があり、また坂を登った西北二百メートルの位置に、やはり浄土真宗の道教寺というのがある。後者は音からすると近似すると言えるし、浄土宗と無縁ではない。
・「明け六ツ」旧暦二月で春分の直前であるから、不定時法の明六ツは午前五時半頃に相当する。
・「晝九ツ」年間を通じて正午。
■やぶちゃん現代語訳
蘇生した老人の事
文化六年の春の頃の話で御座る。
赤坂裏伝馬町一丁目に青物商いを致いておる、吉兵衛と申す者がおり、この男、当巳年を以って七十一歳になると申す。
この者、富士浅間(せんげん)権現を信仰致いて、毎年のように富士山へ参詣登山致し、去年辰年までに、実に四十三(しじゅうさん)度も、これ、参詣を成しておる由。
さて、その吉兵衛、
「――今年二月二十六日には往生致しまする――」
と、かねがね吹聴、知音(ちいん)の者などへも確かに告げては、これ、真面目に暇ま乞いなんどまで致し、今年正月十八日よりは絶食致いて、水と酒しか口に致さず、二月朔日(ついたち)と相い成るや、自身の菩提所のあった赤坂三分坂(さんぶんざか)に御座る浄土宗の常教寺へと罷り越し、
「――当月二十六日――我ら――往生仕りまする。」
と、これ、真面目に自ずから届け出でて御座った。
ところが、
「……はぁ?……これ、しかしのぅ……生きて御座る当人、しかも、これより後日(ごにち)の往生と申す、これ――届け――と申さるるは……承ること……何とも、し難きことにて御座れば、のぅ………」
と、寺の者、語りつつも、笑いをこらえ切れず、答えたによって、如何にもむっと致いた吉兵衛は、
「――さればッツ!」
と、とって返すと、同じ伝馬町に住もうておった政右衛門とか申す者に、
「たっての願いじゃ!」
と頼み込んむや、これ、またその日のうちに、常教寺へ己が逝去の通知、これ、届け出で、受け取らせおいたと申す。
さても、その二日後の二月三日よりは、水のみを飲むように相い成り、二月二十七日明け六ツ、はたして逝去致いた。
ところが、その日、近隣の者どもの総出で、通夜の支度など致いておる最中、亡くなってより二時(ふたとき)半も経ったる、昼九ツ時頃、
――これ!
息を吹き返して御座ったによって、伽(とぎ)につき添うておった者ら、水を含ませるやら、おいおい重湯なんど与えてみるやら致いて御座ったところ、
――言葉も
――これ
――少しくはっきり申すような気配も、これ、致いて参ったによって、息を吹き返したることにつき、これ、心づくところなんど、訊ねて御座ったところが、
「……し、心願の……これ……御座ったによって……蘇生……致いた……」
などと、申したとのことで御座った。……
もっとも、これ、その死に際し、多くもなけれど、知れる人々なんどより、相応の香奠、これ、贈られ、その貰ったところの金子が――これ――計一両三分二朱――ほども集まって御座った。
されど、まあ、かく生き返ってしもうたによって、それぞれに、これ、さし戻いた、とのことで御座った。
この吉兵衛に関わったる当事者ら、これ、確かな話と申して御座ったによって、私の命じ、このようなる奇体な事例事件を調べさせておるところの、これ、確かなる筋の者より、列記とした報告の御座ったればこそ、ここに特に摘録致いて、書き残しておくことと致いた。
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