やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅳ) 頁4~頁19
ここ以降では、他のヴァリアントとの詳細比較は今は行わないこととする。そうしないと「第三號册子」の全電子化がずるずると延びるばかりとなるからである。なるべく早く、そこまでは辿り着きたいのである。そこに初めて、本当の「澄江堂遺珠」の夢魔のスタート・ラインが引けると僕は考えているからである――
*
《頁4》
紅蓮と見れば炎なり
炎と見れば紅蓮なり
安養淨土は何處ならむ
救はせ給へ技藝天
せんなき
羽織の胸を抱きつつ
町はほのけ
かそ
窓にな
障子さ
《頁5》
鳳陽丸 18 7A.M.
兵陽丸 19 8A.M.
南陽丸 20、0、
[やぶちゃん注:「鳳陽」「長江游記」の「一 蕪湖」(Wúhú 芥川は「ウウフウ」と振る。長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部の蕪湖市蕪湖県)に『西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)』とあり(「西村」は西村貞吉で芥川の府立三中時代の同級生。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている)、同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期―大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号十五)。その資料によれば、大正四(一九一五)年に貨物船「鳳陽丸」( FENG YANG MARU)として進水、船客 は特一等十六名・一等十八名・特二等十名・二等六十名・三等二百名。昭一四(一九三九)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍したが、昭一九(一九四四)年八月三十一日に揚子江の石灰密に於いて空爆を受けて沈没したとある。この時間は出船時刻らしいが、実際と合わせて見るても、よく分からない。現在の最新の年譜(岩波版新全集の宮坂覺氏の年譜)上では大正一〇(一九二一)年五月十七日の夜に鳳陽丸で浦口(pŭkŏu 現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、一九六八年に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた)を出発、蕪湖(ウーフー)には十九日夜に到着している。もしかすると、この時刻は蕪湖への到着時刻かも知れない。(なお、「長江游記」の「一 蕪湖」の上記の謂いから、実際には芥川はこの前日(五月十八日)の夕刻に蕪湖に到着する予定であったのではないかと私は思っている)。
「兵陽丸」不詳。
「南陽丸」「長江游記」の「二 溯江」の冒頭には、『私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である』とある。同名の船がやはり長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号百五十五)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」(NANYO MARU)として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸「NAN YANG MARU」と改名している。昭和一二(一九三七)年、『上海の浦東水道(Putong
Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とある。「長江游記」にはこの船で同船となった日本画家竹内栖鳳や同南陽丸船長らとも親しく交流してさまが描かれてある。蕪湖の出船は二十二日で、この日のうちに九江に到着している。]
紅蓮と見れば炎なり
炎と見れば紅蓮なり
常寂光安養淨土は何處なやらむ
救はせ給へ技藝天
[やぶちゃん注:《4頁》冒頭で芥川龍之介が詩篇全体を抹消したものが、ここで改めて芥川龍之介自身によって復元されて蘇生している。
「常寂光」常寂光土と書こうとして抹消したものである。「じやうじやくくわうどじょう(じゃっこうど)」は、主に天台宗で説く四土(しど)の一つで、法身(ほっしん)の住んでいる浄土。真理そのものを世界としてとらえた一切の浄土の根源的な絶対世界。寂光土・寂光浄土。因みに、「法身」は仏の三身(さんじん)の一つで永遠不滅の真理そのもの。理法としての仏。法性身(ほっしょうしん)。をいう。「三身」は他に報身(ほうじん:仏性のもつ属性や働きの様態、或いは修行して成仏する姿を指す。)と応身(おうじん:現世に於いて悟って人々の前に顕現した具体な釈迦の姿を指す。)。
「安養淨土」「あんやうじやうど」(連声で「あんにょうじょうど」と発音するのが一般的)阿弥陀仏の極楽浄土のこと。心を安んじて身を養うことが出来るという謂い。]
《頁6》
ひるの曇りにしんしんと
石菖の葉はむらだてり
ひるの曇りにしんしんと
痛む心は堪へがたし
かそかに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
こよひはきみにも冷やかに
ひとりねよとぞ祈るなる
梨花を盛る一村の風景暗し
[やぶちゃん注:ここに編者により、以上の『一行は天地逆』に書かれてある旨の記載がある。]
《頁7》
人を殺せどなほ飽かぬ
妬み心も今ぞ知る
幽かに雪のつもる夜は
こよひはきみもひややかに
ひとり寐よとぞいのるなる
かそかに雪のつもる夜は
ココアココアの碗もさめやすし
こよひはきみもひややかに
ひとりねよとぞいのるなる
[やぶちゃん注:ここに編者により、以下の八連分が、同頁の欄外に天地逆で記されてある旨の記載がある。]
花薊まばらし
薊花まばら
アカシアの花踏みしつとりと黄な
薊花すぎしつとり
アカシアの落ち花しつとりと黄な瓦踏む
薊花なき
薊しつとりと黄な
穗麥うなだれ
アカシアの花ともるゝしつとり
《頁8》
かそかに雪のつもる夜は
ココアの碗湯氣もさめやすし
きみもこよひは冷やかに
ひとりねよとぞ祈るなる
幽かに雪のつもる夜は
ココアの色も澄みやすし
きみ 君もこよひ
こよひは君も冷やかに
獨り寐ねよとぞ祈るなる
呉
[やぶちゃん注:現在知られる関連詩篇に「呉」の字を含む詩篇はない。この「呉」は詩篇の一部ではないメモの可能性もある。
次の行の前後に編者により、以下の一行とカット(描画図不詳)が欄外にある旨の記載がある。]
竹 竹 水黑 請 戞竹玉音
[やぶちゃん注:「戞」は音「カツ」で、「戛」の俗字。動詞としては打つ・軽く叩く。また、しばし見かける熟語には「戛戛」があって、これは固い物ものが触れ合う際のオノマトペイアである。下の抹消字の「竹」のそれとしては相応しい。]
《頁9》
幽かに雪のつもる夜は
ココアの色も澄みやすし
今宵は人
きみひとも冷やかに
ひとり寐よとぞ祈るなる
雲は谷間に沈みつつ
森も音
涙
幽かに雪のつもる夜は
ココアの色も澄みやすし
こよひはひとも冷やかに
ひとり寐よとぞ祈るなる
[やぶちゃん注:ここに編者により『カットあり』(描画図不詳)と注する。]
欲知識東披狂醉處
至今泉聲
[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」や「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、この「■4 推定「第三號册子」の詩篇に登場する「玫瑰(メイクイ)」の茶を飲むシーンや「畫舫」なども登場する。
ここに編者により『以下、欄外』と注した後、次の行の後に『欄外にカットあり』(描画図不詳)と注する。]
窮巷賣
[やぶちゃん注:このたった三文字であるが、これは実は芥川龍之介自作の漢詩の冒頭である。以下、私の「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」(通し番号(二十四)の七絶)から引く。
*
窮巷賣文偏寂寞
寒厨缺酒自淸修
拈毫窓外西風晩
欲寫胸中落木秋
〇やぶちゃん訓読
窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)
寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)
毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩
寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。
大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)
に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、
この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます
と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、
一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。
とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、
「缺」は「欠」
で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、
庚申晩秋
我鬼山人墨戲
と記す。
書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。
「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。
「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。
「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。
「毫を拈る」筆を執る。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:承句「修xiu1」と結句「秋qiu1」が脚韻を踏む。起承句では、実生活のことをあれこれ述べ立てているが、転結句では急速に描写の対象が深化、抽象化、純化していく。そして、生活臭を完全に去った結句で、風景に心を語らせる。よくある手法だなどと侮ってはいけない。転句と結句の作り方には、特筆すべきものがあると思う。この詩人、やはり只者ではない。転句、読者の目は作者によって窓外に導かれる。西風が吹く肌寒い晩秋の淋しい夜だ。もう真っ暗で、戸外は物の形も分からない。ところが結句、外の暗闇にあった読者の意識は、一気に心の中に引き戻される。その視線の振らせ方が絶妙だ。ほら見なさい、と遠くを指差しておきながら、実は私が見せたいのは私の(あなたの)心の中なのですよ、と告白される。不意を衝かれた読者は、ただ口を噤むしかない。そして振られた反動で、心のより深いところに一気に下りていき、闇をじっと見つめさせられる。その暗黒の風の中に、全ての葉を吹き落とされた木が一本、孤独に佇立しているのが見える。そういう意味で、「落木秋luo4mu4qiu1」が、この作品の核心とも言うべき存在だろう。この三字がなければ、全二十八字の詩世界は瓦解する。読者の心は最後にここに辿り着き、そこではじめて詩人の(いや、自分自身の)魂を凝視させられる。ところで、なぜ“落葉秋”と言わないのか。葉が落ちるのだから、その方が矛盾がないではないか。これは愚問を失礼。もう落ち葉のイメージさえ許されないくらいの淋しさなのだ。そして木という象形文字。画数の少ないこの字にしてはじめて、葉を全部落した晩秋の樹木の姿が、そして孤独な心の佇まいが、立ち現れてくる。いや、そして何よりも、“落葉秋”では、この詩で最も大切な、恐ろしいほどの寂寥感、“凄さ”が消えてしまうのだ。
――売文に勤しんでも金にならず、こうやってさびしい生活を続けるばかり。酒を買うにも事欠き、厨房には蓄えもない。西風が物寂しく窓を鳴らす夜、戸外の暗闇には何も見えない。しかし、目を閉じて見つめる……そこには見える……。やはり、描かずにはいられない。心の暗闇に佇立する、ぞっとするほど淋しい、この晩秋の木立を……この私というものを――
この、「ぞっとするほど」の「淋しさ」とは、西行の和歌『ふるはたのそばの立木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮』にいう、「凄」さなのである。]
*
この漢詩は中国行の凡そ一年前の作であるが、芥川龍之介の当時の心境を知り、ひいては本詩篇群の字背を読む上でも、極めて貴重な一首であると私は思う。]
《頁10》
(しらべかなしき蛇皮線に
(小翠花(シヤウスヰホア)はうたひけり
(耳環は耳にゆらげども
(きみに似たるを如何にせむ
(何かは君にかうも似し
[やぶちゃん注:ここに編者により、『以上五行、上方に印あり』とある。「澄江堂遺珠」に準ずるならば先に示したような、巨大なスラーのようなものか? 一応、「(」を附しておいた。]
しらべかなしき蛇皮線に
小翠花はうたひけり
異國をめける すがたは
きみに似たるを如何にせむ
忘れがたしやこの心
晝はいきるる草中に
大石象はそびへけり
[やぶちゃん注:「大石象」中国の墳墓や廟のエントランスの両側にしばしば見られる石像の象である。]
《頁11》
ゆかそかにゆきのつもるよは
こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ
入日の空を仰ぎつつ
何かはふともくごもりし
せんすべ
消えし言葉は如何なりし
運河夜はむるる上る鯉魚の群あまた
波もさざらに上るとき
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《頁12》
「思ふはとほき人の上」
船のサロンにこのゆうべただひとり
玫瑰の茶を啜りつつ
寂しさは
ふとつぶやきし
詩人の上
[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、ここでの並びから見ても歌柄は間違いなく、芥川の中国行の際のものであり、その場合、寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」で読むべきである(先に注した通り、「江南游記 六 西湖(一)」を参照されたい)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
かすかに
幽かに雪の
「思ふはとほきひとの上」
畫舫昔めきたる竹むらに
《頁13》
Art
心ふたつにまどひつつ
夕立すぎし須田町に
たどきもしらずわが來れしば
怪しき
[やぶちゃん注:「須田町」東京府神田区須田町(現在の東京都千代田区神田須田町)。当時は市電の一大ターミナルで、「須田町」駅と「万世橋」駅との乗換え地点として繁華街を形成していた。万世橋近くにあった西洋料理店「ミカド」は多くの文士が好んで使ったことで知られる。大正八(一九一九)年六月十日、芥川龍之介は、このミカドで開かれた岩野泡鳴を囲む文学サロン「十日会」の席上――龍之介のファム・ファータル――歌人秀しげ子に初めて逢った。この一篇と次の一篇は初行の「心ふたつにまどひつつ」から見ると、その時の龍之介の不倫へと傾斜する/した意識の表出とも読める。少なくともしげ子との関係を原風景とするものであることは間違いない。私のマニアックな評釈附の芥川龍之介「我鬼窟日錄」の同日以降を参照されたい。]
心ふたつにまどひつつ
わが
夕立すぎし須田町に
怪しき虹ぞかかりたる
《頁14》
幽かに雪のつもる夜は
かかるゆうべはひややかに
ひとり寐ぬべきひとならばねよとぞ思ふなる
この河に河豚はのぼる日のまひるきみがつままぐたより讀みけり
[やぶちゃん注:「河豚」は「海豚」の誤字であろう。クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ Lipotes vexillifer である。現在、国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストでは、絶滅危惧IA類であるが、私は残念ながら最早、絶滅してしまっていると思う。
「まぐ」は正しくは「まく」、「枕く」で「枕を共にする・共寝する・妻となる」の謂い。但し、龍之介はこれに、性交渉の意を強く含んだ「まぐはふ」のニュアンスを附加していると考えてよい。それはこれが詠まれた相手によるものである。この「きみ」というのは間違いなく、この中国旅行中に結婚した歌人吉井勇のことと思われる。大正一〇(一九二一)年五月三十日附の吉井勇宛の長沙からの芥川龍之介書簡(絵葉書)が残るが(岩波版旧書簡番号九〇六)、そこに、「湖南長沙 我鬼」と署名した、
河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり
という一首が載るからである(この「河豚」も「海豚」の龍之介の誤字)。吉井勇は情痴歌集として騒がれた明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の名歌集「酒ほがひ」や、花街の放蕩を詠んだ大正五(一九一六)年の「東京紅燈集」など、きわどい艶麗風で知られ、芥川龍之介も一高時代に傾倒した一時期があったのである。なお、「芥川龍之介新辞典」(翰林書房)などを見ると、吉井と芥川の直接の接触はなかったとあるが、かくも親しげに、かくもきわどい一首を添えた絵葉書を、全く面識のない五歳先輩の文壇の有名歌人に出すほど龍之介が厚顔であったとは、私には思われない(但し、書簡類で吉井勇宛はこの一枚のみで、しかも原本ではなく昭和四(一九二九)年二月十七日発行の『週刊朝日』からの転載である)。記録や資料として残っていないだけで、龍之介と勇は直接の面識が何度かあったに違いなく、少なくとも作品集の贈答などは頻繁にあったものと考えた方が自然である。因みに、この時吉井勇が結婚した相手は、後の昭和八(一九三三)年に発生した上流婦人界の性的スキャンダルである不良華族事件の中心人物柳原徳子(歌人柳原白蓮の兄伯爵柳原義光の次女)であった(但し、結婚後も勇の放蕩が止まなかったこともこのスキャンダルの大きな要因であった。勇は事件後に離婚し、料亭の看板美人と謳われていた水商売の女性と再婚している)。]
雲は幽かにきえゆけり
みれん
《頁15》
夕づく牧の水明り
花もつ草はゆらぎつつ
幽かに雲も消ゆるこそ
みれんの
水は明るき牧のへも
花もつ草のさゆらぎも
わすれがたきをいかにせむ
みれんはう
みれんは夏牧の水明り
花もつ草の
《頁16》
別るゝや
そらをよこぎる玉蟲の
翅
かなしきものは夕明り
空にながるる玉蟲の
ひんがしの空は朝
ひんがしゆ風吹きぬ
か
みれんは牧の水明り
消あるは花もつ草の
晝は音なきつばな原
まどかに春の月
[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ(茅萱)Imperata cylindrica のこと。日当たりのよい空き地に一面に生え、細い葉を立てた群落を作って初夏に細長い円柱形の白い綿状の穂を出す。グーグル画像検索「チガヤ」。]
《頁17》
渚はしろながき水明り
春の雜木の枝かげに
ほのめき
かかるゆうべはひややかに
ひとりねよいねよと祈るなりりつつ
幽かに雪のつもる夜は
折り柴焚く柴もつきやすし
かかるゆうべはただひとり
幽かにいねむきみならば
いくたびきみもひややかに
ひとりいねよと祈りけむ
《頁18》
みれんは牧の水明り
さゆらぎやすき草の花
あるは
幽かに雪のつもる夜は
折り焚く柴もつきやすし
おもふは
幽かにいねむきみならば
ひとりいぬべききみならば
幽かにきみもいねよかし
《頁19》[やぶちゃん注:ここに編者により、本頁が総て横書きである旨の記載がある。)
Kunst
1) Kunst ノ Wesen ハ Ausdruck ナリ單ナル Liebe ニ非ズ。
2) Ausdruck ハ即 Eindruck ナリ、
3) Ausdruck ヲ Wesen トスル Kunst ニ Technique ナカルベカラズ( Cézanne ノ例、
4) Technique ハ手段ナリ Ausdruck ハ目的ナリ本末顚倒ノ弊アルベカラズ
[やぶちゃん注:本頁は冒頭の「1」の「Wesen ハ」が抜けている他は、ほぼ完全に「澄江堂遺珠」に転載され、佐藤春夫の丁寧な邦訳が下に附されてある。使用されている語は概ねドイツ語であるが、「Technique」の綴りはフランス語である。ドイツ語は「Technik」。フランス語経由で入った外来語だからであろうか。但し、フランス語「Technique」自体もフランス語にとって外来語で、もとはギリシャ語の「techne」(テクネー)で「technique」は「techne」の形容詞形「technikos」(テクニコス)が直接の語源である。参照した独協医科大学ドイツ語教室のサイト内のこちらのエッセイによれば、ギリシャ語の「technikos」は一旦、「technicus」(テクニクス)というラテン語形に変化し、それがフランス語への橋渡しとなったらしい。則ち、「technikos」(ギ)→「technicus」(ラ)→「technique」(仏)→「Technik」(独)や「technique」(英)となった旨の記載がある。英語学が専門の芥川にとってはフランス語として知られた違和感のない綴りだったのであろう。]