耳嚢 巻之九 靈氣狐を賴過酒を止めし事
靈氣狐を賴過酒を止めし事
神田佐久間町〔一ツに淺草元鳥越町萬吉と云ふ者の由。〕に住(すめ)るもの、酒を好みて朝夕是を用ひけるに、或時娵(よめ)を呼(よび)て、酒五合半調えて吞(のま)せよと申(まうし)けるゆゑ、娵心得てちろりを下げて、となれる酒屋に五合の酒をつがせ、あたゝめて彼(かの)親仁(おやぢ)にあたへければ、悦びて茶碗にうつせしに、一滴もなし。是はいかなる事にやと、娵を呼びて叱りければ、娶(よめ)も大きに驚き、隨分見候てつがせ候(さふらふ)酒、かゝるいわれなしと、又ちろりを持(もち)て、此度は壹升の約(やく)にて調へかへり直(ぢき)にあたゝめ出しけるを、親仁茶碗にうつせし又一滴もなければ大(おほき)に不機嫌にてありしかど、娵がはからするを見留(みとど)ければ不審なしけるに、彼(かの)娵驚きて、此程夢に母人(ははびと)顯れて、兎角御身の大酒(おほざけ)、身の爲にも家の爲にもあしき間、よくよく異見なして酒を留(と)め候樣申されけるゆゑ、一通りは申候得ども御用(おんもち)ひもなき事故、強(しい)ても申さざりしが、かゝる事にもありけるやといゝしゆゑ、親仁も我もかゝる夢見しが、埒なき事と捨置(すておき)しが、しからばやめ可申(まうすべし)と、其後暫くやめければ、近頃紛失せし酒、德利ちろり樣(やう)のものも出候處、近所寄合にて又候(またぞろ)禁酒を破り酒飮(のみ)ければ、又々酒の道具紛失いたし、娵儀亂心同樣にて口走りて、先妻の死靈、過酒(くわしゆ)を愁ひて狐を賴み異見をなしけるを、其誓ひを破りし故、又々來りて御身に附添(つきそ)ふといゝし故、親仁も大(おほい)に恐れ其後は嚴敷(きびしく)酒を斷可申(たちまうすべし)と誓ひければ、娵の狂氣も頓(とみ)に愈(いえ)けるとなり。
[やぶちゃん注:以下の根岸の附文は底本では全体が二字下げ。]
此咄し山崎何某かたりけるが、予が組の内、市中の風説爲承(うけたまはらせ)候者よりも、同樣の事書出(かきいだ)しぬ。右は淺草元鳥越町平三郎店(だな)萬吉、五十三歳に相成(あひなり)、當妻すぎは四十歳、忰(せがれ)市太郎廿五歳、娵ぎんは十八歳にて、先妻えいは十六年以前相果(あいひはて)、常々萬吉が大酒を愁ひ度々異見なしける由。ぎん儀當正月下旬より亂心致(いたし)、色々口ばしり候内、えい儀死靈にては難立寄(たちよりがたき)間、狐を賴(たのみ)、通力を以(もつて)、異見いたし候由。奇怪の事ながら、專ら風聞有之故(これあるゆゑ)、書出し候由に候。先妻の親切は左も有(ある)べし、賴まれし狐も深切なるものと一笑なしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:馬の憑依から狐(但し、先妻の霊に依頼を受けたという特異なケース)の憑依で直連関。しかも同じ「山崎某」の情報によるから、強い連関性を持った怪異譚群であることが分かる。なお、これは根岸も「一笑」しているように、どうも家族ぐるみで謀った芝居のように思われる。嫁の「ぎん」の確信犯の単独犯という可能性もないとは言えないが、家族が皆で共謀しないと、こう上手くは運ばないし、そうであってこそ、鮮やかに「死霊の懇請を受けた狐の怪異」として萬吉の禁酒に成功するとも言えるように思う。なお、霊現象を引き起こす役割としては既婚ながら満十七なら、ぎりぎり資格があると言える。岩波版長谷川氏注には、登場人物の関係図が示されてあり、とてもよい。以下に真似をしておく。
ゑ い(先妻/十六年前に死亡)
‖―――――――市太郎(二十五歳)
萬 吉(五十三歳) ‖
‖ ぎ ん(「娵」・十八歳)
す ぎ(後妻・四十歳)
・「靈氣狐を賴過酒を止めし事」は「靈氣(れいき)狐(きつね)を賴(たのみ)過酒(くわしゆ)を止(とど)めし事(こと)」と読む。
・「神田佐久間町」現在の千代田区神田佐久間町。JR秋葉原駅に接する東側一帯。ウィキの「神田佐久間町」によれば、『材木商佐久間平八の姓に由来するとされる。この町は出火の多い町で「悪魔町」と陰口を叩かれた。江戸時代初期に材木商の町となり材木置き場があったが、火事の火種となるとの判断で、この材木置き場が、深川猟師町に移り、更に猿江、木場に移り、更に現在は新木場に移っている』とある。
・「娶(よめ)」は底本の編者ルビ。ここだけ、「娵」でない。
・「淺草元鳥越町」現在の東区鳥越。ウィキの「鳥越 (台東区)」によれば、徳川家康江戸入府以前からあった地名で、『後北条期の鳥越村は現在の台東区浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋・小島の一帯と比定される』とある。
・「ちろり」銚釐。酒の燗をする道具で銅・錫・真鍮製で、下の方がややすぼんだ筒形をしており、取っ手と注ぎ口が附いている。これを湯にそのままさし入れる。湯婆(たんぽ)。「ちろり」は短かい時間のことで、瞬時に暖まるところからの呼称とされる。
・「又候」副詞で、またまた。またしても。好ましくない物事に対してのみ用いる。この文字通り「またさふらふ(またそうろう)」の転訛した語である。
・「山崎何某」前話の私の注を参照されたい。
・「予が組の内、市中の風説爲承候者」犯罪や事件を未然に防ぐという観点からも、こうした担当者が常時奉行所内いたとしても不思議ではない。ただ、これは如何にも「耳嚢」の情報担当者の観がするのも事実。……ちゃっかり根岸ちゃん、公務をタテマエとしつつ、その実、「耳嚢」情報収集用に、部下を私物化していたのかも!――いえいえ! 私だったとしたら、これ、喜んでその役、仰せ仕りまる!――
■やぶちゃん現代語訳
死者の霊、狐を頼んで、かつての夫の飲酒癖を止(と)めたる事
神田佐久間町〔一説に浅草元鳥越町萬吉と申す者の由。〕に住まう男、これ、無類の酒好きにして、朝となく夕となく、一日中、浴びるように酒を吞んで御座ったと申す。
ある時、嫁を呼びつけ、
「――酒五合半(ごんごうはん)――買(こ)うて――吞ませ!」
と命じたによって、嫁ご、心得て、銚釐(ちろり)を下げ、隣りにある酒屋へと参り、五合(ごごう)の酒をそれに注(つ)がせ、持ち帰ると、暖め、親爺萬吉へ手渡した。
萬吉、悦んで茶碗にそれを注(そそ)ぎ移さんとしたところが、これ、
――一滴も――ない。
「……こ、これは……ど、どういうこっちゃ!」
と、嫁ごを呼びつけ、叱りつけた。
かの女も大きに驚き、
「……随分、よう目を張りまして酒屋に注がせました! 確かにちゃんと入って、一滴なりと零さぬよう、気(きい)つけて運んで参りました酒なれば! そんなこと! あろうはず、これ、御座いませぬッ!」
ときつうに応え、また、銚釐(ちろり)の桶のようなる大きなるを厨より出だすと、隣りへと、また走り入り、
「――このたびは!――正一升のきっちりにて! お願い、申します!」
と確かに頼み、なみなみと注(つ)がせて、買い調え、すぐ、立ち帰っては、大きなる鍋に沸かしたる湯に、その丸太のような銚釐(ちろり)をさし入れ、燗のついたを、そのまま
――ドン!
と萬吉の目の前へ突き出だいた。
萬吉は、
「……ふふふ……さても……」
と、これをまた、徐ろに、その大銚釐(ちろり)傾けて茶碗に酒を移さんとした。と、
――またしても
――一滴も――ない。
萬吉、大きに不機嫌と相い成り、
「……ま! またしてもっ! ありゃせんぞうっ!!」
と、再び、嫁ごをどなりつけた。
ところが、かの女もまた、
「――何より、この妾(わらわ)が! 確かに酒を注(つ)がするを見ましたし! そこで正一升計らせたを! これ、見届けまして御座いますッ!」
と、抗ごうた。
しかし、嫁ごも、この大きなる銚釐(ちろり)の内を覗いて見たところが――確かに、これ、
――一滴も――ない。
「……おかしなこと!……」
と、嫁ごも不審を口に致いた――その時――その嫁ご、何かを思い出し、
「あッツ!」
と驚きの声を挙げ、
「……ここのところ……妾(わらわ)が夢に、亡くなられた先(せん)の母者人(ははじゃびと)と思しいお方の、これ、現われられ、
『……兎角……我らが夫の大酒(おおざけ)……身のためにも……家のためにも……これ……悪しきことなれば……そなたよりも……よくよく異見なして……酒をやめさするように……』
と仰せられたと見申しましたによって……先(せん)も、一通りの節酒のこと、これ、申し上げましては御座いましたが……少しも、これ、お耳を貸しては下さいませなんだでしょう?……されば、妾(わらわ)も、しいては繰り返し申し上げませなんだ。……でも……これ……もしや?!……そのことと……この酒の怪異……これ……このようなる不思議も……あるのでは御座いますまいかッ?!」
と告げた。
すると、それを聴いた、親爺萬吉も、
「……そ、そうか!……じ、実はの!……我らも、それと同じようなる夢を見たが……これ、埒(らち)もないことと、捨ておいた。……じゃが……そうか……あいつがのぅ……しからば……金輪際――酒はしまいと致そうぞ!」
と殊勝にも述べた。
その言葉通り、萬吉はその後(のち)、しばらくの間は本当に酒をやめて御座った。
すると、不思議なことに――近頃、頻繁に行方の分からなくなって、どこにあるやら、一向分からずなって御座った徳利(とっくり)や銚釐(ちろり)が、これ、家(いえうち)の、誰もが一目見て分かるような場所から次々と見つかり――また、かの――雲か霧の如く消えて御座った酒も、空のはずの鍋や壺の中に、なみなみと入って見つかった――と申す。
ところが、とある日のこと、近所の寄り合いの御座って、萬吉、これに顔を出したところが、酒好きの仲間衆に唆され、またぞろ、禁酒を破って、大酒を呑んでしもうたと申す。
すると……またまた……酒の道具なんどが皆、行方知れずと相い成って御座ったと申す。
が……このたびは、それにはは済まなんだ……かの嫁ご……これ……
――乱心同様と相い成り
――何やらん
――獣の如(ごと)
――喚(おめ)いた上
――先妻が死霊(しりょう)の憑依致いて
……次のようなることを、これ、口走り始めたと申す。
「……酒の過ぐるを愁えて……お狐さまをも頼み……異見をなしたにもかかわらず……その誓ひを破ったによって……またマタッ!……カクモ来タッテ!……オマエサマニ――コレ――イツイツマデモ!――附キ添ウテヤロウゾッツ!」
この嫁ごの、目を狐のように引き攣らせ、恨み言めいて物言うを聴くや、萬吉も、これ、大きに恐懼なし、
「……向後(きょうこう)!……き、厳しく……さ、酒はぁ、これ、断ちますればっつ!!……」
と体を震わせて誓(ちこ)うた。
すると――嫁ごは、
――パタリ!
と、その場に気を失って倒れ、直きに目覚むれば、
「……わ、妾(わらわ)……何ぞ?……御座いましたか?……」
と、たちまち、正気を取り戻して御座ったと申す。
●根岸鎭衞附記
この話は山崎何某(なにがし)なる人物の伝聞情報ではある。
しかし実は、南町奉行である私の組の内にあって、特に命じ、市中の噂や流言飛語等を聴取させ、時には探索させておる者からも、全く同様の出来事につき、報告書が提出されてある。
それによれば、
*
右の大酒吞みの親爺と申す主人は、
一、浅草元鳥越町平三郎店(だな)
萬吉 当年五十三歳
のことであり、以下、
一、同人の現在の妻 すぎ 当年四十歳
一、倅 市太郎 当年二十五歳
一、嫁 ぎん 当年十八歳
とあって、
一、先妻 えい 死亡年齢不詳
は、十六年以前に既に死亡している。
この亡き妻「えい」について、報告書は、特にその生前、常々より夫萬吉の大酒を喰らう悪癖につき、心を悩ませ、事実、たびたび本人に対しても節酒禁酒を求める異見を成していた由、添えられてある。
また、この若い嫁の「ぎん」なる者については、以下の記載がある。
一、当年正月下旬より乱心。
一、乱心当初より、種々の奇言を口走り始める。
一、その中でも、次のような、奇怪乍ら、一見、理の通って見える異言をも述べている。以下、そのままに筆録して写しおく。
記
――妾(ワラワ)「えい」儀(ギ)、カク死霊ノ分際ニテハ、最早、カノ酒乱ナル夫ノ近キニハ立チ寄リ難キニヨッテ、霊界ニアッテ知レル狐ニ対シ、助力ヲ依頼致シ、ソノ不可思議ナル神通力ヲ以ッテ、異見スルコトト致イタ――
*
実に奇怪なる出来事乍ら、相当、急速に市中に流布し、しかも、頻りに評判となって、盛んに事実として語られておる風聞であることから、特にここに摘録するに相応しい事例と判断するに至ったによって、かく記載しおくことと決した。
――先妻「えい」なる者の親切、これ、まっこと、尤もなることと存じもし、また、
――その「えい」に頼まれたと申す狐も、これ、畜生の分際乍ら、やはり、まっこと、親切なる物の怪にて御座る――
……と、この話を聴きたる者どもと、一笑致いて御座った。
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