耳嚢 巻之九 同棲不相害事
同棲不相害事
大久保に住(すめ)る横田其の屋舖に楓樹の大木あり。大人三抱(みかかへ)に猶(なほ)あまりありて、地を去る事凡(およそ)一丈程、二股にわかれぬ。其股なる所に大きなるうろありて蛇住(すみ)て、時としては枝に蟠(わだかま)り、飜りぬる事、家内にても見て恐るれど、害をなす事なし。年々拔替(ぬけかは)る殼をとりて藥にもなすよし。しかるに、むく鳥又年々來りて、此うろに巣をなして雛を連れて飛去(とびさ)る事、又常の事なり。蛇彼(かの)むく鳥の子を害せる事なく、勿論うろの内、隔(へだて)ありて其巣を異にする趣なれど、脇目には甚だ危く思ひしが、今は常となりて不怪(あやしからざる)由かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:大久保の地所で軽く連関。
・「同棲不相害事」は「同棲(どうせい)相ひ害せざる事」と読む。
・「一丈」三・〇三メートル。
■やぶちゃん現代語訳
蛇と椋鳥が同棲して相い互いに害することなしという事
大久保に住んでおる横田殿の、その屋敷に楓樹(ふうじゅ)の大木がある。大の大人が三人で抱えるに、なお余りあるほどの大樹で御座る。
この木は、地面から隔つること、およそ一丈辺りのところで、二股に分かれておるが、その股になっておる箇所に、大きなる洞(うろ)が空いており、そこに一匹の蛇が住みついておる。
時には楓(かえで)の太き枝の上に蟠(わだかま)っておったり、鎌首をもたげては風に靡き翻るかのような動きを見せることもある。
当初、家内(いえうち)の婦女なんどはこれを見、すこぶる恐れたりもしたものだが、これといって害をなすことは御座らぬ。
毎年毎年、抜け変わるその殼を下男の者に採らせて、薬にも成して御座る。
ところが、この洞(うろ)にはまた、椋鳥が、これまた毎年毎年来たっては、まさにこの洞(うろ)に巣を作り、雛を育ててはまた、それらをひき連れて飛び去ってゆくこと、常なることで御座る。
蛇は、この椋鳥の子(こお)を害することは全くなく、勿論、洞(うろ)の内は広うして、蛇の巣と、年々歳々参る椋鳥が巣を作る所との間には、木目(きめ)の隔ての御座って、互いの巣は、これを異(い)にして御座る様子にてはあれど、初めて両者の同棲せるを知った折りには、脇目にも、これ、はなはだ危く思うて、椋鳥の雛の身を案じたりもしたもので御座ったが、今となっては、最早、その平穏が常なるものと知り、家内にても、もう誰(たれ)一人としてこれを怪しむものはおらずなっておる、とのこと、横田殿の語って御座った。