明恵上人夢記 49
49
一、南都の修學者筑前房等、侍從房に來る。此の破邪見章(はじやけんしやう)を見せしむとて、又、上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり。其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。
[やぶちゃん注:クレジットなし。問題は「此の破邪見章」という謂いである(「破邪見章」は邪(よこしま)な誤った仏法解釈を論難して破り、それを明確な文章で明らかにすることの謂いであろう)。底本注は、あるいは「摧邪輪」かとし、後掲するように河合隼雄の「明惠 夢に生きる」でも、これを「摧邪輪」とする。その方が理解はし易い。とすると、「明惠 夢に生きる」のように、この「49」夢、ひいてはノン・クレジットで法然繋がりの「48」と、その前の年不詳の宙ぶらりんの「47」夢もひっくるめて、総ては「摧邪輪」執筆後の夢ということになり、これらの三つの夢記述は建暦二(一二一二)年十一月の「摧邪輪」執筆後のこととなる。しかし、そうなると底本で次の「50」が『建暦二年九月十九日の夜』で始まるのと合わなくなる。無論、前に述べた通り、底本自体が十六篇の継ぎ接ぎに過ぎないから、これを以って建暦二年説を退けることは出来ない。しかし、河合氏も述べておられる通り、『この夢が『擢邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくる』という点で非常に大きな問題を孕んでいることは言を俟たない。河合氏は建暦二年説に従って意見を述べておられるから後掲する引用を参照にされたいが、私個人としては、現在の主流とは思われるその解釈や解析に敬意と理解は表するものの、これらを、
「摧邪輪」執筆後の夢
としてしまうと、この三つの夢の内容は総合的に見て、如何にも、
リアルで科学的で論理的な様相を見せてくる/見せることとなってしまう
と思うのである。ところが、私のように、これらを総て
「摧邪輪」執筆前の承元元(一二〇七)年の十一月及びそれ以降、「選択本願念仏集」を読む前、即ち知られた「摧邪輪」の筆を執ろうと決心した前の夢
ととるならば、俄然、この三つの夢は、
夢らしい夢幻性を帯び、しかも孰れもが既に注した通り不可思議なる予知夢としても立ち現われてくる
ように思われるのである。大方の御批判を俟つものではある。
「南都」奈良。
「筑前房」不詳。「26」夢に不詳の「筑前殿」が出るが、同一人物かどうかは不詳。
「侍従房」表現から見て、人名ではなく寺院か公家屋敷か宮中かの部屋の室名のように思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。
「此の破邪見章」私は以上の観点から、これは「摧邪輪」そのものではなく、尊崇の念を持ちながらも明恵が法然の宗旨に疑念を抱き、それについて思うところを九年(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした承元元(一二〇七)年まで)に亙って書き溜めて来たところの(一朝一夕一ヶ月ばかりであの「摧邪輪」が総て書き上げられたのだとは私には思われないのである)、後の「選択本願念仏集」に対する批判文書である「摧邪輪」の、原「摧邪輪」とも言うべき草稿に類するものであったと採るものである。建暦二(一二一二)年十一月の執筆までの実に十四年の間(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした)、そういう草稿や原資料が一切なかったと考える方が、遙かに不自然であると私は思うのである。確かに、何度も述べるように、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは、法然の死後八ヶ月後、この建暦二年九月に平基親の序を附けて版本印行されたものによるものらしいが、しかしどう考えても、それまで明恵が何とも思わずにただ只管、法然を崇敬なしていたが、活字化された「選択本願念仏集」を読んだとたん、その宗旨が仏法を破壊するとんでもないもので、彼はとんでもない破戒僧だったのだだと初めて気づいた――などという愚鈍な明恵を主人公にするシチュエーションの方が、遙かに不自然である。
「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたか(不謹慎乍ら出来れば、死んでいてくれた方が夢としては、より面白いんだけどなぁ)。
「上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり」ここは言葉を発していないにも拘わらず、その心中で思ったことが不思議に上師に通じて、その通りになったという情景を描写しているものと読んだ。また、ここで直ぐに読まずにいて欲しいと明恵が心に念じて、有意な時間経過の後の夜になって徐ろに上師及び別な「人」がそれを読んだという如何にも迂遠な叙述が気になる。ここには実際の「摧邪輪」が、法然死後、「選択本願念仏集」を実見して義憤から書かれることの――私は――予知夢的表現であったのではないかと考えている(これが「摧邪輪」執筆後の夢となると、如何にもつまらない夢となる、という私の謂いが、少しはお分かり戴けることと思う)。
「其の御前に人ありて」もう一人、不詳人物が上師のすぐ前にいて、彼も親しくそれを読んだのである。この「人」、大変気になる。
「書」という表現は、確かに出来上がった「摧邪輪」の雰囲気はないとは言えない。しかしそれでも私は良いのである。私はこれを予知夢と解釈しているからである。
■やぶちゃん現代語訳
一、こんな夢を見た。
「南都の修学僧の筑前房らが、侍従房にやって来られた。
私は、手元にある、この私の――法然らが布教するところの念仏衆の――その破邪見章(はじゃけんしょう)の論難について、是非とも、お見せしたいと思っていた。
すると、その来訪された人々の中には、また、我が上師たる上覚房さまがおられ、私のその論難を綴ったものを手に取ってお読みになられようとした。
その時、私は、心の中で、
『……上覚房さま、それは、どうか、今日これから、宵になってより、ご覧下さいまするように……』
と念じた。
すると、上覚房さまは以心伝心を以ってそれを感受なされた。
されば、ずっと後の夜になってから、上覚房さまはご覧になられた。
その上師の御前(おんまえ)にも人――私の知らない人物であった――がおられたが、その方は、この私の念仏衆への論難の書を読まれ、随喜し、その後、感極まって大声を挙げてお泣きになっている。……
上師上覚房さまは私に、
「――これはまっこと、えも言われぬ貴(とうと)き書であるぞ。」
と、おっしゃられる。……
[やぶちゃん補注:河合隼雄の「明惠 夢に生きる」より、本「48」「49」夢に対する解説部を引用しておく。
*
これらの夢は『夢記』の建永元年(一二〇六)の一連の夢の続きに、十一月の夢として記載されているものであるが、それ以前に十二月の夢が二十八日まで記されているし、奥田も指摘するように『夢記』の「記事に錯乱や順逆が考えられるから確かなことはいえない」のが実状で、これらの夢はいつのものか断定し難い。ただ、二番目の夢にある「破邪見章」が久保田らの推定するように『摧邪輪』のことであるならば、この二つの夢は『推邪輪』が執筆された建暦二年(一二一二)以後の夢ということになる。
ここでどうして年代にこだわるのかと言えば、この夢が『摧邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくるからである。すなわち、明恵は『摧邪輪』の冒頭に、自分は年来、法然に深い仰信をいだいてきたし、いままでに一言も誹謗したことがなかったが、この『選択集』を読んで、これが念仏の真実の宗旨をけがしているのを知り恨みにさえ思っている、と記している。この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで、夢のなかで、法然に仏事の導師をして貰うとしてもあまり不思議はないと思われる。
筆者としては、第二の夢の「破邪見章」は『推邪輪』ではないかと思われ、はじめの夢も『推邪輪』執筆後のものではないかと思う。そうすると、意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、無意識には法然を評価していたことになってくる。このように考えると、『行状』に記されていた、明恵の顔に「観音」とか「善導」とか書かれ、西方から光がくるという夢も、浄土教に対する明恵の高い評価を示しているものと思われて、ますます興味深く感じられる。もともと明恵は法然の『選択集』に書かれていることを非難しており、浄土教そのものや念仏などを否定しているのではないので、この夢も別に不思議ではないと言えそうであるが、やはり、明恵が根本的には華厳によっていることを考えると、注目すべきイメージであると言わねばならない。
明恵が法然を評価する夢を見ている事実は、彼の内面の動きを示していて興味深いが、夢を見た年代を明確にできないので、断定的なことが言えず残念である。
なお、この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく。
*
「奥田」国文学者奥田勲。聖心女子大学名誉教授。明恵の「夢記」の研究者として著名。私はこの『この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで』の、「選択本願念仏集」を読むまでは目出度くも手放しで『法然を尊敬していた』という明恵の楽天的な姿を、これ、想像することが出来ないのである。]