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2015/01/01

澄江堂遺珠 本文Ⅶ

この身は鱶の餌ともなれ

汝を賭け物に博打たむ

ぴるぜん・まりあも見そなはせ

汝に夫あるはたへがたし

          船乘りのざれ歌

 

   嗟(ああ)人を殺さざりし彼は遂に自らを殺せし

   なるか。非か。

 

[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」はポルトガル語の「virgin maria」で聖処女マリアのこと。]

 

 

ひとをまつままのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

こころはふるふ光かな

 

[やぶちゃん注:「アーク燈」アーク放電による発光を利用した光源。特に電極に炭素棒を用いたもので空気中で放電させるアーク放電灯を指し、明治初期には街路灯に用いられた。]

 

   その他單獨の短章にして作者自身×印を

   以て題に代へたる作十章あるも、こは完作

   として既に全集中に収錄されあるを以て、

   ここには抄出することなし。ただ二三句

   のみに止まりて未だ章を成さざれども趣

   に富めるものを玉屑として拾ひ得て試み

   に次に示さんか。

 

[やぶちゃん注:ここで佐藤が「その他單獨の短章にして作者自身×印を以て題に代へたる作十章ある」と言っているのはやや問題がある。確かに佐藤は「こは完作として既に全集中に収錄されある」と述べているから、現在の芥川龍之介の詩歌として旧全集の詩歌パート或いは断片に収録されているものを指している。しかし現在は「作者自身×印を以て題に代へたる作」は数作しかなく、旧全集時代に既に仮題や断片という呼称で載せられてしまい、佐藤が言っているものが現在の旧全集に載っているものと完全一致し、漏れがない、とは誰も断言出来ないという点で問題なのである。さらにお気づきになった方もおられると思うが、この部分は前の佐藤の解説の流れから言うと、最早、所在不明となった「第一號」ノートの中の詩を言っているように読めてしまうのである。そうすると、「ただ二三句のみに止まりて未だ章を成さざれども趣に富めるものを玉屑として拾ひ得て試みに次に示さんか」という文句は、素直に読むと、「第一號」ノートの中にそのようなものがあるように読めてしまうという点である。但し、以下で佐藤が引くのは、実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート1』、佐藤が言う「第二號」ノートのものではある。佐藤はここでそうした厳密な物謂いをしなかったのだというだけのことであれば、それはそれでよい。しかしだからこそ、「第一號」ノートを喪失している我々は、原「澄江堂遺珠」の全貌を見てはいないのかも知れないという可能性を、やはり残すとも言えるのである。]

 

栴檀の木の花ふるふ

花ふるふ夜の水明り

水明りにもさしぐめる

さしぐめる眼は     

 

こぼるる藤に月させど

心は      



しみらに雪はふりしきる

      秋の薔薇に

 

[やぶちゃん注:「しみらに」は「終(しみ)らに」という副詞で、一日中、間断なく。絶えずひっきりなしに、の意。]

 

   この類なほ入念にこれを求めなば、さすが

   に一台の名匠が筆端より出でし字々句々

   皆その片鱗神采陸離たらざるはなく、ただ

   に二三にして足るべからず、就中、

 

[やぶちゃん注:「神采」「しんさい」と読み、原義は精神と姿であるが、特に優れた風貌の意で用いる。神彩。「陸離」は、美しく光り煌(きら)めくさま。]

 

ゆふべととなれば海原に

波は音なく

君があたりの

ただほのぼのと見入りたる

 

死なんと思ひし

 

入日はゆる空の中

涙は落     

 

部屋ぬちにゆうべはきたり

椅子卓(つくゑ)あるは花瓶(はながめ)

ものみをはうつつにあらぬ(この三行消)

 

[やぶちゃん注:この三篇はとんでもない詩篇なのである。何故か?――これは現在、旧全集中にも、また新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』にも、如何なる芥川龍之介の「詩歌」集成の中にも――見出すことが出来ない文字列だからである!――佐藤はこれらを何から引用したのか? 新全集が佐藤の言う「第二號」「第三號」と同一なのだとすれば、幻の「第一號」の可能性しかない。若しくは実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の言う『ノート1・2』というのは完本ではない可能性もある――ということになるのではあるまいか? 識者の見解を俟つものではあるが、やはり「澄江堂遺珠」は永遠の夢魔なのではあるまいか?

 

   これらの句はやや長き一篇の連續的碎片

   かとも見るべく、一頁中に或は三行或は

   三四行置きに散記せるもの、或は故人が「死と

   戲れたり」と稱する鵠沼の寓居の一夕を

   詠出せんとせしに非ざるかを疑はしめて

   唐突たる「死なんと思ひし」の一句は作者が

   後日の「美しけれどそは悲しき」かの自裁あ

   るを以てか、慄然として人を寒からしむ。

   かく閲し來れば一把の未定詩稿は故人が

   心中の消息を傳へて餘りあり。語らずし

   て愁なきに似たらし故人が雙眸に似て幽

   麗典雅なるその遺詩は最も雄辯なる告白

   者に優るの觀を呈するに非ずや。

   擱筆せんとして感あり、乃ち拙詩一篇を附

   記す。

 

   友が歌草搔き集め

   搔きあつめつつ思ふかな

   みやび男とのみおもひしを、

   たとへばわれらもののふの

   戰の庭に倒れたる

   君を見出でて紅にそむ

   君が傷手をしらべ見るかと。

 

      昭和辛未十二月十四日夕、春夫記す。

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