澄江堂遺珠 本文Ⅰ 冒頭第一篇 附やぶちゃん詳細注
思ふはとほき人の上
[やぶちゃん注:以上は佐藤春夫による一頁一行標題。改頁。左頁から以下の本文。]
*
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
[やぶちゃん注:「何かはふともくごもりし」という一行と完全一致するものは、実は現存する資料の中にはたった一篇しかない。それは、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』に現われる、それである。以下に同頁を総て示す。取り消し線は抹消を、下線はそれに先立つプレ抹消を指す(但し、これは私独自の仕儀)。
《引用開始》
ゆかそかにゆきのつもるよは
こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ
入日の空を仰ぎつつ
何かはふともくごもりし
せんすべ
消えし言葉は如何なりし
運河夜はむるる上る鯉魚の群あまた
波もさざらに上るとき
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《引用終了》
次に、この抹消箇所を消去してみる。
《提示開始》
かそかにゆきのつもるよは
こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《提示終了》
では、この一篇に関係する部分のみを次に抽出してみる。
《提示開始》
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《提示終了》
こうしてみても(太字化はやぶちゃん)、本来、別フレーズであることを示す空行と、抹消していない「鯉魚あまた」が間に挟まって、実は「澄江堂遺珠」のこの一篇は全く再現されないと言ってよいのである。
では、一歩下がって酷似したものはどうか?
実は「何かはふとも口ごもりし」ならば全部で七つの資料にヒットする。一つは堀辰雄の編集したと思しい現在「詩歌未定稿」と称するもので、そこではまさに同一のパートに三ヶ所連続で登場する(太字化はやぶちゃん)。
《引用開始》
*
何かはふとも口ごもりし
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし
その
入日の空を仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし
消えし言葉は如何なりし
*
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
「思ふはとほき人の上」
船のサロンにただひとり
玫瑰の茶を畷りつつ
ふとつぶやきし寂しさは
*
《引用終了》
一見すると、文字列だけならば、一致して見えるが、ここでも詩句は「*」で分断されており、一篇のソリッドなものではないのである(しかも「口ごもりし」と表記が異なる)。
他には『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁23』に、
《引用開始》
何かはふとも口ごもりし
黄
大路ににこの この のこる夕明り
戸のもの櫻見やりつつ
何かはふとも口ごもりし
戸のもの
きみ
何かはふとも口ごもりし
せんすべなげに□まひつつ
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふともほほえみし口ごもりし
その日のその
《引用終了》
と出るが、本篇の後の二行とは一致部がない。後は同『頁26』の一部、
《引用開始》
光は
何かはふとも口ごもりし
その
《引用終了》
本編の後に続く詩句と相同相似の文字列はないのである。
さすれば、佐藤は先に掲げた二つ、即ち、
・新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』
若しくは(これは考え難いことであり、その可能性は極めて低いと考えたいのだが)、
・推定堀辰雄編の「未定稿」
の、孰れも分断された詩篇を、恣意的に接続して一篇に捏造したとしか思われないのである。以下、冒頭注で述べた通り、本「澄江堂遺珠」の各詩篇の考証はこれを後の作業に譲ることとするが、少なくとも私は、我々はこの「澄江堂遺珠」の数多の絶唱を――芥川龍之介の生の肉声の吟詠として聴いてはいけない――と断言するものである。]