澄江堂遺珠 本文Ⅲ
劉園
人なき院にただひとり
古りたる岩を見て立てば
花木犀は見えねども
冷たき香こそ身にはしめ
右「劉園」は西湖劉莊の園に於ての口吟か。
[やぶちゃん注:【二〇一四年十二月二十三日改稿】私は旧全集の「詩歌二」で初めてこの詩を読んで以降、この「劉園」をずっと蘇州古城の西北にある明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つである「留園」であると思い込んできた。それは「留園」は古えは「劉園」と書いたという事実、そして、芥川龍之介の「江南游記」の「二十 蘇州の水」の冒頭に(リンク先は私の注釈附電子テクスト)、
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主人。寒山寺だの虎邱(こきう)だのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――
客。それも皆つまらないのぢやないか?
主人。まあ、格別敬服もしないね。唯(ただ)留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、聊(いささか)妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知(やはたし)らずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、愈(いよいよ)迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。
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と述べていること(この詩の雰囲気とこの龍之介の述懐部が私には妙にしっくりと重なったのである)、そして何より実際に私も「留園」を訪れてその「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えたことによる鉄壁の確信なのであった。従って私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、
[やぶちゃん注:「劉園」明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つ。私も行ったが「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えた。]
という注を附してきた。
ところが今回、この芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」を電子化注釈する過程の中で、その確信が揺らいできたのである。問題はこの佐藤の注である。彼はこの「劉園」を蘇州古城の「留園」ではなく、『西湖劉莊の園』ではないかと注しているからであった。そこで中国滞在の長い教え子にこのことについて以下の質問を試みてみた。以下はその際の私の消息文の後半部分である。
《引用開始》
私が注で言っているのは現在の蘇州古城の西北にある「留園」(但し、昔は「劉園」という呼称であったといいます)ですが、実は「西湖劉荘」と佐藤が注している方は、現在の「杭州西湖国賓館」の別称「劉荘」なのだろうと遅まきながら気づきました。私は単純に自分が気に入ったあの庭園の記憶と、この詩の持つ雰囲気から「留園」と完全に思い込んで注していたのですが、これは西湖の「劉荘」でしょうか? 私は西湖に行っていないので判断がつきません。しかし中国の観光サイトには「杭州西湖国賓館」について、
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西湖の西側にあって、三面が湖に臨んでいて、後ろが丁家山である。三十六万平米土地を占め、沿西湖の総長は二キロである。ホテルは緻密、調和、豪華な江南建築で有名になって、庭に小橋、水亭、古樹があり、建築物が緻密で、飾り付けが上品で、人文景勝もいっぱいあるので、「西湖第一の名園」という称号がある。
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とあり、これはもしかすると、佐藤の言う、現在の「杭州西湖国賓館」=「劉園」での感懐吟の可能性が出てきたのです。あなたは何度も西湖を訪問されているので、出来ればご判断を仰げればと思っています。
《引用終了》
これに対する教え子の返事を引用する。
《引用開始》
西湖西岸の国賓館については、わたしもはっきりしたことは分かりません。西湖西岸にはここ数年の間に何度も足を運び、時には家族と、時には会社の同僚たちとゆっくり散策しました。ただし、国賓館そのものに入ったことがあったかどうか、定かに憶えていません。ただ、西湖のほとりと言えば、蘇州の、留園はもちろんいかなる庭園と比べてもスケールが断然異なります。西湖周辺というのは、まさに見はるかす限りの夢のような風景が広がり、私は何度訪れてもうっとりしてしまいます。そうですねえ、例えは悪いかもしれませんが、京都の庭園のせせこまさと、奈良の旧都跡との違いというのでしょうか(かなり偏見が入っています、すみません)。私は、留園の小世界で感慨にふける龍之介より、西湖畔の茫洋として天地の広がりに立ち尽くす龍之介の方が、今ありありと眼に浮かぶのです……
追伸 とりわけ西湖の西岸は、汀の線が入り組んでおり、波もほとんどなく鏡のようです。靄の立つ早朝や、霧雨に降り込められた風情など、まさしく絶品です。
《引用終了》
この文面を眺めながら、私はこの一篇への注は書き直さねばならぬと感じた。私の中では偏愛する「留園」であって欲しいという無意識の力が働いたのであるが、そもそも龍之介は「江南游記」の上記の引用で「留園」と記している。彼が同じ「留園」を詩に詠んだとすれば、そこでは標題を「劉園」とせずに「留園」としたに違いない。とすれば、これはやはり――佐藤が注で推測し、教え子が述べるように実体としては実はせせこましい(実際にそれは事実である)「留園」とは比較にならない広大広角の西湖の「劉園」こそが、本詩のロケーションであった――と推定するのが正しいという結論に至ったからである。大方の識者の御批判を俟つものである。]
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欲識東坡狂醉處
至今泉聲
[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」や「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、先行する詩に用いられている「玫瑰(メイクイ)」の茶を飲むシーンや「畫舫」が登場する。]
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しらべかなしき蛇皮線に
小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり
耳環は耳にゆらげども
きみに似たるを如何せむ
[やぶちゃん注:「小翠花」は別名于連泉(うれんせん)、龍之介の「上海游記」の「九 戲台(上)」「十 戲臺(下)」にも記される京劇の花旦(huādàn:可愛い若い女性役の男優。)の名優である。]
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みどり明るき芭蕉葉に
水にのぞめる家あまた
夾竹桃
薊花すぎ
アカシヤの落ち花
しつとりと黄な瓦踏む
麥秀
げんげ野に羊雨空を仰ぎ
粉江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になる水中の鼻さき
石橋に草生ゆる農人の行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨
右「麥秀」六句はその詩體と詩情とを異にす
るとは云へ亦當然支那游記詩章中のもの
なるべし。
[やぶちゃん注:当初、「澄江堂遺珠」のみで虚心坦懐に芥川龍之介の詩想を読み解こうとしたが、この詩の「粉江の塔」「水中」という語に忽ち行き詰ってしまった。「水中の鼻さき」?……まず、「粉江」で検索したが、龍之介の中国旅行の行程の中にこのような地名(或いは川の名前)は見出せなかった。そこで中国滞留の長い教え子に聴いたところ、「聴いたことがありません。これは本当に中国の地名ですか? 他に情報はありませんか?」との返事を得た。そこで、『「澄江堂遺珠」関連資料』の当該資料を探ってみると、驚くべきことが分かった。これは同資料の『ノート1』の『頁1』に載る以下の詩に該当するのだが(取り消し線は芥川龍之介による抹消を示す)、
麥 秀
げんげ野に羊雨空を仰ぎ
松江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になりる水牛の鼻さき
石橋に草生ゆる雨空の
農人農人行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨
「粉江」ではなく「松江」であり、「水中」ではなく「水牛」なのである!
「水牛」は納得した。では「松江の塔」とは?……「松江」と言えば、芥川龍之介所縁とすればかの出雲の松江(私の芥川龍之介「松江印象記」初出形テクストを参照)があるが、「塔」は不審であり、この他に出るロケーションは、佐藤春夫が敢えてここにこの詩を配したように、佐藤が誤読したか誤植かは不明だが「水牛」を引くまでもなく、中国大陸での嘱目と考えなくてはおかしい。そもそも「春雨」が出るが、龍之介の松江訪問は真夏である。とすると……「松江」(しょうこう)「の塔」……と称すべきものは中国にないか?……検索をかけると!……あった!――「松江方塔」である! 上海市観光局公式サイトの記載などよれば、現在の上海市郊外の西区にある古城で、「方塔」は正式名称を「興聖教寺塔」といい、土木構造製の九段階方形の塔で高さは四二・五メートル、造形と構造は唐代の煉瓦作りの塔を真似たもので、中国国内では極めて少ない唐代の北宋塔とある。但し、龍之介はここを訪れた形跡は現存する資料の中にはない。この情報を先の教え子に提示してみた。すると、
《引用開始》(本人の承諾済)
はい! 松江というのは非常に知れ渡った地名であり、上海市に松江区という行政区もあります。塔も有名です。ただ、かなり距離があります。龍之介はせいぜい上海郊外と言っても同文書院あたりまでしか行っていないという印象でしたので、不思議です。もしかしたら、実際に行っていなくても、写真などで見たのかしらん……龍之介は、そんなことしないよな……
先生、龍之介が上海から杭州へ向かう際に、汽車から見えたのではないかしら? 現在の鉄路(新幹線でなく在来線:昔の線路もおそらく同じ場所を通っていたと仮定すれば)から、距離にして一キロメートル足らずです。これなら、絶対に見えたはずです。僕もその在来軌道を何度も利用しました。しかし残念なことに、方塔が見えた記憶は一度もないのですけれども。
《引用終了》
という返事を貰った。そこではたと思い当った。この詩は「げんげ野に羊雨空を仰」いでいて、「松江の塔」が「麥の穗のび」た先に「見」えるのであり、「菜たね莢になる水牛の鼻さき」が過ぎ行き、「石橋に草生ゆる雨空の」の中を「農人」は「行かんともせず」に立ち尽くすのが見え、今度は「そらまめ花さく中の墓」があって、「籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨」の降っている景なのだ! これらを嘱目する龍之介は、その「松江の塔」に登ったり、その塔の直下に立ったりなどはしていないのだ! しかも景色は目まぐるしく変わっているではないか?! こんな風に景色がつぎつぎと移り変わるのは――これは車窓から見た景色なのではないか?!……こんなことを考えて、私はまさに教え子の言うように、その杭州に向かう汽車から「麦の穂の伸びた先に松江方塔が見えたのではないか?」と返事をものした。
《引用開始》
はい! 大正十(一九二一)年五月二日。汽車が上海を出て間もなくのことになるはずです。上海市内を出発して約三十キロほど走ったところですから、当時の汽車の速度などを考えれば約一時間ほどといったところでしょうか。
《引用終了》
と返事が返ってきた。私はもう、誰が何と言おうとこれは興聖教寺塔、松江(しょうこう)の塔の遠望であると信じて疑わないのである!――]