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2015/01/10

耳嚢 巻之九 御府内奇石の事

 御府内奇石の事

 

 牛込山臥町に酒井靭負佐(ゆぎへのすけ)下屋舖(やしき)あり。右は先祖空信の頃より拜領にて、むかし御成(おなり)などもありて古き屋舖なり。右屋館内、家來並(なみ)にて長安寺といふ寺もあり。其邊に馬石(うまいし)と號し、馬の形なる岩石あり。胴に鐡砲の打拔(うちぬき)候やう成る穴ありとかや。昔大き成(なる)馬、夜る夜る出て人々驚(おどろき)けるを、主人より命じけるや錢砲にてうちたる、其玉疵(たまきず)の由、今以顯然たる由、右邊の人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:都市伝説連関としておく。

・「御府内」「ごふない」と読む。江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(一八一八)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。

「牛込山臥町」牛込山伏町が正しい。岩波の長谷川氏注に、『新宿区市谷山伏町・北山伏町・南山伏町』とある。

・「酒井靭負佐」「靭負」は本来は「ゆげひ(ゆげい)」で「靫負」とかくことが多い。「ゆぎへ(ゆぎえ)」「ゆぎおひ(ゆぎおい)」とも読む。「ゆきおい」の音変化で古くは「ゆけい」と発音したらしい。古くは大化の改新以前、靫(ゆき/ゆぎ)を負って宮廷諸門の警護に当った者を指し、後にそこから衛門府(えもんふ:律令制の官司の一つで宮城諸門の警備・部署巡検・行幸先駆けなどに当たった。その職員は多く検非違使(けびいし)を兼任した。靫負司(ゆげいのつかさ)。)及びその職員を指したか、ここは遠くそこに発した形式上の官職名である。底本の鈴木氏注には、『忠進(タダユキ)。若狭小浜城主、十万三千五百石』とある。ウィキの「酒井忠進」によれば、明和七(一七七〇)年生まれで文政一一(一八二八)没。老中で若狭小浜藩第十代藩主・小浜藩酒井家第十一代。越前敦賀藩主酒井忠香の七男であったが、第九代小浜藩主酒井忠貫の養嗣子となり、文化三(一八〇六)年に家督を相続、幕府では寺社奉行・京都所司代・老中を歴任、文化一二(一八一五)年に焼失した日光東照宮五重塔を文政元(一八一八)年に再建した、とある。

・「空信」底本の鈴木氏注に、『空印の誤。酒井忠勝の致仕号』とある。ウィキの「酒井忠勝によれば、徳川家康忠臣として知られる酒井忠利の子で、天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年没。武蔵川越藩第二代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第三代将軍徳川家光から第四代将軍徳川家綱時代の老中・大老とある。

・「長安寺」底本の鈴木氏注に、『深谷山。浄土宗、知恩院末。このあたりは新宿区信濃町のうち。家譜に忠勝を、「牛込別荘の長安寺に葬る」とあり、もと同邸内であったことが知られる』とある。岩波の長谷川氏注には『新宿区左門町』とあるが、鈴木氏注の通り、新宿区信濃町である(左門町はその北隣)。公式サイトによると、江戸幕府が開幕される以前の天正一五(一五八七)年に浄土宗総本山知恩院末寺として深誉利貞によって市谷本村町に最初に創建されたとあり、『当時は、太田道灌が江戸城を築城し、その周辺の整備を進めていた』頃に当たり、『その後、江戸城の周りを徳川家の屋敷町にし、市谷本村町は尾張徳川家の屋敷地いわゆる御用地とされたため、その地に創建された長安寺は』、明暦二(一六二五)年に『現在の地に移転し今に至って』いるとあるから、長谷川氏の注はやはり誤りである。因みに公式サイトには酒井家「家來並」という記載は載らない。歴史や寺格から言っても、私は「家來並」というのはちょっと言い過ぎのように思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 御府内(ごふない)の奇石の事

 

 牛込山伏町(やまぶしちょう)に酒井靭負佐(さかいゆきえのすけ)忠進(ただゆき)殿の下屋敷が御座る。これは、酒井家御先祖酒井忠勝空印(くういん)殿の頃より拝領の屋敷地にして、古えは将軍家のお成りなども御座った、由緒正しき古き屋敷で御座る。また、屋敷内(うち)には、酒井家家来格の扱いとさるる半ば私(わたくし)の長安寺という浄土宗の寺も御座る。

 さて、その下屋敷辺りに、通称「馬石」と称する、馬の形をしておる岩石がある。

 しかも、その石の、馬の胴の辺りに相当する箇所には、これ、鉄砲にて撃ち抜いたようなる穴があるとか申す。

 何でもその昔、大きなる妖しき馬が、夜な夜なその辺りに出でては、近隣の人々を恐懼(きょうく)させて御座ったを、当時の酒井家御当代当主よりの命ででもあったものか、その妖馬を鉄砲にて撃ち殺したとか申し――その穴は――これ――その時の弾傷(たまきず)の由にて――今以ってくっきりとそれが残りおると、近辺に住まう御仁の語って御座った。

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