日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 モースが発掘したのは「当尾貝塚」ではなく「大野貝塚」であった!
図―587
図―588
昨日大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった。日本中いたる所、景色のいい場所や、何か興味の深い天然物のある場所に、神社が建ててあるのは面白いことである。図587はこの習慣を示している。樹木の形が変っていて面白いので、その後に神社を建てたのである。ここでは、人々の宗教的義務に注意を引く可く天然を利用し、我国では美しい景色が、肝臓病の薬の大きな看板でかくされるか、或はその他の野蛮な広告によって、無茶苦茶にされる。高橋には、人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる一本の樟樹(くすのき)があり、地上十フィートの所に於る幹は、直径八フィートもある(図588)。
[やぶちゃん注:「大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった」八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂のクスノキと呼ばれるものであるが、しかし! これはとんでもない情報なのである!
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まず、熊本県公式サイト内の「地域発 ふるさとの自然と文化」から引用する。
《引用開始》
国道3号線を下り竜北町に入ると左側にこんもりとした丘に晩白柚(ばんぺいゆ)の畑が広がり低木が林立しています。この一帯は氷川流域に根拠を持つ有力な豪族の墳墓(野津古墳群)があり、火の国発祥の地と呼ばれています。
法道寺跡は旧竜北町大字野津字東法道に位置し、法道寺跡のすぐ東を薩摩街道が南北に走っており、氷川左岸の宮原町と併せて江戸時代には交通の要所でした。法道寺は今から約1,300年前、白鳳時代に建てられた寺院といわれています。調査がなされていないのではっきりしたことはわかりませんが、これまでに泥塔・布目瓦が表採されています。『肥後国史』によると、法道寺は天台宗系の寺であり薬師仏を本尊としています。それを裏付けるように薩摩街道沿いの公民館には薬師堂があり、近くには「山王」「市場」の地名が残っています。
○樹齢約600年見事な老樹
このように栄えた法道寺ですが、約600年前に廃寺になった後、寺にあった薬師如来を祭るために薬師堂が建てられました。この薬師堂を建てた際にクスノキを植えたと言われています。現在薬師堂を訪れると2本の大きなクスノキが枝を広げ、セミの鳴き声でいっぱいです。幹の周り8.2m、高さ30mのクスノキの大木が2本薬師堂を守るように並んで立っています。エドワード=モースは、日本に招かれて2年間生物学を教え、ダーウィンの進化論を紹介したり、大森貝塚をはじめ古墳を発掘したりするなど、日本の考古学の基礎を作りました。そのモースが大野貝塚の調査のため訪れた際、この法道寺の薬師堂に立ち寄り「見事な老樹」と絶賛し、そのスケッチを残しています。
《引用終了》
この引用文より何より、リンク先の写真をご覧あれ。間違いなく、モースが「大野村からの帰りに」通ったのは、この八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂の前だったことが、モースのスケッチとの完全な一致から判明するのである!
ところがである! この八代郡氷川町野津とはどこか?!
リンク先にあるグーグル・マップを大きくして表示して戴きたい。
そこは八代郡氷川町大野の私が「大野貝塚」があった場所と推定した竜北東小学校付近か南南西一・五キロメートルの直近地点なのである!
もう一つの候補地である同名の大野貝塚=「当尾貝塚」は、実にこの遙か北方九・六キロメートル熊本市寄りにあるのである!
即ち、
モースが発掘したのが松橋(まつばせ)町の旧「大野村」だったとするなら、この十キロメートルも南の八代郡氷川町野津法道寺薬師堂の前を通過しようがないのである!
これは俄然、「日本大百科全書」の「大野貝塚」の項の江坂輝彌氏の記載通り、
モースが発掘したのは、多くのデータがそうだとする現在の松橋町大野の「当尾貝塚」(別名大野貝塚」だったのではなく、直線でも八キロメートル以上南南問東に位置した全く別の八代郡氷川町大野の「大野貝塚」であった可能性が非常に高まったと言わざるを得ないのである!
そうなると、総てがゼロに逆戻りである!
かのモースが発掘した古墳も――
その近くにあった百足だらけの秘密めいた地下の人工洞窟も――
総てを検証し直さねばならないということになる……頭がくらくらしてきた……暫く今の錯綜状態をそのままにしておき、ゆっくらと再検討してみたいとは思う。しかし、八代郡氷川町大野の大野貝塚は江坂氏の記載よっても既に宅地化によって原形が失われているという。これらの情報収集と検証には、郷土史研究家の方の助力なしには私は到底、不可能と思われる。どうかよろしく御教授方、再度、切に、お願い申し上げるものである。
*
なお、今一つ、ブログ「熊本アイルランド協会」の、二〇〇六年十月二十二日附のまるぶん書店顧問樋口欣一氏の「ハーンとのかかわり」の記事の中に、
《引用開始》
その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。
《引用終了》
とある。私の愛するハーンと愛するモースの接点を記した文章に遂に出逢えたことに私は激しく感動している。しかもここには「大野貝塚古墳」「法道寺」の楠の「大樹」まで出ている! 何と、素晴らしいことだろう! 私をモースとハーンが導いてくれている気が、今、ふつふつと湧いてきたのである!
「一本の樟樹」これは恐らく、現在、天然記念物に指定されている熊本県熊本市西区上高橋にある「天社宮の大クスノキ」ではなかろうかと思われる。個人サイト「日本巨樹探訪記」の「天社宮の大クスノキ」にある写真を見ると、モースのデッサンとの近似性が高く、叙述に於いて「人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる」という表現とも一致する巨木である。リンク先データによれば、樹高十八メートルで目通り幹囲が十一・二メートルとある。モースの直径から計算すると円周は七・六六メートルとかなり小ぶりに出るが、モースの目測はかなり甘いと考えてよく、この齟齬は私にはあまり気にならない。推定樹齢千三百年以上で、『西神社にもクスノキ巨木が立つが、大きさは、こちらの方が断然勝る。その代わり(?)神社としては、こちらの方がずいぶん小さい。現在は高橋西神社の飛地境内社とされているようだ』。『東神社の祭神は、道君首名(みちのきみおびとな)。奈良時代に実在した人物で、和銅6年(713)、筑後守に任ぜられた。のち肥後守を兼任。当地では溜池を築いて灌漑事業を行う一方、人々に生業を勧め、農耕や果樹栽培、畜産等の技術を基礎から教えて奨励した。それには条例を定め、任地を巡回して、教えに従わない者は罰することまでしたため、はじめ人々は快く思わなかったようだが、生活が豊かになるにつれ、信頼を得るようになった。そして、没後は彼を慕う人々によって、神として祀られた』。『それが、天社宮(地元の人は「天社さん」と呼ぶらしい)という神社名とどう関係するのか知らないが、そのような来歴により、五穀豊穣、商売繁盛の神様とされてきた。(明治6年(1873)に高橋東神社と改称)』。『伝承樹齢からみると、大クスノキは天社宮創建時に植えられたと考えられたようだ』が、『多くの大枝を失い、幹の太さに比べ、樹冠は小さい。しかし、残された枝は青々と葉をつけ、樹勢は悪くないように見える』。『熊本市公式WEBサイトにあった説明によれば、このクスノキそのものが御神体であった可能性があるという』とあって、『人々から慕われた国司の記憶とともに、いつまでも元気でいてもらいたいものだ』と語られてある。すこぶる同感!
「十フィート」約三メートル。
「直径八フィート」直径約二・四四メートル。]
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