日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 富岡敬明より高田焼を贈られる
図―583
翌朝知事は贈物として、高田の茶呑を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである。図583はその一つの写生である。日本の新古陶器に対して熱愛を持つに至った私は、これ等を所有することをうれしく思った。彼は茶入を沢山持っていて、それを私に見せる為、熊本へ持って来ようといった。彼は、私と一緒に大野村の貝塚を調べたいという希望を述べた。
[やぶちゃん注:「高田」これは「こうだ」と読む。これは熊本県八代市で焼かれる陶器、高田焼で、八代焼(やつしろやき)ともいい、焼き物には珍しい象嵌を施すところが特徴である。以下、参照したウィキの「高田焼」から引く。『文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い豊前小倉藩主・細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた』。寛永一〇(一六三三)年に『忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された』(なお、この後の明治二五(一八九二)年)には、『窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移し』ている)。初期は上野焼(福岡県田川郡香春町・福智町・大任町で焼かれる陶器で、江戸前期に高名な茶人でもあった大名細川忠興が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工であった尊楷(上野喜蔵)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まり。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれた。明治期には衰退の様相を見せたが、明治三五(一九〇二)年に復興した。他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であり、また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉・鉄釉・白褐釉・黄褐釉など様々な釉薬を用いて窯変を生み出すのが特徴。絵付けは普通用いない。ここはウィキの「上野焼」に拠った)の手法を用いていたが、『後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている』。高田焼は、『一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる』とある。グーグル画像検索「八代焼(高田焼)」をリンクさせておく。]
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