耳囊 卷之九 死馬怨魂の事
死馬怨魂の事
小石川寂蓮寺は、我許へ常に來る山崎某の菩提寺にて、右寂蓮寺來て咄しけるは、姬路の藩中に村田彌左衞門といふ者あり。彼娘十六七にもなりて、容色も宜(よろしく)、人の求め少なからず。しかるに暫く煩ひて兩親の心中愁いふばかりなし。しかるに亂心のごとく品々口ばしり、何か恨(うらみ)有(ある)さまなれば、加持祈禱すれど其しるしなし。彌左衞門大(おほき)に愁ひ、是全狐狸のなす所ならんと憤り娘を責尋(せめたづね)ければ、我は全く狐狸にあらず、此者の祖母は同家中大河内帶刀(たてはき)娘にて、我を情なく殺せし恨有(あれ)ば、此家に祟りをなし、此娘を殺し血筋を斷つべしと口ばしりけるゆゑ、夫(それ)はいかなる者の恨みなるやと申ければ、此家に飼(かは)れし馬なるが、年老(としおい)て乘馬にもならず、草踏(くさふむ)わざもならざるを、彼(かの)祖母なるものへ咄しければ、馬の老(おい)たるはしかたなし、野へ放ち捨可然(すてしかるべし)と云ひけるにまかせ、厩橋(うまやばし)天狗谷(てんぐだに)といふ所へ捨(すて)られ遂に餓死せし也(なり)、用立(やうだつ)時は是を愛し、不用の時かゝる不仁(ふじん)をなしける恨あれば、其恨みを報(むくい)るなりと、口ばしりける故、品々利害を說き、追福(ついふく)などなして快氣しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:本格怪談二連発。馬の怨念の憑依というのは一見、奇異に見えるが、東北地方の蚕神にして馬の神であるオシラサマなどを考えれば、処女の娘に馬霊が憑くというコンセプトはすこぶる腑に落ちるものである。正体を現わすには、尋常な仕儀にては覚束ぬ。少しだけ、サディスティクに粉飾しているので、お許しあれ。
・「小石川寂蓮寺」底本の鈴木氏注には、『未詳。三村翁は寂円寺かとする。寂円寺は小石川原町にあり、浄土真宗、東本願寺末』。現在の東京都文京区白山にある寂圓寺。
・「山崎某」「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」に出る「醫官山崎氏」なる人物か(この人物はまた、本巻の頭に出る「耳嚢 巻之九 潛龍上天の事」にフルネーム山崎宗篤として出る人物かとも私には思われる)。
・「姬路」播磨姫路藩十五万石。「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年当時ならば、第三代藩主酒井忠道(ただひろ/ただみち)。
・「大河内帶刀」不詳。
・「厩橋天狗谷」岩波版長谷川氏の注が詳しい。姫路藩藩主である『酒井氏は寛延二年(一七四九)前橋(厩橋)から姫路に移った。天狗谷は前橋辺利根川右岸の灌漑用水の天狗岩用水であろう』とある。前橋藩は上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩であるは、当初は厩橋藩(うまやばしはん/まやばしはん)と称し、藩庁は厩橋城(後の前橋城)に置かれていた。ウィキの、老中首座上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主であった「酒井忠恭」(ただずみ)から引く。『酒井家は前橋にいた頃から既に財政が悪化していた。酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用、加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぎ、あまり豊かでなかった、つまり財政基盤の脆弱さなどが大きかった。そのため家老の本多光彬や江戸の用人犬塚又内らは、同じ』十五万石ながら『畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もそれに乗った』。『ところが、本多と同じく家老の川合定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、本多、犬塚らの国替え工作は以後、川合を頭越しに秘密裏に行われた』(移封後の寛延四(一七五一)年、川合は本多・犬塚の両名を殺害、代々の藩主への謝罪状を認(したた)めた上、自害した)。ところが、『酒井家の期待とは裏腹にその頃姫路では、寛延元年』(一七四八年)『夏には大旱魃が起き、しかし姫路藩松平家は年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じていた。そこへ、藩主・松平明矩が同年』十一月十六日に死去、『松平家が他国に転封するという噂がのぼると、借金踏み倒しを恐れた領民たちは』十二月二十一日に一揆を起こし(寛延の百姓一揆)、翌寛延二年になっても騒ぎは収まらず、そのさなかの一月十五日に『前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)』
『の領地替の命令が出された』。一揆は二月には収拾したものの、『この混乱が尾を引き、酒井家の転封は』五月二十二日までずれ込み、『藩士の移住はさらに遅れた』。しかも七月三日には『姫路領内を台風が襲い、死者・行方不明者』は四百人以上にも及び、続いて八月にも『再び台風が襲い、田畑だけではなく領民』三千人余りが災害死するという未曽有の『大被害を受け、酒井家はますます財政が悪化した』とある。この長谷川氏注にある「天狗岩用水」については、地域活性化センターの公式サイト「伝えたいふるさとの100話」の「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社領主(そうじゃりょうしゅ)秋元長朝(あきもとながとも)」によれば、関ヶ原の戦いの翌慶長六(一六〇一)年、現在の前橋市総社町(そうじゃまち)附近の総社領主となった秋元長朝は灌漑用の水が得られたなら水不足と長い戦国の世によって荒廃したこの領地を豊饒の地と変えられると考え、用水の掘削に着手、総社領東端を流れる利根川からの取水を考えたが、土地が川の水位より高かったため、上流の白井領に取水口を作らない限り、引水は不可能であった。そこで白井領主本多氏の許諾を得んがために、まず高崎領主井伊家に協力を求めたが、「雲に梯子を架けるに等しい」と否定的であった。しかし、長朝は井伊氏に仲立ちを頼んで本多氏と何度も交渉、その結果、取水口を白井領に作ることが許され、用水工事の測量が開始された。知行高六千石の長朝にとっては用水掘削は経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成し得ない大事業であったが、長朝は領民の協力の見返りとして、以後三年間、年貢を取り立てないという約定を交わした上、慶長七(一六〇二)年の春に用水工事に実際に着手した。当初は順調に進んだものの、取水口付近では大小の岩が多くあって、遂には巨大な岩が予定路の先に立ちはだかって、工事が行き詰まってしまった。思いあまった長朝は、領内の総社神社に籠って願掛けをしたところ、その願明けの日に掘削現場に一人の山伏が現われ、「薪になる木と大量の水を用意せよ。用意が出来たなら、岩の周りに薪を積み重ねて火をつけよ。火が消えたならば、用意しておいた水を岩が熱いうちに急いでかけよ。さすれば岩は割るる」と告げた。人々は半信半疑乍ら、その通りにしたところ、美事に岩は割れた。その時、既に山伏の姿は消えており、誰とはなしに、先の山伏はきっと天狗の生まれ変わりじゃと噂するようになったという。これが、天狗が現れ、大きな岩を取り除いたとする「天狗来助(てんぐらいすけ)」と呼ばれる当地に伝わる伝説で、その後、人々は取り除かれた岩を「天狗岩」、用水を「天狗岩用水」と呼ぶようになった、とある。総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に小祠を建てて祀ったが、これが「羽階権現(はがいごんげん)」で、現在は総社町にある元景寺(げんけいじ)境内に祭祀されてある。長朝が計画し、領民らの協力によって進められた天狗岩用水は、こうして三年の年月をかけ、慶長九(一六〇四)年に漸く完成、これによって領内には水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地と変貌した、とある(出典及び参考文献は「天狗岩堰用水史」天狗岩堰土地改良区、「前橋の文化財」前橋市教育委員会とある)。「天狗」という名は、隠して以外にもポジティヴな由来であったことが分かった。……しかし……それにしても……転封された酒井家は意想外の踏んだり蹴ったりである……これもまた……この馬の祟りの踏んだり蹴ったりであったということか?……
■やぶちゃん現代語訳
死せし馬の怨みの亡魂の、若き娘に憑依したる事
小石川寂蓮寺は、私の許へ常に参る山崎某(なにがし)殿の菩提寺にて御座る。
山崎殿の許へ、この寂蓮寺の住持の参った折り、聴いたという話。
姫路の藩中に村田弥左衛門と申す者がおるが、かの者の娘、これ、十六、七にもなり、容色もよろしく、是非とも嫁にと申す求めも、これ、少なからず御座ったと申す。
ところが、ある折りより、かなり長いこと、これ、患(わずろ)うて、両親の心中の愁い、言いようもなきありさまで御座ったと申す。
そんな親の心痛のあるに、この娘、病状、これ、ますます悪うなって、殆んど乱心致いたかと思わるる如(ごと)、品々、おぞましき言葉なんどを口走るようになった。
その罵詈雑言を聴きとるに、これ、何か、恨みのある様子の見てとれたによって、知れる人を頼んで、加持祈禱などをも修してみたれど、一向にその験(しる)し、これ、御座ない。
されば弥左衛門、大きに愁え、
「……これは――最早、全く狐狸のなすところに他ならぬ!――」
と、憤りを発し、手ずから娘を庭へ引っ立て、身ぐるみ剝ぎて、水なんどをかけ、竹刀にて責めたてて、厳しく糺いたところが、流石に責め苦に耐え兼ねたものか、正体を現わした。
「……我レラハ全ク狐狸ガ類(タグ)イニテハアラズ……コノ者ノ祖母ナルハ同酒井家家中大河内帯刀(タテワキ)ガ娘ニテ……嘗ツテ我レラヲ……非情ニモ……殺セシ恨ミノ……コレ有レバコソ……コノ家(イエ)ニ祟リヲナシ……コノ娘ヲモ殺シ……ソノ血筋ヲ永遠ニ斷タントゾ思フモノナリ!……」
と口走ったによって、
「……そ、それは……一体、如何なる者の! 如何なる恨みと申すカッ!?」
となおも責めたてて糾いたところが、
「……我ラハ……ソノ祖母ナル者ノ家ニテ飼ワレテオッタ……馬ジャ……ナレド……ソノ頃……最早……年老イ……乗馬ニモナレズ……農耕ノ技ヲモ成シ難クナッテオッタニヨッテ……カノ祖母ナルモノ……家来ノ者ニ……カク話シシタトコロガ……『馬の老いたるは最早役立たずじゃ。飼(こ)うておっても無益なこと。野へ放って捨つるがよい。』……ト命ジタニ任セ……カノ先ノ領地ノ……厩橋(ウマヤバシ)ハ天狗谷(テングダニ)トイウ所ヘ……我ラ……捨テラレ……而シテ……遂ニ……餓死シタノジャ!……用立(ヨウダ)ツル間ハコレヲ愛(イト)オシミ乍ラ……一転不用ト相イ成ッタレバ……カカル理不尽ヲ……成ス!……ソレゾ恨ミ! ……ソノ恨ミノアレバコソ!……ソノ恨ミヲ報イントスルモノナリ!……」
と、なおも口角泡を飛ばし、嘶(いなな)くが如(ごと)、喚(おめ)いたによって、ともかくもと、責めをも緩め、家内(いえうち)へと連れ戻し、穏やかに理を説き、その場にて直ぐ菩提寺の僧らを呼び迎え、かの馬のための、これ、追福(ついふく)など成したところが、その夜半には、この娘、快気致いたとのことで御座った。

