甲子夜話卷之一 29 雁金打弓の事〔紀産〕
29 雁金打弓の事〔紀産〕
紀州の雁金打と謂弓は、烙印(ヤキイン)にて雁形を二つ押す。紀藩の官制にして尋常の賣物にはあらず。以前は多く世上にも出たれど、近頃は賣出の禁ありて、世に出ること稀なり。此弓の良作と云は、其打出す處より筏にして水下げするに、にべ離れず。濕暑の患なきを以て良作と爲と云。
■やぶちゃんの呟き
「雁金打弓」「かりがねうちゆみ」。講談社「日本人名大辞典」の江戸前期の弓師であった「伊丹庄左衛門」(?~寛永五(一六二八)年)なる人物の解説に、摂津伊丹城主伊丹親興(ちかおき)の後裔といい、元和五(一六一九)年に家康十男徳川頼宣の紀伊入国に従い、和歌山藩弓御用を勤めた。子孫も代々弓師として紀州家に仕え、伊丹家の造る弓は雁金弓と称されて名弓として知られた由記載がある。以前に引いた「結城滉二の千夜一夜」の本話の箇所に、「雁形」の焼き印を押した弓の画像が載り、雁金の紋図柄六種の画像も見られる。なお、この限定品に限らず、名弓は「雁金」と呼ばれたという情報もある。
「其打出す處より筏にして水下げするに、にべ離れず」ここが私にはよく分からない。「其打出す處」というのは、多数の弓材に用いる良質の大きな竹用材を伐り出すという意味で当初は読んだ。それならば、「筏」にして「水下げする」(竹筏がたっぷり川に浸かった状態で。若しくはその状態で長時間に亙って川を下らせるの意か)というのが自然に読めるからであった。ところが、「にべ離れず」というのでちょと困ってしまった。この「にべ」というのは、鹿の皮から取る膠(にかわ)、接着剤であって、所謂、弓造りに於いて各所の部分の竹材を接合するのに用いるものだからである(弓は削り出しではなく、非常に多くのパートを神技的に接合して作る。ブログ「はりまの匠」の「弓師 播磨竹禅(はりまちくぜん)」を参照されたい)。幾らなんでも、完成品の名弓を筏にして運ぶなんていうことは考えられない。そうか?! これは、その伐り出した竹の用材を、筏に組んで川を下らせて運ぶんだが、その際にどうしても水に浸かってしまう。しかし、この雁金弓に用いる竹はそのようにすっかり水に浸ってしまっていても、完成すれば、過剰な湿気を含むことなく、されば、にべが剝がれることもない、実に自在に保水をコントロールするような竹材であったと言いたいのではないか? それなら、目から鱗である。実際、処理より元の材の質こそが、やはり弓の良し悪しをまず決めるというのも納得がいくではないか。(勘違いだったら、ご指摘下されたい)。
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