耳嚢 巻之九 棺中出生の子の事
棺中出生の子の事
享保の中ごろ、御廣舖御小人(おひろしきおこびと)を勤めし星野又四郎といへるものゝ妻、懷胎して産に臨(のぞみ)てうまずして死しぬ。せんかたなければひつぎに納め、菩提寺の僧をむかへ火葬して、母子の死骸を分(わけ)んなど評しけるを、妻の兄なる者、我等聞(きき)し事あれば火葬は無用なり、我等菩提寺へ至りて談判すべしとて、彼(かの)寺に至り和尚に問ひ、火葬の事心にくし、哀れ其儘に葬送せんといひければ、和尚のいえるは、母子ともに死すとも※娩(ぶんべん)すべしとて、彼(かの)宅に來り棺の前に坐して觀念をなし、此事夜の九ツ時過(すぐ)べからずとて、夜の五ツ過るころにもありける、一喝を下すに應じて棺中に小兒の泣聲きこゆ。やがて開(あけ)て出すに男子出生す。和尚の曰(いはく)、此子六歳迄在命せば、必(かならず)我(わが)弟子となすべしと約し、六歳の時彼寺へ送りて弟子となす。右寺は牛込原町淸久寺といふ禪寺にて、彼和尚は大枝(だいし)と云(いへ)り。彼小兒出家して大方(だいはう)と號し、後に武州世田ケ谷勝光院に住職す。七十三歳にて隱居せり。又四郎は後妻をむかへ、男子を又もふけ、則(すなはち)又四郎と名乘(なのり)、御廣鋪下男の頭(かしら)を勤(つとめ)たり。親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。
[やぶちゃん字注:「※」=「女」+「分」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。話の内容自体はかなり古い都市伝説であるが、詳細な事実記載が附されてあり、特に実際に死後に男児を出産したという亡妻の夫の直話で、しかもその男児が成長し、出産に立ち逢った僧(実名表記)を師匠として同じく禅僧となり、その法名と事蹟が記されていること、各人の年齢やクレジットの明記等々、実話譚としての体裁を何とかして整えてようと意識的に努力している都市伝説(アーバン・レジェンド)である。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるが、ここで話者原田翁は、この話を「親又四郎」本人が「寛政九巳年」(西暦一七九七年)に、当時「御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語」ったとあるから、棺桶から子が生まれたのは八十年ほども前ではあるものの(この亡き母から生まれて禅僧となった「大方」の年齢から逆算すれば、この不思議な事件は享保七(一七二二)年に特定出来るのである)、この話を亡夫から直接に聴いたのは書かれた十二年前となる点にも注意したい(ここでは最後の「親又四郎」以下の文の「七拾三歳の時」の箇所を意識的に外した。後注参照)。但し、話者の先行作から見ると、捏造可能性の疑義(後注参照)はある。
・「享保の中ころ」享保年間は元年(一七一六年)から享保二十一年(一七三六年)であるから、享保七(一七二二)年~享保一三(一七二八)年前後となり、直前で述べた通り、享保七(一七二二)年に限定出来る。
・「御廣舖御小人」底本の鈴木注によれば、大奥広敷(おおおくひろしき)に詰めて、普請その他の雑務に従事する下級役人の称とする。この「広敷」は江戸城の本丸と西丸(にしのまる)との大奥へ出入り際の関門の称で、ここに詰めて、大奥の事務を受け持つ者には、広敷番頭以下番衆、その他に御広敷伊賀者などがあったとある。
・「心にくし」訝(いぶか)しい。気になる。懐妊したまま、出産を見ずに死去した場合のタブーがあって火葬としようとしたものか。古くは特殊な病気による死者や変死者などは火葬にふしていたが、魂を二つ宿した状態での妊婦の死というのは、民俗学的に見ても異常な遺体であり、これを火葬のしようとした意図は分かるような気がする。但し、禅宗について調べてみると某大学名誉教授で理学博士の個人サイト「禅と悟り:その合理的アプローチ」の「第5章 日本の禅とその歴史:
その1」に、通説で日本に最初に禅を紹介した人物とされる飛鳥時代の僧道昭(舒明天皇元(六二九)年~文武天皇四(七〇〇)年)についての記載の中に、道昭は七十二歳で縄床(じょうしょう:縄を張ってつくった粗末な腰掛け。主に禅僧が座禅の際に用いた。)『に端座したまま坐亡したと伝えられ』、『道昭は死に臨み火葬を遺言した。弟子達は粟原寺』(おうばらでら:飛鳥(奈良県桜井市粟原)にあった寺。現在は廃寺。)『で遺体を荼毘に付し粉にして散骨したことが記されている(「続日本紀」卷第一、文武天皇紀に道昭の記事がある)。これは日本初の火葬である。道昭は禅受容の初伝者であるとともに日本で最初に火葬によって葬られた人である。道昭の火葬後火葬は天皇はじめ貴紳の間で急速に普及した』とある(ウィキの「道昭」には、「続日本紀」の記述として、熱心に座禅を行っており、時によっては三日に一度、七日に一度しか座禅を解いて立つことをしなかったとし、『ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、弟子達が驚いて、居間へ行くと、縄床』『に端座したまま息絶えていた。遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、親族と弟子達が争って骨をかき集めようとした。すると不思議なことに、つむじ風が起こって、灰と骨をいずこかへ飛ばしてしまったとされる。従って、骨は残されていない』と逸話を載せる。――この遷化の逸話、禅僧らしくて、とても、いいね――私もそれでいい――)。なお、江戸時代にはまた、浄土真宗が火葬を常式とする一種の死生観改革をしているようで、相当浸透していたらしい。しかし、本話での措置が普通であったか、そうでなかったかは、文脈からは微妙に計り難いが、兄が異議を唱えるところからは一応、禅宗の常式としての火の方を採って訳しておいた。
・「聞し事」不詳。一応、火葬にするという菩提寺(禅宗)の常式に対して、兄なる人物(彼は宗旨が異なるのであろう)が自分の信心する宗派(不詳)の死生観から、肉体が焼かれることへの疑義を持った、と採る。前注参照。
・「※娩」(「※」=「女」+「分」)分娩。
・「觀念」仏教の瞑想法の一つ。精神を集中して仏や浄土の姿・仏教の真理などを心に思い描いて思念すること。
・「此事夜の九ツ時過べからず」誤読していたが、岩波の長谷川氏注の、『午前零時前後以前にこの事は解決する』という注で、目から鱗。
・「夜の五ツ」初更。午後八時前ぐらい(冬至)から午後九時(夏至)頃までの間に相当。
・「淸久寺」底本鈴木氏注では、『三村翁「清久寺、牛込原町一丁目、曹洞宗なり、小夜中山妊婦塚の伝へと相似たり、かゝる話諸国に多し、これもその一なるべし。」いわゆる赤子塚説話』とあり、岩波版も新宿区原町と注するのであるが、調べてみると、もうこの寺はないようである(廃寺か移転かは不詳)。だの氏のブログ「だnow」の「写真供養」の中に撮影日二〇一四年二月二十七日附で『新宿区原町二丁目』『旧清久寺境内』の写真があり、そこには既に寺と思しいものはない。なお、鈴木氏は本話を赤子塚伝承の類型的一話(異界との通路である周縁たる村境にある行路死病人などを葬った塚から赤子の泣き声が聞こえてくると伝えられる塚。死んでも幼児の霊は遠くへは行くことが出来ず、こうした場所にある道祖神の近くにその霊を留めたと信じられ、それが姑獲鳥(うぶめ)などの妖怪譚や亡母が飴を買って墓内で生まれた子を育てるといった怪談などと集合変化して、行倒れの妊婦を葬った塚中で子が出生するという形になったものと考えるのであろう)として、実話としては全く見ていないことが分かる。こういう、細部の検証もしない、けんもほろろの一蹴式の、日本の民俗学のその考え方や処理法が――実は私は――すこぶるつきで嫌いである――と述べておきたい。これだから、日本の民俗学は学問たり得ないのである。
・「勝光院」底本の鈴木注に、『世田谷区世田谷四丁目。曹洞宗』とする。
・「七十三歳にて隱居せり」母の死後に出生したこの男子、大方(だいほう)和尚の隠居は、寛政六(一七九四)年(「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年の十五年前)となる。
・「原田翁」底本の鈴木注に、『種芳(タネカ)。安永七年(四十八歳)家督、廩米二百俵。天明元年小十人頭より御広敷番頭に転ず。根岸鎮衛にくらべれば役職の点ではずっと低いが、年長であるので、大事にしている様子が見える。年齢のみならずこの人の人柄もよかったのであろう』と記されてある。この人物、「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」と「巻之九 痴僧得死榮事」に既に登場している。しかしその前者「奇子を産する事」の内容がちょっと気になるのだ。この爺さん、よっぽどこの手の異常出産譚が好きだったということである。その辺には少し、本話の作話可能性が臭うという気はするのである。但し、後者の「痴僧得死榮事」は私のすこぶる愛する一篇でもあり、これは十全に事実として信じられる話ではある。
・「親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。」この読点(編者によるものと思われる)は問題があるように思われる。これでは「親又四郎」が寛政九年で73歳なのに、その息子が「其頃」76歳ということになって、トンデモない話になってしまう。これを以って本話の詐欺性が実証されているなどと鬼の首を獲るのは、阿呆である。そんな馬鹿にも分かる見え透いた馬鹿を、こんなに細部まで緻密なリアリズムを配することを好んだ人間がやるはずがないからである。そこで私はこれを、一度、句読点のない状態に戻し、
親又四郎寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ其頃大方は七拾六歳の由聞しと也
とし、改めて、
親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ、物語りぬ。其頃、大方は七拾六歳の由、聞しと也。
と、句読点を打ち直して、現代語訳した。意味はお分かり戴けるものと思う。なお、これから推測すると、原田翁がこの話を聴いた時、親の又四郎は、既に九十三を越えていたことにはなるが、これはあり得ぬことではない。それでもトンデモ話として一笑に附したい方は、初めから、「耳嚢」など読まぬがよろしい。――やせ細っておぞましい退屈で下劣な今のこの世の現実に満足されれば、それで、結構――
■やぶちゃん現代語訳
棺桶の中にて出生(しゅっしょう)した子の事
享保の中頃のことである。
御広敷御小人(おひろしきおこびと)を勤めていた星野又四郎という者の妻が、懐妊して出産に臨んだものの、産むことなく亡くなった。
仕方なく柩(ひつぎ)に納め、菩提寺の役僧などを迎えて、禅宗なれば、火葬にして、その後(のち)、母子の遺骨を分けて葬ることとせんと、打ち合わせを成したところが、この妻の兄なる者が、
「……我ら……別に信心しておる宗旨の御座るが……これ、葬りに就き――聞き及んでおること、これ、あり! 火葬は、これ! 無用のことで御座る! 我ら、こちらの菩提寺へと参り、どうあっても火葬にせんとせば、これ、談判致さんと存ずる!――」
と譲らず、すぐ、星野を連れて菩提寺へと至って、和尚へと直談判に及び、
「……火葬に致すとのこと、これ、いっかな、承服出来申さぬ。……哀れなる我が妹なれば……どうか一つ!……そのままに、葬送、これ、成さんことを御願い申し上ぐる!……」
と切(せち)に請うた。
されば、和尚の曰く、
「――分かり申した。――但し、母子ともに一体のままに死しておるということは、これ、二つの魂(こん)の一体となっておって、これをそのままに土に葬ると申すは――引導の障りともなり申す。……されば……我らが――分娩をして――これ――葬ることと――致そうず。――」
と、告げた。
そうして、和尚は、すぐ二人とともに水野の屋敷へ同道した上、柩の前に座すと、しばらく瞑想した後(のち)、
「――この事――夜(よ)の九ツ時を過ぐる前に――成就致す!――」
と、きっぱりと会葬の者らへ告げた。
それより、和尚は低声(ひきごえ)にて経を唱え続けた。
夜(よる)の五ツも過ぎた頃であった。
和尚が突如、
「喝ッツ!――」
と――
――一喝を下した
――それに
――応ずる如(ごと)
――柩に中(うち)より
「……ふぅん……きゃァ……おぎゃァ……おぎゃア! おんぎゃあ!……」
と力強い小児の泣き声が聴こえた。
すぐに柩の蓋を開けてみると、
――元気な男子(おのこ)が出生(しゅっしょう)して盛んに泣き叫んでいた。
ここに和尚の曰く、
「――この子――六歳まで恙のぅ在命(ぞんめい)にてあったれば――必ず――我が弟子と、成すがよい!」
と告げ、父又四郎もその場にて、これを誓った。
その後、この子はすくすくと元気に育ち、盟約に随い、六歳となった折り、かの寺へと送り出し、かの和尚の弟子と相い成った。
この寺と申すは、牛込原町清久寺(せいきゅうじ)という禅寺にて、この時の和尚は大枝(だいし)和尚と称された。
かの童子は、出家して大方(だいほう)と号し、後に武蔵国世田ヶ谷勝光院(しょうこういん)の住持と相い成り、その後、七十三歳にて隠居した。
また、大方(だいほう)の父で亡妻の夫であった又四郎は、その後(のち)、後妻を迎え、男子をまた一人もうけた上、その子に家督を継がせ、同じく又四郎と名乗らせたが、この子又四郎もまた、同じく御広敷下男の頭(かしら)を勤めた。
以上は、この親の方(ほう)の又四郎――大方(だいほう)の父――が、寛政九年の巳年(みどし)の年――その時、御広敷の頭(かしら)を勤めておられたのが、私の知音(ちん)原田翁(当時、七十三歳)で――その原田翁へ、昔語りに参った老又四郎が、直かに物語った話で御座ったと申す。
なお、その折り、
「……その頃、この不思議な出生(しゅっしょう)をなされた息子の大方和尚も、これ、七十六で御健在の由、聞き及んで御座いまする。……」
と、原田翁が付け加えられた。