日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 島原にて
図―589
高橋から島原湾を越して西方には、温泉岳と呼ばれる秀麗な山塊が見える。これ等の火山の頂上は、たいてい雲にかくれているが、時時姿を見せる。図589に示した輪郭図は、割合に正確である。我々を長崎へはこぶ汽船は、島原の島と町とへ一寸寄った。そこへ着いたのは午後五時であったが、日本に於る最も絵画的な場所の一つである。小さな、ゴツゴツした島嶼の間をぬけて航行すると、やがて水際にある町へ着くのである。町のすぐ後に、温泉岳の岩の多い斜面が聳え立っている。我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。たった二時間しか碇泊しない船へ帰る途中、我々は貝をさがし求めたが、土地の人々は我々を、いやそうな、非友誼的な目つきで凝視するのであった。この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所なので、人々の目つき、動作、すべて外夷に対する反感を露出していた。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の推定日程に従うならば、これは明治一二(一八七九)年五月二十九日の夕刻の景である。
「温泉岳」原文“Onsendake”。長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳のことである。広義には普賢岳・国見岳・妙見岳の三峰、野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山の五岳からなる山体の総称で、「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。主峰は普賢岳(標高一三五九メートル)であるが、現在では平成二(一九九〇)年から平成七(一九九五)年にかけての火山活動によって形成された溶岩ドームである平成新山の方が高い(標高一九九六メートル・長崎県最高峰)。但し、実は元の漢字表記は「雲仙」ではなく、「温泉」と表記して「うんぜん」と読んでいた。現在の「雲仙岳」の表記は実はかなり新しく、昭和九(一九三四)年に日本で最初の国立公園に指定された際、「雲仙国立公園」(現在は「雲仙天草国立公園」)として改められており、しかも後の戦後の昭和二七(一九五二)年に、国の特別名勝文化財に指定された際にも「温泉岳」で登録されているから、この「温泉岳」の呼称は我々が思っているよりもずっと長生きなのである。なお、主に参照したウィキの「雲仙岳」によれば、「肥前国風土記」で『「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述が』既にあるとあり、また、雲仙市小浜町雲仙にある大乗院満明寺は行基が大宝元(七〇一)年に開いたと伝えられているが、『この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた』ともある。一九九一年六月三日十六時八分に発生した大火砕流によって報道・消防関係者を中心に死者四十三名という大惨事となったのは記憶に新しい。それでもモースの山体のスケッチは現在の山並みと比して平成新山のドーム形成以外には大きな変化はないように見受けられる。
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「我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。」原文は以下の通り。
We rode through the town a mile and a half to a famous inn and ordered a fine dinner consisting of a large gasteropod, Rapana bezoar, served in its beautiful shell, boiled cuttlefish, fried eel, and rice, — all delicious.
以下、ここに関しては詳細に注を試みる。
・「一マイル」とあるが、原文は「一マイル半」(二・四キロメートル)である。
・「有名な旅館」寄港地が現在の島原港として、そこから上記の距離だと、明らかに島原の島原城周辺と考えてよいのだが、明治十二年に存在した老舗旅館に行き当ることが出来なかった。最早、現存しないのか? 識者の御教授を乞うものである。
・「美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)」“gasteropod”は腹足類(綱は“Gastropoda”)で所謂、巻貝の類を指す。“Rapana
bezoar”はそれを更に説明している学名で原文には訳のような「?」はないから、この「?」は訳者石川氏の疑問と思われる。腹足綱新生腹足上目高腹足(吸腔)目タマキビ下目アクキガイ科 Rapana 属のチリメンボラ
Rapana bezoar であるが、私はモースがここで「美しい貝殻」と述べていることから、高い確率で石川氏がやや自身無げに「?」を附してしまった同じ Rapana 属で本邦では食用貝として知られたアカニシ
Rapana venosa としてよいのではないかと考えている。チリメンボラ Rapana bezoar はアカニシ Rapana venosa と並んで Rapana 属を代表種であり、形状から同種かその変異種と当時のモースが思ったとしてもおかしくないからである。但し、アカニシはチリメンボラよりも遙かに大きくなり、さらにアカニシ(赤螺)という名の通り、殻口内が肉のように見える独特の赤い色に染まっている。殻の大きさ・色・羅塔のすっきりとした形状(殻の結節や色彩には個体変異が著しく、一見、同種とは思えぬ様態を示す個体もある)等々は、凡そチリメンボラとは比べものにならぬほど「美しい」のである。チリメンボラは殻口縁は白色であり、殻表面は螺状脈に多くの縦脈が鰭のように交叉して立ち上がり、縮緬様の皺だらけの形状を示す。個人的に、この二つの貝殻に、料理(ここでモースが食べたのは恐らくは肉を細かく切って煮たもの、所謂、壺焼き状にしたものと私は推測する。アカニシは刺身も美味いが、壺焼きもなかなか美味しい)を盛られて出されたら、どっちの貝殻を「美しい」と表現するか――これはもう絶対にアカニシ――なのである。
・「あげた鰻」“fried eel”。これは高い確率でアナゴの天ぷらの誤認である。島原のお正月の具雑煮(ぐぞうに)には焼きアナゴが欠かせない具なのである。島原温泉観光協会公式サイトの「島原の郷土料理」を参照されたい。
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「この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所」近世史に疎い私であるが、ウィキの「松平忠和」で、肥前島原藩最後の第八代藩主であった松平忠和(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年 江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の実弟)の事蹟を見ると、文久三(一八六三)年には『海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制ではなく、時代遅れの軍制であった。忠和は慶喜の弟だったことから』、元治元(一八六四)年の『第一次長州征討に幕府方として参加』、慶応二(一八六六)年の第二次長州征伐にも参加している。『ところが、忠和の佐幕的な行動は尊王攘夷派である下級武士の不満を招き、一部の過激な尊攘派藩士が脱藩して天誅組の変』(文久三(一八六三)年八月十七日に吉村寅太郎を始めとする尊皇攘夷派浪士の「天誅組」と名乗った一団が公卿中山忠光を主将として大和国で決起、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件)』や、『天狗党の乱』()に参加したりし、遂には慶応元(一八六五)年八月十三日のこと、『伊東虎之助らの過激派が藩の中老・松坂正綱の私邸を襲って松坂を殺し、「激烈組」という尊王攘夷運動を起こすほどの内紛が起こって島原藩は混乱したが、あまりに過熱化した行動は周囲の支持を得られなくなり、やがて沈静化した』とあり、この最後の辺りのことをどこかで耳にしたモースが、ここでかく言ったのであろうか。それ以外にこうした事実があるようであれば、是非、御教授願いたい(なお、松平忠和は後に、東照宮宮司となり、宮内省にも勤めたとある)。]


