日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 欄間
我々は夕闇が近づく迄、調査したり発掘したりしたが、そこで八代へ向い、九時同地着、県知事へ報告した。知事は最も礼儀深い紳士で、如何なる動作も、如何なる行為も、優雅と洗練そのものであった。将軍時代、彼は非常に高い位にいたが、かく魅力のある態度のいずこにも、矯飾らしい点はすこしも見えなかった。彼は一人の商人に向って、我々のために宿泊所をさがすように命令した。助手の話によると、日本人はお客様を特に厚遇しようとする時、このように、彼を公開の家へ送らず、個人の住宅を開放してそこへ迎えることを習慣とするそうである。助手先生、知事に向って、私に関するどんな底知れぬ嘘をついたのかは、聞きもらしたが、多少つかれていた私は、事実ありがたくこの款待を受け入れた。我々が一夜を過した家は大きくて広く、部屋部屋は普通の家に於るより装飾が多く、広くもあった。襖と天井との間の場所には、多分濯漑を目的とするのであろう長い木の水樋を表した、美事な彫刻があった。草、樋の支柱、その他の細部は、美しく出来ていた【*】。
* このランマの写生図は『日本の家庭』に第一四九図として出ている。
[やぶちゃん注:以上の叙述、次の段の冒頭の「翌朝知事は贈物として、高田の茶番を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである」から、何と、熊本県令富岡敬明はここ八代に一緒に来ていることが分かる(発掘には立ち会わず、八代の宿所で合流したものであろう。なお、次の段で富岡は翌日の発掘への同行を希望、以降の叙述を見るに、翌日の発掘は篠突く雨の中で泥まみれになったことが分かるが、何と、そこには富岡も実際に同行していたのである!)。
なお、以下にモースが注した
“Japanese homes and their surroundings”(1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から当該149図と148図(同キャプションを含む)及び当該図に関わる本文の解説箇所を引用しておく(図148を引くのは解説の同一段落内に言及があるためである。この段落全体を引かないとモースの謂わんとするところは伝わらないと判断した)。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる引用であると信ずる。
148図 彫刻を施した欄間。大和の五条村。[やぶちゃん注:上図。]
149図 彫刻を施した欄間。肥後の八代にある。[やぶちゃん注:下図。]
《本文訳引用開始》
大和の五条にある旧家の欄間は、部屋の間幅と同じ長さがある。一四八図はこの欄間の意匠を示したものである。この意匠は菊花を竹格子で支えた作りになっている。菊花と葉の挟間飾りとが、欄間をなす一枚板に、そのいずれの面から見ても同じ丹精をもって彫り刻まれていた。実際に欄間の意匠は、すべてその欄間を挟んだ両側の部屋から眺められるようにできているのである。旧家の場合、欄間が、このような図柄を特徴としていることにしばしば気づいたのであった。肥後八代(やつしろ)のさる旧家で、わたくしはこの種の欄間の非常に優美なものを見た(一四九図)。その欄間は左右二面になっていて、図柄は、一方の面から他方の面へ連続したものであった。それは、股になった木枝や二本の棒を括り合わせたものを支柱にして支えた木樋によって水を引く造作を図柄にした、いかにも素朴なものであった。何かの水生植物の長い葉の葉端が枯れ気味にところどころ傷んでいる様子までも、見事に表現されていた。この図形が彫り刻まれてある板の厚さは一インチ以下であったに違いないが、浮彫のでき栄えは驚嘆に値するものであった。白墨に似た白色の物質を彫刻の隙間に充填(じゅうてん)してあるので、当初は、この図形全体が白色仕上げであったものが、のちに塗りつけ面がすり減ったというような効果を出していた。この家はかなりの旧家で、欄間は名もなき地方の職人の手になるものであった。
《本文訳引用開始》
「矯飾」「きょうしょく」で、うわべを取り繕い飾ること。
「款待」意味も読みも「歓待」に同じい。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 貝塚発掘 ――切に考古学者の見解を乞う! モースが発掘したのは「当尾貝塚」だったのか? それとも「大野貝塚」だったのか?―― | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 富岡敬明より高田焼を贈られる »


