日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本にて
ここで、忘れぬ内に、私は我国で私が逢った智力ある人々の、百人中九十九人までは、月の盈虧(みちかけ)と月蝕とを混同しているという事実を記録せねばならぬ。我々の汽船の船長(英国人)は、私が説明する迄は、この事実に関する何等の概念を持っていず、そしてその話をしている間に気がついたことだが、彼は引力の法則をまるで知らず、我々が大気の圧力に依て地球に押えつけられているものと思っていた。ここに我々の議論を再びくりかえして書く時間はないが、汽船を操縦し、隠れた岩や砂洲のある海岸を承知しつくしていながら、天文学の最も簡単な事実さえも知らぬ英国人の船長がいるのだから驚く。彼は私に向って、恥しそうな様子ではあったが、ダーウィンはアリストートル(彼はこの名と、それからこの名の持主が何世紀か前に生きていたことは、知ってたらしい)の時代の人か、それとも現代の人かと聞いた!
知事のことに話を戻すと、私は彼に我々の仕事の目的を話し、彼は私が三十四マイル南の八代(やつしろ)へ行こうとしているので、役人を一人つけてくれるといった。この時は、もう午後遅かったが、而も我々は熊本市のまわりを廻って、長いこと歩いた。ここでも、鹿児島その他に於ると同様、人々が私を一生懸命見詰る有様によって、外国人が如何に珍しいかが知られた。
[やぶちゃん注:「三十四マイル」五十四・七キロメートル。但し、これはいい加減な距離である。地図上の直線距離で熊本から八代までは三十五キロメートルほど、実測しても四十キロメートルほどしかなく、しかも実際にモースが訪れた熊本県大野村の当尾(とうのお)貝塚(現在の宇城(うき)市松橋(まつばせ)町。後述)は八代より十九キロメートルも手前(南方)であって、熊本や高橋から計測しても二十キロメートルもない。この数値はどう計測してみても不審である。]
その晩知事が派遣した官吏が、我々の旅館へやって来た。非常に愉快な男である。彼はこの上もなく丁寧にお辞儀をした。私は床に膝をつき、私の頭が続け様に畳にさわる迄、何度も何度もお辞儀をすることが、如何にも自然に思われる私自身を、笑わずにはいられなかった。その上私は、息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった。
[やぶちゃん注:「息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった」欧米人というのは、これが出来ない、或は、しない(蕎麦を食べる際のそれに似た、マナーに外れた、いやらしい音であり、挙動であるからか?)のであろうか? ご意見を伺いたいものである。]
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