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2015/01/05

耳嚢 巻之九 稻荷奇談の事

 稻荷奇談の事

 

大久保本村最寄〔又市ケ谷川田ケ窪ともいふ。〕小笠原大膳太夫下屋敷あり。大屋敷なりしが、近年松平越中守と半分相對替(あいたひがへ)ありしが、右屋鋪に目附役を兼、屋鋪守(やしきもり)を勤(つとむ)る鮎川權左衞門と云へるあり。至(いたつ)て律儀に過(すぎ)候位(くら)いの人物にて、山師(やまし)樣(やう)の事抔なす物にあらず。然るに右殘り大膳太夫屋鋪も、外(ほか)と相對替も可致(いたすべき)沙汰有(あり)しに、此程權左衞門夢に一人の老翁枕元に來りて、此屋舗ほかへ替へ候ては、住所(すむところ)等にも差支(さしつかへ)、甚(はなはだ)難儀におよぶ間、何とぞ右の趣申立(まうしたて)、是迄の通致度(とほりいたしたき)旨相賴(あひたのむ)由、右禮には火難病難除(よけ)の守り札(ふだ)あたふべき由を告(つげ)て、かき消して失(うせ)ぬ。ゆめのさめて大きに怪(あやし)み、律儀成(なる)男ゆゑ麻上下(あさがみしも)など着替へて、屋舖内鎭守淸水(しみづ)稻荷へ參詣せし處、拜殿に備(そなへ)一つ御札壹枚ありしゆへ持歸(もちかへ)りて、早速上屋舖へ出て役人へ其事語りけるに、屋舖替(やしきがへ)は止みけるや、其事は不知(しらざれ)ども、右札の事聞(きき)およびて、もらうものありけるゆゑ哉(や)、右寫(うつし)を拵へ、文化五辰年九月廿八日より、右札の寫、望(のぞむ)ものへは附與(つけあたへ)候由。右最寄に住(すむ)人、九月廿九日來りて物語りしけるを、爰に記(しるす)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ前の妖狐譚から連関。相対替えと妖狐譚という組み合わせでは、既に「耳嚢 巻之七 稻荷宮奇異の事」がある。

・「大久保本村」岩波版長谷川氏注には、『西大久保村をいうか。新宿区』とある。

・「市ケ谷川田ケ窪」岩波版長谷川氏注には、現在の『新宿区市谷柳町』とする。

・「小笠原大膳太夫」クレジットにより、豊前小倉藩の第六代藩主で小笠原家宗家第七代小笠原忠固(ただかた 明和七(一七七〇)年~天保一四(一八四三)年)。この人物、小倉藩の衰退に繋がった、「白黒騒動」を起こした藩主として知られる、かなり問題のある御仁である。ウィキの「小笠原忠固」より引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。彼は本来は播磨安志藩主小笠原『長為の長男であったが、生母が側室であったため、長為の正室に男児が生まれると、忠固は次男とされてしまった。しかし寛政六年(一七九四年)、本家の藩主である忠苗の養嗣子となり、文化元年(一八〇四年)七月二十日の養父の隠居により家督を継いだ。文化四年(一八〇七年)には朝鮮通信使の正使の接待、さらに小倉城の火災焼失などによる再建費用などで出費が相次ぎ、藩財政は悪化』した。『このような中で御家騒動が発生する。忠固は決して暗愚だったわけではなかった。むしろそれなりに活動的な大名で、実力もあった。ただし中途半端に実力を備えていたことが災いした。文化八年(一八一一年)、忠固は突然、家老の小笠原出雲を呼び出して、「自分も幕閣となって国政に参与したい」と言い出した。出雲はこれに対して賛成しなかった。もし、小倉藩主ほどの家格で幕政に参与するとなれば、老中くらいの役職に就くことになる。そうなれば、老中になるまでの運動で幕閣に対する出費や運動資金、いわゆる賄賂は莫大なものになるだろう。しかも当時は日本近海に外国船が出没し、幕政も行き詰まっている時期である。だから出雲はあまり幕政に関わらず、むしろ藩政の再建が重要だと考えて反対した。忠固も一時はこの諫言を聞き入れたが、またもや出雲に対して老中になるように運動するように命令を出した。こうなると小笠原一族である出雲は、本家当主の命令に従うしかなかった』。『だが、やはりそのための運動資金は莫大なもので、藩財政は破綻寸前となる。このため、反対派は忠固を老中にしようと運動している出雲を奸臣と見なしてその暗殺を図った。出雲のほうは未遂で終わったが、出雲の腹心が暗殺されてしまった。だが、反対派のほうも必ずしも一枚岩ではなかった。反対派の一部に自分の出世と出雲の手腕を妬む者がいて、この一派がとんでもないことに小倉藩が外国船に備えて造営していた狼煙台を勝手に使用して藩士を扇動したりして、執拗に出雲の暗殺を図ったのである。しかも反対派の一部が藩財政の悪化などからストライキを起こして筑前国黒崎に出奔してしまったのである。このため、反対派は黒崎から「黒」、出雲の一派は小倉城内(城→「白」)ということから、この騒動は白黒騒動と呼ばれている』。『このような一連の騒動が幕府の耳にも入り、そのメスが藩に入ることとなった。出雲は家老罷免の上で失脚。反対派に属していながら己の栄達を謀った一派は処刑、藩主の忠固も百日間の禁固刑となった。忠固の刑が軽かったのは、幕政に参与したいという幕府に対する忠誠心から起こったものであるとして、軽くされたためであ』った。『その後、忠固は年貢増徴などにより藩財政の再建を図ったが、それくらいではもはや賄いきれず、白黒騒動での出費と混乱から借金は十五万両に膨れ上がって藩財政は窮乏化する。そして遂には百姓の窮乏化を見て哀れんだ奉行が、年貢減免を独断で行なった後に切腹するという事件までもが起こった。文政年間には村方騒動も起こった』。『このように混乱続きの藩を再建するため、忠固は土木工事を行ない、倹約令を出しているが効果はなかった』とある。『幕末期に九州でも最有力の譜代大名・小倉藩の衰退は、外様の薩摩藩や長州藩など近隣の諸藩にとっては有利になったと言えるであろう』とも記す。この狐の護符も効かなかった、ということか。なお、底本の鈴木氏注には小笠原『忠徳』とし(不詳。誤記か?)、『豊前小倉城主、十五万石。中屋敷が下谷、下屋敷が市谷にあった。(安永三年武鑑)川田ヶ窪の小笠原家と他三家の屋敷および月桂寺の地を併せて市ケ谷河田町(新宿区河田町)となる』とある。私の尾張屋板江戸切絵図ではこの河田町(偶然であろうが、先の「狐に被欺て漁魚を失ふ事」に出た牛込柳町の南西の極直近である)に小笠原右京大夫の屋敷を見出すことが出来、無関係であろうが(本文に屋敷内の私的な鎮守の稲荷社とする)、その南側の道を隔てた地所に稲荷社がある(これは調べてみると、現在の新宿区余丁町の出世稲荷神社(太田道灌創建とする)である)。また、西に接して「松平伯耆守」「松平伊豆守」の屋敷も続いている(但し、彼らは同族ではあるものの松平定信と直接の関係はないと思われる)。因みに、ここで注しておくと、江戸藩邸は江戸城からの距離や機能により種類があって、上屋敷・中屋敷・下屋敷と区分されていた(以下、参照したウィキの「江戸藩邸」より引いておく)。『上屋敷は大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷である。大名が居住するものは居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、しばしば江戸城に登城する必要があったため、通常は最も江戸城に近い屋敷が上屋敷となった。大名が江戸在府の際はここで政務を取り、大名が帰国した後は江戸留守居役が留守を預かり、幕府や領地との連絡役を務めた』。『上屋敷の構成は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられる。御殿空間は主の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などであり、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成された』。『江戸藩邸の中屋敷は上屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされた。下屋敷と比較した場合、江戸城までの距離は近く、規模は小さいことが多い。中屋敷や下屋敷にも長屋が設けられ、参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住した』。『江戸藩邸の下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際には大名が避難したり、復興までの仮屋敷としても使用された。藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する蔵屋敷として、遊行や散策のために作られた庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった』(他に、年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する蔵屋敷というのを別に持った藩もあり、これは収蔵品を販売するための機能を持つこともあった。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられた。藩によっては下屋敷が蔵屋敷の機能を兼ねることもあった、とある)。

・「松平越中守」元老中松平定信。但し、この時は例の尊号一件(閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件)によって既に失脚(寛政五(一七九三)年七月二十三日に将軍輔佐・老中等御役御免となった)、白河藩の藩政に専念していた。参照したウィキの「松平定信」によれば、『白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が』文化七(一八一〇)年に『実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した』。文化九(一八一二)年三月六日に『家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある』と記す。かの寛政の改革のチャンピオンも、この頃には経済的に厳しかったことが分かる。

・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された(さらに後の文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった。以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、この前者の規制緩和が行われた後である。

・「鮎川權左衞門」不詳。

・「山師」非合法な手段で金儲けを企む者、又は、儲け話を持ちかけては他人を欺く者。

・「淸水(しみづ)稻荷」読みは、現在の東京都内にある同名の神社の読みに一応、従っておいた。

・「備(そなへ)一つ」「供へ」。神前に供えるための、三方(檜の白木で作った折敷(おしき)の三方に刳(く)り形(がた)のついた台に附けたもの。神饌(しんせん)を載せたり、儀式用の台とする。古くは食事の膳に用いた)であろう。

・「文化五辰年九月廿八日」西暦一八〇八年。「九月廿九日來りて物語りしける」という都市伝説としては普通あり得ない、クレジットの明記と翌日即伝聞の非常にリアルな形態を採った妖狐譚で、極めて特異と言える。しかも「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから凡そ十ヶ月ほど前の新鮮な噂話でもある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稲荷社の奇談の事

 

 大久保本村(ほんむら)の最寄り〔または市ヶ谷川田ヶ窪ともいう。〕に小笠原大膳太夫(だいぜんだいふ)忠固(ただかた)殿の下屋敷がある。大きなる屋敷で御座ったが、近年、その半分を松平越中守定信殿と相対替(あいたいが)えされておらるる。

 この屋敷に目附役を兼ね、屋敷守(やしきもり)をも勤めて住もうておった鮎川権左衛門(あゆかわごんざえもん)と申す御仁がある。極めて律儀にして、律儀過ぎると評さるるくらいの人物にして、凡そ、山師(やまし)のような、金儲けのために怪しきことを企てつる如き人体(じんてい)にては、これ、御座ない。

 かの相対替えを致いた大膳太夫殿の御屋敷の残り部分についても、実は、他(ほか)の御仁と、これ、やはり相対替えを更に致さんとする話が御座ったと申す。

 ところが、ある夜(よ)のこと、その権左衛門が夢を見た、と申す。

……一人の老翁が枕元へと来たって、

「……この屋敷……外(ほか)へ替えなさられては……我ら……住まうところなんどにも……これ……大きに差し支え……はなはだ難儀に及ぶによって……何卒……この趣きを御主君へと申し立てて戴き……これまでの通り……致いて下さいまするよう……どうか……相いお頼み申し上ぐるものにて……御座る……」

と深く頭を下げるのであった。

 そうして、

「……その御礼には……火難(かなん)・病難(びょうなん)除けの守り札(ふだ)……これ……差し上げんと……存ずる……」

と告げたかと思うと、ふっと――かき消えて失せた――と思うたら――眼(めえ)が覚めた。

 夢の醒めて大きに怪しみ、律儀なる男にて御座った故、早朝より麻上下(あさがみしも)などに着替え、真っ先に屋敷内の鎮守たる清水(しみづ)稲荷へと参詣致いたところ、拝殿に真新しい三方が一つ置かれており、そこには、これまた墨痕未だ鮮やかなる御札(おふだ)が一枚、載せられて御座った。

 されば、それを持ち帰って、早速、上屋敷へと出向き、主家の上司へ、その事実を語ったと申す。

 まあ――それによって更なる屋敷替えが沙汰止みとなったかどうか、これは、よう、存ぜぬが――ともかくも、この稲荷神(いなりがみ)が直々に齎(もたら)したところの御札のことは、これ、瞬く間に世間に知れ渡って、貰い分けに参る者が、これ、ひきをきらずとか。余りに切望する者の多く御座れば、権左衛門は、この写しを拵えおき、この文化五年辰年九月二十八日より、この札の写しを、卑賤の別なく望む者に分け与え始めた、と。

 この小笠原殿下屋敷の最寄りに住まう知人が、翌九月二十九日に来たって、物語りして御座ったを、そのままここに記すことと致いた。

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