日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 当日の錦江湾ドレッジ
図―568
私は県知事を訪問して私の旅行の目的を話した。すると彼は非常に気持のよい日本人の官吏を一人、私の短い滞在期間中、私の助手としてつけてくれた。彼はまた我々の為に、清潔な、気持のいい宿泊所をさがしてくれた。正午、彼は舟をやとってくれた。裸体(はだか)の舟夫四人は、力強く漕いだばかりでなく、曳網に興味を持ち、曳いた材料から標本を拾い出すことを手伝った。薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある。我々は暗くなる迄網を曳き、沢山いい物を手に入れた。
[やぶちゃん注:「県知事」正しくは県令。当時の鹿児島県令は岩村通俊(天保一一(一八四〇)年~大正四(一九一五)年)であった。岩村は土佐国宿毛(すくも)で土佐藩陪臣岩村英俊長男として生まれた。明治二(一八六九)年に政府に出仕、聴訟司判事・箱館府権判事開拓判官・佐賀県権令・山口地方裁判所長を経て、西南戦争勃発直後の明治一〇(一八七七)年三月に鹿児島県令として赴任した(就任期間は明治一三(一八八〇)年六月まで)。彼は戦後、軍部の了解を得て、敵将西郷隆盛の遺体を鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったとされる。その後は明治一九(一八八六)年の北海道庁初代長官を務め、元老院議官から農商務次官を経て第一次山縣内閣農商務大臣となった。大臣退任後は宮中顧問官・貴族院議員・御料局長・錦鶏間祗候を歴任、朝鮮京釜鉄道会社常務理事となっている(ウィキの「岩村通俊」に拠る)。
「薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある」形状からも典型的な美しく安定した丸木舟(刳り舟)である。私は詳しくないが、南西諸島、特に直近の種子島・屋久島・吐噶喇(とから)列島(総て現在の鹿児島県に所属)・奄美群島の人々の、古くからの通用船舶であり、また恐らくは古代ポリネシアの人々が黒潮に乗って北上して来たおりの造船技術が伝承されているものでもあろうと思われる。いつものモースだったら、そうした直感を覚えたはずなのだが。]
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