耳嚢 巻之九 駕に醉ざる呪の事
駕に醉ざる呪の事
駕籠氣(かごけ)ある者、男女に限らず、道中は勿論、遠方などへ行(ゆく)に甚だこまる事あり。右の愁(うれひ)ある人、駕に乘(のら)んとする前廣(まへびろ)に、盃(さかづき)を男ならば左の袖へ入(いれ)、胸の前を通し右の袖へ出し、扨駕に乘れば醉ふ事なし。女は右の袖へ入、左の袖へ出す事なり。不醉(よはざる)事奇々妙なる由、岡松某もの語りなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。呪(まじな)いシリーズ。プラシーボ効果であるが、盃から酒、酒から酔いが連想されるから、これは類感呪術の一つと思われる。右左はよく分からないが、男女で異なる所を見ると陰陽説と関係するか。左右は異説もあるが、左が「陽」で右が「陰」とするのが一般的であろう。この動きがそうした気の流れをシンボライズするものであるとすれば、駕籠に酔う際の気の動きが、酒に酔う場合のそれと反対でありしかも、それは今度は男女の身体内ではまたまた反対であり、それを矯正する逆ベクトルの気の動きを真似ることで呪術が成立するということではあるまいか? 大方の御批判を俟つ。
・「前廣に」(名詞/形容動詞ナリ活用)前もっておこなうこと及びそのさまをいう。
■やぶちゃん現代語訳
駕籠(かご)に酔わぬ呪(まじな)いの事
駕籠に酔い易き者は、男女に限らず、市中平時の折りは勿論のこと、遠方などへ行くには、これ、はなはだ困ることではある。
この虞れの御座る人は、駕籠に乗らんとする折り、前以って盃(さかづき)を――男ならば、左の袖へ入れ、それから胸の前を通し、さらに右の袖へと出だいて――その後、徐ろに駕籠に乗れば、これ、全く酔うことが、ない。
女の場合は、これ、殆んど同じながら、逆に――盃を右の袖へ入れ、左の袖へと出す――これが、肝要。……
「……いや! まっこと駕籠に酔わざること、これ、奇々妙々で御座いまするぞ!……」
と岡松某(なにがし)と申す御仁が語って御座った。