北條九代記 卷第七 天變地妖御祈禱
○天變地妖御祈禱
去年の夏の比より天變打續きければ、武藏守泰時、深く痛思(いたみおもは)はれて、御祈り(おんいのり)の爲、諸寺の驗者(けんじや)に仰せて、五壇の法、一字金輪(いちじこんりん)、烏瑟差摩(うすさま)明王の祕法をぞ行ぜられける。諸國の國分寺にしては、最勝王經を轉讀すべき由、京都より宣下あり。民部大夫入道行然を奉行として、關東の分國に施行(せぎやう)せらる。「承久兵亂の後、諸國郡郷(ぐんがう)、莊園、新補(しんふ)の地頭等所務の事、まづ諸國の守護人(しゆごにん)は、大犯(だいぼん)三ケ條の外は、過分の沙汰を致すべからず。守護地頭に就きて、領家(りやうけ)の訴訟、是あるの時、六波羅の召(めし)に應ぜざるの由、二ケ度は宥恕(いうじよ)すべし。相觸(あひふるゝ)事三ケ度に及ばゞ、仰付(おほせつ)けらるべし、次に竊盜(せつたう)の事、錢百文より以下の小犯(せうぼん)は、一倍(ばい)を以て償ふべし。百文以上は重科(ぢゆうくわ)なり。この身を搦捕(からめと)りて禁(いまし)むべし。妻子、親類、所從(しよじゆう)の輩(ともがら)、同心せざる者は煩(わづらは)すべからず。本(もと)の如く居住せしむべし。洛中諸社の神事祭禮に於いて、非職凡下(ひしよくぼんげ)の輩、武勇(ぶよう)を好む條、尤(もつとも)停止すべし」となり。又この間、炎旱(えんかん)頻(しきり)にして、疫癘(えきれい)諸國に流行す、是に依て、天下泰平國家豐稔(ほうしん)の爲、鶴ケ岡八幡宮にして、三十口(く)の學僧を以て、大般若經を讀誦せしめ、重(かさね)て十ケ日の問答講(もんだふかう)をぞ修せられける。五月中旬より、南風吹いて、日夜に小休(をやみ)なし。是に依て、由比〔の〕浦鳥居の前に於いて、風伯祭(かぜのかみまつり)行はる。法橋圓爾(ゑんに)、其(その)祭文(さいもん)を書き進ず。關東に、この祭の例(れい)なしといへども、京都に行はれしかば將軍家、御使を以て武蔵守に仰付けられ、大膳〔の〕亮泰貞、奉行す。この效驗(かうけん)にや、六月十七日、南風、漸く靜(しづま)りけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年四月十九日・二十一日、五月十三日・十七日、六月十五日・十六日に基づく。
「去年」寛喜二年。
「夏の比より天變打續きければ」前の三章を参照のこと。
「驗者」個人的には「げんざ」と読みたい。加持祈禱を行い、優れた功徳を齎し、また悪魔退散調伏を修すること出来る、そうした加持祈禱を修する資格を持った僧。
「五壇の法」特に密教で行われる修法の一つで、五大明王(不動明王〔中央〕・降三世(ごうざんぜ)明王〔東方〕・大威徳明王〔南方〕・軍荼利(ぐんだり)明王〔西方〕、及び真言宗では金剛夜叉明王を、天台宗では烏枢沙摩(うすさま)明王(後注参照)を北方に配するのが一般的)を個別に五壇に勧請安置なし、それら総てに国家安泰・兵乱鎮定・現世利益などを祈願する修法。天皇や国家の危機に際して行われる非常に特別な秘法である。「五壇の御修法(みずほう)」「五大尊の御修法」などとも称する。
「一字金輪」既注であるが、再注する。「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。なお、そこでは「きんりん」と読んでいる)。
「烏瑟差摩明王の祕法」烏枢沙摩(うすさま)明王(Ucchuṣma)は、密教における明王の一尊で、「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」などとも表記される。真言・天台・禅・日蓮宗などの諸宗派で信仰され、台密では五大明王の一尊とする。火の神・厠の神として信仰される。参照したウィキの「烏枢沙摩明王」によれば、「大威力烏枢瑟摩明王経」などの『密教経典(金剛乗経典)に説かれ』る神で、『人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた』。『特に有名な功徳としては便所の清めがある。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっている。現在でも曹洞宗寺院の便所(東司)』(「とうず」と読む)『で祀られている』。『また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ(これが「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今に伝わっている)、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた』。また「伝承」の項には、『ある時、インドラ(帝釈天)は仏が糞の臭気に弱いと知り、仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまった。そこに烏枢沙摩が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出してみせた。この功績により烏枢沙摩は厠の守護者とされるようになったという』という強烈な話が載る。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。グーグル画像検索「烏枢沙摩明王」をリンクしておく。
「最勝王經」金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう 梵語: Suvarṇa-prabhāsa Sūtra スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)。「金光明経」とも呼ぶ。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、日本に於いては「法華経」「仁王経(にんのうきょう)」とともに鎮護国家を祈る護国三部経の一つに数えられる(参照したウィキの「金光明経」によれば、古代サンスクリットの原題は「スヴァルナ」(suvarṇa)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意とある)。『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされ』、『日本へは、古くから金光明経(曇無讖訳)』(どんむしん/どんむせん 三八五年~四三三年:中部インド出身の僧で四一二年に五胡十六国の一つで現在の甘粛省にあった北涼(ほくりょう)を訪れ、王の保護のもと、経典の訳業に従事する一方、政治顧問ともなって「北涼の至宝」と仰がれた。彼の行った「大般涅槃経」の翻訳は涅槃宗〔中国仏教の宗派の一つで同経典に立脚し、この世の生きとし生けるものには本来仏陀となる可能性がそなわっている《一切衆生悉有仏性》とする思想を根本義とする〕の濫觴となり、教学に及ぼした影響が大きい。ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)が伝わっていたと思われるが、その後の八世紀頃になって唐代の僧義浄(ぎじょう 六三五年~七一三年)の訳になる「金光明最勝王経」が『伝わり、聖武天皇は金光明最勝王経を写経して全国に配布し』た。また、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された』とある。まさに国分寺はこの経典自体のシンボルでもあったことが窺われる。
「民部大夫入道行然」政所執事にして評定衆の二階堂行盛。
「施行」「吾妻鏡」を見ると、以下の「北條九代記」本文に書かれた内容は、同年四月二十一日(諸国新補地頭の所務に関する達し及び五箇条の得分率法/六波羅への非職狼藉停止と強盗殺人罪及び窃盗罪の処断法)と五月十三日(諸国守護地頭の大犯三箇条の厳守と検非違所の職務の厳正/六波羅に対する訴訟の適正迅速な対応の確認/諸国守護地頭への窃盗・謀叛・強盗(夜討)罪の処断法)に別々に分けて載っているものを一緒くたにしてしまっていることが分かる。
「諸國郡郷、莊園」後掲するように「吾妻鏡」寛喜三 (一二三一) 年四月二十一日の条で、「承久の兵乱の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法を定めらる」と出る。この『郡・郷・庄・保』は行政上のそれぞれの地頭が管理した国衙(こくが)領(平安後期以降、荘園化せずに諸国に置かれた国司の支配下に置かれた国庁の領地。国領。)の構造単位名を示す。大きな「郡」から最小単位の「保」である。
「新補の地頭」新補地頭(しんぽじとう:現行の読みでは「しんぽ」が一般的)。特に承久の乱(一二二一年六月)後の論功行賞によって京方の貴族・武士らの所領三千余ヶ所の土地を吸収、新たに新補率法(後注する)に基づいて補任された地頭職を指す。なお、それ以前の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と称して区別した(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「大犯三ケ條」翌貞永元(一二三二)年の八月十日制定された御成敗式目に於いて成文化されることとなる守護の基本的権限。以下、ウィキの「大犯三箇条」に拠る。『その原型は平安時代に追捕の対象とされ、必要に応じて追捕使・押領使が任命・派遣された重犯(重科)の処断に由来する。鎌倉幕府の守護も元は追捕使・押領使の性格を受け継いでおり、「重犯」のことを「大犯」とも称した。通説としては』、「御成敗式目」第三条本文が例示する三つの守護の有する権限、
大番催促(京の警備)
謀反人の検断
殺害人の検断
を「大犯三箇条」と称したとされている。但し、ウィキには近年の異論が示されており、『特に大番催促については、守護の検断権の対象ではあったものの、「大犯」として取り扱われていた実例が確認できないことを指摘されている。更に「大犯三箇条」の用語そのものが鎌倉時代には存在せず、用語の成立時期を南北朝時代とする説も唱えられるようになった』とあり、『そもそも、夜討強盗山賊海賊の検断を大犯に加える考えは』、「御成敗式目」第三条の承久の乱後に特に付け加へられた「付」に、『既に守護の職権として掲げられているものである。また、「謀叛(人)・殺害(人)・刃傷(人)・夜討・強盗」を「重犯五箇条」とする考え方が鎌倉時代の段階で既に存在していたことが知られて』おり、『更に六波羅探題と守護とのやりとりにおいて、大番催促・謀叛・殺害等の三箇条を指して「関東御下知三ヶ条」と称している事例』『があり、鎌倉時代における上記三箇条については「大犯三箇条」に代わってこの呼称を採用すべきであるとする見解もある』とある。参考までに「御成敗式目」第三条」を以下に示しておく。原文は
Tomokazu Hanafusa 氏のサイト「世界の古典つまみ食い」の「『御成敗式目(貞永式目)』一覧」を漢字の一部や記号・字空きを変更して使用、訓読と注記も一部参考にさせて戴いた(異なる条々のデータも見掛けるが、これを採用させてもらう。リンク先最下部に引用元が明記されてあり、それを見る限り、信頼度は高いと判断した)。
*
第三條
一、諸國守護人奉行事
右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〔付、夜討強盜山賊海賊〕等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役幷謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也。
〇やぶちゃんの書き下し文
第三條
一、諸國守護人奉行の事
右、右大將家の御時、定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人〔付。夜討(ようち)・強盜・賊・海賊。〕等の事なり。而るに、近年に至りて、代官を郡・郷に分補(ぶんぽ)し、公事(くじ)を庄・保に宛(あ)て課(おほ)せ、國司に非ざるに國務を妨げ、地頭に非ざるに地利を貪る所行の企て、甚だ以つて無道なり。そもそも重代の御家人たりと雖も、當時の所帶(しよたい)無き者は、驅け催すこと能はず。兼ねて又、所々の下司(げし)・庄官以下、その名を御家人に假り、國司・領家の下知と對捍(たいかん)すと云々、然るごときの輩は、守護役を勤むべきの由、縱(たと)ひ望み申すと雖も、一切、催(さい)を加ふべからず。早く右大將家御時の例に任せ、大番役幷びに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止(ちやうじ)せしむべし。若し、此の式目に背き、自餘(じよ)の事に相ひ交(かかは)る者、或ひは國司・領家の訴訟により、或ひは地頭土民の愁鬱(しふうつ)に就き、非法の至り、顯然たる者は、所帶の職を改められ、穩便の輩(ともがら)を補(ほ)すべきものなり。又、代官に至つては一人(いちにん)を定むべきなり。
以下、語注を附す。
・「奉行」政務分掌によって担当した公務を執行する、その権限と範囲。
・「大番催促」「大番」は京都の内裏・諸門等の警固役である京都大番役のこと。鎌倉幕府の警固に当たる者は特に鎌倉大番役といった。「催促」は、その役目を御家人に命ずる権限のこと。
・「代官」この文脈では守護の代理の役人を言う。
・「分補」任命の謂いであろうが、この場合は幕府の正式な命を経ずにという条件であることに注意。このような勝手な任命は認めない、代官は公認で一名のみというのが、この条の主旨であるから、「勝手に遣わして」ぐらいで訳すのが無難かと思われる。
・「公事」ここは中世に於いて年貢以外の雑税や賦役を総称する意。
・「庄・保」前述の通り「庄」(荘園)と「保」、国衙領の最下位の単位である「保」とそれに次ぐ「荘」。
・「課(おほ)せ」「課(おほ)す」(サ行下二段活用他動詞)で「負ほす」「科す」等とも漢字表記した。雑税や賦役を割り当てて命じる、の意。
・「国務」国司の支配権、ひいてはそうした全国衙領の支配権の首座にある幕府の権限。
・「地利を貪る」本来の国司や地頭の権限を冒して、不当に地租やそこから生まれる利益を搾取している。
・「御家人」鎌倉幕府将軍直属の家臣として認定された者。本領安堵・新恩給与・官位推挙などの保護を受けたが、御家人役と呼ばれる多くの義務をも負わされた。
・「当時」現在。
・「所帶」所領。開幕以来の御家人の中には所領を売ってしまい、所領や所職を殆んど持たない「無足の御家人」と称する者が増加していた。幕府は御家人領の保護に努めるとともに非御家人への流出(売買・譲渡・質入)を阻止しようとし、早い段階から開幕以後に幕府から受けた新恩所領の売買を禁じていたが、この後の仁治元(一二四〇)年には本領などの私領に対しても非御家人への売買を禁止じ、永仁五(一二九七)年の永仁の徳政令などもこうした御家人領保護政策の一環として考えられてはいるが、それでも御家人領の流出は収まらず、それによって幕府の基盤が脅かされることともなったのであった(ここは主にウィキの「御家人領」に拠った)。
・「駆け催すこと」警備実務や地頭の管理観察権を指すが、ここは主に前記の大番役を担当することと考えてよいであろう。
・「下司」荘園の現地にあって実務を掌った荘官の一種。古く預所(あずかりどころ:平安末期以後の荘園制に於いて、領主に代わって下司・公文(くもん)などといった下級荘官を指揮して年貢徴集や荘園管理にあたった職。遙任国司同様、現地に赴かない。)以上の在地しない荘官などを上司・中司と称したのに対する実務荘官で、多くは武士であった。
・「庄官」荘官。本来は領家(後注参照)や本所・本家(後注参照)の命を受けて、荘園を管理するという役だが、実質的には実際の持ち主と変わらぬ実権を握っており、面倒なことに、こうした者も自ら「領家」と称した。荘園制の当初は上位の領主(上司)らから派遣されていたが、後には在地の武士の内の豪族が任命されるようになった。されば「御家人に假りて」(御家人を自称・詐称して)、そうした越権行為を行使し得たのである。
・「領家」荘園の実質上の支配を行った荘官の上にある名義上の荘園領所有者。荘園の名目上の持ち主。この上にさらに「本所」「本家」と呼ばれる、その上の名目上の持ち主がおり、名目上の主座の支配者となることによって利益の一部を得ていた貴族(公卿である場合が多かった)・寺社などがそれに当たる。このようにこの当時の国衙領は上司・中司・下司の大別の中に、さらに異様に多層的で複雑怪奇な支配構造が存在していた。
・「對捍す」本来は反対するの意であるが、転じて、逆らい拒む・敵対するの意となり、特に中世以後は、国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し、下位の地頭や名主などが反抗して従わないこと、納付命令に背いて滞納することを言う。
・「守護役」守護ではなく、前述の「駆け催すこと」、大番役を担当することを指す。
・「催」採用。
・「右大將家」頼朝。
・「沙汰」権限。
・「停止」差し止めること。
・「自餘」爾余。このほか。そのほか。
・「交(かかは)る」「かる」「かかる」とも読める。関わる。関係する。
・「愁鬱」愁訴。
*
以下、「北條九代記」の本文注に戻る。
「過分の沙汰」余分な取り締まり、過剰な治安処罰といったものを越権行為と戒めているのであるが、実際には以下の訴訟で匂わされているように、暗に、守護職自身やその支配下の地頭らの殆どが行っていた、年貢横領罪を牽制することが目的であったものらしい。
「仰付けらるべし」幕府に直ちに注進せねばならない。
「錢百文」ネット上の情報では、当時の一文は六十円~百五十円相当とある。米一石が約一〇〇〇文(現代の約六万円相当)、一日の職人の労賃が約一〇〇文(現代の約一万円五千円ほど)であった。なお、当時の流通貨幣は宋から輸入した一文銭の渡来銭だけであった。
「一倍」二倍の賠償額。百文以下の窃盗なら被害者に二倍の弁償をさせて処理せよ、流行りの「倍返し」で示談にせよ、というのである。
「妻子親類所從の輩、同心せざる者」窃盗事件の主犯の妻子・親類・配下の者で、共犯として立件出来ない者。
「煩すべからず」処罰対象としてはならない。
「非職」武士以外。武家を「家職」と称した、その対義語。増淵氏の訳は『退官した者』とされるが、採らない。
「凡下」一般の民衆。
「武勇を好む條」祭礼などの際、晴れの場なればと、調子に乗った者らが、乱暴狼藉などの反社会的行動をとったことを指すのであろう。
「豐稔」穀物の豊かな稔り。豊穣。
「三十口」三十人。「口」は人や動物などを数える際の数詞。
「問答講」増淵氏の訳に、『講師と問者とによって経典が説かれるもの』とある。
「由比浦鳥居」かくあるので、現在の一の鳥居に相当するものであるが、位置は同一であったかどうかは不明である。恐らくはもっと八幡宮寄り(下馬四角と現在の一の鳥居の間の中間点辺り)であったと考えられ、しかも拝殿を備えていたことが「吾妻鏡」の他の記述からも分かっている(江戸時代まではこの海に鳥居一番近いそれは「三の鳥居」或いは「大鳥居」と呼称した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の条の私の詳細な注を参照されたい)。
「風伯祭」風神を祀った神事で、風災を鎮め、同時に豊年満作を祈念した祭祀。
「法橋圓爾」誤り。以下に見る通り、「吾妻鏡」には「法橋圓全」とある。これは現在の山口県の湯梨浜町(旧東郷町)出身の御家人、東郷八郎左衛門尉原田良全なる人物の法号で、彼は実に「御成敗式目」の原案執筆者であった(ネット上ではワード文書で彼について詳細な考証をなさった方の論文を読むことが出来る)。注意しなくてはならないのは、円爾(建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)は実在する同時代の僧で、しかも当時、鎌倉におり、以下に引く「吾妻鏡」の寛喜三(一二三一)年五月十七日の条に出るという事実である。ウィキの「円爾」によれば、『駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学』び、十八歳で得度、『上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ(この間が本話の時間である)。嘉禎元(一二三五)年には『宋に渡航して無準師範の法を嗣い』で、仁治二(一二四一)年に帰国、『上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される』とある。
「大膳亮泰貞」既出の陰陽師。
「六月十七日」誤記。後掲するように六月十六日が正しい。
以下、「吾妻鏡」を引用する。まず、寛喜三(一二三一)年四月十九日。
○原文
十九日乙亥。爲祈風雨水旱災難。於諸國々分寺。可轉讀最勝王經之旨。宣旨狀去夜到著。仍今日爲民部大夫入道行然奉行。於政所。關東分國可施行之由有其沙汰。
申刻。相摸四郎朝直室〔武州御女。〕男子平産。
○やぶちゃんの書き下し文
十九日乙亥。風雨水旱の災難を祈らんが爲、諸國の國分寺に於いて、最勝王經を轉讀すべきの旨、宣旨の狀、去ぬる夜、到著す。仍つて今日、民部大夫入道行然を奉行として、政所に於いて、關東分國に施行すべきの由、其の沙汰有り。
申の刻、相摸四郎朝直(ともなを)が室〔武州の御女。〕男子、平産す。
・「關東分國」将軍家(鎌倉殿)が支配した五知行国である武蔵・相摸・越後・伊豆・駿河。
・「申刻」午後四時頃。
・「相摸四郎朝直」北条時房四男であったが、長兄時盛は佐介流北条氏を創し、次兄時村と三兄資時は出家したため、時房の嫡男に位置づけられ、次々と出世した。以下、ウィキの「北条朝直」によれば、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月の伊賀氏の変で光宗が流罪となってしまい、二十一歳で無位無官であった朝直は、嘉禄二(一二二六)年二月、執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるように父母から再三の慫慂を受けたものの、それでも愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けたという(「明月記」二月二十二日の条に載る)。翌月になっても、朝直はなおも叔父である執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、出家の支度まで始めるという騒動となっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、この記載にから、最終的には泰時の娘をもらっている。なお、都の公家にまで届いたこの北条一族の婚姻騒動は「吾妻鏡」には一切記されていない。なお、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた』ものの、寄合衆には遂に任ぜられていないが、これは寧ろ、彼のせめてもの真意を汲まなかった親族らへの反抗の表現であったのかも知れないと私は思う。
・「武州」北条泰時。
・「男子平産」長男北条朝房かと思われる。
次に、同年四月二十一日の条。
○原文
廿一日丁丑。承久兵亂之後諸國郡郷庄保新補地頭所務事。被定五ケ條率法。又被仰遣六波羅條々。先洛中諸社祭日非職輩好武勇事可停止。次強盜殺害人事。於張本者被行斷罪。至與黨者。付鎭西御家人在京輩幷守護人。可下遣。兼又盜犯人中假令錢百文若二百文之程罪科事。如此小過者。以一倍可致其弁。於重科輩者。雖召取其身。至于不同心緣者親類者。不可及致煩費云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿一日丁丑。承久の兵亂の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法(りつぱふ)を定めらる。又、六波羅に仰せ遣はさる條々、先づ洛中の諸社の祭の日、非職(ひしよく)の輩(ともがら)、武勇を好む事を停止(ちやうじ)すべし。次に強盜殺害人の事、張本に於いては斷罪に行はれ、與黨(よたう)に至りては、鎭西の御家人、在京の輩幷びに守護人に付して、下し遣はすべし。兼ねて又、盜犯人の中、假令(けりやう)錢百文若しくは二百文の程の罪科の事、此くのごとき小過(せうくわ)の者は、一倍を以つて其の辨(わきまへ)を致すべし。重科の輩に於いては、其の身を召し取ると雖も、同心せざる緣者・親類に至りては、煩費(はんぴ)を致すに及ぶべからずと云々。
・「五ケ條の率法」新補地頭はこの五箇条から成る「新補率法」と呼ぶ法廷得分率による地頭職を指すと言ってよい。今一つ、「五ケ條」の具体な五条がよく分からないのであるが、ネット上の信頼し得る辞書及び記載を複数並べてみると、概ね以下のような内容であることが分かった(最も参考になったのがこちら)。幕府は承久の乱後に院方の所領凡そ三千箇所を没収、勲功のあった御家人をそこの新たな地頭職に補任したが、この新設の地頭は、任された各地域での得分権(収入権)が一定でなく、荘園領主との間で争いが絶えなかった。そこで幕府は、得分に永く安定した先例がある場合に限っては以前の通りとし、特に先例のない場合は、田畑十一町毎に一町の給田(職務給としての免田。私有田)と一段(反)当たり五升の加徴米(私的に徴収取得することを公的に許可された米〕、所領内に土地の生産性の差の著しい山野(所領内の山手部分)と河海(同川手海手)が併存する場合、それぞれの地域を領家と折半にするという、得分率法をこの新補地頭に適応した。このように幕府から広汎な権益のお墨付きを貰った新補地頭は,旧来の荘園制と荘園自体の様態を大きく変革させ、やがてはこの得分率法をも無視して給田・雑免田・免在家(領民の中の公的に認められた私有分)の収入を増やしていった。後に地頭らは寧ろ逆に荘園領主と好んで紛争を起こしては幕府に訴訟に及ぶようになり、当事者間の取り決めによる和与(解決)を勧めていた幕府は、結果として領主に納入すべき年貢高を地頭に背負わせる地頭請所(じとううけしょ:地頭が年々の豊凶に拘わらず毎年一定額の年貢を請け負って進納する制度。地頭請)を実施させることとなる。これによって荘園領主側では一応、その収入が確保されるようになったものの、現地では地頭の管理経営権の独占化が進み、納入すると取り決めてしまった一定年貢の他の総ての収益を自己の得分とすることが出来るようになり、これによって事実上の支配権を得た地頭の領主化が進み、後代はさらにそれを支配する守護が台頭、室町後期の守護大名へと成長し、それに多くのこうした地頭たちが被官されていくこととなる。
・「断罪」斬首。
・「下し遣はす」鎌倉へ護送する。
・「假令」は通常なら「たとへば~」という仮定条件、特に「たとひ~(ても)」と訓じて逆接の仮定条件を示すことが漢文では圧倒的であるが、その単純仮定「たとへば」から「たとへば~のごとし」を経て、恐らくは「凡そ」の意味に転訛したものと思われ、ここもそれ。
・「煩費」百姓に罪を科すことで、武家や有力者が言いがかりをつけて(この場合は連座処断の脅迫)そうした百姓やその妻子及び下男などを、自身の下人や所従にしたりすることをもいうと、Wallerstein 氏のブログ「我が九条」の「鎌倉幕府「撫民」法を読んでみる1」で判明した。感謝。
次に、同年翌月五月十九日の条。
○原文
十三日戊戌。今日。有被定下條々。先諸國守護人者。大犯三ケ條之外。不可致過分沙汰。檢非違所者。廻寛宥之計。可專乃貢勤之由云々。次同守護地頭。有領家訴訟之時。不應六波羅召之由。依有其聞。二ケ度者可相觸。及三ケ度者。可注申關東之由。先度被仰之處。成優恕之儀。不申之歟。自今以後。無隱容可言上之旨。重可被仰遣。次竊盜事。假令於錢百文已下之小犯者。以一倍。令致辨償。可令安堵其身。至百文以上之重科者。搦取一身。不可煩親類妻子所從。如元可令居住。謀叛夜討等者。不及寛宥之由云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十三日戊戌。今日、定め下さるるの條々、有り。先づ、諸國の守護人は、大犯(だいぼん)三ケ條の外、過分の沙汰を致すべからず。檢非違所(けびゐしよ)は、寛宥(くわんいう)の計ひを廻らし、乃貢(なうぎ)の勤めを專らにすべきの由と云々。
次いで同じく、守護・地頭、領家の訴訟有るの時、六波羅の召しに應ぜざるの由、其の聞え有るに依つて、二ケ度は相ひ觸(さは)るべし、三ケ度に及ばば、關東へ注し申すべきの由、先度、仰せらるるの處、優恕(いうじよ)の儀を成し、之を申さざるか。自今以後は隱容(おんよう)無く言上すべきの旨、重ねて仰せ遣はさるべし。
次に竊盜(せつたう)の事、假令(けりやう)錢百文已下の小犯(しやうぼん)に於いては、一倍を以つて辨償を致さしめ、其の身を安堵せしむべし。百文以上の重科(じゆうか)に至りては、一身を搦(から)め取り、親類・妻子・所從を煩はすべからず。元のごとく居住せしむべし。謀叛(むほん)・夜討(ようち)等は、寛宥(くわんいう)に及ばざるの由と云々。
・「寛宥」寛大な心持ちを以って罪過を許すこと。
・「乃貢」年貢。平安から鎌倉期にかけてはこれを「所当」(しよとう)・「乃貢」(のうぐ)・「土貢」(どこう)などと呼ぶことも多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
・「觸る」軽く注意を促すという意味で私は採った。本「北條九代記」の叙述は、明らかに二度目の呼び出しで出頭したらそちらで言い分を聴いて処置してよいが、それでも出頭しない場合は、という謂いである。実際には私の解釈が実際的な謂いであるように思うのであるが、如何? 「先度、仰せらるるの處、優恕の儀を成し、之を申さざるか」は――以前からそう申し伝えてあるにも拘らず、優恕(同情)して、これを注進してこなかったのか?……万一、後になって組織的な横領が発覚した場合は、それを看過した六波羅も同罪である……よもや、そういう守護地頭への便宜を図るよう、彼らから鼻ぐすりなんどをかがされたりは、しておるまいな?――といった、澄んだ中にきらりと光る執権泰時の眼が私には見えるようだ。
・「隱容」容隠(ようおん)。犯罪者を見逃したり、匿うこと。隠匿。私の前注の謂いが響いてくる。
次ぎに、寛喜三(一二三一)年五月十七日の条。
○原文
十七日壬寅。霽。申尅。武州御不例云々。又此間炎旱渉旬。疾疫滿國。仍爲天下泰平國土豊稔。今日。於鶴岳八幡宮。令供僧已下三十口之僧。讀誦大般若經。又十ケ日之程。可修問答講之由被定仰。
第一日〔講師、三位僧都賴兼。問者、安樂房法眼重慶。〕
第二日〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕
第三日〔講、座心房律師。問、頓覺房律師。〕
第四日〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕
第五日〔講、圓爾房。問、丹後律師。〕
第六日〔講、備後堅者(りつしや)。問、教蓮房。〕
第七日〔講、教蓮房。問、備後堅者。〕
第八日〔講、肥前阿闍梨。問、筑後房。〕
第九日〔講、圓爾房。問、肥前阿闍梨。〕
第十日〔講、安樂房法眼。問、三位僧都。〕
○やぶちゃんの書き下し文
十七日壬寅。霽る。申の尅、武州、御不例と云々。
又、此の間、炎旱(えんかん)、旬に渉り、疾疫、國に滿つ。仍つて、天下泰平・國土豊稔(ほうじん)の爲に、今日、鶴岳八幡宮に於いて、供僧已下三十口の僧をして「大般若經」を讀誦せしむ。又、十ケ日が程、問答講を修すべしの由、定め仰せらる。
第一日 〔講師、三位僧都賴兼。 問者(もんしや)、安樂房法眼重慶。〕
第二日 〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕
第三日 〔講、座心房律師。 問、頓覺房律師。〕
第四日 〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕
第五日 〔講、圓爾房。 問、丹後律師。〕
第六日 〔講、備後堅者。 問、教蓮房。〕
第七日 〔講、教蓮房。 問、備後堅者。〕
第八日 〔講、肥前阿闍梨。 問、筑後房。〕
第九日 〔講、圓爾房。 問、肥前阿闍梨。〕
第十日 〔講、安樂房法眼。 問、三位僧都。〕
・「申尅」午後四時頃。
・「堅者」は、元来はこうした仏法議論の場で質問に答える役目の僧を指すが、それが一種の学僧の高位の地位を指す語としても定式化していた。
ご覧の通り、前の注で示した本物の「圓爾」が四・五・九日と三回も出座しており、内、二度は講の首座である講師である。当時、未だ満十九歳の彼が如何に当時の鎌倉で若き名僧として評価を得ていたかが、よく分かるではないか。青年! 頑張れ!
次に寛喜三(一二三一)年六月十五日の条。
○原文
十五日庚午。晴。戌尅。於由比浦鳥居前。被行風伯祭。前大膳亮泰貞朝臣奉仕之。祭文者法橋圓全奉仰草之。是於關東。雖無其例。自去月中旬比。南風頻吹。日夜不休止。爲彼御祈。武州令申行給之。將軍家御使色部進平内云々。武州御使神山彌三郎義茂也。今年於京都。被行此御祭之由。有其聞。在親朝臣勤行云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十五日庚午。晴る。戌の尅、由比の浦鳥居前に於いて、風伯祭(ふうはくさい)を行はる。前大膳亮泰貞朝臣、之を奉仕す。祭文(さいもん)は、法橋(ほつきやう)圓全(ゑんぜん)、仰せを奉(うけたまは)り、之を草す。是れ、關東に於いて、其の例無しと雖も、去ぬる月中旬の比(ころ)より、南風、頻りに吹き、日夜、休止(やま)ず。彼の御祈りの爲に、武州、之を申し行はせしめ給ふ。將軍家の御使は色部(いろべの)進平内(しんへいない)と云々。
武州の御使は神山彌三郎義茂なり。今年、京都に於いて、此の御祭を行はるるの由、其の聞え有り。在親朝臣、勤行すと云々。
・「戌尅」午後八時頃。このような時間に荒天の中、祭祀を執行するわけであるから、これ、前に記した通り、とても拝殿がなくては出来ないということが分かる。
・「色部進平内」不詳。姓も名も何だか見かけない。不思議な感じがする名である。
・「在親」賀茂在親(貴志正造「全譯 吾妻鏡」の注に拠る)。姓から見ても陰陽師であろう。
最後に、寛喜三(一二三一)年六月十六日の条。
○原文
十六日辛未。霽。今日風靜。去夜風伯祭効驗之由。有其沙汰。泰貞朝臣賜御釼等云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十六日。霽る。今日、風、靜かなり。去ぬる夜、風伯祭の効驗(かうげん)の由、其の沙汰有り。泰貞朝臣、御釼(ぎよけん)等を賜はると云々。]