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2015/01/28

明恵上人夢記 48

48

一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。一人の長高(たけたか)き僧有り。白衣(びやくえ)なる心地す。笠を著(つけ)たり。心に思はく、法然房也(ほふねんぼう)。我が佛事の導師すべし。其の聽聞の爲に來られ、我が房の中に入りて、饗應して二三日を過す。明日の佛事を、使者を以て白(まう)さく。「日來(ひごろ)、佛事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過(よ)ぎ了(をは)んぬ。今夜見參(げんざん)に入らむと欲す。明日は時畢(をは)りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲(た)るべき」由をと云々。

[やぶちゃん注:クレジットがない。大まかな推論は「47」夢の注で示しておいたが、この内容から再度、考証を試みたい。まず私はこの「明日の佛事」に着目する。これは恐らく、夢時間の中の法然来訪滞在の後の漠然とした不特定の「明日の佛事」では――ない――と私は読む。即ち、これは夢を見た日の明恵がその覚醒した翌日(或いはその日)に行われる明恵主宰の何らかの公的な「佛事」であったと私は読むのである。既に述べた通り、承元元(一二〇七)年(建永二年から同年十月二十五日に改元)秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任しており、まさしく遁世僧でありながら、頗る世俗的な国家宗教の只中にあって公的な「佛事」に忙しい日々を送っていたと考えてよい。これもそうした公的「佛事」だったのではないか? さればこそ、公的に追放配流されていた法然が、その公的「佛事」にやってくると約束することこそがあり得ないことであり、それだからこそまた逆に、明恵が夢として書き残したくなるところの、特異点としての夢の夢たる所以を見出し得るといえるのではあるまいか? 法然は承元元年の二月に讃岐国へ配流された(現地ではかなり自由に行動している)が、同年十二月には早くも赦免され、翌建暦元(一二一一)年には京の吉水に戻っている(その後、建暦二(一二一二)年一月二十五日に京の東山大谷で死去するまで京に居た)。そう考えると、現実に法然が赦免されてしまった後では、明恵がかく夢を見た際の彼自身の中での夢としての印象度は著しく減衰すると言ってよい。とすると、この赦免が十二月というのが俄然、私には特別に見えてくるのである。まさに、

 「48」夢は法然が未だ配流中の承元元(一二〇七)年の十一月中の夢

ではなかろうか? そう考えると、「47」夢が「十一月」(既に私は「47」も承元元(一二〇七)年十一月の夢と推測した)であることとも極めて自然に繋がるのである。そうしてしかもこれが「十一月」であることはさらに明恵にとって大きな意味を持って来るではないか! そう、これは実に後に、翌月に法然が赦免され、翌年には法然が都へと復帰することの予知夢とさえなっているという点である。これは実はまさに書き残されるべき特異点の夢だったということになるのである。

 但し、これについては、全く異なった説が河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には記されてある。端的に言えばそこにある説は、少なくともこの「48」と「49」(叙述上のニュアンスからは「47」も含まれる感じはする)夢は、「摧邪輪」が書かれた(建暦二(一二一二)年十一月以後(ということは同年一月二十五日の法然の死後(満七十八歳。明恵より四十歳年上)ということになり、この夢の法然は既に死んでいるということになる説である)というものである。それはそれで非常に説得力がある特に法然死後と考えるとこの「48」の映像の神秘度は逆に著しく光輝を増すからである)もので、私もそれをよく存じてはいるのだが、「47」以降の以上の私の見解は、あくまで私自身が読んだ際の第一印象を大切にして分析した結果であり、それらの学説の影響は受けていない(というか、受けないように意識して独自に考証した)。それが如何なるものであるかは、次の「49」の注で引用して示すことする。

「檜皮屋」檜皮葺(ひわだぶき)。屋根葺の手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を剥いだものを用いた本邦独特の施工方法である。

「法然上人」底本の注には、弟子喜海の「高山寺明恵上人行状」には『紀州より帰洛の途次、独りの老僧の説教によって法然の狭義に触れたとある。明恵は、『摧邪輪』を著わして法然を論難するなど、その教義に対しては厳しい批判を加えている』と「には」とはあるものの、これは頗る不十分な注釈で、以前のべたことを繰り返すなら、明恵は専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年成立)が出た六年後の建暦二(一二一二)年にそれを痛烈に批判する「摧邪輪」を著し(明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによる思われる)、発菩提心の欠落を指弾しているものの、四十も年上の法然という禁欲的な修行を積んだ大先輩の僧に対して明恵は、その生前は実は一貫してその修道心と学才に対し、非常に強い尊敬の念を持っていたことを述べなければ、だめである。前にも述べた通り、「摧邪輪」での法然に対する破戒僧としての誹謗は極めて激烈であるが、それと同時に、かねてより法然に対する「直き心」が明恵にはあった。だからこそ、この夢で法然が「我が佛事の導師」ともなり、「其の聽聞の爲に」わざわざ来たって逗留もするのである。次の「49」の補説で掲げるように、実はこの夢は「摧邪輪」が書かれた後の夢とする説の方が強い。しかしどうだろう? 寧ろ、私はこの夢に於ける法然と明恵の疑似的子弟関係や二人の間にある穏かさは、「摧邪輪」で売僧(まいす)レベルまで引きずり落した後に見た夢と、「選択本願念仏集」さえ未だ読んでおらず、聴こえてくる彼の説く戒律のいかがわしさが気になりながらも、「直き心」を以って一方で依然として修行の人法然を尊敬していた明恵の素直な心が現われていると読む方が、如何にも腑に落ちはしまいか?

「我が佛事の導師すべし」次の「49」に全文を示すが、河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には、ここについて『この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく』とある。

「明日の佛事を、使者を以て白さく」この直前に一度、法然は帰って、時間的なインターバルが入っているものか。

「結構」構成・善美を尽くして物を作ること・計画/企て・準備/用意/支度などの意があるが、ここは最後の意味で採った。

「忩々に」「忩」は、急ぐさま・俄なさま・慌てるさま。

「過(よ)ぎ」は私の読み。

「長高き僧」法然は特に身長が高いとは聞いていない。これも明恵の法然に対する尊崇の念の形象化ともとれる。

「白衣(びやくえ)なる心地す」読みは私のもの。ここの部分、表現が気になる。これは現実の「白衣」とは何か異なった、異様に薄い透明度の高いそれではなかろうか。所謂、ETの衣服のように、地球上の物質で出来ているとは思われない天の羽衣みたようなもの、である。

「明日の佛事」前で述べた通り、この夢を見た日の翌日か或いはその日の実際の公的な(例えば学頭を勤める東大寺の法会或いは公卿武士などの上流階級の私邸での修法など)があったのではなかろうか。即ち、これから実際に行われる仏事の内容や在り方に対するという意味でも、この部分にも予知夢的ニュアンスを私は感ずるのである。

「見參」「げざん」「げんぞう」「けんざん」とも読む。高貴な人や目上の人に拝謁すること・ 目下の者に会うこと/引見(いんけん)/対面、の意の他にも、節会(せちえ)や宴などに伺候した人の名を記して主君に差し出すことをも指すが、ここは対面・検閲の謂いであろう。

『「明日は時畢りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲るべき」由をと云々』この法然の台詞の意味が分からない。「時畢る」の「時」は「斎(とき)」で仏家の正式な一日唯一度の、午前中の正飯の意で採った。以下の、「其の以前は又、忩々爲るべき」の部分は――結局、私(法然)が検分をしても、結局、その準備は、明恵、そなたではまたしても大慌ての杜撰なものとなるに違いない――という意味で採ってみた。強引な力技でしかない。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

48

一、ある夢。

「一つの檜皮葺(ひわだぶ)きの庵がある。

 そこに一人の背の高い僧がおられる。

 すこぶる清澄なる白衣(びゃくえ)――あたかも天の羽衣ででもあるかのようなもの――を召されておらるるように見受けられた。

 笠も被っておられる。

――私は心の中で、

『……これは……かの法然房さまだ! 私の仏事の導師をなさってくれるためにここにおられるのだ!……』

と思った。

 やはりその通りで、法然上人さまは私の説教を聴聞されんがためにわざわざここへ来られたのであった。

 その後(のち)、親しく私の僧房の中へとお入りになられ、私は出来得る限りの誠意を以って饗応をなし、上人さまには、まことゆっくりと二、三日を過して戴いた。

 その後、上人さまは一度、かの檜皮葺きの庵へとお帰りになられたが、さても明日予定されてあるところの仏事について、御使者を以って私に、何と、

――日来(ひごろ)、そなたの仏事の準備は、いつもこれ、すこぶる慌てふためいて大急ぎにて、謂わば、やっつけ仕事で慌ただしゅう終わっておる。――今宵、我ら、そうした趣きをとくと見させてもらおうと存ずる。――明日は斎(とき)が終わったら直ぐに仏事となるはずじゃ。――さて……その以前の用意は、また、これ、……大急ぎの大慌ての杜撰ものとなるのであろうのぅ……

といった由を、この私に、告げられたのであった。……」

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