耳嚢 巻之九 女豪傑の事
女豪傑の事
黑田の奧に勤(つとめ)し女、植木某の妻となりしが、黑田の屋敷にも色々怪有(ある)事あり。廣き住居(すまゐ)なれば古狸の類(たぐい)のなす事ならんと思へば強て恐るゝ事もなし。雨の降りし日、通ふ道に生首などある事あり。怪しきと思はず立(たち)よりぬれば、行方(ゆくゑ)なく失(うせ)ぬるよし、植木が同役咄しける。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。一つ前の霊異怪奇譚と連関。
・「黑田」福岡藩。筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩、藩主黒田氏(初代長政)から黒田藩という俗称もある。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、当代なら蘭癖大名として知られた第十代藩主黒田斉清(なりきよ 寛政七(一七九五)年~嘉永四(一八五一)年)で松平備前守と呼称した。ウィキの「福岡藩」によれば、江戸の藩屋敷は、現在の千代田区霞が関で外務省庁舎の位置に上屋敷があったとあり、鈴木氏の注によると、中屋敷は溜池にあったとあり、ウィキの方には上屋敷の跡は『現在も外務省外周の石垣が残り、藩屋敷の面影が残っている。桜田屋敷と呼ばれ、隣接する芸州浅野家屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされた』。『他に赤坂に中屋敷』(鈴木氏注と同位置)が、『郊外には御鷹屋敷、下屋敷があった』とある。周辺の寂しさからは中屋敷であるが、奥とあり、「廣き住居」として特に示さないところからみると、霞が関の上屋敷であろうか。
■やぶちゃん現代語訳
女の豪傑の事
松平備前守黒田様の奧向きに勤めておった女、植木某(なにがし)殿と申す武士の妻となったが、黒家の屋敷にも、これ、いろいろと怪のある由。その女性(にょしょう)の言。
「……広きお住まいにて御座いますれば、古狸(こり)の類いの成すことであろうと思えば、しいて恐るることも御座いませぬ。……雨の降れる日など、通(かよ)って参る屋敷内(うち)の道の真ん中に、生首などがあることの、これ、御座いました。怪しいこと――と――思わず、その首のあるところへと寄って参りますると――これ――ふっと――行方(ゆくえ)なく、消え失せてしまうので御座いまする。……されば、あまり気に致さぬよう、生首の一つや二つは、これ、素知らぬ風にて過ぎ行くを、常と致いておりました。……」
さても、これ、植木殿が同役が、直談として聴いたと、話して御座ったよ。
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