耳囊 卷之九 不死運奇談の事
不死運奇談の事
文化五辰年七月廿五日、戶塚程ケ谷三浦三崎の邊、高浪大荒(おほあれ)、敗船數艘死人夥(おびただしき)由、虛實は知らざれども、獵船百三十四艘、人も是に準じ、三崎近所二町町谷村といふ所にて漁人一村にて六十七人も死せし由。江戸四日市干肴(ひざかな)問屋市兵衞と申(まうす)者、右難風に逢ひ不思議に歸りし由訴へるものありしが、彼(かの)市兵衞に急度(きつと)なく能く聞來(きききた)れと其筋のものへ申付置(まうしつけおき)しが、九月に至りて右市兵衞に聞(きき)し由にて委細申けるを爰に記しぬ。右市兵衞は、相州湯川(ゆかは)村へ商買物(しやうばいもの)仕入(しいれ)として、右村善左衞門押送(おしおく)りの船湯川へ歸り候に便船(びんせん)して、船主(ふなぬし)善左衞門、水主(かこ)八十七(やそしち)市郞左衞門半左右衞門長七、外に名前不存(ぞんぜず)長七兄(あに)の由一人都(すべて)七人乘組(のりくみ)、七月二十四日出船(しゆつせん)、其夜は浦賀御番所(ごばんしよ)手前に懸り居(ゐ)、翌二十五日朝は雨天の處、四ツ時より晴(はれ)候間乘出(にりいだ)し候處、九ツ時分平塚沖にて俄(にはか)に雲立(くもだち)惡敷(あしく)、風雨烈敷(はげしく)、高波になり、帆を下し候迚(とて)帆柱を取落(とりおと)し押流(おしなが)され、風は次第に募り候ゆゑ、船主(ふなぬし)水主(かこ)申(まうし)候は、此儘にては助命の程難斗(はかりがたし)、善左衞門其外(そのほか)水主(かこ)共(ども)は水泳も心得候間、何樣(いかやう)にもいたし可助(たすかるべ)けれども、御身は其心(こころ)なけれども何卒助け申度(まうしたき)間、船梁(ふなばり)へ取付(とりつき)凌(しのぎ)候はゞ、萬一助り可申(まうすべし)と申(まうす)ゆゑ、單物(ひとへもの)は脫捨(ぬぎすて)帶(おび)にて胴を强く締(しめ)、細引(ほそびき)にて船梁(ふなばり)へ被締付居(しめつけられゐ)候處、甚(はなはだ)風烈敷(はげしく)なり船へ水打込(うちこ)み、少しも重(おもき)品ははね捨(すて)、船頭水主(かこ)は飛込(とびこみ)、船具(ふなぐ)等を持(もち)游(およぎ)候處、市兵衞は船梁に取付(とりつき)、浪にゆられ居(をり)候内(うち)、高浪にて頻りに闇(くら)くなり東西も不分(わかたず)、怖敷存(おそろしくぞんじ)、波打込(うちこみ)候節(せつ)は水を冠(かぶ)り目を塞(ふさぎ)息を詰(つめ)、其間(そのあいだ)には息をつぎ、凡六七度も右の通(とほり)ゆゑ身命(しんみやう)まさに絶(たえ)んとせしに、南風に代(かは)り平塚宿岸の方へ段々打寄(うちよ)せられ、陸へ凡一町餘も可有之哉(これあるべきや)、海端(うみはた)を立𢌞(たちまは)り候人(ひと)も見へ候間、足にて下を搜(さぐ)り候得(さふらえ)ば淺く候間、砂地にて臍の邊迄も水(みづ)有之(これある)ゆゑ、始(はじめ)て活命(くわつめい)の心持(こころもち)に成(なり)、梁(はり)に結付(むすびつけ)し細引を解(とき)、凡(およそ)一間(けん)程も步行(ありき)候虞處、陸より見付(みつけ)、助(たすけ)に參り候もの手を取引上吳(ひきあげくれ)候間岸へ游付(およぎつき)候由。市兵衞船に乘り居(をり)候内(うち)、艫(とも)の方(かた)崩(くづれ)候迄の處、同人上(あが)り候跡にて波にて船も微塵(みぢん)に相成(あひなり)侯由。然れども、最初船へ被結付(むすびつけられ)候節、懷中の金拾貮兩分、貮朱判にて財布に入れ投出(なげだ)し候處、水主(かこ)共(ども)取計(とりはから)ひ、船の内へ結付置(むすびつけおき)候を、船具(ふなぐ)取上(とりあげ)候節取上(とりあげ)、右金子も失不申(うしなひまうさざる)由。乘組(のりくみ)の内、船主(ふなぬし)善左衞門水主(かこ)半左衞門長七幸左衞門は船具に取付(とりつき)游(およぎ)候て、市兵衞より先へ平塚へ上り、八十七市郞左衞門名前不存(ぞんぜぬ)長七兄(あに)都合三人は溺死致(いたし)、八十七は死骸出候得(いでさふらえ)ども外(ほか)兩人は不相知(あひしれざる)由。尤(もつとも)右嵐は凡(およそ)二時(ふたとき)程の内に候由。尤も市兵衞儀も上陸の上(うえ)氣を取失(とりうしな)ひ、彼是(かれこれ)介抱を請(うけ)、兼(かね)ての知人須賀(すか)村平兵衞(へいべゑ)と申(まうし)者より衣類抔借請(かりうけ)、夫(それ)より支配役所手代(てだい)罷出(まかりいで)、吟味を請(うけ)、船中にて祈念(きねん)致(いたし)候ゆゑ、江戶表へ飛脚を以(もつて)委細申越(まうしこし)、大山石尊(おほやませきそん)へ參詣致(いたし)、八月朔日(ついたち)陸路を歸り候由。右市兵衞は廿六才にて、兩親は相果(あひはて)、兄弟六人有之(これあり)、男子五人の内(うち)末子(まつし)にて、妻も相果(あひはて)、獨身(ひとりみ)にて、召使(めしつか)ひ男三人有之(これあり)、干肴物(ひざかなもの)屋にて相應にくらし候者の由。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。貴重な台風による海難事件の実録物である。
・「不死運奇談の事」は「死なざる運、奇談の事」と読む。
・「文化五辰年七月廿五日」文化五年は戊辰(つちのえたつ)で、グレゴリオ暦の一八〇八年九月十五日に当たる。因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、前年の極めてホットな事実記載である(しかも南町奉行であった根岸が直々に調査を命じた、ほぼ公記録に等しいものである)。「武江年表」によれば、この年は異常気象が頻繁に起ったらしく(幻斎氏の「幻斎ブログ」の「記録に見る地震・噴火・気象異変(五)」より正字化・箇条書化して孫引きさせて戴いた。一部の歴史的仮名遣を補正し、読点などや読みを恣意的に補った。下線はやぶちゃん)、
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◯正月九日、十日、大雪、降る。五十年來の雪といふ。所々、松、折れる。
◯二月朔日、大雨・大雷。
◯六月初旬より、雨繁(しげ)く降り、十六日より十八日迄、江戶及び近國、洪水、溢(あふ)る。米穀價、貴(たか)し。
◯閏六月十八日より二十日迄、大雨、降る。再び洪水、溢る。
◯七月二十一日、夜に入り、雷、少し鳴る。暮六時より大雨、盆(ぼん)を傾(たかたむ)くるが如し。
◯七月二十五日、晝九ツ時より南大風・雨、家屋を損じ、怪我人多し。豆州獵船、七十餘艘、覆へる。又、酒船(さかぶね)入津(につしん)絶えて、市中、酒なし。
◯八月に至りて、雨、繁く降り、七日、八日、大雨、江戶諸國、洪水溢る。
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国土交通省近畿地方整備局和歌山河川国道事務所公式サイト内の紀の川の歴史の江戸時代のページに、この日の記事があり、そこには暴風雨が紀伊半島を襲ったことが記されてあり、『紀伊和歌浦等の通船が転覆したので溺死者が多く出た』とある。大型台風かと思われるが、想像を絶する大惨事を引き起こしていることが分かる。
・「二町町谷村」底本の鈴木氏注に、『二町谷村が正しい』とある。これは「ふたまちやむら」と読み、岩波の長谷川氏注に、現在の『三浦市三崎町六合(むつあい)』とする。城ケ島の東直近の宮川湾の北奥一帯の地名である。
・「四日市」岩波の長谷川氏注は『日本橋と江戸橋の間の日本橋川の南岸の地。中央区日本橋一丁目』とし、底本の鈴木氏注も『日本橋の元四日市町』で、その地名の由来とともに、『昔、毎月四の日に市が立つので四日市場村といった処で、後々まで乾魚その他食料品の市があった。明暦大火後、道路を拡張したので霊岸島に代地をし、そこを四日市町と呼び』、残った旧地を「元四日市」と呼んだという記載がある。重宝している人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)では、これを中央区新川一丁目に比定しているが、これはまさに鈴木氏が言った霊岸島の移転先の「四日市町」であって、同定としては完全な誤りである。因みに、この元四日市町の日本橋川の対岸が日本橋魚河岸であった。
・「戸塚」東海道戸塚宿。現在の横浜市戸塚区。
・「程ケ谷」東海道保土ヶ谷宿。現在の横浜市保土ヶ谷区。
・「三浦」現在の三浦半島の広域地名。次の三崎と区別するなら、横須賀市・三崎町を除く三浦市・逗子市・葉山町に相当する。
・「三崎」現在の三浦市三崎町。
・「急度(きつと)なく」この「急度」は、鋭く・厳しくの意の副詞「きと」が促音便化したもので(しばしば見る「屹度」やこの「急度」は当て字である)、ある事柄が確実に正式に厳重に行われるさまをいうので、「きっとなく」で、犯罪の取り調べではなく、また大きな被災直後でその当事者ということをも考慮し、事細かに漏れなく正式に厳しく取り調べよというのではなく、非公式に、しかし細かな部分も可能な限り、よく押さえつつ、取り調べて参れと、南町奉行であった根岸が命じたものであろう。
・「湯川村」不詳。底本の鈴木氏注では『不詳』としつつも、『湯河原か』と記しておられ、市兵衛は海産物の干物問屋であり、買い入れ先としてしっくりくるし、遭難の位置関係からもおかしくない。現代語訳は湯河原で採った。
・「水主(かこ)」「水夫」「水手」などとも書く。「か」は「梶(かじ)」、「こ」は「人」の意で、船を操る人。古くは広く船乗り全般を指したが、江戸時代には下級船員をこう称した。岩波の長谷川氏がこの注でも指摘しておられるが、この乗員の数はちょっとおかしい。①船主「善左衞門」②水主「八十七」③同「市郎左衞門」④同「半左右衞門」⑤同「長七」⑥同(名前不明の)⑤の長七の兄一人で計「七人乘組」とある。市兵衛を含めてこれは「七名」かと納得して読んでいたのであるが、後の文にを見ると、遭難し救助された「水主」の一人に「幸左衞門」という名が出る。実は市兵衛を除くと、この船には全部で七名の船員(船主を含む)が乗り組んでおり、市兵衛を含めると、乗員総数は八名であったと考えられる。現代語訳では幸左衛門を追加して、前後の齟齬を訂することにした。なお、「右衞門」は「うえもん」と読み、起源は律令時代に兵役に就いた者が兵役終了後に、その証として配属先の右衛門府の名を名乗ったことであるとされている。参照したウィキの「右衛門」によれば、時代が下がると武士平民を問わず広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字などを付けた「弥右衛門」「彦右衛門」「四郎右衛門」などとして多用されたたが、一般的に頭に文字を付けた場合は「右衛門」の部分は「~うえもん」ではなく「~えもん」と読む場合が多いらしい、とある。永く不審であったのでここに注しておく。
・「浦賀御番所」幕府が相模国浦賀(現在の横須賀市西浦賀町)に設置した番所(幕府や諸藩が交通の要所などに設置した監視所で必要に応じ、通行人・通航船舶・荷物などの検査や税の徴収を行なった。幕府は主要港・主要河川に設置して物流の出入りを監視した)。江戸湾の出入りする船は総てがここで積載物などの検査を受け、箱根関にも匹敵する重要な関門であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
・「懸り居」碇を下ろして停泊し居り、の意。
・「四ツ時」朝四ツ。不定時法で、この時期(七月二十五日)は午前十時頃に相当。
・「九ツ」昼九ツ。不定時法ながら、年間を通じて正午前後に相当。
・「單物(ひとへもの)」この二字で「ひとへ」と訓じているのかも知れない。下着の服。これも脱いで、褌一つとなったのである。
・「船梁」和船の外板を構成する棚板(和船の外側に張ってある板。船底より順に根棚・中棚・上棚と称する)と棚板との間に多数挿入して船の横圧を支えて船形を保持するための横材。前後の位置によって二番船梁・腰当船梁・床船梁などがあり、上下位置では上船梁・中船梁・下船梁などがある。
・「一町」約一〇九・一メートル。
・「一間」約一・八メートル。
・「艫(とも)」船尾。
・「金拾貮兩分、貮朱判」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化した)、『金拾弐兩弐分、貮朱判』である。これを訳では採った。
・「二時」約四時間。
・「須賀村」現在の相模川河口の平塚市須賀。
・「支配役所手代」岩波版の長谷川氏注に『平塚は幕府領。中原陣屋の代官の属僚』とある。ネットの2ちゃんねるの記載によると(「2ちゃんねる」も侮れない)、平塚地域内の各村は江戸の初期には概ね天領(一部は小田原藩領)だったが、元禄期頃までには殆んどが旗本の知行地に分割されていったらしい(一部は六浦藩・小田原藩、遠く佐倉藩領の飛地などもあった)。これは江戸幕府は江戸近郊に大名を置かないという政策の一端で、しかも一つの村を数人の旗本領に分割、旗本が在地に勢力を張れないようにしていた、とある。「平塚市博物館」公式サイトの「ひらつか歴史紀行 第44回 近世平塚の領主 その1(近世初頭の領主)」によると、『家康の江戸入り後の相模国の領主』では、『最も多いのが徳川氏直轄領で、次に藩領、そして旗本領と続』くとあり、これを『郡別にみると藩領は足柄上下郡のみで、これは領国境の押さえとして配された大久保氏の小田原藩領です。また、旗本領は戦に備え江戸から』十里(約四十キロメートル)前後の近郊に配置され、『高座郡など東部に多く』、『直轄領は足柄上下郡以外の諸郡に広く分布』、『なかでも平塚市域を含む大住郡はその中心といえ』るとある。そして『これら直轄領は当初、彦坂元正・伊奈忠次ら代官頭によって広域的に支配され』たが、慶長一五(一六一〇)年に伊奈忠次が死去すると、『相模国中郡(淘綾・大住・愛甲郡)は、中原陣屋を拠点とする中原代官によって支配されるようになり』、『中原代官は一村を複数の代官によって管轄する「相代官」制という特長的な支配を行』ったとある。『この中原代官の出自は、大きく二つの系統に分けられ』、『一つが家康の関東入り以前から家康の地方巧者(民政にたけた者)として登用さていれた系統の者。もう一つが関東入り以降、小田原北条氏の旧臣から登用された系統の者で』、『徳川譜代の代官に加え、在地の事情に詳しい小田原北条氏旧臣も加えた中原代官の支配方式には、代官頭消滅後の徳川氏の在地支配を地域の事情に即して強化しようとするねらいがうかがえ』ると記す。
・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利(おおやまあふり)神社。大山詣でで知られるようにここは江戸庶民の深い崇敬を受けていた。
・「八月朔日」文化五年の七月は小の月であるから、遭難救助されたのが七月二十五日とすると、江戸に帰着する八月一日までは、救助されてから五日間ある。大山詣でも決して不審ではない。
■やぶちゃん現代語訳
命運によって死んずに済んだ者の奇談の事
文化五辰年(たつどし)七月二十五日のことである。
戸塚・保土ヶ谷・三浦・三崎の辺り、高波が押し寄せ、海が大荒れとなって、数艘の船が難破し、夥しい数の死者が出たと伝える。
正確かどうかは確認出来ていないが、難破した船は総計百三十四艘に及び、人もこの数に準ずるという甚大なもので、三崎近隣の二町谷(ふたまちや)村という所に於いては、漁師がここ一村だけで六十七人も亡くなったと聴く。
さて、江戸四日市町(よっかいちちょう)にある海産物干物問屋の市兵衛(いちべえ)と申す者は、この未曾有(みぞう)の嵐に遇いながら、不思議に無事に帰って参ったによって、よくよくその不可思議をお調べあれかしと、上申する者がこれあったがため、取り敢えず、この当事者たる市兵衛に対し、非公式乍ら、しっかりとした聴取を成しおくよう、その筋の者に申し付けおいたのであるが、やっと同年九月に至って、かの市兵衛の聴取を終えたという報告があった。されば、その委細を聴き及ぶことも出来たによって、ここにその事実を記しおくこととする。
一、市兵衛が儀及び乗船の経緯
○この市兵衛は、相模国の湯河原村へ商売の海産干物を仕入れんとして、かの村の善左衛門(ぜんざえもん)が江戸へ種々の荷を回漕して参ったところの船の、湯河原へ帰船するというを聴き、それ便乗した。
一、乗組員
・船主(ふなぬし) 善左衛門(ぜんざえもん)
・水主(かこ) 八十七(やそしち)
・同じく 市郎左衛門(いちろうざえもん)
・同じく 半左右衛門(はんざえもん)
・同じく 長七
・同じく 幸右衛門(こうえもん)
・同じく 氏名不詳の先の長七の兄と称する人物
計、水主(かこ)七名及び市兵衛、総計八名が乗っていた。
一、経過と遭難
○七月二十四日
・出船(しゅっせん)し、その夜は浦賀御番所手前に停泊した。
○七月二十五日
・朝、雨天にて出船を控えていたが、四ツ時より晴れたために、出帆した。
・ところが、二時間ほど経った(三崎を越えて相模灘に既に出てかなり航行した後であった)九ツ時分(既に船は、その時、平塚沖にあった)、俄かに黒雲の湧き起って、頗る天候が悪化し、加えて風雨も烈しくなり、波も尋常ならざる高波となった。
・そこで、帆を下ろそうとしたが、下ろす前に帆柱が風に吹き折られ、そのまま海上に押し流されてしまった。
・その後、ますます風が激しくなってきたため、船主(ふなぬし)や水主(かこ)らが市兵衛に、
「このままにては、命の助かること、これ、極めて有り難きこと。我ら(善左衛門のこと)や、その外の水主(かこ)どもは水練も心得て御座るによって、最悪の事態となっても、助かる見込みはあろうと存ずる。しかれども、貴殿は水練の心得もない――ないが――しかし、何としてもお助け申し上げとう存ずる。されば、一つ、船梁(ふなばり)へ取りついて、この暴風雨を凌ぎなすったならば、失礼乍ら、万が一にも助かるやも知れませぬ――」
と告げたと申す。
・されば、市兵衛は下着をも一切脱ぎ捨て、褌一丁となったを、水主(かこ)の一人が、彼の帯を以って彼の胴を強く縛りつけ、それに漁具の細引(ほそびき)を以って結わえ、船梁(ふなばり)へときつく、これも、締め結びつけて座らせた。
・それの直後から、直ぐにまた、風が烈しくなって、船中へと海水が打ちなだれる如く、多量に流れ込んできた。
・水主(かこ)らは、船を沈ませぬよう、少しでも重い物は、これを摑んでは海へと、幾つも放ち捨てた。
・その後、船主(ふなぬし)及び水主(かこ)八名は、一斉に海へと飛び込み、予め放ちおいて海上に浮かしておいたる船具(ふなぐ)なんどに取り付き、それに身を任せて泳いでいた。
・市兵衛はというと、船梁にしがみつき、激しい波にぐるぐると揺られ続けた。
・恐ろしき高波が続き、あっという間に辺りも暗くなって、最早、西も東も分からぬ状態となった。
・市兵衛は殆んど恐怖の限界に達していた。
・波の激しく打ち込んでくる折りには、海水を頭から何度もかぶり、その時にはただ、固く目を塞いで、息を詰め、窒息せんかと思うぎりぎりに息をついだ。
・こうした呼吸の困難な、死ぬような思いを、これ、凡そ六、七度も繰り返した。
・されば、市兵衛は、かかる状況下、
『――最早――我が身命(しんみょう)絶えんか!』
と思いもし、実際にそうなりかかった(後にこの時、市兵衛は大山石尊を心に念じたと語っている)。
・ところが、ふっと南風(はえ)に代わって、沈みかけた船は平塚宿の海岸の方(かた)へと、これ、だんだんに打ち寄せられるのが市兵衛にも分かった。
・市兵衛がふと心づいて見遙かすと、陸(りく)へはたかだか一町あまりしか、これ、なかろうかと覚えた。
・しかも、闇の中、海岸端(ぱた)を往ったり来たりしている人の燈火(ともしび)さえも見えたによって、殆んど沈みかけて御座った船端から、恐る恐る、足だけを下ろして、海中を探ってみたところ、これ、意想外に浅いことが判明した。
・そこはもう遠浅の砂地であって、臍(へそ)の辺りの深さに過ぎぬことも分かったによって、市兵衛は、ここで初めて、生き返ったような心持ちとなり、船梁に結ひつけてあった細引を解き、凡そ一間(けん)ばかりも海を歩いたところが、即座に陸よりその姿を見つけて助けに参った者が、市兵衛の手をしっかりと取って引き、そのまま、浜辺の方へと連れて引き上げて呉れたによって、岸へと泳ぎつくことが出来たという。
・市兵衛が乗っていたその船は、その折りには、既に、艫(とも)の方(かた)がさんざんに崩れかけていたが、同人が陸(おか)上がったその直後、一際(ひときわ)、大きなる波が打ち寄せ来たって、船は木端微塵となったという。
・それでも、市兵衛が最初に船の船梁へ結びつけられた折り、懐中の金子――十二両二分及び二朱判――があったが、これを一つ財布に入れ、船中に投げ出してそのままにして御座ったものを、たまたま見かけた水主(かこ)が彼の金子と合点し、船の内の船具(ふなぐ)の一つへとしっかりと結びつけおいた。それを、やはり海に飛び込んだる水主(かこ)の一人が、その結わえつけたる船具に取りついたままに、先に救助され、しかもその船具をも手放さずに御座ったによって、市兵衛は、何と、その金子も一銭も失うことなく、最終的には彼の手に全額が戻されたと申す。
一、事後
○乗組員の内、船主(ふなぬし)善左衞門、水主(かこ)の半左衞門・長七・幸左衞門三名計四名は船具(ふなぐ)に取りつて海岸へと泳ぎ着き、市兵衛よりも先に、平塚の海岸に上がって救助されていた。
○八十七・市郎左衞門及び氏名不詳の長七の兄の都合三名は溺死した。八十七は死骸が浮かんだものの、外(ほか)両人の遺体は結局、上がらなかったという。
○尤も、この台風、凡そ二時(ふたとき)ほどの短い間(ま)の通過であったという。
○尤も、市兵衛も、陸に上がった当初は、その場で失神し、かれこれ、介抱を受けた上で息を吹き返したとのことで、兼ねての知人で須賀(すか)村におったる平兵衛(へいべえ)と申す者より、着衣等(とう)を借り受け、それより、支配役所の手代(てだい)が急遽、彼の元へと派遣されたによって、今回の海難事故についての吟味を受けたという。
○市兵衛からは、江戸表の右市兵衛所有の店と実家へ向け、特に飛脚を以って、本件につき、委細を知らするところの通知を成さしめ、また、難破せる船中に於いて、頻りに命乞いの祈念を致いたとの願い出によって、命を救うて呉れたと信ずる大山石尊(おおやませきそん)へと、まずは参詣なした上、神前に命拾いの謝礼を成し、その後、八月朔日(ついたち)、陸路を経て、江戸表へ帰着なしたる由。
一、その他附記
○この市兵衛なる者は二十六才にして、両親はすでに世に亡く、兄弟は六人、これあり、男子五人の内の末子(まっし)にして、若いながら妻も既に相い果てており、独身(ひとりみ)にして、店(たな)には召し使う男、三人、これ、ある由。干物屋にして、相応の暮しを致いておる者とのことである。
依って件(くだん)の如し。
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