澄江堂遺珠 佐藤春夫 はしがき
[やぶちゃん注:以下、佐藤春夫「はしがき」本文。改頁で左頁から始まる(右頁は全くの白紙で挿絵もない)。なお、ここ以降では必要のない限り、改頁の注は附さない。]
岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるものにして、故人の遺志を體して完成を重んずる精神を飽くまでも尊重せる細心の用意をもつてなされたもの、出來得る限り多數の採錄を努められたるも、その嚴密なる用意の結果は却つて多少の遺漏を生じてそこに逸せられたものも尠くない。これを惜んで先年、遺友の間に故人の三周忌記念として散佚せる詩篇を集成して更に一卷の詩集を得ばやとの議起り、その材料を蒐集し得て業を予に託された。予が性質の疎懶と身邊の多事とは荏苒今日に及んでも未だその任を果し得ない。この責任のもとより予にあるはこれを否定すべくもないが、敢て他に理由を求むれば、業の至難を擧げて遁辭とすることも出來るであらう。遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐるが、第一號は四六版形で單行本の製本見本かとも見るべきを用ひ、これには作者が自ら完作としたかと思へるものを一頁に一章づつ丹念に淨寫してある。恐らく作者は逐次會心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる。他の二册第二號第三號に至つては第一號とは全然その趣を異にしてゐて、外形も俗にいふ大學ノートなる洋罫紙のノートブツクで全く腹稿の備忘とも見るべきものが感興のまま不用意に記入されてゐるので逐次推敲變化の痕明らかで、一字も苟もせざる作者が心血の淋漓たるもの一目歷然たるに、その間また折にふれては詩作とは表面上何の關聯もなき斷片的感想や筆のすさびの戲畫などさへも記入されて、作者が心理的推移や感興の程度などを窺ふには實に珍重至極な絶好の資料であるが、それならばこそ一層取捨整理に迷ふ點が尠少ではない。既に作者自身がこれを爲し得なかつたとさへ見るべきだからである。堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄しながら、第二號及び第三號よりは完作の趣を具へたるに近きものを僅に數篇しか抄出せず他の大部分はこれを逸したのは故無きに非ずと首肯されるのであつた。予も亦、これが選擇整理の方針に迷ふのあまり、時には寧ろ作者の意を體してこれを世に示すを斷念して然る可きかとさへ思ふのであつたがかくては永久にこれを世に問ふの機を失ふを思うては割愛に忍びざるの意も亦禁じ得なかつた。かくてこれを通讀玩味すること數次、その結果、頃日予は一つの整理方針の端緒を發見し得た。即ちこの二册の未定稿册子は内容的に見てほぼ三部分に分ち得ることに氣づいたからである。即ち、稿本には作者が最も會心切實としたらしい二三行の句があつてこの二三行をいかに活用すべきかに就いて作者が執拗な努力を示し、爲に一册子の大半を費して尚これを決定せざる箇所が二箇所ほどある。予はこの二三行を中心としてこの二箇所を探究してみることによつてこの部分はほぼ解決するだらうと看取したのである。この二箇所の外にもう一つは故人が支那旅行中のつれづれを慰めんとしてその間の口吟をしるし留めたと思へる部分が一種の自然的關絡によつて統一されてゐるのを見出したのである。この最後のものには、ところどころに「思ふはとほき人の上」の句を反復して用ひ、これを用ひざるものにも自らにしてこの情懷を帶びでゐるのを見るのである。これらのもの約十章は蓋し「支那游記」中にその適切なるを個所を得てこれを篏鏤することによつて最も光彩を放つべきを予は信じて疑はないのであるが、終にその所を得ざるはこれを如何とも爲すべからざるを徒らに歎ぜざるを得ない。換音すれば予はこの結ぼれ縺れた一縷の絲束をそのむすぼれの大きな部分に從つて、思ひ切つて三つに切斷することを敢てした上で、徐ろにむすぼれを解かんと試みるのである。たとひ完全な一條を得ること能はずとするも、これによつて價値多き部分を棄却し去らずにすませることが出來たら幸甚だと考へたからである。或は暴擧との辭を得んことを惧れるけれども、予としてはこれでも愼重な考慮の末の最上のものと信ぜられる唯一の方法であつたのである。予は決然としてこの方法を斷行する。かくてこれらの三部分のうち容易なるものからこれを始めて完了せんことを期するのであるが、その第一部は「思ふはとほき人の上」を主題とする支那游記詩章で手帳第二號より抄出したものである。予は予の見て最も自然とする順序に從つて以下の如くこれを排列したが、この一章は依て以てありし日の多恨なる一游子の面影を多少とも髣髴せしむるの一助たり得たならば乃ち予の能事は足るとして今は專らこれを旨とした。作者が感興の推移或は推敲の痕を索ぬるは別に期する所があるからである。予は故人が或は一應予のおせつかいを咎めるかを惧れるが、結局はその友情がこれを宥すことを信ずるが故に敢てこれを整理しで予が編輯する本誌上に發表するのである。これを緒言として逐次整理し得るに從つてこれを完了し以て澄江堂新詩集一卷を世に送り、併せて故人が晩年の消息を明かにしてその傳記の最後の一頁を得んことを期するものであるが、江湖の諸君子乞ふ幸に故人の靈とともに予が衷情を諒として、予を目して亡友の遺稿を私するものとせざらん事を切に希望すと云爾。
故人が第四周忌の前四日の夜、
夜木山房に於て編者記す。
[やぶちゃん注:以上九頁分の佐藤春夫の序。気になる語などを注しておく(若い読者を意識して注したため、一部は言わずもがなとお感じになられるかと思うものも敢えて入れてある)。
・『岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるもの』冒頭に注したが、再掲しておく。昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」のパートを指す。
・「三周忌」芥川龍之介は昭和二(一九二七)年七月二十四日に自死したから、昭和五(一九三〇)年七月に相当する。
・「疎懶」「そらん」と読む。無精なこと、怠けるさま。
・「荏苒」「じんぜん」と読む。なすことのないままに歳月が無駄に過ぎるさま。また、物事が延び延びになること。「荏」は柔らかである。力が抜けていてだらしない。じわじわとしているさまを指し、「苒」はその「荏」の持つ「じわじわ」感を示すための擬態語的添辞らしい。
・「遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐる」岩波版新全集第二十三巻(一九九八年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の「後記」(海老井栄次・岩割透共著)によれば、この原「澄江堂遺珠」の内、佐藤が「第一號」と呼称しているノートは現在、所在不明である。しかし、『元版全集別冊に紹介されている「詩歌」のうちの「拾遺」、及び普及版全集第九巻の「詩」に紹介されている「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、元版全集以後、岩波書店から刊行されているいずれの全集においても一貫して配列は変わっていない』(ここに示された詩は総て私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい)とし、以下その元版全集月報の第八号に記された「編輯者のノオト」から次の部分を引用している。『「心境」以下の今樣風の詩は全部、一つの帳面に淸書されてあつたものである。それらは大正十年頃の作品のやうに思はれる』(原本を持たないので引用元の表記を恣意的に正字化して示した)。これに続けて、『こうしたことを考慮すれば、「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、この「第一号」のノートに記されていたものに基づいている、と推測される』とあるのである。則ち、原「澄江堂遺珠」を探ろうとする我々は、原「澄江堂遺珠」には現在は失われてしまって最早見ることが出来ないと思われる、この幻の「第一號」ノートが存在したという重大にして深刻な事実に直面することになるのである。なお、同「後記」にはこの「第二號」及び「第三號」に該当すると思われる山梨県立文学館蔵のノートについての記述があり、「第二號」(「後記」では一九九三年刊山梨県立文学館刊の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート1」と称している)は『左開きノートで「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されているのは計三四頁、白紙の箇所は計六八頁で、黒インク、墨で記されている』とあり、「第三號」(「後記」では同前「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート2」と称している)『右開きのノートで、同じく「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されている箇所は計六一頁、白紙の箇所は一頁であり、黒インクで記されている』とある。同後記はこれらの現存物から、
●現在我々が読む佐藤春夫纂輯に成るこの「澄江堂遺珠」は、佐藤が「第二號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート1」と称するもの)から主に採録されたものと推定
されるとし、
●旧全集「未定詩稿」(その総ては私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい。この「未定稿」だけの単独ファイルも私のサイトで近日公開する予定である)の方は、佐藤が「第三號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート2」と称するもの)から主に採録されたものと推定
されるとする。なお、これらの『事情を踏まえ』て新たに編集されたものが、岩波版新全集題二十三巻に載る『「澄江堂遺珠」関連資料』という驚くべき労作である(これも私のサイトで近日独自の編集を加えて公開する予定である)。「後記」には、この佐藤の「澄江堂遺珠」及び堀辰雄編になる『「未定稿」の源泉資料の全貌を示すべく、忠実に活字に再現し、「未定稿」は前回全集を底本として、その後に配した』とある。確かに佐藤はここで『堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄し』ていると述べているから、この新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』は『「未定稿」の源泉資料の全貌』であるとは、まずは『推測』してよいとは『思われる』。以上の二語は同「後記」の中でそれぞれに二回も用いられている。確かに『示すべく』と「べく」が用いられてはあるが、私は文学研究も厳密に科学的でなくてはならないと考えている。「第一號」ノートを既に我々が失ってしまっている以上、私はこれを『源泉資料の全貌』と称して無条件に遥拝することは微妙に留保したい気がするのである。そもそも今回、私は上記の通り、『「澄江堂遺珠」関連資料』に存在しないことになっている抹消箇所を装幀の貼り交ぜ自筆稿の中に複数発見しているからである。
・「四六版」一二七×一八八ミリメートル。新書判(一〇三×一八二)よりも大きく、教科書や文芸雑誌類等のA5判(一四八×二一〇)よりも小さい(印刷会社の正確なデータに拠った)。
・「意嚮」「いかう(いこう)」と読む。意向に同じい。
・「淋漓たる」水・血・汗などの溢れ滴るさま。
・「尠少」「せんせう(せんしょう)」と読み、非常に少ないさまをいう。鮮少。
・「頃日」「きやうじつ(きょうじつ)/けじつ」と読み、この頃。近頃。
・「關絡」関係性と連絡通底性の意であろうが、漢方の経絡関連の記載には見かけるものの、日常的には見馴れない漢語である。
・「篏鏤」「かんる」又は「かんろう」と読むか。「篏」ははめる・はまる・穴の意(「嵌」と同義であろう)、「鏤」は「ちりばめる」であるから、金銀・宝石などを一面に散らすように嵌め込む、また比喩的に文章のところどころに美しい言葉などを交えるの謂いである。されば適切な位置に美しく調和的に象嵌するの謂いである。
・「縺れた」「もつれた」と読む。
・「能事」「のうじ」と読む。なすべき事柄。
・「索ぬる」これは「索(もと)める」の誤植ではなかろうか? それとも「たづぬる」と読んでいるか? 識者の御教授を乞う。
・「宥す」「ゆるす」と読む。許す。
・「本誌上」冒頭に注した雑誌『古東多万』(やぽんな書房・佐藤春夫編)。昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された同誌の第一年第一号から第三号に本作は初出掲載された。さすれば、この「はしがき」は本単行本のためではなく、初出の恐らくは『古東多万』第一年第一号に掲載されたものをほぼそのまま載せたものと考え得る。
・「私する」「わたくしする」と読む。
・「云爾」「いふのみ」と読む。
・「故人が第四周忌の前四日の夜」昭和二年七月二十四日が芥川龍之介自死の日附であるから、これは昭和六(一九三一)年七月二十日の夜である。
・「夜木山房」「夜木」の読みも含め不詳。佐藤春夫の書斎の号のように思われるが、情報がない。識者の御教授を乞うものである。]