耳嚢 巻之九 奇頭の事
奇頭の事
文化六巳年、山本某語りけるは、五年以前丑年四月中、松本領中房川、大雨にて崩れけるにひとつのしやれかふべ出けるを、信州山家組荒井村安左衞門所持せるよしにて、東都へ持來(もちきた)りけるを山本見たりとて、其形をも妻にかき見せける。
按ズルニ蛇頭ナラン、又曰(いはく)
狒猅(ひひ)の類(たぐ)ヒナランカ、
何レモ其説不詳(つまびらかならず)。
同年同役、北廰へ市中より右に類(るい)し候大頭(だいとう)もち參り候由。然る處、右は下腮(したあご)もありて齒は魚(うを)のはのごとし。うたがふらくは、拵(こしら)へしものならんかと、土州(どしふ)物語なりし故、同物ならんかと考へしが、一方は下腮なし、其外同物とも不相聞(あひきこえず)候。
□やぶちゃん注
○前項連関:よきライバル北町奉行小田切直年の共通ソースで連関。二つ前の山本某でもソース連関。奇物遺骸譚、未確認生物シリーズの一つである。
なお、図のキャプションを右から順活字化し、以下に数値を換算しったものを《 》で示しておく。
髙七寸六分
《上顎歯列下端から残存する頭部上端までの高さ:二十三センチメートル》
歯九枚
眼穴一寸一分
《眼窩の平均的直径:三十三センチメートル》
此ワタリ二尺二寸五分
《左右顴骨間の長さ:六十八・二センチメートル》
なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁注に曰く「予が姻戚大野氏、もと高砂町にて美濃利といふ質屋なりしか、九鬼家より質にとりしと伝ふる、鬼の干物あり。打見たる所、十歳位の童子程にて蹲踞せり、頭に短き角二ツあり其色猪牙の如し、髪は薄く銀色したる白髪にて、前は几たり、指は手足とも五指あり、眼円にして鼻低く、牙は獣の様なりしと覚えし、大学へも見せたれど、拵物なるべしとの事なりし由、これ癸亥の震災にて亡びし。」』と記す。「几たり」は「きたり」と読むか。肘を机についているような感じに折り曲げているということか。「癸亥の震災」の「癸亥」(みずのとい)は大正一二(一九二三)年で関東大震災のこと。
・「文化六巳年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)の夏。
・「山本某」本巻での特異点の情報屋。「予が親友山本某」(「吐血を留る奇法の事」)と記すほどの親密な仲でもある。
・「五年以前丑年」文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)。年齢の数えと同じくその年も含めて数えるから、五年前でおかしくない。
・「松本領中房川」底本の鈴木氏注に、『中房は長野県南安曇郡穂高町有明。有明温泉の所在地』とある。信濃松本藩六万石。当時は第七代藩主・戸田松平家第十二代の松平光年(みつつら)。中房川は長野県安曇野市穂高有明を流れる川で長野県安曇野市北西の異形の峰、燕岳に源を発し、中房温泉を通って安曇野市穂高有明で乳川と合流、ここから穂高川と名を変えて南流、その後、犀川(梓川の下流)に合流、それがまた千曲川と合う。これらの場所は皆、私が山に登っていた頃の、如何にも懐かしい地名ばかりである。
・「信州山家組荒井村」底本の鈴木氏注に、長野県『松本市荒井。山家(ヤマンべ)郷は和名抄に筑摩郡山家郷とある』と記すが、岩波版長谷川氏注では、長野県『茅野市宮川新井か。山家は山鹿で山鹿郷即ち茅野市辺をいうか』と異なる。私は地理的には鈴木氏の説の方が自然な気がする。有明から、鈴木氏の荒井なら十五キロメートルほどしか離れていないが、長谷川氏の示す茅野の新井では四十六キロメートル以上離れてしまうからである。
・「蛇頭」大型個体の蛇、蟒蛇(うわばみ)の損壊した頭部という謂いであろうが、上顎の歯列の形状が蛇のものではない。
・「狒猅」狒狒。これは現在の実在するサル目オナガザル科ヒヒ属 Papio に属する哺乳類の総称名ではないことに注意。無論、実在する異国に住む猿の一種という耳学問のニュアンスも既に多少は混入している可能性もあるが、これは寧ろ、本邦固有種のオナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル
Macaca fuscata の大型の老成個体及びそこから夢想された妖怪・幻獣としての「狒々(ひひ)」である。以下、ウィキの「狒々」より引いておく。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるとい』い、『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。また同書では、天和三(一六八三)年に越後国(現在の新潟県)、正徳四(一七一四)年には伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長四尺八寸(一・四五メートル)、後者は七尺八寸(二・三六メートル)あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の樵が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺したという。源助も血まみれになり、狒狒は夜明け近くになりやっと立ち去ったという。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』。『もとは中国の妖怪であり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈(約3メートル)あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』。『山童と混同されることもあるが、これは「山で笑うもの」であることから「山ワラハ」が「山童」(やまわろ)に転じたとの説がある』。『岩見重太郎が退治した怪物としても知られ』、『人身御供を要求して人間の女性を食べる』邪悪な『妖怪・猿神と同一視されることもある』。また、『エドワード・S・モースが、東京の大森貝塚を発見した際に大きなサルのような骨を見つけ、日本の古い記録に大型のサルを記したものがあるか調査したところ、狒々の伝承に行き当たり、この骨を狒々の骨かもしれないと結論づけている』とある。モース先生! 遂に私の「耳嚢」の注にも登場しましたよん!
・「北廰」北町奉行所。根岸は南町奉行。
・「土州」北町奉行小田切土佐守直年。前条の私の注を参照のこと。
■やぶちゃん現代語訳
奇(く)しき頭骨の事
まず。
文化六年巳年のこと、山本某(ぼう)の語って御座ったこと。
――五年以前の文化二年丑年の四月中、松本藩御領内の中房川が、大雨によって川岸が大きく崩れ、そこから、一個の奇体なしゃれこうべれが出土した。
これは現在、信州山家組荒井村在の安左衛門なる人物が所持しているとのことで、それが借り受けられ、東都へと持参されたものを、山本自身が実見検分したとのことで、その形について、それを描いたものを作成し、妻にも概略を描いて見せた、とのことであった。
以下、山本が持参した絵と、そこに附された文章を写しおくこととする。
――――――
(附記)
按ずるに、これは所謂、妖しき蛇の変じた「蟒蛇(うわばみ)」の、その「蛇頭(じゃとう)」ででもあろうか? いや、はたまた、別な、山の妖怪として知られる「狒々(ひひ)」の類(たぐ)いでも、これ、あろうか? 何れの説も、よく、この頭骨を説明しているとは言えず、この謎のしゃれこうべについては詳細は不分明である。(山本文責)
――――――
さて同じ年のこと、私と同職の北町奉行所へ、市中より――この山本が私に見せ呉れたものに非常によくにておるところの――大きな生物の頭骨が持ち込まれたという。
但し、こちらは下顎(したあご)もあって、その歯の形状は魚(うお)の歯のようにギザギザとしている、という。
「……如何にも胡散臭い代物なれば、拙者は誰かが人為的に拵えたものではないかと疑っている。」
と、同役たる北町奉行小田切土佐守直年(なおとし)殿の物語で御座ったによって、この山本が私に報告したものと、これは、同一の物体ではないか? とも考えたのであるが、ただ……
――一方は下顎がなく……
――あるとする、こちらの方の歯の形状というのも、山本のそれとは、微妙に異なるように感じられ……
その他の情報では、その後に
――同一物であるとも……
――全く異なる物であるとも……
さらには……
――それが如何なる生物の頭骨であるかということも……
一向、耳に入っては来ない。
さればやはり、このしゃれこうべ――捏造品――ででもあったものか?
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