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« 耳嚢 巻之九 狐に被欺て漁魚を失ふ事 | トップページ | やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」 »

2015/01/02

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇

この『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成』は終りではなく始まりなのである。まずテクストを総て掲げた後、それを元に推敲過程の迷宮を探ろうという迂遠な仕儀なのである――



やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成

[やぶちゃん注:私は既に芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」を電子化し、そこで幾つかの注も附したが、そこで明らかになったことは、現在、「澄江堂遺珠」の元となった原資料は、実はその一部(佐藤が「澄江堂遺珠」を編むに当たって基礎底本とした三冊の冊子の内、佐藤が「第一號册子」と呼んでいるもの)が既に行方不明となっているという驚愕の事実であった。しかも、現在、完全な『源泉資料の全貌を示』(新全集後記より引用)すものと信じ込んでいた岩波新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』について、判読の一部に不審な点があること、ここで現存するとされて写真版から活字化されているもの(山梨県立文学館蔵とするノート二冊)が必ずしも佐藤春夫が述べている所の「第二號」「第三號」と同一のものではないか若しくは同一のものではあるもののそこに重大な欠損がある可能性を排除出来ないということであった。大きな問題は「第一號册子」の喪失で、非常に考え難いことではあるのであるが(佐藤は発表を意図しているかのように清書されたものと記しており、そこからそれでも堀辰雄が何か恣意的な意図を以って取捨選択してしまったというのはあまり考えたくはないという点で、である)、その消失した「第一號册子」中に、全く活字化されていない詩篇或いは詩篇断片が存在したか、或いは現存する「第二號」「第三號」資料に脱帖や欠損があるのではないかという疑義を、私に強く起こさせる証拠――「澄江堂遺珠」で最後の最後に佐藤が引用する四種の詩篇(抹消を含む)の完全に一致する詩篇や文字列が現在の『「澄江堂遺珠」関連資料』は勿論、私の知る如何なる資料中にも見出せずにいるという重大な事実である――があるのである。

 以上から、私は私独自に「澄江堂遺珠」原資料の集成を試みたいと思う。といっても、その多くの部分を労作である新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』に負うことにはなる。幾つかの疑義を述べたものの、山梨にある原資料ノートなるものは在野一介の私には到底閲覧することが出来ないからである(新全集自体が原本ではなく写真版から判読したような感じさえする)。但し、ただ新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』を活字化して、おためごかしの注を附するのでは岩波の編集権云々の問題以前に、私自身が面白くない。そこでまず、

■1 として諸研究によって「第一册子」に清書されていたと思われる詩群の全部若しくは一部(前に述べた通り、私はこれが総てとは実は思っていない)と目されている旧全集に正字で載る十二篇を示す。

次に、堀辰雄が「第一號」から「第三號」までの詩篇を無菌状態にまで整序してしまった(私は「しまった」と弾劾する。これは佐藤の「澄江堂遺珠」に於いても言えることである)、

■2 として旧全集の「未定稿」全篇

掲げる。その後に、

■3/■4 として新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の「第二號」「第三號」冊子の全部若しくは一部(前に述べた通り、私はこれも総てとは実は思っていない)と同一と思われる二冊が活字化された膨大な資料を、恣意的に正字化し、削除記号も底本とは異なる仕儀を施したものを示す

こととする。新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の順列とは、私の「■2」と「■3/■4」が入れ替わっている。これは校訂公開された時系列に資料を並べるのが私は正しいと考えたからである。それに加えて以下、

■5 として現在知られる芥川龍之介の詩歌及び手帳・未定稿断片の内、「澄江堂遺珠」との親和性が極めて強いと判断されるものを既発表・未発表を問わず、集成する

予定である(既に誰もが読める何箇所かの断片・手帳その他に、明らかにそれらしいものを見出すことが出来るからである)。

 この最後の「■5」は私の恣意的な印象観察によるものとなろうが、それでも考証の資料として集成しておく必要がどうしてもあると私は考えている。そのため、現在のアカデミックな権威ある『「澄江堂遺珠」関連資料』と野人である私の拙作を差別化するために、敢えて『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成』としてある

 踊り字「〱」「〲」は全体を通して正字化した。しかも以上総てについて、私が気になった詩篇や断片については、逐次オリジナルな注を附すこととする(これも現在の庶民が容易に読めるようなアカデミックなそれらには行われていない仕儀であると思う)。

 これは恐らく私のライフ・ワークとなろう。そういうものとしての覚悟がなければ、この膨大な夢魔に立ち向かおうとは思わない。本文も含め、新発見や訂正も随時、私のブログ「鬼火~日々の迷走」のブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』で公開・更新してゆく予定である。] 

 

■1 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」に於いて佐藤春夫が「第一號册子」と呼称する現在は所在不明の冊子に載ると推定される詩群若しくはそこに載る詩に基づき堀辰雄によって整序された可能性のある詩群十二篇

[やぶちゃん注:「夏」の一篇を除き(理由は後述する)、岩波旧全集「詩歌二」に所収するものを底本とした。底本後記によると、この「詩歌二」の内、以下に示す「心境」から「戲れに⑵」までの詩は、元版全集(昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻の通称。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した)の「月報」第八号の「編輯者のノオト」に『「心境」以下の今樣風の詩は全部、一つの帳面に淸書されてあったものである。それらは大正十年頃のやうに思はれる』とある、とする。新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の後記では、これを受けて、『こうしたことを考慮すれば、「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、この「第一号」のノートに記されていたものに基づいている、と推測される』とする。また、佐藤春夫は「澄江堂遺珠」の「はしがき」に於いて、この堀辰雄(と思われる)が語る『帳面』――佐藤の言う『第一號册子』――なるものが、実はノート様のものなどではなく、書籍の体裁を成した『四六版形で單行本の製本見本かとも見るべきを用ひ、これには作者が自ら完作としたかと思へるものを一頁に一章づつ丹念に淨寫してある。恐らく作者は逐次會心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる』と、かなり細かな書誌情報を記している点にも注意したい。

 私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」でこれらを電子化しているが、今回はそれぞれの詩篇の冒頭に配されてある誌題を敢えて後ろに持ってくることにした。それは何故かと言うと、佐藤が「澄江堂遺珠」の五十一~五十二頁で、まさにこの「第一號册子」から「戯れに」の二篇の詩を引用した際、彼は、

 

   汝と住むべくは下町の

   水どろは靑き溝づたひ

   汝が洗湯の徃き來には

   晝もなきづる蚊を聞かむ

             戲れに⑴ 

 

   汝と住むべくは下町の

   晝は寂しき露路の奥

   古簾垂れたる窓の上に

   鉢の雁皮も花さかむ

             戲れに⑵

 

と表記していることが、非常に気になっているからである。

 何故、佐藤はこの「戲れに⑴」「戲れに⑵」の詩題を普通に前方に示さなかったのか?

 「澄江堂遺珠」の中には「劉園」や「麥秀」のように、前方にを持つものが先行登場しているのにである。

 これは佐藤が「第一號册子」からの引用との差別化を図るために過ぎないという説明はつくかも知れない。しかし、これらは後注でわざわざ「第一號册子」からと断っているのだから、何も殊更に堀の編集ではちゃんと前にある題を、わざわざ後ろに配する必要はないと私は考えるのである。

 ということは――この二篇で題が後に回されている可能性として考えられることは――ただ一つ――失われた「第一號册子」では一篇が製本見本の一頁に一篇の詩が記され――その題は実は総て詩の後に総て書かれていた――という事実を語っているのではないか? だから「そのままに」佐藤は素直にかく表示したのではないか? ということである。

 そして、その事実を立証する証拠が実は一つだけあるのである。

 何を隠そう、失われた「第一號册子」の一頁だけが、画像で残っており、それを我々は容易に見られ、そこでは詩篇のが最後に回されているからなのである。

 「澄江堂遺珠」七十二頁と七十三頁の間に入っている、芥川龍之介の以下に示す「夏」自筆稿写真である。

 

 

Jikihitusikou

 

画像を見ると、

 

 微風は散らせ柚の花を

 金魚は泳げ水の上を

 汝は弄べ 画團扇を

 虎疫は殺せ汝が夫を

       夏 

 

これで(題の本来の位置を再現するために四行目の「虎疫(ころり)」「夫(つま)」のルビを排除して示した)「夏」という題が後に回っていることが判明するのである。

 されば私は今回の電子データでは、総ての詩題を詩本文の最後の行の次に、この「夏」に倣って、詩本文最後の行の末尾の字から三字上げた位置に配することにした。これで、「澄江堂遺珠」の原資料である失われた「第一號册子」に、僅かながらも近づける仕儀と大真面目に考えているからである。なお、各詩篇の間が底本では二行しか空いていないが、ここは三行空とした。ポイントの違いは無視し、題名の字空けなども上に掲げた「夏」を除いて無視した。] 

 

廢れし路をさまよへば

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

怯ぢしは何時の夢ならむ

        心境 

 

西の田の面(も)にふる時雨

東に澄める町の空

二つ心のすべなさは

人間のみと思ひきや

      時雨

[やぶちゃん注:旧全集の大正一〇(一九二一)年九月二十日附佐々木茂索宛九四〇書簡にこの詩を記し(差異は「東に澄める町のそら」の「空」のみ)、その後に『これは三十男が斷腸の思を托せるものなり 一唱三嘆せられたし』と書いている。] 

 

沙羅のみづ枝に花さけば

うつつにあらぬ薄明り

消なば消ぬべきなか空に

かなしきひとの眼ぞ見ゆる

         沙羅の花 

 

[やぶちゃん注:「沙羅」は「さら」(「しやら(しゃら)」とも読む)と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科 Dipterocarpaceae の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った。グーグル画像検索「Stewartia pseudocamelli もリンクしておく)。

 この詩は、知られた決定稿で、後に「マチネ・ポエティク」の連中が近代定型詩中希有の珠玉の一篇と持ち上げた、 

 

   相聞

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。 

 

に先行する推敲形の一つである。最も古いものでは、旧全集の修善寺からの室生犀星宛大正一四(一九二五)年四月十七日附の一三〇六書簡に『又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。』とし(この原稿とは以下の詩稿を指すと判断する)、次の二篇を記す。 

 

歎きはよしやつきずとも

君につたへむすべもがな。

越(こし)のやまかぜふき晴るる

あまつそらには雲もなし。

 

また立ちかへる水無月の

歎きをたれにかたるべき

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。 

 

詩の後に『但し誰にも見せぬように願上候(きまり惡ければ)尤も君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。』微妙な自負を記す。更に、龍之介の大正一四(一九二五)六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雑詠」で決定稿が公となっている。以下に示す(底本は岩波版旧全集を用いた私の古い電子テクストから)。これは全集では「澄江堂雜詠」その最後に「六 沙羅の花」として所載しているもので、「澄江堂雜詠」は大正十四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載されたもので、この「沙羅の花」は作品集『梅・馬・鶯』にも所収されている。

   *

   沙羅の花

 沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ。

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき。

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

   *

「太湖石」は蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称していう。] 

 

この身は鱶の餌ともなれ

汝を賭け物に博打たむ

びるぜん・まりあも見そなはせ

汝に夫(つま)あるはたへがたし

        船乘りのざれ歌 

 

[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」はポルトガル語の「virgin maria」で聖処女マリアのこと。] 

 

ゆうべとなれば海原も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老いては夢にまがふらん

        船中 

 

初夜の鐘の音聞ゆれば

雪は幽かにつもるなり

初夜の鐘の音消え行けば

汝はいまひとと眠るらむ

        雪 

 

微風は散らせ柚の花を

金魚は泳げ水の上を

汝は弄べ 画團扇を

虎疫(ころり)は殺せ汝が夫(つま)を

       夏 

 

[やぶちゃん注:これは冒頭に注したように、「澄江堂遺珠」の「第一號册子」をそのまま写真に撮ったと思われる自筆稿画像(前掲)を忠実に再現したものである。「畫」ではなく「画」であり、その前には明らかな字空きが存在している。] 

 

松葉牡丹をむしりつつ

ひと殺さむと思ひけり

光まばゆき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

       惡念 

 

「ひとの音せぬ曉に

ほのかに夢に見え給ふ」

佛のみかは君もまた

「うつつならぬぞあはれなる」

           曉 

 

[やぶちゃん注:これは「梁塵秘抄」巻二の法文歌(ほうもんのうた)に基づく。以下に引用する(底本は新潮日本古典集成版を用いた)。

   ほとけは常にいませども

   うつつならぬぞあはれなる

   人のおとせぬあかつきに

   ほのかに夢にみえたまふ

やぶちゃんの現代語訳:

   み仏というものは常に我らがそばにいますと存じながら……

   愚かなる私の眼には拝み得ぬことの何としても哀しく侘しく……

    故にこそ恋しく慕わしいもの……

   人声も物音も絶え果てたその暁の頃……

   幽かに私の夢の内にその影をば……

    お現わしになられた……

ここにあるのは言うまでもなく信仰の極限の仏身への恋着という特異点である。そして、そこにやはり「煩悩即菩提」を、我執とも言える恋着に悩む龍之介は見てとったに違いない、と私は思うのである。] 

 

涅槃のおん眼ほのぼのと

とざさせ給ふ夜半にも

かなしきものは釋迦如來

邪淫の戒を說き給ふ

      佛 

 

汝と住むべくは下町の

水どろは靑き溝づたひ

汝が洗湯の徃き來には

晝もなきづる蚊を聞かん

        戲れに⑴

 

[やぶちゃん注:「徃」の字のみ「澄江堂遺珠」に引用されたもので示した。] 

 

汝と住むべくは下町の

晝は寂しき露路の奧

古簾垂れたる窓の上に

鉢の雁皮も花さかむ

      戲れに⑵ 

 

[やぶちゃん注:「雁皮」は古く奈良時代から紙の原材料とされてきたフトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana を指し、初夏に枝の端に黄色の小花を頭状花序に七から二十、密生させるものであるが(グーグル画像検索「雁皮の花」)、どう考えても地味な花で、それをまた鉢植えにするというのは、如何にも変わった趣味と言わざるを得ない。そうした不審を解いてくれたのが、「澄江堂遺珠」の末尾にある神代種亮の「卷尾に」という文章で、神代はそこで「雁皮」について、これ『は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。』と記している(「罕な」は「まれな」と読み、「稀」と同義。「目葢」は「まぶた」)。まさにこれは目から鱗である。これはジンチョウゲ科のガンピではなく、中国原産で花卉観賞用に栽培されるナデシコ目ナデシコ科の多年草である別なガンピ(岩菲(がんぴ)) Lychnis coronata であったのである。こちらのガンピ(岩菲)は茎は数本叢生し、高さは四十~九十センチメートルほどになり、卵状楕円形の葉を対生させ、初夏に上部の葉腋に五弁花を開くが、花の色は黄赤色や白色といった変化に富む。グーグル画像検索「Lychnis coronataでその鮮やかな花を見られたい。これは確かに神代の言う通り、「雁皮」ではなく「岩菲」に違いない。]

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