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2015/01/02

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」

2 岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称するこれは正しい謂いではないので注意)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群

[やぶちゃん注:底本は岩波版旧全集(旧普及版全集本文底本)に拠った既に私が電子化した「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」から引いたが、これは実際には「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. そのままではない点に注意されたい。例えば、冒頭の一篇からしてからが、「澄江堂遺珠」には載らない詩なのである! 何故、旧全集のこの「未定稿」の後記が、こんなすぐに分かる嘘をついているのか、私には頗る不審なのである。

 本文中の〔 〕は編者(恐らくは堀辰雄)によるものと思われる。

 正直に言おう。

 これらの詩群は堀辰雄によって、主に佐藤春夫のいう「第二號册子」及び「第三號册子」(加えて消失している以上は「第一號册子」からも絞り出されてある可能性を排除は出来ない)の膨大な詩篇及び詩篇断片を編者堀辰雄が――かなり恣意的に――滅菌と洗浄を繰り返して――整序――悪く言えば一部は勝手に繋ぎ合わせて強引に意味が通るように改造捏造した――ものと考えるべきものである。従って、「澄江堂遺珠」源泉資料としてはこれは信頼出来る一次資料とは言えないと言わざるを得ない。しかし、これは「澄江堂遺珠」の「はしがき」冒頭で佐藤が『岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるものにして、故人の遺志を體して完成を重んずる精神を飽くまでも尊重せる細心の用意をもつてなされたもの、出來得る限り多數の採錄を努められたるも、その嚴密なる用意の結果は却つて多少の遺漏を生じてそこに逸せられたものも尠くない』と評しているところの、「澄江堂遺珠」に先行するところの、原「澄江堂遺珠」資料の一つということになってしまうのであって、これを一次資料と見做すことは出来ないからといって無視することも到底出来ない貴重な資料ではあるのである。大きな問題は、堀辰雄が如何なる編集方針を以ってこれらの驚くほど整然とした詩篇を《製作》したのかが、今となっては全く分からないという点(この恨みは存外に大きいと私は思っている。佐藤の「澄江堂遺珠」とてもその難を免れぬことは出来ぬとも言えるが、佐藤は小まめな注記を本文中に入れ込んでおり、ある程度まで佐藤の編集方針を窺い知ることが出来るようになっているのとは大違いだからである)、そして何より、「第一號册子」の消失という致命的な事実にある。まさにこの「未定詩稿」は、本家本元の『「澄江堂遺珠」という夢魔』の濫觴とも言える存在なだと私は思うのである。]

 

    *

夜はの川べに來てみれば

水のもをこむる霧の中

花火は室に消えゆけり

われらが戀もかくやらむ

    *

人を殺せどあきたらぬ

妬み心も今ぞ知る

赤き光にとぶ蠅も

日頃は打つにうきものを

[やぶちゃん注:私は、この詩篇と芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」の一篇は軌を一にするものと考えている。

 

   二十八 殺  人

 

 田舍道は日の光りの中に牛の糞の臭氣を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の兩側に熟した麥は香ばしい匀を放つてゐた。

「殺せ、殺せ。………」

 彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。

 すると黄ばんだ麥の向うに羅馬(ローマ)カトリツク教の伽藍が一宇、いつの間にか圓屋根を現し出した。………

 

この殺そうと思っている男、そしてその男の妻――龍之介の愛した女――は誰か? ということについて私はある見解を持っている。ロケーションも含め、私の芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察を参照されたい。]

    *

 ひるの曇りにしんしんと

石菖の葉はむらだてり

ひるの曇りにしんしんと

痛む心は堪へがたし

[やぶちゃん注:単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus グーグル画像検索「。]

    *

山べを行けば岩が根に

何時しか苔も靑みけり

日かげに煙る淸水にも

何かは人のなつかしき

    *

かなしきものはほの暗き

月の中なる山の影

君が心のおとろへも

見じとはすれど見ゆるなる

    *

雨にぬれたる曼珠沙華

ふみつつひとり思ひけり

天女にあらぬ人の上

――釋迦佛の世は遙なり

    *

ひとを戀ひつつただひとり

踏むは濡れたる敷石に

誰がまきすてし曼珠沙華

――釈迦佛の世は遙なり

     *

澄むことしらぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

さこそはすぐる彌陀ごころ

    *

ひとをまつまのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

こころはふるふ光かな

[やぶちゃん注:「アーク燈」アーク放電による発光を利用した光源。特に電極に炭素棒を用いたもので空気中で放電させるアーク放電灯を指し、明治初期には街路灯に用いられた。]

    *

のみ忘れたるチヨコレエト

つめたき色に澄むときは

幽かにつもる雪の音も

君が吐息にまじるなり

    *

まひるの月を仰ぎつつ

萩原をあゆむやさ男

あれは阿呆かもの狂ひ

いやいや深草の少將に候

    *

遠田の蛙聲やめば

いくたびよはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫(せ)はわれにうかりけり

    *

心ふたつにまよひつつ

たどきも知らずわが來れば

まだ晴れやらぬ町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

[やぶちゃん注:「たどき」「たつき/たづき(たずき)」に同じい。方便。活計。]

    *

光はうすき橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

    *

女ごころは夕明り

くるひやすきをなせめそ

きみをも罪に堕すべき

心強さはなきものを

    *

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

安養淨土は何處やらむ

救はせ給へ技藝天

[やぶちゃん注:「技藝天」伎芸天とも書く。仏教守護の天部の一人。ウィキの「芸天」によれば、『摩醯首羅天(大自在天=シヴァ神)が天界で器楽に興じている時、その髪の生え際から誕生した天女とされる。容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の守護善神とされる』。『ヒンドゥー教などに相当する尊格を特定することができず、梵名も不詳。父尊の額から生まれるという出自に注目しギリシャ神話のアテナとの関連を指摘する説もある。 日本では単独での信仰がそれほど広まらなかったこともあり、現存する古像の作例は秋篠寺の一体のみとされる。現存の像は、頭部のみが奈良時代の造立当時のもので首以下は鎌倉時代の後補によるものである。造立当時の造様は不明で、現在の姿は経軌と大きく異なっており、技芸天像とすることに疑問を呈する意見もある』とある。]




 

Sois belle,sois triste

 
 
    *

何かはふとも口ごもりし
 

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

その
 

入日の空を仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

 
消えし言葉は如何なりし

    *

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは
 

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにただひとり

玫瑰の茶を畷りつつ

ふとつぶやきし寂しさは

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、孰れとも考え得る。歌柄が芥川の中国行の際のイメージを思わせ、その場合は寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」の可能性が高いと思うからである(後者については芥川龍之介の「江南游記」「六 西湖(一)」に『私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した』と出るからである。リンク先は孰れも私の注釈附テクスト)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]

 

水の上なる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

たがすて行きし薔薇の花

白きばかりぞうつつなる

    *

畫舫はゆるる水明り

ほるけき人をおもほへば

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

      欄外ニ〕Sois belle, sois triste ト云フ
 

 
はるけき人を思ひつつ

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒けし

ひがしの空ぞ忘られね
 
    *

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

つととびたてる大鴉

 

みどりは暗き楢の葉に

晝の光の沈むとき

ひとを殺せどなほあかぬ

妬み心も覺えしか

 

綠はくらき楢の葉に

晝の光の沈むとき

わが欲念はひとすぢに

をんなを得むと

 

みどりはくらき楢の葉に

晝の光のしずむとき

きみが心のおとろへぞ

ふとわが

    *

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞ知る

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりてすてにけむ

 

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりて捨てにけむ

ひとを殺せどなほあかぬ

ねたみ心に堪ふる日は

    *

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

かなしきひともかかる夜は

かそかにひとりいねよかし

幽かに雪のつもる夜は

 

ひとり胡桃を剝きゐたり

こよひは君も冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

ひとり胡桃を剝き居れば

雪は幽かにつもるなり

ともに胡桃は剝かずとも

ひとりあるべき人ならば

    *

ひとり山路を越え行けば

雪は幽かにつもるなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠(いぬ)べき君ならば

    *

ひとり山路を越え行けば

月は幽かに照らすなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠ぬべき君ならば

夜毎にきみと眠るべき

男あらずばなぐさまむ

    *

雲は幽かにきえゆけり

みれん

 

夕づく牧の水明り

花もつ草はゆらぎつつ

幽かに雲も消ゆるこそ

みれんの

 

水は明るき牧のへも

花もつ草のさゆらぎも

わすれがたきをいかにせむ

みれんは

 

みれんは牧の水明り

花もつ草の

    *

いづことわかぬ靄の中

かそけき月によわよわと

啼きづる山羊の聲聞けば

遠き人こそ忘られね

 

何か寂しきはつ秋の

日かげうつろふ靄の中

茨ゆ立ちし鵲か

ふと思はるる人の顏

    *

雨はけむれる午さがり

實梅の落つる音きけば

ひとを忘れむすべをなみ

老を待たむと思ひしが

 

谷に沈める雲見れば

ひとを忘れむすべもなみ

老を待たむと思ひしが

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は古き書のなか

匀も消ゆる白薔薇の

老を待たむと思ひしが

    *

雨にぬれたる草紅葉

侘しき野路をわが行けば

片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

    *

われら老いなばもろともに

穗麥もさわに刈り干さむ

 

夢むはとほき野のほてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨のすぎ行かば

虹もまうへにかかれとぞ
 

[やぶちゃん注:「虹」私はここのこの「虹」及び次と次の次の詩篇の二箇所で現われる「虹」は、大正一三(一九二四)年八月十九日、避暑地先の軽井沢での片山廣子との体験を原風景とするものだと確信している。旧全集一二三四書簡(大正一三(一九二四)年八月十九日軽井沢発信の室生犀星宛絵葉書(浅間山風景の写真の裏面に記載)を引く。

   *

御手紙拝見

   つくばひの藻もふるさとの暑さかな

朝子孃前へ這ふやうになつたよし、もう少しすると、這ひながら、首を左右へふるやうになるさうすると一層可愛い雉子車は玩具ずきの岡本綺堂老へ送る事にした、けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ついた村だつた北國街道と東山道との分れる處へ來たら美しい虹が出た

廿日は廿十九日頃かへるつもり

               龍 之 介

 室生君

   *

この日、廣子と龍之介、二人の避暑先であった「鶴屋」の主人の三人で中軽井沢の追分に出かけている(ここは中山道と北国街道の分岐に当たり、古来、江戸から親しく長旅をしてきた旅人同士がここで別れを惜しんで袂を分かったことに由来する、「分去(わかさ)れの道標」が立っていることで知られる)。廣子四十六歳、龍之介三十二歳、ここで二人は美しい虹が上がるのを見たのであった。私の電子テクスト「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡4」及び「■書簡5」を是非、参照されたい。]
 
 

夢むは遠き野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

仄けき雨の過ぎ行かば

虹もまうへにかかるらむ

 

たとへばとほき野のはてに

穗麥刈り干すわれらなり

われらは今日も野のはてに

穗麥刈るなる老ふたり

雨に濡るるはすべもなし

幽かにかかる虹もがな

    *

ゆふべとなれば

物の象(かたち)はまぎれ

 

物の象のしづむごと

老さりくれば

 

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

われらが戀も

 

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

わが悲しみも

老いさりくれば消ゆるらむ

 

ゆふべとなれば草むらも

 

ゆふべとなれば海ばらも

……………………………

今は忘れぬおもかげも

老さりくれば消ゆるらむ

 

ゆふべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老いさりくれば消ゆるらむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老さり來れば消ゆるらむ

 

[やぶちゃん注:底本では最後に編者による『(大正十年)』のクレジットがある。

Sois belle,sois triste.」はフランス語で「より美しかれ、より悲しかれ。」で、これはボードレール( Charles Baudelaire )が一八六一年五月に発表した「悲しいマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste ――現在は「 悪の華」( Fleurs du mal )の続編・補遺に含まれる一篇――の一節である。以下に原詩総てを示しておく(英文サイト「 Charles Baudelaire's Fleurs du mal / Flowers of Evil 」のこちらより引用。リンク先原文下に英訳有り。翻訳例は注の最後にリンクした)。

 

Madrigal triste

 

I

 

Que m'importe que tu sois sage?

Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

Ajoutent un charme au visage,

Comme le fleuve au paysage;

L'orage rajeunit les fleurs.

Je t'aime surtout quand la joie

S'enfuit de ton front terrassé;

Quand ton coeur dans l'horreur se noie;

Quand sur ton présent se déploie

Le nuage affreux du passé.

Je t'aime quand ton grand oeil verse

Une eau chaude comme le sang;

Quand, malgré ma main qui te berce,

Ton angoisse, trop lourde, perce

Comme un râle d'agonisant.

J'aspire, volupté divine!

Hymne profond, délicieux!

Tous les sanglots de ta poitrine,

Et crois que ton coeur s'illumine

Des perles que versent tes yeux.

 

II

 

Je sais que ton coeur, qui regorge

De vieux amours déracinés,

Flamboie encor comme une forge,

Et que tu couves sous ta gorge

Un peu de l'orgueil des damnés;

Mais tant, ma chère, que tes rêves

N'auront pas reflété l'Enfer,

Et qu'en un cauchemar sans trêves,

Songeant de poisons et de glaives,

Éprise de poudre et de fer,

N'ouvrant à chacun qu'avec crainte,

Déchiffrant le malheur partout,

Te convulsant quand l'heure tinte,

Tu n'auras pas senti l'étreinte

De l'irrésistible Dégoût,

Tu ne pourras, esclave reine

Qui ne m'aimes qu'avec effroi,

Dans l'horreur de la nuit malsaine

Me dire, l'âme de cris pleine:

«Je suis ton égale, ô mon Roi!»

 

廣田大地氏のボードレール研究サイト「 L'Invitation @ Baudelaire 」で廣田氏の個人邦訳「悲しみのマドリガル」が読める。参照されたい。]

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