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« 本日閉店 | トップページ | やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅴ ■4 推定「第三號册子」(Ⅰ) 頁1~2 »

2015/01/04

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅳ ■3 推定「第二號册子」(Ⅱ) 頁12~34 / ■3 推定「第二號册子」了

【頁13】

雨にぬれたる曇沙華

ふみつつひとり思ひけり

天女にあらぬ人の上

――釋迦佛の世は遙なり

 

思ふは

 

穗麥はまじる

わが欲念に

 

たときもしらずひとを戀ひつつただひとり

歩むはつめたき踏むは濡れたる敷石に

誰がまきすてし曼沙沙華

――釋迦佛の世は遙なり

 

[やぶちゃん注:「曼沙沙華」はママ。]

 

【頁14】

脈の光のびとすぢに

 

わが欲念のみにくさは

羽ぬけ鷗

 

疊をはへるむかではもさへ

まもるわれとはなりけり

わが欲念のみにくさに

おぢし昔ぞしたはは何時やらむ

 

黄土の壁に來しやもり

しばらくゐつつ去りにけり

わが欲念に驚きし

 

疊をつたふむかでさへ

まもるわれとはなりにけり

わが欲念のみにくさに

馴れしは

 

【頁15】

廢れし路をさまよへば

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

悸ぢしは何時の夢 ならむ昔は何時ならむ

 

[やぶちゃん注:ここだけ「廢」は底本の用字。「悸ぢし」は「おぢし」と読んでいると思われる。「怖(お)づ」。]

 

ひとをこひつつただひとり

ふむはぬれたるしきいしに

たかまきすてし はつはつききしまだちりがてぬ曼珠沙華

――釋迦佛の世は遙かなり

 

【頁16】

廢れし路をさまよへば

光は草に消えゆけり

わが欲念の執のすべなさに

悸ぢし昔は何時やらむ

 

わが欲念は秋の夜の

土をながるるしめり風

 

(けものめきたる欲念に

(疲れし路をさまよへば

(光は草に消えゆけり

(わが欲念のみにくさに

 
[やぶちゃん注:底本に『以上四行、上方に印あり』とある。如何なる印かは明記がないが、取り敢えず他に認められるスラーのようなものかも知れない。一応、「(」で示しておいた。]

 

悸ぢし昔は何時やらむ

 

【頁17】

疑ひ深きわれなれば

疑ふものは數おほし

 
 
鮓はいきるる夏のよ

紺の暖簾に

またたかぬ顏浮びけり

 

佛の世は遙なり

女を思

佛の世は遙なり

 

【頁18】

またたかぬ顏浮びけり

 

夜はふけやすき日本橋

いきるる鮓に

たどきも知らずわが來れば

鮓は

夏の

 

時雨はかかる日本橋

たどきも知らずわが行けば

うす紫にほのぼのと

時雨はかかるアーク燈

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

【頁19】

圓葉柳に靑蘆に

まひるは眠る川の上

 

かなしきものはほの暗き

月の中なる山の影

君が心のおとろへも

       眼に見ゆる

見じとはすれど

       見ゆるなる

 

雨にぬれたる敷石に

珠沙華

 

【頁20】

古き日あし

 

しみらに雪はふりしきる

 

[やぶちゃん注:「しみらに」一日じゅう絶え間なしに。ひっきりなしに。しめらに。]

 
 
秋の薔薇に

 

 

藤の

 

古き

 

こぼるる藤に月させど

心は

 

君が心のおとろへは

水のもに暮るる薄明り

橋間をすぐる鶯

 

【頁21】

わか欲念の濁り水

 

[やぶちゃん注:「わか」はママ。]

 

澄むとここと知らぬ濁り江に

かがやかなりや大金支那金魚

わが煩惱のもなかにも

佛こごろぞかくは

かくは過ぎ行く

 

おのれを

かがやかにこそ過ぎにけれ

 

【頁22】

澄むこと知らぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

知慧こそかくは過ぎにけれ

時には知慧ぞかくは來る

知慧はかくこそ下り來れ下り來る

かくこそ知慧は かかさある知慧こそ下り來れ

さこそは知慧も下り來れ

 

澄むことしらぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

閃かずやは 刹那はすぐるさこそはすぐる彌陀ごころ

 

【頁23】

おそうぐひすのとびすぐるひらめける

たそが

ひらめける

 

栴檀木の花ふるふ

花ふるふ夜の水明り

水明りよりにもさしぐめる みしめる

さしぐめる眼は

 

[やぶちゃん注:「栴檀木」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。]

 

薮木の空まじりに花かほる

花かほる夜の波の音

波の音する月

 

暗き

 

暗き木々の梢に風すぐる

風すぐる夜の栗鼠 月明り

の家にいざ

 

【頁24】

きみとゆかまし山のかひ

山かひにはたけなびき

たけなびくへにうす紅葉

うす紅葉ちる草

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひにも日はけむり

日はけむるへに古草屋

草屋にきみときみゆきてまし

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひには竹けむり

竹けむるへにうす紅葉

うす紅葉ちる

 

ひとざととほききみと住みなば山の峽

山の峽にも日は煙り

日は煙る

 

【頁25】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

夕まど枠にふる雪は

こころ冷たき人も見む

時雨かけ うす紫に

きみひともまた

かかる夕は

     ひややかに

 

ひとり胡桃をかみをれは

雪は幽かにつもるなり

こころ冷たき手

たそがれかかる

 

心も

時雨かけ うす紫に

 

ひとりくるみをかみをれば

ゆきはかすかにつもるなり

たそがれかかる雪よりも

 

ひとをまつまのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

うすこころはふるふ光かな

 

[やぶちゃん注:「アーク燈」の「燈」は底本の用字。]

 

【頁26】

のみわすれたる※古チョコレエト――

つめたき匙をまさぐれば

幽かにつもる雪の音――

君が

 

[やぶちゃん注:「※」=「木」+「聿」。]

 

のみわすれたるチョコレエト

つめたき匙にふれもせで

 

のみわすれたるチヨコレエト

つめたき色に澄めるみしとき

ひとをおもへば

君がといき

雪は幽かにふりつもる

 

のみ忘れたるチヨコレエト

つめたき色に澄むときは

幽かにつもる雪の音も

君が吐息にまじるなり

 
【頁27】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

かかるきみはまろ腰冷やかに

かかる夕はひとり寐む

忘れがた〔〕きはその夜半に

のみ忘れたるチヨコレエイト

 

椅子に机にこころ卑しき

 

空はかなしき薄明り

土に眠れるひとの眼は

何時かかそけき星をみむ

 

楡の梢

 

わが卑しさを知るものは

 

おさん

茂兵エ

 

[やぶちゃん注:「おさん」「茂兵エ」おさん茂兵衛(もへえ)。天和三(一六八三)年九月 に不義密通の罪でともに処刑された京都烏丸(からすま)の大経師(だいきょうじ:元来は表具師を指すが、ここは「大経師暦」と呼ばれた暦を販売する暦商。)浜岡権之助の妻おさんとそこの手代茂兵衛のこと。二人して丹波へ逃げたものの、捕えられ、洛中引回しの上、粟田口にておさんと茂兵衛は磔(はりつけ)、手引きをした下女おたまは獄門に処せれた(五日晒し)。当時、評判となった事件で歌にも唄われ、井原西鶴の「好色五人女」巻三や近松門左衛門の浄瑠璃「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」(正徳五(一七一五)年初演)の素材となった。]

 
【頁28】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

きみひとも今宵は冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

まひるの月仰ぎつつ

萩原をあゆむやさ男

あれは阿呆かもの狂ひ

いやいや深草の少將に候

 

これは

 

芝居も見ずにうつそりと

廊下の雪に立つ男

夜半のカツフェにうつそり

さめし

あれは※呆かもの狂

いやいや戀する男に候

 

[やぶちゃん注:「※」=「呆」+「犬」。次の一篇の「※」も同字。]

 

銀座四條通りにうつそりと

まひる月を見る男

あれは阿※かもの狂ひ

いやいや戀す

 

【頁29】

A fly-brush ( Herbert A. Giles )

            Strange stories from a C. Studio

  As he stood up slowly and solemnly, brandishing a wand of streamers,

to address the soul of the dead,

he gave a wild shout like the thunder of anger at some Viking banquet,

and an awful fire darted from his countenance.

     Japanese Cameos

      by E. E. Speight ( The Far East )

[やぶちゃん注:底本には、ここまでが横書の注がある。底本は原本に忠実に配されているかどうかは不明。私は単語の切断を嫌うのでダッシュで示された切断部を繋げ、カンマの後でのみ改行して表示した。正直、私はこの英文が意味するところが分からない。識者の御教授を乞う。

Herbert A. GilesHerbert Allen Giles。ハーバート・アレン・ジャイルズ(一八四五年~一九三五年)はイギリスの中国学者。一八八〇年より中国領事を務め、一八九七年よりケンブリッジ大学中国語教授。中国人の思想・生活を深く理解し、特に中国詩文の翻訳が優れている。著作は「中英辞典」「古今姓氏族譜」。四男のライオネル・ジャイルズは、大英博物館東洋部長となり、スタイン収集の敦煌漢文文献の分類目録を出版。「論語」「老師」「荘子」の英訳などでも知られる(彼の英語版ウィキはこちら)。

E. E. SpeightErnest Edwin Speight。アーネスト・エドウィン・スパイト(一八七一年~一九四九年)はイギリスの英語学者で東京帝国大学や金沢の第四高等学校で英語を教授している(彼の英語版ウィキはこちら)。「The Far East」という著作には行き当らなかった。識者の御教授を乞う。]

 

 

われもかなしき世の中の

おろかのひとり

 

 

【頁30】[やぶちゃん注:ここにこの頁が横書である旨の注がある。以下、書誌のメモであろう。特に詩篇類との関連は認められないように思われる。]

The Legend of Tyl Ulenspiegel

     Charles de Coster

        London, Chatto & Windus

Civilization

La Morte    George H. Doran Company

170 Chinese Poems

Arthur Waley

H. A. Giles. (Chinese poetry in English Verse)

Judith Gautier     Le Livre de Jade

 

[やぶちゃん注:「The Legend of Tyl Ulenspiegel」この書名は正しくは「The Legend of Thyl Ulenspiegel and Lamme Goedzak (French: La Légende et les Aventures héroïques, joyeuses et glorieuses d'Ulenspiegel et de Lamme Goedzak au pays de Flandres et ailleurs)」(テュル・ウーレンシュピーゲルとラム・グッドザックの伝説)で 一八六七 年にベルギーの作家「Charles De Coster」(シャルル・ド・コスター 一八二七年~一八七九年)によって書かれた小説である。「Tyl Ulenspiegel」はドイツ語で、ティル・オイレンシュピーゲル(Till Eulenspiegel)の別称。十四世紀に北ドイツに実在したとされる伝説の奇人(トリック・スター)で、様々ないたずらで人々を翻弄し、最期は病死若しくは処刑されたとされる人物の名である。この人物については私自身に全く知識がないので、特に以下にウィキの「ティル・オイレンシュピーゲル」から引いておきたい(アラビア数字を漢数字に代えた)。『民衆本の中では、ティルはブラウンシュバイクに近いクナイトリンゲン村の生まれで、一三五〇年にメルンでペストのために病死』したとされている。『かつて人々が口伝えに物語ってきた彼の生涯は、十五世紀にドイツで民衆本「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」にまとめられ、出版された。このため彼の言動はエピソードごとに首尾一貫しておらず、様々な地方・語り手によって伝承されたエピソードの編纂であることがうかがえる。ここで繰り広げられる彼のいたずら話やとんち話は、日本でいうところの一休さんのように非常に有名である。教会や権力者をからかうティルの姿勢は、日本の吉四六さんにも似通っている』とある。例えば、「親方への仕返し」というタイプの話では、『ティルは当時の下層民、遍歴職人や大道芸人、道化としてドイツ国中を渡り歩いて様々な都市に現れ、いろいろな職業に従事する。ティルに命令する尊大な親方の気取った言い回しや、ティルの使う低地ドイツ語との方言の行き違えを逆手に取った、ティルの仕返しが毎回の見所となっている。描写も詳細でリアルであり、伝承主体と思われる当時の遍歴職人たちの実体験に基づいていると見られている。親方にいじめられた遍歴職人達は、このティルの仕返しを方々で語り継いで、溜飲を下げていたのである』。『この原典は大評判となり、オランダ、フランス、イギリス、デンマーク、ポーランドでも翻訳され、「狐のラインケ」』(芥川龍之介は佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五七七)の中で自身の寓話小説「河童」について『「河童」は僕のライネッケフックスだ』と述べているが、これはこの伝承(Reineke Fuchs)に基づいてゲーテが一七九三年に刊行した叙事詩で、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である)『や「司祭アーミス」など他の民衆本からのとんち話が数編組み込まれていった』とある。最後に、『ティルは様々ないたずらの旅を繰り広げた末に、病を得て終焉を迎えるが、最後の床でもいたずらを繰り返す。埋葬された際も、手違いで棺が垂直に墓穴に落ち、人々も「へそ曲がりな奴さんのことだ、死んでても立っていたいんだろう」と放置、墓標には「オイレンシュピーゲル、ここに“立つ”(「眠る」ではない)」と刻まれる、という落ちまで付いている』。『全編にわたってダブル・ミーニングと、無邪気なスカトロジーが頻出するのが特徴で、様々なエピソードにいたずらの小道具として「大便」が登場し、挿絵にも頻繁に描かれている』(ダブル・ミーニング(double meaning)は二つ以上の解釈が可能な意味づけの意。洒落や掛詞の類い)。この伝承記の『編著者については長年不明とされ、様々な説が出されてきた』が、『十九世紀末にC・ヴァルターによってヘルマン・ボーテ(de:Hermann Bote)が編者とされたが、E・シュレーダーらの批判によって』一度は立ち消えとなったものの、『その後、チューリッヒの研究家P・ホネガーの研究によって各章の頭の文字がアクロスティックになっており、その中に"ERMAN B"という文字列が見られることなどが判明したため、近年ではこのヘルマン・ボーテが編著者だと考えられている。千九百七十八年には、インゼル文庫からボーテ名義のオイレンシュピーゲル本が発行されている』。『「オイレンシュピーゲル」、「ウーレンシュピーゲル」(Eulenspiegel)の名の語源解釈には二説あり、ひとつは高地ドイツ語での「フクロウと鏡」(Eule + Spiegel)という意味をそのまま受けたもので、上図の民衆本の表紙でもフクロウと鏡を手にした姿で描かれている。阿部謹也はこれを、木版画家のあまり意味のない解釈としている。民衆本の第四十話には、彼が「いつもの習慣」としてラテン語で「彼はここにいた」の文字を「梟と鏡」の絵とともに書き残す場面がある。オイレンシュピーゲルがラテン語を使うという不自然さから、この部分は後世の付け足しと考えられている』。『もう一つの説は、口承で使われた低地ドイツ語の方言で彼の名が「ウーレンシュペーゲル(ウル・デン・シュペーゲル)」(Ulenspegel)と発音され、これは当時の低地ドイツ語で「拭く」(ulen)と「尻」(猟師仲間の隠語のSpegel)、すなわち「尻を拭け」を意味する駄洒落であるとするものである』。『こちらも、民衆本の第六十六話で、窮地に立たされた「ウーレンシュペーゲル」が「俺の尻を(拭かなければならないほど汚いか、汚くないか)とっくりと見てみろ」と開き直り、これから逃れる場面がある』。『研究家C・ヴァルター、K・ゲーデケ、W・シェーラーらは、本来の民衆本は低地ドイツ語で書かれ、重版の際に高地ドイツ語に書き換えられたとみている。作品中にも低地ドイツ語のままのエピソードが数編存在し、一五一五年版が原本とはみられていないが、これ以前の原本は現在も発見されていない。E・カドレックは一九一六年に、文体や内容の差異から、口承者としてと、編纂者としての二人の作者がいるとしている。一方、L・マッケンゼンは一九三六年にこれを、教養ある人物による個人創作としている』。『ラッペンベルクやE・シュレーダー、W・ヒルスベルクらは、ティルの実在説を採り、生誕地の年代記に取材して同姓の人物を見つけているが、確証は得られていない。ティルの死因についても、民衆本以外の記録は無い』『彼を題材とした芸術作品としては、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(一八九五年)が良く知られる。民衆本では絞首刑を言い渡されたティルがとんちを利かせてまんまと逃れてみせるが、シュトラウスの交響詩では伝承の別の形に従い』、絞首刑が執行されて終曲となっている。『その他の作品としては、ゲアハルト・ハウプトマンの物語詩『ティル・オイレンシュピーゲル』(一九二八年)、ジェラール・フィリップの監督・主演映画『ティル・オイレンシュピーゲルの冒険』(一九五六年)などがある』。日本では、児童文学者の巌谷小波が明治三八(一九〇五)年に、「木兎(みみずく)太郎」という題名で、数エピソードを子供向きにアレンジした日本語翻案が出ている、とある。重要なのは、芥川龍之介が記したこの出版社の書誌データで、ネット上で調べると「The Legend of Tyl Ulenspiegel Charles de Coster trans Geoffrey Whitworth Published by Chatto & Windus, London, 1918」とあるのである。これは次の注とも絡んで、本ノートの記載時期を特定する非常に重要な意味を成すことになると私は思うのである。

Civilization」文明の意であるが、これでは書籍を特定出来ない。

La Morte    George H. Doran Company」フランス語で「死」、後ろはニューヨークの書店であるが書籍の特定は出来なかった。

Arthur Waley」アーサー・ウェイリー(Arthur David Waley 一八八九年~一九六六年)はイギリスの東洋学者。日本古典及び中国古典研究の権威で、「源氏物語」の抄英訳や唐詩の英訳で知られる(前者は翻案とも批判されるが、現在、世界的に「源氏」の評価が高いのは彼のこの翻訳のお蔭と言われる。ここまではウィキの「アーサー・ウェイリー」に拠った)。直前に記されてある「170 Chinese Poems」とは彼の英訳になる「A Hundred and Seventy Chinese Poems (1918)」のことである。この発行が大正七(一九一八)年であることは、本ノートの閉鎖上限の貴重な一つを示すものとして非常に貴重なデータと思われる。

H. A. Giles. (Chinese poetry in English Verse)Herbert Allen Giles(ハーバート・アレン・ジャイルズ 一八四五年~一九三五年)は外交官で東洋学者。彼の著作「Chinese poetry in English Verse」(中国詩の英語韻文訳)は一八九八年の著作である。

Judith Gautier     Le Livre de JadeJudith Gautier(ジュディエット・ゴーチェ 一八四五年~一九一七年)は小説家テオフール・ゴーチェの長女で作家。「Le Livre de Jade」は「白玉詩書」などと訳されるジュデエットが一八六七年に刊行した中国の漢詩仏訳選集。これはヴェルレーヌ、アナトール・フランスやレミ・ド・グールモンの称讃を得、後には独・伊・英(一九一九年)・ポルトガル語などにも転訳されており、その後暫くの間、ドイツやイギリスに於ける中国詩の欧文訳はこれに拠った(以上は森英樹氏の論文「ジュディエット・ゴーチェの中国詩翻訳〔1〕」の記載に拠った)。彼女について、芥川龍之介は「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(初出は大正九(一九二〇)年四月発行の雑誌『人間』。リンク先は私の電子テクスト。私の現代語訳版もある)の冒頭で、

   *

     別乾坤

 Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北齋が水滸畫傳の插畫も、誰か又是を以て如實に支那を寫したりと云はん。さればかの明眸の女詩人も、この短髮の老畫伯も、その無聲の詩と有聲の畫とに彷弗たらしめし所謂支那は、寧ろ彼等が白日夢裡に逍遙遊を恣にしたる別乾坤なりと稱すべきか。人生幸にこの別乾坤あり。誰か又小泉八雲と共に、天風海濤の蒼々浪々たるの處、去つて還らざる蓬莱の蜃中樓を歎く事をなさん。(一月二十二日)

   *

と記している。若しも、このアフォリズムがこの「Le Livre de Jade」の入手以後に書かれたものであるとすればその可能性は頗る高いと言える)、前に記すシャルル・ド・コスターの「The Legend of Tyl Ulenspiegel」とアーサー・ウェイリーの「A Hundred and Seventy Chinese Poems」の本が孰れも大正七(一九一八)年刊行で、「骨董羹」の「別乾坤」の執筆が大正九(一九二〇)年三月以前とするなら、このノートが書かれたのは大正七(一九一八)年末か翌大正八年から大正九年年初までの間と考えるのが妥当であろう。]

 

【頁31】

夜雉

サイゴサイゴサア行カウ 日露戰爭當時滿州にゐし兵ニ

 

[やぶちゃん注:「サイゴサイゴ」の後半は底本では踊り字「〱」。「夜雉」とは「野鶏」(yějī)のことであろうこれは不通は「雉(キジ)」の通称であるが、隠語として街娼・夜鷹を指す。「野」の中国音を芥川が「夜」()と誤って記したか、若しくは夜鷹との酷似から当時の大陸での兵士や日本人はそう記したものかも知れぬ。]

 

秦檜

 

[やぶちゃん注:「秦檜」(一〇九〇年~一一五五年)は南宋の宰相。英雄岳飛を謀殺したとされて中国で最も忌み嫌われる人物の一人である。私の電子テクスト「江南游記」(←全文サイト・テクスト)の「江南游記 八 西湖(三)」(←ブログ・テクスト)の本文及び注などを参照されたい。]

 

赤■

林出新領事

 

[やぶちゃん注:「林出新領事」林出賢次郎(はやしで/けんじろう 明治一五(一八八二)年~昭和四五(一九七〇)年)。芥川が上海に旅した大正一〇(一九二一)年当時、上海総領事館副領事であった。出身地である和歌山県御坊市の市役所公式サイトのこちらに詳しい事蹟が載る。

 この後に空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁32】

囘々堂

舒蓮記扇莊

 

[やぶちゃん注:ここに『以上、横書き』と注するが、これは【頁32】に対する注と私はとっている。「囘々堂」不詳。次のメモとの一緒と考えれば、これは中国の店か建物の名称と思われる。「舒蓮記扇莊」杭州扇子三大名店の一つ。]

 

【頁33】

副將

王伯黨

 

[やぶちゃん注:これは恐らく京劇の人気演目の一つ「虹霓関」(こうげいかん)の登場人物のメモランダである。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は見たことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみた)。「江南游記 前置き」の私の注に芥川龍之介の芥川の「侏儒の言葉」に載る『「虹霓關」を見て』を引用、さらにそれに詳細な注を施してあるので、参照されたい。

 この後に空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁34】

西城靈境井兒胡同  陳寶琛

〃〃米糧庫   陳啓修

〃〃嵩祝寺後身鼓鏡胡同後門内鍾鼓寺  胡適之

 

[やぶちゃん注:ここに『以上、横書き・天地逆』及び『以下二頁空白』という編者注が二つ入っている。

「西城靈境井兒胡同」「西城」は北京の地域名でそこに「霊境」と呼称する「胡同」(プートン)がある(地下鉄の駅名ともなっている)。「井兒」もそうした胡同(横丁)の名と思われ、ネットを調べると「雨児胡同」「帽児胡同」「鴉児胡同」といった呼称が現存することが分かる。

「陳宝琛」(ちんほうちん Chen Baochen 一八四八年~一九三五年)は清末の官僚・詩人・歴史家。福建省閩県出身。一八六八年に進士に登第、一八八一年には翰林院侍講学士となって清史の「穆宗本紀(ぼくそうほんぎ)」の編纂にあたったが、一八八四年に起った清仏戦争で降格され、帰郷して暫く読書三昧の日々を送った。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣に返り咲き、一九一一年には宣統帝溥儀の帝師となるも、翌一九一二年に清朝が倒れて溥儀は退位、陳宝琛はそのまま溥儀に従って紫禁城に居留、「徳宗実録」の編纂に従事し、芥川が中国を訪問した一九二一年に本紀が完成すると太傅を授かっている。一九二三年には総理内務府大臣として鄭孝胥を推挙、一九二五年に溥儀が紫禁城を退去して天津に赴くと、これに従った。満州事変を経、溥儀が満州国執政として擁立されると、自らも同道するよう請われたものの、これを拒絶、そのまま天津に寓居してそこで没した。蔵書家としても知られ、十万冊を有していたとされる(以上はウィキの「陳宝琛」に拠った)。なお、「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏「芥川龍之介が観た1921年・郷愁の北京」によって、芥川龍之介は北京で、恐らくこの住所「西城靈境井兒胡同」に彼を訪ねている。これについては私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」の中の、「○郎世寧百駿圖。雍正六年歳次戊申仲春臣郎世寧恭畫。」の後に附した注を参照されたい。秦剛氏によれば、陳宝陦は淸朝の遺臣で『溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をすっかり瞠目させた』とあり、そこで芥川が観た作品として『宋徽宗「臨古図」』『郎世寧「百駿図」』を挙げている。更に、どうも芥川の陳宝陦宅訪問は二度あったように思われる、と私は注した(ここで秦剛氏は「陳宝陦」と表記しておられるが、これは明らかに陳宝琛その人である。

「陳啓修」(一八八六年~)。政治学者。日本に自費留学して第一高等学校から東京帝国大学法科大学へ進んだ。一九一七年に北京大学教授となった。参照した広州在住の方のブログ「鞦韆院落」の「石室聖心大教堂 その2」によれば、北京を訪れた芥川龍之介の通訳をしたという情報もある(未確認)。一九二三年から一九二五年まではソ連とヨーロッパで学び、中国共産党と国民党に入っているとあり、一九二六年に『広州へもどり、黄埔軍官学校の教壇に立って周恩来らとともに四期生に講義をしたり、中山大学で経済学科主任と法科主席を務めたかと思うと、武漢で『中央日報』の編集長もしている』。一九二七年、『上海クーデターが起こると、身の危険を感じて日本に亡命し、日本で『資本論』や河上肇の『経済学大綱』を中国語に翻訳』するなどしたことから、現代『中国で彼は『資本論』を初めて中国語に訳した人として知られている』らしい。一九三〇年に帰国してからは国民党政府の政治家をしていたが、戦後は四川に戻って大学教育に力を注いだらしいとある。

「胡適之」中華民国の学者・思想家・外交官として知られた胡適の字(あざな)。胡適(「こせき」又は「こてき」とも読まれる Hú Shì  ホゥシ 一八九一年~一九六二年)は本名を胡嗣穈、字は希疆とするが、後に自ら適と改名した。この改名は「適者生存」に由来するという。清末の一九一〇年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「上海游記」「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、一九一七年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、一九一九年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和六(一九三一)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の一九三八年には駐米大使となった。一九四二年に帰国して一九四六年には北京大学学長に就任したが、一九四九年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、一九五八年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。

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