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2015/02/28

耳囊 卷之十 嵯峨釋迦利生咄の事

 

 嵯峨釋迦利生咄の事

 

 或町家に甚だ六ケ敷(むつかしき)老婦ありて、家督の者も愁ひけるが、別段に住居(すまひ)をしつらひ、一人の下女を付(つけ)て朝晩のかしづきとなしけるが、此下女至(いたつ)て直實なる性質(たち)にて能(よく)つかえ、朝夕の食事等も餘所(よそ)より早くいとなみて、彼(かの)はゝ敷老女につかへしに、文化七年嵯峨の釋迦開帳ありしに、此女(をんな)如何成(なる)願(ねがひ)有(あり)しや、又佛を信ずる心强かりしや、はゝ敷主嫗(しゆおう)はとても承知もいたすまじと、每朝七ツ起して主嫗の目覺(めざめ)まへに參詣して歸り煮焚(にたき)して姥(うば)にあたへしに、有(ある)朝如何(いあかが)間違ひしや遲くなりて、いつもの刻限よりは半時餘(あまり)も歸り遲かりしかば、定めて主姥の怒りも有(あら)んと、取急(とりいそぎ)かへりて、宵には懸け置きし釜の下(した)焚付(たきつけ)んと見しに、いかがしけん、竃(かまど)の下の火を引消(ひきけし)して有り。釜中(かまうち)は飯も熟(じゆく)し、汁鍋(しるなべ)の下には火殘りてあたゝかなりける故、かの主姥の右の通(とほり)なし置(おき)しや、寢所をうかゞひ見しに、未(いまだ)目覺(めざめ)ざれば驚きて、これ全く釋迦の利生(りしやう)ならんと、あけの日かくかくの事ありし、釋迦如來のきどく難有(ありがたし)と、主姥(しゆぼ)へ語りければ、これも大きに驚き、早速開帳へ參詣なし、夫(そ)れより後生一三昧(ごしやういちざんまい)にて、主姥甚(はなはだ)善心に立歸(たちかへ)りしとぞ。これは本家の主人と、又下代の内、彼の下女の日々參詣なせしを知りてかく謀りしや、いづれ愚姥(ぐぼ)の節(せつ)を改(あらため)しは釋迦の利益(りやく)なるべし。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚から霊験譚であるが、最後の根岸の簡潔な真相解明の一文はトンデモ都市伝説の鮮やかな論理的推理として美事である。

・「利生」仏神が人々を済度し、悟りに導くこと。祈念などに応じて利益(りやく)を与えること。または、その利益(りやく)そのものを指す語。

・「はゝ敷」底本には右に編者のママ注記がある。「六ケ敷」で訳した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『彼(かの)六ケ敷主姥(しゆぼ)』とある。

・「文化七年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「嵯峨の釋迦」底本の鈴木氏注に文化七(一八一〇)年の『六月十五日より、両国回向院にて、嵯峨清涼寺釈迦如来開帳、例年より参詣多しと、武江年表に見えたり。(三村翁)』とあり、岩波の長谷川氏注には開帳は六十日間であった旨記載があるから、八月十二日までとなる。因みにグレゴリオ暦では開帳初日は七月十六日で最後は九月十日に当たる。嵯峨の清涼寺(せいりょうじ)は正しくは清凉寺と書き、京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町に現存する浄土宗寺院で山号は五台山、「嵯峨釈迦堂」の名で知られ、中世以降、融通念仏(融通念仏宗。浄土教の宗派の一つで大阪市平野区にある大念仏寺を総本山とする。平安末期の永久五(一一一七)年に天台僧聖応(しょうおう)大師良忍が大原来迎院にて修行中に阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。大念仏宗とも称する)の道場としても知られている(宗派は初め華厳宗で後に浄土宗となった)。本尊は釈迦如来、開基は奝然(ちょうねん)、開山はその弟子の盛算(じょうさん)。参照したウィキの「清凉寺」によれば、現在、国宝である本寺の釈迦像は十世紀に『中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになっ』て、こうした信仰を受けて元禄一三(一七〇〇)年より、『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた』とある。

・「はゝ敷主嫗」前に準ずれば「六ケ敷主嫗」である。それで訳した。

・「七つ」午前四時前後。

・「有朝」底本では「有」の右に『(或)』と訂正注する。

・「半時」約一時間。

・「きどく」奇特。神仏の齎す不思議な効力・霊験。この謂いの場合は「きどく」と濁る。

・「後生一三昧」来世に於いて極楽往生出来るように一心に願うこと。

・「主姥甚善心に立歸りしとぞ」という叙述からは、この老婆が、もとは非常に優しい人柄であったことが窺われる。推測するに、気質的に神経質な部分があった上に、何か、家督を継いだ子やその嫁その他主家親族に纏わる事件や出来事の積み重ねによって、心理的なストレスが溜まり、一種のノイローゼや強迫神経症となった可能性が窺える。偶然であるが、一種の擬似的な宗教的奇蹟がセラピーとして成功した例とも言えよう。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

  嵯峨の釈迦の利生話(りしょうばなし)の事 

 

 とある町家に、はなはだむつかしき性根(しょうこん)の未亡人の老婆のあって、家督を継いだる者も、この老婆の扱いの面倒なれば、はなはだ困惑致いて御座ったと申す。

 されば、別に住いを設(しつら)え、下女を一人付けて、朝晩の身の回りの一切の世話をさせて御座ったが、この下女、至って篤実なる性質(たち)にして、朝夕の食事も、凡そ余所の町屋よりも早うに賄(まかな)いして、かの口五月蠅(うるさ)き老婆にもよぅ仕えて御座った。

 ところが、文化七年の六月十五日より、回向院にては、京は嵯峨の清涼寺御本尊釈迦如来の出開帳の御座って、この下女、如何なる願いのあったものか、または仏道への信心のはなはだ厚く御座ったものか、この出開帳の間、欠かさず日参致いたく思うたらしい。されど、

「……かのむつかしき老女主人(おばあさま)にては、とてもものこと、参詣、これ、お許し下さるまい。……」

と思うて、毎朝、暗き七つ時に起きて、老主(あるじ)の目醒める前に参詣致いては飛んで帰り、それより直ちに煮炊き致いては、平素に変わらず老主(あるじ)に朝餉(さげ)を供して御座った。

 ところが、ある朝のこと、何をどう間違えたものか、帰りのえろう遅うなって、いつもの刻限よりは、これ、半刻近くも遅れて戻ったによって、

「……これでは、朝餉が間に合わぬ。……されば、老女主人(あるじさま)のお怒りも必定(ひつじょう)、この参詣がこともお話申さねばなるまい。……これでお参りも……最後か……」

と呟きつつ、ともかくも急いで立ち帰って、いつもの通り、宵のうちに米を研いで懸け置いたる釜の下を焚きつけんとして、見てみたところが、一体どうしたものか、竈(かなど)は既に一度、焚きつけられた後(あと)、ついさっき、火を消したばかりの様子にて御座った。

 釜の飯も炊けて、ほど良ぅ蒸らされており、一方、もう一つの、やはり下準備致いて御座った竈の上の汁鍋の下には、やはり既に火のおこって御座って、こちらはこちらで残り火となっており、汁もまたこれ、ちょうど良きほどに温まって御座った。

 されば、下女は、

『……こ、これは!……さてもかの女老主人(あるじさま)が、かくも支度なされたものか?……』

と仰天し、そっと老主(あるじ)の寝所を覗いて見たが、これ、いまだ目醒めておらなんだによって、またまた仰天なし、

『……こ、これは全く! かのお釈迦さまのお恵みに違い、ない!!』

と思うた下女は、その直後に起き出して参った老主(あるじ)に、

「――我ら、ずっと黙っておりましたれど……信心ゆえに、かの六月十五日よりずっと、回向院の嵯峨清凉寺さまのお釈迦さまの出開帳に、かくなして、払暁の参詣をさせていただいておりました。……ところが、今朝方、かくかくの出来事の、これ、御座いましたれば……これはもう!……釈迦如来さまの奇特(きどく)にて座いまするぅ! ああっ! ありがたや! ありがたや!……」

と、総ての事実を、これ、有体(ありてい)に老主(あるじ)に語った。

 すると流石に、かの因業婆あも、大きに驚き、

「……そ、それは!……ま、まっこと、お釈迦さまの利生(りしょう)ぞっ!」

と、下女を伴のうて、それより直ちに回向院が出開帳へと参詣なしたと申す。

 そうしてそれよりは、この主人が老婆、後生一三昧(ごしょういちざんまい)の信心に専心致いて、はなはだ善心にして優しき人柄へと戻ったと申す。

 

□根岸附記

 按ずるに、これは、本家の主人或いはその手代や下々の内の誰かが、かの下女が日々、出開帳に参詣しておることを秘かに知り、たまたまこの日、かの下女の時刻に間に合わぬを何かで見知ったによって、かく、下女に分からぬように、蔭で手助けを成したものではなかろうか?

 いや――孰れにしても――愚かな老婆の所行、これによって改められたとならば、これ、確かに――釈迦の利益(りやく)――と申すべきものでは、ある。

耳囊 卷之十 死靈其血緣をたちし事

 

 死靈其血緣をたちし事

 

 下谷とか淺草とか、其名は聞(きき)しが忘れぬ。代々若死にて、養子を以(もつて)相續なし、只一人血筋の娘ありて、これはうち寄(より)大切にせしが、與風(ふと)煩ひ付(つき)て、諸醫手をつくし祈念祈禱なせしに、或時夜更(よふけ)て、見しらざる小坊主一人來りて申(まうし)けるは、我等は此家三代前の主人に仕えし者なるが、いさゝかの誤りありてなさけなくも殺されしもの也、跡をも弔ひたまふ事もなく、其始末も非道なれば怨恨はれやらず、是までたゝりをなし、其血筋今はあの娘一人なり、是も無程(ほどなく)とり殺し可申(まうすべし)といひし故、夢心にも、それは尤(もつとも)にもあるべけれども、最早年月もたちし事、今の娘死したりとも、御身の妄執はれ候と申(まうす)趣意も難分(わかりがたし)と、答へければ、しからば我(わが)塚あやしきながら、山谷(さんや)玉林寺にあり、何卒追善供養したまへ、しからば、娘の病は癒可申(いえまうすべし)と申ける故、明けの日、早速玉林寺へ人を遣(つかは)し、塚のありしを彼(かの)小僧の申(まうす)所と極め、厚く追善なしければ、不思議にも娘の病ひ頓(とみ)に癒(いえ)けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚連関。夢告物でしかもその夢通りにすることで災厄を回避するという酷似した伝承構造を持つ。くどいが、「耳嚢」は怪談集として世間で誤認されている向きがあるが、噂話の集成、当時の都市伝説集とも言うべきものであって、実際には本格怪談の分量は多くない。なお、本作は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、末尾に『彼(かの)夢に見し男の一計策やしらず』とある。前の「或時夜更て、見しらざる小坊主一人來りて申けるは」(バークレー校版も全くの同文)の箇所は一読、実際に深夜に小僧が訪ねて来るように読めてしまうのであるが、途中に「といひし故、夢心にも」とあるように(バークレー校版ではここが『と言(いひ)しを、是(これ)夢幻(ゆめまぼろし)同樣に聞(きき)ける由』とある)これが夢体験であったことは明白である(私は実際、異様に体の小さな僧侶がこの屋敷を訪ねてくるというシチュエーションの方が好みであることは言うまでもない)。

・「山谷玉林寺」底本の鈴木氏注に、『宗林寺の誤か。(三村翁)宗林寺は浄土宗。玉林寺はいまの台東区谷中坂町で、曹洞宗。宗林寺の誤とすべきであろう』とある。長谷川氏は谷中のの玉林寺を注するのみである。しかし、ドヤ街の呼称として今も残る山谷は東京都台東区北東部の旧地名で、現在の清川・日本堤・東浅草付近を指しており、谷中ではおかしい。しかも現存する宗林寺を調べてみると同じ谷中にあって、さらに浄土宗ではなく日蓮宗である。三村翁の推定する寺はこれではないのではないか? 鈴木氏がわざわざ上記のような注を附したのは、山谷には玉林寺はなく、浄土宗の宗林寺がある/あったからこそ注したのではないか? と私は踏んだ。そこで切絵図の山谷方面を調べてみると、現在の清川一丁目付近に「宗林寺」の名を見出すことが出来た。現在の地図や寺院名簿では見出せないが、これが鈴木氏の言われる浄土宗の宗林寺かとも思われるのである。識者の御教授を乞う。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 死霊が一族の血縁(けつえん)を絶たんとした事 

 

 下谷とか浅草とか、その家名も聴いて御座ったが失念致いた。

 代々若死にの一族にて、養子を以って相続成して御座ったという家系で、当代、ただ一人のみ、先祖が血筋を引いたる娘子(むすめご)の御座って、この娘を一族郎党下男下女に至るまで、皆して、大事大事に育んで御座った。

 ところがこの娘、ふと、病いを患い始め、諸医の手を尽くし、諸方の祈念祈禱なんどまでも頼んではみたものの、一向によぅならなんだ。

 さても、ある夜更けのこと、養子にて継ぎたる当代の当主が夢に、見知らぬ小いさき坊主が一人、入り来たって申すことには、

「……我らは……この家(いえ)……三代前の主人に仕えし者なるが……聊かの過ちのあったを……これ……当主……無慈悲にも手打ちとし……殺されたる者……死せし跡をも弔ろうて呉るることものぅ……遺(のこ)った我らが妻子らへの始末一切も……これ……非道を極めたるものなればこそ――我らの怨恨――晴るること――なし――さればこそ……これまで一族血縁(けちえん)の者へ祟りをなし……その血筋……今はあの娘一人……これもほどのぅ――獲り殺して――呉れようぞッツ!……」

と呪いを吐いたによって、気丈なる当主主人、夢心地にも、

「……それはもっともなることではある。……がしかし、その儀、最早、年月も経ったることにして。また、今の娘の死んだとしても、これがなにゆえ――御身の妄執の晴るると申す趣意――と――どこでどう繋がると申すか? これ、我らには、いっかな、納得し難きことじゃ!」

と答えたところ、小坊主、しばらく考えておる様子にて黙って御座ったが、やがて徐ろに、

「……然らば……我が塚……これ……如何にもみすぼらしきもの乍ら……山谷(さんや)は玉林寺に在る……されば何卒……追善供養し下さるるか……然らば……娘の病いは……これ……癒ゆるで……あろうぞ……」

と申した――と思うたら――目(めぇ)が醒めた。

 されば、主人、その早朝、早速に玉林寺へと人を遣わし、過去帳を調べ、無縁仏として名も載せぬそれらしき、見捨てられたる塚の一基を見出したと申す。

 当主、

「――これこそ、昨夜、夢に現れたる小さき僧の申した所であろうぞ!」

と確信致いて、玉林寺が住持に依頼致いて、塚を築き直し、墓標も新たに作って、手厚ぅに追善の法要を成して御座った。

 すると、不思議なことに、娘の病い、これ、瞬く間に本復致いたと申す。

 

耳嚢 巻之十 狐蟇目を恐るゝ事

 狐蟇目を恐るゝ事

 

 去る婦女に狐付(つき)し故、種々かぢ祈禱なせ共(ども)不落(おちず)。其親族に弓術の師範せし本間某へ蟇目(ひきめ)の儀賴みける故、しからば例の通(とほり)潔齋(けつさい)をもせざれば難成(なしがたし)、用事くり合(あひ)、來る幾日頃に執行可成(なすべし)と及挨拶(あいさつにおよび)、其日は立歸(たちかへ)りけるが、其夜の夢に彼(かの)狐付(つき)の親なる者來りて、我等は實は狐なり、御身引目(ひきめ)し給ふ事兩三日待(まち)て給はるべし、我等右婦人に恨(うらみ)あるにもあらず、家内に遺恨等もなし、我等事は遠國(ゑんごく)の者にて、無據(よんどころなき)願(ねがひ)ありて御當地へ千辛萬苦(せんしんばんく)をなして出けるが、右願ひも兩三日の内にて叶ひ候べし、今蟇目にかけられては、我身をもあやまち、つき候息女の命も危し、何卒願(ねがひ)の通(とほり)まちたまへといひしが、何れ夢の儀信用も難成(なしがたし)、何共(なんとも)合點ゆかざる事故、有無の答(こたへ)もせずありしに、又あくる夜も右狐付し女來りて、くれぐれも右願ひ聞屆(ききとどけ)たまはるべし、此御禮には此家大難等あらば、天災まぬがれざる事は是非なけれども、兩三日前には其しるしをしらせ可申(まうすべし)、且(かつ)御息女の緣談、明日頃可申來(まうしきたるべし)、是は先方をも御心に不足有(ある)べけれども、曲(まげ)て取組(とりくみ)しかるべし、行末(ゆくすゑ)目出度(めでたく)さかへたまふべし、といひける故、左程(さほど)に申(まうす)事ならば、兩三日の事ならば延(のば)し可遣(つかはすべし)と答ふるを見て、夢覺(さめ)ぬ。不思議なる事もあるものと母へかたりければ、母は大(おほき)に信仰して、ひらに延(のべ)よといゝける故、先方へも潔齋の事に付、少々差合(さしあはせ)あれば、幾日の蟇目は延(のば)し候由、しかし蟇目せずとも無程(ほどなく)落可申(おちまうすべし)と申遣(まうしつかは)しけるに、不思議成哉(なるかな)、翌日多喜(たき)氏といへる御醫師の方(かた)より、緣談の儀申來(まうしきた)り、兩三日過(すぎ)て彼(かの)狐付のもとよりも、狐落(おち)て本心に立歸(たちかへり)しと、厚く禮を申來りし由。彼本間なる親族の物語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「蟇目」既出(「耳嚢 巻之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び「耳嚢 巻之九 剛勇伏狐祟事」といった本話の類型話をも参照されたい)であるが再注しておく。朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。

・「多喜氏」底本の鈴木氏注に、『文政六年武鑑は寄合御医師の中に多紀安元法眼がある。文化六年武鑑には同じく寄合に多紀安長法眼がある』とするから、岩波版長谷川氏も注されるように、『幕府抱えの医師多紀氏関係の者』と思われる。ウィキの「多喜氏」には、『渡来系氏族であり、多紀氏はいろいろな系統がある。ひとつは丹波康頼を始めとする丹波氏に行きつく家柄。もうひとつは豊後国の豪族大蔵氏の庶家で』、『江戸時代には、江戸幕府に代々仕え、徳川将軍家の奥医師として初代徳川家康から』最後の将軍第十五代『徳川慶喜まで将軍家に近習した。僧位を持ち、法眼、法印の位を授けられた。菩提寺は東京都北区上中里にある城官寺で、多紀一族の墓がある』。『江戸時代の末期には、江戸幕府の医学校である医学館総裁をつとめた。主に、内科を担当し、幕末に西洋医学が輸入されると外科の桂川氏とともに両雄と称されることがあるが、桂川氏は江戸時代後期に将軍家の奥医師になったのに対して、多紀氏は江戸幕府が開かれた時からの将軍家奥医師であり、多紀氏のほうが内科を担当しており家柄としても格上であり、位も上であった』とある。このように江戸時代の医師は僧侶と階層的には同一視され、正統な武家階級から見れば、格下の認識は強かった。さればこその狐の謂いとは言えよう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が蟇目(ひきめ)を恐るるという事

 

 さる婦女に狐の憑いて御座った。

 種々の加持祈禱なんどをなせども、この狐、いっかな、落ちぬ。

 されば、その親族に、弓術の師範をなせる本間某(ぼう)殿の御座ったによって、蟇目(ひきめ)の儀を懇ろに頼んで御座った。

 本間殿は、

「――しからば例の通り、精進潔斎をも致さざれば、蟇目の儀は、これ、成し難く御座れば、我らが用事をもやりくり致いて、そうさ、来たる〇〇日頃に執り行(おこの)うことと致しましょうぞ。」

と受諾致いて、その依頼を受けた日は立ち帰ったと申す。

 ところが、その夜の夢に、かの狐憑きの親なる者が現われ、

「……我ラハ実ハ狐ニテ御座ル……御身……蟇目ヲシ給ウコト……コレ……三日ホドオ待チ給ハリトウ存ズル……我ラ……カノ婦人ニ……コレ……恨ミアルニモアラズ……又……カノ家内ニ遺恨ナンドモ御座ラヌ……我ラコト……遙カ遠国ノ者ニシテ……ヨンドコロナキ願イノアッテ……御当地ヘト千辛萬苦ナシテ……ヨウヨウ参ッタル者……ソウシテ……ソノ願イモ……コノ三日ノ内ニハ叶イマスルニヨッテ……今……蟇目ニカケラレテハ……我身ヲモ命ヲ落トシ……ヒイテハ憑イテ御座ルカノ息女ノ命モ……コレ……危キモノトナリ申ス……サレバコソ何卒……願イノ通リ……ドウカ……オ待チ下サリマスルヨウ……」

と言うたが、

「……所詮、夢中の儀なれば、これ、信用もなし難い!……そもそもが、その謂い、これ、なんとも訳も分からず、合点もゆかざるものじゃ!」

と応じて、有無の答えもせず、そのまま目(めぇ)が醒めた。

 ところが、これまた、そのあくる夜も、今度は、かの狐の憑いた娘が夢に出て参り、

「……クレグレモ……先夜ノ願イ……コレ……オ聞キ届ケ下サイマシ……コノ御礼ニハ……ソウサ……コチラノ家ニテ何カ大難等ノアラバ……天災免レザル事ハ仕方ノナキコトナレドモ……変事ノ起ランズル三日前ニハ……ソノ事ニツキ必ズヤ……ソノ兆シ……コレ……オ知ラセ致ス御シルシ……コレ……オ伝エ申シマスレバコソ……サテモ……マズ近キ事ニテハ……ソウサ……御息女ノ縁談……コレ……明日頃……オ話ノ必ズ参リマスルガ……コレハ先方ニ就キテハ……アナタ様ノ御心ニ少々不足ノアラルル御方ニテハ御座イマスル……ガ……コレハ一ツ曲ゲテ縁組ナサルルガ宜シュウ御座ル……行ク末エ……コレ目出度ク……オ栄エナサルコト……確カニ請ケガッテ御座イマスル……」

などと、驚くべき予知なんどまで申したによって、

「……さほどに申すとあらば……よし。三日ほどのことならば、これ、蟇目の儀、延引して遣わそうぞ。……」

と答えた――と見て――夢の醒めた。

「……全く以って……不思議なこともあるものじゃ。」

と、取り敢えず、母者人(ははじゃびと)へ二夜(ふたよ)の夢に就きて語ったところが、母者人は、この夢告を大きに信じ、

「そ、それは! 必ず! ひらに! 延びて遣わさっしゃれ!」

と訴えたによって、本間も夢の内にて、約束も交わしたることなれば、かの蟇目を頼まれた親族が方へも、

「……潔斎の事につき、少々、日取りやら方角やら……ともかくも、これ、差し障りのあれば……〇〇日の蟇目の儀、これ、暫くの間、延引致すことと致いて御座る。……されど先般、娘子を拝見致いた折りの、我らが見立てにては……これ、恐らくは蟇目、致さずとも、ほどのぅ狐は、これ、落ち申すように、我ら、拝察致いて御座った。……いや、無論、 万一、落ちざるとならば、必ずや蟇目は致しますれば、ご安心の程。」

と申し遣わしておいた。

 ところが、不思議なるかな!

 まず、その翌日のこと、幕医として知られた、かの多喜(たき)氏と申す御医者方(がた)の一人より、

「――本間殿の娘子、これ、是非とも多喜家の嫁として、これ、迎えとう存ずる。――」

と申す縁談の儀、これ、申し来って御座った。

 しかも、それより三日過ぎて、今度は、かの狐憑きの親許より、

「――仰せの通り! 娘の狐、これ、落ちて、すっかり正気に戻って御座いまする!」

との報知とともに、厚き礼の品々、これ、贈られて参ったと申す。……

 これは、かの本間殿の御親族が直接に物語って呉れた話にて御座る。

2015/02/27

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 友鵜舟

 友鵜舟

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三一(一九五六)年の七月の条に、『岐阜「流域」主宰、松井利彦に招かれ、誓子と鵜飼を見る。鵜匠頭(かみ)の山下幹司の鵜舟に乗り、川下りすることを懇願。古来、女性が鵜舟に乗ることは堅く禁じられていたので困惑。一晩思案の後、黒装束(男装)をつける条件で許さる。上流の津保川より長良川を二里半下る』とある。「友鵜舟」は格別の計らいによる鵜舟への同乗から「鵜」を「友」としつつも、その実、誓子を「友」(伴)とする意を含めていよう。となお、別詠の二句を挟んだ末尾の「上の鵜飼」四句は、情景からも恐らく同年の十月の奥美濃での小瀬の鵜飼を見た際の別吟と思われる(後注も参照)。]

 

  鵜舟に同乗、津保川より長良川を下る。

 

高鳴つて鵜の瀬暮るるに遅れたり

 

腋も黒し鵜飼の装に吾を裹(つつ)む

 

腕長(うでなが)の鵜飼の装に身を緊(し)むる

 

狩の刻(とき)荒鵜手繩(たなは)をみな結はれ

 

[やぶちゃん注:私は底本の「繩」の新字体が嫌いなので、敢えて「繩」とした。以下、同じ。]

 

手繩結はるる不安馴れし鵜とても見す

 

鵜の篝夜の殺生の明々と

 

鵜篝の火花やすでに樟さし出

 

友鵜舟焰危し瀬に乗りて

 

狩場にて鵜の修羅篝したたりづめ

 

男壮(をさか)りの鵜の匠にて火の粉の中

 

鵜舟に在りわが身の火の粉うちはらひ

 

[やぶちゃん注:この句、個人的に意味深長なる句として好む。]

 

かうかうと身しばる叱咤鵜の匠

 

瀬落すや手繩曳かれて鵜が転び

 

早瀬ゆく鵜綱のもつれもつるるまま

 

中乗や男(を)の腰緊り鵜舟漕ぐ

 

[やぶちゃん注:「中乗」「ちゆうのり」と読んでいよう。これは謡曲のリズムの型の一つで、二音節に一拍を当てるもの。切れのよい躍動的な効果を持ち、修羅物・鬼畜物などで戦闘や苦患(くげん)のさまを表わす場面などに用いる、修羅乗りとも呼ばれるもので、この句は、謡曲の鬼物の一つである「鵜飼」(禁漁の罪を犯したために殺された鵜飼いの悲劇とその業の美事さを表現しつつ、法華経による救済を描く)をインスパイアしたものであろう。]

 

牽かるるもまた安からむ手繩の鵜

 

鵜匠の眼火の粉になやむ吾を見る

 

[やぶちゃん注:この句も同様に何か惹かれる。次の句も同じい。]

 

鵜舟に在る女面を篝襲ひづめ

 

彼方にて焰はげしき友鵜舟

 

こゑとどかぬ速さの火焰友鵜舟

 

友鵜舟離るればまた孤つ火よ

 

一炎やおのが狩場に鵜を照らし

 

鵜の篝倚せゐて崖の胸焦がす

 

鵜舟にあり一切事闇に距て

 

[やぶちゃん注:破調が却って作者の秘めた情念をよく伝えるように思われる。]

 

    *

 

寝髪にほふ鵜篝の火をくぐり来て

 

鵜篝の火の臭(かざ)の髪解き放つ

 

[やぶちゃん注:「友鵜舟」事後の詠であるが、その妖しい情趣の余韻が何とも言えず、よい。]

 

   上の鵜飼

 

[やぶちゃん注:これは岐阜県関市小瀬の長良川で毎年五月十一日から十月十五日まで行われる小瀬鵜飼(おぜうかい)を指しているものと思われる。ウィキ小瀬鵜飼によれば、『中秋の名月と増水時を除く毎夜行われる。中秋の名月に行われないのは、満月の月明かりにより篝火に鮎が集まりにくいためである。関市の鮎ノ瀬橋上流付近で行なわれる』とあって、知られる長良川鵜飼(前句群)よりも「上」流で行われることから「上の鵜飼」と題したものか? 『同じ長良川で行なわれる長良川鵜飼と比べて小規模であることは否めないが、観光化が著しい長良川鵜飼と比べて昔からの漁法としての鵜飼いが色濃く残って』いる、とある。前の「友鵜舟」句群との絶妙にして妖しい連関が心地よい。]

 

わがゆく道くらし鵜舟いま過ぎゆく

 

鵜舟過ぎしあとに夜振の小妖精

 

念々に紅焰靡く二タ鵜舟

 

二羽のゐて鵜の嘴(くち)あはす嘴甘きか

 

[やぶちゃん注:下の「嘴」は私は「はし」と読み分けたい気がする。]

耳嚢 巻之十 親子年を經て廻り逢ふ奇談の事

 親子年を經て廻り逢ふ奇談の事

 

 或諸侯の醫師田中某と云(いふ)有(あり)しが、療治のいとまには俳諧を好みけり。病用にてたまたま吉原町へも行(ゆく)事有しが、或五月雨(さみだれ)の頃、吉原町へ行(ゆき)しに病用多く、日まさに折からの雨ふり降りまさりて、宿處麻布へ歸(かへら)んにも遙々その道の遠きうへ、翌日は淺草邊の病家へいかざれば難成(なりがたき)故、遊興の心はなかりしが、俳友などにも行合(ゆきあひ)いざなはれて、扇(あふぎ)やといへる遊女屋に一夜をあかさんと足をとゞめ、酒宴の興に新造(しんぞ)成(なる)篁(たかむら)といへる遊女をあげけるに、かのたかむら、田中が持(もち)し扇に、朝涼し懸物かけてかしこまり如蘭と書(かき)てありしを見て、此扇の發句(ほつく)は何人(なんぴと)にや、御身御心安き人にやと尋(たづぬ)る故、成程俳諧の友にて心安き人成(なり)と答へければ、江戸の人にや上方の人にやと尋る故、大阪の人なり、何故問(とひ)たまふやと尋しに、にが笑(わらひ)して外事(ほかのこと)にまぎらして其座を立去りて、禿(かむろ)を使(つかひ)にて田中を外の座敷へ招きて、彼(かの)發句云(いひ)し大阪人は、御心安きとの事、年比(としごろ)名を尋けるまゝ、此發句のぬしは、大阪の人にて木屋榮治と云(いふ)なりといひければ、たかむら涙にくれてさしうつむき、是には長き御咄もあれども、今宵は客もあり、いさいにも申(まうし)がたし、今宵私新造をあげたまひ、重(かさね)て御あげなきとも不苦(くるしからず)、幾日なりとも御くり合(あひ)有(あり)て、一兩日の内、我身を御あげ御(お)こしを願ふ也、いかゞの申(まうす)事なれども、少しも御世話はかけ申間敷(まうすまじき)間、是非々々此儀を御願ひ申(まうす)なり、なみだにむせび心切(しんせつ)表(おもて)にあらはれける故いなみもなりかね、さらば幾日には來るべしと約束して、其夜は別れぬ。扨約束の日に至り扇屋へ至り、かの篁をあげて一通りの座敷もすみて後(のち)禿をも退けて言樣(いふやう)は、御はづかしき事ながら、我身は其木屋榮治が娘袖と申すものゝなれる果(はて)にて候也、八ケ年以前、江戸店(だな)の手代(てだい)用事ありて登り、半年程父の鄽(みせ)に有(あり)しが、若年の至り不斗(ふと)密通致し、手代は江戸へ下り候に、別れかね金子百兩持(もち)て右の者と欠落(かけおち)致し、何といふ處やらん、こゝかしこ田舍を半年程うかれ歩行(ありき)、其後半年程もくらしけれど、彼(かの)男心だてよからず身持も不埒にて、朝夕の煙(けぶり)も立(たち)かね、かゝる流れの身に身を沈(しづめ)、うきつとめも親のばちと先ぴをくやみ候へども甲斐なし、いとけなきころより父のかたはらにて俳諧生花碁將棊(しやうぎ)琴なんどならひ覺(おぼえ)し故、日夜にかわる客ながら、さまで心なき客も來らず、せめての苦もかろく勤(つとむ)る、是迚(これとて)も親の恩にて候ふに、兩親はさぞ憎しとも、かなしともおぼさん、せめて一度は便(たより)を聞(きき)たきと、明暮神佛にいのりし甲斐ありて、おもひも寄らず、扇の發句より父上の息才(そくさい)にましますを承り、御身を神とも佛とも思ひはべるなり、此上は御情(おなさけ)に、對面とてはかなふまじけれど、母までの文(ふみ)は、御とゞけ被下(くだされ)なば、御恩は忘れ申(まうす)まじと、さめざめと泣(なき)けるにぞ、素より親は相應のくらしにて、其娘のかゝる勤(つとめ)、外聞の程もいか計(ばか)りくるしからん、夢(ゆめ)もらし給ふなと申(まうし)ける故、願(ねがひ)の趣聞屆(とどけ)ぬ、よきに計(はから)ひ得させんと、翌朝別れて歸りぬ。此木屋榮治といへるは、大阪にても餘程の商人(あきんど)にて、伊丹にも酒造の株(かぶ)も有(あり)、江戸も手代持(てだいもち)の店(たな)五六ケ所も有(ある)由。六年以前より隱居せし由にて、年毎(としごと)に貮百金餘(あまり)の遣ひ用を携(たづさへ)て江戸に出、月花遊興を事とし俳諧を樂しみけるに、與風(ふと)出食(でくはし)て心安くなりける事故、田中は榮次の旅宿に至り密(ひそか)に人を拂ひ、御身はかねがね子はなくて養子に家を讓り、今は隱居せしと承る、女子(をなご)一人は儲け給ふ事有(ある)べしと云(いひ)ければ、いな子といふもの決してなき由を答ふ。田中いふ、八ケ年以前、十九歳の女子そでといへるが家出せし事あるべしといふに、榮次膽を消し、いかにして知り給へるや。田中云ふ、さて其息女今在所しれば、そこは如何(いかが)取計(とりはから)ひ給へるやと尋(たづね)ければ、榮次涙をはらはらと流し、されば此上は何をか包申(つつみまうす)べき、唯一人の娘にて、聟を取(とり)家を讓り申(まうさ)んと、彼是(かれこれ)世話いたし候處、緣遠く年月を送る内、江戸店(だな)の手代大阪逗留の中(うち)、通じやしけむ、手代は江戸へ歸り日數(ひかず)過(すぎ)そで家出なせし故、いろいろと手を分(わけ)尋(たづね)、占(うらなひ)の祈禱のと百計盡せど、神かくしといふものやと母は狂氣の如くなれど、其行衞(ゆくゑ)知れねば奉行所へ訴(うつたへ)帳付(ちやうづけ)なし、金子も百兩持出(もちだし)候間、男とつれて立退(たちのき)しか、無程(ほどなく)江戸店(だな)より右手代は江戸へも不歸(かへらざる)由故、右の者と申合(まうしあは)せけるにやと思へども詮儀の手立(てだて)もなく、外聞をいとゐ神隱しと申(まうす)に極め、家出の日を忌日と極め、外に子なければ養子して引續(ひきつぎ)、嫁をむかへ家督を讓り、我身は別宅に暮し候、妻は娘の事而已(のみ)今に言暮(いひくら)し、神佛參りの外、何の樂しみもなし、我身は年々江戸へ下り、月花の詠(えい)に心を紛(まぎらは)し侍れば、いま代(よ)に有(ある)事、誠のことに候はゞ、母も蘇生の心にやあらん、何國(なんのくに)如何成(いかなる)所にいかなるさまにやありしと、涙を流尋(ながしたづぬ)る故、さらば御怒りもなく對面もあるべきやと、念比(ねんごろ)にさとして、有(あり)し次第、有(あり)の儘に物語(ものがたり)ければ、心がらながら淺間敷(あさましき)身とはなり候、何とぞ此上の御厚志に御世話を以(もつて)、身ぬけの儀賴入(たのみい)る也(なり)、外聞も有之(これあれ)ば、國元へ遣し候儀は難成(なりがたく)、江戸にて片付(かたづけ)候、迚も親子に申(まうし)て有付(つけあり)候、面(をも)てぶせなれば、江戸店(だな)の内(うち)相應なる手代に遣し、所帶を持(もた)せ、母をも呼下(よびくだ)し對面いたさせ申度(まうしたし)と、切に賴(たのみ)ける故、扇屋方へ行(ゆき)て相談に及びしに、たかむら事、年季も來年は明(あ)くとの事、彼是談合の上、金子百兩にてうけ出し、榮次へ渡しけると也。彼(かの)身請(みうけ)の相談に付、榮次方へ行(ゆき)、かれ是たかむら方へ、しばらく音(おと)ずれせざりし時、たかむら方より文(ふみ)こしけるに、

  啼止し蟲をあんじて待夜かな

といふ句を書(かき)てこしたる由。右は

  いたづらに打とけはせぬ氷室守

と言(いふ)句に白扇樓(はくせんらう)篁(たかむら)と書(かき)し扇を、田中持(もち)ける故、うるはしき扇なりと言(いひ)ければ、これはかくかくの女なりと田中語りしを、かいつけぬと或人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「木屋榮治」の名が途中から「榮次」となっているのはママ(因みにカリフォルニア大学バークレー校版でも同様。訳では「栄治」で統一した)。かなりの長尺版の世話物であるが、発句を各所に配して弛みがちな部分を上手く引き締めてある。悪くない話柄である。五月雨の頃合いと三つの句は季詞が合わないが、私は守旧派ではないので全く気にならない。斯くも好きな話なれば、訳にはそこそこに仕掛けをしてある。お楽しみあれかし。

・「雨降り降りまさりて」底本では二番目の「降り」の右に原本ママ注記であるが、衍字とする必要を私は認めない。

・「扇や」底本の鈴木氏注に、『三村翁「扇屋は江戸町一丁目扇屋宇右衛門が本家なるべし、こゝには、安永より文化年間、篁なる娼婦は見えぬやうなり、江戸町二丁目あふぎや与三郎、同藤右衛門、角町扇屋徳兵衛、京町一丁目扇屋八郎兵衛、などあり、或はこれらの家なりや、草々一観したる故検出せず。」』と引く。岩波の長谷川氏注は本家扇屋宇右衛門のみを示され、『ただし後出の白扇楼とはいわず五明楼という』と注されておられ、三村翁も長谷川氏も、これ、なかなかの通人振りをお示しになっておらるる。

・「新造」女郎の一階級。振袖新造・留袖新造(禿から上級遊女になれない妓や十代で吉原に売られたために禿の時代を経なかった妓がなる新造。振袖新造は客を取らないのに対し、この留袖新造は既に客を取った)・太鼓新造(女郎としては人気がないものの芸が立つことから主に宴会での芸の披露をした新造)・番頭新造(年季が明けて身寄りのない遊女がなることの多い花魁の世話役)があるが、普通は振袖新造を指す。女郎屋では七歳位から奉公に上がり、禿から十六~十七歳で初めて客をとるが、新造はその前段階で、若過ぎるために未だ水揚げの済んでいない見習い女郎のこと。姉さん女郎の付き人として、身の回りの世話をし、姉さん女郎のところに複数の客が登楼している際などに、待たせる方の客の話相手をするのも大切な仕事で、美人で器量がいいと、引込新造(振袖新造の中でも禿時代から花魁に付いて通人の接客を学んできた、謂わば花魁の候補生を指す)となることが出来た。但し、この篁はこの時点で満二十六にはなっており、振袖新造というのはちょっと無理があるように思われはする(そもそも来年年季明けとある)。でも、ま、いいか――

・「朝涼し懸物かけてかしこまり如蘭」は、

 あさすずしかけものかけてかしこまり

で俳号は「ぢよらん(じょらん)」であろう。町人らしいが退屈な月並句である。

・「今宵私新造をあげたまひ」「私新造」は未詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが『今宵は名代(みやうだい)の新造にて御遊有(おあそびある)べし』となっており、長谷川氏はこの「名代」に注して、『揚げた女郎に他の客などのある時、一時代りに客の相手をする女郎』とあって非常に分かり易い。ここの現代語訳はこの「名代」を使うこととした。

・「先ぴ」底本では「ぴ」の右に『(非)』と補助注。

・「伊丹」現在の兵庫県伊丹市。岩波版長谷川氏注に、『酒造業者が多いが株を持たぬと酒を醸造できな』かったとある。ウィキの「酒株」(さけかぶ)によれば、『江戸幕府が酒造統制の基本政策として行った、醸造業の免許制の』一つで「酒造株」とも称した。『酒株そのものは、将棋の駒の形をした木製の鑑札である。表に酒造人の名前と住所、そして酒造石高が書かれ、裏には「御勘定所」と書かれ、焼印が押してあった。 これが、酒株または酒造株と呼ばれるものであるが、日本史の中で「酒株」というときには、この酒株をとりまく制度全般を酒株もしくは酒株制度と呼ぶようになった』。明暦三(一六五七)年、『幕府は初めて酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、それぞれの酒造人が酒造で消費できる米の量の上限を定めた。これを以て酒株制度の始まりとする』とあり、『原料の米は日本人にとって欠くことのできない主食であり、また原則的には収穫量が決まっていたため、その「限りある資源」である米をどのように配分するかが、つねに江戸幕府の重要な経済課題となっていた』。『酒造りを自由経済原理に任せてしまうと、小さな酒蔵が原料米を確保できなかったり、大きな酒屋が食糧米を酒に加工して囲い込んでしまうといった事態が恐れられた』。『そこで幕府は、それぞれの酒蔵が規模や生産能力に見合った原料米を、その年々の米の収穫量や作柄と比例して公平に仕入れることができるように、酒株を発行し、醸造業を今でいうところの免許制にしたのである』とある。『酒株は、同一国内であれば譲渡や貸借も許されたので、酒屋が経営不振になったり、相続人がいない場合、近くの有力酒屋がその酒株を買い集めて、経営規模を拡大することがよくあった。 一時的に酒造業から離れる場合も、株を持っているのに使わない休株(やすみかぶ)や、一時的に他の酒造人に使わせておく貸株(かしかぶ)といったことも行われた』としるす。但し、本話が記された前後の『文化文政年間は豊作の年が続き、米の在庫がだぶついてきた。米価は下落し、農民は豊作ゆえに困窮するという時代になった。そこで幕府は、米を酒に加工しておけば良質な形での貯蔵となり、また他藩や江戸表へ輸送する際も米より便利であるとして、おおいに酒造りを奨励した。その典型的なものが』文化三(一八〇六)年に幕府が出した文化の勝手造り令で、これによって、『まったく酒株を所有しない者でも、新規に届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度』が有名無実化した時期でもあったことが分かる(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である)。

・「手代持の店」主人から全権を委任された手代に管理を任せた支店。

・「帳付」岩波版長谷川氏注に、『正式に届け出たこと』とある。

・「迚も親子に申て有付候、面てぶせなれば」よく意味が分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが『とても親子と申(まう)しては面(をもて)ぶせなれば』となっており(「面ぶせ」は「面伏せ」で顔が上げられぬほど面目(めんぼく)ないこと、不名誉の謂い)、これならよく意味が通る。ここもこれで訳した。

・「啼止し蟲をあんじて待夜かな」は、

 なきやみしむしをあんじてまつよかな

で、その後、音沙汰のない田中に対して、恋文の体(てい)を装って到来を慫慂したもの。「啼止し」には、かの折りに篁が思わず落涙したことを思い出させる効果があり、「蟲」には「無視」も掛けてあるか。

・「いたづらに打とけはせぬ氷室守」は、

 いたづらにうちとけはせぬひむろもり

で、これは既に身請けの話も万端整って後、徐ろに田中が篁に以上の首尾を語りに行った際に篁が挨拶句として書き贈ったものであろう。「氷室守」夏に貴人に献上する氷室の氷の番人で、表面上の少しも「うちとけぬ」お堅い殿方の意から、氷が「溶けぬ」の縁として組ませた。「いたずらにうちとけぬ」は、容易にはなびいて下さらないの意が恋の恨みの表であるが、実はそうではなくて、裏に「いたずらになる」、無駄になる、駄目になる、いい加減にするの意が掛けられていて、「いたずらにうちとけ」て軽薄に私を弄ぶことも出来たのにそれを少しもなさろうとせぬばかりか、かくも私を氷室「守」の如く、大切に、お「守」り下さった貴方さま、と言う深い感謝の情が含ませてある句である。……それにしても、この才媛の篁、私が嫁にしたかった気がしてきた……。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 親子が年を経て巡り逢うという奇談の事

 

 ある諸侯に目を掛けられて御座った医師田中某(ぼう)と申す御仁のあって、療治の暇(いと)まには、よう、俳諧をも嗜んでおらるる由。

   *

 かの者、往診にて、たまたま吉原町へも行くこともよう御座ったと申す。

 ある五月雨(さみだれ)の頃のこと、例によって吉原町へ往診参ったところが、殊の外、患者や調子の悪い者の多く御座って、えらく時間がかかってしもうたと申す。

 その日はまさに折から、五月雨の時期に相応しき降りの日に御座って、降りに降って一向止まず、屋敷のある麻布へ帰ろうにも、時も時、その道のりも遙かに遠く御座ったに加え、その翌日は、この吉原に近い浅草辺りの、よんどころなき病者のおらるる屋敷へ往診致さねばならぬ決まりとなって御座ったによって――遊興の心は、これ、全く御座らなんだが――上がりそうもない雨を待っておるうち、知れる俳友なんどの吉原通いにも行き逢(お)うてしもうて、かの者に頻りに誘われ、仕方のぅ「扇屋」と申す遊女屋に一夜(ひとよ)を明かすこととなって草鞋を脱いだ。

 さても、酒宴の興に新造(しんぞ)の「篁(たかむら)」と申す遊女を揚げて御座ったが、この篁、その宴席にて田中が持って御座った扇に、

 

  朝涼し懸け物かけてかしこまり   如蘭

 

と書いて御座るを垣間見、

「……のぅ、この扇の発句(ほっく)は……何方(どなた)のお作りになったものでありんすか?……御身の御心安きお人で、これ、ありんすか?……」

と訊ねたによって、

「……ああ、これか。これは拙者の俳諧の友にして。そうさ、心安き御仁で御座る。」

と答えたところ、

「……そのお人は、これ、お江戸のお人でありんすか?……それとも……上方のお人で、ありんすか?……」

と重ねて問うたによって、

「……ああ、そのお方は、大阪の人じゃ。……しかし、なにゆえ、そのようなことを訊くんじゃ?」

と問い返したところが、黙って俯くと、幽かに妙な苦笑いをしたかと思うと、如何にも田中殿の問いを紛らかそうとするかの如(ごと)、まるで関係のないことをおちゃらけて呟いたかと思うたら、その座をふいと立ち去ってしもうたと申す。

 ところが暫くすると、禿(かむろ)が一人、篁の使いと申しやって参り、田中を他の座敷へと招じ入れて、またしても徐ろに、

「……貴方さまは……かの発句を読まれた大阪のお人と申さるる御仁とは、これ……お心安き仲とのこと。……どうか、そのお人の年頃や、お名前など……お聞かせ下さいませぬか?……」

と、何か妙に切羽詰った趣きにて切(せち)に訊ねて御座ったによって、乞わるるまま、

「……この発句の主(ぬし)は、大阪の人にて木屋栄治(きやえいじ)と申す者じゃが?……」

と答えた。

 すると――篁――体を震わせて――涙にくれ――ぐっとさし俯き、

「……これには……長きお話しも御座います。……御座いまするが……今宵は別に客も御座いますれば……委細を申し上ぐること、これ、叶いませぬによって……今宵は名代(みょうだい)をお揚げ遊ばされませ。……いえ、その、直ぐに重ねて妾(わらわ)をお揚げ下さらずとも宜しゅう御座いまするが……何時でも結構にて御座いますればこそ……何とかどうか!……その……御遣り繰りをなさられて……何としても……御都合をお付け遊ばされ……いいえ!……済みませぬ!……どうかやっぱり! ここ一両日がうちに!……きっと妾(わらわ)が身(みぃ)を……これ! 今一度! お揚げいただくため! どうか! お越し下さいませ!……きっと必ず!……お越し下さいましよ!……ほんに!……不躾にして失礼なこととは存じますれど……決して……少しも、ご迷惑は、これ、お掛け申しませぬによって――どうか! 是非、是非!――この我儘なる儀、これ、御願い申し上げ奉りまするッ!…………」

と、訳の分からぬ意味深長の謎の詞を立て続けに述べ立てたかと思うと、そのまま、

「――うわぁーッツ!――」

と涙に噎(むせ)んでしもうたと申す。

 しかし、田中殿、その篁が謎めいた言葉の、その端々にも――何やらん、深き誠心の表に表われておるを――これ、感じたによって、すげのぅ否むことも憚られ、

「……さらば……そうさ……二日後の夜半には来訪致そうぞ。――きっとじゃ。」

と約束なして、その夜は別れたと申す。

   *

 さて、約束の日に至り、扇屋へと参り、かの篁を揚げて、一通りの宴も済みて後(のち)、篁は禿なんどをも退ぞけ、徐ろに言うようは、

「……お恥ずかしきことながら……妾(わらわ)が身は……その――木屋栄治が娘――袖――と申す者の……なれの果てにて……御座いまする。……今より八年以前、父の江戸店(だな)の手代(てだい)が、これ、用事のあって大阪へと登り、半年ほど父の店にて働いて御座いましたが……若げの至り……ふと心得違いより、この手代と密通致しまして。……その後(のち)、手代は江戸へ戻り下ることと相い成りましたれど……別れかねて……家より……金子百両も持ち出し……かの者と途中にて落ち逢って……手に手をとって駆け落ち致しましたので御座います。……何と申すところで御座いましたか……もう今は忘れてしもうた……ここかしこの田舍を、これ、半年ばかりも二人して浮かれ歩き……その後(のち)半年ほどもともに暮らしましたれど……かの男……心立て、これ、実は良からぬ悪者(あくしゃ)にして……身持ちも不埒なれば……朝夕の煙りも立ちかぬるまでに困窮致す仕儀とあいなって御座いました。……そうして遂には……捨てられ……かかる苦界(くがい)に……身を沈めらるることと……相い成って御座いました。……かくも憂き勤めに身を堕としたも、これ、親を裏切ったる罰(ばち)と先非(せんぴ)を悔やみましたれど……それとてももう……甲斐もなし。……稚(いとけな)き頃より、父の傍らにて俳諧・生け花・囲碁・将棋・琴なんどを、これ、見よう見真似に習い覚えておりましたによって……日夜に変わる客ながら……さまで――かの憎き男ほどには――心ない客の来たることも、のぅ……せめての、この苦も、かくなれば軽(かろ)く勤めて御座いまする。……これとても、考えてみれば親の恩なりと身に染みて感じ入るばかり。……されど、両親はさぞ、妾(わらわ)がこと、今も――憎しとも、悲しいとも――お思いになっておられましょう。……せめて一度は、これ、その便りなんどをば聴きたきものと、明け暮れ、神仏に祈って参りましたが、その甲斐のあって、思いも寄らず、貴方さまの扇の発句より、父上の息災(そくさい)にましますことを承りましたれば、御身を――神とも、仏とも――思うて御座いまするればこそ! この上は! どうか、お情けに! 対面(たいめ)とては叶うまじいことにては御座いますれば、せめて!――母に宛てての文(ふみ)ばかりは――これ……お届け下されたとならば、御恩、これ、一生、忘れ申しませぬゆえ……どうか!……」

と、さめざめと泣く。

「……もとより親は相応の暮らしの者なれば……その娘の……かかる勤め……これ、知れれば……外聞のほども、如何ばかりか苦しゅうお思いにならるることと存じますれば……どうか一つ、ゆめ、妾(わらわ)が境涯に就きては、決してお洩らし下さいまするな。……」

と言い添えて御座った。

 されば、これを聴き終えた田中殿、

「……願いの趣き――これ、確かに聞き届けた。――良いように――我ら――計い致そうぞ。」

と請けがって、翌朝、別れて、吉原を後にした。

   *

 さても、この木屋栄治と申すは、大阪にてもよほどの大商人(おおあきんど)にして、伊丹には酒造の株(かぶ)さえも持って御座って、江戸にも手代持ちの店(たな)が五、六ヶ所もあると申す、お大尽で御座った。

 六年以前より隠居の身となったとか申し、毎年毎年、二百金あまりの金子を携えては江戸表へ出でて、月花遊興をこととし、俳諧を楽しんで御座る風流人でも御座った。

 そんな男に、何故か、この堅物の田中殿、ふとした縁にて出逢い、心安うなって御座ったと申す。

   *

 さても田中殿、吉原から帰った数日後のこと、やっと時を割くことの出来たによって、栄治が旅宿へと至り、秘かに人払いなど致いた上、

「……さて。……御身はかねがね、子はなくして養子に家を譲り、今は隠居なさっておらるると承って御座ったが。これ――女子(をなご)を一人――儲けなすったこと――御座るのでは、あるまいか?……」

と質いた。

 すると、栄治、

「……な、何を申さるるかと思えば!……いんや! 子なんちゅうもん、わ、わては、決して持ったことは、御座ない!――」

と妙にいきり立って応じた。

 されば、田中の言う。

「――八ヶ年以前――十九歳の女子(おなご)――袖――と申すそなたが娘――家出致いたこと――これ、御座ろう。……」

と静かに、しかしきっぱりと申したところが、栄治、胆を潰し、

「……い、い、いったい……どないして……そ、そないなこと……知らはったんや!?……」

 田中の言う。

「……さて――その息女――今、その在所の知れればこそ。――さても――そうとなったれば――貴殿――かの娘――これ、如何(いかが)取り計らいなさるるお積もりか?」

と逆に質いた。

 と――栄治――これ、涙をはらはらと流し、

「……されば、この上は何をか包み隠しましょうや!……唯一人の娘にて……聟を取り、家を譲ったろうと、あれやこれや、大事大事に世話致い参りました娘……何故か、良き縁の遠く、手ものぅ年月を送るうち……江戸のお店(たな)の手代が、これ、大阪に逗留致いておりましたるうち……この娘と密通致いたものか……手代が江戸へ帰ってより数日を経ずして、娘袖、これ、家出してしもうたによって……それよりいろいろと、手分けして尋ね捜し……占いの祈禱のと百計を尽くしましたれど……いっかな、見つかりませなんだ。……母親は、これ、『神隠しに逢(お)うたんではありゃしまへんかッツ?!』なんどと狂気の如くなって御座いましたれど……その行方(ゆくえ)、これ、一向に知れねばこそ……奉行所へも行方知れずとなったる旨の届け出を済ませ……なに……金子も百両持ち出して御座いましたも知れておりましたによって……その頃にゃ、もう、これはてっきり、男と連れ立って駈け落ち致いたに違いなきと、どこかで思うてはおりましたが……ほどのぅ江戸のお店(たな)より、かの手代は江戸へも帰って来ず、やはり行方知れずの由、申し越して参りましたによって……こりゃもう、かの者と申し合わせた上の憎っくき仕儀ならんと思い至りまして御座いました。……されど、かくなっては最早、詮儀せんとする手立てものぅ……外聞の悪しきを厭い……『神隠しに逢(お)うた』と致すことと極(きわ)め……家出の日を忌日と決め……外に子(こぉ)もなければ、養子を貰(もろ)うて、店を引き継がせて、外より嫁をも迎えた上、家督をもすっかり譲り……我が身は、妻と別宅に暮すことと相い成って御座います。……妻は今も……娘のことのみ言い暮らす毎日……娘の還るを、ただただ祈る神仏参りの他はこれ、何の楽しみもない様(ざま)にて御座います。……我が身は年々江戸へと下り、かくも月花の詠(えい)に心を紛わすという体たらく。……それが!――今も袖が世に在ること――これ、誠のことにて御座いまするならば!――これは!母なる妻も生き返ったる心地となるに相違御座いませぬ!――さっ! さても! 何処(いずこ)の国! 如何なる所! 如何なる有様にて、これ、存命致いておりまするので御座いまするかッツ?!……」

と、これもまた、涙を流して乞い願(ねご)うて、縋るように訊ねたによって、

「――さらば――お怒りもなく、対面(たいめ)して戴けまするな?!」

と、田中殿、念を入れて諭した上、見たまま聴いたままを隠すことのぅ、ありのままに、物語り致いたと申す。

 それを聴き終るや、栄治は涙を流しつつ、

「……自業自得、とは申せ……浅ましき身とは、なり果てて御座いまするなぁ。――どうか一つ、何卒! この上の御厚志(ごこうし)に御世話(おせわ)を以って……あんじょう――吉原より身抜けの儀――これ! お頼(たの)申しまする!……養子に嫁も貰(もろ)うて家業も既にして継がせてしまいましたによって、外聞も大きに御座いますれば、凡そ、国元へ連れ戻すと申す儀は、これ、どうにも成し難く、江戸にても誰(たれ)か適当なる婿を見つけて片付けんと存じまする。……親子と申したかて、これ、とてものこと、不名誉極まりなきことなれば。尋常に親子の縁を戻さんとするは、これ、難しゅう存じます。……されば、そうさ……江戸のお店(たな)のうちの、相応なる手代に、向後(こうご)の暖簾(のれん)分けなんどの因果をも含めた上、嫁として宛てがい、所帯を持たせようかとは思うておりますれば。……かく成して、やや落ち着いたとならば……これ、母なる者をも大阪より呼び下らせ、晴れて三人、対面(たいめ)なんどをも致しとぅ存じてはおりますれば……はい……」

と、切(せち)に頼んだ。

   *

 されば田中殿、数日の後、扇屋主人が方へ参り、人払いをさせた上、ここだけの話と、釘を刺しつつも有体(ありてい)に、あらまし、まことを語って、率直に相談に及んだところが、扇屋の主(あるじ)の曰く、

「……へぇ。……そうで御座したか。……いや。かの、篁がことならば、年季も来年には明くることと相い成って御座いますれば。……」

とのことなれば、後は、かれこれ談合の上、一年の前倒しとして金子百両にて――木屋の江戸遊興の小遣いの半値なればと田中殿の独断の即決にて――請け出だすことと相い成る。

 その日のうちに栄治が旅宿を訪ね、首尾を伝えたところが、栄治も大きに悦び、その夜のうちに、江戸の店(みせ)より即金百両を取り寄せ、田中殿に手渡したによって、次の日の夜、田中殿、ようやっと扇屋へと出向き、主へ件(くだん)の百両、確かに手渡した上、篁を揚げて、徐ろに、かの顛末を語ったと申す。

 明けて翌朝、田中殿は篁――基い――晴れて袖へと戻った女子(おなご)を伴(ともの)うて吉原を出でると、父栄治が旅宿へと連れ行き、無事、引き渡いたと申す。

   *

 さて。

 この間、田中殿、かの身請けの相談につきて栄治方へ相談に行き、また秘かに扇屋主(あるじ)と談合致すなんど、それをまた皆、多忙なる医業の合間合間に成して御座ったれば、かれこれ、篁が方へは、暫く訪れることも出来なんだ――結局、篁へ請け出しを告げに、かの者を揚げに参ったは、篁の告白を聴いたる日より、凡そ一週日余りも経った後(のち)のことにて御座った由――によって、その間、再来のなきに心痛めて御座ったかの篁が方より、文(ふみ)の参って御座ったと申す。その消息には、

 

  啼き止みし虫をあんじて待つ夜かな

 

という句を認(したた)めて寄越したと申す。

   *

……さてもこの話、

 

  いたづらに打ちとけはせぬ氷室守

 

という句に

 

―― 白扇楼 篁 ――

 

と書い御座る扇を、この堅物医師田中殿の持って御座ったによって、

「……田中殿も隅に置けませぬなあ!……いやいや! 何とも麗しき扇をお持ちじゃて!……」

と茶化したところが、

「――いや! これは。……さても貴殿は口の堅い御方なれば……他言無用にてお願い申す!……実はの、この篁と申すは――かくかくしかじか――の縁の女子(おなご)にて御座って、の。……その折りの礼として、この扇を貰(もろ)うた。そうしたものじゃによって、決して廓(くるわ)遊びの戦利品にては、これ、御座らぬ!……」

と田中殿の語って御座ったを、書きつけおいた、それを、時日も相応に経ったによって、そろそろ、かくなる話柄のお好きなる根岸さまへ、こっそり、ご披露……

 

とて、とある御仁の、私だけに語って下されたものにて、御座る。いやいや、さればこそ、このお袖が生きておる以上は、これを読まれたあなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞って置いて下されよ。

2015/02/26

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 五句

    *

 

石よりも地よりも生ける蝸牛冷ゆ

 

冬立ちて十日猫背の鵙雀

 

暗黒に水らぎらして廃れ簗

 

絶対安静見えざる虹をたしかに懸け

 

絶対安静眦(まなじり)に鵙の天

 

[やぶちゃん注:この昭和三一(一九五六)年の十一月の条には『心臓発作続く』とあるから、これはこの年のそれ以前の作と考えておく。次に十月に行った鵜飼の句群が載る関係上の推測であるが、必ずしも時系列で並べられていると考える必要も勿論、ない。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 奥美濃

 奥美濃

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三一(一九五六)年の十月の条に、奥美濃の上牧(かみまき)の紙漉きを見るとある。美濃市乙狩(おとがり)。]

 

子の母がここにも胸濡れ紙を漉く

 

紙砧をりをり石の音発す

 

[やぶちゃん注:「紙砧」「かみきぬた/かみぎぬた」。紙を作るために原料の楮(こうぞ)の皮を台に載せて木づちで敲くこと、また、その台のことをいう。画像を検索してみるとこの台は木製の他に石製もあることが分かった。]

 

顎に力をとめ紙漉く脚張つて

 

働く血透きて紙漉くをとめの指

 

漉紙に漉紙かさぬ畏るる指

 

紙しぼる赤手(あかて)の上を水流れ

 

紙しぼる流れの端に鍋釜浸け

 

隆き胸一日圧(お)して紙しぼる

 

水照りて干紙に白顕(た)ち来る

 

干紙の反射に遊ぶ茶目黒目

 

紙を干す老いの眼搏つて鵙去れり

 

若き日の如くまぶっしき紙干場

 

死なざりし蜂干紙にいつ死ぬる

 

峡より峡に嫁ぎて同じ紙を漉く

 

遠燈点くはつとして紙漉場点く

 

紙漉女「黄蜀葵糊(ぬべし)」ぬめぬめ凍てざるもの

 

[やぶちゃん注:「黄蜀葵糊」の「黄蜀葵」はアオイ目アオイ科トロロアオイ Abelmoschus manihot のこと。ウィキトロロアオイに、『オクラに似た花を咲かせることから花オクラとも呼ばれる。原産地は中国。この植物から採取される粘液はネリと呼ばれ、和紙作りのほか、蒲鉾や蕎麦のつなぎ、漢方薬の成形などに利用される』とあり、『主に根部から抽出される粘液を「ネリ(糊)」と呼び、紙漉きの際にコウゾ、ミツマタなどの植物の繊維を均一に分散させるための添加剤として利用される。日本ではガンピ(雁皮)という植物を和紙の材料として煮溶かすと粘性が出て、均質ないい紙ができたといわれ、それがネリの発想の元となったという説がある』。『根を十分に洗い、打解し、水に一昼夜漬けておくと粘性分である多糖類が出てくるので、濾して塵などを除去して使用する。抽出したネリは保存がきかず、腐りやすいため冬の気温が低い時期に紙漉きが行われる。紙漉き場などに行くとクレゾール臭がしていることがあるが、これはトロロアオイを防腐処理のためクレゾールなどに漬けているからである。トロロアオイを乾燥させて保存しておく事も可能だが、粘性が落ちると感じる人もいるようである』。『現在、機械抄き和紙はもちろん、手すき和紙の中でも古来の方法でネリを使用しているところは少なく、ポリアクリルアミドなどの化学薬品を合成ネリとして使用しているところが増えている』とある。和紙製造の特徴という(引用らしい)に、江戸時代のこの「ネリ」の方言として、「ネベシ」(美濃)・「ノリ」(土佐)・「タモ」(駿河)・「オウスケ」(九州)とし、『ほかに、ニレ、ニベ、ヌベシ』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 奈良――正倉院に入る

 京都から奈良へと、涼しい旅をした。路は、気持のいい森や美しい景色の間を通っている。すでに数多い奈良の魅力に関する記述に、何物かを加えることは、私の力では及びもつかぬことである。この場所のある記憶は、永遠に残るのであろう――静かな道路、深い蔭影、村の街路を長閑に歩き廻る森の鹿、住民もまた老幼を問わず同様に悪気が無い。ラスキンはどこかで、今や調馴した獣を野獣化することに努力しつつある人間が、同様の努力を以て野獣を調馴することに努めるような時代の来らんことを希望するといっている。事実、日本の野生の鳥類や哺乳動物は、多くの場合我国の家禽や家畜よりも、余程人に馴れている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」では、この京阪・奈良の旅については以下の様に纏められてある(注記記号は省略した。以前に注した通り、神戸着は六月七日とされる)。

   《引用開始》

モースは神戸でも数日間ドレッジしたのち、大阪京都方面の旅に出発した。神戸から京都までの鉄道は明治十年二月に全通していた(神戸-大阪間は七年五月)から、もちろんモース一行もそれを利用しただろう。ただ、いつ神戸を出発したのかは不明。その後大阪、京都、奈良をまわり、ついでふたたび京都と大阪に戻ったらしいが、足取りの詳細はわからない。そのうち京都では、清水、五条坂、栗田などの製陶所を訪問、陶器づくりの実際を見学するとともに、多数の陶器を購入した。道八、吉左衛門、永楽、六兵衛、亀亭などの陶工とも会って、陶器についての知識を仕入れている。また、奈良では、偶然正倉院の年一回の虫干しに出会い、居合わせた役人の一人が顔見知りだったので、許可を得て倉の中まで入り、古い陶器の写生をしている。正倉院の内部にまで立ち入った数少ない外国人の一人だろう。

   《引用終了》

正倉院のシークエンスは次の段落に描かれる。……つーか! 私の周囲には正倉院の中に入った人って、いないんですけど! 磯野先生!

「深い蔭影」原文“the deep shadows”。まさに新緑の幽邃な木蔭の謂いである。

「ラスキンはどこかで、今や調馴した獣を野獣化することに努力しつつある人間が、同様の努力を以て野獣を調馴することに努めるような時代の来らんことを希望するといっている。」原文“Ruskin has somewhere said that he hoped the time would come when man would make as much effort to make wild animals tame as he now does to make tame animals wild;”。「ラスキン」は十九世紀イギリス・ヴィクトリア朝時代を代表する美術評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)。以下の出典は未詳。識者の御教授を乞う。「調馴」あまり聴かない熟語であるが、「ちょうじゅん」と読ませて、人に馴れさせること、人に馴れることの謂い。]

 

 奈良は日本の古代の首都であった。神聖な旧古の精神がいまだにこの地に漂っている。人は壮厳な古社寺の研究に数週間を費し得る。高い柱の上にのっている驚く可き古い木造の倉庫は、千年前、当時の皇帝の所有物を保存するために建てられた。これは確かに日本の駕異の一つである。この建物の中には、事実皇帝が所有した所の家庭用晶や道具類、即ち最も簡単な髪針(ヘアピン)から、ある物は黄金を象嵌した最も精巧な楽器に至る迄、及び台所道具、装飾品、絵画、書籍、陶器、家具、衣琴武器、歩杖、硯、墨、扇――つまり宮殿の内容全部が保存してある。この蒐集が如何に驚嘆すべき性質のものであるかを真に理解する為には、アルフレッド王に属した家庭用品を納めた同様な倉庫が、英国にあるとしたら……ということを想像すべきである。一年に一回、政府の役人がこの倉庫の唯一の入口を開き、内容が湿気その他の影響によって害されていることを確めるための検査を行う。幸運にも私は、この年一回の検査の時奈良に居合わせた。そして役人の一人を知っていたので、彼等と共に建物の内部に入ることと、古い陶器を写生することとを許可された。厳かな役人達の恭々しい態度には興味を覚えた。すべて白い手袋をはめ、低い調子で口を利いた【*】。

 

* 数年後日本の政府は、これ等の宝物を、それ等の多くの美しい絵と共に説叙した本を出版した。

 

[やぶちゃん注:「アルフレッド王」(Alfred the Great 八四九年~八九九年)はイングランド七王国のウェセックス王。兄エゼルレッド王の死後、王位を継承、アングロ・サクソン時代最大の王と称せられ、イギリス史に於いて「大王」と称される君主(事蹟は参照したウィキの「アルフレッド大王」を)。原文は“King Alfred”である。

「説叙した本」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 奈良から京都へ至る人力車の探は、この上もなく気持がよかった。道路は、茂った森林の間をぬけては魅力に富んだ開濶地に出、最も純粋な日本式生活が随所に見られた。この国の美を心行くまで味う方法として、人力車に乗って行くに如くものはない。人力車に乗ることは、まるで安楽椅子によっかかっているようで、速度は恰度身体に風が当たる程度であるが、而も目的地に向って進行しつつあることを理解させるに充分な丈の速さを持っている。ある場所で我々は河を越したが、深い砂地の堤を下りる代りに、平原の一般的高さよりも遠か高所にある河を越す可く、ゆるい傾斜を登るのであった。河は文字通り、尾根を縦走している! 何世紀にわたって河は、山から押流された岩層を掘り出す代りに、両岸に堤を積み上げ積み上げすることに依て、その流路に制限されて来た結果、河床は周囲よりもきわ立って高くなり、まるで鉄道の築堤みたいになっている。路の両側には、徒渉場にさしかかろうという場所に、深い縦溝を掘った石柱があり、大水の時には水が道路を洗い流すのを防ぐ可く、これ等の溝に板をはめ込む。

[やぶちゃん注:人力車の「通」ともいうべきこのやや自慢げな叙述は、来日以来のモースと人力車の付き合いを知っていると、微笑ましくなってくる。

「開濶地」人工的に広く開いた開墾地。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 八尾の高安古墳を調査する

 大阪にいる間に、我々は大阪を去る十二マイルの服部川と郡川の村に、ある種の古代の塚があるということを聞いた。我々は人力車に乗って完全に耕された大平原を横切った。日のとどくかぎり無数に、典型的なニューイングランドのはねつるべがある。これは洗い井戸から灌漑用の水を汲み上げるのに使用する。塚はブルターニュやスカンディナヴィアにあるものと同じ典型的なドルメンで、巨大な塚がさしわたし十フィートあるいは十二フィートの部屋へ通ずる長い狭い入口を覆っている。我々はそれ等を非常な興味を以て調べ、そして一千二百年、あるいはそれ以前の人々が、如何にしてこれ等の部屋の屋根を構成する巨大な石を持上げ得たかを、不思議に感じた【*】。

 

* これ等の構造は、一八八〇年三月発行の『月刊通俗科学』の五九三頁に、「日本に於るドルメン」と題する一文に挿画つきで記述した。

 

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に以下の様にある(注記記号は省略した。当該書二五三~二五四頁)。

   《引用開始》

 また大阪でモースは、服部川・郡川の横穴式石室(現八尾市の高安千塚古墳群)を調査している。このときの調査はのち一八八〇年(明治十三年)に、「日本のドルメン(支石墓)」という題で発表されているが、その論文に、大阪専門学校の小川教諭(東京での知り合いと『その日』にあるが、どういう人物か不明[やぶちゃん注:少し後に実際に登場し、モースを接待している。])から矢田部良吉を介してモースにこの石室調査の依頼があったと、調査までの事情が述べられている。そこでモースは種田を伴い、大阪専門学校の小川および天草両教諭の協力を得て、石室を調べたのである。すでに五月七日付『コーベ・アドヴアタイザー』や、同月十七日付『ジャパン・ウイークリー・メイル』に、近くモースが大阪を訪れてこの石室を調べる予定との記事があるから、東京出発の前から調査が計画されていたらしい。なお、同論文によると、少なくとも九箇所の石室を調べたこと、彼がそれを昔の墓と断定していたことがわかる。遠景を含むスケッチ数点と、簡単ではあるが平面  図および断面図も描かれている。

   《引用終了》

 この調査の正確な日時は不明。明治一二(一八七九)年六月初・上旬(神戸発の横浜行の広島丸で帰途についたのは六月十七日)のことである。以下、主にウィキ高安古墳群から引いておく(引用部のアラビア数字を漢数字に代えた)。

 高安(たかやす)古墳群は大阪府八尾市の東部、高安山の麓に分布する古墳群で、現在、二百二十四基が確認されており、全体は大窪(おおくぼ)・山畑(やまたけ)支群、服部川支群,郡川北(こおりがわきた)支群,郡川南支群の四つの支群に分けられている。『八尾市の高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)には約二百基の古墳群が現存しており、その多さからこのあたりを「千塚」と呼ぶようになった。 古墳時代後期の六世紀から七世紀にかけて造られ、大正時代の調査で、かつては六百基ほどあったとみられている。 その多くが、横穴式石室を持った直径十~二十メートルほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高五十~三百メートルあたりに多く分布している。 大抵の場合、南側に開口している』。この周辺では四~五世紀の『古墳時代前・中期にかけては巨大な権力を持ったごく少数の人物が巨大な前方後円墳を造った。しかし古墳時代後期には権力が分散し、財力のある小豪族がこのあたりに勢力を伸ばし、小規模な円墳を造るようになり、多くの墳墓が集中するようになったと考えられている。具体的な被葬者については詳細不明である』。『明治時代初期に モースが開山塚古墳などを調査・スケッチをして、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介している。 また、W・ゴーランドが二室塚古墳の写真撮影を試み、一八九七年(明治三十年)に論文で「双室ドルメン」として発表していることが後の研究で判っている。 なお、坪井正五郎は一八八八年(明治二十一年)に「古墳・塚穴、ドルメン同源説」という論文を発表している』。文化庁の史跡指定の公式に関わる公式報道には、この古墳群は六世紀から七世紀前半に亙って造営されたもので、最も多く古墳が築造されたのは六世紀後半とし、『ほぼ全てが円墳で,埋葬施設は横穴式石室であるが,造墓開始期にはドーム状天井の石室が認められるとともに,韓式系土器やミニチュア炊飯具といった副葬品の出土など,渡来系集団との関わりがうかがえる』。『こうした状況から,高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係をうかがうことができる古墳群であり,我が国の古代国家形成過程を考える上で,欠くことのできない重要な古墳群である』と認定している。なおこの時モースが調査した開山塚古墳は、正式名を郡川一号墳と称し、八尾市郡川(こおりがわ)にある曹洞宗法蔵寺の境内地に現存する。石室内部の広さ約十五・平方メートルで高安古墳群内では最大級とされるものである。額田大玉氏のサイト「古墳とかアレ(仮)」の高安千塚古墳法蔵寺エリア」を参照されることをお薦めする。現況画像豊富。

 なお、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の前掲引用箇所にある「日本のドルメン(支石墓)」に掲載されたモースの高安千塚古墳群の外観スケッチを以下に転載しておく。

 

Takayasukohunn

 

「十二マイル」十九キロメートル強。

「十フィートあるいは十二フィート」三メートル或いは三・六六メートル。

譚海 卷之一 上總國異草・鹽岩・赤蜻蜓の事

 上總國異草・鹽岩・赤蜻蜓の事

 ○上總國某郡關戸村と云處に先年異草を生じたり。花は緋桃の如く、はなのしべ五色にて層々臺(うてな)をなせり。年々生じたるが十一年にして生ぜず。金線重櫻(きんせんかさねざくら)と云もの也とぞ。又房総の堺(さかひ)長狹郡(ながさのこほり)に浜村と云處に鹽(しほいは)岩といふものを出す。巖高山と云(いふ)日蓮宗の寺の山中より出る也。蜀郡より出る石鹽(いしじほ)のたぐひなるべしとぞ。又その国海邊へ出てみれば、秋の末南のかたより、丸くかたまりたる赤きもの、潮に乘じていくらも流れくる。海邊に着(つく)とき見れば、皆赤蜻蛉のかたまりたるにて、海をはなるれば飛(とび)ちりて北をさしてさる。いづ方よりくるといふ事をしらず。されば赤とんぼは此邦より生ずる物にあらずといへり。

[やぶちゃん注:「蜻蜓」音は「セイテイ」で、ヤンマ。ここはトンボの別称で、「とんぼ」と訓じていよう。

「上總國某郡關戸村」不詳。この時代の上総国に関戸村を確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「金線重櫻」不詳。識者の御教授を乞う。

「長狭郡」安房国にあった郡。現在の鴨川市の江見各町及び東江見・西江見・四方木に当たる。

「鹽岩」岩塩層であろう。塩には殺菌と止血効果がある。

「巖高山と云日蓮宗の寺」現在の鴨川市内浦にある岩高山日蓮寺かと思われる。鴨川観光サイトのこちらによれば、日蓮が小松原法難(文永元(一二六四)年に小松原(現在の千葉県鴨川市広場)の鏡忍寺にて以前から恨みを持っていた念仏信者の東条景信が日蓮を襲い、弟子の鏡忍房日暁と信者の工藤吉隆が殺され、日蓮も額を斬られて左手を骨折、重傷を負った事件)で刃傷を受けた際、岩高山の窟の砂を削って血止めに使用したと伝える(現在は住職管理人不在)。耳嚢 巻之二 人の不思議を語るも信ずべからざる事」にこの窟内に塩を生ずることが記されてある。

「蜀郡」中国の蜀、四川省は古代の岩塩で知られる。

「秋の末南のかたより、丸くかたまりたる赤きもの、潮に乘じていくらも流れくる」不詳。印象としては刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica が即、私の頭には浮かぶものの(放射状の褐色の縞模様は赤蜻蛉に見えないかと言われるとちょっと似ているようにも見えるからである)が、こういうアカクラゲについての伝承は聴いたことがない。そもそも刺胞毒が死後でも強いからこんな呑気風流染みたことは言っていられない(ご存じない方は私の海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載の本文及び注を参照されたい)。識者の御教授を乞う。]

柳田國男 蝸牛考 初版(4) デンデンムシの領域

  デンデンムシの領域

 

 他の何れの方言の支配する地域よりも、デンデンムシの領分は廣くして又續いて居る。其分布の實狀は附錄の索引と地圖に讓つたから玆には再説せぬが、大體に於て近畿五箇國は、大和十津川の一小區劃を除いては皆それであり、北は若狹三丹に續いて日本海岸に達し、東は伊勢の海の淸き渚に出でて、一端は尾張三河の國境を堺とし、美濃には入り交つて亦一つの邊境現象を呈しているが、近江は勿論又此領内に入つて居る。西と南とは、大よそ瀨戸内海の周圍はすべて此語に統一せられ、一方は紀州の西半分と阿波一國、九州も豐前豐後の海に臨んだ平野にまで及んで居る。この廣大なる接續地域以外に、飛び散つている例を拾つて見ても、多くは皆近代水運の跡の、辿つて行かれる土地であつた。例へば九州でいふと肥前北松浦の大島、對馬の豆酘、奧州では氣仙の一部及び釜石附近などがそれである。日本海側では能登と越中とにも若干の分布があり、稀には又關東の村落にも其痕跡を見るが、是は上總あたりの濱から、上陸したものとも想像せられる。勿論何れも複合の形を以て存在し、又多くは數語併存の例に入るべきものであつた。

[やぶちゃん注:「三丹」丹後国(丹後地方)と丹波国(丹波地方、但し、多くの場合は京都府中部の南丹は含まない)を合わせた「両丹」(りょうたん)に、隣接する兵庫県北部の但馬国(但馬地方)と併せた謂い。

「豆酘」「つつ」と読む。長崎県対馬の南西端にある町で弥生時代以前から人の住んだ集落で日本神話とも関係の深い土地とされる。日高博嚴氏のサイト「対馬全カタログ」のによれば、地名は単純に「津々」(港)が「豆酘」の字に変わったという説の他、海人のシンボルである蛇を表す「筒」に由来するという説もあるとある。]

 他の何れの蝸牛の稱呼にも、是だけ廣い領域の連續は見られぬのみならず、それが又國の中央の要地を占めて、いまだ他の新たなる異名によつて、喰ひ破られて居ないといふ事實は、自分をして此方言が後にマイマイに代つて流傳したことを推定せしめた一つの理由である。方言は決して記錄文藝の如く、都を源頭として居たとばかりも言へないが、使用によつて物を古くする力は、いつの世に於ても都市は田舍よりは強かつた筈である。さうして假に近畿の人多き地方を中心として見ると、マイマイはもとよりのこと、かつて源順君によって公認せられたカタツブリまでが、今では悉く出でゝこのデンデン領の外側に、分散しまた孤立して居るのである。其他の尚若干の方言が、更に又此二つのものよりも外に在ることは、後段に入つてから之を説く方が便利だと思ふが、たゞ一つだけ特に此際に於て記述しなけれはならぬのは、デンデンに最も近いデエロ又はダイロという方言領である。注意すべきことはこのデエロの領域が、越中南部の緩衝地帶を除くの外、殆ど何れの一地點に於ても前にいふデンデン領と接壌せず又混淆して居ないことである。しかも版圖の大きさに於ては、優にマイマイの支配地を凌ぐものがあつた。越中の下新川郡、有名なる黒部川の下流は、デエロ領域の西南端である。それから北に進んで越後は新發田近傍の小地區を除いて約全部、それから信州は五分の四以上、僅かに天龍の川下のみが、南の方から來たかと思ふマイマイに侵蝕せられて居る。甲州は單に其東北の一隅に、北武藏又は上野からの影響とおぼしきものが認められる外、大體にデエロの領分で無いが、之に反して碓氷嶺東の地は、一圓に此系統の中に入つて來る。但しこれが信州方面からの傳播であるか、或は別に又東北より進み出でたものが、偶然に再び玆に落合つたのかは問題であつて、自分はむしろ後の場合であらうと思つて居る。其理由は稍簡單に失するけれども、奧羽地方は最上川水域の略全部、阿武隈川水域の大部分、及び會津の盆地が共に純なるダイロウの形を保持し、又關東に入つても、是と地續きなる栃木縣北半だけは同樣であるのに、それが南して常陸に臨み、西して群馬縣の平野に降るに及んで、そこに最も顯著なる邊境現象、すなわち變化と複合と數語併存との、色々の事例が見出されるからである。

[やぶちゃん注:「源順君」「みなもとのしたごふ(みなもとのしたごう)」は前出の「倭名類聚鈔」の作者。「君」づけする辺り、柳田先生、結構、お茶目!
 
「デエロ」改訂版では「デェロ」と拗音表記となっている。

「接壌」「せつじやう(せつじょう)。ある地域が他の地域に接近していること。]

 併しこの問題は今はまだ容易に論斷を下し得ない。それよりも以前に知らなければなら ぬことは、方言領域の擴張退縮とが、如何なる力によつて行はれたかといふことゝ、其力は主としてどの方面から働きかけられて居たかといふこと、別の語でいふならば、言語も他の種々の文化と同じやうに、新たに流れて出る源頭の如きものがあったか否かである。日本は此問題を調べて見る爲に、實は比較的都合のよい國であつた。他の大陸の接壌諸國に比べると、外から入つて來た感化が尋ね易いのみならず、事實又其感化が甚だしく少なかつた。中世以後の新しい單語なども、其入口は何れの港であらうとも、一應は先づ京都人の選擇を經て居るのである。從うて蝸牛の次々の改稱の如きも、別に地方に獨立の中心は、無かつたものと見るべきであるが、偶然にもこのダイロウまたはデエロの一語のみは、全く中央と交渉無しに、流傳し侵略したかの如く見える。此點が自分の最初の疑惑であつた。ところが仔細に觀察をして見ると、玆にも一種の邊境現象、即ち大規模なる複合作用が、新たに採用せられる語辭の上に行はれて居たのであつた。それを此場合にあてはめて言へば、デンデンムシは東部の諸國に進出するにつれて、やがてダイロウとなるべき傾向を具へて居たのであつた。從うてこの東西二つの方言領域は、たとへば羅馬が二つの帝國となり、又は足利氏が京鎌倉に立ち分れたやうに、其全體の外に立つものから見れば、依然として合同の一新勢力であつた。是が恐らくは此二つの方言の間に、相互の交渉が殆ど無かつたこと、及びその割れ目の中間に、以前の方言の二種三種が、永く存立し得た理由では無かつたかと思ふ。

柳田國男 蝸牛考 初版(3) 方言出現の遲速

       方言出現の遲速

 

 右に列擧した四つの事實が、幸ひに是からの立證によつて愈々確認せられるものとすれば、次には個々の言葉の年齡といふものを、考へてみるのが順序である。今までの學者には、兎角古い語と正しい語と雅なる語と、この三つを混同しようとする癖があつたやうだが、正しいといふ語は要するに聽く人に誤解をさせぬ語であらうから、土地と時代とによつて變つて居たのみならず、前にも述べたような邊境現象に於ては、同時同處にさへも幾つかの正しき語はあつた筈である。さういふ中から是が一番上品だと認めて、人も我も出來るだけ多く使はうとしたのが、本當は雅語といふべきもので、從うてそれにも追々の推移はあるべきであつたが、我々の間に於てはもう少し狹い意味に、即ち京都に於て歌を詠み文章を書く人の使はうとする言葉のみを、さういふ名に呼んで尊重していたのであつた。文學は由來保守的なもので、又屢々異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として存立するには、到底三馬が浮世風呂に出て來る、鴨子・鳬子の如くなるを得なかったのである。ましてや自由の選擇が許さるゝ部面に於ては、たとへば大宮の内の言葉とても、やはり方言の普通の法則に從うて、移り改まらずには居なかつた。其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに見ようとしたのである。異稱の發見にせよ、音韻の分化にせよ、新たなる生活の必要があれはこそ、新語は世の中に現れて出たのである。人心のをのづから之に向ふのは、必ずしも無用の物ずきと評することが出來ない。私たちの想像では、個々の物いひにもやはり磨滅消耗があり、又一種の使用期限の如きものがあつた。古語は古いといふことそれ自身が、次第に役に立たなくなつて行く原因であつたかと思はれる。

[やぶちゃん注:「文學は由來保守的なもので、又屢々異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として存立するには、到底三馬が浮世風呂に出て來る、鴨子・鳬子の如くなるを得なかったのである。」の箇所は改訂版では、「文學は由來保守的なもので、またしばしば異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらも尚我々の言語藝術として成り立ちがたかつたことは、かの三馬が「浮世風呂」に出て來る鴨子・鳬子の歌の、馬鹿げているのを見てもよくわかる。」と書き換えられてある。この「鴨子・鳬子の歌」は「浮世風呂」の中で女風呂に入っている、恐ろしく極端な本居宣長信仰・国学崇拝の復古保守派の和歌文学愛好家の二女性、鴨子(かもこ)さんと鳬子(けりこ)さんの歌物語談義を指す。この女性たちは「宇津保物語」や「源氏物語」を読むにもまずは本文校訂から始めなければ気が済まないというガチガチの狂信者で、無論、歌語の常套助辞「かも」「けり」を皮肉にパロったものである。本居宣長記念館公式サイト内の「かも子とけり子」及び「ある午後の女湯」をお読みになるのが手っ取り早い。

「其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに見ようとしたのである。」の箇所は改訂版では、「其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たまたま各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに、重んじまた手本にしようとしたのである。都府と田舍とを問はず、言葉は一樣にもう昔のままでない。」と書き換えられてある。]

 この第五の事實を確かめる爲にも、蝸牛の如き方言量の豐富なる語に就いて、特に其邊境現象に注意して見る必要があるのである。都府は見樣によつては亦一個の方言境堺であつた。幾つか異なつたる方言を知る者が、來つて相隣して不斷の交通をして居る。從うて市民の方言は、實は數語併存の例であつた。勿論其中にも選擇の順位はあつて、東京の蝸牛は現在はマイマイツブロ、京都ではデンデンムシが標準語の如く見られて居るが、雙方の兒童は大抵は此二つを共に知るのみならず、其上に更にカタツムリといふ今一つの語が有ることをさへ承知して居るのである。是は近頃の小學校の本に、デンデンムシムシカタツムリといふ文字がある爲であつたと、考へて居る人も少なくないが、假にさうであつても、結果には變りは無い。自分は播磨國の中央部、瀨戸内海の岸から五里ほど入つた在所に、十二三の頃まで育つた者であるが、やはりいつ覺えたか確かにこの三つの語を知つて居た。五十年前の教科書の中にも、やはり蝸牛の一節はあつたが、是は教員がクワギユウと讀ませて居た。カタツムリが古語であつて確かに倭名類聚鈔に出て居ようとも、そんなことは子供たちが知らう筈が無い。ましてや他の歌文にそれが用ゐられて居たかどうか。今だつてまだ搜して見なければよくは分らない。從うて是を記録の影響と見ることは困難で、つまりは他の二つは使用が頻繁で無く、選擇は主としてデンデンムシに在つたといふだけで、三つの方言は共に我々の中に傳はつて居たのである。

[やぶちゃん注:「東京の蝸牛は現在はマイマイツブロ、京都ではデンデンムシが標準語の如く見られて居る」因みに私は昭和三二(一九五七)年に生まれて十一まで鎌倉で、その後、中学高校の六年間を富山県高岡市で過ごした後、大学四年間を東京、以後、現在まで生地の鎌倉に戻って三十六年になるが、記憶を遡っても主表現が「カタツムリ」で「デンデンムシ」「マイマイ」は知っていても自律的に使うことは滅多になく(但し、貝類を蒐集する過程で和名としての「~マイマイ」は日常的に使用した)、「マイマイツブロ」に至っては使ったことはおろか、聴いた記憶もない。個人データとして記しておく。

「ましてや他の歌文にそれが用ゐられて居たかどうか」少し調べてみた。まず「万葉集」にはそもそもカタツムリ類が詠まれた形跡がない。

 「梁塵秘抄」中の秀歌とされる同様風の四〇番歌に、

 舞へ舞へ 蝸牛(かたつぶり)

 舞はぬものならば

 馬(むま)の子や牛の子に蹴(くゑ)させてん

 踏み破(わ)らせてん

 まことに美しく舞(ま)うたらば

 華(はな)の園(その)まで遊ばせん

 があるのは良く知られ、和歌では、恐らくはこれをインスパイアした寂蓮法師の(「寂蓮法師集」)、

    左大臣家十題百首内

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり角のあるとて身をば賴みそ

がある。これは建久二(一一九一)年閏十一月に藤原良経邸で披講された十題百首の「虫」を題とする十首の内の一首と考えられるものである。柳田の言うように、少なくとも「かたつむり」の語は、古典の和歌にはあまり使われていないと言えるように思われる。

「自分は播磨國の中央部、瀨戸内海の岸から五里ほど入つた在所に、十二三の頃まで育つた」柳田國男(明治八(一八七五)年~昭和三七(一九六二)年)は現在の兵庫県南西部、旧中播磨の神崎郡福崎町の生まれであった。父は医師の六男であった。十二歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られて茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現在の利根町)に移り住んだ(以上はウィキの「柳田國男」に拠る)。]

 さういふ地方は尋ねたらまだ他にもあつたことゝ思ふ。そこで問題は右の三つの名詞が、如何なる順序を追うて此世には現れたかといふことである。其中でもカタツムリだけは、既に記錄の徴證もあることだから、それが一番の兄であることは、もう疑ひが無いといふ人もあらうが、是とても京都だけの話である。他の二つが更にそれよりも前から、離れた地方に於て知られて居なかつたといふことは、今日は人が只さう思つて居るといふだけである。自分も勿論この三つの語が、相生であつたらうとは考へて居ない。併しこの國を一體として、方言發生の先後を決する爲には、斯んな一部の文書史料などは、實は何の根據にもならぬのである。日本では近頃無暗に國語を外國語と比定して、是によつて上代文化の觸接を説き、あはよくば種族の親近までを、推斷しようといふ道樂が流行して居るが、それにはまづ京都以外、二三の語集以前の日本語が、やはり其通りであつたことを、立證してかゝらねばならなかつたのである。從來行はれて居た普通の方法では、古い世の事は知れない方が本當である。是を確かめるには又別の手段を講じなければならなかつた。さうして私は其手段はあると信じて居るのである。

 一應の觀測は、現在主として用ゐられて居るものが、稀にしか用ゐられず、若しくは既に全く忘れられて居るものよりは、新らしいと考へさせることは前にも述べた。しかしそれは唯一地限りの現象であつて、現にデンデンムシとマイマイ又はマイマイツブロの如きも、關西に於ては前者が主として行はれ、東國はすべて後の者を用語にして居る上に、他には又其何れでも無いものゝみを、知り且つ用ゐて居る地方がある。だから最初に先づ分布の實狀を考察して見る必要があるわけである。私たちは必ずしも人が新語に赴くといふ傾向を高調せずとも、單に客観的なる地方事實の比較のみに由つて、個々の方言の何時頃から、又は少なくとも一は他の一よりも後れて、此世に現れて出たことを見極め得るものと思つて居る。さういふ實驗を段々に積み重ねて行くことが、曾ては自然史の成立であつたと同じく、將來は又國語の歷史を明かにする道であらうと思つて居る。此判別の目安に供すべき尺度は、他にもまだ幾つかあるだらうが、さし當り自分の標準としたものは二つある。其一つは方言領域の集結と分散、他の一つは方言生成の理由が、今尚現存し又は比較的に明瞭であるか否かである。この第二の目安は、もつと科學的な言ひ方をすれば、或は方言自體の構造素質などゝ言ひ得るかも知れないが、さういふ表現の巧拙よりも、私は寧ろ事實を詳かにして置く方に力を費した。さうして之に據つて、略デンデンムシのマイマイよりも後に生れたことを確かめ、且つカタツムリが更に其二つよりも前であつて、しかもまだ他の幾つかの「上代の新語」を、兄として戴いて居たらしきことを知つたのである。

耳嚢 巻之十 氣の毒なる奇病の事

 氣の毒なる奇病の事

 

 彼(かの)云榮(うんえい)、療治にまかりし去(さる)屋舖(やしき)の家來の妻、殊外(ことのほか)腹張り甚(はなはだ)難儀の由にて、療治を求めける故、其樣子を見しに、腹内殊外張りて、其樣子くわしく尋(たづね)ければ、聲をひそめて、いかなる事にや、去冬より放屁の出る事甚敷(はなはだしく)、客などありて愼めば、心持(こころもち)あしく、誠に此上なき難儀の由かたりし故、女の儀甚難儀をも察しやりて、療治などなして歸りけるが、翌朝殊外鍼治(しんじ)にて快(こころいき)由禮を述べける。此度(このたび)の不快も、右放屁四五日も不出(いでざる)故、右の通(とほり)腹はりくるしみしと聞(きき)しまゝ、屁(へ)や出けんと、翌日云榮見舞(みまひ)ければ、厚く禮謝なして、猶(なほ)又療治なしけるが、云榮も何程(なにほど)申(まうし)候とも、女なれば人前にて放屁可致(いたすべき)事とも思はねば、出るものを餘り愼みこらへんはあしかるべし、くるしからざる間(あひだ)催(もよほさ)ば放(はな)したまへといひしに、嬉しき由にて、療治中五つ六つも音高く放しけるに、臭氣も難忍(しのびがたく)、かさねての見廻(みまはり)は心有(ある)べしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医師云榮ニュース・ソース二連発。蘇生臨死体験から過敏性腸症候群(IBS:Irritable bowel syndrome)のガス型(これを全く別の機能性腹部膨満症とする立場もある)の症例へ。但し、最後にガスの臭気が耐え難いほどとあるのは、潰瘍性大腸炎(ガスは腐った卵のような硫化水素臭を伴う場合がある)や大腸癌(ガスは腐った玉葱のようなメタンチオールを有意に伴う場合がある)である可能性もある。この小話、訳をもっと面白可笑しくチャラかすことも出来よう。しかしこれは私にはお笑いではないのである。私は小さな時からずっと慢性下痢型のIBSだからである。私は小学校の朝の朝礼中、二年生・三年生・四年生と三度も大便を漏らした。この手の七転八倒の苦しみは体験したことのある人間にしか分からぬ。

・「彼云榮」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彼(かの)針治(しんじ)云榮』で、本話柄によっても(前話のカリフォルニア大学バークレー校版にすでに『針治云榮』と出ている)彼が針医であることが明白。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 気の毒な奇病の事

 

 前話の話者で御座った針医(しんい)云栄(うんえい)殿が療治に参った、さる御屋敷の家来の妻の症例。

 殊の外に腹が張ってひどく難儀との主訴にて切に療治を求めて御座ったによって、その様態を仔細に診てみたところ、腹部が異様なまでに膨満して張り出していた。その日常の具合につき、詳しく問診致いてみたところ、この女性の患者、声を潜めて、

「一体何が原因かは存じませんが、去年の冬頃より……放屁……これ、はなはだしゅう御座いまして……客などのあって意識して放屁を堪(こら)え慎まんとすると、さらにひどく気持ちが悪くなります。……正直、たがが放屁では御座いますが、想像を絶する難儀にて御座いまする。……」

と告白したと申す。

 されば女性のことなれば、その堪えねばならぬ苦痛や、そうした場面で出そうになったら如何せんと申す恐怖心による心痛などをも察せられたによって、幾つかの関連せるツボに針を打つなどして、その日は帰った。

 翌朝、具合を確かめに参ったところ、

「昨日の鍼(はり)治療によって、殊の外、具合、よろしいように御座いまする。」

とのことにて、如何にも嬉しそうに礼を述べたと申す。そうして、

「……このたびの激しき不快な感じも、これ、実は、かの放屁が四、五日も出そうで出て参りませぬによって……かくもお腹(なか)の張って苦しんでおりましたので。……」

とのことで御座った。

 されば、その翌日もまた、見舞ってみたところ、やはり小康は保ってはおり、またしても厚き礼謝などなして呉れたによって、なおまた、続いて針を打って療治致いた。

 この度(たび)は云栄も、

『……流石に苦しゅうて、医師なればとて、かくも仔細を述べたのであろうが、女なれば人前にてはこれ、放屁など思いもよらぬのであろう。さればその耐え忍ぶこと、これ、かなりの苦痛にて御座ろう。出そうになったら堪えよう、堪えられなんだら如何せんという心の痛みも悪しきことじゃ。……』

などといったことを勘案致いた上、針治を始めるに当たって、

「――出ようとするものを、あまりに堪え慎まんとするは心身ともに悪しき結果を生みましょうぞ。苦しからざる間(あいだ)、療治の間に催して参られたとならば、我らを気にせず、成るがままに、これ、放屁なさいませ。」

と声掛け致いたところが、いたく嬉しそうな様子にて、実際、療治の間、五、六回も音高く放って御座った。……

 

「……ただ、その臭気、これ、はなはだ堪え難きものにて御座っての。……正直申さば……以後の往診に就きては……これ、かなり覚悟して参らねばなるまいと、存じおる次第にて御座る。……」

と、云栄殿の語って御座った。

2015/02/25

耳嚢 巻之十 蘇生奇談の事

 

 蘇生奇談の事

 

 文化七年七月廿二日の事の由。同八月或人來り語りけるは、田安御屋形(やかた)御馬飼(みまかひ)の由、相部(あひべ)や六七人ある事なるに、右の内壹人、寒かくらんにて殊外(ことのほか)苦しみける故、相部やのもの共(ども)色々介抱いたし、醫師を所々へ申遣(まうしつかはし)候へ共、時節やあしかりけん、一向醫師も來らず、終日くるしみて終にはかなくなりしに、彼(かの)あいべやの者ども評議しけるは、かく傍輩の死に及ぶ病(やまひ)、一貼(いちてふ)の藥をも不吞(のまざる)儀、何とも殘念至極、いづれ上役人へ願ひて、只今にても藥を爲吞(のませ)、責(せめ)て心晴(こころばら)しにいたし度(たき)由にて、上役の者へ願ひければ、程近き所とて小島活庵方へ申達(まうしたつし)けるに、活庵は在宿無之(これなく)、子息安順見廻(まはり)て彼(かの)病人を見けるに、事切れて時刻も漸(やや)うつりければ、四肢もつめたく療治沙汰も無之(これなき)由故、斷(ことわり)申述(まうしのべ)ければ、右傍輩ども時刻も相立(あひたち)候事故、仰(おほせ)の趣御尤(ごもつとも)ながら、急病ながら藥一貼も不用(もちひず)と申(まうす)も心苦しければ、たとへ蘇生等不致(いたさず)とも、御藥一貼給り無理に吹込(ふきこみ)申(まうし)たき由、達(たつ)て願ひけるゆゑ安順も其意にまかせ、藥一貼あたへ歸りぬ。さて傍輩ども打寄(うちより)、藥を煎じ口を割(わり)つぎ込(こみ)しに、口を洩(もれ)或はのどに溜り居(をり)候計(ばかり)にて、しるしあるべきやうもなければ、片脇へ寄置(よせおき)けるに、二三時(どき)過(すぎ)て、息吹返(ふきかへ)しける故、早速粥湯(かゆゆ)などのませ、安順方へも早速申達(まうしたつし)ければ、是も蘇生に驚(おどろき)、早速罷越(まかりこし)、其樣子を見て、これなれば療治なり候とて藥をあたへ、今は全快なしけるに、傍輩の内、さるにても、いかなる樣子なりしやと尋ければ、最初煩付(わづらひつき)候間、くるしさいわんかたなく、夫(それ)よりはむちうと成(なり)、何か廣き原へ出て、むかふへ行(ゆか)んと思ひしに、二筋に道わかれあり、壹ツは登りざか、壹ツは下り候道ながら下りの方けんそにして、彼(かの)男の了簡には、登り坂の方へ行べしと思ひしに、與風(ふと)本鄕邊米屋にて、其娘へ此御馬方、心を懸(かけ)しが、右娘に行逢(ゆきあひ)、我もひとりにては心細し、つれ立(だた)んといふに同意なしけるが、娘は下り道の方を行べしといふ、此男は登り坂の方へ行(ゆか)んと申爭(まうしあらそ)ひ立別(たちわか)れしに、向ふの方より赤衣(しやくえ)きたる僧一人參り、なんぢはいづ方より何方へ通るやと尋(たづね)ける故、あらましを語り、我等は死せしにやと申(まうし)ければ、爾(なんぢ)思ひのこす事もなきやと尋し故、何(いづれ)も思ひ殘す事はなけれど、未(いまだ)在所に兩親もありて久敷(ひさしく)逢不申(あはずまうす)間、是へ對面致度(いたしたき)由と申ければ、しからば歸し可遣(つかはすべし)とて、跡へ戻ると思ひしに、何か咽(のど)に藥がつくりと内へ入(いり)て蘇りしと、予が元へ來る云榮(うんえい)かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。個人的にはこれに主人公の恋慕していた娘について同時刻にどうこうという後日譚が附加されていたらよかったのにとは思うが、寧ろ、それがないからこそ、この蘇生譚自体の真実性は高い(年月日が正確に記され、しかも外でもない御三卿の田安家内の出来事である。後述するように治療をした当医師の実在の可能性も見出し得た)とも言えるのかも知れない。

・「文化七年七月廿二日」グレゴリオ暦一八一〇年八月二十日。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「田安御屋形」御三卿の一つ田安徳川家の田安邸は、江戸城田安門内で同御三卿の清水邸の西、現在の北の丸公園の日本武道館付近にあった(家名は同地が田安明神(現在の築土(つくど)神社)の旧地田安郷であったことに由来)。

・「御馬飼」貴人の乗馬の飼育・調教に当たる下級職。

・「寒かくらん」「かくらん」は霍乱で、腹痛や煩悶などを伴い、症状によっては嘔吐や下痢を主訴とする病気の総称。平凡社「世界大百科事典」によれば、暑い時に冷たい飲食物を摂り過ぎるなどして冷熱の調和が乱されることによって惹起する病いと考えられていた。乾霍乱・熱霍乱・寒霍乱など種々の病名が記載されているが、病状からみると、現在のコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる(現代中国語で「霍乱」は「コレラ」を指す)とある。岩波版の長谷川氏はこれを乾霍乱とされる。乾霍乱は食中毒などによって食物が胃に滞溜しながらも、吐くことも下すことも出来ずに悶え苦しむ症状を指す。しかし「世界大百科事典」には「寒霍乱」ともあり、これは太陽暦の八月二十日の出来事であるから、暑さの中、冷たい物を多量に摂り過ぎた結果として通りそうな感じもしないではない。但し、冒頭の症状では確かに嘔吐や下痢の病態は見えないから、やはり乾霍乱か。訳は取り敢えず「乾霍乱」とした。

・「心晴し」憂さ晴らし・気晴らしの意。ここはろくな療治を受けさせてやれなかったことへの周囲の者の微かな後ろめたさに基づく、各人の気持ちの悪さを払拭する慰みといったニュアンスである。

・「小島活庵」「子息安順」田安邸のある江戸城に近いとある以上、相応の格式医師であろう。そこで少しネット検索を掛けて見たところ、子の名前がヒットした。金沢市立図書館製作の「加越能文庫目録」(加賀藩が蒐集した典籍・文書を纏めたもの)の中に、天保五(一八三二)月二十一日、第十一代将軍徳川家斉が、幕医で大納言付奥医師の小児科医小島安順なる者を遣わして犬千代丸(後の前田慶寧(よしやす)。加賀藩第十三代、最後の藩主)の病気を診断させたという記載を二件見出せる。時代的には合う。

・「二三時」四~六時間。

・「云榮」不詳ながら、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には『針治(しんじ)云榮』とあるから鍼灸医である。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 蘇生奇談の事 

 

 文化七年七月二十二日のことなる由、同年八月、ある御仁が来訪された際に語って御座った話である。

 田安家御屋敷の御馬飼(みまかい)の者に起った出来事の由。

   *

 御三卿(ごさんきょう)の御馬飼ともなればこそ、相部屋(あいべや)で六、七人も抱えておられたが、その内の一人が、急に乾霍乱(かんかくらん)の症状を呈し、吐くに吐けず、下りそうで下らぬという、まっこと、七転八倒の苦しみのために、文字通り、のた打ち回って御座ったと申す。

 されば、相部屋の者どもが、いろいろ介抱致いて、何人かの医師のところへも急の使いを送ってはみたものの、時期と時間の悪う御座ったものか、孰れの医師も一向に往診にやって来ず、終日苦しんだ末、遂に儚くなってしもうたと申す。

 かの相部屋の者ども、余りの急なことにて、皆して、うち寄り、

「……かく朋輩の死に至る病いに……薬の一服も飲ますこと、これ、出来ずに終わったること……何とも、残念至極!……ともかくもじゃ。これより上役の方へと願い出でて、せめて今からでもよう御座る、形ばかりの薬を飲ませ……皆の心残りのないよう、致そうぞ!……」

と、その旨、上役へと懇請致いた。

 すると上役も、諸朋輩の気持ちを察し、早々に、取り敢えず、近きところの医師は、と考え、

「……さても、最寄りとならば……小島活庵方か……」

と、医師活庵殿が許へと、申し出た御馬解飼の者を走らせたと申す。

 ところが、訪ねてみたところが、当の活庵殿は留守にて御座った。

 田安家御家中からの往診なればこそ、そのままにては捨てもおかれず、活庵殿の、未だ若き子息で御座った小島安順と申す御方が、代わりに取り敢えず形だけでも、かの既に亡くなっておる元病人を見届くることと、相い成って御座った。

 しかし安順殿が参って診てみたところが、息絶えてより、かれこれ相応の時も過ぎて御座ったによって、安順殿、型通りの診察を終えると、

「……遺憾ながら最早、四肢も冷めたく、療治の方途、これ、御座ない。施薬などは処方の価値、全く、御座らぬ。――」

と断り、死亡の確認を成すばかりにて御座った。

 ところが、かの相部屋の朋輩ども、安順殿にすり寄ると、

「……既に息絶えてより時刻(とき)も随分経っておりまするゆえ……仰せの趣き、これ、ごもっともでは御座いまするが……」

「……なれど、我ら……急病とは申せ、薬一服飲ませ得ずに、手ものぅ儚のうなったること……これ、つらつら考えますると、何とも……」

「……へえ! その通りで!……如何にも朋輩として……これ……心苦しゅう御座いやすんで!」

「……されば、どうか一つ!……万に一つも、これ、朋輩の生き返るなんどということのあり得ぬことも、存じておりますれど……」

「……どうか! 後生で御座いやす!……」

「……形ばかりにて結構で御座いやす!……どうか、朋輩がために! 御薬を一服、賜わりまするように!……」

「……無理にでも、死人(しびと)の口に、これ、吹き込んでやりとう存じますればこそ!……」

と、これ皆、口を揃えて、たっての願いと申して御座ったによって、若き安順殿も、その意を汲んで、

「――相い分かり申した。――では、これを。」

と、心の臓に効く気付け薬を一包、置いて帰ったと申す。

   *

 さて、朋輩ども、うち寄って、詮なきこととは申せ、半ばは彼ら自身の気休めがためにも、この薬を煎じ、閉じた口を無理矢理抉(こ)じ開けて流し込んではみたものの、

……薬は口を洩れ……

……咽喉(のど)のところに溜まるばかり……

……凡そ効き目の、これ、あるようには、見えなんだと申す。

 されば、仕方のぅ、そのまま骸(むくろ)を横たえ、部屋の隅に安置し、さても弔いの相談など、始めたと申す。

 ところが――それから二、三時(どき)も過ぎたる夜更けのこと、この男、

「グェエッ!――グフォオオッツ! ドゥ、はあッ! あはぁ~~~!」

と息を吹き返して御座った!

――早速にぬるま湯や薄き粥なんどを飲ませ、一方で、かの安順殿が所へも、直ちに使いを走らせた。

「……せ、先生! か、かの、朋輩!……い、い、生き返り、やしたッツ!!」

と伝えたれば、安順殿もこれには驚き、急いでやって参り、その様子を見たところが、

「――うむ! これならば療治、出来申そう!」

と請けがい、即座に種々の薬を調合致いて服用させたと申す。

 されば、日ならずして男はすっかり本復致いて、今もぴんぴんしておる由。

   *

 さても、これにはまだ後日談の御座る。

 暫く致いたある日のこと、かの朋輩の一人が、かの蘇ったる男に、

「……それにしてもよ。あの世っうのは、どんな感じの所じゃった?……」

と、面白半分に問うてみたところ、男の曰く……

   *

……最初、調子の悪うなったそん時は、言いようもないくらい、苦しゅうての!

……ところが……そのうち……なんか、こう……夢ん中におるような感じに……なっての。

……何とも……これ……広(ひろー)い野っ原に……出た。

 その野っ原の、その向こうの方へ、向こう方へと行こうと、思うた。

 するとな、その前の道が、二つに別れておっての。

 一つは登り坂で、今一つは、これ、下り坂ながら、そっちの下りの方が、これ、如何にも険阻でのぅ。

 されば、儂(わし)は、登りの方を行こうと思うたんじゃ。

 ところが、その時のことよ。

 ほれ。前に、ちょいと寝物語に話したろ。儂が前から心懸けておった――本郷辺の米屋の娘――あの娘に――行き逢(お)うたんじゃ!

 儂は、

「――お前も独り、おいらも独り、互いに独りでは心細い。連れ立って行こう。」

と声をかけた。

 されば一緒に、ということになったんじゃが、の。

 かの娘はこれ、

「――私(あたい)は下り坂の方に行きたい。」

と言いよる。

 じゃが、儂は、

「――あっちは道がえろう悪い。おいらは上り坂の方を行きたいんじゃ。」

と応えたによって、そのうち、言い争いとなって、の、そのまま喧嘩別れよ。

 されば、儂はまた独りで坂を上って行ったんじゃ。

 ほしたら、の、今度は、儂の歩いておる坂の上の方から、これ、まっ赤な着物を着た坊(ぼん)さんがやって来たんじゃ。ほぅして、

「――汝は何方(いずかた)へと参るか?」

と訊いてくるんや。

 されば儂、かくかくしかじかと、病んでよりの、この夢の話のあらましを話した。話しながら、ふっと思い至って、

「……おいらは……これ……死んでしもうたんじゃろうか?……」

と聴いたんじゃ。

 ほしたら、坊さん、

「――汝――何か思い残しておることのあるのではないか?」

と逆に聴き返してきたによって、こらぁもう、すっかりほんまに死んでもうたんかと思うたによって、の、

「……な、何(なあん)も、これ、思い残すことなんど、ありゃせんが……いまだ在所に両親も息災なれば……ああっ!――永いこと、逢(お)うておらんだによって――せめて最後に、今一度、対面してみとぅなった……」

と呟いたんじゃ。

 すると、その坊さん、

「――然らば――帰して遣わそう。」

と言うた……と……何やら……体が……後ろへ……後ろへと……くいくい逆に巻き戻るように……後るへ――行く――と思うておるうち……何か……咽喉(のんど)に……恐ろしく苦い水薬(すいやく)のようなるもんが

――グワアッツ!――

と流れ込んで参って、ほんで――蘇っとったんじゃ。……

   *

 以上は、私の許に参る鍼医(しんい)の云栄(うんえい)と申す者から聴いた話で御座る。

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅸ)

[やぶちゃん注:次の九頁及び十頁に以下の図。画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」のものを用いたが、九頁の画像は暗く細部がよく分からないので補正を加えて明るくしてある。キャプションはそれぞれ、右から左に電子化した。]

 

   A 「いとめ」の精液(擴大)

   B 「いとめ」の卵(擴大)

   C 受精せる卵(擴大)

   D 精 蟲(擴大)

 

Itome3_3

 

   バチの人工受胎模型圖

 

(A)受胎第一日

卵の周圍に一面に精蟲附着すれども卵の中に入ること能はざるもの無數にあるを見る。亦卵に近づくこと能はざるもの卵の間に群をなして活動す。卵は何れも既に受胎せるものなり。

室温平均十五度

氣壓七六五粍

 

(C)十日後の幼蟲

 

(B)受胎後第六日目檢鏡

人工孵化幼蟲、透明色なり。

 

Itome4

 

       四 食鹽水及び淡水による「いとめ」の精蟲及び卵の實驗

 バチの精蟲を4%の食鹽水に入れて檢鏡したるに頭部及び尾部は明かに認められ、3%迄は盛んに活動するが、4%以上の食鹽水に在つては精蟲は活動を停止する。

 卵は0.3%乃至1%の食鹽水中に在つては生理的に破壞されないが、蒸溜水に卵を混図れば十分乃至一時間にして生理的に全部破壞せられる。

 大正十一年十一月十八日深川木場に於ける著者の研究室の實檢に徴するに、隨分の濃度によつて「いとめ」の精蟲の活動に著るしき強弱の差を生ずる。實檢は當日午後六時より九時三十分に渉り、温度三・九度氣壓七六八粍、雨天であつた。實驗に用ひた食鹽水の濃度は

  0.1       0.2%    0.3

  0.4       0.5%    0.6

  0.7       0.8%    0.9

  1         1.5%    2

    3

等であつたが、精蟲は其中

  0.7       0.8         0.9

  1         1.5         2

の各溶液に於て最も盛んに卵に向つて飛び附き、4%の食鹽水中に於ては運動を中止した。又0.8の食鹽水中に在つては百二十時間を經過するも尚ほ盛んに運動を續けてゐた。即ちバチの生殖物に鹽物の必要なることが解る。「いとめ」の生殖群游に潮水の流動を必要とすることは明かである。泥中に於ては性交すること能はざるが故に浮游することは無論であるが、若し潮水の流動が全然不必要であるならば、比較的河底に近き所に於て性交するも差支ない筈である。然るに流動の最も強き表面に浮び出るのは明かに潮水の流動を必要とし、之によって生殖運動を盛んならしむる鹽分中にあつて卵と精蟲との接觸する機會を多からしめる爲である。

 泥中に生存する時は、たとひ干潮時に當りて海水を混ぜざる淡水が流れ來るとも、泥中に或程度までの鹽分を含有するが故に生存に支障を生じない。けれども一度後體部をちぎつて浮び出で、性交受胎し且つ孵化して水中を游ぎ廻りつゝある時に於ては、若し其棲息する河水の干潮時に淡水が一時に流れ來らんには精蟲の運動は不可能となり卵は生理的に破壞せられざるべからず。斯る不利益なる條件の備はる場所に居る時は一時に全滅に歸せざるべからざることは先きに述べたる實驗に徴して明かである。恰も戰時の密集部隊に毒瓦斯を散じたるが如き惨憺たる狀態に陷らざるを得ない。さればバチは干潮時に於ても尚海水の存在する場所まで流れゆかなければならない。これバチが漲潮時に浮ばずして落潮時に群游する所以である。

[やぶちゃん注:「大正十一年十一月十八日」西暦一九二二年のこの日は土曜日。この月十一月の月齢は五日が望で、実験の翌日の十九日が朔であった。前の記載に『朔若しくは望の翌日に群游することが多かつた』とあることから、新鮮な精子と卵子を実験用に得たとすれば、実験用の検体は実験の十二前の十一月六日(月)以降の約十一日間の間で入手されたものかと推測される。

「恰も戰時の密集部隊に毒瓦斯を散じたるが如き惨憺たる狀態に陷らざるを得ない」……木場の赤ひげ先生のこの悲惨な論文らしからぬ比喩、その確信犯に何か私は感ずるものがあるのである。……]

 アルカリ液中に於ては0.1%より0.8%に至る濃度に於てバチの精蟲は尚運動をなせども暫時にして之を休止し、0.8%アルカリ液中に在りては約一分時にして運動を中止する。

 酸の實驗に於ては、弱き溶液中在りてもバチの精蟲は直ちに運動を中止するを見る。

柳田國男 蝸牛考 初版(2) 言語の時代差と地方差 / 四つの事實

        言語の時代差と地方差

 

 國語の成長、即ち古代日本語が現代語にまで改まつて來た順序と、方言の變化即ち單語と用法との地方的異同と、この二つのものゝ間には元來どういふ關係があるのか。それを私は稍明らかにして置きたい爲に、幾つかの最も有りふれたる實例を集めて見た。現在保存せられてある多量の記錄文學は、其著述の時處が知られて居る限り、又其傳寫に誤謬改作が無かつたことが確かめられ得る限り、何れもそれぞれ過去の言語現象の、前後相異なることを語るものではあるが、その飛び飛びの事實の中間の推移に至つては、概ね尚不安安全なる臆測を傭はねばならぬ上に、それが何故に甲から乙丙へ、進み動くべかりしかの原由は説明してくれない。ところが方言は我々の眼前の事實であり、今も一定の法則に據つて繰返されて居る故に、いつでも其觀察者に向つて自分の性質を告げようとして居る。若し比較によつて幸ひに發生の順序を知り得べしとすれば、それが同時に亦我國語の歷史の爲、史料の年久しい缺乏を補ふことになりはしないか。我々の兄弟が旅を好み、田舍の物言ひのをかしさに耳を傾け心を留めたのも、千年以來のことであつた。殊に明治に入つてからは、これを調査する爲に大小種々の機關さへ設けられた。しかもこの大切なる總論於ては、尚將來の冒險者に期待すべき區域が、斯樣に廣々と殘つて居たのである。

 私たち民間傳承の採集者は、實は殆ど皆言語學の素人ばかりであつた。單に文籍以外の史料から、過去の同胞民族の生活痕跡を見出さうとするに當つて、あらゆる殘留の社會諸事相の中でも、特に言語の現象が豐富又確實なることを感じて、豫めこれを分類整頓して、後々の利用に便ならしめんとして居たのである。さうして其方法が未だ明かで無い爲に、本に遡つて幾分か自ら指導するの必要を見たのである。既に專門家の技能を學び得なかつた故に、この自己流は甚だしく迂遠であり、又勞多きものであつた。到底職業ある人々の再び試みるに堪へざるものであつた。從うて其中間の經過を報告することは、一方に同情ある批判者の忠言に由つて、自身今後の研究を有效ならしむると共に、更に他の一方には若干の採擇するに足るものを以て、次に來る人々の準備の煩を省くことになると信ずる。著者の結論若くは現在力支せんとする假定は、一言に要約すれは次の如きものであつた。曰く方言の地方差は、大體に古語退縮の過程を表示して居る。さうして一篇の蝸牛考は即ち其例證の一つである。

[やぶちゃん注:「力支」「りきし」と音読みしているようであるが、聴き馴れない熟語である。強く主張して支持するところの、という意味であろう。]

 

       四つの事實

 

 最初に方言の觀察者として、先づ少なくとも四つの事實が、我々の國語の上に現存することを認めてもらふ必要がある。是が又自分の蝸牛を研究の題目として、わざわざ拾ひ上げた動機をも説明するのである。

 第一には方言量、斯ういふ言葉を新たに設けたいと思ふが、日本の方言は全國を通觀して、その目的とする物又は行爲毎に、非常に顯著なる分量の相異がある。たとへば松は昔からマツノキ、竹は昔からタケであつて、いかなる田舍に行つても日本人ならば呼び方を變へていない。動詞にも形容詞にも是と同じ事實はあるが、説明が煩はしいから主として物の名を擧げる。小さな動物で謂つて見ても、土龍は何れの土地でもムグラモチか、ウゴロモチかイグラモチかであつて、その以外の別名は殆ど聽かない。蜘蛛はクモでなければ、クボかグモかキボかケーボと轉音するのみであり、蟻はアイ・イヤリ・イラレ等に變つている他には、僅かにアリゴ・アリンボ・アリンドまたスアリなどゝなるばかりで、異なつた名詞は一つも無いと言ひ得る。是に反して魚では丁斑魚、これにはメダカ・メンパチの如く眼に注意したものの他に、尚ウルメ・ウキスその他の十數種の地方名があつて、それが又細かく分れており、蟷螂にはイボムシ・ハヒトリ・ヲガメ等の、全く系統のちがつた二十に近い方言が、いつの間にか出來て相應に弘まつて居るのである。蝸牛が又其中の驚くべき一例であることは、讀者は程無く飽きる位それを聽かされるであらう。此等の事實から推して、方言生成の主たる原因が、必ずしも國語の癖であり、又は歴史の偶然であつたとは言はれないこと、即ち地方言語の差異變化を要求する力が、目的物そのものにあつたといふことが、直ちに心づかれるわけである。方言と歌語とを混同した從來の誤り、それから矢鱈に數多く松や櫻の地方名までも集めようとした、前の調査者の無用なる難題も、やがて悔いられる時が來ると思ふ。

[やぶちゃん注:「丁斑魚」通常はこれで「めだか」と読むが、ここでは「ていはんぎよ」と音読みしているか。他に番代魚・撮千魚・姿魚などとも漢字表記する。無論、「目高」が一般的。]

 第二には方言領域、この術語も是から大いに用ゐられる必要がある。個々の事物に對する個々の單語は、やはり各自の支配力を持つて居て、たゞ同種の事物に於て對抗して居る。別な言ひ方をすると、蟷螂丁斑魚の方言を共同にして居る土地でも、蝸牛なり土筆なり梟なり、其他の多くの語は別々のものを用ゐて居て、あらゆる方言を取揃へて、甲乙異なる組といふものは無いといふことである。尤も大數の上から見て九州と奧羽、又は中央部と國の端とは、差異が多いといふことはあり得るが、それにも例外は甚だ多く、豫め命名法の一つの傾向の如きものを測定することは出來ぬ。個々の方言はそれぞれの領分を、何れも自分の力を以て拓き又保持して居て、しかも方言毎に其地域には著しい大小がある。是も二三の實例はいと容易に立證するが、それを重ね取り寫眞の如く積み重ねて見た上でないと、近年唱導せられる「方言區域」の説、即ち東國方言とか上方言葉とかの名目は、訛り即ち音韻の變化以外には、まだ中々安心して之を採用し得ないのである。

 第三には方言境堺、即ち二以上の方言領域の接觸面には、他では見られない特殊の現象が發生することも認められなければならぬ。その特殊相といふのは、(イ)には數語併存であり、(ロ)には即ち複合である。一つの土地の一つの物體には、一つしか方言は無いだらうという今までの想像は、これによつて恐らくは覆へされるであらう。方言の蒐集者にとつては、この境堺線上の言語現象は、可なり印象の深いものである。將來の方言區域説は、專ら此方面からの考察によつて、更定せらるべきであらうが、大體に同じやうな錯綜の起り易い土地といふものがあるから、將來は獨り方言の分布を知る爲のみならず、尚交通と移住との歴史に對しても、或は若干の光を投げることにならうも知れぬ。是も後に詳説するつもりであるが、加賀能登越中は特に蝸牛の方言に於て、最も數多き小領主を簇立せしめて居る土地であつて、同時に又蟷螂と雀とに付ても、澤山の方言をもつて居る。他の一方關東の利根川下流と、其兩岸十數里の平地は、やはり雀と蝸牛との二種の方言に富んで居るのである。雀の如き變化の少ない名詞が、特に此二地方に於て、蝸牛と同樣の境堺性現象を示して居るといふことは、何か共同の區域説に便利なやうであるが、斯ういふ一致はまだ他の動植物に付いては見出されて居ない。たゞ幾分か遠方の旅客の來往が繁かつたらしき地域に於て、殊にこの錯綜の傾向が著しいといふのみである。東國でいふと山梨縣、それから三河の碧海郡なども此例に引くことが出來る。九州の島では大分縣が、少なくとも蝸牛だけに付いては、可なり紛亂した境堺線を持つて居る。自分だけの假定としては、此現象は方言の輸送、即ち人は變らずとも新たに隣境の用語を採つて、我が持つ以前のものを廢止する事實が、度々あつたことを意味するかと思つて居る。若しさうだとすると是は交通の問題であつて、方言區域の説を爲す人の心中の前提、即ち九州人だから九州方言を、保留して居たと見る理由としては、頗る不十分なものになつて來るわけである。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:『將來の方言區域説は、專ら此方面からの考察によつて、更定せらるべきであらうが、大體に同じやうな錯綜の起り易い土地といふものがあるから、將來は獨り方言の分布を知る爲のみならず、尚交通と移住との歷史に對しても、或は若干の光を投げることにならうも知れぬ。』は改訂版では、『將來の方言區域説は、專ら此方面からの考察によつて決定せらるべきであらうが、大體に同じやうな錯綜の起り易い土地といふものがあるから、將來は獨り方言の分布を知る爲のみならず、尚交通と移住との歷史を明らかにする爲にも、もつと深い注意をこの方言の邊境現象に拂はなければならぬことになるかと思ふ。』と書き直している。

「簇立」「ぞくりつ」と読む。群がり集まって立つこと。そうした蝸牛についての系統をダイレクトに同じくするソリッドな小方言群或は小方言地域を持って独立しているということ。]

 第四には方言複合の現象は、あまり長たらしいから玆では略して置く。一方數語の併存といふことは、やはり文化の交通と關係があることで、人は或は之を採集地域の限定に基づくものとし、たとへば一縣の方言としてならば、富山石川の如く蝸牛に數十種の名稱があることになつても、之を郡又は村大字として見るならば、やはり土地には一つしか方言はないのだと思ふかも知らぬが事實は必ずしもさうでは無い。即ち個々の話者を單位として、一人が知つて居る語も亦幾つかあるのである。是は結局定義の問題に歸着するかも知れぬが、耳の方言即ち人が言ふのを聽いて、即座に會得するものも亦其土地の語であるのみならず、それと純乎たる口の方言、即ち平生自然に口へ出る語との中間にも、實はまだ幾つかの階段があるので、常には使はぬが稀には使ふ、若くは少し聽耳を立てさせようと思ふときに、改めて使ふといふ方言もあるのである。もし方言の領域が非常に小さくなつて、たとえば常陸南部の蝸牛などのやうに、次の部落に行くともう別の名があるという迄になれば、それが緣組によつて更に交錯し、小兒は母の使ふ語に附くといふこともいと容易で、後には家々で選擇を異にするといふ場合さへ現れて來るわけである。しかも此樣な事實は、決して廣大なる一つの方言領域の、中央部においては起るべきものでなかつた。距離と交通方法の便不便とが、私の言はんとする個々の方言量、及び其領域の大小と、深い關係を持つて居たことは、疑ふことが出來ないのである。しかしながら是ばかりでは説明し難いことは、如何にして最初同一の事物に付いて、二つ以上の單語が分立し、また割據するやうになつたかといふことである。幾つかある同種方言の中で、或者は曾て廣大なる領分をかゝへ、又他のものは狹い區域に引籠つて居たかといふと、其選擇なり流行なりの根本に、既に一種新語作成の技術、即ち前から名のあるものに、もう一つ好い名を附與しようとする企てと、それを批判し鑑賞し又採用する態度とがあつたこと、別の言ひ方をすれば、言語も亦廣い意味の文藝の所産なりしことを、想像せぬわけには行かぬのである。それが今日までの方言變化の上に、果してどの程度まで一貫して居るか。又所謂標準語の確認に向つて、どれだけの支援を與へて居るか。現在用ゐられて居る日本語の語數は、恐らく千年前に比して數倍の增加を見て居る。しかも只其一小部分のみが、新たなる文物と伴なうて、國の外から輸入せられたのである。さうすると其殘りの部分の增加は、何の力に由つて之を促したのであるか。誰か文化の上層を占むといふ者で、意識して之を試みたものが一度でもあつたらうか。いつも彼等が「匡正」に努力した、方言の亂雜といふことが、假に無かつたとしたならば、果して同じ結果を得られたであらうかどうか。斯ういふ問題も一應は考へ置くべきものであつた。

[やぶちゃん注:「純乎」は「じゆんこ(じゅんこ)」で、全く混じり気のないさま。醇乎。純粋。

『誰か文化の上層を占むといふ者で、意識して之を試みたものが一度でもあつたらうか。いつも彼等が「匡正」に努力した、方言の亂雜といふことが、假に無かつたとしたならば、果して同じ結果を得られたであらうかどうか』「匡正」は「きやうせい(きょうせい)」で正しい状態にすること、正すことの意。ここを今読むと、私は戦前戦中の日本が沖繩に対して行った「皇民化」政策に於ける沖繩方言を用いた者への罰札、ひいては朝鮮や台湾や満州・南洋諸島などの占領地区での日本語教育による現地語の掃討などが頭を過ぎる。]

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅵ)

 

十月十九日、戒壇院の松林にて  

 けふはまたすばらしい秋日和だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を讀んだ。

 數年まへの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤獨な氣もちで讀んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何處かあかるい空の下で、讀んでみたくて携へてきた本だが、やつとそれを讀むのにいい日が來たわけだ。

 雪の中で、いまよりかずつと若かつた僕は、この戲曲を手にしながら、そこに描かれてゐる一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといつたやうなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知圖を愛するやうに、素朴に愛してゐることができた。いまも、この戲曲のさういふ抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは讀んでゐるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を與へる餘りの純眞さ、さうしてゐるうちに自分でも知らず識らず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の葛藤、――さういつたものに何か胸をいつぱいにさせ出してゐた。

 三時ごろ讀了。そのまま、僕は何かぢつとしてゐられなくなつて、外に出た。

 博物館の前も素どほりして、どこへ往くといふこともなしに、なるべく人けのない方へ方へと步いてゐた。かういふときには鹿なんぞもまつぴらだ。

 戒壇院(かいだんゐん)をとり圍んだ松林の中に、誰もいないのを見すますと、漸つと其處に落ちついて、僕は步きながらいま讀んできたクロオデルの戲曲のことを再び心に浮かべた。さうしてこのカトリックの詩人には、ああいふ無垢な處女を神へのいけにへにするために、ああも彼女を孤獨にし、ああも完全に人間性から超絕せしめ、それまで彼女をとりまいてゐた平和な田園生活から引き離すことがどうあつても必然だつたのであらうかと考へて見た。さうしてこの戲曲の根本思想をなしてゐるカトリック的なもの、ことにその結末における神への讃美のやうなものが、この靜かな松林の中で、僕にはだんだん何か異樣(ことざま)なものにおもへて來てならなかつた。

 

[やぶちゃん注:『クロオデルの「マリアへのお告げ」』フランスの外交官で劇作家・詩人のポール=ルイ=シャルル・クローデル(Paul-Louis-Charles Claudel Claudel 一八六八年~一九五五年)が一八九二年に発表した戯曲「乙女ヴィオレーヌ」(La Jeune Fille Violaine 初演(二校版による)は一九五九年)を一九一二年に改作した「マリアへのお告げ」(L'Annonce faite à Marie 同年初演)。私は未読であるが、に登場人物と簡単な梗概が出る。

「戒壇院」東大寺戒壇堂。天平勝宝六(七五四)年に聖武上皇が光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真和上から戒を授かったが、翌年、日本初の正式な授戒の場としてここに戒壇院を建立した。当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されている(以上は東大寺公式サイトに拠る)。現在の建物は享保一八(一七三三)年の再建で、内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔が安置され、その周囲を塑造四天王立像(国宝)が守る。ウィキ東大寺によれば、この四天王像は『法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである』とある。私は教え子に連れられて初めてここに行き、その教え子の好きだという広目天像に親しく接し、痛く魅入られたことが忘れられない。] 

 

三月堂の金堂にて  

 月光(がつくわう)菩薩像。そのまへにぢつと立つてゐると、いましがたまで木の葉のやうに散らばつてゐたさまざまな思念ごとそつくり、その白みがかつた光の中に吸ひこまれてゆくやうな氣もちがせられてくる。何んといふ慈(いつく)しみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしてゐる無心さうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のやうなものが漂つており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだといふ氣のするのは、僕だけの感じであらうか。……

 一日ぢゆう、たえず人間性への神性のいどみのやうなものに苦しませられてゐただけ、いま、この柔かな感じの像のまへにかうして立つてゐると、さういふことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。

 

[やぶちゃん注:個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、本パートの原形と思われる多恵子夫人への手紙は、実際には三月堂(東大寺法華堂の通称)ではなく、そこから七百メートルほど南下した万葉植物園で認(したた)められたものらしい。

「月光菩薩像」当時は東大寺法華堂に安置されていたもので、現在は同寺の東大寺総合文化センター内に展示されている奈良時代の国宝塑造日光・月光菩薩立像の一体。元は法華堂本尊不空羂索観音の両脇であった。参照したウィキ東大寺によれば、『天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられたもので、本来は、薬師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、製作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天・帝釈天だった、とする説もある』とある。ウィキ東大寺法華堂」にある月光菩薩立像画像をリンクしておく。]

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅴ)

 

        二

 

十月十八日、奈良ホテルにて  

 けふは雨だ。一日中、雨の荒池(あらいけ)をながめながら、折口博士の「古代硏究」などを讀んでゐた。

 そのなかに人妻となつて子を生んだ葛(くず)の葉(は)といふ狐の話をとり上げられた一篇があつて、そこにかういふ挿話が語られてゐる。或る秋の日、その葛の葉が童子をあやしながら大好きな亂菊の花の咲きみだれてゐるのに見とれてゐるうちに、ふいと本性に立ち返つて、狐の顏になる。それに童子が氣がつき急にこはがつて泣き出すと、その狐はそれつきり姿を消してしまふ、といふことになるのだが、その亂菊の花に見入つてゐるその狐のうつとりとした顏つきが、何んとも云へず美しくおもへた。それもほんの一とほりの美しさなんぞではなくて、何かその奧ぶかくに、もつともつと思ひがけないものを潜めてゐるやうにさへ思はれてならなかつた。

 僕も、その狐のやつに化かされ出してゐるのでないといいが……

 

[やぶちゃん注:「一」の最後が十月十四日であるが、個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、十月十五日には京都に出かけ、円山公園で「いもぼう」を食べ、出町柳の古本屋で掘り出し物を探し、十六日は小説構想のために一日奈良ホテルに籠っている。翌十七日には再び京都へ出てて、高瀬川に沿って歩きながら寺町通りへ向かい、古本屋を二時間ほど渉猟の末、求めていた「今昔物語集」入手したが、その帰途、京都駅で乗り換えた電車を誤り(橿原行)、郡山まで行ってしまったとある。
 
『折口博士の「古代研究」』これは折口信夫の「古代研究 民俗学篇第一」で、昭和四(一九二九)年四月十日大岡山書店刊行。ここで辰雄の語っているのはその中の「信太妻の話」である(この論文自体の初出は大正一三(一九二四)年四・六・七月の『三田評論』)。辰雄がイメージを飛ばしたシークエンスはその第一章に出る。やや長いが冒頭第一章総てを引用しておく。底本は所持する中公文庫版折口信夫全集第二巻(昭和五〇(一九七五)年刊)の正字正仮名版を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。段落冒頭の一字下げのないのは底本のママである。なお、この信太は和泉国和泉郡、現在の大阪府和泉市の信太山丘陵の北部一帯に広がっていたと考えられており、同市葛の葉町(くずのはちょう)には本伝説所縁の信太森葛葉稲荷神社が鎮座する。

   《引用開始》

今から二十年も前、特に靑年らしい感傷に耽りがちであつた當時、私の通つて居た學校が、靖國神社の近くにあつた。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては、行き行きしたものだ。今もあるやうに、其頃からあの馬場の北側には、猿芝居がかゝつてゐた。ある時這入つて見ると「葛の葉の子別れ」といふのをしてゐる。猿𢌞しが大した節𢌞しもなく、さうした場面の抒情的な地の文を謠ふに連れて、葛の葉狐に扮した猿が、右顧左眄の身ぶりをする。

「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」何でもさういつた文句だつたと思ふ。猿曳き特有のあの陰慘な聲が、若い感傷を誘うたことを、いまだに覺えてゐる。平野の中に橫たはつてゐる丘陵の信太山(シノダヤマ)。其を見馴れてゐる私どもにとつては、山又山の地方に流傳すれば、かうした妥當性も生じるものだといふ事が、始めて悟れた。個人の經驗から言つても、それ以來、信太妻傳說の背景が、二樣の妥當性の重ね寫眞になつて來たことは事實である。今人の信太妻に關した知識の全内容になつてゐるのは、竹田出雲の「蘆屋道滿大内鑑」といふ淨瑠璃の中程の部分なのである。

戀人を死なして亂心した安倍安名が、正氣に還つて來たのは、信太(シノダ)の森である。狩り出された古狐が逃げて來る。安名が救うてやつた。亡き戀人の妹葛の葉姬といふのが來て、二人ながら幸福感に浸つてゐると、石川惡右衞門といふのが現れて、姬を奪ふ。安名失望の極、腹を切らうとすると、先の狐が葛の葉姬に化けて來て留める。安名は都へも歸られない身の上とて、攝津國安倍野といふ村へ行つて、夫婦暮しをした。その内子供が生れて、五つ位になるまで何事もない。子供の名は「童子丸(ドウジマル)」と言うた。葛の葉姬の親「信太莊司」は、安名の居處が知れたので實の葛の葉を連れて、おしかけ嫁に來る。來て見ると、安名は留守で、自分の娘に似た女が布を織つてゐる。安名が會うて見て、話を聞くと、訣らぬ事だらけである。今の女房になつてゐるのが、いかにも怪しい。さう言ふ話を聞いた狐葛の葉は、障子に歌を書き置いて、逃げて了ふ。名高い歌で、訣つた樣な訣らぬ樣な

 戀しくば、たづね來て見よ。和泉なる信太の森の うらみ葛の葉

なんだか弖爾波のあはぬ、よく世間にある狐の筆蹟とひとつで、如何にも狐らしい歌である。其後、あまりに童子丸が慕ふので、信太の森へ安名が連れてゆくと、葛の葉が出て來て、其子に姿を見せるといふ筋である。

狐子別れは、近松の「百合若大臣野守鏡」を模寫したとせられてゐるが、近松こそ却つて、信太妻の說經あたりの影響を受けたと思ふ。近松の影響と言へば「三十三間堂棟木由來」などが、それであらう。出雲の外にも、此すこし前に紀海音が同じ題材を扱つて「信太女占(ヲンナウラカタ)」といふ淨瑠璃を拵へて居る。此方は、さう大した影響はなかつた樣である。

信太妻傳說は「大内鑑」が出ると共に、ぴつたり固定して、それ以後語られる話は、傳說の戲曲化せられた大内鑑を基礎にしてゐるのである。其以外に、違つた形で傳へられてゐた信太妻傳說の古い形は、皆一つの異傳に繰り込まれることになる。言ふまでもなく、傳說の流動性の豐かなことは、少しもぢつとして居らず、時を經てだんだん伸びて行く。しかも何處か似よりの話は、其似た點からとり込まれる。併合は自由自在にして行くが、自分たちの興味に關係のないものは、何時かふり落してしまふといつた風にして、多趣多樣に變化して行く。

さう言ふ風に流動して行つた傳說が、ある時にある脚色を取り入れて、戲曲なり小說なりが纏まると、其が其傳說の定本と考へられることになる。また、世間の人の其傳說に關する知識も限界をつけられたことになる。其作物が世に行はれゝば行はれるだけ、其勢力が傳說を規定することになつて來る。長い日本の小說史を顧ると、傳說を固定させた創作が、だんだんくづされて傳說化していつた事實は、ざらにあることだ。

大内鑑の今一つ前の創作物にあたつて見ると、角太夫節の正本に、其がある。表題は「信太妻(シノダヅマ)」である。併しこれにも、尙今一つ前型があるので、その正本はどこにあるか訣らないが、やはり同じ名の「信太妻」といふ說經節の正本があつたやうである。「信太妻」の名義は信太にゐる妻、或は信太から來た妻、どちらとも考へられよう。角太夫の方の筋を拔いて話すと、大内鑑の樣に、信太の莊司などは出て來ず、破局の導因が極めて自然で、傳說其儘の樣な形になつてゐる。

或日、葛の葉が緣側に立つて庭を見てゐると、ちようど秋のことで、菊の花が咲いてゐる。其は、狐の非常に好きな亂菊といふ花である。見てゐるうちに、自然と狐の本性が現れて、顏が狐になつてしまつた。そばに寢てゐた童子(ドウジ)が眼を覺まして、お母さんが狐になつたと怖がつて騷ぐので、葛の葉は障子に「戀しくば」の歌を書いて、去つてしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。此邊は大體同じことであるが、その前後は、餘程變つてゐる。海音・出雲が角太夫節を作り易へた、といつた樣に聞えたかも知れないが、實は說經節の影響が直接になければならぬはずだ。

内容は數次の變化を經てゐるけれど、說經節では其時々の主な語り物を「五說經」と唱へて、五つを勘定してゐる。いつも信太妻が這入つてゐる處から見ると、此淨瑠璃は說經としても、重要なものであつたに違ひない。それでは、說經節以前が、傳說の世界に入るものと見て宜しいだらうか。一體名高い說經節は、恐らく新古の二種の正本のあつたものと考へる。古曲がもてはやされた處から、多少複雜な脚色をそへて世に出たのが、刊本になつた說經正本であらう。

   《引用終了》

老婆心乍ら、この子供(幼名自体を「童子丸」とする)こそが後の陰陽師のチャンピオン安倍晴明で、後に父の汚名(冤罪による失脚という設定が別伝承にある)を晴らして安倍家再興を果たすというストーリーが続く。以下「信太妻の話」は伝承起源を民俗学的に遡って自在に沖繩にまで飛んでゆく、かの独特の折口節が続くのであるが、第二章の最後で折口は『子供の無邪氣な驚愕が、慈母の破滅を導くと言ふ形の方が、古くて作意を交へないものに違ひない』と述べており、まさにここでこそ辰雄は、その無邪気な童子の網膜となって正しく狐の母の顔を見ていることに気づきたい。そうして同時にそれが、まさに『慈母の破滅を導く』という致命的な安定世界の崩壊を導くことに強い文学的興味を惹起させられている点も含めて、である。]

尾形龜之助 「夕暮れに温くむ心」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

   夕暮れに温くむ心

         尾形龜之助

 

夕暮れは

窓から部屋に這入つてきます

 

このごろ私は

少女の黑い瞳をまぶたに感じて

少しばかりの温くみを心に傳へてゐるものです

 

夕暮れにうずくまつて

そつと手をあげて少女の愛を求めてゐる奇妙な姿が

私の魂を借りにくる

 

[注:「温くみ」「うずくまつて」はママ。]

 

Yuhugureninukumukokoro

 

 黄昏 发暖的心

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

黄昏

它从窗户进房间里

 

最近 我

在眼睑上感知少女的漆黑瞳孔

而把它一点暖气向我心底传导

 

蹲在黄昏里

悄悄地举手请求少女的爱情 —— 那奇异身影

来借用我的灵魂 ……

 



         
矢口七十七/

2015/02/24

本日閉店

今月三度目の文楽鑑賞のため本日はこれにて閉店   心朽窩主人敬白

柳田國男「蝸牛考」電子化始動

 カテゴリ「柳田國男」を創始し、まず、柳田國男の代表的著作「蝸牛考」の電子化を始動する。

 高校時代に「遠野物語」に感銘したものの、他の著作は読んでいなかった私は大学一年の春、坪井洋文先生の「民俗学」の講義で「蝸牛考」と方言周圏論を知り、貪るように読んだ思い出の論考である。

 底本は国立国会図書館蔵の刀江(とうこう)書院昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を同「近代デジタルラブラリー」視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化、「〻」は「ゞ」に代えた。一部、読解に難のある箇所や地誌的に理解し難いと私が判断した地名(私は社会科選択を地理でし、高校三年間、世界地誌までみっちりやった稀有の人間であるので、一般人よりは地理認識の程度が有意に高いと思うが、私が疑問なく位置想起出来る地名には注を全く附していないので悪しからず)等については注を原則、当該部分を含む段落末に注した。その関係上、読み易さを考えて各段落の間は一行空けた。但し、注が著しく離れる場合などは本文中や例示の直後に行を開けずに挿入してある。柳田自身による改訂版(昭和一八(一九四三)年創元社版)と比較した部分があるが、対照に用いたのは、ちくま文庫版「柳田國男全集19」(新字体現代仮名遣)で、引用の際には底本の初版の漢字その他の表記を尊重優先し、概ね、恣意的に正字化して歴史的仮名遣に直してある。割注(文中に丸括弧表記で挿入されてある)は底本では、ややポイント落ちで右寄りであるが、本文と同ポイントとした。底本は童謡の前の改行箇所の末尾などに読点の脱落が甚だしいが、いちいち指示していると面倒なので、これについては改訂版と校合して、本文に読点を追加してある。
 
 
 

柳 田 國 男 著   (言語誌叢刊)
 
 

蝸  牛  考 [やぶちゃん注:(柳田國男落款)]



      
刀 江 書 院

  


        小  序

 

 前年東條氏の試みられた靜岡縣各村の方言調べ、又は近頃岡山縣に於て、島村知章君、佐藤淸明君等の集めて居られる霸植物名彙などを見ると、言葉が相隣する村と村との間にも、なお著しい異同を示す例が、日本では決して珍らしくないといふことがわかる。府縣を一つの採集區域とした方言集が、よほど氣を付けぬと正確を保ち得ないのは勿論、親切なる各郡々誌の記述でさへも、果してよく隅々の變化までを代表して居るかどうか。時としては稍心もと無い場合がある。我邦が世界の何れの部分にも越えて、殊に言語の調査を綿密にする必要があり、又その大いなる價値があると思ふ理由は、獨り人口の夙に溢れたゞよひ、土著の順序が甚だしく入り組んで居るといふだけでは無い。海には何百という小島が、古い新らしい色々の村を形づくり、一方にはまた小國五箇山中津川といふ類の奧在所が、嶺に取圍まれて幾つと無く、異なる里人を定住せしめて居るのである。岬の端々に孤立する多くの部落などは、今まで何人も心付かなかつたけれども、實際はこの島と山里と、二つの生活の特質を兼ね備へて居るのであつた。さういふ土地の方言報告は、遲れて到達するにきまつて居る。故に若し國語の調査を周到ならしめんとすれば、進んで我々の方から指定しなければならぬ區域が、實は日本には非常に多かつたのである。

 それが少なくとも今日までは、まだ一つとして指定せられたものが無い。方言採錄の事業は既に過去四十年に亙り、その編述も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ有用なるものが餘りに豐富なる爲であつた。私は自身數年の實際よつて、誰よりも痛切にこの不備を認めて居る。從つて言語誌叢刊の將來の收獲に向つて、最も大いなる期待を繫けて居る。それがこの現在のような乏しい智識を基にして、歸納の方法を試みようとすることは、或は自己の危險を省みざる所業あらう。し併し新たなる次の發見の爲に、覆へるかも知れぬのは粗忽なる私の假定だけであつて、私が處理し整頓しておいた事實のばかりは、たとへ追々に其重みを加へぬまでも、兎に角にそれ自身の意義を失ふことはないと信ずる。此方法は今後の資料の累積と比例して、歩一歩完成の域に進むべき希望あるものであるが、假に不幸にして尚當分の間、日本の採集事業が今の狀態に放置されることになろらうとも、少なくとも各地に散在する同志の人々を、糾合し又慰留するの效果だけはある。我々はいわゆる方言の理論、方言が國語の眞實を開明する爲に、如何に大切であるかを既に聽き知つて居る。それが一二の進んだ國に於て、最近どれ程の成績を擧げたかといふことも、賴めば講説してくれる人が必ず有るであらう。獨り欠けて居るかと思ふのは學問の興味、斯ういふ切れ切れの小さな事實を集めて行くことが、末にはどういう風に世の中の智慧となるか。それを眼の前の生活に就いて例示することであつた。是にも方式があり又準備が無けれはならぬが、私には徒然草の説教僧のやうに、乘馬の稽古の爲に費すべき若い日が無いので、其支度の調ふのを待ちきれずに、忍んでこの未熟の初物を摘み來つて、やがて大きな御馳走の出るまでの、話の種にしようとするのである。我々俗衆の學問に對する手前勝手な要求は、第一には之に由つて伯樂を得、又安息を得んとすることである。それには萬人の幼なき日の友であり、氣輕で物靜かで又澤山の歌を知つて居るデデムシなどが、ちやうど似合はしい題目では無かつたかと思ふ。

[やぶちゃん注:「方言採錄の事業はすでに過去四十年に亙り、その編述も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ有用なるものが餘りに豐富なる爲であつた」の部分は改訂版では、『方言採錄の事業は既に過去四十年に亙り、その編集も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ未知の事實が餘りに豐富なる爲であつた』となっている。]

 我々は田舍の生活に遠ざかつて居る爲に、既に久しい間この蟲が角を立てゝ、遊んであるく樣子を見たことが無い。其進歩の痕の幽かなる銀色をしたものが、眼に付くことも段々に稀である。都府の庭園が日照り耀いて、餘りに潤ひの足らぬといふことも、蝸牛の靜かなる逍遙を妨げて居るか知らぬが、一つには我々の心があはたゞしく、常に物影の動きを省みようとしなかつた故に、是も多くの過ぎ行くものと同じく、知らぬ間に無くてもよいものになつてしまつたのである。我々はこの小さな自然の存在の爲、もう一度以前の注意と愛情とを蘇らせ、之に由つて新たなる繁榮を現實にしてみたいと思ふ。所謂蝸牛角上の爭鬪は、物知らぬ人たちの外部の空想であつた。彼等の角の先にあるものは眼であつた。角を出さなければ前途を見ることも出來ず、從つて亦進み榮えることが出來なかつたのである。昔我々が角出よ出よと囃して居たのは、即ちその祈念であり又待望でもあつた。角は出すべきものである。さうして學問が又是とよく似て居る。

 

 かたつむりやゝ其殼を立ち出でよあたらつのつのめづる子のため

 

  昭和五年六月初六           柳  田  國  男

 

[やぶちゃん注:ここに底本では目次が入るが、ブログ版では省略する。]

耳嚢 巻之十 武偏可感人の事

 武偏可感人の事

 

 去る御旗本の隱居に平岡如眞といへる人あり。子息は奧向(おくむき)の御奉公を勤(つとめ)、いやしき事などしらず過(すぎ)き。彼(かの)翁は平日綿服(めんふく)にて、藏(くら)へ八疊舖(じき)計(ばかり)のさし懸(かけ)をなし、朝夕の食事も食汁計(めししるばかり)にて、朔十五日には肴(さかな)を給(たべ)、是(これ)以(もつ)とほしけれは、干魚(ひうを)上下共(とも)用ゆ。家來末々迄も、或日には主人と同格にて上下とも食事聊(いささか)へだてなく、質素を專らなせし人也。餘が許へ來る種山某は懇意に出合(であひ)しが、彼(かの)翁目利(めきき)をよくなして、常に膝の廻りには甲胃を幾通りも並べ、扨(さて)打物も何れも折紙付(つき)し品を並べけるを樂(たのしみ)となす。或時我等が質素を專らとせる所を見給へとて、いかにも包(つつみ)を出して見せける故、いか成(なる)奇物哉(や)とひらき見れば、金百兩包三つあり。これは具足櫃(ぐそくびつ)に入(いれ)て、武士の爰(ここ)はの時の費用也(なり)、かゝる目出度(めでたき)御代なれば、火災等に逢(あは)ば遣ひもせん、其外には聊(いささか)不用品也と申されけると也。〔息は玄蕃頭(げんばのかみ)とて當時勤士(ごんし)の人なるよし。〕

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。平時武辺物。

・「武偏可感人の事」「ぶへんかんずべきひとのこと」と読む。武辺の方がよろしい。

・「平岡如眞」底本の鈴木氏注に、『頼長か。ただし寛政譜には如真とは記してない。嗣子は頼寛。三村翁は如真を頼寛かとされている。頼寛は文化六年四十四歳であるから、隠居する年でないとはいえない』とあるが、岩波版の長谷川氏注は『頼長は寛政三年(一七九一)より御側のまま文化十三年(一八一六)没、隠居というのにあわない。子の頼寛は享和三年(一八〇三)西丸小納戸、父に先んじて隠居も如何と思われ、頼寛説も疑問』と退けておられる。個人サイト「風雲児たちの人物事典」の「平岡頼長」の事蹟を読むと、根岸が惹かれた気骨のある人物としては、しっくりはくる。

・「さし懸」建物の壁面から屋根(廂)を片流れに長く出して附け足し、そこを通路や小屋の様に用いた部分。下屋(げや)。

・「朔十五日」それぞれ氏神や信仰する神社に参る朔日(ついたち)参りと十五日参りの式礼日。新月と満月のこの日は神霊の霊力が最も強いとされた。

・「かゝる目出度御代なれば、火災等に逢ば遣ひもせん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かゝる目出度御世なれば、軍陣の用はなくとも嗜(たしな)み置(おく)金子也。火災等に逢(あは)ば遣(つかひ)もせん』と通りが良い。ここの部分はこれを用いた。

・「上下共用ゆ」以下の部分とダブる。衍文として判断して訳の一部を省略した。

・「玄蕃頭」しばしば聴く官名なのでウィキの「玄蕃寮」で注しておく。元来、玄蕃寮は律令制に於ける治部(じぶ)省に属する機関で和名は「ほうしまらひとのつかさ」、唐名は「崇玄署」「典客署」「鴻臚寺」。「玄」は僧侶(ほうし)、「蕃」は外国人・賓客(まらひと)のこと。『度縁や戒牒』(「どえん」「かいちょう」と読み、国家公認の僧尼に交付される身分証の類)『発行といった僧尼の名籍の管理、宮中での仏事法会の監督、外国使節の送迎・接待、在京俘囚の饗応、鴻臚館』(七~十一世紀頃に京都・太宰府・難波・博多に置かれた外国からの来朝者を接待した館舎。平安後期に消失)『の管理を職掌とした』。「玄蕃頭」は玄蕃寮の長官で位階は従五位下相当であった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 武士道感心の御仁の事

 

 さる御旗本の御隠居に平岡如真(じょしん)と申す御方がおらるる。この如真殿の御子息などはこれ、物心ついたころより奧向きの御奉公を勤められ、凡そ俗事なんど知らずに育って御座ったほどの御家系にて御座る由。

 如真翁は、平素は質素なる綿服(めんぷく)を着られ、蔵の廂を延ばして八畳敷ほどの差し掛けの粗末な小屋をお造りになり、そこを隠居所となさっておらるると申す。

 朝夕の食事も飯と汁ばかりにして、式礼の朔日(ついたち)と十五日にのみ、魚(さかな)一品だけを添えられ、時に、今少し食したく思われた折りには、それでも少しばかりの干魚(ほしざかな)をそれに加えらるるばかりで、しかも御自身のみでなく御家来衆から下々の下男下女に至るまで、これ、平時と式礼日の食、御主人と同格にして、屋敷内の者はこれ、一切、食事に聊かの違いも御座なく、質素徹底を専らとなせる御仁と聞く。

 私の許へ参る種山某(ぼう)は、特にこの如真翁と懇意にしておらるる御仁であるが、その種山殿の話によれば、

 

……かの翁は武具の目利きをもよくなさるる御方にて、常にその下屋(げや)の床(ゆか)には所狭しと鑓や刀が並んでおり、膝の廻りには甲胃など何領も並べ置かるるを常とされ、しかもまた、その各種の刀剣・槍・甲冑、これ、孰れも確かな鑑定を経たる業物(わざもの)ばかり。……それらの品々を眼の前一杯にざあーっと並べてご覧にならるる、これを無上の楽しみとなさっておられまする。……

 ある日のこと、翁が、

「――拙者が質素を専らと致いて御座る所を――これ――ご覧にならるるか?」

と申され、徐ろに、はなはだ大きなる包みを出だいて見せんとなされたによって、

『如何なる奇物であろうか?』

と興味深々にて、翁の包みを開いたるを見れば、これ

――金子――百両包みが――三つ――

「……これは具足櫃(ぐそくびつ)の内に入れおきて、『すは出陣』と申す折りの費用で御座る。……もっとも、かかる目出度き天下泰平の御代となって御座れば、軍陣がための費用とは笑止千万と申さるるかも知れぬが……やはり、我ら武士として忘れずに持ちおくべき金子と、これ、心得て御座る。……いや、まあ、しかし、そうした謂いも、これ、拙者の見得にては御座る、……火災なんぞに逢(お)うた折りにでも、少しは役に立とうかと存ずるものにして……いやはや……その外には……全く不用品の三百両にては……御座るよ……呵! 呵! 呵!」

と自嘲しつつも、気持ちよくお笑いになられて御座った。……

 

 なお、最初に述べた御子息と申すは、これ、玄蕃頭(げんばのかみ)にして、今は数々の幕府重役を勤められておらるる御仁なる由。

2015/02/23

譚海 卷之一 同郡神宮寺渡幷杉の宮寶物の事

○同郡神宮寺の渡(わたし)と云は大川也。津輕往來の驛路也。津輕殿渡らるゝ時は怪異有(あり)。是は先年船頭祝儀の錢をねだり、非禮の事ありしを糺され、死刑に行れし癘也と云傳(いひつた)ふ。又同郡に杉の宮とて八幡宮を祭たる所あり。杉の大木數千本しげりて幽邃の地なり。神寶の内に義家將軍の隨身(ずいじん)のもの多し。又後鳥羽院のうたせ給ふ佩刀あり。目貫(めぬき)に黄金の菊の折枝(おりえだ)をつけたり。花のつぼみのところ則(すなはち)目釘の鋲也。又同領鑓(やり)みなひ村といふ處の杉を伐(きり)たふしたる中より、鴈(かり)またの矢の根出たり。長さ壹尺餘はゞ七寸計りにて、鎗のほさきのごとし。この地は往古後三年の戰場なれば、そのとき射たるものと覺ゆ。むかしはかくのごとき勢兵(せいびやう)の射手ありけるにやと嘆慨し侍りぬ。

[やぶちゃん注:「同郡神宮寺の渡」前話の出羽国を受けるから現在の秋田県大仙市神宮寺(旧仙北郡神宮寺村)で、渡しは同地区の南部を流れる雄物川のそれである。「秋田の昔話・伝説・世間話」に「神宮寺渡しの怪」があり、『佐竹義真は父を亡くし若くして十六代佐竹藩主になった。江戸城で津軽藩主に呼び止められ、神宮寺の川越人足の不貞を告げられると、義真は津軽藩主が津軽に帰る際、川越の前日に渡し人夫十一人を斬首し獄門にかけた。そして川越をしようとした時、大嵐が襲い一行の行き先をはばかった。津軽藩主たちは一心に念仏を唱えるとやっと嵐がおさまった。それから墓を作ることの出来ない罪人を自然石に仏を入れた』とある。TU氏のブログ「Tiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮」の「神宮寺嶽は見ていた ~十一人獄門の真実」でことの真相を推理しておられ、非常に面白い。それによれば、この当事者であったのは当時の久保田藩第六代藩主佐竹義真(よしまさ 享保一三(一七二八)年~宝暦三(一七五三)年)と弘前藩(津軽藩)第七代藩主津軽信寧(のぶやす 元文四(一七三九)年~天明四(一七八四)年)であるとあり、底本の竹内氏の注にはこの事件は「秋田沿革史大成」には『宝暦年間のことと伝えている』とある。すると義真は二十三~五歳、信寧に至っては十二~十四歳で、とんだ青二才同士の気まぐれに人夫ら十一人は命を落としたのであった。

「癘」読み不詳。ハンセン病や流行病を指す語であるが、ここは「靈」(レイ)若しくは「祟」(たたり)と書くところを誤ったもの。

「杉の宮」底本の竹内氏注に、秋田県雄勝(おがち)郡『旧杉宮村の杉宮大明神、八幡宮ではなく三輪明神を祭る。神杉の大木が茂っていて有名であった。近世は藩主の命で年々社地外に杉の植林をおこなってもいる』とある。現在の秋田県雄勝郡羽後町杉宮。神宮寺町の約南方三十キロメートルに位置する。

「隨身」ここは身の回りにつけていたものの意。

「後鳥羽院のうたせ給ふ佩刀」後鳥羽院は刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れ、それに十六弁の菊紋を毛彫りしたとされ、これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。天皇家の菊紋の濫觴である(以上はウィキ後鳥羽天皇に拠る)。現存はしない模様である。

「鑓みなひ村」秋田県大仙(だいせん)市鑓見内(やりみない)であろう。神宮寺町の東北直近にある。

「鴈またの矢の根」先が股の形に開き,その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。

「長さ壹尺餘はゞ七寸」鏃の長さが三十センチメートルを有に越え、幅も二十一センチメートルというから、それを装着した矢となると、これはもう恐ろしく大きく且つ長い。

「勢兵」剛腕の強者(つわもの)。]

耳嚢 巻之十 滑稽才士の事

 滑稽才士の事

 

 尾州藩中に横井孫右衞門といへるは、學才ありて俳語などは名人のよし。彼(かの)地にて名高く、也有(やいう)といふて知らぬ者なき由。生涯滑稽の人にて、天明の頃故人となりしが、彼人の作の鍾馗(しようき)の贊(さん)を人の見せしを、爰に記しぬ。

   鍾馗贊

豆をうたぬ家もなし、いづこに鬼を尋らん、

素人繪の幟にかゝれて、あやめふく軒にひらめく、

疫神除の板に押れて、ひゐらぎの門を守る、

其劍と摺小木とは、つゐにいまだ鞘を見ず、

 右の通書(かき)し。かゝる事夥多(あまた)ありしと、人の語りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「横井孫右衞門」横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)。既出。「耳嚢 巻之四 老人へ教訓の哥の事」の私の注を参照されたいが、ウィキ横井也有」によれば、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡長男で、横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称するとあり、二十六歳で家督を継いだ後は『用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる。多芸多才の人物であったという』とある。

・「鍾馗」以下、主にウィキ鍾馗より引く(アラビア数字と記号の一部を変えた)。『主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする』。『鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけ』、具体に小鬼を摑み殺す姿で描かれる。『鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している』。ある時、唐の玄宗皇帝(謡曲「皇帝」では玄宗の寵姫楊貴妃とする)が瘧(おこり:マラリア。)に罹患して、床に臥し、高熱に魘(うな)される中、以下のような夢を見た。それは『宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(六一八年~六二六年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた』。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』。『この伝説はやがて一般に広まり、十七世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた』。『日本では、江戸時代末(十九世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった』。『京都市内の民家(京町家)など近畿~中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に十~二十センチメートル大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる』とある。也有の没年が天明三(一七八三)年であること、この讃が載る(次注参照)也有の「鶉衣」は大田南畝によって前編が天明七(一七八七)年に刊行されていること、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であることなどから、このウィキの叙述に照らすならば、この「讃」は鍾馗がかく厄除け神として大衆にもて囃されるようになって(鍾馗自体の画像は平安鎌倉期の絵図に既に出現している)じきの戯れ歌であったということが分かる。

・「鍾馗贊」也有の「鶉衣」の後編上に「鍾馗畫讚」として所収する。岩波文庫堀切実校注「鶉衣(上)」の「五三」(二五四~二五五頁)に載るものを参考に正字化して再掲(読みなしと底本の読みを参照しながら総てに私が歴史的仮名遣で読みをつけたものの二種)し、そこでの堀切氏の語注を参考に評釈する。

   *

 

     鍾馗畫讚

 

 豆をうたぬ家もなし   いづこに鬼をたづぬらん

 素人繪の幟にかゝれて  あやめふく軒にひらめく

 疫神除の板に押されて  ひいらぎの門をまもる

 其劍と摺小木とは    つゐにいまだ鞘を見ず

 

     鍾馗畫讚(しようきのがさん)

 

 豆(まめ)をうたぬ家(いへ)もなし

 いづこに鬼(おに)をたづぬらん

 素人繪(しろとゑ)の幟(のぼり)にかゝれて

 あやめふく軒(のき)にひらめく

 疫神除(やくじんよけ)の板(はん)に押(おさ)れて

 ひいらぎの門(もん)を守る

 其(その)劍(けん)と摺小木(すりこぎ)とは

 つゐにいまだ鞘(さや)を見ず

 

●「畫讚」堀切氏注に「ゑさん」という読みも提示されてある。

●「豆をうたぬ家もなし/いづこに鬼をたづぬらん」――節分の夕刻にはどの家も豆を打って鬼を打ち払うのだから、鍾馗さまはあのような厳めしい面でどこに鬼を捜し出そうというのであろう? どこにもおらへんがね?――と茶化して、さらに五月五日の端午の節句の鍾馗を描いた幟・軒菖蒲・分身の術の様に無数に貼られる鍾馗の御札(後注参照)・柊鰯(ひいらぎいわし。後注参照)といった鉄壁の厄除け各種をテッテ的に繰り出すことで――ほんにどこにも鬼のおる場はあらへんのにのぅ?――と駄目押しで茶ら化すのである。

●「疫神除の板に押されて」伝承にあるように流行り病い除けに鍾馗が絶大なる効果を持つと考えられたことから、疱瘡除けなどに鍾馗の画像が印刷された御札が飛ぶように売れた。

●「ひいらぎの門をまもる」シソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ(柊)Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に好んで使われた(家の庭には鬼門除けに鬼門(北東)には柊を、裏鬼門(南西)には南天の木を植えると良いとされる)が、特に節分の夕刻、柊の小枝と大豆の枝に焼いた鰯の頭を門戸に飾ると悪鬼を払うとされた。

●「鞘を見ず」鍾馗の画像では常に剣は抜き身である(グーグル画像検索「鍾馗」)。擂粉木を出すのは鞘がないことではなく――鬼もおらずば剣でのうても擂粉木でいいがね――といった諧謔を匂わせる。

   *

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 滑稽の才士の事

 

 尾張藩藩中に横井孫右衛門と申す御仁のあって、学才のあって、特に俳諧に於いては当代の名人と称された。かの尾張の地にては名高き者にして、「也有」(やゆう)という俳号では、これ、知らぬ者とてなき由。生涯滑稽の御仁にて、天明の頃、故人となられたが、この人の作れる「鍾馗(しょうき)の讃(さん)」を人の見せ呉れたを、ここに記しおくことと致す。

 

   鍾馗が讃

豆をうたぬ家もなし、いづこに鬼を尋ぬらん、

素人絵の幟りにかゝれて、あやめふく軒にひらめく、

疫神除けの板に押されて、ひいらぎの門を守る、

其の剣と摺小木とは、つゐにいまだ鞘を見ず、

 

 右の通り、書かれて御座った。かかる戯文、数多(あまた)御座る由、人の語って御座った。

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅷ)

 又パロロの生活する場所は淡水に關係なし。故に我が國の「いとめ」の生活とは反対に流れて食鹽濃度の多き場所へ達する必要がない。即ち流れざる方が受胎に便である。故に潮差少く且つ流れの最も少き弦月時を選ぶのであらう。之が適者存續の條件に一致してゐる。朝顏の花が朝に開き夕顏の花が夕に開が如く、パロロも一定時に群游するものもあれど、兩者の間に甚だしき差異がある。朝顏夕顏は開花期間を通じて毎日咲くもので、「いとめ」の如く第一、第二、第三、第四と期間を置いて群游するのでもなく、パロロの如く下弦のみに出づるものでもない。

 或年の十月の下弦より其翌年の十月の下弦に至るまでの日數は年々同一ではない。故に若しパロロが發育して生殖するに至るまでに一定の日數を要するものとすれば、其生殖群游の日を年々繰りかへなければならぬ。然るにパロロは必ず下弦の前夜、若しくは當日群游すると云ふことは月齡に關係あるので、これは何人も否定することは出來まい。(卷末參照)

 地球上の生命に對する總ての月の影響を單に俗間の迷信なりとして棄つるが如き見解は、パロロや「いとめ」の現象を全く説明し得ざるものにして了ふのである。

 大正三年以來の觀察によれば「いとめ」の群游時は年々粗同一なれば之を省き、茲には唯大正十四年のバチの群游と朔望との關係につきて東京附近に於ける實例を擧ぐれば

 千住に於ては九月十九日及び二十日、十月三日及び四日に二回群游、但し九月十八日は朔、十月二日は望。

 深川及び小松川に於ては十月十九日大群游。但し十月十八日が朔。

 羽田に於ては十一月十三日大群游、但し十一月十六日が朔に當る。即ち朔若しくは望の翌日に群游することが多かつた。

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年の九月・十月・十一月の朔望は、私が文理あらゆる電子テクストでお世話になっているかわうそ@暦氏のこよみのページ月齢カレンダで確認されたいが、新田氏の記載は正確である。]

2015/02/22

耳嚢 巻之十 誠心によつて神驗いちじるき事 その二

   又

 

 これは少し年も古き事の由にて、享和二戌年七月の事の由。中國方藩中の士〔龜井隱岐守分知(ぶんち)登之助家來德永幸右衞門。〕にて、石州(せきしう)を旅行、或寺院と出會(であひ)、心安(こころやすく)なせしが、右寺院に破壞なせし小堂ありしを、何の堂にやと尋(たづね)しに、柿本人麿の堂の由にて右像をも見せけるに、いかにも殊勝の古像なりけるに、かく零落なし置(おか)んも恐れありとて、歌道など心懸し事はなけれども、一體有德(うとく)なる仁(じん)故、同士の者抔勸進(くわんじん)して新規の堂を造りかへければ、住職の僧大(おほき)に怡(よろこび)、右謝禮とて右堂の古木を以(もつて)、人麿の像を刻(きざみ)て與へしと也。然るに彼(かの)士其後關東に下り御直勤(ぢつきん)の列にも加(くはは)り、妻子などもありしが、最愛の悴〔德永松次郎〕痢疾(りしつ)を患ひ、諸醫手を盡せども甚(はなはだ)難症にて醫療更にしるしなく、一人の子なれば其悲歎申(まうす)もおろかなれど、十計(じつけい)盡(つき)てせんかたなし。藥も諸醫を盡して驗しなければ、此上は神仙を祈るの外なし。然れども我等知らざる神仙を祈りしとて、俄(にはか)に賴(たより)ては人も聞(きか)ざれば、神も利益(りやく)の覺束なしと色々思案なせしに、先年かゝる事にて、人丸の堂を造立せし事あれば、人丸へ願ひて利益(りやく)を得んと、彼(かの)僧のあたへし人丸の像を取出(とりいだ)し、齋戒沐浴して一心に彼(かの)像を念じけるが、其夜の夢に、南の方へ遠く行(ゆき)て尚(なほ)神仁を祈るべしと、うつゝに覺へければ、翌日品川の方へ至りて神社を拜みまはり、右夢に右の邊の醫師を賴(たのま)ば療養奇特(きどく)あるべしといへる事故、よき醫師もあるや、茶店其外にて聞合(ききあひ)ぬれど、可然(しかるべし)と思ふ事もなし。八丁堀までうかうか歸りける道に、玄關由々敷(ゆゆしき)醫師〔二宮全文といふ。〕の宅有(あり)て、今出宅(しゆつたく)の體(てい)にて藥箱駕(かご)抔ならべありし故、右玄關へ至りて案内を乞(こひ)、御目に懸り度(たし)と申入(まうしいれ)ければ、彼(かの)醫師出懸(でかくる)と見へて程なく立出(たちいで)、何御用やと申(まうす)に付(つき)、しかじかの事にて御願申(まうす)なりと、一部始終を荒增(あらま)しに語り賴(たのみ)ければ、職分の事安き事なれど、格別の遠所(ゑんしよ)御見廻(おみまはり)も申兼(かね)候也(なり)、殊に今日も主家同樣の方へ召(めさ)れ、只今參り候得ば御見廻も難成(なりがたく)、折角賴み給ふ事と暫く思案なしけるが、痢病とあり、諸醫手を盡したる上は、爰にひとつの咄しあり、我等が只今罷越(まかりこす)諸侯の家より出る痢病の奇藥あり、我に隨ひ來り給へ、是を申乞(まうしこひ)て御身に與ふべしと申ける故、大きに悦(よろこ)び、右駕(かご)に付(つき)て彼(かの)諸侯の家に至りしに、醫は玄關より通り、右士は玄關の脇に控へ居(をり)しが、程なく彼(かの)醫二貼(にてふ)の藥を持出(もちいで)て彼(かの)士に與へける故、悦び持歸(もちかへ)りて是を見るに、石州濱田柿本庵と記しある故、大きに驚(おどろ)て彌(いよいよ)信心をこらし彼(かの)藥を倅に與へしに、薄紙をへぐ如く其病(やまひ)癒しと也。右諸侯は松平周防守(すはうのかみ)屋敷の由語りぬ。〔石見國戸田村の柿木社の由。右社地に昔人丸の筆柿(ふでがき)といふありしが、今は枯朽(かれくち)て土中に埋(うめ)ありしを、龜井隱岐守家老龜井一學、掘得(ほりえ)て神像を彫刻し、今は龜井愛之助屋敷に安置の由。〕

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「誠心によつて神驗いちじるき事」二連発。また、祈誓霊験譚という酷似と同標題、医師が匙を投げる難病という設定、しかも途中に割注を挟む異例の形態と、その割注では具体な本名や事実を暴露的に明記するという考証学的書法の酷似からも、私はニュース・ソース自体も二連発で、前の話の話者若泉是雲であると確信するものである。

・「享和二戌年七月」享和二年壬戌(みずのえいぬ)は西暦一八〇二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから十二年前のやや古い話ではある。

・「龜井隱岐守分知登之助」底本の鈴木氏注に、『亀井隠岐守は石見国津和野城主、四万三千石。登之助の諱名は玆求(コレモト)。同家は亀井政矩の長男経矩が庶子であったので家を嗣がず分家したもので、石見美濃郡のうちで三千石を分知された』とある(分知は武家の知行の一部を親族に分与すること。分地とも書く)。当時の主藩石見津和野藩は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 宝暦一一(一七六一)年或いは明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)の代で、ウィキの「亀井矩賢」を見ると、第七代藩主亀井矩貞の長男として津和野で生まれ、天明三(一七八三)年の父の隠居により家督を継ぎ、天明四(一七八四)年、従五位下・隠岐守に叙位・任官した。『しかし天明の大飢饉、さらに幕府の公役などにより財政難はさらに進んだ。このため財政整理や目安箱設置など改革を行なったが、父と同じく学問肌の藩主であり』、天明六(一七八六)年に『藩校・養老館を設置するなどして文学の発展に尽力したため、結局のところ財政再建はならなかった。ただし』、寛政一二(一八〇〇)年には『藩士から庶民にまで範囲を広げ、医学を志す者には学資を貸与するという、現在でいう留学制度を設けるなど、優れた政策があったことも確かである』(下線やぶちゃん)。文政二(一八一九)年隠居とあり、本話の登場人物の縁戚としては話柄の内容との親和性が強い印象を受ける。

・「石州を旅行、或寺院と出會、心安なせしが」これでも読めぬことはないが、恐らくは「或寺僧」の誤写であろう。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見るとここは、

 石州へ旅行之節或寺院に至り、度々住僧共出會心易く爲せしに

とあり(恣意的に正字化した)、脱字の可能性も疑われる。ここの部分はバークレー校版で採ることにした。

・「柿本人麿」「人丸」歌聖柿本人麻呂(斉明天皇六(六六〇)年頃~ 養老四(七二〇)年頃)は「人麿」とも表記され、平安時代からは寧ろ後に出る「人丸」と表記されることの方が多かった。西暦七〇〇年代の初め、この石見国国司として中央より赴任したとされる。彼は事蹟の殆んど分からない謎の人物であり、ウィキの「柿本人麻呂」にも、『その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている』とある。の江津(ごうつ)市観光協会公式サイトの「柿本人麻呂」や大阪調理士養成会公式サイト内の『「柿本人麻呂」浜田考』が当地での人麻呂の足跡を欲追跡していて必読である。

・「直勤」直参(旗本と御家人の総称)と同義であろう。この場合、「德永幸右衞門」の事蹟が不明(ネット検索では少なくとも不詳)なことから、時代的にもお目見え以下の御家人であろう。

・「痢疾」漢方では、下痢の中でも「しぶり腹」を主訴とするような感染性消化器疾患を主因とする下痢症状を指す。一方、「泄瀉(せっしゃ)」は非感染性消化不良及び消化機能低下を主因とした「下り腹」をいう。

・「神仁」底本ではここの右に原典そのものにママ注記があるように(通常の編者注の( )表記がない)書かれてある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『神佛』であるから、これは原本が元とした写本自体の誤写の可能性は濃厚ではあろう。しかし考えてみると、直後の台詞に「右夢に右の邊の醫師を賴ば療養奇特あるべしといへる事故」とあり、この後のシークエンスの展開は「南の方」の「神佛」ではなくして、医師と家伝の人の調したる薬によって快気を得る訳で、これはまさに「神」意の導いた「仁」術、医術を生業とする御「仁」(ひと)による平癒とも言えるわけで、私には全くの誤字とも言えぬようにも思えてくるのである。訳でもあえて謎めいた信託として、そのままで出した。

・「八丁堀」本来の八丁堀は神田と日本橋との境界となっていた堀で、竜閑橋(常盤橋西北)から城濠に分かれて、東方の馬喰町に達し、それから南の浜町堀となって隅田川に入る運河であった(名は堀の長さが約八町(約八百七十三メートル)あったことに由来)が、後にこの周辺の地名となった。現在の東京都中央区の地名として残る(以上はウィキの「八丁堀 (東京都中央区)に拠った)。

・「二宮全文」不詳。

・「格別の遠所」御家人徳永幸右衛門の住居は品川を南方とするから無論、江戸御府内である。向島・小塚原(南千住)・田端・日暮里・巣鴨・板橋辺りか。

・「貼」(現代仮名遣では「ちょう」)接尾語で助数詞。調合して包んだ薬などを数えるのに用いる。

・「石州濱田」現在の島根県浜田市。旧石見国の中心地であった。

・「柿本庵」不詳。

・「松平周防守」石見国浜田藩藩主六万石。享和二年(一八〇二)年当時は第二代藩主松平康定(岩波の長谷川氏注は婿養子で第三代藩主松平康任(やすとう)とするが、これは本話執筆当時の藩主である)。浜田藩の江戸上屋敷は城山(虎の門)にあったから、八丁堀からは西南西へ直線で三キロメートル圏内である。

・「戸田村」底本の鈴木氏注に、『島根県益田市戸田。柿本社は同市高津。もと真福寺、人丸寺と呼ばれた。明和九年津和野侯が建てた石碑の文に「一柿樹尚在宅、其実繊而末黒、名為筆柿、無核」とある。なお戸田村には人麿に仕えたという者の家があって、そこから石棺を掘り出し、人麿の墓ではないかといわれた。(閑田耕筆)また戸田の綾部其の宅を人麿の誕生した所ともいった』とある。まず、ウィキの「高津柿本神社」を調べてみると(注記号を省略した)、この柿本社(現在は正式には戸田柿本神社と呼ぶ)の近くの島根県益田市高津町上市にある高津柿本神社(たかつかきのもとじんじゃ)は『歌聖柿本人麿を祀る神社で、正式名称は柿本神社。柿本人麿を祀る柿本神社は日本各地に存在するが、その本社を主張している。鎮座地は丸山の東に張り出した尾根筋の鴨山(高角山)山頂に位置』する。柿本人麿命(正一位柿本大明神)を祭神とし、『地元では「人麿神社」「人麿さん」とも呼ばれ、歌道を始めとする学問や農業の神、また石見産紙の祖神とされたことから殖産の神として崇敬されるほか、「人麿(ひとまる)」を「火止まる」や「人産まる」と解して、火防や安産の神としても崇敬されている』。『晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌を詠んで益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという』。人麿終焉伝承地は『安来市の仏島など島根県内だけでも各所にあって定説を見ないが、当神社の西方』四キロメートルほど『離れた益田市戸田町の戸田柿本神社には人麿が柿の木の下で生まれたという樹下誕生譚や遺髪塚があり、当地一帯が柿本氏と縁のあったことが想定できる。ちなみに高津町や戸田町は、古く石見国美濃郡小野郷に相当し、郷名は古代豪族小野氏の移住、開拓に由来するとされるが、柿本氏はその小野氏の支族である』。万寿三(一〇二六)年の『地震とそれに伴う大津波で鴨島とともに海中に没したが、神像は高津の松崎に流れ着いたため、その地に社殿と別当寺としての人丸寺が再建された。その後、後鳥羽天皇の時代には石見国司平隆和によって社殿の改築と』水田十町歩の『寄進が行われている』とあり、『江戸時代に石見銀山奉行の大久保長安による造営と金の灯籠が献納され、更に』天和元・延宝九(一六八一)年に『風水難を案じた津和野藩主亀井茲親によって高津城のあった現在地に移築された。同じ頃、都にあっては霊元上皇が古今伝授に際して祈祷を命じたり、後に宸筆の御製歌を奉納したりと和歌の神として崇敬し』、享保八(一七二三)年、『柿本人麿の一千年祭と称して「柿本大明神」の神号と正一位の神階が宣下された。また現地にあっても一千年祭を斎行するとともに、別当人丸寺を真福寺と改称している。以後歴代天皇を始め親王や公卿にあっては特別に法楽を営んで和歌を短冊に認めて奉納、歌道の上達を願う風が流行する一方、津和野藩では』享保一三(一七二八)年に社領十三石を『寄せ、石見産紙の祖神に位置づけて、藩内第一の神社と崇めた』。慶応元(一八六五)年に『真福寺を廃して社号を「柿本神社」に改め』たとある。鈴木氏の記載が正しいとすれば、このウィキの最後の神仏習合時代の二神社が孰れも真福寺を別当としていたと考えられる叙述から、どうもこの頃は高津柿本神社と戸田柿本神社は同経営であったものかとも推測される。なお、戸田柿本神社の公式サイトも参照されたい。その記載の各所は歴史的には高津柿本神社との近親性が窺われるからである。最後に伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)の「閑田耕筆」の当該箇所(巻之一天地の部)を引いておく。底本は吉川弘文館刊「日本随筆大成」(第一期第十八巻)所収のものを恣意的に正字化し、一部に私が歴史的仮名遣で読みを附した(カタカナは原典のルビ)。踊り字は正字化した。

   *

   《引用開始》

○石見の人いふ、柿本の神の旧跡、高角山(たっつのやま)は外浜千軒、内浜千軒有(あり)て、北海一の大湊なりしが、元龜年間の津浪にて、山崩れ家も人も亡びうせし後、半里計(ばかり)を去(さり)て、今の所にうつせり。此時神像も、松の枝に乘(のり)て、海に漂(タヾヨ)ひ給ひしを取(とり)あげたり。其岸を松が崎といふ。神靈たとむべし。今の社の木像即是なり。

〔割註〕座像にて常人よりも大なるほどなり。予も昔絵にうつしたるを拝みたり。」もとの社の有し寺は行基寺(ぎやうきでら)といひ、〔割註〕行基菩薩の開基なり。」後に、人麿寺ともいひしとぞ。今の寺は眞福寺と號(なづ)く。又今の社より三十丁計の所に、戸田といふ里あり。柿木うしに仕へし子孫家名(カタライ)氏とて住(すめ)り。〔割註〕此訓奇なり。定(さだめ)てゆゑ有べし、今も古風を存して總髮なりとぞ。」其著近來家富(とみ)て地を廣めし時、二間計の石棺を掘出(ほりいだし)たりしに、雷鳴頻(シキリ)なりしかば、畏れて領主津和野侯へ達せしにより、命(めい)有てもとの如く埋め、石の垣など嚴重に構(カマ)へられたり。此戸田は、うしのかくれ給へる所なりといひ傳(つたへ)しが、これを掘出て、いよく其葬送の所なりといふこともしられぬとぞ。又其近き地より朱(しゆ)の多く入りし壺を掘出しことあり。思ふにこれも、其族(ヤカラ)の人の骨を朱もて、斂(ヲサ)めたるにやあらん。此わたり辺鄙(へんぴ)にて、貴人はもとより世にしられたる人の住(すみ)しことは、此うしより外はきこえねば、紛るべくもあらずやとぞ。〔割註〕私曰、もし石見などの任(にん)の内に卒(しゆつし)て、其國に葬りし人も有べけれど、それはしられぬことなり。」

   《引用終了》

 「閑田耕筆」の語注を附しておく。今まで紹介した場所とは、また微妙に異なる島根の人麻呂伝承である。

●「高角山」は現在の島根県江津(ごうつ)市のほぼ中心に位置する標高四百七十メートルの「島の星山(しまのほしやま)」の別名。不思議な呼称は、その昔、隕石が落下したという伝承に由来する。人麻呂の「万葉集」巻之二百三十二番歌、人麻呂が石見の国に妻依羅娘子(よさみのおとめ)を残して上京した際の惜別の情を詠んだものとされる、

  石見のや高角山の木の際(ま)よりわが振る袖を妹見つらむか

に詠まれる山で、中腹には隕石を祀った祠があり、山の西北西四・一キロメートルの江津市都野津町(つのづちょう)に、やはり人麻呂を祀った別な都野津柿本神社が存在する。ここは人麻呂が妻依羅娘子とともに暮らしていたと伝えられる場所で、境内には樹齢八百年と伝えられた人麻呂手植えの松があったが、惜しくも一九九七年に枯死している。

●「千軒」一・八二キロメートル。

●「元龜年間」西暦一五七〇年~一五七三年。但し、これはウィキの「万寿地震」に万寿三年五月二十三日亥の深夜(グレゴリオ暦一〇二六年六月十六日)に高津沖の石見潟が一大鳴動し、そこにあった鴨島が水中に没し、大津波が襲来したとあって、「石見八重葎」には江田(現在の江津市)付近の伝説として『万壽三年丙寅(ひのえとら)五月二十三日、古今の大變に長田千軒、此江津今の古江と申す所なり。民家五百軒餘、寺社共に打崩す云々』とあるとあって、松崎(現在の益田市高津町内)に『人麻呂の木像が流れ着いた』とあり、その松崎での津波の遡上高度は実に二十三メートルに達したとあるから、この方が本叙述にはピッタリくるが、地図上の位置が全く異なる。いろいろな事実(以下の別当寺等を見ても)が複数ある、位置の異なる柿本人麻呂祀る神社の伝承と、ごちゃごちゃになって結びついてしまっているものらしい。一応、以下との繋がりから的の枝に乗って漂着したのは遙か五十キロメートル南西の高津川河口であったと仮定する。

●「たとむ」「貴(たふと)む」の略形であろう。

●「三十丁計の所に、戸田といふ里あり」この叙述を逆に辿ると、実は冒頭の高角山西方の柿本神社の話ではなく、やはり益田市高津町上市にある高津柿本神社を指しているとしか読めない(但し、三十町=三・二七キロメートルばかりではなく、八キロメートル弱もあるのは不審だが)。実地検証していない錯誤によるものであろう。

●「柿本うし」柿本氏。後の「うしのかくれ給へる所」の「うし」も同じ。

●「家名(カタライ)氏」不詳。識者の御教授を乞う。

●「總髮」「そうがみ/そうがう(そうごう)/そうはつ」などと読み。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らずに伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世に於いては主に儒者・医師・山伏などの髪形として知られる。

●「二軒」約三メートル六十四センチメートル。古代の石棺としては三メートルを有に越えるというのは破格に長い。

●「朱」言わずもがなとは思うが、死者を葬る際し、縄文の昔から遺体や骨・石室内に辰砂(しんしゃ:水銀朱。硫化第二水銀。)を塗(まぶ)すことが好んで行われた。徳島県立博物館公式サイト内の高島芳弘氏の「辰砂の精製」に『西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室の中には』四十一キログラムもの『辰砂が使われていました。古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています』とある。

   *

・「人丸の筆柿」初読時は人麻呂手植えの柿の木で、例えば、その柿の枝を以って筆を作ったということか? などと考え、ネットを調べると、別な地の人麻呂伝承に手植えの柿の木で茶道具を作ったともある(人麻呂時代に茶はないが、その材で幕末から明治初期に作らせたという香合らしい。こちらの「奈良大好き☆お勉強日記」のブログ記事をどうぞ)。別に「筆柿」は柿の品種でもあり、前掲の鈴木氏注にあるのもそれで、やはりネット上の他の地域の人麻呂伝説にも散見される。ツツジ目カキノキ科カキノキ(柿の木) Diospyros kaki の一品種であるフデガキ(筆柿)は別名を珍宝柿、地域によってはちんぽ柿とも呼称する。名の由来は形状が筆の穂先に似ていることに由る。不完全甘柿で、一本の木に甘い実と渋い実が同時に実る。早生の品種で富有柿や次郎柿などの一般的な柿よりも一ヶ月ほど早く市場に出回る。他の柿に比すと糖度が高く、非常に濃厚な甘みを持つ。また、皮が比較的薄く、そのまま丸かじりすることが可能。現在は愛知県額田郡幸田町が全国の生産量の九十五%を占める(以上のカキの品種筆柿についてはウィキの「筆柿に拠った)。

・「龜井隱岐守家老龜井一學」割注にタイム・ラグがないものとすれば、第八代津和野藩主亀井矩賢の家老らしいが不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「家老」ではなく「家士」である。

・「石見國戸田村の柿木社の由。右社地に昔人丸の筆柿といふありしが、今は枯朽て土中に埋ありしを、龜井隱岐守家老龜井一學、掘得て神像を彫刻し、今は龜井愛之助屋敷に安置の由」この注、後半の箇所、本話と如何なる関係があるのか私にはよく呑み込めない。「龜井愛之助」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「老之助」だが、これは如何にもおかしな名である。不詳。藩主亀井矩賢の子孫か、家老亀井の子孫か、それともこの話柄の中心人物たる亀井玆求の方の子孫か? 亀井登之助という名と愛之助、また本話の筋との親和性を考えるとこれならこの割注もやや腑に落ちるが、しかし、主家の家老が作ったものが分家の者の家に伝わるというのもこれまたおかしい。最初に出る人麻呂像についての事実の事蹟を語ったものであろうか? それでも何か、妙に迂遠な注の感を免れぬ。何方か、この私の不審を晴らして下さると嬉しい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  誠心によって神験これ著しき事   その二

 

 これは少し年月も経った古きこととて、享和二年戌年七月に御座ったことの由。

 まずは前触れより、お話申そう。

 中国地方の藩中の家士――実は亀井隠岐守殿分知(ぶんち)の亀井登之助殿御家来徳永幸右衛門なる人物――が、石見国を旅行致いた折り、とある寺院を訪れ、その住僧と心安くなったが、この寺院に、すっかりぼろぼろになったる小堂(しょうどう)の御座ったによって、

「……こちらは何の御堂(おどう)で御座る?」

と訊ねたところが、

「……これは、かの柿本人麻呂を祀れる御堂(みどう)で御座る。」

とのことにて、そこに辛うじて残って御座った人麻呂の像と申すものをも、これ、見せて呉れたと申す。

 それはいかにも勝れた出来栄えの古き木像で御座ったによって、幸右衛門、

「……かくも零落致いた御堂(みどう)に曝し置かんも、これ、畏れ多きことにて御座る。……さても我ら、歌道なんどの心得も、これ、あるわけにては御座らねど――」

と、元来、誠心なる有徳(うとく)な御仁でも御座ったによって、一念発起致いて、その地にて即刻、同士の者なんどを慫慂勧進致いて、間ものぅ、そこに新しき御堂(みどう)を造り替えて建てたと申す。

 かの住僧、これ、大きに悦び、その骨折りの謝礼として、かの破砕した旧堂の古木を以って、人麿の像を今一体、新たに刻み、幸右衛門へ授けたと申す。

 

 さても、この幸右衛門、その後(ご)、関東に下り、御直勤(ごじっきん)の列にも加わり、妻子などももうけて御座った。

 ところが、ある時、この最愛の悴――徳永松次郎と申す――重い痢疾(りしつ)を患い、諸医が手を尽くしたれども、はなはだ難症にて、医療の甲斐も一向に表われず、ただ一人の子(こぉ)なれば、その悲歎もこれ、言わん方なきほどにて御座ったれど、万策尽き、最早、手の施しようもない病態となって御座った。

「……薬をも諸医をも尽くしながら、一向に験(しる)しなきとならば……この上は、神仙を祈るの外、これ御座ない。……しかれども、我今般まで知りも致さず、信心もなさざるところの神仙を祈ったとて、これ、俄か仕立ての頼りとあっては……それが人であってさえも聴き届けては呉れまいものじゃに、神なれば猶更のこと、利益(りやく)、これ、覚束ぬは必定(ひつじょう)……」

とあれこれ思い悩んだところが、ふと、

「――そうじゃ! 先年、我らが信念より、人麻呂の御堂(みどう)を建立(こんりゅう)致いたことのあった!――されば、かの人麻呂の霊へ、これ、願いて利益(りやく)を得んに若くはない!』

と思いつき、かの住僧の授けて呉れた人麻呂の像を取り出だいて、斎戒沐浴致いた上、一心に、その神像を心に念じては、我が子の命を救い給え、と祈念致いた。

 と、まさにその夜の夢に、

――南の方へ遠く行きて――なお「神仁(じんじん)」を祈るがよい――

と、現(うつつ)に霊言の響きて目覚めたと申す。

 されば、翌日、江戸は南の品川の方へと至って、神社という神社を、これ、拝み廻った。

 そうして、幸右衛門、ふと、

「……かの夢の……『神仁(じんじん)』……とは? はて? 如何なる意味で御座ろう?……もしや!?……この辺りの

――『神』がかった『仁』術の『人』――名医を頼んだならば療養の奇特(きどく)のある――

といった意味ではなかろうか?!……」

と思い至って、

「――この辺りに、名医と呼ばるるお医者はおられぬか?!」

と、茶店やその他の町屋にて、虱潰しに訊ね歩いてみたと申す。

 しかし、これといって、ぴんとくるようなる者も、これ、見当たらなんだと申す。

 そうこうして、気も落ち着かぬまま、八丁堀辺りまで帰ってきた、その道すがら、玄関も由々しく建ったる医師――二宮全文(にのみやぜんぶん)と申す――の宅のあって、今しも往診の体(てい)にて、薬箱や駕籠なんどが門内に並べて御座ったを見たによって、思わず、その玄関に入(い)って案内(あない)を乞い、

「――どうか! お目にかかりとう存ずる!」

と申し入れたところ、かの医師、やはりちょうど出かくるところと見えて、ほどのぅ、奥方より立ち出でて参り、

「何の御用で御座るか?」

と応じたによって、

「――しかじかの事にて! どうか、御診察の程! 御願い申し上げ奉りまする!」

と、息子の病態の一部始終をあらかた語り、切(せち)に頼んで御座った。

 しかし、この全文なる医師、

「……職分のことなれば診察致すは、これ、安きことでは御座るが……しかし、御住まいにならるる所、これ、格別の遠所(えんしょ)なれば……これ、ちと往診致しかねる所にて御座る。……しかも殊に、折から今日は、拙者にとっては主家(しゅけ)同様の御方(おかた)の許へ召されて、これより参らねばなりませぬのじゃ。……その往診を終えてから、そちらへと往診致すとしても、これ、今の時刻からは成し難く御座る。……せっかくの御頼みでは御座るがのぅ……」

と暫く考えあぐんで御座った。ところが、全文、ふと思い当って、

「……さても!……先般の御話しによれば、御子息が病いは重き痢病と申されたな?……諸医の手を尽くして思わしくないとな。……ふむ!……かくなる上は、ここに一つの話、これ御座る。……我らが只今これより罷り越す諸侯より出ずるところの、家伝の痢病の奇薬の御座るのじゃ! 一つ、我らに随い、これよりその諸侯が御屋敷へと参られよ! そうして、その秘薬を拙者が直々に藩主様に申し乞うて頂戴致し、それを御身にお渡し申そうそうぞ!」

と提案なしたれば、幸右衛門、大きに悦び、医師全文が乗ったる駕籠につきしたがって、かの諸侯方の屋敷へと参ったと申す。

 医師は玄関を通り、奥方へと向かい、幸右衛門は玄関の脇に控えて待って御座ったところ、ほどのぅ、かの医師、奥向きより二貼(にちょう)の薬袋(やくぶくろ)を持って参り、幸右衛門に与えた。

 幸右衛門、小躍りして悦び、韋駄天の如く走り帰った。

 帰っていざ、その薬袋を見れば、

――石州浜田柿本庵――

と記しあった。

 されば、これ、大きに驚き、いよいよ信心を深くして、その薬を伜に服用させたと申す。

 すると、これが薄紙を剥ぐが如く、かの執拗(しゅうね)き痢疾、これ、次第に軽快し、遂にはすっかり癒えて本復致いたと申す。

 その秘薬を貰い受けた諸侯と申すは、松平周防守(すおうのかみ)御屋敷で御座った、と幸右衛門の語っておった由。――更に附言しておくと、その秘薬は石見国戸田村にある柿本人麻呂を祀る柿木社製の由。因みに、かの社地には昔、「人丸の筆柿(ふでがき)」と申す柿の木の御座ったが、今はすっかり枯れ朽ちてしもうたによって、土中に埋めおいてあった。後にそれを、亀井隠岐守家老亀井一学なる御仁が、掘り出だいて手に入れ、その材を以って柿本人麻呂の神像を彫刻致いたものの御座って、今はこれ、亀井愛之助殿の御屋敷に安置されて御座る由。――

2015/02/21

耳嚢 巻之十 誠心によつて神驗いちじるき事

 誠心によつて神驗いちじるき事

 

 予が元へ來れる若泉是雲といへる隱居の親族なる由、竹腰(たけのこし)山城守家來にて松浦一馬と申(まうす)者十六歳になれる娘、外へ〔實は淸水勤番長田辨之助といふ由。〕片付(かたづき)しが、亂心なして殊外(ことのほか)さわぎくるひ、着服を引裂き髮をもむしりきりしゆゑ、里へ引取(ひきとり)て色々療養祈念どもなせしが聊(いささか)しるしなく、醫師も其術盡(つき)て、髮を挾み衣類も麁末(そまつ)の物を着(き)せ置(おき)しが、兎角に全快なく騷ぎくるひしが、文化辰の春、在所者を若黨に抱(かかへ)しが、〔山田與左衞門と云由。〕至(いたつ)て實體(じつてい)なる性質(たち)成(なり)しが、或時下女に向ひて、日々騷ぎ給ふはいかなる人なりやと尋(たづね)とひしかば、しかじかの事なりとて病氣の樣子咄しけるに、さるにても氣の毒なる事なりと云(いひ)しが、或時主人へ願ひけるは、朝々の御事はかき申間敷(まうすまじく)候得ば、毎朝拂曉(ふつげう)に遠からぬ所の神社へまふで度(たく)、都(すべ)て家内目ざめにはかえりなんと願ひければ、さあらんには勝手次第のむね申(まうし)ける故、其翌朝よりは日々曉(あかつき)に出けるに、用事もかく事なし。日數(ひかず)つもりて或あした、彼(かの)娘食事をしとやかに好みける故、其食事あたへければ常にかわり快くくらひ、衣類寒きよしにて好みける故是又裂き破(やぶら)んと、古きをあたへけるに、いつにかわり心うつけたる體(てい)なれども靜(しづか)にありし故、兩親も悦びしに、或時下女主人にむかひて、彼(かの)僕が日々水をあび、朝出て夜明けぬ内に歸りける事をかたりければ、右主人何故(なにゆゑ)なりやと彼僕に尋問(たづねとひ)しに、我等村方の庄屋なる娘、爰の御娘子(おんむすめご)と同じく亂心にてありしを、兩親ことの外なげきて日々水をあび村の鎭守へ祈誓せしに、其娘の病(やまひ)癒(いえ)し事まのあたり見し故、爰の娘子の病ひ、兩親の御なげきも餘り痛敷(いたいたしく)、風(ふ)と心附て此邊の神社を承り、市谷(いちがや)の八幡へ水をあび朝とく參りて祈念なしける由、語りけるにぞ、兩親も其奇特(きどく)信仰を感じ怡(よころ)びしが、彼(かの)病人次第々々に快く本心となりて、髮も延び今はもとの夫のもとへ立(たち)かへり榮(さかえ)しとなり。彼(かの)僕の誠心神も納受ありしならんと語りし也。〔此與左衞門事、翌巳の春に至り暇(いとま)を願ひ、色々とめけれど達つて相願(あひねがひ)、無據(よんどころなく)暇遣しける由。生國は竹腰領分濃州西脇村の者に候由。〕

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐憑きから乱心の娘で、今の観点からは精神病の症例として美事に直連関する。これは如何にも一過性のヒステリー症状(実に精神病理学の教科書通り)と見える。例えば嫁入り先の相手には不満はなかったものの、姑とは頗る折り合いが悪く、そこでのトラブルから発作を生じて一時的に実家へ戻っていたものの、それも彼女の精神状態にはよろしくなく、持続的に増悪していた。しかし、その間(話柄からは実家へ戻って少なくとも数年が経過しているように見える)に例えば姑が死去したとすれば、病態が嘘のように改善することは考えられよう。なお、注意しなくてはならないのは、前半部でロケ地を錯覚させる要素が多いが、このロケーションは江戸市ヶ谷近辺であるという点である。

・「若泉是雲」「耳嚢 巻之八 雀軍の事」で「予が許へ來る是雲(ぜうん)と稱する法師」と出て以来の根岸晩年の御用達情報屋の一人。但し、フル・ネームの提示は初めてである。因みに、ネット上の「総合目録ネットワーク(ゆにかねっと)」の書誌データに「若泉是雲書」として「和歌短冊・古寺秋夕」とあるが、これは同一人物か?

・「竹腰山城守」底本の鈴木氏注に、尾張藩の『付家老』(幕府から親藩へ又は大名の本家から分家へ監督・補佐のために派遣された家老)で、『美濃国安八郡今尾で三万石』の今尾藩藩主(但し、無論、公式には藩として認められていない。立藩は明治のこと)でもあった。「文化辰」(文化五(一八〇八年)当時は美濃今尾藩の第八代当主で尾張藩の附家老竹腰山城守正定(まささだ/まさやす)の代である。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月当時も同じ。

・「松浦一馬」不詳。

・「淸水勤番」御三卿の一つ清水徳川家は初代当主徳川重好が寛政七(一七九五)年に継嗣なきままに病死し、清水家は断絶の形がとられ、家臣は幕臣に召し抱えられ、一部は例外的に旗本となり、それ以外の無役の者たちは清水勤番小普請として残されて優遇された。

・「長田辨之助」不詳。「おさだ」と読んでおく。

・「風(ふ)と」は底本の編者ルビ。

・「山田與左衞門」ネット検索では同姓同名を多く見出せるが、不詳。

・「朝々の御事はかき申間敷(まうすまじく)候得ば」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここが(踊り字を変更、ルビは歴史的仮名遣とした)、

 朝々の勤め筋(つとめすぢ)はかき申間敷(まうすまじく)候得共(さふらえども)

である。「かき」は「缺き」で、即ちここは、

――毎朝毎日の勤めに就きましては、これ、決してそれを「欠く」、疎かにせぬように致しますので――

の謂いである。

・「市谷の八幡」東京都新宿区市谷八幡町にある市谷亀岡(かめがおか)八幡宮。ウィキの「市谷亀岡八幡宮」によれば、太田道灌が文明一一(一四七九)年に『江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り』、寛永十三年頃(一六三六年頃)に『江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転』したとある。『三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという』。『祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は、稲荷大神』。

・「竹腰領分濃州西脇村」岩波版の長谷川氏注に、『竹腰氏知行地。岐阜県美濃加茂市下米田町西脇』(しもよねだちょうにしわき)とある。竹腰氏の知行地(今尾藩領)は美濃国と尾張国の各地に分散していた。ウィキの「今尾藩」を参照。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心によって神験(しんげん)これ著しき事

 

 私の許へ来らるる若泉是雲(ぜうん)と申す御隠居の親族なる者の話の由。

 竹腰(たけのこし)山城守殿御家来衆の一人にして、松浦一馬と申す御仁の御座って、その十六歳になる娘を外へ嫁へ出したと申す。

□是雲殿の独り言――実は清水勤番の長田(おさだ)弁之助と申す御仁の許で御座った由。

 

 ところが、嫁入りして間ものぅ、この娘、先方(さきかた)にて乱心なして、殊の外、騒ぎ狂い、着衣を引き裂いては、髪を掻き毟りなんどして、これもう、手(てぇ)のつけられんようになって御座ったによって、里方へと引き取って御座ったと申す。

 

 いろいろと療養や祈念なんども試みてはみたものの、一向に良くなる気配ものぅ、医師も施術、これ、すっかり尽きて、遂には匙を投げらるる始末と相い成った。

 娘は、これ、毟り取らせぬように髪を背でひっつめにさせ、衣類も裂き破いてもよいうように、粗末な薄き古着を着せおき、屋敷内には座敷牢を拵えて、外へは出られぬよう、して御座ったと申す。

 時の経(ふ)れど、全く以って快方へ向こうこともなく、日々、奇体な嬌声を挙げては、騒ぎ狂うておるばかりで御座ったと申す。

 

 さても、それより暫く致いた、文化辰年の春のこと、一馬殿、これ、在所の者を一人、若党として抱えられた。

□是雲殿の独り言――山田与左衛門と申す者の由。

 

 この者、至って実体(じってい)なる性質(たち)の者にて御座ったが、ある時、下女に向い、

「……日々、御屋敷内にて、その……金切声を上げて騒いでおらるる御方の、これ、おらるるように存ずるが……さてもあのお方は、如何なるお人で御座るのかの?……」

と訊ねたによって、下女は、しかじかのことなりと、今の病気の様子なんどをも含め、委細を話したと申す。

 すると、

「……そうで御座ったか。……それにしても……それは……如何にも……気の毒なことで御座るのぅ……」

と呟いて御座ったと申す。

 さてもそれより暫く致いたある日のこと、この与左衛門、主人へ願い出て申すことには、

「……毎日の早朝のお勤めに就きましては、これ、決してそれを疎かにせぬよう致しますによって……一つ――毎日払暁(ふつぎょう)に、遠からぬ所の神社へ、これ、参りとう存じます。どうか。……必ず、家内のお目覚めるまでには、立ち帰って参りますによって!……」

と切(せち)に懇請致いたによって、主人も、これ、何ぞ私(わたくし)に訳のあればこそと存じ、

「……さほどに申すことなれば――勝手次第に致すがよかろう。」

と、許しを与えた。

 されば、その翌朝よりは、日々、暁(あかつき)頃には屋敷を出でるも、申した通りに立ち戻っては、早朝の用事なんども一切、これ、欠くことものぅ、仕舞わして御座ったと申す。

 

 かくして、日数(ひかず)も経たる、ある朝のことで御座った。

 かの狂乱の娘、突如、

「……食事を……致しとう……存じまする。……」

と、例にのぅ、いとも穏やかに乞うて御座ったによって、

「……何と……珍しきことじゃ。……」

と、求むるまま、久方ぶりにしっかとした食事など供して御座ったところが、常とは大いに様変わり致いて、如何にも、美味しそうに静かに快く食し、そうして、

「……衣類も……これにては……少し……寒ぅ御座いますれば……」

と、これまた、今までにない、正気の如く、更なる着衣を求めて御座ったによって、常のことを知れる親なれば、これまた、

『……どうせまた、何時もの如く、これ、裂き破るに、違いない……』

と、また、古き薄物なんどを与えたところが、これ、やはり、何時もとは打って変わって……いや、確かに、普段のように、何か呆けたようなる表情乍らも……しかし――如何にも心静かにそれを羽織って御座った、と申す。……

 されば、両親ともに殊の外、悦んで御座った。

 

 ところが、たまたま、その日のことであった。

 かの与左衛門に仔細を語ったる下女が、与左衛門のこのところの仕儀をそれとのぅ見知っており、また、こうした娘の変容にもそれとの係わりを感じてでも御座ったものか、主人に向いて、

「……かの下僕の与左衛門と申す者……これ、日々、屋敷の井戸水を浴びては……朝に出でて……夜の明けぬうちに帰って参りますを……これ、常としておりまする。……」

と、注進致いた。

 されば、その主人、与左衛門を呼び出だし、

「……かく、下女の申すを、これ、聴いた。……そちの仕儀、これ、如何なる所存のあるものか?……」

と、与左衛門の有体(ありてい)に質いた。

 すると、

「……これは……はい……さても、我らがおりましたる村方の庄屋なる娘……こちらの御娘子(おんむすめご)と同じく、乱心の病いと相い成って御座いましたが……両親、これ、殊の外、歎いて御座いまして……日々、水を浴びては、村の鎮守へと祈誓致いて御座いました。……するとこれが……その娘の病い、美事、癒えて御座ったこと、これ、目の当たりに見て御座いました。……さればこそ、こちらの娘子の病い、御両親さまの御嘆きも、これ、あまりに痛々しゅう存じ……ふと、かの在所での出来事を思い出しまして……もしや、と存じましたれば、この近隣の神社の御由緒なんどを、これ、いろいろ伺いまして……市ヶの八幡の功徳を承り、そこと決して……さても、水を浴びては、朝、早(と)く参りましては……御娘子の病い平癒を……これ……祈念致いておりまして御座います。……」

と語って御座ったればこそ、両親もその奇特(きどく)なる信仰を切(せち)に感じ、心より悦ばれたと申す。

 

 かの狂乱の娘、これより、次第次第に快くなって、遂には正気となり、毟り千切って短こぅなって御座った髪も、元の通り、美しぅ伸びたれば、今は――清水勤番長田弁之助殿が元の鞘へと戻ること、これ叶って――かの御家(おんいえ)は今に、大いに栄えておらるる、ということで御座る。

 

「……かの下僕与左衛門の誠心を……これ……神も納受あられたものででも御座ろう。……」

と、若泉是雲殿の語って御座られた。

□是雲殿の附言――この与左衛門と申す下僕、翌文化五年巳年の春になって、突如、暇まを願い出でて、一馬殿もいろいろと留めんと致いたれど――たって相い御願い申し上ぐる――とのことなれば、よんどころのぅ、暇まを遣わして御座った由。生国(しょうごく)は竹腰(たけのこし)様御領分、信濃国西脇村の者にて御座った由。今は、かの者、どうしおるかは、これ、残念なことに、寡聞にして存ぜぬ。

2015/02/20

芸大を落された教え子が芸大の大学院に合格した! 快哉!!!

芸大の受験を指導して落ちた教え子が今日、芸大の大学院に合格したと電話を呉くれた。こんな快哉は滅多にないぞッツ!!! 呵呵呵呵呵呵!!!

おい! 知ったようにほくそ笑むなよ!

芸術家志望なら、ただ芸大に受かればよい、とよくいうわさ。
 
まともに卒業する奴は逆に才能がない、なんどともいうな。

そんな愚劣な風説は百も承知だがね、彼は作家志望じゃあ、ないんだよ。
 
絵画修復士や美術史が一貫した志望だったのだ。
だからこそこれは僕にとって、とってもとっても嬉しいことなんである!
 
彼と一緒にやった絵画分析の楽しさは僕の教員生活の中で忘れ難い、数少ない僕自身の「悦び」そのものであったのだ!――

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 奥吉野

 奥吉野

 

土砂降りより入る目口に楮の湯気


[やぶちゃん注:「楮」老婆心乍ら、「かうぞ(こうぞ)」と読む。和紙の原材料とするイラクサ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。]

 

楮煮るゆげ土砂降りの家出でず

 

土砂降りの紙漉場より水流れ

 

  古きままの紙漉に老女ゐて簀の子の上に坐し

  て漉く。

 

老いの顎うなづきうなづき紙を漉く

 

紙漉のぬれ胸乳張る刻が来て

 

ぬれ紙に重ねる漉紙滴るを

 

漉きかさねし濡紙百枚まだはがさず

 

むんむんと子の香を率ゐ霧の教師

 

鮎下り尽きし瀬の夜を鳴り徹す

 

鉄棒にさかしまたぎつ青吉野

 

吉野山青山檜山修羅場を袈裟懸けに

 

わが立てる岩より秋水また下る

 

   *

 

  夫の忌日に

 

木犀や記憶を死まで追ひつめる

 

[やぶちゃん注:多佳子絶唱の一つと思う。この昭和三一(一九五六)年九月三十日の祥月命日の句であろう。夫豊次郎の死(昭和一二(一九三七)年。享年五十、当時多佳子三十八)であるからこの年は二十回忌に当たった。多佳子五十七。]

2015/02/19

譚海 卷之一  羽州佐竹家玄關鑓幷本多上野介殿事

 羽州佐竹家玄關鑓幷本多上野介殿事
 
○出羽國佐竹殿居城玄關より座敷へ通る際の廊下のなげしは、鑓(やり)をならべおく事數千本、鑓にて天井を張(はり)たる樣に見ゆる也。石田治部少輔贈る所の物也とぞ。又武庫に太刀三千振收(をさめ)たる有(あり)。皆テンパウ正宗造り物にして、出來不出來をえらばずして山の如く積置(つみおき)たり。甲胃の類(たぐひ)もかくの如し。先年しらべたるに、妙珍が作のかぶと三十七はね出たりとぞ。又江戸の三味線堀の邸に新羅明神(しんらみやうじん)の社あり。即(すなはち)神體は新羅三郎のかぶとなりとぞ。家老須田美濃と云ものの方に傳來の諸本有(あり)、全部本阿彌光悦筆也。奥書に慶長十三年觀世左近太夫身愛(ただちか)判本多上野介殿上ると有(あり)。是は上野介殿御勘氣にて佐竹家へ御預け人になられしとき、須田氏の許に籠居ありし故所持の諸本也。其外隨身(ずいじん)の道具種々彼(かの)家に有(あり)。法眼(ほふげん)元信筆の金屛風一雙ありとぞ。昔は御勘氣の人も所持の道具は隨身する事御ゆるし有(あり)けるにや、うたひ本は親しく見る所也。

[やぶちゃん注:「出羽國佐竹殿」秋田久保田藩。

「石田治部少輔」石田光成。久保田藩藩主佐竹氏は室町以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いに於ける挙動を咎められて出羽国(後に羽後国)秋田へ移封された経緯がある。

「テンパウ」不詳。「テン」は「伝」か? 「パウ」は仮名遣からは「法」或いは「庖」が考え得る。相州伝(次注参照)のことか?

「正宗」正宗(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝初期に相模国鎌倉で活動した刀工。五郎入道正宗・岡崎正宗・岡崎五郎入道とも称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人で、「相州伝」と称される作風を確立し、多くの弟子を育成した。名刀正宗の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた(以上はウィキの「正宗」に拠った)。

「妙珍」底本の竹内氏注に、『甲胃師の家名。初代の宗介は名工として名高く、平安末期近衛天皇から明珍の名を賜ったといい、中世を経て近世に及ぶが、特に十代宗安(室町期)や十七代信家(戦国期)が名匠として知られている』とある。ウィキの「明珍信家」に(引用部ではアラビア数字は漢数字に代えた)、明珍信家(みょうちんのぶいえ 文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年?)は、『室町時代末期(戦国時代)の甲冑師。初め安家と名乗り、号は覚意、本姓は藤原氏。通称(官位)は左近将監。甲冑師の一族である明珍家十七代に当たる。伝えでは、武田晴信の一字を賜り、信家と改名したとされる。前代(十六代目)は明珍義保。十八代目として明珍貞家』。『室町末期当時、「日本最高の甲冑師」と評された人物であり、これにより明珍家は有名となる。後世でも一族は、楯無や避来矢といった名立たる甲冑の修復作業に手を貸している。信家が得意としていたのは筋兜とされる。白井城曲輪の青堀近く(松原屋敷と呼ばれる)の鍛冶場跡から永正・天文の頃に信家が甲冑を作成していた事が裏付けられている。越後府中に住んでいた信家にとって白井城は出張先の一つであった。また、信家が寵愛した城主は長尾憲景とされる』。『この時期、明珍家が相模国にも居たとする物的根拠の一つとして、埼玉県秩父市下吉野所在の椋神社蔵の「三十二間筋兜」の鉢裏に刻まれた銘に、「小田原住 明珍義次( - よしつぐ)」とあり、小田原の明珍家が実在している事が確認できる(少なくとも分家筋が在住していた事が分かる)。社伝によれば、当兜は鉢形城主の北条氏邦の所用していたものであり、その子孫である玄桂が当社に奉納したとされる』。『伝承上では、明珍家の初代は増田氏とされて』おり、この明珍家に関しては江戸時代の随筆」耳嚢」にも『記述があり、外見で判断していた為、武士を怒らせてしまった話が載せられている。寛政六年の出来事とあるので、当事者は宗政・宗妙(楯無を修復した)父子と考えられる。その時に仕立てた甲冑は、一領で百両もしたとある。但し、需要が減った時代であり、甲冑を新調する者が少なかった為、支払いに対し、疑い深くなるのも当時としては当然の行為である』。『明珍家は甲冑以外にも轡(くつわ)や鍔なども製作した』とある。因みに、この「耳嚢」の話というのは「耳嚢 卷之四 人には品々の癖ある事」で、こちらに原文と私の訳注がある。

「はね」刎。接尾語で「跳ね」を語源とする助数詞。兜などを数えるのに用いる。別な数詞には「頭(とう)」がある。「跳ね」とは兜の左右にある刀が当たらないように顔を守るために上方に反り返った形をしている「吹き返し」の部分や、兜の上のひらひらとした装飾に由来するか。

「三味線堀の邸」上記秋田久保田藩の江戸上屋敷のことであろう。「三味線堀」は現在のJR御徒町駅の東南にある台清洲橋通りに面した東区小島小島一丁目の西端に南北に広がっていた地域。寛永七(一六三〇)年に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれた。参照した台東区教育委員会の叙述(ブログ「東京都台東区の歴史」のこちらからの孫引き)によれば、『不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた』。天明三(一七八三)年には『堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に』三階建ての『高殿が建設された』とあることから推定した。

「新羅明神」滋賀県園城寺(三井寺)の守護神の一つで、元来はこの地方の地主神であったと伝えられるが、智証大師円珍が唐から帰国の際、船首に出現した一老翁が自ら新羅国明神と称して仏法を日本に垂迹すべし、と命じたことによるとされる。その分祀の祠であろう。

「新羅三郎」源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)のこと。河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で八幡太郎義家の弟。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎と称した。以下、ウィキの「源義光」より引く(アラビア数字は漢数字に代えた)。『左兵衛尉の時、後三年の役に長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦していると知るや、完奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(一〇八七年)に官を辞して陸奥に向かった。義家と共に金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。嘉承元年(一一〇六年)、遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る』。『同年の義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った。その手段として、兄弟の快誉と共謀し、義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の源義忠、及び次兄の義綱の両者を滅ぼす算段を練った。まず郎党の藤原季方を義綱の子の源義明の郎党として送り込み、次いで長男義業の妻の兄の平成幹(鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ』。『そして天仁二年(一一〇九年)の春、義光は季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死(源義忠暗殺事件)。その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の弟で養子である源為義によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(源義綱冤罪事件)』とされる。『また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で快誉も含む)らの手によって殺害され、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏棟梁への野望は潰えた』。『最期については大治二年(一一二七年)十月二十日に三井寺で死去したとする説が有力。病死とする説と殺害説がある。殺害説では、自身が暗殺した義忠の遺児・河内経国に討たれている。義忠の暗殺は源氏の凋落を招き、源氏の凋落は院政の陰謀が原因であるが、源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、その中心人物は義光であった』。『義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる』。『笙は豊原時忠から秘曲を学び、名器交丸を得た。後三年の役で兄義家の救援に赴く際、時忠が逢坂山に別れを惜しみ帰らぬので、義光は名器を失うことを恐れて返し与えた。この話が、時忠の弟時元が義光に秘曲を授け、その子時秋が秘曲の滅びることをおそれて足柄峠まで義光を送り、山中で伝授されたという、古今和歌集の時秋物語の伝説を産んだ』。『義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した』。『本家の河内源氏に対しては、義光系の甲斐源氏(武田信義・加賀美遠光・安田義定など)が一族内で分裂をせず頼朝軍に合流したため、影響力を維持した。ただしその勢力の大きさから警戒され、武田信義が失脚、その子・一条忠頼が暗殺され、加賀美遠光は逆に厚遇されるなど抑圧・分裂策により御家人化していった。 一方、常陸源氏の佐竹氏は、平家と結んで源義朝後の東関東に影響力を伸ばしたが、鎌倉幕府成立により所領没収となり、後奥州合戦に加わって領地は戻るが振るわず、活躍は室町時代に入ってからである』とあり、佐竹氏の名が出ていることに注意されたい。

「須田美濃」戦国から江戸初期にかけての武将で佐竹氏家臣須田盛秀(享禄三(一五三〇)年~寛永二(一六二五)年)の家系のこと。二階堂氏から佐竹氏の家臣となった。ウィキの「須田盛秀」によれば(アラビア数字は漢数字に代えた)、『二階堂盛義に仕え、盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、盛義の後室大乗院(伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる』。『盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、天正十七年(一五八九年)六月摺上原の戦い』(すりあげはらのたたかい。天正一七(一五八九)年に磐梯山裾野の摺上原(現在の福島県磐梯町及び猪苗代町一帯)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝、南奥州の覇権を確立した)『で蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、十月二十六日落城した。その際、盛秀以下の将兵全員が戦死したと記載をしている文献もあるが、これは誤りで、実際は須賀川落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え文禄四年(一五九五年)茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた』という。『盛秀は義宣の信頼が厚く、関ヶ原の戦いのあと義宣が出羽に移封されると慶長七年(一六〇二年)角館城を受け取り城代をつとめ、さらに翌八年(一六〇三年)横手城城代となった。なお、寛永元年(一六二四年)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純・正勝父子を監視役として預かったのは盛秀である』とある。

「本阿彌光悦」(永禄元(一五五八)年~寛永一四(一六三七)年)は書家・陶芸家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。以下、ウィキの「本阿弥光悦」より引く。『刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す』。『光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる』元和元(一六一五)年、『光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある』。『俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない』とある。

「慶長十三年」西暦一六〇八年。本阿弥光悦満五十歳。

「觀世左近太夫身愛」観世身愛(永禄九(一五六六)年~寛永三(一六二七)年)は織豊時代から江戸前期の能役者シテ方。観世元尚の長男。父の死後に宗家九代を継ぎ、祖父元忠にまなぶ。徳川家康の後援を受けて駿府から京都に進出、四座一流の筆頭の地位を築いた。謡本の「元和卯月本(げんなうづきぼん)」の校閲・監修に当たり、観世流謡本の基礎を確立した(以上は講談社「日本人名大辞典」の記載に拠った)。

「本多上野介」本多正純(ほんだまさずみ 永禄八(一五六五)年~寛永一四(一六三七)年)。安土桃山から江戸初期にかけての武将で大名。江戸幕府老中。下野国小山藩主・同宇都宮藩主(第二十八代宇都宮城主)。宇都宮城主時代に城改修を咎められ、徳川秀忠により減封を命ぜられたが固辞したため、一千石の知行のみで出羽国由利郡にて佐竹氏預かりの身とされた。参照したウィキ本多正純によれば(アラビア数字は漢数字に代えた)、本多正信の嫡男として生まれた。『当時、正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである』。『父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙している』。『慶長八年(一六〇三年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長十年(一六〇五年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長十三年(一六〇八年)には下野国小山藩三万三千石の大名として取り立てられた』。『慶長十七年(一六一二年)二月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる』。『慶長十七年(一六一二年)十二月二十二日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長十九年(一六一四年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)』。『慶長十九年(一六一四年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている』。『元和二年(一六一六年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第二代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、二万石を加増されて五万三千石の大名となる』。『元和五年(一六一九年)十月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。ただし、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた』。『幕僚の世代交代が進んでいたが、正純は代わらず、幕府で枢要な地位にあった。しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、秀忠が主導権を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まっていった』。『元和八年(一六二二年)八月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。九月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた』。『伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に十一か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の十一か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された三か条については適切な弁明ができなかった。その三か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる』。『先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に五万五千石を与える、という代命を受けた。この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その五万五千石を固辞した。これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国由利へ流罪となり、後に出羽国横手にて幽閉の身となった。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる』。『この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという』。『また、秀忠自身も父・家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。ただし秀忠が関が原に遅参した際に 本多正純は「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます」と言い、その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話もある。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが、その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げていた、と父の細川忠興に書き送っている』。『以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる』(一部表記を変更した)。

  日だまりを戀しと思ふうめもどき日陰の赤を見る人もなく

『正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲い、まともに日もささない状態で、軟禁と呼ぶには過酷な生活であったといわれる。寛永十四年(一六三七年)三月十日、正純は配所の横手で死去した。享年七十三』。『配流の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されて』おり、彼は父正純の死に先立つ『七年前の寛永七年(一六三〇年)、長い幽閉生活で健康を害し、三十五歳で死去している』。『正勝には長男・正好と次男・正之の子息がおり、嫡男・正好は右京亮と称す。元和九年(一六二三年)に江戸で生まれたが、同年の本多家改易により、外祖父である美濃国大垣藩主戸田氏鉄の許に母親と共に身を寄せる。幼少より学問に励み、祖父・正純と父・正勝の墓参りを願い出奔。しかし幕命により叶わず、遠戚であった上野国高崎藩主安藤重長に客分として留め置かれていた』。『その後は和田角兵衛と名乗り、明暦三年(一六五七年)に旗本・安藤直政に乞われて武蔵国那珂郡に居住。知行所代官となる。孫の和田正篤の次男・正綱は、在所の安藤家家臣・木村氏から妻を娶っていたことから、子の正滕の代になった寛政年間に名跡を継承して木村姓に改め、安藤家の家臣として存続している』。『正勝の次男・正之は配流の地横手にて出生。忠左衛門と称す。正純没後、成瀬正虎に迎えられ、尾張犬山に居住したという。寛文四年(一六六四年)に赦免され、三千石の旗本として家を再興している』とある。正純は『石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる』。『大坂の陣の直後、千姫が本多忠刻に再嫁する事になった。ところが、これに激怒した坂崎直盛が面目を潰されたと屋敷に立て篭もって幕府に抵抗した事件がある。騒ぎが広がるのを恐れた幕閣からは、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という逸話がある』。『父・正信は権勢を得ると同時に大身になることは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「三万石以上の知行を受けてはならぬ」と戒めていた』。『異常なほど権勢欲が強かったことから、現在の歴史小説や大河ドラマなどでは、「家康の寵愛におもねる側近」として描かれることが多い。ただし、その場合でも徳川家の忠臣として描かれることは多く、石田三成と同じように周囲から疎まれていた人物と描かれることが多いようである』。『改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚くもてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという』とある。最後の記述は本話を読むに心に迫るものがある。

「隨身の道具」この「隨身」は身に着けること。携帯すること。また,そのものの意。

「法眼元信」室町後期の絵師狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男とされる)で狩野家二世。京生まれ。後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。号は永仙・玉川。幼時より絵を能くし、宋元名家に土佐派や周文雪舟を研究、山水・人物・花鳥孰れにも優れ、土佐光信や雪舟とともに「本朝三傑」と称される。また将軍義政・義澄に仕えて大炊助・越前守から法眼(元来は「法眼和尚位(ほうげんかしようい)」の略で僧位の第二位で法印と法橋(ほつきよう)の間、僧綱(そうごう:律令制下に於ける僧位階。)の僧都(そうず)に相当する位であるが、中世から近世にかけて僧侶に準じ、仏師・絵師・連歌師・医師などに称号として与えられた)に叙せられた。]

耳囊 卷之十 狐祟りの事

 

 狐祟りの事

 

 文化七年夏秋のころ、日本橋左内町(さないちやう)に一奇事ある由。人の語りしは、右町に最(も)なか饅頭を商ふ菓子屋有(あり)しが、娘はいまだ十二三歲にて外より聟(むこ)を取(とり)、いまだ取合(とりあひ)はいたさざりし由。しかるに彼(かの)聟も甚(はなはだ)實體(じつてい)にて、一間にひとり寢させしが、夜更候へば其一間において咄合(はなしあひ)候聲聞へしを、追々聞付(ききつけ)候ものも有之(これあり)。右寢床へ立入(たちいり)しものもなく、母も疑ひて彼(かの)聟に尋(たづね)しに、一向不覺(おぼえざる)由を答ふ。然るに彼(かの)聟に狐付(つき)ていへるは、我等は實は女狐(めぎつね)にて、此息子とちなむべき緣ありて來りしなり、隨分可立退(たちのくべき)なれども、吾(われ)懷妊なせし間、子をうみ候はゞ早速はなれ去(さる)べし、其子を何卒そだて可給(たまふべし)、我等影身(かげみ)に隨ひて養育なすべき間、强(しい)て世話も有(ある)まじ、不承知にては、我も(いき)て居(を)る事ならざれば、息子も命なかるべし、偏(ひとへ)に賴む由口ばしりければ、人々も不思議の事に思ひしに、彼(かの)母一人、何條(なんでふ)狐の子を育(いく)せんいはれなし、外聞(がいぶん)あしき間、たとひ如何樣(いかさま)の事あるとも難

成(なりがたき)由、烈しく斷(ことわり)し。其後聟母とも煩ひ出し、母はまつさきに身まかりし由。跡は如何(いかが)なりしやと、彼家の向ふの藥屋、我(わが)しれる醫の元に來りかたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。怪異譚。この話、何か妙にべたつく怪談である。単純な入り聟で未だ娘との性交渉がないという点がポイントである。この聟なる男に別に愛人のあって、家を出るための狂言としては如何にも狐の話の中身が込み入り過ぎている。問題はこの「母一人」が、この奇妙な憑依した狐の子を養育することを頑なに拒絶し(そもそもその狐の子なるものが人間の形をしているのか、はたまた狐の姿なのか、そもそもが見えるのか見えないのかさえ定かでない。同一の伝承では多分見え、人型ではある)、次第に聟だけでなく、この母も精神状態がおかしくなり、聟よりも重篤で、いち早く狂い死にしたというのが、怪しい。この実直実体(じってい)な聟は、実はこの母親に誘惑されたのではなかったか? 母親は父親は勿論、娘の目をも巧みに盗んで、この義理の息子と肉体関係を持っていたのではあるまいか? 実体なればこそ娘には勿論、恩義ある義理の父に対しても申し訳が立たないが、この事実が表沙汰になれば、悪くすれば父の身代も危うい。されば精神に変調をきたし、かく狐憑きを無意識的に演じたのではあるまいか? 所謂、聟の詐術ではなく、無意識的詐欺としての擬憑依現象という解釈である。そうした精神疾患(統合失調症の比較的重い状態か)であったとするなら、私は母親の死後もこの聟の病態は必ずしも好転しなかったものと思う。これこそが、私がこの話に感じる粘つきの核心にあるような気がする。終わり方も不満が残る。

・「文化七年夏秋」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。

・「日本橋左内町」佐内町。中央区日本橋一丁目及び二丁目(旧江戸橋)。

・「取合」実際の夫婦としての肉体関係を指す語。皓星社の「隠語大辞典」に『交合。「淫書開交記」に「互に酒氣滿つるに乘じすでに交合(とりあひ)初めけるに」とあり。又「鎌倉花いくさ」に「唐紙のすき間より覗き見ればコハ如何に春義公と侍女朝顏今交合の最中なれば」とあり』とある(漢字を恣意的に正字化した)。

・「息子」これは狐の息子ともとれるし(その場合、妖狐は妊娠しているこの性別を出産以前に知り得る能力があることになる)、義母から見た娘の婿=義理の息子の謂いともとれる。後文で「母は」婿に先だって「まつさきに身まかりし」といった表現が現われるので、一応、後者で訳しておいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐の祟(たた)りの事

 

 文化七年夏秋の頃、日本橋左内町(さないちょう)に一奇事のあった由。さる御仁の語ったことによれば……

 

……この町に最中・饅頭を商(あきの)う菓子屋が御座ったが、娘は未だ十二、三歳にて外(そと)より婿(むこ)を取ったもので、娘はこれ、まだ年若なれば、いまだ正式の夫婦には、これ、なっておらなんだと申す。

 この婿もはなはだ実体(じってい)なる人物にて御座って、店(たな)の一間(ま)に独り寝をさせて御座ったと申す。

 しかるに、夜の更けて御座ると、これ、その婿の一間より、何やらん、人が二人して話し合(お)うておるような声が聴こえ、また、店(たな)内の使用人らも、これ、だんだんに、このことを聴きつける者も、出て参るようになって御座った。

 しかし、かの婿の寝所(ねどころ)へ立ち入った者は、これ一人としてなく、かの娘の母も、ひどく疑い、かの婿を呼びつけて質してみたものの、婿はと申さば、

「――いえ! そのようなことは、これ、一向に存じませぬ。」

と答え、その様子に不審なところは全く以って御座らなんだと申す。

 ところが、それからすぐのことで御座った。

 かの婿に――狐が――憑いた。……

 そうして如何にも女のようなる声を出だいて、憑依したそれが語り出したので御座る。……

「……我等ハ實ハ女狐(メギツネ)ニテ……コノ息子ト……深ク因(チナ)ミアル縁(エニシ)ノアリテ……来タッタ者ジャ――必ズヤコノ男(オノコ)ノ身ヨリ立チ退(ノ)カントセント思ウテ居レドモ……吾レ……今……コノ男(オノコ)ノ子(コォ)ヲ懐妊成シテオルニヨッテ……子ヲ産ミ終エテ御座ッタナラバ……コレ……早速ニ男(オノコ)ガ身ヨリ離レ去ラントゾ思ウ――サレド……ソノ我等ノ産ンダル子(コォ)ヲバ……何卒……育テ給エカシ――我等……影身(カゲミ)トナッテ……ソノ子(コォ)ニ陰日向(カゲヒナタ)ノゥ随イテ養育ナサントスルニ依ッテ……強イテソチラノ……オ掛ケニナラネバナラヌ世話モ……コレ……大シテ有ロウトモ思ワレヌニヨッテ――サレド……コノコト……不承知トナラバ……我モ生キテ居(オ)ル事ナラザレバ……ココニ我等ノ恋慕(シト)ウテ御座ル……コノ……ソナタラノ義理ノ息子ガ命モ……結果……ナキモノトナルト思ワルルガヨイ!――ドウカ……偏エニ我等ガ子(コォ)ノ養育……コレ……頼ミ申ス――」

といった驚天動地のことを口走ったによって、父母娘は勿論、お店(たな)の人々も皆、不思議なことと思うて茫然と致すばかりで御座ったと申す。

 その中でしかし、かの娘の母一人が口火を切って狐に返答致いた。

「……何条(なんじょう)、我ら! 狐の子を育(はぐく)まねばならぬ謂われ、これ、あろうはずもないッ!……何ともまがまがしくも外聞の悪しきことよッ!……たとい、如何なることのあろうとも、そのような理不尽なる儀は、これ、成り難きことじゃッツ!!」

と、彼女の方が寧ろ、狐の如く、両目を引き攣らせ、激しく女狐に断ったと、申す。

 ところが、その直後より、かの婿は勿論のこと、かの母ともにひどく患いだし、母なる者は、それより幾許(いくばく)ものぅ、身罷ったと、申す。……

 

「……さても……それより後は――婿は――狐の子と申す妖しき者は――はたまた、かの若き娘は――一体これ、どうなって御座ったか?……それはそれ……また後日(ごにち)のお話と致そうず……」

とは、その菓子屋が家の向いに店(たな)を開く薬屋が、我が主治医の許に来たって語って御座ったとのことで御座る。

 

耳嚢 巻之十 下賤の者才覺働の事

 下賤の者才覺働の事

 

 文化七午年七月末の事の由、牛込馬場下町(うしごめばばしたちよう)にて龜鶴山淸淨寺(しやうじやうじ)といふありしに、夜更(よふけ)盜賊二三人這入(はひいり)、蚊やの釣手(つりで)を切(きり)、和尚をかやにてつかみ押へて金子有(ある)所を尋(たづね)しに、和尚金銀無之(これなき)由を答へて彼是(かれこれ)問答の聲高きを、臺所の働(はたらき)を勤居(つとめをり)ける下郎聞付(ききつけ)て起出(おきいで)、彼(かの)盜賊を小手招(こでまねき)して、御身和尚を訶責せしとて金銀の有(ある)所中々申(まうす)事にてはなし、我等よく知りし間、此方(こなた)へ來り候へと、右盜賊を欺き、金銀寺内に有之(これあり)、觀音堂の賽錢箱の下を掘埋有之(ほりうめこれある)由を語りて、彼(かの)堂へ案内して右盜賊に賽錢箱を取除(とりのけ)させ、闇夜に候間、挑灯(てうちん)を取來(とりきた)るべしと申(まうし)て、其身は堂を立出(たちいで)て堂の口の戸をしめ錠(ぢやう)を懸け、さて半鐘(はんしよう)を烈しく打(うち)ける故、前町(まへまち)の者共駈集(かけあつま)りて難なく盜賊を捕押(とりおさへ)けるが、右盜賊の内には元右寺に居し出家もありければ、縛り候まゝにて夜明け候迄寺に差置(さしおき)、追々人も引取(ひきとり)候上にて、寺にて盜賊ながら捕(とらへ)候て訴(うつたへ)候はゞ、死刑にも可相成(あひなるべき)儀、好み候事にも無之(これなし)、元弟子筋の者も加(くはは)り居候事故、門前にて、以來惡事致す間敷(まじき)趣(おもむき)を異見して放し遣(つかは)し可然(しかるべし)と、和尚も申しければ、右の通(とほり)可取計(とりはからうべき)由にて、門前へ連れ出て繩をとき追放しけるが、兼て前町の者へ通じ置(おき)しや、町人ども大勢出(いで)むかひ、町方へ捕へて其筋へ訴へけるとや。始終ぬけめなき取計(とりはからひ)と、人の咄しける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。最後の部分は管轄の違いが関係するものか? 境内での強盗でしかも犯人の中に現役の僧侶が含まれていたとなれば寺社奉行の管轄になり、本文で述べているように死罪級の重罰が処せられたものか? 旧弟子が押し込みの中に含まれていたことから情けもいくらか生じていただろうし、町奉行に引き渡せば、死罪までは行かずに済むであろう、ということなのではあるまいか? 寺社奉行の扱いになると寺側の対応も半端ではなく大変そうな気もするので、そうした和尚の内心をも才覚した上、この厨房働きの者、機略を巡らしたものかも知れぬ。恐らくは解き放ちは和尚の本音であったのであろう。しかし下男は、この連中たちの性根の悪さや阿漕なさまをしっかりと捉えていたのに相違ない。無罪放免解き放ちとなれば、調子に乗ってまた何時何時(いつなんどき)、自分や和尚に無体な逆恨みなどをして復讐に来るとも限らぬと踏んだのではあるまいか? 

・「文化七午年七月末」文化七年庚午(かのえうま)で西暦一八一〇年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。同年七月は大の月で七月三十日はグレゴリオ暦で八月二十九日に当たる。

・「牛込馬場下町」現在の東京都新宿区馬場下町で南東部が喜久井町に接する。

・「龜鶴山淸淨寺」底本の鈴木氏注に、山号が『亀鶴山ならば誓閑寺。浄土宗。深川霊厳寺の末寺。新宿区喜久井町』とある。現在の早稲田大学戸山キャンパスの南東直近に現存する。亀鶴山易行院誓閑寺。重蓮社本譽上人誓閑和尚を開山として霊厳島に寛永七(一六三〇)年に易行院と称して創建されたが、明暦の大火により当地へ移転したと伝える(参照した松長哲聖氏の「猫のあしあと」の本寺の記載によると、伝承上では濫觴の開山を木食上人とするらしい)。しかし、地図を見るとその誓閑寺の南東直近の新宿区戸山に同じく浄土宗の浄国山安楽院清源寺という寺があり、寺の名はこちらの方が相似性が強い。そこで同じく松長氏の「猫のあしあと」の清源寺の記載を見ると、筑後善導寺の末寺で、馬術の達人であった稲垣善右衛門(法名・一乗院殿覚本善佐居士・慶安二(一六五一)年寂)を開基、寂蓮社圓譽永運(慶安二(一六四九)年寂)を開山として寛永四(一六二七)年に創建したと伝えられ、山の手三十三観音霊場第十九番札所であるとある(本尊は阿弥陀如来)。ここでは「觀音堂」が主な舞台となっているところ(現在の誓閑寺の記載には観音に纏わる記載はない)からは私は後者の可能性をも考える必要があるように思う。なお、現在の馬場下町はこの二つの寺の北直近にある。

・「臺所の働を勤居ける下郎」これは先の「耳嚢 巻之九 藝道執心のもの玄妙ある事」に出た「板の間」(雑役をこととする下男の中でも最も低い身分の呼称かとも思われる)と限りなく近い職分と思われる。

・「小手招」「こてまねき」とも読める。手先を振って招くこと。

・「訶責」底本では「訶」の右に『(呵)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 下賤の者の才覚働(さいかくばたら)き絶妙の事

 

 文化七年午(うま)年の七月末のことと申す。

 牛込馬場下町(うしごめばばしたちょう)にて亀鶴山清浄寺(きかくさんしょうじょうじ)と申す寺のあったが、ここに夜更け、盜賊二、三人が押し込み、蚊帳(かや)の四方の釣手(つりで)を一気に切り離し、和尚を蚊帳を以って摑み押えて、

「――おう! 金は何処じゃッ?!」

詰めよって脅した。

 ところが、蚊帳ごと縛られた和尚、これ、毅然として、

「――金銀など、これ、御座ない!」

と、けんもほろろに答えたによって、盗賊ども、これ、さらにいきり立って、なんやかやと押し問答の声、少しく高く響いたによって、台所の働きを勤めておった下郎が、これを耳聡(さと)く聴きつけ、独り起き出でて、何を思うたものか、かの盜賊どもに背後より慇懃に声をかけ、手先を細かく振って手招きし、

「……お前さまがた、あの頑固なクソ和尚、これ、幾ら厳しく責め立てたとて、一向、金銀のありどころなんど、これ、なかなか、申す玉にては、これ、御座いませぬ!……我ら、あの因業爺いの宝の隠しどころ……実はこれ、盗み見てよぅ知って御座いますれば、の! 此方(こなた)へ! さあさ! いらっしゃいまし!」

と、かの盜賊どもを欺(あざむ)き、

「……寺内の金銀は――ほれ、ここに総て御座る!――そうさ! この観音堂で。へぇ!……そこにある、そうそう、それ。……その賽銭箱の下を掘りましての! そこに埋めおいてありますのじゃ!……」

とまことしやかに語り、かの観音堂の内へ、かの盗賊ども総てを案内(あない)致いて、

「……まずは、ほれ……その賽銭箱を退(の)かさっしゃれ。……いやいや! 賽銭箱ん中に入っとる賽銭を獲るんも、これ、忘れずに、の!……」

と盗賊どもを賽銭箱の取り除けに必死にさせおき、

「……何ともはや!……一寸先も見えぬ闇夜で御座いますなぁ!……かくも暗うては、これ、穴掘りにも上手くない。……そうさ! 一つ今、提灯(ちょうちん)を取って参りやしょう!……」

と申すや、さっと身を翻して堂を立ち出でた。

 と――

 そこでまたしても踵を返し、御堂が口の左右の戸を

――ババン!

と素早く閉め、そこに、最前より懐に用意して御座った錠(じょう)をも掛けてしまい、さてもそれより、本堂の端にぶら下がって御座った半鐘まで韋駄天走り、

――カンカンカンカン! カンカンカンカン! カンカカ! カン! カカ! カンカン!

と烈しく打ち鳴らしたによって、門前町(もんぜんまち)に住まいする者ども、これを聴いて、

「――お寺に何事かあったぞッ?!」

と駆け集(つど)って参ったによって、難なく、押し込み盜賊連を、すっかり捕り押さえて御座ったと申す。

 ところが、この盜賊の内には、何とまあ、元この清浄寺にて修行僧として御座ったことのある坊主も含まれておったによって、ひっくるめて縛って御座ったそのままにて、夜の明けて御座るまで寺内にさし置いておいた。

 さて曙の頃おいとなって、和尚、徐ろに観音堂の内に数珠繋ぎとなっておる盗賊どもの許へと来らるると、

「……さても次第に、捕り手の役人をも呼び、この者どもを引き捕えて貰(もろ)う頃合いとはなった。……されど……寺への押し込み盜賊となればとて、これもし、正式に捕縛致いて、神仏をも恐れぬ極悪人として寺社奉行へ訴え出でたとならば……これ……死刑にも相い成るべき仕儀にては……御座ろうのぅ。……しかし、かくなる無益な殺生はこれ、拙僧の好み候うことにても、これ、御座ない。……しかも元弟子筋の者までもその一味に加わっておることもあり……ここは一つ――門前にて――『以来悪事致すまじき』との趣きを急度(きっと)異見なして解き放って遣わすが――これ、しかるべき措置と申そうず。――」

と、和尚も申した。

 すると、かの機転を利かせた下男、これ、そこに一緒に見張って御座った門前町の若い衆(しゅ)に何やらん耳打ちし、若い衆はまた、それに合点して寺から出て行った。

 そうして下男は声高らかに、

「和尚さまのおっしゃらるる通りに、取り計らい、致しやしょう!」

と呼ばわると、繩目数珠繋ぎのまま一列に門前へ連れ出でて、そこで繩を解くと、

「――以来悪事致すまじ!――」

と声掛けして追い放ったと申す。

 しかし、かねてよりこの下男――さっきの耳打ちがそれで御座ろう――門前町の者へ通じおいて御座ったものか、盗賊どもが解き放ちとなったその瞬間、路地路地より、天秤棒や出刃包丁なんどを構えた町人どもが、これ、わらわらと大勢湧き出でて、にやにやしながら盗賊どもを出迎え、町方役人が方へ捕えて連れ参り、その筋へ――押し込み強盗の一味、これ一網打尽――と称して訴え出たとか申す。

 

「……この、巧みなる逮捕劇の一部始終……これ、その下男なる男の、抜け目なき取り計らいにて御座った。……」

と、とある御仁の話して御座った。

2015/02/18

あひびき 火野葦平 ブログ・アクセス660000突破記念

本夕刻、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、8年9ヶ月で660000アクセスを突破した。以下、久々に火野葦平の「河童曼荼羅」の一篇を記念テクストとして公開する。

 

 
 
   あひびき   火野葦平

 

靑、赤、綠、黄、白、金、銀、紫など、色とりどりの紙をさまざまの形に切りきざみ、それで人形を折つたり、鶴や馬や犬をこしらへたり、網にしたり、短册には朝露をとつて來てすつた墨で、歌や俳句をはじめ、思ひ思ひの文句を書きつける。歌や俳句にはやはり天(あま)の川(がは)の文字が多く見られるが、なかには進歩的な少年少女がゐて、自由とか、平和とか、原水爆戰爭絶對反對とか、墨痕もあざやかに書きつけてゐた。また、自分の思つてゐる相手の名をそつと書いて、獨りで赤らんでゐる年ごろの娘や若者もあつた、彼らは七夕(たなばた)の美しい傳説をそのまま胸に受けとめ、一年に一度だけあひびきをするといふ牽牛星(けんぎゆうせい)と織女星(しよくじよせい)の運命に同情しながら、きらびやかな紙片の彩(いろど)りを笹に結びつけて、できるかぎり天の戀人同士の幸(さち)を祝つてやらうと考へるのである。そして、七夕祭がすめば、この花やかな飾り笹はすべて川に流してしまふので、今度は川にゐる河童たちのために、胡瓜や茄子を結びつけることも忘れない。子供たちはいかにも樂しさうに、笹つくりに沒頭する。

 しかし、それに引きかへて大人たちの顏色は晴れ晴れしない。彼らも七夕を祭る心に變りはないが、もつと現實の問題について頭を惱ましてゐるからだつた。それは洪水の心配で、七夕のころになるときまつて大雨が降り、河川が土堤を決潰(けつくわい)して、水田も家も埋めつくすほど氾濫(はんらん)するのが例年の恒例みたいになつてゐるのである。筑後川流域もしばしば洪水に襲はれた歷史を持つてゐるが、その二つの支流、白糸川と絹川とは、名前のやさしさとは正反對に、たいへんな暴(あば)れ川で、近郊の農民たちはほとほと手を燒いてゐた。このため七夕が近づき、子供たちが嬉々として笹つくりに餘念のない姿を見ると、その美しさや樂しさなどより、まづ空模樣をながめては、心のうちに、今年は水害がなくてすむようにと、必死の思ひで祈つてゐるのだつた。子供たらとて洪水になれば苦しむのに、前年のことはけろりと忘れたやうに、色紙(いろがみ)を切つたり、こよりをひねつたりして時間を忘れてゐるのが、大人たちには不思議でならなかつた。といつてやめさせるわけにも行かず、またムダになるのにとはがゆく感じながら、視線は空の方ばかりに向く。いまは底深く濃く靑い空に、ぎらぎらと白銀の入道雲が立らならんでゐるが、いつどこからか雷鳴がおこり、一天にはかにかきくもつて豪雨が降りそそぎはじめはせぬかと、強迫觀念にさらされる。すつかりノイローゼになつてゐる。無論、その危惧(きぐ)が杞憂(きいう)に終つてくれることを念願してゐる。洪水はまつ平で、危惧がはづれることの方が大歡迎だ。しかし、その農民たちの切なる願望にもかかはらず、やがて晴れわたつた天の一角に遠い雷鳴がおこり、平行してゐる二つの川、白糸川と絹川とをつないで、白絹平野を濁水の海と化す雨の前兆が、投げ玉のやうに、降り落ちはじめるのであつた。たらまち靑空はひとかけらもなくなり、暗黑の空と大地とはすだれのやうな雨によつて連結されてしまふ。農民たちの顏は佛頂面となり、唇をかみしめて口もきかなくなるのだつた。

 河童は狂喜した。今年も一念が成就した。早く白糸川の水量が増し、土堤を破り、隣りの絹川へ流れこむのが待たれる。どんなに傳説の掟がきびしく、刑罰が耐へがたからうとも、その一瞬によつて一切が、償はれるのだ。刻々に増して行く水量に、河童は胸をどらせながら、なほも祈願をこめる。その河童の幻の眼に、ありありと絹川の方で自分の行くことを待ちかまへてゐる戀人の姿が映る。一年に一度だけの逢ふ瀨だ。河童はもう逆上しさうに昂奮し、すさまじい雨もまだ勢が足らず、はげしくふえて行く水量もなほまどろこしく思はれて地團太ふむのだつた。眼はほとんど狂氣に近く血走り、全身は火焰(くわえん)に化さんかとばかり燃えたぎつてゐた。その情熱のほむらで川の水も沸くほどである。絹川にある女河童も同じ狀態であるにちがひなかつた。人間たちの絶望の表情と反比例して、河童の顏はかがやく。

 筑後川には、頭目九千坊の統率のもとに、多くの河童が棲んでゐるが、支流の白糸川と絹川とにはたれもゐない。この二つの川は傳説の掟にそむいた者を配流する一種の刑務所になつてゐる。懲罰は孤獨といふむざんな方法によつておこなはれる。したがつて、白糸川にも絹川にも一匹づつしか河童はゐない。人間たちがたくさん河童がゐると信じてゐるのは、本流のにぎやかさを知つてゐるための錯覺だ。數年前、九千坊一族と海御前(あまごぜ)一族とが久留米(くるめ)の水天宮で合同大會を開いたとき、この男河童はひとりの女河童に魅せられた。女河童の方も彼に心を惹かれたやうだつた。しかし、規律ある大會に於ける戀は最大の法度(はつと)であり、不義とされてゐる。しかし、二人はおたがひの慕情を制止しきれず、岩かげで抱擁しあつた。それが露見したため、男河童は白糸川に、女河童は絹川に流謫(りうたく)されたのである。そこでは絶對に水中から出ることが許されなかつたため、平行してゐる二つの川の中にゐる二人は戀人に逢ふことが出來なかつた。孤獨と寂寥の課刑はたしかにきびしく、この苛酷さのためどちらも急速に瘦せ衰へた。二人は泣いた。悲しく情なかつた。また、憤りでふるへた。自分たちはなんの罪ををかしたのであらうか。戀をすることが罪惡か。たしかに、場所を誤つたけれども、それがこれほどの罰を受けなければならぬほどの大罪であらうか。しかし、いくら齒ぎしりしてみても、傳説の掟をくつがへすことは出來ない。思ひはさらに募るばかりであつても、永遠に遮斷されてしまつたのだ。河童は絶望してむしろ死を願つた。水中の牢獄から出られなくては、二度と戀人に逢へる望みはまつたく失はれたのである。無期の判決を受けてゐるから、孤獨のうちにただ死を待つよりほかはなかつた。

 ところが、河童に光明がおとづれたのである。梅雨が來て豪雨が降り、洪水がおこつて白糸川と絹川とをつないだため、水中から出るを得ずといふ禁令に反することなく、二人は逢ふことが出來たのだつた。二人は狂喜した。しかし、水が引くと自分の川に歸らなければならなかつた。どちらかの川に同棲することは許されなかつた。またも孤獨がはじまる。けれども絶望は消えてゐた。希望と夢が生まれてゐた。次の年の雨季を待つ。豪雨と洪水への期待。それはあたかも七夕の季節に當つてゐて、天では牽牛と織女とが一年に一度のあひびきを樂しむときだつた。河童は愛の勝利の時期として、洪水を待つやうになつたのである。そして、今年も豪雨に逢つて雀躍(こをどり)してゐるのだつた。

 幸福感に醉ひしれたあげく、河童は神祕な錯覺を抱くやうになつた。愛の強さが奇蹟をもたらした例は多い。河童は豪雨や洪水が自然現象なのではなく、自分の愛がつくりだした奇蹟だと信じこむやうになつた。はては雨を呼び土壤を決潰させる神通力を自分が持つてゐるかのやうにうぬぼれた。もつと降れ、もつと増せ、土堤を切つて溢れだせ、と號令をかけると、そのとほりになる氣がした。とはいへ、戀人にあひたい一念の方が強すぎて、降る雨や増す水量が少なすぎるやうにまどろこしくて仕方がない。白糸川と絹川とが水でつながらなければ逢ふことは出來ないのである。水よ、なにをしてゐるか、早く溢れろ、早く戀人の川とつづけ、と、河童は胸中で絶叫してゐた。

 村と田と家と人とは濁流に呑まれた。白絹平野は一面の海となつて、もはや白糸川と絹川との區別はなく、二つの川に浮いてゐた船が家のところにも、田のところにも、神社のところにもただよつてゐた。子供たちが一心にこしらへた七夕の笹飾りが絢爛(けんらん)たる虹の彩りをむざんに水に浸していたるところに流れてゐる。しかし、それにつけられてゐる胡瓜や茄子はいつまで經つてもなくなる形跡はなかつた。水上に建つてゐる屋根の上で、避難者たちは早く水の引くのを願ひながらも、水中の河童には注目してゐた。大好物である胡瓜や茄子をいつ河童が食べに來るかと、眼を皿にした。河童がゐればたちまちなくなることは筑後川本流の例によつて明らかである。しかし、ここではなんの異變もおこらないので、河童は居らんのぢやらうかと首を傾(かし)げる者もあつた。居らんのぢやよと賛成する者の方が多かつた。さういへば白糸川と絹川とで河童の害があつたためしがない。この二つの川は子供たちの夏のよい泳ぎ場所であり、大人にとつても絶好の釣り場だが、これまでなんの危險も被害も受けたことがなかつた。河童は居らんといふことが定説になつた。

 雨はやみ、洪水はただ湖のやうに靜まりかへつてゐたが、一ケ所だけ、渦を卷いたり、水がはねあがつたり、ときには奇妙な音を立てたりしてゐるところがあつた。それは一定してはゐず絶えず移動しながら、その水面の騷ぎも大きくなつたり小さくなつたりした。避難民たちの視線がいつせいにこの不思議な現象にそそがれる。そしてあれはきつと大きな鯉がゐるのだと話しあつた。筑後川本流はいふまでもなく、この二つの支流でも、魚は豐富だつた。フナ、スズキ、アユ、コヒ、カマツカ、スッポン、ウナギ、ナマヅ、イワナ、なんでもゐた。特に、鯉はたくさんゐたうへに、五十年八十年を經た大鯉がときどき取れた。本流の方には、アブラマのマーシャンといふ鯉取りの名人がゐて、水中に長く潛り、鯉を抱いたり口にくはへたりしてあがつて來る。そのマーシャンが最近とらへた大鯉は帝王の冠のやうに頭に巨大なコブがあり、長さは三尺、目方は三貫目あつて、たしかに百年の歳月を經たものと思はれた。さういふ大鯉が白糸川や絹川にもゐると考へられてゐたが、たれもまだその事を見たものはなかつた。いま、洪水の水面を騷がしてゐるのはその大鯉にちがひないと意見が一致した。それを取らうかといひだした若者もあつたが、さういふことはしない方がよい、川の主を取つたりすると、きらに洪水がはげしくぶりかへす恐れがあるといつて、老人がとめた。そして、彼等はしきりに移動する水面の運動を好奇に滿ちた眸(まなざし)で眺めつづけた。

 男河童と女河童とは情熱のあらんかぎりをつくして睦(むつ)みあつた。一年に一度の鬱積した靑春の血は狂氣といつてよかつた。水が引いてしまへばまた別れなければならない。その運命の刹那にこめる切ない愛撫は忘我の境をつくりだしてゐた。二人が抱擁してもつれあふたびに、水面には異樣な騷ぎが持ちあがる。それは水中の二人の活動につれて移動したり、はげしくなつたり弱くなつたりする。しかし二人はそんなことは知らない。きびしい傳説の掟と刑罰とにしばれてゐながらも、あたへられた瞬間の自由は悔いなく享受しなければならなかつた。脱獄囚であるとしても、水中から出てはならぬといふ禁令は破ってはゐない。二人は水が引くのが恐しいかつた。もつと降れ、もつと增せ、長く引くなと絶叫してみでも、いつか水が引きはじめるのを感じると、氣が氣ではなくなり、さらに焦躁のため愛撫の度合(どあひ)は狂熱化した。別れれば後(あと)一年また逢へぬ。河童は狼狽し天を恨んだ。けれども自然の力には勝てなかつた。神通力があるなどといふうぬぼれの鼻柱はたちまちにへし折られた。減水とともに、二つの川が分離される。男河童も女河童も泣く泣く自分の川へ歸らねば仕方がなかつた。

 かういふ悲しいあひびきが毎年くりかへされた。しかし、洪水とて毎年は出ない。二人の河童がどんなに豪雨と洪水とを望んでも徒勞に終る年もあつた。さうかと思ふと、梅雨期や七夕でない秋の颱風期に洪水が出ることもある。さういふときには、またも大鯉の亂舞かと錯覺される水面の騷擾(さうぜう)が、村民たちの眼をみはらせたことはいふまでもない。幸なことは、村民たちが川の主に對する尊崇の念が篤く、これを取らうと試みる者のなかつたことである。もしその水面のざわめきの場所に、上から投網(とあみ)でも投げられたら、無我の境にある二人の河童はわけもなく捕へられたにちがひない。とにかく、このやうにして哀れなあひびきがつづけられながら、歳月が流れたのである。

 村民たちはやがて積極的に河川改修に乘りだした。本流の筑後川の方はすでに早くから大規模な堤防工事がおこなはれてゐたが、白糸川と絹川の方もおそまきながら、これにならつた。堤防は高く堅固に築きあげられ、どんな増水にも氾濫を防ぎ得るほどになつた。村民はよろこんだ。しかし、河童は悲しんだ。そして、男河童も女河童もはげし戀病(こひわづら)ひにかかつて、瘦せほそり憔悴した。とぢこめられた牢獄を脱出する方法はただ洪水だけしかなかつたのに、それがなくなつたとすれば絶望だつた。河童たちは自然を克服する人間の智惠を恨んだ。逢はぬことが三年にもなると、魂と力とは拔けて、拔け殼同然だつた。二人はかならず年に一度だけは正確に逢へる牽牛星と織女星とがうらやましかつた。子供たちは相かはらず五色の紙を切つて飾り笹をつくり、七夕祭をする。河童は息も絶え絶えになつて、川底から銀河のきらめく夜空を見あげ、牽牛と織女とが睦みあつてゐる樂しげな樣子を想像して泣いた。

 ところが、自然も人間にさうやすやすと負けてはゐない。或る年、六十數年來といふ豪雨が降りつづいて、村民たちの築いた堤防を苦もなく決潰し、大洪水が筑後白絹の兩平野を濁流の下敷きにした。河童のよろこんだことはいふまでもない。ただ殘念なことは、すでに二人の體力がまつたく衰へてゐて、氣ばかりあせつてもはげしい靑春の放出は出來なくなつてゐた。人間の眼をみはらせる水面の騷擾もおこらず、わづかに小さな渦がゆるやかに卷いてゐるにすぎなかつた。そして、水が引き、ふたたび白糸川と絹川とに別れて歸つた後は、このときの無理がたたつて、どちらもどつと重い病の床に就いた。

 人間たちはこの大洪水の經驗をもとにして、さらに自然を征服する方途を研究した。そして、洪水を避けるためには放水路の必要なことに氣づき、本流にはいくつもその措置が講じられた。白糸川と絹川との場合は、この二つの川をつなぐことによつて完全な放水措置(そち)が出來ることを專門家の技師が證明し、ただちに工事が實施された。幾條かのクリークが掘られて、二つの川は結合した。洪水を待つことなく二つの川の水はつづいたのである。しかし、このとき、もはや、工事開始ごろから危篤狀態にあつた二人の河童はそれぞれの場所で死んでゐた。男河童は白糸川で、女河童は絹川で。無論、生きてゐれば毎日でもあひびき出來る幸福がおとづれたことなど知らぬままに。しかし、村人たちは今でも白糸川と絹川とにははじめから河童はゐなかつたと信じきつてゐる。河童が死ねば靑いどろどろの苔汁になつて溶けるので、川に異變がおこり、やつぱりゐたのかと村民をおどろかせたかも知れないが、白糸川にも絹川にもなんの變化もなかつたので、河童の存在はつひに知られずに終つた。河童はどこに行つたのであらうか。愛は奇蹟を生むと愚かな河童は信じてゐたが、奇蹟が生まれたのであらうか。奇蹟が生まれたのであつた。河童は死と同時に昇天し、男河童は牽牛星の下僕となり、女河童は織女星の女中となつたのである。最近、街の素人天文學者が七夕の夜の觀測によつて、牽牛星と織女星のかたはら近くに見なれぬ星を發見したといふニュースが新聞をにぎはしてゐたが、その星がなにものであるか、説明の要はあるまい。ひときは靑くきらめくので、銀河の無數の群星とはつきり區別出來るのである。しかし、筑後川の大親分九千坊も、關門海峽の大姐御海御前(おほあねごあまごぜ)も、まだこのことを知らないらしい。今年の水天宮大會では二人の失踪が問題になり、傳説の掟を破つて脱獄した河童は、發見され次第、さらに極刑が課せられることになり、懸賞金が賭けられるにいたつた。全國の河童族に指名手配がおこなはれた。この合議は長びいて夜にいたつたが、その決議がおこなはれてゐる大會のまうへで、銀河のなかの二つの靑い星が、意味ありげに、キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラと大きくまばたいてゐたのを、昂奪して喚めきちらしてゐた地上の河童たちはたれ一人氣づいた者はなかつた。

 

[やぶちゃん注:「白糸川と絹川」筑後川の支流とあるが、現行では捜し得なかった。後に「白絹平野」とも出るがこれも見つからない。これらは皆、極めて筑後の極めて狭い地域での呼称か。識者の御教授を乞うものである。

「久留米の水天宮」福岡県久留米市市瀬下町にある全国の水天宮の総本宮たる水天宮。ウィキ「水天宮(久留米市)」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『社伝によれば、寿永四年(一一八五年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使の局伊勢が千歳川(現 筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間(一一九〇年―一一九九年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた。そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である。幕末の志士・真木保臣は第二十二代宮司であり、境内社・真木神社に祀られている』。『慶長年間(一三一一年―一三一二年)に久留米市新町に遷り、慶安三年(一六五〇年)、久留米藩第二代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが現在総本宮である久留米水天宮である。 その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第九代藩主頼徳は、文政元年(一八一八年)に久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し、その後明治四年に現在の東京水天宮にご遷座された。 明治元年(一八六八年)には元神明宮に分霊され相殿に祀られる』。『天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀る』。『仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった』とある。]

本日は

昼を教え子とイタリアンするによって一時閉店 心朽窩主人 敬白――
  
 
 
なお、今夜当たり、ブログ・アクセスが660000を突破するか……記念テクストは準備した――

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅶ)

本文は多様なフォントを使用したため、和文本文は明朝のままとした。

   Das interessanteste Phänomen einer Bestimmung der „Geschlechtskrise“ durch die Mondphase bietet aber überhaupt nicht der Mensch, sondern ein sehr tiefstehendes Tier, der Palolowurm der Südsee, Eunice viridis. Der Wurm lebt in den Gängen von Korallenriffen. Er pflanzt sich in der Weise fort, dass bei beiden Geschlechtern zur gleichen Zeit sich die hintersten Segmente seines Leibes zu kurzem selbständigen Dasein ablösen, an die Meeresoberfläche aus schwärmen und durch Entleerung der Keimstoffe, die sich im Wasser mischen und so befruchten, die Entstehung neuer Individuen ermöglichen. Die abgestossenen Leibesteile, von den Polynesiern „Palolo“ genannt, werden von ihnen gegessen und darum seit alters gefischt. Die Behauptung der Eingeborenen nun, dass man die Palolo nur zweimal im Jahre, im Oktober und November, beide Male aber wieder nur in der Nacht von der Vollendung des letzten Mondviertels finde, hat sich in überraschender Weise bestätigt. Es fehlt nicht an vereinzelten Vor- und Nachzüglern, das große Schwärmen aber vollzieht sich stets mit einer verblüffenden Exaktheit am Tage vor dem astronomischen Eintritt des letzten Viertels, und zwar völlig unabhängig von der Wetterlage, namentlich auch von der Bewölkung.

            ―Die Geopsychischen Erscheinungen (S. 309-310)

[やぶちゃん注:私はドイツ語が全く分からない。困っていたところ、ツイッターで相互フォローさせて戴いている Feldlein(フェルトライン)氏が訳して下さった。以下、本注は全面的にFeldlein 氏の注と依拠したことを最初に述べておく。

 まず、Feldlein 氏の検証によって、底本原文のドイツ語の綴りの誤り(掠れ及び書法を含む)が多数発見された。Feldlein 氏が補正された箇所を掲げておく。即ち、上記のドイツ語引用パートは、そのままではドイツ語として読み難いと思われると私が判断し、Feldlein 氏が本文を訂して下さったもので示してあるということである。また、Feldlein 氏によればドイツ語の引用符は“Palolo”ではなく„Palolo“とする方が一般的であり、引用符の前後の間にはスペースを入れないと御指摘を頂いたのでそれに従った。また、全体の書記法を厳密に校閲した関係上、パロロの学名 Eunice viridis もイタリックに変更しておいた。本論文原本の綴りを確認されたい場合は(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947377/6)と対照されたい。

 

  【訂正後】      【訂正前】(底本の綴り)

Bestimmung                    Bestinmung

Geschlechtern                (底本は最後の「e」が掠れている)

Polynesiern                     Polinesieren

Behauptung                     Behaunptung

Jahre                             Jehre

November                       Novenber

letzten                            letzen

Vor- und                         底本は「Vor-und」のハイフンの後が字空けがない。

Feldlein 氏書法注:現代ではスペースを一つ入れます。1911年(原書発刊時)・1930年代前後(本新田論文発表時)の正書法にあっても、恐らく入れると思います。]

Nachzüglern                   Nachzuglern

große                             grosse

Feldlein 氏書法注:この方が正書法に則っていると思われます。この単語でsを二つ書くのは、エスツェットが書けないか、印字活字がない場合に限ると思われます。当時の日本での出版事情が原因かも知れません。]

Schwärmen                    Swärmen

einer                             einenr

Die Geopsychischen Erscheinungen(訂正後)

 Geopsychische Erscheinungen”(訂正前)

Feldlein 氏書法注:底本では、「„Geopsychische Erscheinungen“」と、冠詞が付いていません。しかし書誌を見ますと、題名には定冠詞 Die が付き、「Die Geopsychischen Erscheinungen」となっています。通常は、タイトルとページ数を書いて引用する訳ですから、常識的にはタイトルだと思われます。この箇所を変更する場合は、「Die Geopsychischen Erscheinungen」が適切です。出来れば、イタリック(斜字体)が良いと思います。これが書名ではなく章名かと疑ったのは、定冠詞の有無という理由以外に、書名なら引用符を付けずにイタリックで書くという理由もありました(章のタイトルであれば恐らくはイタリックにはしないでしょう)。なお、定冠詞付きの場合は、Geopsychischeという形容詞の語末にnが付き、Geopsychischen のようになります。さらに、書誌に於いて斜字体タイトルに引用符をつける必要はありません。]

(S. 309-310)                   (S.S. 309_310)

Feldlein 氏書法注:ページ数を表わす場合、ドイツ語ではSを繰り返す必要はありません。]

 

 次に、Feldlein 氏が分かり易く、原文と対応させながらパートごとに番号振って邦訳稿をお示し下さったものを掲げる。一部にFeldlein 氏の注も附した。

 

1) Das interessanteste Phänomen einer Bestimmung der „Geschlechtskrise“ durch die Mondphase bietet aber überhaupt nicht der Mensch, sondern ein sehr tiefstehendes Tier, der Palolowurm der Südsee, Eunice viridis.

 月の満ち欠けで「性別」が確定するという大変興味深い現象を見せるのは、しかし、人間ではなく下等動物、南海のパロロ蠕虫 Eunice viridis である。

Feldlein 氏注:「大変興味深い」は形容詞の最上級が用いられていますが、「幾つかを比較した上で一番面白い」という意味ではなく、「殊の外興味深い」という意味と思います。]

   *

2) Der Wurm lebt in den Gängen von Korallenriffen.

 この蠕虫は珊瑚礁のトンネル状の穴に棲息する。

Feldlein 氏注:「トンネル状の穴」珊瑚間に形成される通路状の空間か、珊瑚の死骸の積み重なりの間に出来た空間か、本文からは不分明です。]

   *

3) Er pflanzt sich in der Weise fort, dass bei beiden Geschlechtern zur gleichen Zeit sich die hintersten Segmente seines Leibes zu kurzem selbständigen Dasein ablösen, an die Meeresoberfläche aus schwärmen und durch Entleerung der Keimstoffe, die sich im Wasser mischen und so befruchten, die Entstehung neuer Individuen ermöglichen.

 生殖は、以下の方法による。両性とも同時に体の末端の体節が独立体として切り離され、海面へと群がり、胚胎物質を放出し、それが水に混じることで受精し、新個体の誕生が可能になる。

   *

4) Die abgestossenen Leibesteile, von den Polynesiern „Palolo“ genannt, werden von ihnen gegessen und darum seit alters gefischt.

 ポリネシア人が「パロロ」と呼ぶ、放たれた体の部分は、彼らに食され、昔から採取されてきた。

   *

5) Die Behauptung der Eingeborenen nun, dass man die Palolo nur zweimal im Jahre, im Oktober und November, beide Male aber wieder nur in der Nacht von der Vollendung des letzten Mondviertels finde, hat sich in überraschender Weise bestätigt.

 年に二回、十月と十一月の二回だけ、月相の最後の四分の一が終わる夜[晦の夜]にのみパロロが現れるという土地の人らの主張が驚くべきことに確認された。

Feldlein 氏注:「月相」月の満ち欠け。

「月相最後の四分の一」月の満ち欠けを四分割し、満月が新月へ再び欠けて行く、最後の四分の一。従って、月が欠けて新月になる最後の日、晦のことと思われます。]

   *

6) Es fehlt nicht an vereinzelten Vor- und Nachzüglern, das große Schwärmen aber vollzieht sich stets mit einer verblüffenden Exaktheit am Tage vor dem astronomischen Eintritt des letzten Viertels, und zwar völlig unabhängig von der Wetterlage, namentlich auch von der Bewölkung.

 この現象がちらほらと前後して散発的に見られないというより、天候に全く関係なく、いうなれば曇りでも、つねに驚くべき正確さをもって、月相最後の四分の一という天文学的現象の開始前の日に、この大いなる群がりが執り行われるのだ。

Feldlein 氏注:ここは、大きな[うようよした]うねりのよう蟻集/蟻聚なですが、文脈から偉大なという意味が込められているように思います。ここには「ちらほらと」という形容詞が加えられています。散発的にという言葉と共に冗長になりそうなので、後の通しの訳では省きましたが、原文には「ちらほらと」「孤立的に」という意味合いの形容詞がついています。]

   *

7) Die Geopsychischen Erscheinungen (S. 309-310)

『風土心理的諸現象』(309 - 310頁)

Feldlein 氏注:もしこの引用箇所 (S. 309-310) の章の名前が「風土心理的諸現象」ならば、一重の括弧、そうではなく、本の題名と該当箇所という表記ならば、二重括弧で『風土心理的諸現象』とするべきだと思います。私なら、次のように引用箇所を示します。

Willy Hugo Hellpach, Die Geopsychischen Erscheinungen: Wetter, Klima und Landschaft in ihrem Einfluss auf das Seelenleben, Leipzig: Wilhelm Engelmann 1911, S. 309-310. ヴィリー・フーゴ・ヘルパッハ『風土心理的現象気象・気候・風光の精神生活への影響』ヴィルヘルム・エンゲルマン、ライプツィヒ、1911年、309-310やぶちゃん注この引用書の原典に就いては、注の最後に示した

   *

 

 最後にFeldlein 氏の通し訳を示す。

 

 月の満ち欠け[月相]で「性別」が確定するという大変興味深い現象を見せるのは、しかし、人間ではなく下等動物、南海のパロロ蠕虫、 Eunice viridis である。この蠕虫は、珊瑚礁のトンネル状の穴に棲息する。生殖は以下の方法による。両性とも同時に体の末端の体節が短い独立体として分離し、海面へ群がり、胚胎物質を放出し、それらが水に混じることで受精がおこり、新個体の誕生が可能になる。ポリネシア人が「パロロ」と呼ぶ、分離して放たれた体の部分は、彼らに食され、昔から採取されてきた。年に二回、十月と十一月の二回だけ、月相の最後の四分の一が終わる夜[晦の夜]にのみパロロが現れるという土地の人らの主張が驚くべきことに確認された。この現象は前後して散発的に見られないのではなく、天候に全く関係なく、言うなれば曇りでも、常に驚くべき正確さをもって月相最後の四分の一という天文学的現象の開始前日に、この大いなる群がりが執り行われるのだ。

            ―『風土心理的諸現象』(三〇九~三一〇頁)

 

 なお、この引用元である「Die Geopsychischen Erscheinungen」という書物はドイツの医師で心理学者にして政治家でもあったヘルパッハ(Willy Hugo Hellpach 一八七七年~一九五五年)が一九一一年に刊行した書物である。シュレスウィヒ(ドイツ最北のシュレスウィヒ・ホルシュタイン州の北半、アイダー川からデンマーク国境に至る地域。ユトランド半島南部に相当する)に生まれ、実験心理学の父ヴィルヘルム・ブント(Wilhelm Wundt)の弟子となり、後に医学博士となった。バーデン州カールスルーエ工科大学私講師・バーデン州文相・バーデン州首相・ハイデルベルク大学教授などを歴任した。ブント以後のドイツの代表的民族心理学者・社会心理学者である。本書は地理的条件や気候などの精神に及ぼす影響を論じたもので、国際的に高く評価され、一九五〇年には「風土心理学」と改題されて版を重ねた(彼の事蹟は主に小学館「日本大百科全書」等を参照した。名前は「ヘルパハ」「ヘリパハ」とも表記)。本邦訳では「風土的精神現象」「地心理学的現象」「地理心理的現象」等と邦訳されている。これについては本稿を御確認戴いた際、やはりFeldlein 氏より、以下のような詳細な書誌を頂戴している。

   《引用開始》

 なお、今インターネットで見ておりましたら、該当書の和訳が大正四(一九一五)年に、ヘルパッハ(渡辺徹訳)『風土心理学』(大日本文明協会)として出ていることを知りました。

 また、どうやら類似の題名の本を二冊、この著者は書いているようです。

 引用されている方が、以下の書誌だと思われます。

Die Geopsychischen Erscheinungen: Wetter, Klima und Landschaft in ihrem Einfluss auf das Seelenleben, Leipzig: Wilhelm Engelmann 1911.

ヴィリー・フーゴ・ヘルパッハ『風土心理的現象:気象・気候・風光の精神生活への影響』

 この「副題」は、より原文の構造に近づけて訳すなら、「精神生活に対する影響における気象・気候・風光」です。

 類似のもう一つの著作が、

Geopsyche: die Menschenseele unterm Einfluss von Wetter und Klima, Boden undLandschaft, Leipzig : W. Engelmann, 1939.

ヴィリー・フーゴ・ヘルパッハ『風土心理:気象・気候・土壌・風光の影響下の人間精神』

 ページ数はどちらも三百頁以上あるので、場合によっては後者が改訂版かも知れません。

 タイトルの翻訳に関してだけ、記入しておきます。

 私は心理学的と思いこんで「風土心理学的諸現象」と訳しましたが、「学」に相当する部分がありませんし、二重カッコで『風土心理的諸現象』とした方が良いと思いました。あるいは、わざわざ複数形を強調せずに『風土心理的現象』とする選択肢もあります。原著の書誌は、以下のようですので、副題を訳すと以下のような感じです。

「気象」(Wetter)は、空模様・時候・天気と言い換え可能です。

「気候」(Klima)は、風土や空気とも訳せますが、一般に気候帯を意味しています。

「土壌」(Boden)は、土地・大地・地面と言い換え可能です。

「風光」(Landschaft)は、景観・風景・景色・風物と言い換えも可能です。

「精神」(Seele)は、霊魂と訳すことも可能です。

   《引用終了》

 以上、Feldlein 氏の細部に亙る原典の校閲と現代語訳を受けて、私は私にはとても乗り越えられない本電子化の難関を越え得た。ここに改めて、こうした出逢いを作って下さった本論文の著者「木場の赤ひげ先生」とともに Feldlein 氏に対し、心より感謝の意を表したい。―― Herzlichen Dank! ――]

2015/02/17

耳嚢 巻之十 酒宴の席禁好物歌の事

 酒宴の席禁好物歌の事

 

 何人(なんぴと)のざれ歌なるや、配席禁好物の歌とて人の咄しけるが、聊(いささか)其理(ことわり)もあれば爰にしるしぬ。

  酒は燗肴は火とり酌はたぼ狆猫婆々子も出ぬがよし

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂歌連関。「燗酒」の「燗」は底本では「火」+「間」で私はずっとそう書いてきたのであるが、「燗」が正字で、この字はそもそもがネット上のコード字体としては表記出来ないことも分かった。「広辞苑」も「間」なのに! びっくらこいた!

「配席禁好物の」「はいせききんかうぶつのうた」と読むか。「配席」は酒の席での手配りや当座の出席者の選び方という風に取ればとれぬこともないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「酒席」で、この方がすんなり分かる。「酒席」で訳した。

「洒は燗肴は火とり酌はたぼ狆猫婆々子も出ぬがよし」底本の鈴木氏注には、『この歌は諺化している。「肴は火とり」は、「肴は刺身」という方が普通。火とりは意味不明。火加減の意か、或いは独りか』とある、半ば俚諺化している割には、私は聴いたことがないし、そもそも不祥な「火とり」の語が混入していては、諺とはなりにくい気がする。江戸時代に既に意味不明の「火とり」が消えて、

 酒は肴は刺身酌はたぼ狆猫婆々子も出ぬがよし

という戯れ歌として流行っていたということか。岩波版の長谷川氏注では、『酒を飲む最上の境地をいう。「さかなは火とり」は「さかなは気どり」(魚は趣向によってきまる)の誤りか』とある。しかし連続性を重視するならば、

――「酒は」ぬる「燗」が一番――酒の「肴は」「独酌」こそが最上じゃ。……しかしそれが淋しいとならば「酌」で許せるのは――「たぼ」(髱。女性の結髪で後方に張り出した部分を言うが、概ね派手なそれをしていた若い女性の称となった)――若い女性(にょしょう)に限る。……狆やら猫やらは無論のこと、婆(ばばあ)や子なんども酒席には出ぬがよい――

というのが、私には腑に落ちる。「狆」は日本原産の愛玩犬の品種。ウィキ狆」から引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記号は省略した)。『他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきたため、体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。また、『狆』という文字は和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『祖先犬は、中国から朝鮮を経て日本に渡った、チベットの小型犬と見られる。詳しくはわからないが、おそらくチベタン・スパニエル系統の短吻犬種(鼻のつまった犬)であり、ペキニーズとも血統的なつながりがあると考えられる。』『『続日本紀』には、「天平四年、聖武天皇の御代、夏五月、新羅より蜀狗一頭を献上した」とある。天平四年は奈良時代、西暦では七三二年だが、このときに朝鮮(新羅時代;三七七年―九三五年)から日本の宮廷に、蜀狗、すなわち蜀(現在の中国四川省)の犬が贈られたという記録である。これが狆に関連する最古の記録である』。『現在では、すべての短吻種(たんふんしゅ)犬の祖先犬はチベットの原産である事が知られているがこの時はおそらく、この奇妙な小型犬の原産地は、西方奥地の山岳高原地帯というだけで、はっきりとは知られていなかったのだろう』。『なお、『日本書紀』には、天武天皇の章に、六七二年、新羅から「駱駝、馬、狗」などの動物が贈られたという記載がある。この「狗」が短吻犬種であったとすれば、狆の歴史はさらに遡ることになる』。『次いで『日本紀略』には、「天長元年(八二四年)四月、越前の国へ渤海国から契丹の蜀狗二頭来貢」とある。『類聚国史』では、この件を「天長元年四月丙申、契丹大狗ニ口、子ニ口在前進之」としており、この「子」(小型犬)も狆の祖先犬であろうと言われる』。『天武ないし天平期からこのころまでの前後百年余の間に、「蜀狗」と呼ばれた短吻種犬が何度か渡来した。因みに「高麗犬(こまいぬ)」という意味は、本来は朝鮮から入ってきた犬の呼称であった。また、文献によっては、日本から中国(唐時代;六一八年―九一〇年)並びに朝鮮(渤海時代;六九八年―九二六年)に派遣された使者が、直接日本に持ち帰ったとも記されているという』。『しかし実際には、これらの犬が現在の狆の先祖とは考えにくく、シーボルトの記述によると、戦国時代から江戸時代にかけて、北京狆(ペキニーズ)がポルトガル人によってマカオから導入され、現在の狆に改良されたという。いずれにしても室町時代以降に入ってきた短吻犬や南蛮貿易でもたらされた小型犬が基礎となったと思われる。承寛雑録(雑=衣編に集)には江戸時代一七三五年(享保二〇年)に清国から輸入された記録がある』。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである。シーボルトが持ち出した狆の剥製が残っているが日本テリアに近い容貌である。つまり小型犬であれば狆と呼ばれていたことを物語る』。『江戸時代、「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた五代将軍徳川綱吉の治世下(一六八〇年―一七〇九年)では、江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育された。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したという』。『香川大学神原文庫に所蔵されている『狆育様療治』によると、狆を多く得るために江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与えるスタミナ料理や薬についての記述がある。近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』。『一八五三年にはペリー提督によって数頭がアメリカに持ち帰られた。そのうちの二頭は(一頭とも)、同年、イギリスのビクトリア女王に献上されたという。ビクトリア女王は愛犬家として知られ、ペキニーズ、ポメラニアン、マルチーズなどを犬種として固定した』。『江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正時代に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、日本国外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、今日では稀な存在となった』。『英語でのかつての名を「ジャパニーズ・スパニエル (Japanese Spaniel)」というが、スパニエル種の血統とは無縁であり、混同を避けるために現在では「ジャパニーズ・チン (Japanese Chin)」と改名されている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 酒宴の席の禁物のもの好物のものを詠んだる狂歌の事

 

 何人(なんぴと)の詠みし戯れ歌なるものか、酒席での禁物のもの好物のものの歌と申し、人の話して御座った狂歌のこれ御座ったが、聊かそれ、肯んずる理(ことわり)もあったればこそ、ここに記しおくことと致す。

  酒は燗肴は火とり酌はたぼ狆猫婆々子も出ぬがよし

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅴ)

 バチの群游と月との間に深き關係のあることは明かである。第一、第二、第三、第四と期間を置いて浮游することは内的條件の具備は勿論なれども月の位相によって性慾的危機が定まる爲であらう。南洋に住む深海動物の一種なるパロロ蟲即ち Eunice viridis も月位によつて一定時期に大群游をなすことが知られてゐる。

 パロロが下弦を選んで群游すること、殊に夜間のみに出づるは強き日光を避くる爲であらう。

[やぶちゃん注:「深海動物」私の『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』で紹介させて戴いた柴田康平氏のサイト「ミミズあれこれ」の中の「(3)月とミミズ 月の満ち欠けでミミズが出現するメカニズムを考える」(本種の説明を含むネット上の記載としては最も正確で纏まったものと私は考えている)で孫引きさせて戴いた今島実著「環形動物多毛類」(生物研究社一九九六年刊)によれば、

   《引用開始》

 多毛綱ゴカイ科の環形動物で、生殖のために遊泳する生殖型個体のうち日本にいるものをバチという。ウキコ、ヒル、エバともいう。イトメのバチを日本パロロ(英名 Japanese palolo)ともいう。イトメは、砂泥中で生活している個体が成熟してくると、10~11月の大潮の夜に雌雄の体の前方1/3がちぎれ、生殖物(雄は精子を、雌は緑色の卵)を充満させて泳ぎだし、生殖群泳する。

 その他のゴカイの生殖時期は種によって異なり、新月後と満月後の数日間に大きな群泳が見られるが、月齢、潮位、天候などに大きく影響をうける。

 また、イソメ(多毛綱イソメ科 Eunicidae に属する環形動物の総称)は、日本ではイワムシ、オニイソメなど19種が知られている。

 Palola siciliensis は本州中部より熱帯域のサンゴ礁にすむが、生殖時期になると大量の生殖型個体が群泳。サモア、フィジー、ギルバート諸島では毎年10月と11月の満月から8日目と9日目の日の出前の1~2時間に生殖群泳をする。泳ぎだす部分は体の後方の3/4くらいで、泳ぎながら生殖が行われる。このように生殖群泳する虫を太平洋パロロという。

 大西洋でも西インド諸島で E. schemacephala が7月に生殖群泳をするが、 これを大西洋パロロと呼んでいる。

   《引用終了》

とある。ここで新田氏が示しているEunice viridis というのは、この Palola siciliensis と全く同一種か、それに極めて近縁の種であると私は考えている(次注参照)。そうすると今島氏の記載の「本州中部より熱帯域のサンゴ礁にすむ」という記載からは、現在用いられるところの狭義の「深海動物」というのは私は当て嵌らないと考える。但し、鈴木経勲の「南洋探検実記」のパロロの記載の冒頭は、『レバ港に一奇蟲あり其の名を「バロヽビリデス」と云ふ該虫(がいちゆう)は同港の中に生息すれども平時之を見し人なく又漁具(ぎよぐ)等に罹(かゝ)りたることなし只(たゞ)年々(ねんねん)一度(いちど)即ち十一月十五日の朝(あさ)より晩に至る迄海上(かいじやう)に浮游(ふいう)するものにして土人は之を採り鹽漬(しほづけ)にして貯蓄(ちよちく)し以て祝祭日(しゆくさいじつ)の料理(れうり)に充つるなり』とあって、『同港の中に生息すれども』通常の漁師のリーフ内での漁では獲れないし、見かけないとする以上はリーフの底生に棲息しているとは言える。しかし、逆立ちしてもリーフ内の深みを「深海」とは呼ばない。この「深海動物」というのはやはりおかしい。

Eunice viridis」本州中部以南からインド洋・西太平洋・地中海・大西洋に広く分布している環形動物門 Annelida 多毛綱 Polychaeta イソメ目 Eunicida イソメ上科 Eunicoidea イソメ科 Eunicidae パロロ属ヒモイソメ(パロロ)Palola siciliensis  Grube, 1840、別名「太平洋パロロ」のことである。実は『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』で鈴木はこれを、

 バロヽビリデス

と、まさに新田氏の学名をカタカナ書きにしたものに酷似した名を記しているのである。「バロヽ」は「パロロ」の誤認(現地音若しくは鈴木に本種の名を伝えた者の発音が微妙で、「パ」と「バ」は区別し難かったのかも知れない)としても、種小名らしき部分は不審である。「WoRMS - World Register of Marine Species - Palola siciliensis (Grube, 1840)を見ると、シノニム・データ他には、

 Eunice adriatica Schmarda, 1861 (subjective synonym)

 Eunice siciliensis Grube, 1840 (objective synonym)

 Nereidonta paretti Blainville, 1828

 Palolo siciliensis (Grube, 1840) (misspelling)

とあるが、他の記載の綴りを見ても「ビリデス」に相当するものは見当たらない。ところが「ビリデス」はラテン語の「virides」(ヴィリデス 「緑色をした」という意)由来と思われ、パロロの体色をよく表しており(個人ブログ r-kimura 氏の「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」の画像を確認されたい)、強ちいい加減な謂いではないことが分かる。恐らくは、相応な学識を持った博物学者(フィジーは長く英国領であったからイギリス人であった可能性が強いか。但し、最初に上陸したのはオランダ東インド会社所属のオランダ人探検家タスマン(一六四三年)で、その百三十一年後の一七七四年にイギリス人探検家クックが再上陸してイギリス植民地となっている)がかく呼称した今は用いられぬシノニムではないかと私は考えている。識者の御教授を乞うものであるが、実は多毛綱 Polychaeta は代表的なゴカイ科 Nereididae 一つとってみてもかつては Hediste japonicaの和名がゴカイであったが、近年、同種が近縁な複数の種の複合体であることが判明、ヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイ Hediste atoka 、アリアケカワゴカイ Hediste japonica の三種に分けられており、ゴカイという単一種としての和名は存在しないとある。これはウィキゴカイの記載であるが、私の所持する中で最も新しい部類に属する平成四(一九九二)年保育社刊の「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」ではゴカイ科に「ゴカイ」 Neanthes japonica (Izuka) が未だ示されてある。恐らくこれはこの、Hediste japonica の旧シノニムと思われ、しかもこの単一種でないことが判明したのは文字通り近年(ウィキには「いつ?」の要請注記があってクレジットがない。ミレニアム前後か)であることも分かった(因みにこの現行の最も大掛かりな海岸動物図鑑には何故か、イトメ Tylorrhynchus heterochaetus が独立項として載らないのは頗る不審である(ゴカイ科の科・亜科と属の検索にに載るのみ)。イトメの学名も多様なシノニムが学術論文でも複数多用されているのは既に私の注で見て来た通りで、ともかくもこの多毛類の分類にはアカデミックな世界自体に大きな見解の相違が林立しているらしいことがよく分かった。]

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅳ)

       三、「いとめ」の成熟時の活動狀態

 室内の實驗に徴するに受精したる卵子は三日乃至四日にて幼蟲となり盛んに活動する。

 常に「いとめ」が生存する場所に於てバチの各期の大群游が終りたる時は其沙泥中に最早「いとめ」なきに至る。

 精液及び卵を排泄したる「いとめ」の雌雄の體の長さ及び幅が著るしく減少し、約三分の一となる。以て其體内に以下に多くの生殖物を充たせるかを推測するに足る。雄蟲にして全體量二グラムのものが精液排泄後體重〇・六グラムに減じた。即ち精液一・四グラムに當る。次に雌蟲で體重三グラムのものが卵の排出量二・二グラム。體重〇・八グラムに減じた。大正六年東京灣に海嘯があつた。此年の十月、十一兩月の群游期に東京灣附近に「いとめ」群游が認められなかたつ大正十二年關東大震災の年にも「いとめ」の群游が現はれなかつた。これはボラ釣りの漁夫達も等しく認めたことであつた。

[やぶちゃん注:以下、本文途中に前段中の注を挟む。本文と区別するために、注の次の段落との間に一行空けた。

「大正六年東京灣に大海嘯があつた」「大海嘯」は「だいかいせう(だいかいしょう)」と読むが、普通は大津波のことを指すものの、この時のそれは台風襲来によって生じた高潮(気圧変異により海水面が異常上昇する現象)による大災害を指す。以下、北原糸子氏の「歴史の災害の中に見る教訓 大正6年(1917)東京湾台風が生み出した関東大震災対応策」(広報「消防基金」第一六四号・平成一九(二〇〇七)年七月発行・PDFファイル・当時の災害写真附)によれば、現在のほぼ山手線内側一帯と本所・深川を加えた地域が激しい被害を受け、死者は東京市で百十三人・負傷者五百七十三人・行方不明十三人・床下床上浸水七万軒以上で、特に京橋区と深川区が一丈(三メートル)以上の「海嘯」に襲われて、京橋で二十四人、深川で七十九人と、この二区に死者が集中した。家屋全潰・半潰・破損などの被害は京橋・小石川・本所などが三千軒以上、また、浅草・深川などの東京東部の低地帯は言うに及ばず、芝・赤坂・牛込など台地上にあると考えられがちな東京西部でも被害を受けているとあり、新田氏のおられた木場関連では、『この災害では、深川木場の材木が砂村の方へ流れ、これにあたっての犠牲者が出たという』とある。この時の「木場の赤ひげ先生」の奮戦のさまがやはり私には眼に浮かぶようだ。]

 

 「いとめ」は同一場所に於ける群游第一日には其數少く第二日にはそれより多く、第三日には大群游をなすと云ふ順序が普通である、又冷静なる夜間より曇温なる夜間に群游數多きは統計に照して明かである。

 又同一場所に於ての大群游は一回にして其他の群游日には數が少ないのが普通である。

 バチが光線を厭ふ理由は強き光線によつて雌が變色するのは卵の生存に對する不利を防がん爲の順応機能に外ならぬのであらう。又日中に浮ぶ時は他の動物に捕食せらるること暗中に於けるよりも甚だしく、爲めに蕃殖をさまたげらるゝが故に日中を厭ふと云ふことも理由の一つであらう。實驗上室内に於て(直射せざる光線中に於て)受胎發育するを見るも、光線が必ずしもバチの生存及び受胎に不利でないことは明かである。

[やぶちゃん注:捕食圧が高まるという外的な理由は納得出来るが、雌雄で色が異なることはこれではよく説明出来ないように思われる。この大群泳生殖では生殖行為そのものに♀♂が色彩上異なっていることで相互に識別される意味は認められないように私は思う。とすれば理由は何だろう? 一つ考えたのは、緑色は紫外線をよくカットするが、イトメの卵巣がここで淡黄色を呈しているのは体温を上昇させずに紫外線をカットする黄色の持つ効果と関係があるか?  なお、以下の段落では新田氏はイトメには進化の過程で獲得した負の走光性が備わっていると述べてもおられる。

 

 バチの浮游時にはボラ其他の魚類が最も盛んに河口近くに進入群集してバチを喰はうと待ち構へて居る。故に敵の眠るとき或敵に發見せられざる時を撰ぶことがバチの生存及び蕃殖に必要ななる條件であらねばならぬ。ところでウナギ、ナマズ等外の魚類は多く宵の口に眠るものである。之れは著者の幼時よりの經驗である。此時には魚を握って捕へる事が出來る。

 バチが日光を見て逃ぐるは正しく心的作用を有する證と見ても差支あるまい。他の動物には保護色もあり防禦裝置もある。例へばアルマジロの如く鎧を着てゐるものがある。これは自然の必要と刺戟とによつて進化したものであらう。「いとめ」に於ては段々と生熟してバチとなるにつれて漸次眼が發達これも自然の必要に順應するのであらう。敵から逃れやうとする心的作用が無いとしても自然の必要條件に適すればこそ今日迄種族を存續させたことは明かである。

[やぶちゃん注:この新田氏の「心的作用」というのが、どうも今一つ、よく分からない。所謂、負の走光性をイトメは持つが、それは進化の過程で捕食圧の高い条件を排除するように変化した無意識的反射であるということか? どうも「心的」という語が私には馴染まないのである。]

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅲ)

        二 「いとめ」の生活要件

 「いとめ」は東京附近に於ては小松川、笠井、千住、及び深川方面の、淡水と海水との混交し易きところに生存する。これは後段に委しく述べるが「いとめ」の生存には河水に鹽分の含有することが極めて必要なる條件であるからである。

 先年四月及び五月の半頃「いとめ」を掘出しで見たことがあつた。ところが未成熟のものばかりで肉眼的には雌雄の別が困難であつた。同年の八月下旬に至つて發堀して見たところが雌雄の別が明瞭であつた。「いとめ」の未成熟のものは其長さ一定しゐないが通常二百乃至二百四五十ミリメートル、幅三四ミリメートルで、環節數二三百ある。成熟するに從つて新環節が增加する。

[やぶちゃん字注:「發堀」はママ。]

 

《大正十四年十月五日採集せる「いとめの」種類》

Itome2

《A、日光にあたりて變色せる雌蟲

 B、矢バチと稱するもの

 C及びD、まだ「バチ」にならぬ「いとめ」

 F、後體部の離斷せられしもの

 G、雌  蟲

 H、雄  蟲》

[やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」を用いた。以上の「C及びD」の後には読点がないが補った。]

 

「いとめ」は比較的淸潔にして引しまつた沙泥中に住んでゐる。即ち軟弱なドロドロしたキタない所には住まないやである。沙泥の引しまつてゐると云ふことは漲潮時及び落潮時に流されざることゝ、「いとめ」が成熟してバチとなり自然に前後兩體に區分せられんとする際、後體部を引きちぎるに必要なる條件と見るべきであらう。後體を引きちぎる時は前體部をグルグル回轉して切るのであるから、此場合沙泥が引きしまつてゐなければ甚だ困難な仕事である。尤も後體部がチギレずに浮游するものも稀にはある。漁夫等は之を「矢バチ」と呼んでゐる。

 九月以後に於て「いとめ」が成熟して所謂バチと稱せらるゝに至れば雌は帶黄色となる。若し日光に當る時は淡綠色に變ずる。これは皮膚の變色ではなく、卵子の變色である。俗に之を「風を引く」と云つてゐるが、之は再び暗室に入るゝも元の帶黄色の還ることはない。

 成熟したる雄蟲は淡紅白色であるが、之も亦皮膚の色にあらずして精蟲の色である。惟は日光に當るも更に變色しない。

[やぶちゃん注:最終段落の冒頭は一字下げがないが、補った。

「笠井」これは他の地域名の位置から考えて現在の荒川右岸の江戸川区南部の現在の葛西臨海水族園の北部分一帯を包括する呼称「葛西」であろう。東葛西では旧江戸川に接している。但し、「笠井」という漢字表記はその由来である葛飾郡の西で、古くから「葛西」と書いたから、これは作者の誤り(新田氏は岐阜出身で江戸っ子ではない)の可能性も考えられる。]

2015/02/14

明日

明日もまた梅を見に行き、修善寺に泊るによって――我58歳――では……随分御機嫌よう――

恋は

 
恋は火と同じように絶えず揺れ動いてこそ保たれる。
 
期待したり、恐れなくなったりしたら、もうお終いだ。
 
                                      ――ラ・ロシュフコー――

ドイツ語訳をツイッターのωさんが全訳して下さった!

先の論文のドイツ語の訳は、ツイッターでフォローさせて戴いているωさんが全訳をして下さった!

感謝感激である!
その感懐の仔細は述べぬが、私は激しく感動しているのである!
ともかくも「木場の赤ひげ先生」を今一度、この淋しい今の世に蘇らせることに、僕が逢ったこともないωさんが、かくも協力して下さったことに深い感銘を覚えているのである!
僕はこれこそが真に――ユビキタス――神ハ遍在セリ――というのである――と痛感したのである。

本日終日閉店

本日 文楽にて終日閉店致します。 心朽窩主人軽薄敬白

2015/02/13

僕は

僕は誰をも愛したいのに……僕を愛してくれる人と言葉が繋がらない……何と哀しいことだろう…………

耳囊 卷之十 井手蛙うたの事

 

 井手蛙うたの事

 

 飯田町火消與力に福原左近兵衞といへるあり。夫婦とも和歌の道を嗜み、折節はしるどし會集して歌よみけるが、或年上方より井手の蛙(かはづ)なりとて、はるばる贈越(おくりこ)しけるを夫婦とも嬉しみ寵愛して、其鳴(なく)事を待(まち)しに、來春になれど聲を不出(いださず)。集會の節などこれを取出(とりいだ)し、まろふどにも吹聽してけれど聲は出さざりければ、其妻本意(ほい)なき事におもひ、かく憐(あはれ)み育(はごくみ)するに聲を出さゞる事、いかにしてもうらめしきといひて、夜も更(ふけ)ぬれば臥所(ふしど)に臥しぬ。然るに其妻の夢に蛙來りて、一首の歌を書(かき)てさし置(おき)ぬ。彼(かの)女夢心に右歌をよく覺えて、あけの日おつとにも語り、外々(ほかほか)へ咄しけるとなり。

  すみなれし井出の川邊の名殘をもわすれてこゝに水ぐきの跡 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。和歌技芸譚+変格異類夢告譚である。無風流を承知で言えば、カエルの♀の咽喉部には発声器官としての鳴き袋、鳴嚢(めいのう)が存在しないために鳴かないから、これは♀だったわけだが、そうした事実を逆に風流に話し換えるところが和歌俳諧の妙味というところなのであろう。しかし正直なんだかなって感じの話柄である。特に「……いかにしてもうらめしきといひて、夜も更ぬれば臥所に臥しぬ」という、不自然さを糊塗しようとするが故の如何にもかったるい描写部分は、作話者に残念ながら、あまり才能がないことを露呈しているとも言える気がする。和歌の方も蛙の啼き声ほどにはちっとも響いてこないのである。

・「井手蛙」「ゐでのかはづ」と読む。歌枕である京の井手(現在の京都府綴喜郡井手町)を流れる玉川(木津川支流)に棲む蛙。井手は湧水の豊かな土地柄で「井手の玉水」と呼ばれて名高く、山吹とともに、そこで鳴く蛙も好んで和歌に詠み込まれた。

     題しらず      よみ人しらず

  蛙(かはづ)なく井手の山吹ちりにけり花のさかりに逢はましものを(「古今和歌集」)

 

     いかはづをよめる  良暹法師

  みがくれてすだく蛙のもろ聲にさわぎぞわたる井手の浮草(長久二(一〇四一)年「弘徽殿女御御家歌合」。「後拾遺和歌集」では「池の浮草」とする)

               藤原基俊

  山吹の花咲きにけり川づなく井手の里人いまやとはまし(「千載和歌集」)

 

     堀川院の御時、肥後が家によき
     山吹ありと聞こしめして、召し
     たりければたてまつるとて結び
     つけて侍りける   二條太皇太后宮肥後

  九重に八重山吹をうつしては井手の蛙の心をぞくむ

 

この本文の蛙の和歌は、この最後の肥後の、内裏に移した八重山吹を惜しんで鳴く井手の蛙の声を、逆手にとってインスパイアしたもののように私には感じられる。なお、私の「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」の注なども参照されたい。因みに、知られた芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の伝説に――芭蕉がこの句の上五を附けるのに悩むのを見た弟子の晋子其角が「山吹や」と提案したところが芭蕉は肯んぜず結果「古池や」と決した――という話があるが、これはまさにこうした歌枕井手によって定式化されてしまっていた「蛙」と「山吹」の如何にもな歌語としてのマッチングを芭蕉が意識的に排除したという図式に基づくのである。

・「飯田町」現在の飯田橋一帯の旧称。天正一八(一五九〇)年に開府前の江戸で徳川家康にこの地域を案内したのが土地の長老飯田喜兵衛なる人物で、家康はその功を称えて一帯を「飯田町」と命名した、とウィキの「飯田橋」にある。

・「本意本心・真意、或いは、元来の考え・本来の意志・本懐・本望の意で、ここは表向き、もともとの望み・期待の謂いでよいが、実は別に和歌や連歌俳諧に於いては「本意」で、物の本質・在り方・情趣・対象の美的本性を意味する一種の歌語でもあったから、ここではそれをも通うわせるように選ばれている語であろう。

・「すみなれし井出の川邊の名殘をもわすれてこゝに水ぐきの跡」は、

  すみなれし いでのかはべの なごりをも わすれてここに みづぐきのあと

で「すみ」「すれ」は「水ぐき(水茎)」(墨痕)の縁語で、「川邊」からは逆に「なごり(余波)」「水茎」が縁語となり、しかもその「水茎」が川波寄せる「水草」を連想させて墨痕の意の掛詞となっている。また、鳴くことを忘れた蛙(かわず)が夢の中で無言のままに感懐の一首を筆で認(したた)めて妻女に詫びたという全体のシチュエーションの面白さも狙っていよう(和歌嫌いの私は一向に面白いとは思わないが)。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 井手(いで)の蛙(かわず)の和歌の事 

 

 飯田町の火消与力に福原左近兵衛(さこんひょうえ)と申す者がおる。

 夫婦(めおと)とも和歌の道を嗜(たしな)み、折を見てはよぅ、知れる者どもと会集なしては歌を詠んで御座った。

 ある年のこと、上方より、

――井手の蛙(かわず)にて御座る――

と文を添えて、遙々、活ける蛙(かわず)が一匹、これ、贈り寄越されて参ったによって、夫婦(めおと)とも、和歌で知られた「井手の蛙(かわず)」と、殊の外に悦び、大切に寵愛して、その鳴くを、これ、心待ちに待って御座ったと申す。

 ところが、翌年の春になれど、これ、一向に――鳴かぬ。

 和歌の寄り合いの席などにても、好んで、この蛙(かわず)を皆に披露なし、訪人(まろうど)にも、これ、しきりに、

「……これぞ、かの――井手の蛙(かわず)――にて御座る。」

と、吹聴致いたけれども、これやはり――一向に――鳴かぬ。

 されば、かの左近兵衛が妻、いかにも残念なことと思い、

「……かくも大事大事に……慈しんで……育んで……参ったに……鳴き声を立てざること……これ何とも……恨めしいぃ……」

と、夫に愚痴を申したと申す。

 さてもその日、夜も更けて臥所(ふしど)に臥した……ところが……その夜の、その妻が夢に、

――かの蛙

――これ

――来たって

――一首の和歌を

――短冊に認(したた)め

――これを妻女に

――さし出だいた……と見て……目の醒めた。……

 それでも、この妻女、夢心ちにも、その折りの短冊に、さらさらと、しるして御座った和歌を、これ、よぅく覚えて御座ったによって、翌朝すぐ、夫(おっと)にもその不思議を語り、また、集える和歌仲間の者どもへも、これ、盛んに話して御座ったと申す。

 さても――その蛙(かはず)の詠んだる――和歌―― 

 

  すみなれし井出の川辺の名残りをもわすれてここに水ぐきの跡

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 長崎から神戸へ

M595
図―595

M596

図―596

 

 長崎は鼈甲細工で有名である。鼈甲の細工場を訪れたら面白かった。いかなる職であっても工人は床に坐るのであるが、ここでは前に述べた方法で坐らずに、トルコ人のように脚を交叉させて坐る(図595)。彼等が鼈甲の薄い板をこねたり溶解したりしてくっつけ合わせるらしいのには驚いた。彼等は巨大な鉄製のヤットコ鋏を火炉(図596)で熱して使用し、鼈甲板を押し合わせたり、屈曲したり、あるいは他の形をつくったりする。

[やぶちゃん注:私は日本伝統の鼈甲細工に危機を齎したワシントン条約に恨みがある。キューバは原料である海亀のタイマイの養殖に成功している。しかも鼈甲細工の技術は日本長崎の特異的な文化技術である。しかし日本はそれを買うことが出来ない。アメリカにとって不愉快なキューバと経済的に牽制をかけたい日本を同時に苦しめることが出来るのである。象牙のケースも基本的にこれと全く同じ構造である。南アフリカもロシアも象牙加工の超絶的技術を保持する日本に買ってもらいたいし、日本も咽喉から手が出るほど欲しい。しかし買えない。総てはワシントン条約である。アメリカが陰に陽に日本文化を締め付けている事実に我々は気づかねばならない。さらに言っておくなら、鼈甲細工の職人というのは、ここに出るようにずっと座業である。従って伝統的に下肢の不自由な方にとっては数少ない技術職であるという側面があった。ワシントン条約はそうした障碍者の生業さえも奪ったのである。皆、目覚めねばならない! 誰が誰を苛めているかにだ! 非科学的な捕鯨反対をぶち上げ、クソみたいな食文化侵害をし続け、太地町で老漁民を恫喝するようなオバカな見当違いはやめて、普天間のジュゴンを守りに行け! それが出来ないなら、お前らはエセ正義のアメリカのケチな手先に過ぎないと正体を明かすがいい!]

 

 長崎から神戸へ帰る途中、我々は再び下関海峡を通過し、低い家屋が長く立ち並ぶ下関村の沖に投錨した。ここの人々は外国人に対して非常に反感を持っていると聞いたが、数年前四つのキリスト教国の軍艦が残酷にも砲撃したことを思えば、それも当然である。我我は上陸し度いと思ったが、日本人の事務長に、外国人はめったに上陸しないといわれた。日本人がどこへ行っても丁寧であることに信頼している私は、私の旅券がこの場所は勿論地方さえも含んでおらぬにかかわらず、どうしても上陸しようと決心した。私は事務長に向って、干潮時に於るここの海岸を管見することは大学にとって極めて重大であると話した。そこで彼は私に、彼の小舟で岸まで行くことを許した。海岸を瞥見した私は、町の主要街路を歩き廻り、一軒ごとに店舗をのぞき込んだ。私には外国人が「有難からぬ人」であることが、すぐ判った。私は乱暴に取扱われはしなかったが、まったく相手にされなかったのである。子供達は、まるで私が悪魔ででもあるかの如く私から逃げ去り、一人の可愛い男の子は、私がたまりかねて頭を撫でると、嫌でたまらぬ外国人の愛撫を受けるのには、最大の勇気を必要とするとでもいった具合に、息を殺していた。

 

 神戸で我々は曳き網をする可く数日滞在し、私は数度田舎へ遠足をした。ホテルで私は、長崎で私に郵便物の大きな包みを持って来て呉れた英国砲艦の軍医に会った。我々は食事を共にし、彼は私の郵便物に関する詳細を聞かせてくれた。この砲艦が鹿児島に向けて長崎を出帆する時、司令官は郵便物が来たら鹿児島へ廻送するようにといい残した。鹿児島へ着くと、郵便物の大きな包が届いたが、陸路長崎へ送り返されたということであった。附近二百マイル以内に外国人がいるということを知らぬ彼等は、自然この郵便物が彼等にあてたものであると思った。彼等は長い間故郷から手紙を受取っていないので、皆、郵便にかつえていた。鹿児島からの帰途、彼等は郵便を途中で受取るべくある場所に立ち寄ったが、それはすでにその地を通過した後であった。翌朝、沿岸のもっと北の方で、司令官以下の士官達が船室にいた時、郵便物の包が艦上に持ち来たされ、彼等はみな大よろこびで,卓(テーブル)をかこみ、包を引き破った。司令官が宛名を読み上げた時、私の名前に投げられた言葉を聞いたならば、それは私の教育にはならなかっただろうと軍医がいった。それ等の言葉たるや、私を呪罵することから、一体こいつは誰なんだという質問にまで及んだ。一から十まで、私にあてた郵便だったのである!

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」は、モースの神戸到着は当地の英字新聞『コーベ・アドヴァタイザー』の六月九日号によれば、明治一二(一八七九)年六月七日とあるとする。

・「二百マイル」約三二二キロメートル。鹿児島―長崎間は一四三キロメートルで、この数値だと岩国辺りまで行ってしまう。モースには珍しい誇張表現であるが、この笑い話には距離はドンとあった方が面白い。]

昨夕は御雛様飾り

昨夕は御雛様飾りで過ごす。人形や御道具を修復しながらだったので(御殿附五段飾りで御箪笥や鏡・針箱・脇息・並び枕は明治末の作)、飾りつけだけで2時間もかかった。しかし、何度やっても好きやな、雛飾り。

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎 (Ⅱ)

 「いとめ」の浮游期間は潮時即ち月齡と密接なる關係がある。通例毎年十月及び十一月の朔望若しくはそれより二、三、四日の間に群游する。それが此二、三ケ月間に四回行はれるのである。然しながら往々九月に浮游することもあるが、之はまだ學者の注目するところとなってゐないやうである。即ち大正十四年の如きは九月の十九日、二十の二日間に渉りて「いとめ」の大群游があつた。

 著者の居所は深川の木場にあるを以て大正三年より「いとめ」の群游に着目し、木場の材木堀及支流に於ける「いとめ」の浮遊狀態につきて年々連續的に研究を重ね、遂に小松川、千住、其他の方面にも研究の歩を進めてゐた。凡そ天文及び氣象に關係ある研究は少くとも十餘年間の比較研鑽に俟つにあらざれば其周期的變化を審かにすること能はざる場合多きが如く思はるゝが故に、只管長年月の研究の結果に徹する考へなりしが、昨大正十四年十一月、日本醫專内科小兒科集談會に於て第一囘の報告をなし、又大正十五年四月四日大日本生理學會第五回例會に於て岡山醫科大学教授生沼曹六氏の「いとめ」の定期群游に就きての報告に際し對論及び追加をしておいた。其後他の學者の「いとめ」に關する一二に文献を目擊し、始めて他にも「いとめ」研究者のあることを知りて私かに學界のために之を喜ぶと同時に生物の生理と自然現象との關係につきて細心の注意を拂ふべきことを深く感じ、他の篤學者の參考にもと舊稿を出して世に問ふことゝした。普通の動物書にある説明は煩を厭ひて成るべく之を省き、專特種的研究成蹟のみを列擧することに注意し且つ二三の新しき意見をも附加しておく。

 因みに著者の深川木場に於ける研究室は東經一三九度四九分三〇秒北緯三五度三九分三八秒に近い。又月齡は東京天文臺編纂本曆による

[やぶちゃん注:最後の句点なしはママ。

「大正十四年の如きは九月の十九日、二十の二日間に渉りて「いとめ」の大群游があつた」この時の月齢は、

 9月19日 月齢〇・九 大潮

 九月20日 月齢一・九 大潮

であった。

「小松川」東京都江戸川区小松川。研究室のある新砂からは東北三キロメートルの荒川左岸。ここから荒川を凡そ十キロメートル遡った位置が足立区「千住」である。新田氏のイトメのフィールド・ワークが主に荒川流域で行われていたことが判明する。

「木場の材木堀及支流」は隅田川河口の旧木場で、恐らくここは、その後埋め立てられてしまった現在の木場公園周辺の運河及び流水域(現行で残る主流は仙台堀川)を言っているものと思われる。ここは新田氏の病院の北直近であった。現在の夢の島の荒川の河口に設けられた新木場が新たな木場となったのは昭和四五(一九六九)年のことである。

「大正十五年四月四日大日本生理學會第五回例會に於て岡山醫科大学教授生沼曹六氏の「いとめ」の定期群游に就きての報告」これが先の注で示した生沼曹六氏の論文『「いとめ」 Ceratocephale Osawai ノ定期的群游ニ就テという論文である。恐らくイトメ Tylorrhynchus heterochaetus の生殖群詠泳及びその月齢との科学的連関性を本格的に述べたものとしては、日本最初の学術論文であろうと思われる(但し、彼の恩師大澤謙二が初めてイトメの定期群游を学会に報告した旨の記載が同論文冒頭には一応ある。私は未見)。筆者の生沼曹六(おいぬまそうろく 明治九(一八七六)年~昭和一九(一九四四)年)は生理学者。石川生。第四高等学校医学部(現在の金沢大学医学部の前身)を卒業後、明治三二(一八九九)年に東京帝大医学部助手となり、日本生理学の祖とされる大沢謙二教授に師事、明治三九(一九〇六)年、東京慈恵医院医専教授、大正一一(一九二二)年に岡山医大教授となった。感覚生理と航空生理学の研究で業績を残したと、参照した講談社刊「日本人名大辞典」にある。……なお、この論文、字が掠れていて結構、読むのが辛い。……生沼曹六氏の著作権も消滅している……よし! こうなったら! 一つも二つも変わりゃあしねえ! この新田氏の電子化を終えたら、この生沼氏の当該論文の電子化に入ることと決する!

「私かに」「ひそかに」と訓ずる。

「深川木場に於ける研究室は東經一三九度四九分三〇秒北緯三五度三九分三八秒に近い」この位置を国土地理院の地図で調べると、これは後の新田氏の病院とは異なる位置である。少なくとも冒頭に注した通り、新築された三階建の新田医院は、後に作られる新田橋がその医院の裏手に当たるという叙述があることから、これは現在の木場駅の北直近である。ところが、この経緯度で地図を検索すると、医院の位置から西南西へ直線で二キロメートルの、現在の新砂(しんすな)二丁目、現在の夢の島(当時は無論ない)から北に砂町北運河を入った凡そ六百五十メートル入って左に直角に折れたバースの右岸(北岸)に相当する。現地を見た訳ではないが地図上から見ると、ここに新田氏が居を構えていたとは少し想像し難い。但し、直近に東京湾を臨み、しかも当時はすぐ東の荒川からの淡水の混じる汽水域であった推定出来るところから、イトメの観察には好条件であり、ここの漁師小屋などをイトメの研究室にしていたのではあるまいかと考えられる。]

愛する人に――Adagio after Marcello BWV974 ( piano transcription by Bach ) - Alexandre Tharaud

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎  (Ⅰ)

「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――   新田清三郎

 

[やぶちゃん注:以下は日本医学同窓会発行になる大正一五(一九二六)年十月十五日刊の新田清三郎著『いとめ」の生活と月齡との關係 「いとめ」精蟲及卵、竝に人類の精蟲電氣實驗に就きて』の全電子化である。

 「いとめ」は環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ超科ゴカイ科 Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus (本文注の学名とは異なる。それについては本文の私の注で考察してみたい)で、ここで主に語られる遊泳群体はバチと呼ばれ、特に最上クラスの釣り餌として知られるものである。本書はそのイトメの生活史と生態から説き起こし、天体現象である月齢とそのライフ・サイクル内の特異な生殖群泳現象の実在を証明せんとしたもので、後に同種の精子と卵子の電気泳導を含む実験の報告が附されてある。「人類の精蟲電氣實驗」ともあるが、その記載は実際には極僅かである。これは科学実験に於ける比較対照実験として配されているとまずは読めるが、発行団体の関係から医学論文の体裁をとる必要もあったのかも知れない。

 筆者の新田清三郎は恐らく、あみたん氏のブログ「門仲STYLE」の『「新田橋」と木場の赤ひげ先生』で語られる新田清三郎氏と同一人物である。一つは本作の著述の中で「著者の居所は深川の木場にある」とあること、同じく、ここに記した月齢と「いとめ」の群泳現象の関係性の研究の成果を前年に行われた「日本醫專内科小兒科集談會」の場で初めて行っていると述べていることから、木場で医師の新田清三郎という同姓同名同業者の確率は極めて低いと考えるからである。記事よれば、清三郎新田氏は岐阜生で、大正時代に上京して現在の江東区木場の地に医院を開業、『人望厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在で、町会長』も務めたとあった。その死は、昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲によって突然齎され、『新田医院に避難していた人たちも全員亡くなり、先生もその時に亡くなった』と記されてあった。

 そこでさらに調べると、庄司菊江氏の作になる「心がつたわる新田(にった)橋」(中野俊章氏・絵)というネット上で読める本に行き着いた。そこには、新田清三郎は明治一七(一八八四)年岐阜県加茂郡に生まれで、日本医専で医師の資格を得、後に東京帝国大学で医学博士の学位を受けたとあり、木場で開業、同地の町会長・警防団長・裁判所調停員・民生委員を務めたとある。本文によれば、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災の折りには、新田は押しかけてくる多くの負傷者のために自宅の畳を総て道路に出して敷きつめ、そこで治療に当ったが、地震後の火災が広がってきたため、傷病者と家族を連れて洲崎の埋立地へ逃れ、翌朝には彼の妻が辛くも持ち出してきた金で食料を調達、負傷者や避難民に分け与えたといったエピソードが綴られてある。新田はその後も木場で医院を続けたが、貧しい患者からは診察料をとらず、逆に「滋養のあるものを摂りなさい」と食物や金を渡し、さらには同郷の失業者や生活困難者を家に住まわせたりして、新田家の台所は火の車であったともある。また、昭和六(一九三一)年には地上三階地下一階屋上附きの当時としては珍しいコンクリート製の新医院を建てたが、自らはこれを「借金コンクリート」と呼んでいたという。ところがその年、夫妻で『帰省する途中で、列車事故に遭(あ)い、妻が亡く』なってしまう。『鉄道会社からは多額の弔慰金(ちょういきん)が支払われ、近隣住民からも香典が寄せられた』が、新田は医院の借金に苦しんでいたものの、『医院のために尽くし、自分を支え続けてくれた妻を偲んで、医院の裏を流れる大横川(旧大島川)に橋を架け』ようと決意し、これを元手に町内の募金も加え、翌昭和七(一九三二)年に橋が完成、木場の人々の生活の足となった。しかし昭和二〇(一九四五)年三月九日、警防団長として防災に務める一方、医師として負傷者の救護に当たっていたが、洲崎の掘割の付近で空襲に遇い、落命、享年六十と記されてある。戦火を潜り抜けて残った新田橋はその後平成になって全面改修されて今もある。

 この「木場の赤ひげ先生」の名はネットの他の記載でも確認され、事故で亡くなった最愛の妻の追善に架けた新田橋の話とともに随所に橋の画像とともに語られてある。まさに下町の仁者であったことが窺われる。

 なお、底本とした国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」の同書の書誌データに於いても『インターネット公開(保護期間満了)』とあるので著作権の消滅は間違いない。

 また以上の通り、国立国会図書館の以上の保護期間満了の標記があるので、同書に挿入されている各種写真(顕微鏡写真を含む)とそのキャプションも、テクスト・データの途中に総て配しておいた(昨年より以上の引用元を明記すれば国立国会図書館の著作権満了の画像データは許可を必要とせずに使用可能となっている)。

 この論文は題名からもお分かりの通り、完全な体裁を整えた学術論文で、本文(標題・奥付ページを含まず、図版ページを含め)十七ページ、縦書(途中に挿入される各種数値データ等の一部は横書)である。キャプションは《 》で挟み、一部に私の注を附した。

 

 さて、何故、私がこの電子化をするのか?

 一つは、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」内の好きな海産動物関係の画像データを渉猟しているうちに、たまたま昨日、本書を発見、その記載全体に私の食指が(というよりフリーキーな私の妖しい無脊椎動物的な好奇心の触手が)動いたこと、また、以前に私のものした『博物学古記録翻刻訳注 ■10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』で描かれてあったのと全く同じ、多毛綱ゴカイ類の仲間である『南洋に住む深海動物の一種なるパロロ蟲即ち Eunice viridis 』(Eunice viridis は斜体にはなっていない)にという記述を見つけて、思わず、心躍ったからではある。

 そうしてまた、その著者を調べるうち、それが愛妻家の「木場の赤ひげ先生」と慕われた素晴らしいお医者さんであったことを知り(私は実は医師になりたかったのである)……きっと、このバチ(イトメ)の群泳を楽しみにしていた、釣好きの先生だったんだろうなどと勝手に想像したりし……そして……関東大震災を体験され、あの十万人以上の死傷者を出した東京大空襲によって亡なられたということを知るに至って――俄然――これは私が電子化しなくてはならない――強く思ったから、なのである。【二〇一五年二月十二日始動】]

 

 

新田淸三郎著

 

「いとめ」の生活と月齡との關係

 附「いとめ」精蟲及卵、竝に人類の精蟲電氣實驗につきて

 

 

 

「いとめ」の生活と月齡との關係

 「いとめ」精蟲及卵、竝に人類の精蟲電氣實驗に就きて

 新田淸三郎 稿

目次

一、「いとめ」の群游

二、「いとめ」の生活要件

三、「いとめ」成熟時の活動狀態

四、食鹽水及び淡水による「いとめ」の精蟲及び卵の實驗

五、電氣による「いとめ」の精蟲と卵及び人類の精蟲に關する實驗

六、結論

 

一 「いとめ」の群游

「いとめ」Ceratocephale Osawai は日本に特産する環形動物 Annelida 中の毛足類 Chaetopoda 多毛目 Polychaeta の「ごかい」科 Lysoride に屬する蟲で、幼時は水中に浮游し間もなく水底の沙泥中に潜匿して棲息し、成熟さうれば體の前半部即ち生殖物の充滿する部分が、後體部を脱落せしめて、浮遊と生殖物排泄とに都合よき狀態となり、毎年一定の期間に水面に浮かび出で、大群游をなして盛んなる生殖作用を行ふ。漁夫等は之を「バチが拔ける」と稱してゐる。バチとは「いとめ」の成熟したものを指す俗名である。

Itome1

《「いとめ」成熟して「バチ」となり、生殖の爲に盛んに群游する光景   著者撮影》

やぶちゃん注:画像は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ―」を補正して示した写真上部中央から右手にかけてある四角い痕跡は、前頁の国立国会図書の蔵書印が透けたものである。]

 

[やぶちゃん注:以下、生物の学名は底本では一貫して斜体になっていない。

『「いとめ」Ceratocephale Osawai は日本に特産する環形動物 Annelida 中の毛足類 Chaetopoda 多毛目 Polychaeta の「ごかい」科 Lysoride に屬する蟲』冒頭注で記した通り、現在の「イトメ」は、

 

環形動物門 Annelida 多毛綱 Polychaeta サシバゴカイ目 Phyllodocidaゴカイ亜目 Nereidiformiaゴカイ超科 Nereidoidea ゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

 

で、目以下が激しく異なっている。以下、細かく見る。

・「Chaetopoda」は現在は正式な分類タクソンではなく、恐らくは博物学時代からの続くゴカイやイバラカンザシなどを含む多様性の高い総称分類名で、一般に「ゴカイ類」と呼ぶ謂い方と等しいものと判断される。辞書類では新田氏の叙述されるように「毛足類」(「けあしるい」と読んでいるようである)と訳されて載る。所謂、多毛類(現行の正式タクソンの多毛綱 Polychaeta に属する生物)は、胴部の体節の側面から突出する肉質の付属肢である一対の疣足(いぼあし)を持ち(但し、退化している種もある)、爪はないが、剛毛束があって、これを運動に使うことから、「毛足類」と呼んだものと思われる。但し、新田氏の記載の仕方からは当時は現在の「多毛綱 Polychaeta」の相当タクソンを「毛足類 Chaetopoda」と呼び慣わしていた節が窺われる。

・「多毛目 Polychaeta」実は現在の(ということはそれ以前から)国際動物命名規約には、上科から亜族までは使用すべき語尾が指定されているものの、それより上位の分類群名に対しての統一語尾の規定は存在しない(藻類・菌類・植物命名規約は異なり、規定があるものが多いので注意)。そこから分かるようにこれが現在の「多毛綱」と綴りが同じでも実は、異様なことではない。恐らく、新田氏がこれを書いた前後か、そう遠くない時点で環形動物の綱( classis )以下の分類が大きく変わったものと思われる。当然のことであるが、「Polychaeta」は現在、「多毛綱」であり、「多毛綱」には当然「Polychaeta」という「目」はないし、和名の「多毛目」という「目」も存在しない。ウィキの「多毛類」(これは実質上の多毛綱の記載)を見ると、『多毛綱は1960年代ごろまでは、固着性の定在目 Sedentariaと自由生活をする遊在目 Errantiaの2目に分類されていたが、この分類法は従来から人為的な側面が強いと指摘されていた。その後、口器の形状、剛毛や疣足の構造などからScolecidaCanalipalpataAciculataの3群に分ける分類が提唱されたが、分子系統解析によってこれらも多系統群であることが分かっている。現在、かつてのSedentariaErrantiaの2群に分ける分類法に、系統解析により得られたデータによる修正を加えた分類が提案されている』とあって、定在目と遊在目の分類は私などは非常に慣れ親しんでしまった目分類なのであるが(実際、つい口にしてしまう)、本多毛類の分類は今も頗る流動的であることが分かる。

『「ごかい」科 Lysoride』不詳。ネット検索ではたった一つしか検索に掛からず、しかもラテン語原書なので意味不明。さらに気になるのは語尾で、国際動物命名規約では科は原則、「-idae」でなくてはならない。識者の御教授を乞うものである。

Ceratocephale Osawai」検索を掛けると、明治以降昭和初期までの「イトメ」に関わる複数の邦人の学術論文(英文を含む)に、この綴りで「イトメ」の学名として記載がある。例えば、大正一四(一九二五)年のクレジットを持つ岡山医科大学生理学教室所属の生沼曹六氏の論文『「いとめ」 Ceratocephale Osawai ノ定期的群游ニ就テ』(PDFファイル)などがそれである(これも学名を斜体化していない。どうもこの頃は学名斜体化というコンセンサスが未だとられていなかったようである。なお、この人物と発表の内容は後で新田氏の本文に登場する)。少なくともこの頃は「イトメ」はこの Ceratocephale Osawai に同定されていたものらしい(Ceratocephala Osawai と綴るものもある)。私が管見し得た「イトメ」に関する古屋康則・恩地理恵・古田陽子・山内克典名義の学術論文「イトメ Tylorrhynchus heterochaetus(環形動物:多毛類)の人工受精法および発生過程の観察」(岐阜大学教育学部研究報告(自然科学)第27巻第2号・85―94・2003年3月)(PDFファイル)でも標題や本文にかくあり、私が最も愛用する保育社の内海富士夫著「原色日本海岸動物図鑑」(昭和五一(一九七六)年刊)でもイトメは Tylorrhynchus heterochaetus である(不思議なことに最新の同社の大著西村三郎編「原色検索日本海岸動物図鑑」にはイトメが単独項目として載らない。頗る不審)。但し、「第21回海洋工学シンポジウム」(二〇〇九年八月六/七日開催)の日本海洋工学会・日本船舶海洋工学会の「羽田空港再拡張工事に伴う環境アセスメント調査で明らかにされた環形動物多毛類の多様性」(西他十一名の連名論文)では他に東京湾羽田沖で採取された「イトメ」を Tylorrhynchus osawai (Izuka, 1903) と記載してあり(ネット上からPDFファイルでダウンロード可能)、他に、「海岸地域の無脊椎動物類」という相応に新しい学術用エクセル・ファイル・データ(ネット上からダウンロード可能。但し、製作年次不詳)にも「イトメ」をTylorrhynchus osawai (Izuka, 1903) とするものを発見したが、やっとこちらの英文の海洋生物種データベースによって、これがTylorrhynchus heterochaetusのシノニムであることが判明した。されば私はここでは取り敢えず Tylorrhynchus heterochaetus 現在のイトメの学名として使用することとする。

 以下、その内海版「原色日本海岸動物図鑑」のイトメの記載を以下に引用しておく(図示記号を省略し、「堀」を「掘」に訂した)。

   《引用開始》

イトメ Tylorrhynchus heterochaetus  (Quarefages) Nereidae

 環節数は300近く、前方は青褐色で、後方に進むにつれて紅味をます。まだ成熟しないものはイトメと呼ばれ本邦各地の海辺、河口あるいは汽水湖の泥の中にすむ。成熟期に達すると、水面に出て群泳する。この時期のものはバチと呼ばれ、雄は淡紅色、雌は淡黄色を呈し日光にあたると緑色にかわる。東京付近では、バチの群泳は10月~11月の間の4回の大潮時に起こる。群泳の際は全長の約2/3後方が失われる。バチが泳ぎ出たあとの泥を掘ると、前方節を失った虫、いわゆるホリバチが得られる。共に釣餌として最上。分布:本州の北部よりインドシナに及ぶ。

   《引用終了》

 参考のために、先に示した古屋康則・恩地理恵・古田陽子・山内克典「イトメ Tylorrhynchus heterochaetus(環形動物:多毛類)の人工受精法および発生過程の観察」の冒頭記載も示しておく(一部のピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 イトメ Tylorrhynchus heterochaetus は環形動物門、多毛綱に属するゴカイ類の一種で、日本各地の河川下流の汽水域の砂泥中に生息している。本種は極めて顕著な月齢周期性を持った生殖群泳を行い(Izuka,1903;山本,1947;Okada,1950)、旧暦の10月および11月の新月および満月の日に続く3日の日没後の満潮すぎの時刻に、生殖型(体の前方約1/3がちぎれて遊泳型になったもの)となった個体が無数に水面に浮き上がり、海域へと遊泳しながら流されてゆく。これらの生殖型個体の体内には生殖細胞が充満しており、やがて海域で放精・放卵を行うと考えられている。

   《引用終了》

 グーグル画像検索「Tylorrhynchus heterochaetusをリンクしておくが、ワーム系に免疫のない方は見ない方がよろしいかとは存ずる。結構――きます。少々キツいと想像される方は単品画像の「河川・水辺の生物図鑑 底生動物 イトメ」でやめておきましょう。

 

 なお、多毛類の概説はウィキの「多毛類」が比較的簡潔によく書けてあるのでそちらを参照されるのがよいと思うが、他に私の「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ゴカイの横分裂」をお読み頂くのも有益かと思われる(ここで主題となっている生殖群泳の注記もしてある)。序でに、やはり以前に栗本丹洲栗氏千蟲譜 巻十(全)の「土蟀」(多毛綱 Polychaeta ゴカイ類。なお近年、単一種としてのゴカイという概念は修正されたため、サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属ヤマトカワゴカイ Hediste diadroma 、又はヒメヤマトカワゴカイ Hediste atoka 、又はアリアケカワゴカイ Hediste japonica (これが旧来の和名「ゴカイ」の学名であった)が狭義の「ゴカイ」の種となる)の私の注に附した、廣川書店平成六(一九九四)年刊の永井彰監訳 Thomas M.Niesen The MARINE BIOLOGY COLORING BOOK ”「カラースケッチ 海洋生物学」の「海産環形動物:多毛類」のレジュメと私が二十数年前に彩色した図も以下に掲げてゴカイ類の生態を示しておく。

Gokai1


Gokai2

2015/02/12

耳嚢 巻之十 白髮明神社の事

 白髮明神社の事

 

 東海道の裏通(うらどほり)に白髮明神あり。いかにも古き社堂にて、しらひげ明神の舊跡等、其邊に名を殘す事あり。然るに中(なかむかし)昔の事なる由、時の領主や、また其土地の義民の好事(かうず)にや、かゝる舊地の額は、天下萬代に名ある名筆の書(かか)ん事を求めしが、餘りに右の心の甚しき故に、行成卿の筆の舊物を搜し合(あひ)て、白大明神の四字は、彼(かの)卿の眞筆を模寫しぬ。髭の一字を多年求め搜せども得ず。或彫工(てうこう)にや、求め得しとて受合(うけあひ)、彫刻せしに、白髮の二字、髭を髮と誤りしを其儘に今用ひて、土俗は白髮明神とも尊稱なす由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一見、トンデモ故実であるが、面白い。面白いが、そこで笑って終わらせる私ではない。ちゃんと以下で考証した。その結果、意外な事実が見えて来た! 実に面白い!

・「東海道の裏通に白髮明神あり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「裏通」は『裏道』となっており、しかも題名自体が『白髭明神社社號の事』、ここも『東海道の裏道に白髭の社あり』となっている。この方がネタばらしがなくてずっとよい。現代語訳は標題とこの冒頭部分のみ、敢えてバークレー校版で訳した。地名を出していないのは意識的確信犯と思われ、「東海道の裏通」で事実譚を匂わせておき乍ら、しかも当該対象を名指しすることによる他者の捏造批判や抗議を避けるという都市伝説にありがちな記載法であるとは言える。ここでは特に、一読すると、その神社と氏子及びその村落全体、ひいては土地の有力者やそこを信心した領主・豪族らが悉くどこか間抜けな印象を拭えず、話者の軽蔑・嘲笑の口吻がはっきりと含まれているように見え、特定するのはかえって憚られれると考えるのも自然ではある。

 但し、この叙述からは少なくとも「東海道の裏通」であること、「古き社」であること、「しらひげ明神」が正式名称であることからモデル(あくまで明神の位置的なモデルであって事実と言うのではないので注意されたい)を仮定することは可能である。そこでまずは考証を試みてみたい。

 現在、全国の白髭神社の根本社とされる近江琵琶湖西岸の白髭明神(比良明神)なら格式からは申し分ないものの、「東海道の裏通」ではないから除外される。東海道で幾つかの「しらひげ」明神を見てゆくと、一番これらの表現にしっくりくるのは、私にとっては、現在、東海道本線二宮駅の西北二・七キロメートル、小田原厚木道路と東海道新幹線の間の中間点(これは「東海道の裏通」と言える)にある、神奈川県小田原市小船の白髭神社であった。旧社格は郷社(村社)で、祭神は猿田彦(別名・白髭明神)である。ウィキの「白髭神社 (小田原市)によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『奈良時代、行基菩薩が東国行脚の際、当地小竹山頂に地蔵堂を建立したという。平安時代、伊勢神宮の神官広瀬入道実応がその地蔵堂に信宿し、白鬚の神の霊夢を感じて九寸五分の御神像を奉彫し社殿を造営、元慶元年(八七七年)九月九日に鎮座祭を行なったのが当社の起源とされて』おり、「古き社」という条件をしっかり満たしている。また、『その後鎌倉時代の初め、現宮司の祖嵯峨源氏松浦四郎入道綱泰が、近江国滋賀郡にて白鬚の神夢をさとった。そして相模国中村郷の当社をたずね、時の豪族中村公を本願として、社殿、楼門、本地堂等を再建し、中村社の社号と郡中惣社の称号を受けたとされる。建久元年(一一九〇年)源頼朝より神領六町歩を寄進され、以後足利尊氏・北条早雲など武将の尊信が篤かった』とあって、これも「時の領主や」「土地の義民」が「かゝる舊地の額は、天下萬代に名ある名筆の書ん事を求め」たという叙述としっくりくる(繰り返すが、そのように附合して読めると言っているのであって本話を事実と断じているのではない)。以下、『応永二十三年(一四一六年)兵火に罹り社殿を焼失、塔の山に遷ったが、天正十八年(一五九〇年)再度兵火に罹り現在地に三遷した』。なお、ここに『三遷』とあるものの、旧地である相模国中村郷というのは現在の神奈川県小田原市東端部から足柄上郡中井町西部に及ぶ広域である。但し、この経緯から見ても、そんなに恐ろしく遠くかけ離れた場所から遷することは考え難い。寧ろ、旧二地はより江戸時代の東海道からは内陸に入った地であった――村落の拡充と有力者の信仰対象となって行くことによって東海道に近い位置に動いてきた――と考えて不自然ではない。されば、旧二地はより「東海道の裏通」的位置にあったと考えてよいのではなかろうか? さらに言えば、本話の「しらひげ明神の舊跡等、其邊に名を殘す事あり」というのはまさに、現在の社の近くにある、この旧二地の旧跡を指すと考えると如何にも自然に読めるではないか!)『明治六年(一八七三年)郷社に列し』た。『なお、当社で毎年一月七日の日の出とともに行われる奉射祭』(ほうしゃさい:年頭にあたって邪気や陰気を祓い陽気を迎える神事。)『は、五穀豊穣を祈る新年の行事として近郷に広く知られており、古式を伝える神事として小田原市の無形民俗文化財に指定されている』とあって格式に於いても申し分ない旧社である(笑いの要素は格式が高いほど高まる。この話の捏造者はそこをちゃんと考えている節が濃厚とも言える)。

 ところが、なのである。

 実は「しらひげ明神」の「しらひげ」は「白髭」「白鬚」は勿論、本文で笑い飛ばしているところの「白髮」とも書くのである。歴史探求社公式サイト「古代史探究館」の高麗若光氏の「白ひげさんの伝説」は、埼玉県下の日高市を中心に、その周縁の川越市・狭山市・入間市・飯能市などには実に約三十社もの「白ひげ」と呼ばれる神社が点在しており、それを考察した素晴らしい論であるが、そこに『白鬚神社は、白鬚、白髭、そして白髪と書いて、全て地元では「しらひげ」と呼ばれています。字は後から充てられたものだと思いますが、隣接する神社を区別するために字で分けたのではないでしょうか』(下線やぶちゃん)とあって、付図を見ると、確かに「白髪」神社が二箇所存在していることが分かるのである。

 さらに検索をかけると、出るわ、出るわ、地名で「白髪(しらひげ)」(宮城県仙台市青葉区大倉字横川の大倉川の雨量観測所の正式名)愛媛県大洲市喜多山にある猿田彦を祀る「白髪(しらひげ)神社」……。だいたいからして、ちょっと考えれば、「髭を髮と誤りしを其儘に今用ひて」いるなどということ自体が、ありえない。そもそも領主や富農なら、大枚かかっても彫り直しさせるに決まってるんである。

 この話柄も実はそうした「白髭」を「白髮」とも書いた故実を知らぬ馬鹿者が(私も実はそうであった)、凡夫の浅知恵で軽率に笑い話として広めた、というのが真相のような気がしてきたのである。――他者をことさらに侮って笑う話をしたがる輩は――実は自身が笑われる存在に堕しているということを全く理解していない――SNSにはそういう輩が雲霞の如くいる……

・「義民」民衆社会の正義と幸福のために一身を犠牲にした者。特に江戸時代に於いての謂い。但し、ここは直後に「好事」(ここでは風流を表に、裏では物好きな、といという謂いをも批判的に込めている)とあって、単なる土地の富農のニュアンスである。

・「行成」公卿で書家としてしられた藤原行成(ゆきなり/こうぜい 天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)。正二位権大納言。小野道風・王羲之を学んで、和様書道を完成、彼の書道は後に世尊寺流と呼ばれて和様の主流を成すに至った。その筆蹟を権蹟(ごんせき)という。小野道風・藤原佐理(すけまさ)と並ぶ三蹟の一人。遺墨に「白氏詩巻」他、多数。因みに、彼の日記「権記」は当時の宮中を知る貴重な一次史料である。

 

■やぶちゃん現代語訳(標題と冒頭部は注を参照のこと)

 

 白髭(しらひげ)明神社の事

 

 東海道の裏通りに白髭明神と申す祠(やしろ)が御座る。

 いかにも古き社堂にて、ここに移って参る前の「しらひげ明神」の旧跡と称する古き地所なども、これ、その辺りに幾つか残しおる古き祠で御座った。

 しかるに、一(ひと)時代前のこととか、時の領主であったか、または、その土地の豪家(ごうけ)の物好きの風流人ででもあったか、

「――かかる古き由緒の祠の額は、これ、天(あめ)の下万代(よろずよ)に名のある名筆の書かれんこそ、よろし!――」

とこれを求めん致いたが、あまりにその心のはなはだしかったがゆえに、遂に、かの藤原行成(ゆきなり)卿の水茎(みずくき)の古き痕(あと)を捜し当てて、

――「白」「大」「明」「神」

の四字は、これ、かの行成卿の真筆を模写さすること、これ、出来て御座った。

 ところが、

――「髭」

の一字、これ、多年求め捜せども、得られぬ。

 そんな折り、とある彫工(ちょうこう)で御座ったか、

「――かの『髭』の権跡(ごんせき)、これ、求め得て――御座る。――」

と請け合(お)うたによって、かの額を造らんと致いて御座った者、殊の外に喜悦なして、即座に字をも検(あらた)むることもせずに、直ちに彫刻させた。……ところが……出来上がった豪華な扁額を、これ、見てみたところが……

――「白髭」

の二字、

――「白髮」

とあって……何とまあ……「髭」を「髮」と誤って――金粉を用いたる高価なる額の――すっかり出来上がって、しもうて御座った、と申す。……

 

「……されば、仕方のぅ、それをそのまま今に用いて、その在(ざい)の辺りにては、「白髭明神」とは別に、これ「白髪明神」とも尊称なしておる、との由にて御座った。……」

と、さる御仁の語って御座った。

2015/02/11

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅳ)

 

十月十四日、ヴエランダにて  

 ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。]は少し寐られなかつた。さうして寐られぬまま、仕事のことを考へてゐるうちに、だんだんいくぢがなくなつてしまつた。もう天平時代の小說などを工夫するのは止めた方がいいやうな氣がしてきた。每日、かうして大和の古い村や寺などを見てゐたからつて、おいそれとすぐそれが天平時代そのままの姿をして僕の中に蘇つてくれるわけはないのだもの。それには、もうすこし僕は自分の土臺をちやんとしておかなくては。古代の人々の生活の狀態なんぞについて、いまみたいにほんの少ししか、それも殆ど切れ切れにしか知つていないやうでは、その上で仕事をするのがあぶなつかしくつてしようがない。それは、ここ數年、何かと自分の心をそちらに向けて勉强してきたこともしてきた。だが、あんな勉强のしかたでは、まだまだ駄目なことが、いま、かうやつてその仕事に實地にぶつかつて見て、はつきり分かつたといふものだ。ほんの小手しらべのやうな氣もちでとり上げようとした小さな仕事さへ、こんなに僕を手きびしくはねつけるのだ。僕はこのままそれに抵抗していても無駄だらう。いさぎよく引つ返して、勉强し直してきた方がいい。……

 そんな自棄ぎみな結論に達しながら、僕はやつと明け方になつてから寐入つた。

 それで、けさは大いに寐坊をして、髭も剃ずに、やつと朝の食事に間に合つた位だ。

 けふはいい秋日和だ。かういふすがすがしい氣分になると、又、元氣が出てきて、もう一日だけ、なんとか頑張つてやらうといふ氣になつた。やや寐不足のやうだが、小說なんぞ考へるのには、さういふ頭の狀態の方がかへつて幻覺的でいいこともある。

 どうも心細い事を云ひ初めたものだと、お前もこんな手紙を見ては氣が氣でないだらう。だが、もう少し辛抱をして、次ぎの手紙を待つてゐてくれ。何處でそれを書く事になるか、まだ僕にも分からない。……

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十月十四日(水曜)。] 

 

午後、秋篠寺にて  

 いま、秋篠寺(あきしのでら)といふ寺の、秋草のなかに寐そべつて、これを書いてゐる。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎藝天女(ぎげいてんによ)の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののやうな氣がせられて、わけてもお慕はしい。朱(あか)い髮をし、おほどかな御顏だけすつかり香にお灼(や)けになつて、右手を胸のあたりにもちあげて輕く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおつしやられさうな樣子をなすつてお立ちになつてゐられた。……

 此處はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしてゐるところがいい。さうしてこんな何氣ない御堂のなかに、ずつと昔から、かういふ匂ひの高い天女の像が身をひそませてゐてくだすつたのかとおもふと、本當にありがたい。

[やぶちゃん注:「秋篠寺」奈良市秋篠町、奈良市街地の北西、西大寺北方に位置する単立寺院。本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧善珠とされる。次に出る伎芸天立像と国宝の本堂で知られるが、保延元(一一三五)年に火災によって講堂以外の主要伽藍を焼失しており、現存する本堂も旧講堂の位置に建つものの、創建当時のものではなく鎌倉期に再建されたもので、金堂や東西両塔の跡などは雑木林となっている(以上は主にウィキの「秋篠寺」に拠る)。

「伎藝天女」グーグル画像検索「秋篠寺 伎芸天」。木造で像高二百六センチメートル、本堂仏壇の向かって左端に立っている。現在、重要文化財。ウィキの「秋篠寺」によれば、伝伎芸天立像とされて、『瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像である。頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和している。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明である』とある。

「おほどかな」おっとりしているさま。おおらかだ。鷹揚で物静かなさま。] 

 

夕方、西の京にて  

 秋篠(あきしの)の村はづれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた。

 もうすこし昔だと、もつと佗びしい村だつたらう。何か平安朝の小さな物語になら、その背景には打つてつけに見えるが、それだけに、此處もこんどの仕事には使へさうもないとあきらめ、ただ伎藝天女と共にした幸福なひとときをけふの收穫にして。僕はもう何をしようといふあてもなく、秋篠川に添うて步きながら、これを往けるところまで往つて見ようかと思つたりした。

 が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺(さいだいじ)驛に出たので、もうこれまでと思ひ切つて、奈良行の切符を買つたが、ふいと氣がかはつて郡山行の電車に乘り、西の京で下りた。

 西の京の驛を出て、藥師寺の方へ折れようとするとつつきに、小さな切符賣場を兼ねて、古瓦のかけらなどを店さきに竝べた、侘びしい骨董店がある。いつも通りすがりに、ちよつと氣になつて、その中をのぞいて見るのだが、まだ一ぺんもはいつて見たことがなかつた。が、けふその店の中に日があかるくさしこんでゐるのを見ると、ふいとその中にはひつてみる氣になつた。何か埴輪の土偶(でく)のやうなものでもあつたら欲しいと思つたのだが、そんなものでなくとも、なんでもよかつた。ただふいと何か仕事の手がかりになりさうなものがそんな店のがらくたの中にころがつてゐはすまいかといふ空賴みもあつたのだ。だが、そこで二十分ばかりねばつてみてゐたが、唐草文樣(からくさもやう)などの工合のいい古瓦のかけらの他にはこれといつて目ぼしいものも見あたらなかつた。なんぼなんでも、そんな古瓦など買つた日には重くつて、持てあますばかりだらうから、又こんど來ることにして、何も買はずに出た。

 裏山のかげになつて、もうここいらだけ眞先きに日がかげつてゐる。藥師寺の方へ向つてゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたつてゐる。

 荒れた池の傍をとほつて、講堂の裏から藥師寺にはひり、金堂や塔のまはりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪(さうりん)を見上げて、その水煙のなかに透(す)かし彫(ぼり)になつて一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まへられるだらうかと角度など工夫してみてゐた。が、その水煙のなかにさういふ天女を彫り込むやうな、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が拔けてゐることだと氣がついて、もう止める事にした。

 それから僕はもと來た道を引つ返し、すつかり日のかげつた築土(ついぢ)を北に向つて步いていつた。二三度、うしろをふりかへつてみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫いてゐた。

 裏門を過ぎると、すこし田圃があつて、そのまはりに黃いろい粗壁の農家が數軒かたまつてゐる。それが五條(ごでう)といふ床しい字名(あざな)の殘つてゐる小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしてゐたものと見える。

 もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どほりし、南大門も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら氣もちよげに流れてゐる小川にぢいつと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。

 それから僕は、東の方、そこいら一帶の田圃ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたつてゐるのが、手にとるやうに見えるところまで步いて往つてみた。

 僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考へ出しながら、すこし氣が鬱(ふさ)いで秋篠川にそうて步いてゐたが、急に首をふつてそんな考へを拂ひ落し、せつかくこちらに來てゐて隨分ばかばかしい事だと思ひながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはひつていつた。

 金堂(こんだう)も、講堂も、その他の建物も、まはりの松林とともに、すつかりもう陰つてしまつてゐた。さうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく殘して、軒も、柱も、扉も、一樣に灰ばんだ色をして沈んでゆかうとしてゐた。

 僕はそれでもよかつた。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じてゐられるだけでよかつた。僕はひとりで金堂の石段にあがつて、しばらくその吹(ふ)き放しの圓柱のかげを步きまはつてゐた。それからちよつとその扉の前に立つて、このまへ來たときはじめて氣がつゐたいくつかの美しい花文(くわもん)を夕暗のなかに搜して見た。最初はただそこいらが數箇所、何かが剝げてでもしまつた跡のやうな工合にしか見えないでゐたが、ぢいつと見てゐるうちに、自分がこのまへに見たものをそこにいま思ひ出してゐるのに過ぎないのか、それともそれが本當に見え出してきたのかどちらか、よく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおつと浮かび出してゐた。……

 それだけでも僕はよかつた。何もしないで、いま、ここにかうしてゐるだけでも、僕は大へん好い事をしてゐるやうな氣がした。だが、かうしてゐる事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまふ僕たち人間にとつて、いつまでも好いことではあり得ないことも分かつてゐた。

 僕はけふはもうこの位にして、此處を立ち去らうと思ひながら、最後にちよつとだけ人間の氣まぐれを許して貰ふやうに、圓柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の眞んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味ははうとした。僕はそのときふとその手を休めて、ぢつと一つところにそれを押しつけた。僕は異樣に心が躍つた。さうやつてみてゐると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ溫かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の溫かみがまだ消えやらずに殘つてゐるらしい。

 僕はそれから顏をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂ひまでもそこには幽かに殘つてゐた。……

 僕はさうやつて何んだか氣の遠くなるやうな數分を過ごしてゐたが、もうすつかり日が暮れてしまつたのに氣がつくと、やうやつと金堂から下りた。さうして僕はその儘、自分の何處かにまだ感ぜられてゐる異樣な溫かみと匂ひを何か貴重なもののやうにかかへながら、既に眞つ暗になりだしてゐる唐招提寺の門を、いかにもさりげない樣子をして立ち出でた。

 

[やぶちゃん注:以上で「十月」の「一」が終わる。

「秋篠川に添うて步きながら、これを往けるところまで往つて見ようかと思つたりした」「が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺驛に出た」推定ルートを実測してみると、辰雄は凡そ二キロメートルほど歩いている。

「侘びしい骨董店」「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編2」の探勝によれば、既に現存しない。

「裏山のかげになつて」現在の画像を見る限りでは、近畿橿原線の「西の京」駅付近には、夕陽を遮るような山が現認出来ない。現在の西方にある六条一帯が当時は丘状をなしていたものか?

「講堂の裏から藥師寺にはひり」西の京駅から東に向かうと、現在の薬師寺の観光用入場門である興楽門に行き着き、ここを入ると、まさに正しく「講堂の裏手」である。なお、」「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編2」によれば、この時、辰雄が実見した金堂や講堂は江戸後期に仮再建したもので、創建当時の伽藍は焼け残った東塔だけあったとある。第二次世界大戦後に同寺は順次再建がなされており、この時に辰雄が見た薬師寺の建物で現在残っているのは東塔のみである旨、記されてある。

「その水煙のなかにさういふ天女を彫り込むやうな、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が拔けてゐることだ」ここには辰雄の精一杯の世相批判が滲んでいるように私には思われる。この昭和一六(一六四一)年の五月には日本軍が重慶を爆撃し、七月二十八日、フランス領インドシナ南部に日本軍が進駐、九月二十八日にはサイゴンに上陸していた。この四日後の十月十八日には十六日の近衛内閣総辞職を受け、東條英機が内閣総理大臣となって東條内閣を組閣、二ヶ月後の十二月八日、遂に日本軍のマレー半島上陸及び真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発、日本は対米英に宣戦布告するのであった。

「裏門を過ぎると、すこし田圃があつて、そのまはりに黃いろい粗壁の農家が數軒かたまつてゐる。それが五條といふ床しい字名の殘つてゐる小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしてゐたものと見える」「裏門」とは先に示した現在の興楽門で、そこから北に真っ直ぐ唐招提寺に向かう道がある。唐招提寺の西南の角まで凡そ五百四十メートルほどで、このルートの中間地点から北部分が「五條」(現在の五条町)である。

「なんでもない木橋」前述の位置から真東に進むと、二百七十メートルほどで秋篠川にぶつかる。そこに架かるのは下極楽橋(しもごくらくばし)であるが、これか?

「それから僕は、東の方、そこいら一帶の田圃ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたつてゐるのが、手にとるやうに見えるところまで步いて往つてみた」先の下極楽橋から真東に七百メートルほどが現在の五条町の東域内である。

「裏手から唐招提寺の森のなかへはひつていつた」下極楽橋から北へ四十六メートルほど北上すると、左に折れて、唐招提寺の鎮守社水鏡天神社の南から唐招提寺に入るルートがある。

「僕はひとりで金堂の石段にあがつて、しばらくその吹き放しの圓柱のかげを步きまはつてゐた。それからちよつとその扉の前に立つて、このまへ來たときはじめて氣がつゐたいくつかの美しい花文を夕暗のなかに搜して見た。最初はただそこいらが數箇所、何かが剝げてでもしまつた跡のやうな工合にしか見えないでゐたが、ぢいつと見てゐるうちに、自分がこのまへに見たものをそこにいま思ひ出してゐるのに過ぎないのか、それともそれが本當に見え出してきたのかどちらか、よく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおつと浮かび出してゐた。……」「それだけでも僕はよかつた。何もしないで、いま、ここにかうしてゐるだけでも、僕は大へん好い事をしてゐるやうな氣がした。だが、かうしてゐる事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまふ僕たち人間にとつて、いつまでも好いことではあり得ないことも分かつてゐた」以下、この日の辰雄のクライマックスと言ってよい。これは十月十一日の記載を再度、同じ場所で同じ夕景の中に立ち昇らせる美しい孤愁の幻視シークエンスである。

「僕はけふはもうこの位にして、此處を立ち去らうと思ひながら、最後にちよつとだけ人間の氣まぐれを許して貰ふやうに、圓柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の眞んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味ははうとした。僕はそのときふとその手を休めて、ぢつと一つところにそれを押しつけた。僕は異樣に心が躍つた。さうやつてみてゐると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ溫かい。ほんのりと溫かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の溫かみがまだ消えやらずに殘つてゐるらしい」「僕はそれから顏をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂ひまでもそこには幽かに殘つてゐた。……」私は思うのだが、堀辰雄には稀に見る高雅なフェティシズムがあるように感じている。それはしかし、例えば同じ宿痾の詩人であった梶井基次郎の「檸檬」のような、病的な露悪的熱感とは無縁なもので、確かな人の肌の温もりにダイレクトに繋がる不思議な郷愁なのである。ここではそれが如何なく発揮されて、しかもその時空間を軽々と超えて行く辰雄の意識が、ここではそうした触覚のみならず、嗅覚としても意識されてくるという、全感覚的な幻視者の希有なエクスタシーとして読者に共感されるのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 天台山 附 長者窪

    ●天台山長者窪

天台山は瑞泉寺の北の高山(かうざん)をいふ。此山を天台山と號する事何れの代に名けセる號云事不知。記録もなく古老も知れる人なし。鎌倉志に云。按するに將軍家の屋敷よらは東北にて鬼門に當るゆゑに。京都の天台山に似て名けたる歟と。山上に登れは。金澤並(ならび)に東京まて見ゆるなり。山の北の谷に長者ケ窪と云所あり古事未考。

[やぶちゃん注:厳密には瑞泉寺前右脇から天園ハイキング・コースに入って貝吹地蔵の急坂を登った最初のピークを指し、標高一四一メートルで鎌倉市内では以下に記す大平山(おおひらやま)に次ぐ高さであるが、実はここからはここに書かれたような展望は現在はなく、当時も位置関係からみて、こうした眺望は望めなかったと考えられる。現行のガイド・ブックなどにもしばしば見られるが、これは標高一五九・二メートルの大平山を含めた、広域での現在の天園一帯を漠然と指して説明しているものと思われる(但し、天台山と大平山は凡そ尾根道の距離で四百五十メートルは離れている)。「新編鎌倉志卷之二」には、

 

○天台山〔附長者窪〕 天台山(てんだいさん)は、瑞泉寺の北の高山を名く。此山を天台と號する事、何れの代に名けたると云事不知(知れず)。記録もなく、古老も知れる人なし。今按ずるに、將軍家の屋敷よりは、東北にて、鬼門に當るゆへに、京都の天台山に似(にせ)て名(なづけ)たる歟。山上に登れば、金澤、幷(ならび)に江戸の海上、道中筋まで見(みゆ)るなり。山の北の谷(やつ)に長者が窪(くぼ)と云所あり。古事未考(未だ考へず)。

 

となっており、本誌の執筆者が「江戸」を「東京」と書き換えるだけの如何にもセコいことをしている、「古事未考」どころか、なあんにも考えていないことがバレバレであることが一目瞭然なのである。

「長者ケ窪」鎌倉の始祖で長者伝説といえば、藤原鎌足の玄孫と称して東八ヶ国総追捕使として東国を治めたとする「由比の長者」と呼ばれた染屋時忠(生没年不詳)であろう。鎌倉最古の神社とされる甘繩神明神社を建てたのは時忠とされ、彼の第趾は同神社の南の長者ヶ久保であった伝えるのであるが、実はこの「長者窪」は天台山の北という謂い方からピンとくる方もおられると思うが、これは厳密には鎌倉市の地名としてではなく、総武隧道の西及びその北側、現在の横浜市栄区長倉町に「長者ケ久保」として残る地名なのである。そうして、そこもこの「由比の長者」が由比ケ浜へと移る以前に住んでいた場所だとも伝えられているのであるが、これらは全国に見られる長者屋敷伝説の一つに過ぎず、染屋時忠も私は伝承上の架空人物に過ぎないと考えている。それにしても、「附」(つけたり)とするにしては先の天台山からは尾根筋で一キロメートルは離れている。ここを通って鎌倉霊園の北を廻って金沢街道の朝比奈峠(新)に抜けるコースは、私の好きな静かな(少なくともかつては)ルートである。]

耳囊 卷之十 蛇の遺念可恐事

 

 蛇の遺念可恐事

 

 本所に住居(すまひ)ありし芦澤(あしざは)某といへる人の門に、年々燕(つばめ)巣をなしぬ。芦澤或年勤仕(ごんし)に出し留守、三四尺も有(ある)べき蛇右の燕の子を睨ひて、やがて門の柱をつたひ既に巢にちかよらんとせしを、芦澤の僕見付(みつけ)て蛇を打殺(うちころ)し、前なる割下水(わりげすい)へ投捨(なげすて)ぬ。しかるに日數(ひかず)五七日過(すぎ)て、蟻(あり)夥敷(おびただしく)燕の巢に入(いり)て、終(つひ)に燕の子斃(たふれ)ける故、右蟻の來(きた)る道を尋(たづね)しに、右門より割下水の方へ群步行(むれありく)故、其出る所を見ければ、彼(かの)打殺したる蛇全身朽(くち)て、右より夥敷出て右芦澤の門へ行通(ぎやうつう)なせしは、全(まつたく)蛇の遺念、蟻と化して、終に燕の子を取(とり)しなるべしと、芦澤直噺(ぢきばなし)なり。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之九」の最終話との連関は認められない。既に述べている通り、根岸は実は「卷之九」で「耳嚢」を打ち止めにする積りであったから(更にその前は「卷之三」で完結する予定でもあった)、連関性がないのは寧ろ自然と言える。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、九巻で擱筆という決意が、凡そ四~五年は続いていたことが分かる。また、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で(根岸は文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日没)、根岸は結局、没する前年まで「耳嚢」の筆を執っていたことも分かる。「耳嚢」の起筆は根岸が佐渡奉行として佐渡島に現地在任していた天明五(一七八五)年頃と考えられるから(「卷之一」の記載の推定下限は前年の天明四年)、休止を含めて実に延べ三十年の永きに亙って書かれたものであったのである(以上は主に底本の鈴木氏の冒頭解題を参考にして記した)。

・「芦澤某」底本の鈴木氏注に、『芦沢姓は寛政譜では一家。正永であろう。寛政二年(十八歳)家督。八年関東郡代支配留役より勘定奉行支配に移る』とある。寛政二年は西暦一七九〇年。実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の同話(同版は巻之九と十が誤って書写されているので、そこでは巻之九の冒頭である)では冒頭が『本所割下水』と明記されてある。そこで切絵図を虫眼鏡で拡大して調べてみると、南割下水の、現在の亀沢三丁目の南東の角、JR総武本線の高架下西北角辺りに「芦沢富次郎」という名を見出だせた。この人物であるとすれば、その門前から北にあった割下水(現在の亀沢四丁目交差点付近)は大きく見積もっても百メートルほど、最短で六十メートル余しか離れていない。私はこれを「前なる割下水」と言って何らおかしいと感じない。切絵図から蟻の行列の実景が見えてくるのが、これ、私には頗る面白いのである。

・「三四尺」約九十一センチメートルから一メートル二十一センチほど。

・「睨ひて」底本では「睨」の右に『(覗)』と編者による訂正注が附されてある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇の遺念の恐るべき事 

 

 本所に住いしておる芦澤(あしざわ)某(ぼう)と申す御仁の屋敷の門に、これ、年々、燕が巣を作って御座ったと申す。

 ある年のことで御座る。――芦澤は勤めに出でて留守にて御座ったが――これ、三、四尺もあろうかという蛇(くちなわ)の出でて、この巣の中の燕の子を覗(うかご)うて、やがて

――シュルシュルッツ

と、かの門の柱を伝い登り、今にもその巣に近寄らんと致いておったを、これ、芦澤の下僕の見つけ、この蛇(へび)を散々に打ち殺し、前にある割下水(わりげすい)へ、その骸(むくろ)投げ捨てたと申す。

 しかるにそれより、日数(ひかず)、そうさ、五日か七日ほど過ぎてのこと、これ、蟻が夥しゅう、その燕の巣に入り込んで、終には燕の子らは皆、その蟻に食われて、死んでしもうたので御座った。

 されば、かの下僕、よう辺りを見てみたところが、かの折りに、蛇の登った筋と同じきところに、これ、点々と黒々としたる蟻の列の、これ、出来ておるを見出した。

 されば、その蟻の来ったる道を、そこから元へと尋ねみたところが、かの芹澤家が門より、これ、かの割下水が方へと、

――ウネウネッツ

と、その蟻の行列の続いて御座ったによって、さても、だんだんに辿って参ったところが、その蟻の群れ出でたる所……これ……見出だした。……ところが……そこには……

……かの打ち殺したる蛇の……

……全身、これ、朽ちて御座って……

……その遺骸より……この蟻どもが……これ……夥しゅう生まれ出でては……そのまま……かの芦澤が方(かた)の門へと……これ――蛇の如(ごと)――黒々と――うねうねと……行列なして御座った。……

 

「……これ、全く――死したる蛇の遺念――蟻と化して――遂に、かの燕の子を取り喰(くろ)うたに、これ、違い御座らぬ。……」

とは、芦澤某(ぼう)の直談(じきだん)にて御座る。

耳嚢 巻之九 方言奇談の事 ―― 耳嚢 巻之九 完結!

「耳嚢 巻之九」100話の訳注をこれを以って完結。
 
2009年9月22日に始動以来、5年5ヶ月で遂に900話を終え、残すは最終巻「巻之十」1巻100話のみとなった。ゴールが遂に見えた。感慨無量である――




 方言奇談の事

 

 四ツ谷邊輕き御家人の方に、僕(しもべ)ともなく、又譯あつてや、仙臺の在所出生(しゆつしやう)の者居(ゐ)たりしが、文化五辰年の春、節分に豆を蒔(まく)ものなかりし故、右仙臺ものを賴(たのみ)ければ、安き事とて、頓(やが)て煎豆を升に入(いれ)、さて大聲をあげて、鬼の目(め)だなんの目だ福はうち福はうちと、はやしける故、いづれも珍(めづら)しとどよみ笑ひけるとなり聞馴(ききなれ)ぬ言葉笑ふもむべならずと、原田翁かたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。これを以って「耳嚢 卷之九」全百話が終わる。これで九百話までの電子化訳注を終わった。

・「文化五辰年の春」文化五年は戊辰(つちのえたつ)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏である。

・「鬼の目だなんの目だ福はうち福はうち」「とうほく復興カレンダー」の加美山氏の「鬼は外!福は内!鬼の目ん玉ぶっつぶせ! ―秋保神社節分祭―」の二〇一四年二月の記事に、宮城県仙台市太白区秋保町長袋清水久保北にある秋保(あきう)神社の節分祭の様子が語られてある中に、豆まきのの掛け声が『「福は内、鬼は外ーー鬼の目ん玉ぶっつぶせー」』であるという記載がある。また、ウィキの「節分」の節分会(え)で知られる寺院の中に千葉県長南町報恩寺が挙げられてあるが、そこにも『「福は内、鬼も内、鬼の目玉ぶっ飛ばせ!!」』とある。同ウィキにある通り、節分は『宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われ』、『豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある』とあり、豆は鬼の目を潰すことに意味がある訳で、この掛け声は頗る理にかなったものなのである。それを失笑した者どもは、これまた、大笑いと、申すことにて、御座ろうぞ!……呵! 呵! 呵!……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 方言奇談の事

 

 四ッ谷辺の軽(かろ)き御家人の方に、下僕と申すのでもなく、また、何か、訳の御座ったものか、これ、仙台在所の出生(しゅしょう)の者が居候致いて御座ったが、文化五年辰年の春のこと、節分に豆を蒔く者が、これ、たまたま御座らなんだによって、この仙台出(で)の者に頼んだところ、

「へえ! 安きことじゃ!」

と、やがて煎豆(いりまめ)を升に入れ、さても、大声を張り上げて、

「――鬼の目(め)だ! なんの目だ!! 福は内! 福は内! 鬼の目だ! 鬼の目だ!! 福は内! 福は内!!!――」

と、囃して御座ったゆえ、孰れの家内の者も、これ、

「珍らしきことじゃ! は、は、はッツ!」

と、これ、どよみ笑(わろ)うて御座った。……

 

「……聞き馴れぬ、その言葉に笑うたも、これ、故ならぬことで御座る。……」

と、原田翁の語っておられた話で御座る。

耳嚢 巻之九 守儉の人心懸の事 但右には評論の事

 守儉の人心懸の事 但右には評論の事

 

 或御旗本の健士(けんし)、小身にて御番を勤(つとめ)しが、常々儉約を守り聊(いささか)の費(つひへ)をも省(はぶき)て、外見にはりんしよく抔と誹(そし)りしものもありしが、身まかりし後、其跡相續の忰、貯(たくはへ)のある事もしらず、居間の床下を掘(ほり)しに、金三百兩を得て目出度(めでたく)跡(あと)榮へけるとなり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

附(つけたり) 或人此噺を聞(きき)て、右の通(とほり)貯置(たくはけおき)て子孫の用をなさん爲ならば、其子にはかたり置(おく)べき事なり。若(もし)掘出(ほりいだ)さず、國賓土中(こくはうどちう)の腐物(ふぶつ)とならんは、守錢の翁にやあらんと云(いひ)しが、又或人の云(いへ)るは、何(いづ)れ其子には末期(まつご)に語りやせん、左もあらずば、猥(みだ)りに床下を掘(ほる)べき謂れなし、其子の貯(たくはへ)ある事をしらず㒵(がほ)に掘出(ほりいだし)て、始(はじめ)て知りたるといふも、是又謂(いはれ)有(ある)べき事なりといひし。實(げに)さる事あるべし。猥りに誹るべき事は愼(つつしむ)べしと云々。

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「儉」倹約。

・「健士」既注であるが、再度、掲げる。本来は「こんし」と読み、平安時代に陸奥国の辺境を警備した兵士を指す。勲位を持ち、武芸に長じた者から選ばれ、租庸調が免ぜられて食料も支給された。ここは遠くそれに因んだ治安部隊(ここは「御番」で番士、江戸城の宿衛・諸所の警衛に勤番した士)の兵士に対する敬称であろう。

・「或人此噺を聞て」底本の鈴木氏注に、『三村翁曰く「予が受読の師石川良山先生は、神田の松富町にて小学校を開かれゐたりしに、其向に老たる夫婦ものありしが、其老夫歿して後、妻なる者、毎夜毎夜老犬来りて、天井の片隅を睨むと夢むる由、先生に語りしかば、それはよく世間にいふ事にて、天井に金でも隠されてあるべしと、戯れとなくいひしが、其天井裏に果して若干の金ありし由、長山先生決して偽いふ人に非ず、記して奇聞を伝ふ。」』とある(踊り字「〱」を正字に代えた)。本注に相応しいかどうかを云々する輩もあろうが、こういう注こそ、私の考える、あるべき/楽しき/真に智の「ためになる」注であると断言しておきたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 倹約をこととする御仁の後代への心掛けの事――但し、それに就きてはこれ、議論の御座った事

 

 とある御旗本の健士(けんし)、小身の者にて、永く御番を勤めて御座ったが、常々より倹約を旨とし、固くこれを守って、少しばかりの費えに対しても、実に細かく吟味節約し、一文の無駄も省くという徹底振りで御座ったが、蔭にては、この御仁、所謂――吝嗇(りんしょく)――なんどと誹(そし)られもして御座った。

 この御仁、身罷られて後のことである。

 その跡目を相続せんとした倅が、かの男に秘密の貯えのあることも全く以って知らぬままに、たまたま必要のあって屋敷の居間の床下を掘ってみたところが――金三百両――そこより出でて、これを得、めでたく跡目(あとめ)を嗣ぎ、今に栄えておらるるとのことで御座る。

 

○根岸附記

 ある人は、この話を聴き、

「……かくも右の通り、この御仁が生前、吝嗇(けち)の誹りをも甘んじて受けつつ、しかも、かくも貯え置いたとして。……それをまた、その子孫の用に役立てんとも思うておったとするならばじゃ。……その子には、これしっかと語りおいておくのが道理であろう?……もし、これ、掘り出されず、本邦の「お国の宝」、いやさ、土中の腐され物となり果ててしもうたとならば、この御仁――救い難き守銭(しゅせん)の翁(おきな)――に過ぎにのではないか?……」

と申されたが、しかしまた、とある御仁は、

「……孰れ、これ、その倅なる子には、末期(まつご)にて語ったに相違御座るまい。……そうでなくては、これ、濫りに己(おの)が屋敷居間の床下なんぞを掘るという謂われ、これ、あろうはずもない。……これはその倅なる者が、貯えのあることを知らざる風をなしたまま、これを掘り出だし、――『さても始めて、かくなる大金の貯えを、これ、わが家(いえ)の後代のために、成しておられたことを知り申した!』――と、父を『吝嗇爺』と誹っておったる世間に、これ、暗に示して御座ったのだとしても……拙者には、その倅殿の相応の仕儀として、これ、納得出来ることでは御座る。……」

と申された。

 いや、まさに、この後者の御仁の言葉通りでは、これ、御座るまいか?

 濫りに人を誹ると申すは、これ、何時の世にても慎むべきことにては御座るまいか?……

耳嚢 巻之九 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事

 

 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事

 淸水谷實業(しみづだにさねなり)卿は元祿享保の頃の人なりとや。禁中宿直(とのゐ)の翌日朝(あした)、相(あひ)宿直の公卿寢置(ねおき)に、與風(ふと)着服を左りまへになし甚(はなはだ)心に懸(かけ)給ふを、實業それは心にかくる事にあらず、目出度(めでたき)事なりと申されしを、彼(かの)公卿いかなれば斯(かく)宣ふとありし時、實業の狂歌に、

  左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拜舞の稽古やがて昇進

よみてあたへしに、其あけの年、彼公卿果して昇進ありしとや。 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。和歌技芸譚。

・「淸水谷實業」西園寺家一門の公家・歌人であった清水谷実業(慶安元(一六四八)年~宝永六(一七〇九)年)。信濃飯田藩初代藩主堀親昌(ちかまさ)の子で元は武士であったが、母方の叔父三条西公勝(さんじょうにしきんかつ)の養子として三条西家で育った。二十五の時、公勝次男で清水谷家を継いだ従兄の公栄(きんひさ)の養嗣子となった。陽明学者熊沢蕃山に学び、元禄元(一六八八)年には霊元院(第百十二代天皇)から古今伝授の初段階とされる『和歌「てにをは」口伝』を受け、中院通茂(なかのいんみちしげ)・武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ)とともに霊元院歌壇の中心的歌人の一人として活躍した。作品・著書としては元禄一五(一七〇二)年の「百首歌」、宝永二(一七〇五)年の「到着百首歌」、寛文一二(一六七二)年の「高雄紀行」などがある(以上は主にウィキの「清水谷実業」に拠った)。本文には『元祿享保の頃の人なりとや』とするが、享保元(一七一六)年(しかもその前に正徳が入る)には既に亡くなっている。

・「寢置」底本には「置」の右に『(起)』と訂正注がある。

・「左りまへ」岩波版の長谷川氏注に、『着物の右衽(おくみ)』(袍(ほう)や狩衣・直衣(のうし)などの前襟の重なる部分や小袖の前に付く布を指す「大領」=「おほくび(おおくび)」が「おくび」となり更に音変化したもので、着物の左右の前身頃(まえみごろ:衣服の胴を包む部分(身頃)の内、胴体の前の部分をおおうもの。)に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布のこと)『を左の衽に重ねて着る、普通と逆の着方をすること。死者に経帷子を着せる際にそうするので、気に掛けた』とある。但し、ネットの
Iori Hayasaka 氏の「左前(ひだりまえ)とは?」という素晴らしい記載には(行空けを詰めさせて戴き、アラビア数字を漢数字に代えた)、

   《引用開始》

着物は洋服と異なり、男女ともワンピース形状の衣服を、前を左右に打ち合わせ、帯を締めて止めるという形式で着用します。洋服の前合わせは男女で左右が違いますが、着物は男女とも右前に着ます。着物は確かに左右対称の構造ですが、右前に着るデザインの衣服として、私たちは遠く祖先の代から着用してきました。

そもそも、右前・左前が意味する「前」とは「手前」のことです。これは、左右どちら側の布地を先に自分の肌に密着させるかをいう言葉です。鏡を見ながら覚えたり、「襟が左前」などという言い方をしますので、誤認しないように覚えましょう。

ではなぜ右前に着物を着るようになったのかというと、これには諸説ありますが、歴史的には、奈良時代の養老三年(七一九年)に出された「衣服令(えぶくりょう)」という法令の中にある「初令天下百姓右襟」という一文がその起源であるとされています。要するにこの時から「庶民は右前に着なさい」とされ、これ以降、着物を右前に着ることが定着したものと考えられています。

この背景には中国の思想の影響から、左の方が右より上位であったことから、位の高い高貴な人にだけ左前は許され、庶民は右前に着ていたという経緯があり、それに倣って聖徳太子がこれを日本でも普及させたのだとする一説があります。
当時の高貴な人々は、労働的な動作は必要がなかったため、左前でも支障がなかったものと推測されますが、実は左前に着ると動きにくいという事実があり、庶民は労働の必要性からも自然と右前でなければ不合理であったため、庶民には右前を推奨したのでしょう。これは、実際に着比べてみるとわかりますが、左前に着ると、非常に動きにくく、衣服としての役目をある意味果たさないのです。着慣れるほどにこの事実は理解できると思います。

なお、別の説では、右前・左前は古代中国で西方の蛮族との区別をするために、蛮族の着装法であった左前を右に変えたのが始まりというものもあります。当時の彼らは右手で弓を射る時に邪魔にならない左前に着ていたとする説ですが、信憑性のほどはわかりません。

ちなみに、いたって単純な理由である「ほとんどの人が右利きだから」という説については、いささか疑問が残ります。確かに「右前」に着れば利き手をすぐに懐に入れられますから、これだと手拭いなどをすぐに出し入れできるので非常に合理的というわけですが、もしそうであるならば、左利きの人は、左前に着たほうが都合がいいわけで、多数決で右前が定着したとは考えにくい気がします。

左前に着物を着た所。

う~ん、どうにも違和感が・・・

衣服の前合わせでよく説明される話について補足しますと、奈良時代以前の古墳時代には確かに右前と左前が混在していました。しかしながら、これは埴輪に見られるような上半身だけの衣服の場合は、長着状の着物と異なり、動作上の問題は生じにくかったことが理由と考えられます。

一方、「左前は死人の装束だから」という解釈もありますが、これには少々誤解があります。もともとこれは死者を生者と区別するための風習で、人は死ぬと平等なのだという思想から、誰でも死ぬと位が上がって神や仏に近づくとして、貴人と同じ左前に着せたという風習が起こったのです。死者が左前に着物を着るから、縁起が悪いので左前に着ないというわけではないのです。

いずれにせよ、着物を右前に着るのは、理屈ではなく日本人が受け入れてきた事実でもあり、千二百年以上もそれを受け入れて定着している事実は、良し悪しの理屈を超えて、民族としての証であるともいえるでしょう。

今でも時折、テレビの若い女性アナウンサーなどが、温泉旅館の浴衣を左前に着ていたり、ポスターの着物のイラストが左前だったりと、何かと気になる左前ですが、着物を普通に着るなら右前に着るとだけ、覚えておけばいいだけのことなのです。

  《引用終了》

とある。

・「左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拜舞の稽古やがて昇進」底本では「ゆふ」の右に『(右)』と注する。これは、

 左前(ひだりまへ)砌(みぎ)りは後(あと)に左右(さゆふ)左(さ)の拜舞(はいぶ)の稽古(けいこ)やがて昇進(しやうしん)

と読み、「みぎり」は正式なことの行われるところのその場面の意、「左右」の「左」は、各地位の「左」が上位であることに加え、「さの」に「その」を掛け、「拜舞」(叙位・任官・賜禄の際などの感謝の意を表す礼で、左右左(さゆうさ:叙位・叙官・賜禄などの際の拝礼の際のマナーで、再拝して笏を置いた後に立って左、右、左の順に身を捻った上、さらに地に座って同様に行って後、笏を取って少し拝礼し、更にまた立って再拝する、あたかも舞踏のような礼拝を指す)の「稽古」、即ち予兆・吉兆である、と洒落れて詠み込んであるのである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 清水谷実業卿狂歌の奇瑞の事

 清水谷実業(しみずだにさねなり)卿――これ、元禄か、享保の頃の御仁である由、聴いて御座る――この御仁、禁中宿直(とのい)の御座った、その翌朝のこと、ともに宿直致いて御座った公卿が、これ、寝起きなれば、少しばかり寝惚けて御座ったものか、ふと、着服を左前になして着てしもうて御座った。

 さればこれ、死穢(しえ)に触るることでおじゃる! とはなはだ、心配致いておったところ、かの実業殿が、

「……いや――それはこれ、少しも御心配にならるること、あらっしゃいませぬ。――全く以って少しも、心にかけらるることにては、あらっしゃいませぬ。――いや、それどころか、却ってこれ、めでたきことにて、あらっしゃいます。……」

と、頻りに申されたによって、当の左前の公卿、

「……い、如何(いか)なればこそ、かように宣わるるか?……」

と反問なされた。

 すると、実業殿、徐ろに、

  左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拝舞の稽古やがて昇進

と狂歌を詠まれ、それを、かの意気消沈なしておられた朋輩の公卿に、これ、贈られたと申す。

 さても、その翌年のこと――この公卿――果して、これ、昇進なさられたとか申すことにて御座った。

 

耳嚢 巻之九 流飮幷胸の燒るを留る妙法の事

 流飮胸の燒るを留る妙法の事

 

 赤にしを黑燒になせば鼠色なり、右を粉になして、流飮のつよきには酒にて用ひ、胸の燒(やく)るには湯にて飮むよし。栗山行庵傳授の由、横田臺翁の語りける。予胸の燒る時、右折節施しける故、飮之(これをのむ)に即效を得し故、其法を求(もとめ)ければ、赤にしの黑燒なると語りぬ。右栗山幸庵、長府の醫者のよし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズ。

・「流飮」底本には「流」の右に『(溜)』と訂正注がある。飲食物が胃に滞って、酸性の胃液が咽喉に上がってくる症状を指す。不平・不満・恨みなどの心理的な胸のつかえがなくなって気が晴れるの意の「溜飲が下がる」はこれに基づく比喩。

・「赤にし」腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa ウィキの「アカニシ」によれば、『内湾を中心に比較的浅い海に生息する中型の巻貝。北海道南部から、台湾、中国にかけて』棲息し、最大で十五センチメートルを超える個体もある。名は殻口が赤く染まることに由来する。『肉食性で養殖のアサリやカキを食い荒らす貝として関係者を悩ませることもしばしばある』が、『愛知県の三河地方や瀬戸内海、有明海などでは食材として流通しており、比較的人気も高い。食べ方は生のまま刺身が一番旨く、その調理法は殻ごと割って取り出すのがよく、そのためにまな板の上に叩き付ける。寿司ねたや煮物にもできる。軽く茹でて身を取り出し、串刺しして醤油をまぶし焼いた物もまた格別である』(私も激しくこの意見に共感する。アカニシは美味い)。『産地以外に流通する事は一般的に多くはないが、缶詰やパックで販売されている「サザエのつぼ焼き」の中身はアカニシであることがしばしばある』とある。因みに、アカニシは漢方で腫れ物や切創の効果があるという記載があり、また、その革質の蓋を保香剤として甲香・貝甲香・甲香(Cuddy Shell)として香道で調合剤として用いもする。特に後者は蓋ではあるが、肺が澄むという感じとは頗る相性がある効能のように思われる。

・「栗山行庵」不詳であるが、実は長州藩医学館好生堂の医師で、宝暦九(一七五九)年に萩の大屋刑場で処刑された女囚を我が国で初めて解剖、その精密な極彩色の絵図を残した藩医の名を栗山孝庵という。これ、一字違いで「孝」も「行」「幸」と同音であり、この医師と同一人物ではなかろうかと私は秘かに思っているのだが。識者の御教授を乞うものである。

・「横田臺翁」頻出の根岸昵懇の情報屋「横田袋翁」(既注)と同一人であろう。

・「幸庵」底本には右にママ注記がある。

・「長府」現在の山口県下関市東部、長門国国府の旧地で長州藩支藩の一つである長府藩の城下町。「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年当時は第十一代藩主毛利元義で四万七千石。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 溜飲并びに胸の焼けるを止める妙法の事

 

 赤螺(あかにし)を黒焼きになせば鼠色となるが、これを粉に成して、溜飲(りゅういん)の激しい折りには、これを酒に和して用い、胃ではなくして胸焼けに起因致す折りには、これを、湯に和して飲むとよい。

 以上は栗山行庵(こうあん)の伝授である由、横田台翁(よこたたいおう)殿の語って御座られた。

 また、

「――いや、実際、拙者が強い胸焼けを覚えたる、その折節、その通りに施術致いて、これを服用致いたところが、即効にて御座って、の! その製法を切(せち)に求めたところが――赤螺の黒焼きであると、これ、白状、致いて御座ったわ! 呵呵呵!……」

と、その当の栗山幸庵殿――これ、長府の医師なる由――が思わず漏らして御座ったことを、かの横田翁、これ、謂い添えられて御座った。

2015/02/10

我々

――「死」という得体の知れないものに対し、漠然とした恐怖を以って怯えているところの我々は、同時に、得体の知れないおぞましい「生」なるものに縋って痙攣的に存在していると思い込んでいるという事実を、これ、常に鮮やかに、忘れている――

耳嚢 巻之九 不思兩夫を持し女の事

 不思兩夫を持し女の事

 

 前度も似たる噺も聞(きき)し。文化六年、或人此頃の事也とて語りしが、八町堀邊とかに、夫婦子供老人有(あり)て、旅稼(たびかせぎ)抔をして渡世送りし者、源兵衞とか言(いひ)しが、外より旅日雇(たびひやとひ)にたのまれ、路用請取(うけとり)て上方に至るに、途中侍一人と道連れになりしが、道中は容易のもの、ともないて害を得る事あれば別れんとせしが、一兩日連立(つれだち)とくと樣子を見しに、質朴の仁物(じんぶつ)にて心懸りもなければ、二三日同道なし、彼(かの)者は在所信州へ參る由にて、別れに望みて彼侍申(まうし)けるは、明日はお別れ可申(まうすべし)、我等は少し用事有之(これあり)、跡に殘る間、先へ立(たち)給へと申けるゆゑ、夫(それ)はいかなる事哉(や)と尋(たづね)ければ、我等路用を遣ひ切(きり)て、此大小を賣りて路用となすべし、依之(これによつて)跡に殘る由申けるゆゑ、彼町人我等少々は路金も貯(たくはへ)たり、いか程入用にやと尋ければ、此大小凡(およそ)貮兩餘には可成(なるべき)なりといひし故、然る上は、我等右二兩は合力(かふりよく)すべしといひしゆゑ、侍大きに悦び、則(すなはち)帶せし大小を渡(わたし)、兩腰無之(これなく)ては脇も淋しき間、御身の脇差を給(たまは)らんやと望しかば、我等も三本差(さし)て益なしとて、さし來りし脇差を彼侍へあたへ、不思議の緣にて斯(かく)懇(ねんごろ)になりし事、他生(たしやう)の知遇なるべし、我等は八町堀誰店(たれだな)と、則(すなはち)鼻紙に書(かき)て彼侍にあたへ、侍も己が生所(せいしよ)江戸の寄宿等認(したため)て渡し、途中にて名殘(なごり)を惜しみ、再會を約し立別(たちわか)れしが、右侍追分沓懸(おひわけくつかけ)邊の驛場(えきば)にて大病となり相果(はて)しかば、所より支配へ訴へ、檢使を請(こひ)て葬りて、懷中もの改めしに、江戸八町堀誰店源兵衞と書(かき)し書付ありければ、彼脇差を添(そへ)て、右源兵衞留守まで、飛脚を以申越(まうしこし)しゆゑ、源兵衞妻は大きに驚き歎きしが、右手跡(しゆせき)幷(ならび)に脇差共(とも)源兵衞所持に相違なければ、町役人共(ども)立合(たちあひ)て、信州へも相應に禮を述(のべ)、取置(とりおき)等の儀厚賴遣(たのみやり)しければ、小兒は有(あり)、女壹人にては身上(しんしやう)も難立(たちがたし)とて、知音(ちいん)同店(どうだな)の者世話をなして、入夫(にゆうぶ)をいれ相續なしけるに、五七ケ月過(すぎ)て、彼源兵衞用向(やうむき)を仕舞ひ立歸(たちかへ)り、我(わが)かどを覗(のぞき)しに、見しらざる男、女房と夫婦(めをと)のやう成(なる)始末、然る上は全(まつたく)留守中密夫なしけると大(おほき)に憤り、我内(わがうち)へ立入(たちいり)ければ、女房は先夫(せんぷ)の亡靈なりとて驚きて氣絶なし、當夫(たうふ)其外居合(ゐあひ)候ものも驚き恐れしが、相互(あひたがひ)にしかじかの一件語り合て肝を潰しける由。當夫は如何なしけるや、夫(それ)まで聞(きか)ざりしがと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。底本で鈴木氏は「御身の脇差を」の部分に注され、『三村翁「講談の大岡政談に、これと同じ筋あり。かゝる巷説より脚色せしなるべし」』とあり、岩波の長谷川氏は同様の内容を受けて、『講談の「万両婿」同じ筋(鈴木氏)。「万両婿」は落語「小間物屋政談」に』なった注しておられる。ウィキの「小間物屋政談」に粗筋が載る。そこには『万両婿の別名がある』ともある。しかしこの話、一読、講談や落語ではなく、それこそ「前度も似たる噺も聞」いた、読んだことがあるな、と思って調べてみたところ、寛政期の作者不詳の作「梅翁随筆」の中に酷似した話があったことを思いだした。以下に引いておく(底本は吉川弘文館日本随筆大成第二期第十一巻を底本としたが、恣意的に漢字を正字化した。また底本には読みがないが、読み難いと私が判断した箇所には歴史的仮名遣で推定の読みを附した)

   *

 ○材木屋思はず隱居せし事

一深川の材木問屋大和廻りせんとて、雇ひのもの壹人召(めし)つれて、午(うま)の春半(なかば)過(すぎ)るころ旅立(たびだち)けるが、金澤より鎌倉江のしまを廻り、箱根へかゝりし時、その體(てい)いやしからぬ男、眞裸(まつぱだか)にて石に腰をか居(ゐ)たり。不審におもひ其よしを問ふに、江戸芝邊のものなるが、刻限をとりちがへ、いまだ夜深きに此所へ來りしに、大の男四五人とり卷(まかれ)て、荷物衣類殘りなく奪ひとられたり。湯治に參るものにて候へども、かやうの難に逢(あひ)、いかゞ致さんと途方にくれ罷在(まかりあり)といふ。材木や是を聞(きき)、旅は相互(あひたがひ)の事、某(それがし)は大和廻と志す、旅も後世を願ふがためなれば、人の災難救ふも善根のはしともならんとて、衣類幷(ならび)に金子を遣(つかは)し、是にて湯治をもしられよといひければ、かの男まことにおもひ計らざる御恩、この上や有るべきと歡び、姓名宿所をも尋(たづね)しゆへ、金をつゝみたる帋(かみ)へ書付遣しければ、此御禮は江戸にてこそ申(まうす)べけれと別(わかれ)て、かの男は温泉場へゆきしが、その夜頓死せり。死體をあらためけるに、懷中に宿所姓名書付ある故、頓(やが)て江戸深川へ此段申(まうし)つかわしける。家内にはおもひ寄らぬ事なれば、愁傷いふばかりなし。早速手代を湯治場へ遣し樣子を尋(たづね)るに假埋(かりうめ)にしたり。死體は日數重(かなさ)り面體(めんてい)かわりたり。衣類は主人の品にまがひなし。供につれたる雇ひのものゝ事尋るに、供人はなしといふ。是は逃(にげ)もやしつらんと料簡して、我(わが)主人に違ひなしときはめて死體を葬りけり。頓(やが)て形見の衣類持(もち)て深川へ歸り。此よしを申せば、せめてもとたのみし事も甲斐なくて、家内のなげきいはん方なし。さらでだに夫婦のわかれはかなしきに、是はましてやおもひもよらぬ愁ひにかゝり、俄(にはか)に無常を身に觀じ、世をいとふ心ふかく、尼に成(なり)て後世(ごぜ)をたのまばやと申けるを、一族より合(あひ)、子供は七歳のむすめをかしらとして、男子はいまだ幼少なり。このまゝにては相續しがたし、幸(さいはひ)重(おもき)手代は實體(じつてい)なるものなれば、是を後家入(ごけいり)として後見させ、子供成長の後家督を續(ぞく)する事、家繁昌のもとひなりとて、女房にも納得させ、町内のひろめもなしける。斯(かく)て亭主は大和めぐりよりよき序(ついで)なりとて、四國中國の邊までも見物して、百日あまりを經て深川へ歸りける所に、おもひもよらぬ事出來(いでき)て、手代の妻となり、町内の弘めも濟(すみ)ければ、是も因緣なるべしとて、それより直(ぢき)に隱居して別宅にくらしけるとなり。

   *

 この「午の春」というのは寛政十(一七九八)年戊午(つちのえうま)のことかと思われる。本話が実に実録であった可能性を示唆する一つとは言える。ただ……実は何故か、この手の筋立て、私は昔からどうも好きになれないでいる。多分、その心ある登場人物の皆が、それぞれに微妙にリアルに数奇にして不憫な気がするからかも知れない。「梅翁随筆」のような実録口調ならまだしも、面白おかしくなした再話はそれこそ生理的に不快である。普通なら、かの「万両婿」のシノプシスなども紹介するところだが、敢えてやめることとした。悪しからず。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限はこの文化六(一八〇九)年夏で、先の「梅翁随筆」よりも十一年の後のこととなる。本話の作話性の高さを示す気がする。

・「八町堀」八丁堀は「梅翁随筆」の材木問屋の住む深川とは隅田川を挟んで直近の西である。

・「旅日雇」現在の遠地への出稼ぎのこと。

・「容易のもの」岩波版長谷川氏注は『未詳。素性の知れぬ者をいうか』とされるが、「容易」がそれではピンとこない。私は文脈から、妙に気安く、馴れ馴れしくしてくる相手の謂いで訳した。

・「追分」追分宿。中山道六十九次の江戸から二十番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分。

・「沓懸」沓掛宿。同前の十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢。しかし本文は、この追分・沓掛宿の前で、上方に行くはずの商人と、侍の行路が、これ、別れたことになっており、ルート上、私には不審に感じられるのだが。

・「當夫は如何なしけるや、夫まで聞ざりしがと人の語りぬ。」という根岸の附記も、根岸自身がこの話が以前に聴いたことのある類話からの捏造の可能性を疑っているようで、面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 思わず二夫(にふ)を持ってしまった女の事

 

 前にも似たような話を聴いたことの御座るが、敢えて認(したた)めおくことと致す。文化六年、ある御仁が、つい最近の出来事、として語ったものではある。

   *

……八丁堀辺りで御座ったか、夫婦・子供と老人の一家にて、行商なんどを成し渡世致いて御座った者で、源兵衛、とか申すものが御座った。

 世話になっておる者の口聞きにて、少々長き旅日雇(たびひやと)いの仕事を頼まれ、相応の路金も受け取って、中仙道を上方へと向かった。

 その途中、一人の侍と心安く致いて道連れとなったが、当初は、

『……道中にて、かくも馴れ馴れしゅう致いて参る者を、これ、安易に伴のうては……思わぬ害をも受くること、これ、あればこそ、早々に別れんが得策かのぅ……』

などとも思うたものの、一両日も連れ立って旅致し、とくと、この侍の様子を見てみた限りにては、これ、至って質朴にして、仁を弁えたる人体(じんてい)の御仁にて御座ったれば、これと申して怪しき心配なるところも御座らなんだによって、二、三日も同道なした。

 かの侍は、在所の信州へと参る由にて、明日より脇道へ逸(そ)れんという前夜のこと、その別れに臨んで、かの侍の申すことに、

「……明日はお別れ申すことと相い成ったれど……我らは……少し……この宿(しゅく)にて……よんどころなき用の……これ、出来(しゅったい)致いたによって……後に残らねばならず……どうか、明日は、先へお立ちなされい。……」

と申したゆえ、

「……よんどころなき?……それはまた、如何なることで御座るるか?……」

と気になって訊ねたところが、

「……実は……我ら……ここまでで、その、手持ちの路金を……これ、総て遣いきってしもうて御座る。……在所ヘは、ここより今少し、これ、里程の御座れば……お恥ずかしきこと乍ら……この腰の大小をでも売り払(はろ)うて……これ、路金となすしか、御座らぬ。……さればこそ……後に残って、と申し上げて御座った。全く以って面目ない……」

との述懐致いたによって、かの町人、

「……我ら、少々ならば、路金としての貯え、これ、御座る。……して、如何ほど、御入用で?」

と訊いたところ、

「……いや……それは……何とも……しかし……そうさ、この大小ならば……凡そ二両ほどにはなろうかと、思うては御座るが……」

と申したによって、町人、これ意気に感じ、

「――こうなったら、相い身互いと申します!――我ら、その二両は、これ、合力(こうりょく)致しやしょう!」

と請けがったによって、侍もよほど困って御座ったものか、大きに悦び、ただちに、帯して御座ったその大小を町人へと渡しつつ、

「――ただにて借るるは武士の恥なればこそ、これを!……ただ、腰の物、これなくしては流石に武士として、脇も淋しゅう御座れば……その、御身の持ちたる脇差をば、これ、代わりにお貸し下さるまいか?」

と望まれたによって、

「――いや、そりゃあ、もう! 我らも刀をこれ、三本も差して御座っても、何(なーん)の役にも立ちゃあしゃせん! どうぞ、こんなもんで、よろしければ!」

と、護身用に腰に差して御座った脇差を、かの侍へ与えた上、

「……不思議の御縁にて、かくも親しくなりましたること、これを、他生(たしょう)の縁、とでも申すので御座ぜえやしょう! 我らは八丁堀の××店(だな)の渡り商いを致いておりやす――源兵衛――と申しやす。……」

と、その名を鼻紙にも書いて、かの侍へ渡せば、侍もまた、己が名と在所の村及び江戸にての寄宿先なんどをも認(したた)めて渡した。

 さても翌朝、二人して宿を発ち、途中にて名残りを惜しんで、

「――この度の御恩、まっこと、有り難く御座った。何時か必ず、返礼がため、貴殿と再びお逢いしとう存ずる!」

と侍の申せば、商人(あきんど)も、

「――その時まで、こちらの大小はしっかと守ってごぜえやすで! どうぞ、御達者で!」

と再会を約して、たち別れた申す。

 

 ところが何と――この侍――それからほどのぅ――追分・沓掛辺りの宿駅に於いて、急の病いを発し、そのまま、相い果ててしもうたと申す。

 されば、所の下役の者より信州の支配方へと訴えの御座って、行路死病人として検視の役人を迎え、検分の上、病者なれば取り敢えず早々に仮埋葬致いて、その死者の懐中の物なんどをも改め見たところ、

――江戸八町堀××店(だな)源兵衞――

と書いた、書付(かきつけ)一枚きり、これ、御座らなんだによって、かの脇差をそれに添え、右源兵衛の留守宅まで飛脚を以って知らせを送った。

 さればこそ、源兵衛が妻は、これ、大きに驚き歎いて御座った。

 しかし――その書付の手跡(しゅせき)――これ、申すに及ばず、并びに――その脇差――これ、確かに源兵衛所持のそれに相違なければ、町役人どももその場に立ち合い、その二点につき確かに認めた上、報知の通り、病死なれば現地にて埋葬とのこと、また何か、いざこざに巻き込まれての変死と申す訳にても御座らなんだによって、信州が役方へもこれ、相応の礼を添え述べ、本葬等の儀なんどに就きても、相応の金子を送って、厚く頼みおいたと申す。

 

 さてもこの寡婦(やもめ)、

「……頑是なき小児はあり、女一人にては、これ、身上(しんしょう)も成り行くまい。……」

と、知音(ちいん)の者や同じ店子(たなこ)の者なんどがしきりに哀れがって世話をなしたによって、ほどのぅ、新しき婿(むこ)を入れて、亡くなった源兵衛が跡を、これ、滞りのぅ、相続致いて御座った。

 さて、それより五、六、七ヶ月も過ぎて、かの源兵衛、上方での出稼ぎも終えたによって、やっと江戸へとたち戻って、さても我が家(や)が門(かど)を覗き見た……ところが……

――見しらぬ男が

これ、

――女房と

……夫婦(めおと)の如(ごと)、睦まじゅう致いておる!……

 さればこそ、

「……さ、さてはッ!……全くッ!……留守中、間男をッ! これ! 家に入れおるかあッツ!」

と、大きに憤って、己(おのれ)が家へと、だだっと! 走り込んだれば、

――女房は

これ、

「……ま、前の夫(おっと)の、ぼ、亡霊の、で、出たあァアッツ!……」

と、一声叫ぶや、驚いてそのまま気絶致し、今の夫は、また、その折り、たままた居合わせた者とともに、驚き恐れて、立ち竦んで御座ったと申す。

 直ちに知らせを聴いた名主やら、かの源兵衛死すの飛脚を受けた折りの役人らも参って、双方、かくかくしかじかと委細を述べ、それをいちいち合わてみたところが、かく成ったる一件、これ、明らかとなったれば、皆々、肝を潰して御座ったと申す。

   *

 私はこれを聴いて、

「……さても。……その今の夫の方はこれ、その後(のち)、如何が致いたものか、の?」

と訊ねてみたので御座ったが、

「……い、いや。……そこまでは……実は……聴いておりませんのですが……」

と、その御仁の答えて御座ったよ。

村 三好達治   附やぶちゃん授業ノート

 村   三好達治
鹿は角に麻繩をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その靑い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは櫻の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自轉車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黑いリボンをとめて。



詩集「測量船」より。



以下、僕の授業ノートより。

・散文詩
◆作者の少年期の記憶の断片 ~ 郷愁 ~ 秘密めいたイメージ・カット
〇第1連(行末はショット・カウント)

 暗い物置の入り口、暗い内部へ。(フレーム・アップ) 
         ↓ 
 闇に浮かんでくる縛られた鹿。(フレーム・インして F.I./フルショット) 1
 その青い眼。(クロース・アップ) 2
 
 きちんと貴公子のように座っている鹿。(フル・ショット) 3
 土間に転がっている芋一つ。(クロース・アップ) 4―― F.O.
〇第2連
 
 空。桜の枝、少し。桜、舞う。(ミデイアム・ショット) 5
  ↓(ゆっくりティルト・ダウン)
 山の坂道。桜の花が道を埋めている。
 その中央を少しくねりながら、少年が運転する自転車がゆっくりと降りて行く。(自転車は画面下にフレーム・アウト)
  ↓(カメラ、暫くそのまま静止)  
  ↓(ゆっくりズーム・アップ)
 桜の花びらの中の自転車の轍。(クロース・アップ) 6

 竹藪。
  ↓(ゆっくりフレーム・ダウン)
 少女の黒いリボンを止めた羽織りの肩。うなじ。風に揺れる和毛。背。
 少女の肩は心なし、震えている。(藪を遠景にフレーム・インして、バスト・ショットで静止)
 

膝の上に母の裸身のかぐはしき

 
 
 
  夢に生前の母を淸拭す 白き肌への美しかりけり
 
膝の上に母の裸身のかぐはしき

2015/02/09

耳囊 卷之九 王仁石碑の事

 

 王仁石碑の事

 

 河州(かしう)交野郡(かたののこほり)に、おにの墓といふ事あり。水野某大阪勤仕(ごんし)の頃、右銘を石摺(いしずり)になしたりとて見せけるを、左(さ)に記す。

 博士王仁之墓

と彫付(ほりつけ)ある由。年號も文もなし。仁德の頃の物にはあるまじ、其後遙(はるか)の後世に出來たるやしらず。しかれども、ちかき造立(ざうりう)とは不見(みえず)。楷書にて著(しるせ)しが、見事なる筆法なり。土俗は王仁を略語して鬼の墓といふ由、をかし。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。古碑考証シリーズ。

・「王仁」「わに」と読む。岩波長谷川氏注に、『応神天皇の時、百済から渡来し『論語』『千字文』を伝えた』とある。ウィキの「王仁には『『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。その姓から見て、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とする説もある』が、実在を疑う説、『帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説』などがあると記し、『楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、紀元前百七十年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。王仁も三百十三年の楽浪郡滅亡の際に百済へと亡命した楽浪王氏の一員ではないかと考えられ、楽浪郡の滅亡後に百済へ亡命した後、四世紀後半には日本へ移民したと思われる』という説を掲げる。

・「河州交野郡に、おにの墓といふ事あり」底本の鈴木氏注には、『大日本地名辞書、河内国北河内郡の宇山の条に、「延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。……宇山の東一旦菅原村字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟』とある。宇山か大阪府枚方市宇山町』と記す。ウィキの「王仁」には「王仁塚」の項があり、『真偽は不明であるが以下に示す』として、冒頭に大阪府枚方市藤阪東町二丁目にある大阪府史跡であるこの「伝王仁墓」が載る。『一六一六年(元和二年)、藤坂の山中にオニ墓と呼ばれる二個の自然石があった。歯痛やおこりに霊験があったとされた。禁野村和田寺の道俊は王仁の子孫と自称し、『王仁墳廟来朝記』を著した。藤坂村字御墓谷のオニ墓は王仁墓の訛ったものと表した』。『一七三一年(享保十六年)、京都の儒学者並川五一郎が上記文献により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立』(この碑が本文のそれである。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏)。『一九三八年(昭和十三年)』に大阪府が史跡に指定したとある。しかし岩波の長谷川氏注は『この碑は「おに塚」と呼ばれていたものを王仁に附会したもの』と断じていて、極めて否定的である(なお、同ウィキによれば別に大阪市北区大淀中三丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(王仁大明神・八坂神社)は王仁の墓と伝えられてあり、王仁大明神の近辺に一九六〇年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は王仁に由来していると伝承されているとある)。

・「水野某」水野若狭守忠通(ただゆき)。既注。彼は寛政一〇(一七九八)年三月より文化二(一八〇五)年八月まで大坂東町奉行であった。従って彼が実見した時は既に碑の建立から七十年前後が経過しており、碑の建立の謂われもこの頃には土地には知る者とてなかったものであろう。因みにこの藤坂村は藩領ではなく、古く久貝(くがい)家の旗本領であった。されば、そうした事蹟は最も伝わり難いものであることは容易に想像がつく。にしても……「仁德」?……西暦五世紀初めったあ、千四百年前でっせ?! そないな、けったいな! んなこと、幾らなんでも、ありえまへんて、若州はん!……根岸はんも、笑(わろ)うってまっせ!……(結構、根岸、これが旗本久貝家の建てたものと知っていたのではなかろうか?……いやいや、流石、そこまで意地悪ではあるまいが、根岸の「をかし」はすこぶる足捌きも軽々としている……) 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 王仁(わに)の石碑の事 

 

 河内国交野(かたの)郡に、「おにの墓」と申すものがあるという。

 水野某殿、

「……大阪勤仕(ごんし)の折り、その銘を拓本に成して御座った。……」

とのことにて、見せて呉れたものを、左に記しおく。

 

――博士王仁之墓

 

と彫り付けて御座った由。

「……年号も、これ、添えられた銘文も、一切御座らなんだ。……まず、仁徳帝の頃の物にては流石にあるまじいものにして、かの渡来したと申す王仁(わに)の亡くなった後……その後、遙か後世に、これは、建立されたるものか。……しかれども、そんなに最近の造立(ぞうりゅう)になるものとは見えず御座った。……ほれ、楷書にて彫り記(しる)して御座るが、これ、なかなかに、美事なる筆捌きで御座ろうが!……因みに……かの地の土俗にては、の……この「王仁(わに)」……略語して――「鬼(おに)」の墓――と申して御座ったわ。……」

との由。

 まっこと――面白い。――

譚海 卷之一  泉州めしからね居宅の事

 

 泉州めしからね居宅の事
 
○和泉國にメシ・カラカネと云豪富(がうふ)のもの兩人有。數百人を扶助し世にしられたる者也。メシが家には黃金にて造たる膳椀を所持せりとぞ。二階迄荷を付(つけ)たる馬を牽上(ひきあぐ)るやうに造(つくり)たる家也。家内を流水の通るやうに溝をほり、食事の時溝の左右に坐して食し、食し終れば膳椀をそのまゝ溝へ投入(なげい)る、水下(みづしも)にてとりあげてあらひ收(をさめ)る事也とぞ。

[やぶちゃん注:まず、ウィキ食野家(めしのけ)から引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。江戸『中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。屋号は和泉屋。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。『『食野家系譜』などの資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する十七世紀後半には、百隻近い船を所有して全国市場に進出するなど大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった』。『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が「佐野町場(さのまちば)」として城下町さながらに栄える中心となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』文化三(一八〇六)年には『三井家とともに本家が三万石、分家が一万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん尾張徳川家・紀州徳川家など全国の約三十藩に四百万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより一気に没落に至り、同家は同地に現存していない』。屋敷跡は『現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。またいろは四十八蔵も海岸筋に八棟が現存している』とある。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』として、伊かのように記す。『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われている』。『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来千人をとりあえずヒツに残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』。『井原西鶴の日本永代蔵に、唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する。)『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』。次にウィキ唐金家(からかねけ)も引いておく。同じく江戸『中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船や朱印船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業や両替商も行い、巨財を築いた。屋号は橘屋。同じく同地で栄えた食野家(めしのけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『井原西鶴の日本永代蔵に、「このごろ泉州に唐かね屋とて、金銀に有徳なる人出来ぬ。」と、実名で記されている』。『唐金家の家屋倉庫等が多数あった現在の大阪市西区堀江の家具屋が立ち並ぶ通りでは、唐金家の屋号「橘屋」にちなんで「立花通り」、これが転じて現在は「オレンジストリート」と名づけられている』。『また同地の汐見橋は唐金家が架けたといわれており、「唐金橋(とうがねばし)」の別名がある』とある。]

譚海 卷之一  城郭天守等の事

 城郭天守等の事
 
○我國の城と云もの、昔は殊にあさま成(なる)もの也しを、信長公の時耶蘇宗の者差圖して、石にて築き建たる事と成たるよし。天守といへるも其宗旨の本尊を安置せし所なるよし。常時城郭のごとく堅固なるは唐にもなき事也と、高市郎兵衞物語也。江戸の御本丸の天守雷火にて燒(やけ)たる、その同時に越前福井の城の天守も雷火にて燒たりとぞ。明和より百六十年程已然の事也。右福井の城下にケイマツと云世家(せいか)の者有。國の人は長者どのと稱する由、住宅は八つ棟造りと云普請なり。東照宮御寄住(およりずみ)ありし家にて、御由緒ある者也とぞ。

[やぶちゃん注:ここに記された城の「天守」閣(戦国末までは存在しなかった)を、キリスト教の「天主」由来とする説は仮説の一種としては確かにある。

「あさま成」「淺(あさ)まなり」で粗末だ、粗略であるさまを言う。

「江戸の御本丸の天守雷火にて燒たる」ウィキの「江戸城」の天守より引く(アラビア数字を漢数字に代えた。下線部やぶちゃん)。『太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(三重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で二重目屋根が方形造で錣屋根のようになっていた』。『徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(一六〇七年)・元和度(一六二三年)・寛永度(一六三八年)と三度築かれているどの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた』。明暦三(一六五七)年に『寛永度天守が焼失した後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは六間に縮小)。計画図も作成されたが』、保科正之(陸奥会津藩初代藩主。第三代将軍徳川家光の異母弟で、家光と第四代将軍家綱を輔佐して幕閣に重きをなした)の『「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた』。『また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようにな』ったとある。本文にはこの江戸城天守閣の落雷による回禄及び同時に起った福井城のそれは、「明和より百六十年程已前」とあり、明和は一七六四年から一七七二年で、その百六十年前とすると、江戸城でいうと家康改築の後、慶長一二(一六〇七)年のそれ以前となる。即ち、ここで淙庵が語っている天守焼亡は最後の回禄ではなく、江戸城最初の天守閣への落雷による大規模な天守閣焼失火災を指しているということが分かる。

「越前福井の城の天守」ウィキの「福井城の天守の記載(アラビア数字を漢数字に代えた)。慶長五(一六〇〇)年に『家康の次男である結城秀康が六十八万石で北ノ庄に入封されると、翌一六〇一年より天下普請による築城を開始する。一六〇四年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約六年の歳月をかけて完成する。完成した城は』二キロメートル四方に及び、『五重の水堀が囲む本丸には四重五階の天守が建てられていたが』寛文九(一六六九)年に焼失して後は、『以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説』があり、別資料ではそう断言したものもある。ともかくも前の注で私が計算したように、慶長一二(一六〇七)年のそれ以前の直近に起った江戸城天守回禄と同時に起った福井城天守の落雷による焼失火災であるということになる。

「ケイマツ」単なる同音で気になるのであるが、関ヶ原で討ち死にしたものの家康と親しかった豊臣秀吉の家臣にして越前敦賀城主であった名将大谷吉継ウィキ記載に、彼の両親が『が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という』とあり、また『大坂の陣よりのち、三男の泰重の子で吉継の孫にあたる重政は福井藩松平家に仕官し、その子孫は家老の家格に列した。老中土井利勝らはこのことを知ると、「家康が知ったら喜んだだろう」と言ったという』とある。これ、全くの偶然か? 識者の御教授を乞うものである。

「世家」古えより一定の相当地位や俸禄を受けること世襲していた由緒ある家柄。

「東照宮御寄住(およりずみ)」読みは不確か。家康が福井に立ち寄った際に、立ち寄って滞在した場所という意味であろう。]

譚海 卷之一 武藏國菅生にて土中より茶壺掘出の事

 武藏國菅生にて土中より茶壺掘出の事
 
○武藏國菅生(すがお)に田澤某なる者あり。居所の岡をほりたるに、茶壺のやうなる物をえたり。又天鷲絨(びらうど)の金入(きんいり)に織(おり)まぜたるを一卷えたり。又左文字の刀壹腰得たり。彼(かの)邊地をほるに、時々穴藏の樣なるものに掘あたる事有。皆地の底に人の住居する樣に構へたる物也。書院墓所など迄備りて有。戰國のとき亂を避て隱れ居たる處成べしといへり。掘あてたる時は、みなもとの如く埋みて置事なりとぞ。

[やぶちゃん注:……何だか、どこぞの旧石器時代の掘り出し名人の神の手みたようやなぁ……。

「菅生」現在の神奈川県川崎市宮前区菅生(すがお)。

「左文字」日本刀の名品とされる宗三左文字(そうざさもんじ 義元左文字とも)を騙った刀であろう。参照したウィキの「宗三左文字より引いておく。『元々は戦国時代、畿内を支配していた三好氏の三好政長(三好宗三)から甲斐・武田信玄の父である甲斐国主武田信虎に贈られた刀であり、刀匠の名は明らかとなっていない。その後、武田信虎が抗争を繰り広げていた駿河の今川氏とに間に和睦を結んだが、その一環として娘の定恵院を今川義元に嫁がせることなった際にこの刀を持たせ、駿河今川氏に伝播した。信虎の婿となった今川義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたと伝わる』。『その後、今川義元は上洛(京洛制圧すなわち天下掌握)の軍を起こ』したが、永禄三(一五六〇)年の『桶狭間の戦いにおいて義元はこの刀を持って出陣していたため、義元を敗死させた尾張の織田信長が戦利品としてこの刀を取得した。信長はこの刀に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」と刻印し、自分の愛刀とした。これは信長が日本の中枢を実質的に支配したのち、本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった』。『本能寺の変の後は、信長の家臣であった豊臣秀吉の手に渡った。のち天下を統一して日本第一の権力者に登り詰めた関白秀吉の死去後は、その子の豊臣秀頼の手に渡り、さらに、江戸幕府を開府した征夷大将軍徳川家康の手に渡った。これ以降、徳川将軍家の所有物として代々受け継がれていくこととなった。この経歴により、この刀は常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると言われてきた』。『その後、天明の大火にて被害に遭ったが、再刃され』、『明治維新後、明治天皇が織田信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、京都市北区の船岡山に建勲神社が創建された際、徳川家から信長所縁のこの刀(「義元左文字」)が同神社に奉納され』、『現在、同神社所有として重要文化財登録されている』。]

譚海 卷之一  觀世太夫家藏茶壺の事 附江戸冬木家藏茶壺

 觀世太夫家藏茶壺の事 附江戸冬木家藏茶壺

〇猿樂觀世太夫家に、室町慈照院殿より拜領の茶壺と云ものあり。普通のよりは拔羣大くして數奇屋に飾りたるを見しに、少し似合ざるやう也と、尾州の茶道物語也。又江戸の冬木某なるものの家に名物の茶器多し。先年松平左近將監(しやうげん)殿所望にて、白雲といふ茶壺をまいらせける謝禮に、金子八百兩賜りけるとぞ。實に數千金のものなりとぞ。

[やぶちゃん注:標題の「附」は「つけたり」と読む。

「室町慈照院殿」室町中期から戦国初期にかけての室町幕府第八代将軍足利義政。底本の竹内利美氏の注に『東山に山荘を設け』、別荘銀閣を創建、没後、『それが慈照寺となって残った』とある。京都市左京区銀閣寺町にある「銀閣寺」は通称で、正式には臨済宗東山(とうざん)慈照寺であり、ここはまた京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町にある相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である。

「松平左近將監」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。将軍吉宗の右腕として享保の改革をリードした老中。茶器のコレクターとしても知られ、自撰になる茶器目録、自蔵四十一種・諸侯秘蔵三百十七種を集録した「三冊本名物記」は後の「名物」という一般名詞の濫觴となったという。]

譚海 卷之一 大坂鴻池磁器の事

 大坂鴻池磁器の事
 
○大坂鴻池なるものの家に、名物の靑磁の皿壹枚あり。同人ある日二三輩同道して、生玉の酒屋に遊びたるに、料理に出せし皿の内に、此名物の血と同樣の物あり。少しもたがはず。一座嘆美せしに、鴻池なるもの此皿を亭主に懇望し、金三拾兩出しもらひうけ、卽座に金子相渡せし所にて、皿をば打碎き捨たり。同伴のもの驚き怪(あやしみ)て子細を問ひければ、此皿我等家に所持と毫末(がうまつ)違(たが)ふ事なし。我等所持の皿は世上に人のしる所なれば、同樣の物二つ有ては、われら所持の名を減ずる故、くだきすてたりと云り。

[やぶちゃん注:「大坂鴻池」は江戸時代に成立した財閥。十六世紀末、鴻池家が摂津国川辺郡鴻池村(現在の兵庫県伊丹市鴻池。グーグル・マップ・データ)で、清酒の醸造を始めたことに始まる。その後、一族が摂津国大坂に進出し、両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は、江戸時代に於ける日本最大の財閥に発展し、明治維新後は華族の男爵家にも列した(当該ウィキに拠った)。

「生玉」大阪市天王寺区北西部の一地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。地名は、天正一一(一五八三)年に、上町台地北端から、この地に移された生国魂 (いくくにたま) 神社(=生玉神社)があることに由来する。境内の東に、近松門左衛門の「生玉心中」に因んだ浄瑠璃神社がある。一帯は城下町であった頃の寺町で、現在も寺院が多い(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

譚海 卷之一  除夜禁庭樹木毛蟲を去る事

 除夜禁庭樹木毛蟲を去る事
 
○禁庭(きんてい)の樹木の毛蟲を去る法、毎年除夜にするめの足を一二寸程づつに切、竹の筒に入て、枝毎にさげらるゝとぞ。毛むし翌年生ずる事なしといへり。

[やぶちゃん注:「禁庭」禁中。宮中。]

津村淙庵「譚海」始動 / 譚海 卷之一 相州大山不動堂除夜の事

「譚海」の電子化を始動する。

 

譚海   津村淙庵   附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。底本では目録に一括して示されてある標題を各話の冒頭に配した。一部、読みにくいと私が判断した箇所に禁欲的に私の推定する読みを歴史的仮名遣で振った。現在、私は他に複数の電子化注釈を手掛けているため、これは本文電子化を旨とし、注は最小限に留めた。各話は繋がっているが行空けを施した。

 津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。「津村」の代わりに「員」「圓」と記した。京都生。後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。

 本電子化は、私をよく可愛がってくれた大先輩の体育教師の大先輩が、この津村の「譚海」を、若い頃に面白く読んだと述懐しておられたのを思い出した。いつか、それにお応えして電子化をしようと思っていた。ここにやっとそれを叶えられる。但し、膨大なため、何年かかるか、判らない。]



譚 海 卷の一

 

           藍川  員 正 恭 著

 

 相州大山不動堂除夜の事

○相模國大山不動堂に、每年除日(ぢよにち)、相模一國の人登山して煎豆をまく事也。それを年番の坊より人を出して掃集め、俵に造り、一山の坊々へわかち送りて、一年中の味噌豆にする事也。每年五十俵ほど集るといへり、人々二合三合づつ持登りてまきちらす事なれども、大勢の事故かくの如し。尤(もつとも)富(ふ)なる者は、二三升或は其餘も每年例に隨てまく事也。除日に近き四五日已前より登山してまく事也。又同山石尊權現の寶物に小石あり、靑色なり。先年安部友之進採藥御用にて廻國のとき、この石を拜見せしに、綴耕錄にいへる鮓荅(さたう)といふ石なるよし。折節旱損(かんそん)にて雨乞しけるに、此石を友之進乞出(こひいだ)して綴耕錄にあるごとく水にひたし雨乞せしに、雨降て土民大によろこべりといへり。又駿河國三保の松原に靑白色にて小判がたの石あり。是は山谷集に堶石(だせき)といふ物にて、水甕へ入置ばよく水を澄(ちやう)す石也。又河内國膽駒山(いこまやま)にかなつほ石といふあり。是は大乙餘糧(だいいつよりやう)也と云り。

[やぶちゃん注:「除日」大晦日。

「綴耕錄」元末明初の学者陶宗儀(九成)撰になる優れた考証雑記。なお、この本はその「想肉」の項で人肉調理法を記すものとして、その方面では知られた奇書でもある。底本編者注に、本邦では承応年間(一六五二年~一六五四年)に刊行されているとある。

「安部友之進」本草家阿部将翁(しょうおう ?~宝暦三(一七五三)年)。名は照任又は輝任、通称は友之進。ウィキの「阿部将翁」によれば、本草学の実際的知識に秀でていたが、著作があまり残さていないことからその事蹟には諸説あり、一説に盛岡藩閉伊通豊間根村(現在の岩手県山田町)の出身とし、延宝年間(一六七三年~一六八一年)に『大坂に向かう船が台風で難破し、清国に流れつき清国で医術、本草学を学んで帰国したとされる説(東条琴臺の『先哲叢談続編』)や、密航して清国に渡った説、長崎で清国人、オランダ人に本草学を学んだする説などがある』。享保六(一七二一)年、『幕府に雇われて採薬使となり、野呂元丈らと各地に採薬旅行を行』い、享保一二(一七二七)年には『陸奥国釜石の仙人峠で磁鉄鉱を発見したとされ、釜石鉱山が開かれるもととなった。「採薬使記」「御薬草御用勤書覚」などの記録を残した。幕府の命により薬園を開き、将翁が監督した。対馬藩から献上された朝鮮人参の生根、種子から栽培に成功した。弟子に田村藍水がいる』(ここから本話の呪的なものとは別に科学的な鉱物学の知識にも長けていたことが分かる)。享年は八十八とも一〇四歳ともされるとある。

「鮓荅」「さとう」と読む。「耳嚢 巻之四 牛の玉の事」の「牛の玉」の注に詳述しておいた、一般には家畜動物の腸内結石と信じられた石様の物質(そうでない物や捏造物も多数含まれるので注意)。また、そこでも引いた私のサイトの電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」の「猨(えんこう)」の注で引用した、ブログ版「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」のテクスト及び私の注も参照されたい。

「旱損」旱(ひで)りの害。

「山谷集」北宋(ほくそう)の詩人で書家の黄庭堅の詩集。

「堶石」「廣漢和辭典」に「堶」(音タ・ダ)とし、『つぶて遊び。塼(セン/かわら)を飛ばし投げる一種の遊戯、打瓦』と記す。「塼」は中国の建築材の一つで後の煉瓦やタイルなどに類したもので、粘土を型に入れて成形し、そのまま乾燥させたり焼いたりしたブロックや瓦様の素材で、周代に始まって漢代に発達、本邦には奈良時代に伝わっている。微小な孔を構造的に持つから当然、これには濁った水を澄ませる効果が望まれるものと思われる。

「膽駒山」底本には「胆」の右に『(生)』と訂正注がある。

「かなつほ石」金壺石或いは鉄漿壺(かなつぼ)石か。幾つかの伝承を確認すると、その中でもやや現実的なものとしては、那須高原に那須与一の妻が鉄漿(おはぐろ)を採った石と称する石があり、墓石会社「松島産業株式会社」の社長コラムに、これは花崗岩系或いは閃緑岩系の石で、『ちょうど上部に雨水が流れてきて溜まるようなくぼみがあり、石本来が含む鉄分や周辺の土壌に含まれる酸化鉄が溶け出して、鉄漿のような色になったものと思われ』るとある(但し、『厳密にはこのまま使用してもお歯黒用には使えない』と注記がある)。

「大乙餘糧」前の「かなつほ石」の別称。「大乙」は恐らく、紀元前千六百年頃に夏の暴君桀を追放して夏王朝を滅ぼした商の創始者である初代の王、湯王のことを指す。名は天乙(てんいつ)の他に大乙・太乙・成湯・成唐などとも称した。夏の禹・周の文王・武王と並ぶ聖王として後世に崇められた聖王で、中国の伝説にありがちな、聖君子が食したりして残した残飯(餘糧)が変じ、希有の形状の生物や奇石となったという博物誌上の呼称と思われる。]

耳嚢 巻之九 鰹の烏帽子蛇の兜の事

 鰹の烏帽子蛇の兜の事

 

 鎌倉の海の鰹、富士を拜むとて烏帽子着ると、土俗の口の端(は)に唱ふる事、予も右烏帽子を見し事ありき。是をとりて用ゆれば、勞症の病ひを直すと聞(きき)しが、蛇の兜(かぶと)といふ物を見しと、營中にて某の語(かたり)しが、其細工誠に甲に似、錣(しころ)幷(ならびに)鍬形(くはがた)など現然と備(そなは)り、いかにして拵(こそらへ)けるやと思ふ計(ばかり)の由語りぬ。小鳥の巣を作り、蠶(かいこ)の繭を懸(かく)るに、競(くらべ)てはあるまじき事にもあらず。是も又造化の一奇事と、爰に記し置(おく)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法記載は含まれており一部繋がる。私好みの博物誌シリーズの一つである。

・「鰹の烏帽子」底本の鈴木氏注に、『『立路随筆』巻一に、「三浦三崎の浦に、此の烏帽子流れ寄る時、鰹烏帽子ぬぐと云ひて、それより初鰹を釣りに出るなり。此のえぼしの寄らざる内は、鰹取りに出ざる由。其の形如此。  色白く水月に似たり。紉(いと)の如き物紺色に光る。針あり、至って毒あり。人手を著ければ忽ち痛み腫るゝと云ふ。」また『譚海』巻九にも、初鰹のはしりは、江の島ではホロセといって賞美しないが、それが捕れて数日後、烏帽子のような物をいただいて出てくる鰹があり、これを初鰹といって珍重する。これを釣った漁師はまず弁天に供え、公儀にも献上するとある』とし、岩波版長谷川氏注には、『カツオノエボシ科のクラゲ』として、以下に上記の鈴木氏の注の内容を簡略にして記す。

 「立路随筆」は江戸中期の江戸(内容より推定)の俳人林百助(立路は「りつし」と読み、彼の俳号。それ以外の彼の事蹟は未詳)の書いた一五六条からなる随筆(成立年未詳)で、私は既に在野人となった直後の二〇一三年四月十八日のブログ「海産生物古記録集■1 「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載」で、当該本文及び詳細な私のオリジナル注と現代語訳を公開している。そちらを是非、参照されたいが、原文は至って短いので、ここに絵入りで紹介しておく。

   *

一鰹の烏帽子 三浦三崎の浦に、此烏帽子流寄時は、鰹烏帽子を脱ぐと云て、夫より初鰹を釣に出るなり。此えぼし寄らざる内は、鰹取に不出由。

 其形如

Katuonoebosirisi

色白ク水月(クラゲ)ニ似タリ、紉ノ如キ物紺色ニ光ル、針アリ、至テ毒アリ、人手ヲ著レバ忽痛ミハルヽト云。

   *

 「譚海」の方は津村正恭(淙庵)著になる怪奇譚集(寛政七(一七九五)年自序)である。以下に当該箇所を示す。読みは私が附した。

   *

○鰹の獵は相州江の島の沖を盛(さかん)なりとす。毎年三月下旬四月初めのころ、はじめて鰹を獵し得るなり。江戸の豪富(がうふ)のもの一日もはやく調理に入るを、口腹(かうふく)の第一と稱美(しやうび)する事なり。然れども江の島にては猶(なほ)ふかせと號して稱美せず、数日(すじつ)の後(のち)初(はじめ)て烏帽子の如きものをいたゞきて出來(しゆるたいせ)る鰹有(あり)、これをはじめて初鰹と稱する事なり。是を釣(つり)えたる獵師先(まづ)辨才天に供し、さて公儀へも奉る事といへり。鰹の盛に獵あるときはわきめつかふ事あたはず、鉤(はり)を投ずれば手に随(したが)てかゝり、暫時に舟中に充滿する事なり。餘りしたゝか釣(つれ)たる時は、わにざめ鰹に付(つき)たりとて、釣(つり)たるかつをを數十本繩につかね、海中へ投入(なげいれ)てそれに合(あはせ)て、いそぎこぎもどる事といへり。

   *

 最後の「餘りしたゝか釣たる時は、わにざめ鰹に付たりとて、釣たるかつをを數十本繩につかね、海中へ投入てそれに合て、いそぎこぎもどる事といへり」というのは、

――余りに度を越して大漁であった折りには、却って尋常ではないことからこれを海難などの不吉な予兆などとし、特に「わにざめが鰹についた」(邪悪な鮫が鰹を追い駈けている)と称して、釣った鰹を数十本も縄に結わいつけて、船の後ろから投げ入れ、投げ入れては急ぎ漕ぎ、投げ入れては急ぎ漕ぎして、その及ぼすところの災難から逃れるという――

という意味である。「わにざめ鰹に付たり」は実際に鮫類が鰹を追っている訳ではなく、過剰な豊饒を日常から逸脱した異界的現象としてを不吉とする原初的信仰に基づくもので、フレーザーの共感呪術的表現である。実に面白い。

 なお、両書とも「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年夏以前に記されたものである。

・「鰹の烏帽子」私の偏愛する刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalisLinnaeus, 1758)。

・「勞症」労咳(ろうがい)。肺結核。但し、この漢方の効用は不詳。切に識者の乞うものである。因みに、クラゲ類の有毒成分はあまり進んでいない。医薬品情報21は殺人クラゲの異名を持つイルカンジを主としつつ、「危険な刺胞動物の代表例」を掲示し、しかも注で『カツオノエボシの粗毒は、活性ペプチド、各種酵素、その他の因子からなる多成分系の総合作用で、皮膚壊死性、心臓毒性がある』とある珍しい詳細記載である。また、強毒性の刺胞毒を持つハブクラゲやアンドンクラゲなどの立方クラゲ類の主要なタンパク質毒素のアミノ酸一次配列とその全遺伝子配列が最近の研究で明らかにされると、それらの毒素群が新しいタイプのタンパク質ファミリー、即ち、稀に見る強い生理活性を持つ今までに例のないタイプのタンパク質で構成されていることが判明し、癌や致死性の高い疾患を引き起こすウィルスを死滅させる医療上の効果が期待されていることを言い添えておく。

・「競(くらべ)ては」は底本の編者ルビ。

・「蛇の兜」この後の「耳嚢 巻之十」の「蛇甲の事」の項で絵入りで詳述されてある(今年の初夏までには電子化訳注予定。乞うご期待……というものの、実はその添えられてある図を見ると……なあんだ! これは「あれ」じゃやないか!……という代物ではある)。蛇の兜に類似した奇物については、実は私はそれとは全く別な情報と真相解釈を持っており、既に別な箇所で電子化しているのであるが、それについてはその「蛇甲の事」の注まで温めておきたいと存ずる。悪しからず。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鰹(かつお)の烏帽子(えぼし)・蛇(へび)の兜(かぶと)の事

 

 鎌倉の海の鰹、富士を拝まんとて烏帽子を被ると、土俗の漁師の口の端(は)に唱えており、私も実は、この「鰹の烏帽子」なるものを実見致いたことがある。これを薬として用うれば、かの宿阿たる労咳(ろうが)の病いをも、これ、治すとも、また聞いておる。

 また、別に「蛇の兜」と申す奇物を見たと、営中にて、さる御仁の語っておられたも耳にした。その話によると、その細部の細工に至るまで、まことに本物の甲に酷似しており、錣(しころ)并びに鍬形(くわがた)など、これ、現然と備わっておって、

「……いや、まっこと、これ、如何にして蛇如き虫なんどが拵えたのであろうか、と驚き呆れんばかりのものにて御座った。……」

と語られた奇物であった由。

 しかし、小鳥がかような巧みなる巣をも作り、蚕(かいこ)の糸を吐いて、かくの如き美しき繭をかくることなどと比して考えてみたならば、これ、あるまじいことにてもあるまい。これもまた、玄妙なる造化の一奇事ならんと、ここに特に記しおくこととする。

2015/02/08

耳嚢 巻之九 ものもらい呪の事

 ものもらい呪の事

 

 眼ぶちに出來る腫物を、俗にもの貰ひといふ。是を直すに、障子につばを以(もつて)指にて穴を明(あ)け、右穴へ出來ものある目をおし付(つけ)、庭の方を見出し、右目のとまる所へ、三火(さんび)づゝ灸をすゆれば、其夜より快(こころよき)事奇妙の由、平田翁のかたり給ひし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。なかなかモロ呪(まじな)いらしい民間療法呪(まじな)いシリーズの一つである。底本の鈴木氏注に、『三村翁曰く「ものもらひの咒、江戸には色々あり、知れる家へ行きて、結飯一ツ貰ひて軒下にて食す、又井戸のへりへ、味噌漉笊を半分出し、此腫物愈し給はゞ、皆見せ申すべしと井戸神様へ掛合ふ也、又紙捻を眼の寸法にきり、腫物のある処へあてがひ、墨にてしるしをつけ、そこへ灸をすえる。尚あるべし。」』とある。また、ネットを検索すると、患部の目の近くで糸を結び(患部に触れるという意味ではないので注意されたい)、それを水に流して捨てるという呪(まじな)いがあるというのが散見される。

これは「結(むす)びの呪(しゅ)」或いは「結び切り呪(しゅ)」と呼ばれる呪術で、病気や災厄を糸で結び、それを水に流すことによって疾患の身体との縁を切ろうとするものという解説が正統陰陽師第二十七代とする安倍成道氏のブログのにあった。フレーザーの言う感染呪術の一種であろう。

・「ものもらい」眼瞼(目蓋)にある特殊な皮脂腺の一つであるマイボーム腺(Meibomian gland:目蓋の縁にあって目の涙液膜の蒸発を防ぎ、涙が頬にこぼれ落ちるのを防止したり、閉じた目蓋の内側を気密にする働きを持つ油性物質(皮脂)の供給を掌る。瞼板腺(けんばんせん:tarsal glands)とも称する。)やまつ毛の根元の脂腺に発生する細菌性の急性化膿性炎症である麦粒腫(ばくりゅうしゅ)のこと。マイボーム腺に生じた炎症を内麦粒腫、睫毛の根元に出来たものを外麦粒腫という。マイボーム腺の出口が詰って中に分泌物が溜まった非急性で細菌感染を伴わないものは区別して霰粒腫(さんりゅうしゅ)と称し、こちらは通常、痛みや掻痒感は伴わない。但し、これに感染を伴う場合もある(急性霰粒腫)。地方によってはこれらを総称して「物貰い」の他に「めばちこ」「めいぼ」などとも呼ぶ(以上は眼科医や各種ウィキの記載を参照した)。

・「平田翁」不詳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ものもらいの呪(まじな)いの事

 

 目蓋に出来る腫物を、俗に「もの貰い」という。

 これを直すには、昼の内に、家の庭に面したる部屋の障子に唾を以って指で穴を空け、この穴へ出来物のある目を押し付け、そこから障子の外、庭の方を見通し、その視線の止まったる箇所(複数で構わぬ)をよく覚えおき、それよりすぐに庭に降り、その先ほど眼の止まった場所に、これ三度ずつ、灸を据えれば、これ、その夜より、まさに文字通り、瞬く間に快方へ向かうこと、これ、奇々妙々の由、平田翁の語られて御座った。

耳囊 卷之九 外山屋鋪怪談の事

 

 外山屋鋪怪談の事

 

 尾州外山の御屋鋪(おやしき)、名だゝる廣大の事にて、五十三次の景色其外山水の眺望疑ひなしとかや。いつの頃にかありし御成(おなり)有之(これある)に付(つき)、前に奧向(おくむき)より右御場所(おんばしよ)見分(けんぶん)ありけるゆゑ、彼(かの)御家(おんけ)の役人も案内なしけるが、片山里(かたやまざと)と思しき所にありて、錠(ぢやう)を懸けて、いかにも社(やしろ)も古く事古(ふ)りし所なるに、其頃頭取(とうどり)勤めける夏目某(ぼう)、氣丈(きじやう)成(なる)生質(たち)なりしか、此社は何故(なにゆゑ)錠封有之哉(ぢやうふうこれあるや)と尋(たづね)ければ、役人答へて、是は昔より申傳(まうしつたへ)の邪神を封じ込(こめ)しとて、此錠を明(あけ)候事はつひになき由笑ひて答へければ、かかる事あるべくもなし、御成には、我等見分に罷越(まかりこそ)し候上は、若し封錠の儀、御尋(おたづね)あるまじきにもあらず、一覽致度(いたしたし)とありしを、達(たつ)て留(と)めけれど、改めんと有(ある)も謂(いはれ)なきにもあらず、鎰(かぎ)を給(たまは)れと請取(こひとり)て、彼(かの)錠を明(あけ)て扉をひらきしが、大きに驚きたる體(てい)にて早々扉を締(しめ)て、元のごとく錠を懸(かけ)しとなり。跡にて聞(きき)しに、何か眞黑成(なる)もの、頭をぐつとさし出せしが、眼の光りあたりを照(てら)し、恐(おそろ)しといふも計(ばかり)なしと、彼(かの)頭取のかたられるとなり。

  按ずるに怪にはあるべからず。猥(みだ)
  りに口說(くぜつ)にかけては惡敷(あ
  しき)品を、先代封じて社に崇め給ふな
  らんを、夏目心得てかくかたりつらん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。怪談ながら、根岸の附言によって真相が明かされてしまっている。しかし、では、その「先代封じて社に崇め給」うたという、「猥りに口說にかけては惡敷品」なるものとは如何なるものかという別な興味が生じてしまう。これ、私に言わせれば、その素性を探し得ない、これ、性質(たち)の悪い注釈と言いたくなる代物だ。役方が「笑ひて答へければ」というのが、そも! 何とも怪しいぞ! 男女の生殖器に模した陽物か、陰物崇拝の陰陽石なんどが、どーん! と鎮座していたか? ♪ふふふ♪

・「外山屋鋪」底本の鈴木氏注に、『尾州藩の下屋敷。新宿区喜久井町、戸山町にわたる地域を占めていた』とある。現在の東京都新宿区にある集合住宅の戸山ハイツ及び都立公園戸山公園周縁一帯に相当する。

・「五十三次の景色其外山水の眺望疑ひなし」ウィキの「戸山公園に、『当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷であった』とあり、第二代『藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた。寛政年間には』第十一代『将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であった。この頃の戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻が現存している。その後は数度の火災や水害により荒廃したが、尾張藩の財政難などもあり復興されなかった』とあるから、本文にある将軍の「御成」はこの家斉のことであったことが分かる(後注参照)。なおその後のここは、『明治維新後、戸山山荘は明治政府に明け渡される。跡地には』明治六(一八七三)年に『陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された』(邪神を封じていた地に建ったのが後のおぞましい大日本帝国の陸軍施設であったことの方がよっぽど怪談になろうというものだ)。昭和二四(一九四九)年に跡地に『戸山ハイツの建設が開始され』、昭和二九(一九五四)年には『敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した』とある。また、新宿観光新興協会公式サイト内の「戸山山荘跡」には、『現在の戸山ハイツ一帯は、江戸時代、徳川御三家の一つの尾張家の下屋敷で、戸山山荘と』称したとあり、『この下屋敷は尾張家二代藩主徳川光友が済松寺開祖祖心尼から土地を譲られ』、寛文八(一六六八)年に『着工。総坪数は十三万六千余り(約四十五平方メートル)で、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸家の後楽園と並ぶ名園』と知られたとある。寛政二(一七九〇)年『十一代徳川家斉を迎えたとき大修築を行い、その直後、谷文晁にその景色を絵巻に描かせており、文人画風の折本帖として伝えられて』あり、『また、当時の文化人として有名な大田南畝も』、寛政五(一七九三)年に『招かれて見物しており、そのときの模様を随筆『半日閑話』に記してい』るとある。『その後の享和、天保、安政年間に相次いで火災や風水害にあい、再び荒廃。とくに』安政六(一八五九)年に起った『青山大火で類焼した後は復興され』なかったとある。『現在、当時の庭園の一部であった「箱根山」と呼ぶ築山が残ってい』るとある。「牛込市谷大久保繪圖」の切絵図でその位置と大きさが確認出来る。

・「御成」前注により、第十一代将軍徳川家斉となると、彼の在任期間は天明七(一七八七)年より天保八(一八三七)年であるから、当代の尾張藩藩主は尾張藩中興の名君と称された第九代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし 享保一八(一七三三)年~寛政一一(一八〇〇)年)か、次の第十代藩主徳川斉朝(なりとも 寛政五(一七九三)年~嘉永三(一八五〇)年)と思われ、恐らくは後者ではないかと推測される。何故なら、この斉朝は将軍家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男であり、しかもその正室は家斉の長女で従姉にあたる淑姫だからである。なお、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、実際にはこれはそう古くない直近の出来事であったと考えられる。

・「片山里」辺鄙(へんぴ)で寂しい山里、田舎の謂いであるが、ここは実際に庭園内にあった辺鄙な場所というよりも、人工的に辺鄙な山里を擬えた箇所であろう。そこに本物の祠(やしろ)があって、しかもこれに鍵がかけられ封印までなされてあったのを、検分役は人工の装置であるはずなのに訝しいと、実に鋭く見咎めたのである。何より、尾張藩の役方が「笑ひて答へければ」というは、夏目「坊つちやん」ならず俺とても気に入らねえ! 御役目柄、俺も空けて見るね!

・「夏目某」不詳。漱石の御先祖だと、話柄といい、何となく面白いんだけどね。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 外山屋敷の怪談の事 

 

 尾張徳川様の外山の下屋敷は、これ、その広大なることで知られた御屋敷にして、東海道五十三次の景色を庭園に造り、その他にも園内山水の造景、これ、眺望麗しきこと、疑いなしとか申す。

 いつの頃のことで御座ったか、かつて、ここに上様御成りの、これ、あらるることと相い成り、それにつき、事前に奧向きより、御成りにならるる御場所(おんばしょ)に就いて、子細なる検分の儀、これ、御座ったによって、かの尾張徳川様方の役人も同道なして随所を案内(あない)致いたと申す。

 その際、庭園の一画に「片山里(かたやまざと)」を模したと思しき景色のあって、そこにあった祠(やしろ)に、これ、本物の錠(じょう)が掛けられて御座って、これ、作り物とは思われぬもので、その古さたるや、その用材や建て方より見ても、尋常でなく、まっこと、古びたるも祠なので御座った。

 その時の大奥検分方の頭取を勤めて御座った夏目某(ぼう)と申さるる御仁、殊の外、気丈にして癇症の性質(たち)の者にて御座ったものか、

「――この祠は何故(なにゆえ)に錠封(じょうふう)なされてあるものか?」

と糺いたによって、尾張藩の役人、これに答うるに、

「……これは、昔より、この地に申し伝えておりまするところの――何でも、邪(よこしま)なる神を――さる聖人の封じ込めおいたるもの――とか申して御座って、錠を開けて中を見た者は、これ、未だ嘗て独りとしておらぬと、聴き及んでおりまする。……」

と、笑って答えたによって、夏目殿、これがひどく癪に障り、ことさらに畏まると、

「――そのような馬鹿げた話、これ、あるびょうもあらず! 御成りがために、我ら、とくと検分に罷り越したる上は、笑いごとにては、これ、済み申さぬ!――若し、上様、この祠に目をお留めになられ、封錠(ふうじょう)の儀を見とがめられて、それは何故との御訊ねがないとは、これ、限らぬ!――まずは――祠の内、これ、一覧致したく存ずる!――」

と告げた。

「……いや……古えよりそう伝えて参っておりまするものなれば……こればかりは……御身がためにも……お止めなさるるが、これ、よろしいかと、存じまする……」

と、またしても唇頭(しんとう)に何やらん、意味ありげな笑みを浮かべ乍ら、妙に頻りに制止致いた。

 さればこそ、さらにきっとなって、頑なになったる夏目殿、これ、

「――上様御成りの検分役たる我ら儀!――ここにこの邪神を封じたるとか申す――開かずの祠!――これ、改めんと申す我らも! 謂れなきことにも、あらずッ! 速やかに、鍵を給われよ!」

と、強く請うたによって、役方も仕方のぅ、鍵を出だいた。

 さても夏目殿、かの祠の錠(じょう)を開け、扉を開いて中を覗いた……ところが……

――夏目殿

――これ

――大きに驚いたる様子にて

……御自(おんみずか)ら、早々に扉を締めてしまわれ、また、元の如く、錠を懸けた、と申す。…… 

 

……後になってより、訊いて御座ったところによると、

「……いや……祠の奥には、の!……何やらん……こう、真っ黒なるものの、蟠ってござって、の!……それが……こう!……ぐうっと!……頭を!……我らが顔の前にさし出だいて参ったのじゃ!……皿のようなる二つの眼が!……これ!……爛々と耀いて御座って……その光が暗き小さき祠の中(うち)を……これ……ぼーぅっと……蒼白く照らし出しておっての!……いや、もう!……恐ろしいと口に出して申すもこれ、憚るるほどの……恐ろしきことで御座ったのじゃ!……」

とのこと。

 

 これは頭取で御座ったその夏目殿御自身が、直かに語られた話、とのことで御座る。 

 

〇根岸附記

 按ずるに、これは怪異にては、御座ない。

 猥(みだ)りに口に出したり、人に見せては良ろしからざる古えの呪物(じゅぶつ)か神仏などを、尾張家の御先祖が見出したによって、この祠の内に封じてそれを隠し、且つ、隠に崇め祀っておられたと思わるもので御座ったことを、夏目殿、祠を開けて見た、その折り、これ、直ちに心得たによって、かくも恐ろしげなる怪談を装われて、かの祠を二度と再び、開けさせぬよう、作話なされたものに違いない。

 

耳嚢 巻之九 心有武夫の事

 心有武夫の事

 

 平野家の家士かたりける由。芝(しば)切通しの酒抔うる料理茶屋にやすらひ、一盃を飮(のみ)て暑欝(しようつ)をはらしけるに、遙か向ふに侍壹人酒飮て以前より暫くあり。價ひ抔算用して、扨(さて)帶を締直(しめなほ)し候迚、大小を脇にぬきゆるりと着替(きがへ)て、右脇差を立(たち)ながらとるとて取落(とりおとし)、隣に酒飮居(さけのみをり)し境の小衝立(こづいたて)を越して、右脇差隣の客の方へ落(おち)候故、右侍大きに驚き、扨々怪我(けが)ながら麁相(そさう)至極なり、怪我にても仕玉(したま)はずやと、念頃(ねんごろ)に式禮詫(しきれいわび)しけれど、右隣の客は町人と見えしが、無作法至極、危きめに逢(あひ)しと、侍へは挨拶もいはず、右脇差を己が膝元に引付(ひきつけ)て、空(そら)うそむきて對(こたへ)なし。彼(かの)侍もいろいろ詫(わび)けれど、不取用(とりもちひざる)故、全(まつたく)ゆすり事なすよと思ひければ、彌(やや)言葉をいやしくして、何分(なにぶん)許用(きよよう)あるべし、何ぞ詫の趣意も付度(つけたく)候へども、爰元(ここもと)には持合(もちあは)せなし、宿元へ立歸(たたいかへ)り、いくへにも詫事(わびごと)可致(いたすべし)と申(まうし)ければ、少しく許用の樣子なれば、然る上は脇差を返し可給(たまふべし)といふ。此品を返す事は、何分難成(なりがたし)とて、得心なさゞる體(てい)なり。然るに其鄽(みせ)にて、年頃少しおとなびたる侍、是も最前(さいぜん)より酒飮て右樣子を見請居(みうけをり)けるが、亭主を呼(よび)て、あの侍と町人、先刻よりの始末、其方(そのはう)は見請居(みうけゐ)て、何故(なにゆゑ)詫言(わびごと)も致不申哉(いたしまうさざるや)と申ければ、亭主も最前より度々(たびたび)なだめ候得(さふらえ)ども、とく心(しん)無之(これなき)故、いたし方にこまり候由を答へければ、夫(それ)は了簡違ひなるべし、今一應行(ゆき)て事濟(すみ)候樣可被扱(あつかはるべし)、若(もし)相手の侍勘忍不致(いたささざる)になり候はば、其方も難儀成(な)るべしと申(まうす)ゆゑ、亭主も尤(もつとも)と存(ぞんじ)、又候(またぞろ)罷出(まかりいで)て、侍へも譯(わけ)を申(まうし)、相手の町人へも、何(いづ)れ了簡有(あり)て、脇差を御返し可然(しかるべし)と申(まうし)けれど、何分得心せざるゆゑ、せん方なく最前助言の侍へ其譯申(まうし)ければ、右侍大きに怒り、武士は相互也(あひたがひなり)、不屆成(ふとどきなる)素町人(すちやうにん)、此上は相手の侍は事を忍ぶとも、我等合點(がてん)難成(なりがたし)と、刀引提(ひつさげ)可打果(うちはたすべき)仡相(きつさう)なれば、右に驚きしや、彼(かの)奪押(うばひおさ)えし脇差も捨置(すておき)、其外草履(ざうり)をもはき違ひ候程(ほど)にて、いづ地へ赴(おもむき)けん、かげも見えず迯去(にげさ)りければ、彼(かの)侍は酒食の價(あたひ)を拂ひなどして立歸(たちかへ)らんとせし頃、最前町人に不法の目に逢(あひ)し男、彼侍の前に至り、誠に御影(おかげ)故、時の災難を免れたり、某(それがし)は誰(だれ)家來にて何某と申者なり、先刻よりの始末、不甲斐性(ふがひしやう)とも思召(おぼしめ)されん、今日内々にて罷出(まかりいで)、主人の名前を出さん事何とも歎(なげかは)しく、何卒事穩(おだやか)にと存(ぞんじ)、未練の振舞(ふるまひ)とも思召されん、然るに誠に再生の恩を請(うけ)候故、御禮にも參り度(たき)間、御名(おんな)御宿所(おんしゆくしよ)も承度(うけたまはりたく)と、再應尋(たづね)けれど、いや御禮にも可及(およぶべき)筋に無之(これなし)とて、何分名前所ども不申(まうさず)。然上(しかるうへ)は是(これ)にて御酒(ごしゆ)一つ進上致度(いたしたし)迚、亭主を片脇に呼寄(よびよ)せ、屋敷へ内々人にても遣し候樣子にて、酒食を才覺致(いたし)候内、いづ地へ行けん、彼(かの)武士不相見(あひみえず)。立歸(たちかへ)りて茶屋のものにも聞(きき)けるに、雜式町(ざふしきちやう)の方へ參られし由申ければ、則(すなはち)直(ぢき)に追駈(おひかけ)て、道七八丁にて漸(やうやく)追付(おひつき)、何卒立歸り、一盃を汲み給へかしと申ければ、彼(かの)武士不思議なる顏色(かほいろ)にて、不存(ぞんぜざる)御方成(な)るが、如何成(いかなる)儀に候哉(や)、定めて人違ひに候らん、我等茶屋へ寄りて酒給(たべ)候事もなし、御身は一向しらざる御方なりと、さらに取合(とりあは)はざれば、いや脇差を隣座舖(となりざしき)へ取落し候事に付(つき)、御身の御影にて、危難を遁れし物をと申ければ、我等は不存(ぞんぜざる)事ながら、脇差抔御取落(おんとりおと)しと申(まうす)も、餘り御物語り不出來(ふできに)に付(つき)、何れ不存(ぞんぜざる)御方なれば、くわしく御答(おこたへ)もいたしがたし迚、立別(たちわか)れ行(ゆき)しが、遖(あつぱ)れの武士なりと咄しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:孝心の貞女より、遖れ武士の鑑で連関。

・「平野家」大和国十市郡田原本(現在の奈良県磯城郡田原本町田原本)を領有した平野氏か? 豊臣秀吉の腹心で「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた平野長泰に始まる(秀吉への忠誠が災いして、江戸になっても七人中、唯一、大名となれなかった)。大和国内に五千石を与えられたが、これは交代寄合(こうたいよりあい:参勤交代を行う格式の旗本。)表向御礼衆であった平野家の知行地であって正式な藩ではなかった。幕末期、当時の当主であった平野長裕が佐幕派と尊王派の間を巧みに立ち回ったことから、慶応四(一八六八)年七月に新政府の計らいによって実高に高直しされ、一万石で大名に列し、ここに田原本藩を立藩、後に藩知事となったが、明治四(一八七一)年七月の廃藩置県により免官となっている。事実上、藩であったのはこの明治維新期の三年間だけであった(以上はウィキの田原本藩平野長泰「平野長裕」などを参照した)。

・「芝切通し」切絵図で見ると、現在の神谷町駅を南東に登った港区芝公園三丁目にある正則高等学校と、その北にある青龍寺の間を指す。

・「扨々怪我ながら麁相至極なり、怪我にても仕玉はずや」前の「怪我」は思いがけない偶然の過失の意。後の「怪我」は不通に、不注意から自他の身体を傷つけること或いはその傷、意。

・「仡相」気っ相・吃相で、感情が顔に現れること。顔つき・表情・顔色。

・「再生の恩」岩波版長谷川氏注に(( )は私の補足)、『脇差を取返さなかった時』(例えばこの脇差が主君よりの拝領品だったりすれば切腹ものとなることも考えられる)、『相手を斬った時』(条件が条件なだけに脇差を落した武士には重過失があり、しかも殺害してしまい、しかもそれが無礼討ち(所謂、切捨御免。これが適用されるには厳格な条件があった。参照したウィキの「切捨御免」を読まれたい)として認定されなかった場合には、切腹どころか斬首刑を受け、御家御取り潰しや財産没収が行われてしまう可能性さえもあった)『ともに、自分の身分』(生命に)『かかわる』とある。

・「いづ地へ行けん」底本は「いつ地へ行けん」であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で濁点を補った。

・「雜式町」岩波版長谷川氏注に、『麻生坂下町の俗称。港区麻布十番の内』とある。『麻生』は誤りではなく、江戸時代までは阿佐布・麻生・浅府・安座部などと多様に書き表されていた。麻布の地名語源についてはここで私が参照した「麻布の由来」が面白い。必見。なお「雜式」の呼称は現在の麻布坂下町沿いの通りの呼称に「雑式通り」として生き残っている。

・「七八丁」約七百六十四~八百四十二メートル。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 心ある武士(もののふ)の事

 

 平野家の家士の語った話の由。

 

……我ら、先般、芝(しば)切通しにある、酒など売る大きな料理茶屋にて一服致いて、酒を一盃を吞んで暑気払いなどして御座ったところ、かなり離れたる向うに、侍が一人、やはり酒を吞んで御座って、拙者が入る以前よりおられ、暫く、そこで同じきように御座られた。

 さてもその侍、勘定など頼みおいて、一つ、帯を締め直さんとし、腰の大小を脇に抜いて、ゆっくりと身繕いなどなし、徐ろにその脇差を立ったままに取ろうとして、思わず、取り落としてしまわれたの御座る。

 その脇差、これ、境の小衝立(こづいたて)を越して、隣で酒を吞んでおった客の方へと落ちてしもうたによって、かの侍、これ、大きに驚き、

「――さてさて、思わぬ失態乍ら、沮喪千万で御座ったの。怪我など、これ、なさってはおられぬか?」

と、丁重に挨拶なし、詫びも入れて御座った。

 ところがこの隣の客、見るからに町人と見えて御座ったが、

「――てやんでえ! 無作法至極たあ、このことでえ! 下手すりゃ、こいつがぶっすりだっ! あ~あっ! 危ねえ目(めえ)に、遇ったもんだ、ぜえぃ!!」

と、大声を挙げて叫び、侍へは挨拶もせず、かの武士の脇差を己(おの)が膝元にひっしと抱きかかえて、空(そら)っとぼけた風情のまま、侍に答えんとする様子も、これ、一向に御座ない。

 かの侍もこれ、いろいろと詫びを入れて御座ったれど、この町人、どこ吹く風と、一向相手にせぬ。

 我ら――これ、全く、所謂、強請(ゆす)り集(たか)りの手合いに違いない。悪い相手にぶつかったものじゃ――と思いつつ、そのまま眺めて御座ったところ、かの脇差を落したる侍、これ、少しく下手(したて)に出て、

「……何分(なにぶん)、お許しあられたい! 何ぞ、詫びの趣意(しゅい)もこれ、添えてお渡し致したく存ずれども……茲許(ここもと)には、これ今、持ち合はせが御座らぬ。……されば一つ、これより屋敷へたち帰って、再応、応分の謝礼を携えて立ち戻って参り、幾重にもお詫び、これ、致さんと存ずればこそ。……」

と申したところ、かの、町人、これ、少しく許容を示したる様子になったれば、侍、

「……しかる上は、どうか、その脇差、これ、お返し下さるよう御願い申し上ぐる。」

と請うて御座った。

 ところが、それを聴くや、かの町人、色をなして、

「ただでこいつを返すってえことは、の! なんとしても出来ねえ、相談だぜえ!!」

とほざいて、またしても頑なになって、元の、一向、得心せぬ体(てい)へと逆戻りしてしもうたので御座る。

 ところが、その店に、今一人、少し年配の侍が別に――拙者の近くにて、やはりその騒動の辺りが、これ、よう見える近くに――居られて、この御仁も最前より酒を吞みながら、黙って、かの武士の難儀を見かけて御座ったが、

「おい――亭主――」

と店の主人を呼ぶと、

「――あの侍と町人――先刻よりの始末、その方(ほう)は見かけておきながら、何故(なにゆえ)、中に割って入(い)り、詫び言など致そうとはせんのじゃ?」

と静かに申すのが聴こえた。

 亭主も如何にも蒼い顔をなし、

「……いいえ! 実は最前より我らもたびたび宥(なだ)めかけて御座ったのですが、かの町人が、これ、一向、得心致しませんで……へぇ……されば……我らも、これ、どう致いたらよいものかと……正直、困っておるので御座いますぅ……」

と、心もとないことを申して御座った。

 するとその侍、

「――それは了簡違いと申すものじゃ。今一度、亭主たるそなたが割って入って、ことを納めらるるが、これ、よろしかろうぞ。――もし、かの相手の侍、これ、勘忍致ささざる仕儀と相い成って御座ったれば――その方(ほう)が方(かた)にとっても、これ、難儀となるは必定(ひつじょう)じゃ。」

と、やはり穏やかに、しかし、ぴしゃりと、はっきり告げたによって、その亭主も、

「……曰く、ご尤も!」

と、直ぐに、またぞろ、かの二人の間に割って入り、進退窮まって御座った、かの侍が方(かた)へも、

「……お心、これ、お静めを……」

と平身低頭致いて、相手の町人方へも、

「……あんたも、言い分はあろうが、孰れにせよ、まずは我慢辛抱なしての。さ、早うに、脇差を、これ、お返し申せ!……」

と穏やかに慫慂なしたれど、この不良町人、やはり、一向、得心せず、脇差をしっかと膝に抑えたまま、口元には妙な笑みさえ浮かべて御座った。

 されば亭主、せん方のぅ、最前、助言し呉れた侍が元へと参って、

「……どうにも……これ……へぇ……なりませなんだ……」

と、不首尾を告げた。

 と、それを聴いたるその侍、これ、

「――なんじゃとッ!」

と大音声(だいおんじょう)を挙げて怒り心頭に発し、

「――武士は相身互(あいみたが)いで御座る! そこな、不届きなる素町人(すちょうにん)! この上は! そこにまします相手の侍は無礼を堪え忍ぶとも! 我ら! 合点なり難しッツ!」

と、太刀をひっ提げ、かの二人が前へ

――ザッツ!

と進んで、今にも町人の首を斬らんずる勢いにて、柄(つか)に手を掛けたるその顔は! これ

――仁王か! 閻魔か!

 これに驚いたか、かの町人、奪い押えておった脇差もその場に放り出し、その外の持ち物も皆、これ、忘れ、草履(ぞうり)さえも他人が物を履き違(たが)えるといった慌てようにて、韋駄天か脱兎の如く、店の裏からでも一目散に逃げ去ったものか、影も形も見えずなって、とんずら致いて御座った。

 されば、いきり立ったかの侍、穏やかなる表情に戻って、くるりと身を翻すと、酒食勘定を亭主に申し付け、払(はろ)うてしまうと、そのまますぐに、たち帰らんと致いた。

 そこで、最前、町人により無法の目に逢うたかの侍、救うて呉れたこの侍の前へと至り、

「……まことに、貴殿の御蔭によって、さし迫って生じたる災難を免るること、これ、出来申した! 某(それがし)は△△家家来にして□野〇兵衛と申す者にて御座る。……先刻よりの始末、武士として不甲斐なき性(しょう)の輩(やから)とも思し召されんが、……今日は私事にて罷り出でまして、酒なんども嗜んで御座ったによって、ここにて、かの大身の我らが主人の名前を出ださんことも、これ、何とも嘆かわしきことかとも思われ、何卒、こと穏やかに納めんものと存じ、……下手に出でての挨拶、……これもまた、侍にあるまじい未練なる振る舞いとも思し召されて御座ろうほどに、……しかるに。まことに、命を繋いだる再生の恩を、これ、貴殿より請け申した。――されば、御礼(おんれい)にも参りたく存じますれば、どうか、御名(おんな)及び御宿所(おんしゅくしょ)をも承りたく存じまする。」

と、名と住所を頻りに訊ねて御座ったが、かの侍、

「――いや。――御礼(おんれい)に及ぶべき筋のものにては、これ、御座らぬ。」

とて、何としても、名も住まいも告げず御座った。

 されば、件(くだん)の脇差の侍、

「……しかる上は……せめて、こちらの店にて、改めて一つ、御酒(ごしゅ)を進上致したく存じまする。」

と、かの亭主を片脇に呼び寄せ、どうやら、自身の屋敷をも告げ、裏より店の者にてもそこに遣わすべき手筈――かの武士への礼の用意と調達――を、これ、成しおる様子で御座った。

 亭主とその脇差の侍が、かく二人して酒食の品なんど、あれこれ、うち合わせておるを拙者の眺めて御座った、その、かの侍より目を離したる一瞬のうちに――これ、何処(いずこ)へ参ったものか――かの壮年の武士――店内からは姿の見えずなって御座った。

 脇差の侍が、入口の辺りにおったる茶屋の小僧に質したところ、

「――そのお侍さまなら、さっき、足早に雜式町(ぞうしきちょう)の方(かた)へと下って参られました。」

と申したによって、即座にその後を追い駈け、七、八町も道下ったところでようやく追いついたによって――さてもここから先は、この後(のち)に、茶屋へたち帰って参った、件の脇差の侍が、亭主に語って御座るを耳にした話にて御座る――、

「……何卒、おたち帰りになられ、一献を汲み給えかし!……」

と再応、請うたところが、かの武士、如何にも不思議そうな表情をなして、

「……貴殿は、これ、我ら、存ぜざる御方で御座るが?……さても、その見知らぬ者に、これ、如何なる仕儀にて候うや?……いやいや、これは、きっと、御人違いにて御座ろうぞ。……何?……切通しの茶屋に、酒を吞んで御座ったとな?……我ら儀、今日は茶屋へ寄って酒など呑んで御座ったこと、これ、御座ない。御身は一向知らざる御方(おかた)にて御座る。」

と、さらにとり合う様子も、これ、御座らなんだと申す。さればなおも、

「……い、いや……拙者が、これ、この脇差を、隣りの座敷へ取り落して御座って、不良の町人に言いがかりをつけられ、難儀致いておりましたところを……かくかくの仕儀なされ……御身の御蔭にて……かくも……その危難を免るること、出来申したので御座いまする……」

と分かり切ったること乍ら、再応、改めて訴えてみたところが、

「……いや、それ、我等は一向、存ぜざることじゃ。しかも、存ぜざることながら……その今の……脇差などを、お取り落しになられ、奇体なる騒動に巻き込まれて、そこに拙者が『狼藉者、許さじ』となん、乱入致いたと申すも、これ……あまりに不出来な、世にもあり得ぬ御物語(おんものがたり)にては御座いませぬか?――孰れ、貴殿がことは、先刻より申して上げております如く、これ、一向、存ぜざる御方なれば――その不審と申さるるにつき、これ、詳しくお答えも致し難い。――では――御免――」

と、踵(きびす)を返し、足早に立ち去ったと申す。…………

耳嚢 巻之九 賤妓孝烈の事

 賤妓孝烈の事

 

 横田翁の菩提所の僧、盆中に翁が許へ來り語りけるは、當時旦家(だんか)貴賤といえる内、賤しき旦那多(おほし)。其内に遊女屋などある事ながら、深川の遊妓に旦家ありといひし故、夫(それ)は如何成(いかなる)譯やと尋(たづね)しに、去る武家の娘にて兩親身まかり、兄なるおのこ甚(はなはだ)身持不埒(ふらち)にて、甲府とかへ被遣(つかはさる)の命ありしが、右の無賴なる者故、誰(たれ)ありて世話するものもなし。しかるに彼(かの)妹、其家の斷滅(だんめつ)を歎きて、是非もなき事なれば、我(わが)身をしづめて其用を辨(べん)ぜんとて、深川の妓(ぎ)に身を賣りて兄の用を辨じけるが、兩親の問(と)ひ弔(とむら)ひするものもなき事なれど、彼(かの)妓女より月々の附屆(つけとどけ)、年忌法事の事抔も、無斷絶(だんぜつなく)、念頃(ねんごろ)にいたしける。當年も年忌なりしが、かたのごとく執行(とりおこな)ひ、兄も心や直(なほ)し、又は妹方よりさそひ遣(つかは)しけるや、兄弟とも佛參(ほとけまゐり)をもなしけるとぞ。其(その)孝心(こうしん)天の納受(なふじゆ)や、近頃右妓女相應の町人に請(うけ)られて、今はくがいの勤(つとめ)もせざると、彼(かの)僧のかたりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:卑賤の者の直き執心が玄妙を生み出す話から、妓女の孝心が苦界(くがい)の彼女を救い出す話で、何となく自然に繋がっている。

・「横田翁」横田袋翁。頻出の根岸昵懇の情報屋。既注

・「深川の遊妓」岩波の長谷川氏の注に、『仲町その他に私娼がいた』とある。

・「甲府とかへ被遣」底本の鈴木氏注に、『旗本や御家人で素行の悪い者、首尾のよからぬ者は、甲府勤番を命ぜられた。これを甲府勝手といった。俗に山流しともいった。甲府城の守備に当るもので、甲府勤番支配二名の下に、勤番二百人と与力同心がいた。勤番は二百石以上五百石。ここは正式に発令されたのではなく、事前の運動が漸く間に合って甲府行きをまぬがれたわけ』とある。甲府勤番は幕府直轄領化された甲斐国に常在して甲府城の守衛や城米の管理・武具の整備や甲府町方支配を担った職で老中支配であったが、それでなくても参照したウィキの「甲府勤番」にも、『老中松平定信が主導した寛政の改革においては、不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される』とか、『甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている』という一節を見出せる。杉原尚示氏のサイト「郷土史はなぜおもしろいのか」のこちらの頁に詳しい記載があり、それによると、甲府勤番の『勤番士は転任の道が閉ざされ終生を甲州勤務で過ごすということになっていました。そのため人選に困り、結局は過去において何らかの罪状、悪事、不届きの行跡を残した旗本達を一種の追放懲罰で甲州送りにすることになったようなのです。「甲府勤番山流し」などと言われたゆえんです』とあり、幕府の職掌でありながら、実際には懲罰人事であったことがよく分かる。この鈴木氏の『事前の運動』というのは、話からみて、上司や関係筋への鼻薬、賄賂と考えられる。

・「納受」この場合は、神仏が願いなどを聞き入れることを言う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤しい妓女(ぎじょ)の深き孝心の事

 

 横田翁の菩提所の僧が、盂蘭盆(うらぼん)の節、翁が許(もと)へ来たって語ったという話。

 その住持の曰く、

「……只今、当寺の檀家、これ、その貴賤はと問われたなら、正直申すと、これ、賤しき身分の檀家衆がなかなかに多御座る。その内には遊女屋なんどまで御座るが、中には、元はこれ、かの深川の私娼であった檀家も、御座る。……」

とのことゆえ、

「……それはまた……如何なる訳の、これ、御座るか?」

と訊ねたところ、

「……これ、さるお武家の娘にて御座ったが、両親が相い次いで身罷り、兄なる男(おのこ)の御座ったれど……これがまた……はなはだ身持ちの悪しき、不埒者にて御座ってのぅ、あまりことに、かの甲府とかへ遣わさるるやも知れぬ、との内々の命(めい)が、これ、御座ったと申す。……ところが、右の通りの無頼なる者ゆえ、何とか甲府流しを猶予して貰えるよう、世話をなし呉るる者も、これ、誰(たれ)一人として御座らなんだ。しかるに、かの妹、その、家の断絶にも繋がる如き危機を歎いて……是非もなきことなれば……我が身を苦界に沈めても、その猶予のための鼻薬の費用を賄わんとて……遂に……深川の私娼に身を売りて……兄を甲府流しから救うべき金子を、これ、用立てて御座ったと申す。……

……その両親の追善、これ、催さんとする親族とても御座らなんだが、かの妓女よりは、寺への月々の附け届けは勿論、年忌年忌の法事のことなどに就きても、滞りのぅこれ、依頼の御座っての。さればこそ、懇ろに供養致いて参って御座った。さても今年はやはり、年忌法要の年で御座ったによって、何時もの通り、執り行のうたれど、この度は、兄なる男(おのこ)も――これ、心を入れ替えたものか、または、妹方(いもうとがた)より年忌法要の儀、執り行のうにつき、これを誘う知らせでも遣わして御座ったものか――初めて、兄と妹ともに、両親が仏前へ参って御座った。……

……その孝心(こうしん)ゆえ、これ、天のこの娘子(むすめご)の誠心に感じたものか、近頃、かの娘、これ、相応の町人に身請けされて、今は苦界(くがい)の勤めから解き放たれ、幸せに暮らして御座るとのことで御座った。……」

と、その僧の語って御座ったとのこと。

2015/02/07

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 春――かなり難解なれば識者の御教授を乞う!!――

 

   昭和十四年

〈昭和十四年・春〉

 

飾り臼みづの靑藁ほのかにも

 

[やぶちゃん注:「飾り臼」正月、農家で土間などに新しい莚の上に大切な臼を洗い清めて据え、杵を掛け、臼に注連繩(しめなわ)を張って鏡餅を供えること。箕を添えることもある。「みづ」
は「瑞」でみずみずしいこと・麗しいことを指し、注連縄に用いている「靑藁」の清々しい色をモノクロームの静謐な画面に「ほのかにも」点じて、実に美事である。]

 

初年のたちかへる音に荒瀨かな 

 

舊正の羅紗鋪の玻璃に護謨映ゆる

 

[やぶちゃん注:吟詠している対象画像が今一つよく分からない。「羅紗鋪」は「らしやほ」で、ラシャ(ポルトガル語 raxa :羊毛を原料として起毛させた厚地の毛織物)で、「鋪」は「舗」の正字で「店」の意、即ちこれは旧正月の日の毛織物屋の店先の景ではあるまいか? されば、「玻璃」は「はり」でガラス、ここは店のショウ・ウィンドゥで、「護謨」はそこに飾られてある鉢植えの「ゴム」(オランダ語 gom )、観葉植物のイラクサ目クワ科イチジク属インドゴムノキ Ficus elastica であろう。これは私の勝手なトンデモ解釈かも知れない。識者の御教授を乞うものである。] 

 

山川を流るゝ鴛鴦に松過ぎぬ 

 

[やぶちゃん注:対象映像のずらし方とても面白い。] 

 

初年の神鎭む嶽雪を見ず 

 

弓初め大山祗(おほやまつみ)は雲かゝる 

 

[やぶちゃん注:「弓初め」御弓始め。中世以降に毎年正月に幕府で行われた弓を射る儀式。新年に初めて弓を引くこと。初弓。射初(いぞ)め。射場(いば)始め。新年の季語である。これは全くの直感に過ぎないのだが、笛吹市一宮町一ノ宮にある浅間神社の南方の神山の麓に鎮座する境外摂社である山宮神社及びその神山を指しているのではあるまいか? この神社は大山祇神を祀っている。識者の御教授を乞う。]

 

楪をとる妻(め)に園はうす雪す 

 

[やぶちゃん注:「楪」は「ゆづりは(ゆずりは)」。譲葉は、 常緑高木のユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ Daphniphyllum macropodum 。暖地の海岸近くに多く、庭木としてよく植えられる。葉は互生し、大形の狭い長楕円形を成し、質が厚く濃緑色、葉柄は赤い。雌雄異株で初夏に黄緑色の小花を総状につけ、実は暗青色に熟す。新葉の生長後に旧葉が落ちることから、この名がある。葉は新年の飾りに用いられ、新年の季語である。ウィキユズリハによれば、その名称の由来は、『春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することから。その様子を、親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ、正月の飾りや庭木に使われる』とある。]

 

鏡中に剃り顎靑き初湯かな 

 

溫室灯りゐて古年の闇深き 

 

[やぶちゃん注:「古年」は「ふるどし」と私は読む。]

 

伊達の娘は韓紅の春袋(さいふ)もちにけり 

 

[やぶちゃん注:私は「だてのこは/かんくのさいふ/もちにけり」と読む。「韓紅」は通常なら「からくれなゐ(からくれない)」、唐紅で、濃い紅色、深紅色を指す。大方の御批判を俟つ。] 

 

漁樵絕えげに初霞む野山かな

 

[やぶちゃん注:「漁樵」は「ぎよせう(ぎょしょう)」で、木を伐ることと、魚を捕ること。或いは、樵(きこり)と漁師の意で、後者であろう。とすれば、「ぎよせう/たえげにそかすむ/野山かな」と私は読む。] 

 

   山盧節分

こだまする後山の雪に豆を撒く 

 

[やぶちゃん注:「後山」は音で「ござん」と読む。] 

 

暾あまねく樹林新たに年たちぬ 

 

[やぶちゃん注:「暾」は「ひ」と訓じていよう。朝日の謂い。] 

 

ウクレレに昔の燭おく古風の爐

 

[やぶちゃん注:「ウクレレ」は英語で「ukuleleukelele」、元はハワイ語のukulele」。] 

 

ウクレレ春搖籃の兒の瞳はみどり

 

春を穢れ聖女いよいよ着裝へり 

 

[やぶちゃん注:「着裝へり」は「よそほへり」と訓じていよう。個人的に好きな句である。] 

 

歔欷(すゝりな)くこゑ閨中に大椿樹 

 

[やぶちゃん注:「大椿樹」は「おほつばき」と読みたいが、蛇笏流なら「だいちんじゆ(だいちんじゅ)」か?] 

 

春祭高嶺の雪に笙鼓鳴る 

 

大嶽祇初午の燈は雲の中 

 

[やぶちゃん注:「大嶽祇」は「おほやまづみ」であろう。これも直感乍ら、先の山宮神社での景ではなかろうか?] 

 

葱うゑる夕影の土やや冷えぬ 

 

菜は莢(さや)に蝶をとゞむる名殘り花 

 

桑萌えて地に雨霽れの風なごむ 

 

野茨咲き氣弱き耕馬尾をふれり 

 

春蕎麥の茎眞つ靑に花盛り 

 

※梅に雪水ながれ花競ふ 

 

[やぶちゃん注:「※」=「山」+(「棧」-「木」)。お手上げ。識者の御教授を乞う。山の岨(そば)、崖に植う梅か?] 

 

   幽谷蘆川の村孃等各〻炭俵を背負うて
   峠を越ゆるに或時迫ればところをきら
   はず

女神らの穢に草靑む暮春かな

 

[やぶちゃん注:娘らの――お花摘みの景を詠んで――よし!] 

 

   結婚十數日にして花婿頓死したるK-家
   の花嫁に逢ふ

春ふかく泪せぬ眼の光りけり

 

[やぶちゃん注:名吟と私は思う。]

耳嚢 巻之九 藝道執心のもの玄妙ある事

 

 藝道執心のもの玄妙ある事

 

 吉田一帆齋とて、鑓劍(さうけん)の指南なせる人語りけるは、前田大和守領分上州の生れのものにて、大和守屋敷に料理人の下を勤(つとむ)る輕き板の間といえるなりしが、一方齋が稽古場の近所にて、鑓(やり)の稽古を見て頻りに執心し、稽古致度(いたしたし)と願ひしに、中間(ちうげん)體(てい)のもの鑓を遣ふ事、いらざる事と人々嘲りしが、いやさにあらず、鑓の利(り)面白かるべしとて、家中の同門に指南を請け、やがて一方齋が弟子となり、律儀一遍に鑓をつかひ覺え、ある年(とし)給金を請取(うけとり)しが、漸く其年の給金一兩貮分を取りて、妻もありけるや、家内の衣類等を求めんと糀町(かうじまち)邊へ出しに、古道具屋に立(たて)かけ有(あり)し十文字の鑓を見て、頻りに懇望(こんばう)に思ひ、與風(ふと)直段(ねだん)の相談なして、右給金の内、過半右償(あがな)ひに拂(はら)ひ、衣類を不調(ととのへず)して鑓を提(さげ)て戾りけるに、妻なるもの大(おほき)に驚き、身命(しんみやう)ありての道具なり、かゝる了簡違ひもあるものかと憤りけるを、我(われ)此道に執心なれば、一度は是を可持(もつべき)身となるべし、心ゆかずば出(いで)て行(ゆく)べしとて、夫婦申爭(まうしあらそ)ひしを、其隣長屋なる留守居聞て是を制し、事のやうを尋(たづね)けるゆゑ、斯々(かくかく)の事なりといひしが、留守居も可笑(をか)しき事に思ひて、先(まづ)其鑓見せよと取寄(とりよ)せ一覽なせしに、何とやら燒刄(やきば)のやうす常ならず、兼て目利(めきき)も心得たるや、妻の申(まうす)所も道理あれば、此鑓我に得させよ、代金は餘計に拂(はらは)んとて、右金子に倍(ばい)してあたへければ、何分得心(とくしん)せざりしを色々敎諭(をしへさと)して、右鑓を留守居方(かた)へ調(ととの)へ代料(だいりやう)をあたへしが、中(なか)か子(ご)も改めぬれば、銘は忘れたり、一向つたなきものにもあらず、柄(え)もまた一通りならざれば、尙追(おつ)て價(あた)への増しをもあたへけれど、不請(うけざる)よし。かゝる剛氣朴訥(がうきぼくとつ)の男なれど、段々取立(とりたて)られて今は鑓を爲持(もたせ)候身分に昇進し、一帆齋が方(かた)にても鑓術(さうじゆつ)の皆傳(かいでん)を請け、當時上州の陣屋に住居(すまひ)し、藩中其外、鑓の弟子も百人に餘りぬるとかたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。変格武辺物。

・「吉田一帆齋」「巻之八 一刀齋知見の事」や続く「剛氣朴質の人氣性の事」などに既出。ブログ「無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流
・・・ 道標(みちしるべ)」の「広島の剣術流派 3」で、「一帆斎流」を挙げ、『天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという』という「広島県史 近世2」からの引用がある。

・「前田大和守」上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)にあった七日市(なのかいち)藩一万石余。小藩で、本家加賀藩の財政援助を受けて漸く存続しているといった状況であったが、歴代藩主の多くは駿府城・大坂城の守備役を務めている。因みに、「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年当時は、第十代藩主前田大和守利和(としよし)であった。以上はウィキの「七日市藩に拠った。

・「板の間」武家の雑役をこととする下男の中でも最も低い身分の呼称かとも思われる。後では武家の下級奉公人を指す「中間體」とも称している。因みに、これは当時は「不良博徒仲間」を指す隠語でもあった。

・「一方齋」底本では右にママ注記がある。

・「一兩貮分」一両は二十万円から三十万円見当で、二分金は一両の半分の価値があったから、総計で三十万~四十五万円相当と考えられる。十文字鑓にはその「過半」を支払ったとあるから、この鑓の値段は最低でも十五万強、二十五万弱と考えてよいか。

・「糀町」千代田区公式サイトの「町名由来板:麹町一丁目」によると、当時の麹町の『沿道には武家屋敷の御用を調達する商家が並んでいた。江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が一丁目の堀端に住んだことから「麹町」の名が起こったといわれている。ほかに竹屋、魚屋、西瓜(すいか)屋、乗物屋、太物(ふともの)(綿・麻布)屋など有力な店もあって、日本橋の商家に対抗する勢力を誇ったといわれる』とあるから、この男、ちょっといい品を妻に奮発しようとしたことが分かる。また、『江戸城の守りとなるこのあたりは、半蔵門から見て右手に番町(ばんちょう)の旗本(はたもと)屋敷、左手に但馬(たじま)豊岡藩(兵庫)京極家や播磨(はりま)明石藩松平家、近江(おうみ)彦根藩井伊家などの大名屋敷があった』とあるから、彼が古道具屋で掘り出し物の鑓を発見するというのもおかしくない。

・「償(あがな)ひ」と一応、読んでおいたが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここが『価ひ』(價ひ)となっており、「あたひ」で自然である。書写の誤りではなかろうか。

・「中か子」「茎」とも書く。刀剣類の柄(つか)や柄の内部に入る部分。

・「段々取立られて今は鑓を爲持候身分に昇進し、一帆齋が方にても鑓術の皆傳を請け、當時上州の陣屋に住居し、藩中其外、鑓の弟子も百人に餘りぬるとかたりぬ」これはどう考えても「板の間」の身分のままではあり得ないから、所謂、根岸同様、御家人株を買って武士となったのだと思われる。さればこそ、題名の通り、「玄妙」とも称する奥深い不思議なものが、そうした本物の「執心」には隠れているのだというのであろう。「上州の陣屋」は七日市(なのかいち)藩の現地の陣屋。上野国甘楽(かんら)郡七日市(現在の群馬県富岡市七日市)を居所とした藩で、藩庁は七日市陣屋(グーグル・マップ・データ)に置かれた。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 武芸の道に執心せる者には相応の不思議に奥深き玄妙のあるという事 

 

 吉田一帆齋(いっぽさい)殿と申す、鑓剣(そうけん)の指南をなさるる御仁の語られたことで御座る。

 この男は本来、前田大和守殿領分、上野国(こうずけのくに)の生れの者にて、大和守殿江戸藩邸の料理人の、そのまた下働きを勤めておった、如何にも軽き身分の、「板の間」と申す、下の下の役方で御座った。

 ところが、この男、一帆齋殿の稽古場の近所に住んで御座って、彼の鑓(やり)の稽古を見るうち、頻りに鑓術(そうじゅつ)への執心を起こし出だし、

「稽古を致しとう存じまする。」

と願ごうて参ったと申す。

「中間体(ちゅうげんてい)の者なんどが鑓を遣うことは、これ、いらざることじゃ!」

と周囲の者どもはしきりに嘲笑して御座ったが、

「――いや! さにあらず! 鑓術より得らるる魂(たましい)の利面(りめん)は、これ、我らにはまっこと、面白う存ずる。」

と、御家中の、一帆齋殿が同門の者に、これ、指南を受け、やがて、一帆齋殿の直弟子となって、まっこと、律儀にその鑓術の仕儀を覚えて御座った。

 ある年のこと、主人より給金を受け取った。

 その前の年の一年分の給金にて、これ、一両二分、御座ったが、これを携え、この男には妻もあったれば、

『……たまにはこれ、家内の衣類なんどをも求めてやろうか……』

なんど思うて、麹町(こうじまち)辺りへと出でた。

 うろついておるうち、一軒の古道具屋の前にて、足が止まった。

 男は、その店の奥に立て掛けて御座った十文字鑓を見て、何か、ぴんと、くるものの御座ったと申す。

 その瞬間、頻りに、

――あの鑓――これ、欲しい!

と思うて矢も楯も鑓も堪らず、即座に店に飛び込むや主人と値段を交渉なし、かの給金のうち、なんと、その過半に当たる金子(きんす)をその鑓を買(こ)うのにすっかり払ってしまい、衣類を買い調えることも忘れ、喜び勇んで、鑓一本を提げて、これ、家へ戻った。

 それを見た妻なる者、これ大きに驚き、

「――あんた! 戦さもなきこの太平の世に、そんな、鑓なんぞッ!……しかも、何ものもこれ、己(おの)が身命(しんみょう)あっての道具でしょうがッ!……そんなに鑓に執心して、これ、何かの間違いのあって、その鑓に命を落としたとしたら、これ、どうなさいますッ?!……そんな了簡違いも、これ、甚だしいこと、ありますかッ!……」

と、もの凄い剣幕で憤り始めた。

 しかし、男も負けずに、

「――我れら、この鑓の道に執心しておるんじゃ!……一度はこれを持ち得る身分とならんとこそ、思うておるッツ!……納得出来んとならば!――出ていけッツ!……」

と、売り言葉に買い言葉、罵詈雑言の応酬と、これ、派手な夫婦喧嘩と相い成った。

 と、その隣り長屋に住んで御座ったが、江戸留守居役を勤めて御座った御仁。この騒ぎを耳にし、

「……まあまあ……」

と中に入ってこれを押し留め、

「……しかしまあ……何がどうして御座ったじゃ?……」

と訊ねたによって、かくかくのことでと、それぞれが申し述べたところが、

「……ふむ……む、は、は……」

と女子(おなご)の衣が鑓に変じたるこの話に、留守居役の御仁も、これ、思わず失笑致いて御座った。

 しかし、ふと、

「……その鑓とやら――まず我らに見せてみよ。」

と命じ、それをとらせて、手にすると、一瞥なした。

 すると、何にやら、

――十文字の穂先の刃(やいば)の様子なんど

――これ

――尋常のものにては、御座ない。……

 かねてより、槍術執心の男なれば、鑓の目利(めき)きをも心得て御座ったものか、なかなかの名物と見た。

 されど、「板の間」の分際にて鑓持ちたらんとの法外なる望み、これ、妻の申すところも道理のあればこそ、

「――一つ、この鑓、我らに譲れ。代金は……そちの払った金額より余計に払おうぞ。」

とて、

「――その買い取ったる金子の二倍で、どうじゃ?」

と男に告げた。

 留守居役なる、この男よりみれば、雲の上のようなる御仁なれば、はっきりとは拒まなんだものの、せっかく手に入れた己れの鑓、なかなか得心(とくしん)致さず、首を縦に振ろうとせなんだが、それでもいろいろと教え諭して、結局、その鑓を留守居役が方(かた)へ譲り渡し、御留守居役はその申した通りの代金を与えたと申す。

 さて、留守居役の御仁、その十文字鑓の茎(なかご)をも改め見たところが――銘は、これ、失念致いたが――確かなる相応の職人の名物にて、柄(え)の材や塗りなんども、これまた、尋常ならざる業物(わざもの)で御座ったによって、追って相応の代金の増しをも与えんとしたが、鑓を奪われたと内心、臍を曲げてでも御座ったものか、これ一切、受け取らなんだと申す。 

 

「……この「板の間」、かかる剛毅(ごうき)にして朴訥(ぼくとつ)なる頑固者で御座ったれど……その後(のち)、槍術の腕を見込まれ……だんだんに取り立てられて、今や、晴れて鑓を持つることの出来る身分にまで昇進致いて……我らが方(かた)にても、遂に鑓術(さうじゆつ)の皆伝(かいでん)を授けまして、の……近頃は、本国上州の陣屋に住いなし、藩中や、その外にも、これ鑓の弟子も百人に余るほどの鑓手の名手と相い成って御座る。……」

と、一帆齋殿の語って御座った。

2015/02/06

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 長崎到着

M590

図―590

 

 私は一つの石の橋を、急いで写生することが出来た。石の橋はいたる所で見受ける。その多くは木造の橋とまったく同じに建造されてあるが、横桁、支柱、手摺等は、図590に示す如く、石を刻んだものである。

 

 七時、我々は長崎へ向けて出帆した。美しい小島が沢山あったことよ! 薩摩と肥後とで、いずれかといえば心身を疲労させるような、忙しい旅行をした後なので、家へ帰りつつあるような気持がした。我々の汽船は、私がこれ迄乗った船の中で、一番小さいものだった。それは、私が一方の舷へ歩いて行くと、その方向へ傾く程、小さくて、そしてダラダラしていた。船長が、天気が悪い為に数日出帆をのばしたのも、ことわりなる哉である。

[やぶちゃん注:「七時」明治一二(一八七九)年五月二十九日の朝七時と推定される。]

 

 翌朝我々は、長崎に着いた。ここで私は再び欧風の食物と、腰をかける可き椅子と、物を書く可き石油燈(ランプ)をのせた卓子(テーブル)とを見出した。日本に住んで私は、食物よりも卓子の無いことに気がつく。日本の食物には段々馴れて来る。勿論珈琲(コーヒー)や牛乳やパンとバタが無くて暮すことは、物足らぬが、字を書き図を引く為に床の上に坐ることは、窮屈で苦痛で、疲れている時など、殆ど不可能である。私は長崎に数日滞在して、肥後から持って来た生きたサミセンガイと、ここの湾で網で曳いた小さな Descina とを研究した。米国領事のマンガム氏夫妻は非常に親切にしてくれた。彼等は私の顕微鏡のために、彼等の家の立派な部屋を一つ提供してくれたばかりでなく、長崎にいる間は毎日正餐に来いと云い張った。ホテルが甚だ貧弱だったので、一日に一度ちゃんとした食事を口にするのは、誠にたのしいことであった。

[やぶちゃん注:「Descina」底本では直下に石川氏の『〔腕足類の一〕』という割注が入る。但し、現在は属名が変更されたものと思しく、この綴りでは検索に掛からない。但し、「東京大学総合研究博物館動物部門所蔵 現生腕足動物・箒虫動物標本目録」に、

 

Superfamily DISCINOIDEA

Family DISCINIDAE  ディスキナ科

Discinisca lamellosa (Broderip, 1833)

UMUTZ-Bra-IB-01; 1) 5, 2) good, 3) Discina lamellose, 517 ...d ...da(判読不明), 4) locality data なし. 一般にDiscina lamellosaはペルーなど南米の大西洋岸に産する.

 

というデータを見出せ、異様に綴りの似た属名が気になる。これだとすると、

 

無関節綱シャミセンガイ(リンギュラ/舌殻)目Lingulida のディスキナ上科ディスキナ科ディスキナ属の Discina lamellosa

 

ということになるが、上記の備考にあるように、これは本邦産ではない。しかもグーグル画像検索「Discina lamellosaをかけると、この結果だ。これは現存する種とは、私には思われない。そこで、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」を調べてみると、九州の旅の解説内に、長崎では『長崎でのドレッジで入手したホウズキガイ』を研究したとあり(二五二頁)、これは本種を目レベルのタクソンで述べたものと判断されるのである。されば、本邦産の腕足類でモースが敢えてシャミセンガイと並べて有意に「小さな」と述べている点、相応の水深のあるところからドレッジ採取したと思われる点に加え、磯野先生の叙述と本邦の腕足類の分布などを考慮するなら、私は個人的に、この「Descina」なる種は、現在の、

 

嘴殻綱穿殻(テレブラツラ/ホウズキガイ)目 Terebratulida のテレブラツラ亜目ラクエウス上科ラクエウス科ラクエウス属ホオズキチョウチン Laqueus rubellus (Sowerby, 1846)

 

ではあるまいか、と考えている。ホオズキチョウチン Laqueus rubellus は、殻は卵形で前後の両殻(腕足類では殻は左右ではなく前後と呼称する)の厚さはほぼ等しく、黄色を帯びた赤または淡紅色を呈する。殻頂から放射状に出て真っ直ぐに走る独特の色条が殻に入る。楕円形の殻頂孔から短い嘴状部を出してこれで他の物質に附着している。本邦沿岸の水深二十二から二百三十八メートルに棲息する(以上のデータは保育社昭和五一(一九七六)年刊内海富士夫著「原色日本海岸動物図鑑」に拠った)。画像は「生きもの好きの語る自然誌」の「ホオズキチョウチン」がよい。

「米国領事のマンガム氏」長崎アメリカ領事館第二代領事ウィリー・マンガム( Willie P. Mangum )。慶応元・元治二年(一八六五/四月七日改元)年に着任、明治一四(一八八一)年十月まで長崎領事を務めた。以上は米国領事館公式サイト「福岡・日本」の「長崎アメリカ領事館の歴史」に拠った。

「私の顕微鏡のために」確かに原文は“for my microscope”であるが、訳としては「顕鏡のために」とすべきであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 歌橋

    ●歌橋

歌橋は荏柄天神の馬塲先(ばゝさき)より少し東の道にあり。鎌倉十橋の一なり。歌橋と號する事未考。

[やぶちゃん注:これは新編鎌倉二」のほぼ丸写しで話にならぬ。「馬塲先」荏柄天神社社前にあった松並木道を古くは馬場と称したことに依る。現在、「歌の橋」の脇にある昭和一二(一九三七)年三月鎌倉町青年団建立になる名所由来を記した碑から引用しておく。

 

鎌倉十橋ノ一ニシテ 建保元年(皇紀一八七三)二月 澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄社頭ニ奉獻セシニ 翌朝 將軍實朝傳聞セラレ 御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ 其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 以テ神德ヲ謝シタリト傳ヘラレ此ノ名アリ

 

謀叛とは、宝暦三(一二一三)年に信濃国の泉親衡が故源頼家の三男栄実(幼名千寿丸)を担ぎ出して将軍とし、執権北条義時を倒そうとしたクーデターを指す。]

私以外に

海塩核の研究で中三で学生科学展で優秀賞(県大会・富山)を貰い、ヒキガエルの脳下垂体をミクロトームで切り出し、イモリの前肢を切除して再生実験をし、後に国語教師となった者は私の他にそういるとは思えない――

耳嚢 巻之九 疝氣を治する呪の事

 疝氣を治する呪の事

 

 或人のいへるは、疝氣(せんき)を憂ふるもの、灰をいかにも細かにして箱やうのものゝ内におき、尻をまくりて右灰のうへへ胡坐(こざ)すれば、睾丸の下(さが)りたる所、右灰へあたりて跡ふたつ附(つく)也。右跡へ灸を三丁(ちやう)づつすゑれば病氣の根をたつとなり。是をためしける人、奇々妙々なりとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズ。

・「疝氣」既注乍ら、再掲する。近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝気(せんき)を治す呪(まじな)いの事

 

 ある人の申すには、疝気を患っておる者は、灰を徹底的に細かに砕き、大きな箱のようなものの中に平らに敷きつめおき、尻を捲って、この灰の上へ、胡坐(あぐら)をかいて座る。すると、睾丸が自然と下がって参って、その灰へ触れ、そこに灰の痕(あと)が二つの睾丸のそれぞれの箇所に、二つ、これ、つく。

 その後、起き直って、この二箇所の灰の痕のついた睾丸の箇所に、灸を一つ当たり艾(もぐさ)三つずつすえれば、これ、疝気の根、美事、断つ――と。

 これを実際に試してみたと申す御仁が、

「いや! その効果、これ、奇々妙々で御座った!」

と語って御座ったよ。

耳嚢 巻之九 すゞ篠の事

 すゞ篠の事

 

 水野某、すゞしのといふ事、歌にもよみける哉(や)、ふと見出して、難分(わかりがた)しとある儘に、予が許(もと)へ來る和學者に其事尋(たづね)ければ、すゞの篠屋(しのや)抔詠(よみ)、其外(そのほか)すゞのしのと詠(よみ)し事あり。いかにもちいさき竹(たけ)樣(やう)のものにて、右をもて屋根抔ふける所、吉野には多く見ゆる由。某外すゞと唱へて、和州邊上方(かみがた)にて取扱(とりあつか)ひ、吉野の詠物(えいぶつ)の由。彼(かの)翁は吉野へも至り、右すゞ篠も持來(もちきた)り候由にて、予にも示しぬ。國々方言、又ふるき言葉は、在方(ざいかた)に殘り居(をり)ける事と、爰に記し置(おき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂歌から和歌へ直連関。歌語の博物誌シリーズ。

・「すゞしの」底本鈴木氏注に、『すゞしのは東京近辺にては、富士の裾なる佐野あたりより出す、竹行李に編む竹なり、信州あたりよりも出す、竹清元来売竹郎なればよく知れるなり。」(三村翁注)』とある。この「竹清元来……」の「竹清」というのは、本巻の親本である日本芸林叢書本の旧蔵者である書誌学者三村翁竹清(みむらちくせい 明治九(一八七六)年~昭和二八(一九五三)年)氏自身のことで、彼はまた「竹売郎」、竹問屋を営んでいたのである。今まで三村翁については語っていないので、ここで述べておく(ウィキの「三村竹清」を参照した。アラビア数字を漢数字に代えて引用した)。三村竹清、本名は清三郎。『竹問屋を営んでいたことから、竹清と号した。別号に奛(あきら)・安岐羅。東京京橋の出身。終生を市井の学者として過ごした。また篆刻に巧みであった』。『小学校を中途で辞めて十二歳で丁稚奉公に出る。小遣いを溜めて『淮南子』を購入。その後も本好きが高じて八年間で小舟一艘ほどの本を買い、読みあさった。日露戦争に看護長として従軍したときも本好きは変らず、『十三経』を行軍に持ち込み友人に背負わせて困らせている。経書以外にも洒落本など様々な本を読んでいる。すぐに下宿の本棚が溢れた。そうするうちに気付いたことなどを書き溜めたノートが二十冊を超え、それを整理して書き物を始める』。『一方で知識・教養を深める為に勉学を始め、経学・漢学を長坂或斎に学ぶ。また成瀬大域について書法を、池田琴峰、荒木寛畝には画法を受け後には松本楓湖にも画を学ぶ。篆刻は浜村蔵六に私淑した。こうして文人的な教養と技芸を身につけ、文芸万般に深い造詣を得た。詩・書・画・篆刻のみならず、和歌・狂歌・俳諧にも興じている。とりわけ篆刻は一家を成すほど優れていた』。『蔵書家の中川得楼の知遇を得て出入りを繰り返すうちに、山中共古、林若樹、内田魯庵、幸田成友、大野洒竹などとの交流が始まる。稀書複製会(山田清作主催:大正七年創立)に第二期から加わり、以降長期にわたり、稀覯書の探索や複製に尽力する。米山堂主人山田清作の仲介などで、坪内逍遥や市島春城との交友も生まれる。大正十年に逍遥に依頼され、熱海水口村温泉の碑の題額を書している。昭和十年(一九三五年)、逍遥の墓碑銘の揮毫もしている』。『古書・古文書などから得た古人の詳細で膨大な知識を蓄え、伝記を起し始める。著名な人物はわざと避けて、歴史に埋もれしまった人物を好んで取り上げた。掲載する雑誌も原稿料を度外視し、できるだけ目立たないものを選んでいる。それでもなお驚くほど膨大な著述を残している』。『書誌学者森銑三は、三村竹清・林若樹(林研海の子)・三田村鳶魚を「江戸通の三大人」と評している。森の友人柴田宵曲も交流があった』。『昭和二八年(一九五三年)夏に、湯河原にて没す。享年七十九』とある。

 さて、この「すずしの」と称する竹は何か?

 狭義には常緑のタケ類であるイネ科スズタケ属スズタケ Sasamorpha borealisのことで、本邦の北海道から九州の主に太平洋側及び朝鮮半島に分布しており、ブナ林などの林床に植生し、桿高二~三メートル、桿直径一センチメートル程度で直立、節からは一本の枝のみが伸長する。桿は工芸品などに利用される(以上は「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の本種の解説」に拠る)。なお、検索では別に亜種としてSasamorpha borealis var. purpurascensをスズダケとする記載もある(同じ辞書の「竹図鑑」の記載)。シノニムかとも思われるが、そこには通称として「コウヤチクスズ」とあり、『釣竿用や竹行李用として利用』とあるのが、三村氏の『竹行李に編む』という記載と一致する。更に調べると、『植物検索事典「なんやろ」』の「シノダケ」の「参考」の項に、『鈴竹(?)、スズ、ミスズともいう、スズは篠(しの)と同じ、シノダケ(篠竹)はスズダケ、アズマネザサなど細い竹や笹の俗称、篠笛はこれらの竹茎から作る、茎を稈(かん)という。古名「薦、スズ」。万葉集「み薦(すず)刈る信濃の真弓わが引かば貴人(うまびと)さびていなと言はむかも」久米禅師(巻2-96)』とある。この「万葉集」の和歌は現行では、久米禪師(くめのぜんじ)、石川郎女(いしかはのいらつめ)を娉(よば)ひし時の歌五首」の冒頭の一首で、現行では、

 

水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇眞人作備而 不欲常将言可聞  禅師

 

御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の眞弓(まゆみ)わが引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも

 

と訓じているケースが多い。「娉(よば)ふ」とは、正規の婚姻関係を結ぶことを目的として妻問いする行為をいう。この「御薦(みこも)」は古語辞典その他の諸注では、現在、信濃で特に多産した真菰(イネ目イネ科マコモ Zizania latifolia )とし、スズタケどころか、篠竹でさえ、ない。因みにここは、同じ「信濃」名産の「眞弓」、梓弓を引き出すための枕詞のようなもので(単純なそれではなく古えの伝承に絡めた解釈をとっているものもあるが、採らない)、

――梓弓、その弓を引くように、あなたの気を引き、手をとってその体を引き寄せたとしても、それでも貴女(あなた)は淑女然として相応「だめよ、だめだめ」とおっしゃいますか?――

の意である。

 しかし、だ。――例えば私が大学時代から愛用してきたぼろぼろの角川書店(昭和五〇(一九七五)年刊)久松潜一・佐藤謙三編の「古語辞典」で「みすずかる」を引くと、「水薦苅る」「三薦苅る」と出て、「すず」はスズダケの別名と載せるくせに、「みこもかる」に同じとしてあり、そこでいざ、「みこもかる」を引いてみると、「水菰苅」「水薦苅る」となっていて、こっちには水中に生える真菰が名産でそれを頻りに刈る信濃の地の意味で「信濃」にかかる枕詞だ、としているのである。如何にも科学に弱い近代の国文学者が平気でやってしまうトンデモ記述なのである。ただ、これはどうも、江戸時代の「万葉集」の新訓の中で、この「水薦苅」を「みすずかる」と訓じてしまったことに端を発する勘違いであるらしい。にしても、これは辞書を引く若者たちを心底馬鹿にした記述である!

・「水野某」「蜘蛛の怪の事」で既注の、根岸の情報源水野若狭守忠通(ただゆき)かと思ったが、彼は根岸より十歳年下で「翁」はおかしい。「某」とするところからもこれは別人である。

・「和學」倭学とも。日本古来の文学・言語・歴史・有職などを研究する学問。国学。皇学。 「漢学」「洋学」の対義語。

・「すゞの篠屋」岩波の長谷川氏注には『すず竹でふいた家。和歌に例あり』とのみ記す。「新勅撰和歌集」の平資盛の一六七番歌に、

さみだれの日をふるままにひまぞなき葦の篠屋の軒の玉水

 

「続古今和歌集」の行意(ぎょうい)の九一二番歌に、

 

   大峰にてよみ侍りける

夜をこむるすずの篠屋の朝戸出に山かげくらき嶺の松風

 

「新古今和歌集」の瞻西(せんさい)の六五八番歌に、

 

   雪の朝、基俊の許へ申しつかはしける

つねよりも篠屋の軒ぞうづもるるけふは都に初雪やふる

 

「続拾遺和歌集」の藤原秀能(ひでよし)の一七八番歌に、

 

   題しらず

暮れかかる篠屋の軒の雨の中うちにぬれてこととふ時鳥かな

 

などとある。こうして用例を探すだけで何故か甚だ不愉快になってくるほどに私は短歌嫌いであるので、以下の「すゞのしの」の例は御自身で捜されよ。

・「某外すゞと唱へて」「某外」では読めない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『其外』である。これで訳した。なお、この「すゞ」についてはその岩波の長谷川氏注に、「古今要覧稿」の『三百七十九の「すゞ」の項に、「歌には大和の吉野、山城の鞍馬、紀伊の熊野等の諸山のもの其名高し」とある』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 すず篠(しの)の事

 

 水野某、「すずしの」という語、歌にもその語を半可通で安易に詠み込んだりなされたものか、ふと、その言葉が気になり出され、考えて見れば、

「よう、分からん。」

ということにて、私の本(もと)へもよう参る和学者に、その語に就き、訊ねてみたところ、

「『すずの篠屋(しのや)』などと歌にも詠み、その他にも、『すずのしの』と和歌などに詠んだ例が御座る。いかにも小さき竹(たけ)様(よう)のもので御座って、これを以って屋根などを葺く地域が、これ、今も御座る。例えば、吉野にては、そうした篠葺き屋根を多く見かけることが御座いまする。」

とのことで、また、

「その他にも『すず』と唱えて、大和国辺りを中心に、上方(かみがた)にては、いろいろなる加工に用いる竹材(たけざい)として、普通に取り扱って御座って、吉野にてはこれ、和歌に詠み込むところの知られた歌語と、致いて御座いまする。」

とのことで御座った。

 かの水野翁は吉野へも参られ、この――すず篠――と申す実物も、これ、もち帰ってこられたとのことにて、私にも、それを見せて下さったことがある。

 諸国の方言や、また、古き言葉は、これ、田舎には今以って、かく残りおるということがよぅ分かった。されば特にここに認(したた)めおくことと致す。

耳嚢 注の途中に

 しかし、だ。――例えば私が大学時代から愛用してきたぼろぼろの角川書店(昭和五〇(一九七五)年刊)久松潜一・佐藤謙三編の「古語辞典」で「みすずかる」を引くと、「水薦苅る」「三薦苅る」と出て、「すず」はスズダケの別名と載せるくせに、「みこもかる」に同じとしてあり、そこでいざ、「みこもかる」を引いてみると、「水菰苅」「水薦苅る」となっていて、こっちには水中に生える真菰が名産でそれを頻りに刈る信濃の地の意味で「信濃」にかかる枕詞だ、としているのである。如何にも科学に弱い近代の国文学者が平気でやってしまうトンデモ記述なのである。ただ、これはどうも、江戸時代の「万葉集」の新訓の中で、この「水薦苅」を「みすずかる」と訓じてしまったことに端を発する勘違いであるらしい。にしても、これは辞書を引く若者たちを心底馬鹿にした記述である!

2015/02/05

さればとよ首も見ざれば我が國は人の死をも知らずあれかし

さればとよ首も見ざれば我が國は人の死をも知らずあれかし

あなた方を

僕を愛する――それだけは言っておこう……

耳嚢 巻之九 平澤滑稽文章の事

[やぶちゃん前注:以下の本文は一部、私が恣意的にいじってあるので注意されたい。後注参照。]

 

 平澤滑稽文章の事

 

 佐竹の藩中に、若かりしころは留守居など勤(つとめ)し平澤平格といふ者有。多才滑稽のおのこにて、狂歌狂文など專ら人口に鱠炙(くわいしや)せり。狂名は手柄(てがら)の岡持(をかもち)といひし。文化の初(はじめ)世を去りしか、渠(かれ)が存在の内つゞりし、短册のゆゑよしといへる文を、人の携へ來りしを寫置(うつしおき)ぬ。

   短册のゆへよし

 今は涼しき國に世をさけし妙慶と聞へし尼君は、金谷氏意啓(かなやしいけい)の叔母にして、明和のとし頃、意啓に對面の折から、一ひらの花たんざくをとり出て、こは澤村訥子(さはむらとつし)が水莖(みづくき)のあと也。つばらにかたり出んも、いとおもはゆう恥しきわざにしあれど、此尼がいと若かりし時は、調子も花やぎたるみやびをにて、藝もまた、咲(さく)ものこらず、散りもはじめずとなん、いはん頃にしあれば、こよなふしたひわびて、しづ心なきまでにおぼえし。こは我のみに限らず、人の思(おもは)んことをも憚からず、かたみにうち出(いで)て、たれかれと、したひあえるは、みやづかへのをみなの習ひにして、つかへのうさを、慰(なぐさむ)るたよりともなす事にぞありける。其頃かみつかたより、物かゝせ給ふついでありけるを、よき折(おり)なりとて、ひたすらにこひて、此發句を得たり。其時のうれしさは、千ひらのこがねをえたりとも、かうこそはと思ふばかりにてひめ置(おき)つれど、かくよはひかくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば、遠き國に趣きては、此短册もいかに成(なり)ゆきなんと思ふからに、そこにあたへんとて、意啓にゆづられしなり。意啓かしこまりて、うけ納(をさめ)てより、はや四十とせばかりにもなりぬ。かゝる名におへる人の筆のすさびは、年をふるに隨ひて、もてはやすべきものなるを、我家にありても、末はいたづらにや成行(なりゆき)なん。今の曙山(しよざん)は、此訥子がひゝこなれば、かれにこそ讓り傳へめ。正しくおほおほぢの筆のあとにしあれば、かつよろこび、かつかしこみて、長くよそ人の手にはもれまじうなん。さらば妙慶尼のみたまも、うれしとやおぼさんと思ふからに、曙山に其よしをかたりぬれば、よろこびて乞ふまゝに、ゆづりつたふるわざにはなりぬ。其あらましをば、おのれにかきしるしてよ、とりそへて曙山におくらんと、意啓がこふ儘に、志の厚き事をめでゝ、意啓に代り、しるすになん、

  遠つ親のわざをしたはゞ水莖のあとも絶せず千年さかえむ

岡持いふ、右文の内、かくよはひ傾(かたぶ)きと書(かく)べきを、かくよはひかくよはひ傾きとかきたるは、暑き日のつかれに、ねぶけつきての書損(かきそんじ)也。さればあとのかくよはひは出ものになりたれども、今さら捨られもせず。かくよはひといふ五字をほしがる人あらば、少しは金をつけても、人にやつて仕廻(しまはし)たい事と思ふに、江戸は廣き所にて、其あとのかくよはひ不用(ふよう)ならば、申(まうし)うけたしといふ人有(あり)。それは何する事よと問へば、其人いふ、我は年の秋、上州より出羽まで用の事ありて行(ゆき)けるに、十五夜は桐生(きりふ)、十三夜は出羽の酒田なりしが、二夜ともに曇りて月を見ず、其癖翌日は晴天なれば、其後其歌を詠(よま)んと思ひ考(かんがへ)て、下の句は出來、上の句も十二字迄は出來たれども、五字不足にて歌にならず。其不用の五字をたして、三十一文字にせんと思ふなり。其の上の句は、桐生酒田の月も見ずと計(ばかり)なれば、桐生と酒田の間へ、其不用の五字をつかふつもりといふ。其歌はと問へば、

  きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない

此文にある澤村訥子といへるは、始(はじめ)澤村宗十郎又長十郎といふ。後(のち)助高屋高助(すけだかやたかすけ)といふ歌舞伎役者なり。享保の末、元文寛保の頃より名高く、寶曆の始(はじめ)までありける。曙山といへるは其弟子筋也。血緣今はしらざれども、享保文化の頃、澤村宗十郎と名乘りしわざおぎ也。はれやくたいもないとは、元租訥子が狂言の時、ひたといひし言葉にて、誰(たれ)しらぬものもなかりしことなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸というか、技巧走りの狂歌シリーズで連関。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、以下の引用文の筆者平澤平格(後注参照)なる人物は文化十年没であるから、未だ満七十四で存命であった。

★なお、実は底本では(下線部やぶちゃん)、

 

かくよはひかくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば、

 

の箇所は実は底本では、

 

かくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば

 

とあって後に記すようには重出表記となっていない。また、その後の、

 

右文の内、かくよはひ傾きと書べきを、かくよはひかくよはひ傾きとかきたるは、

 

の箇所も底本では、

 

右文の内、かくよはひ傾きと書べきを、かくよはひかく傾きとかきたるは、

 

と「よはひ」が入っていない。しかし、この底本のままでは読解が如何にもし辛い(事実、私は若き日にこの底本で初読した際、この章のこの辺りの意味が実はよく分からなかった記憶があるのである)ので、敢えて例外的に底本をいじったので注意されたい

・「佐竹」出羽国秋田久保田藩二十万五千八百石。当時の藩主は第九代佐竹義和(よしまさ)。

・「平澤平格」久保田藩定府藩士で江戸留守居役であった平沢常富(享保二〇(一七三五)年~文化一〇(一八一三)年)。戯作者としてのペン・ネームを朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)と言い、狂歌師として手柄岡持(てがらのおかもち)の狂名でも知られる。底本鈴木氏注に、『「てがら岡持、平沢常富、通称平格、薙髪して平荷といふ、初号浅黄裏成、喜三二、亀山人、朋誠堂、道陀楼麻阿、虎耳崛とも号す、又俳に月成、狂詩に韓長齢天寿などといへり、文化十年五月廿日、七十九歳にて歿す、寺は深川浄心寺中二乗院にて、浄心寺墓地に墓ありしが、無縁と見えて、台石も埋りゐたり、震後将た如何なりしか。」(三村翁)。秋田藩の留守居役。安永六年以後、黄表紙の著作が多い。天明八年「文武二道万石通」を作り幕政を諷刺したので、藩主は戯作を厳禁した。狂歌人としては蜀山人などと深く交わった』とある(ここでは戯作執筆を藩主が厳禁したと断定しているが、以下のウィキでは推定となっているが、諸記載は概ね断定している)。以下、ウィキの「平沢常富」からも引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『通称は平角(平格とも)、字は知足、号は愛洲。隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける』。『江戸の武士、西村久義(平六)の三男に生まれ、十四歳で母方の縁戚にあたる久保田藩士・平沢家の養子になった。天明の頃は藩の江戸留守居役筆頭で、百二十石取りであった。当時の江戸留守居役は、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や他藩との交渉を行う、一種の外交官に相当した』。『若い頃から「宝暦の色男」と自称して吉原通いを続け(吉原も一種の社交サロンであった)、勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。また、田沼時代は武士・町人の間に「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こり、数多くの連(サークル)が作られた。常富も手柄岡持や楽貧王という名で狂歌の連に参加していた』。『しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙「文武二道万石通」』(ぶんぶにどうまんごくどうし)『を執筆し天明八年(一七八八年)に上梓したことから藩主・佐竹義和より叱りを受けたらしく、黄表紙からは手を引き、以降はもっぱら狂歌作りに没頭した』。『墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。子の平沢為八や孫の平沢左膳(初め重蔵)も江戸留守居を勤め、用人にも就任した』。代表作は「文武二道万石通」の他、「親敵討腹鞁」(おやのかたきうてやはらつづみ:安永六(一七七七)年刊。「かちかち山」の後日譚という体裁で、子狸に親の敵と狙われた兎が義理に迫られて切腹、狸の方は猟人を導いて討たせた狐の子狐に猟人とともに討たれるという筋。)「案内手本通人蔵」(あなでほんつうじんぐら:(安永八(一七七九)年刊「仮名手本忠臣蔵」のパロディで、登場人物が総て通人という設定。)「見徳一炊夢」(みるがとくいっすいのゆめ:安永一〇・天明元(一七八一)年刊。彼の最初のヒット作とされる。)等がある。因みに、その問題作黄表紙「文武二道万石通」は喜多川行麿画で三冊、天明八(一七八八)年刊で、文武どちらにも優れない放蕩怠惰で不真面目なぬらくら武士らが源頼朝の命を受けた畠山重忠によって、富士山の人穴潜りや箱根七湯で湯治をさせられ、重忠がそれを隠密裏に観察評価し、文武孰れかに振り分けようとする話で、同奨励策の実相を捉えて痛烈に風刺した作である。これは主に日向ぼっ子氏のブログ「日向ぼっ子の大江戸散歩」の「江戸の町から武士が消えちゃった?!」の記載にお世話になったが、そこにはこの作が定信の家臣であった『水野為長が幕臣の人物評・風評を書いた「よしの冊子」』(よしのぞうし)を下敷きに、『松平定信の寛政の改革である質素倹約と文武奨励を、武士である身で批判している』ともある。ただ、この「よしの冊子」はウィキの「よしの冊子」によると門外不出で、文政三(一八二〇)年頃に発見された、とあり、少し齟齬があるように思われる。しかしこれは、当時から既にその冊子の存在自体はよく知られていたということを指すか(以下、参考までに「よしの冊子」について同ウィキ記載を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『寛政の改革で知られる松平定信の家臣・水野為長が、世情を定信に伝えるために記録した』、『官界やそれらを取り巻く世間の内幕情報をまとめたもの』で、『書かれている内容は噂話であるため必ずしも史実とは限らないが、当時の世相を知る貴重な資料として多くの著作に利用されている。原本は無題だが、一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する「よし(由)」とあったことから、「よしの冊子」と呼ばれるようになった』。『賄賂が横行した田沼意次の時代が終わり、一七八七年に松平定信が三十歳という若さで老中に抜擢されたが、経験の浅い定信は政府の内部事情に疎かったため、側近の水野為長が隠密を使って情報を集め、要旨をまとめて定信に渡していた。その原本は、天明初年―寛政中期(十八世紀後半)に書かれ、全部で百六十九から二百冊あったと言われるが、所在はわかっていない。一八三〇年(文政十三年)に田内親輔が定信の遺箱の中から為長筆の原本を発見し、藩友以外に見せないよう明記の上、後世に定信の施政を伝える資料として抄出した。現存する写本はこの親輔の抄本を基にしており、桑名市立中央図書館、国立国会図書館、慶応大学に所蔵されている』。『内容は、個人の風聞・評判や人事が中心で、そのほか、定信邸内の事柄、都市や農村の情報、対外政策、思想まで多岐に渡る』とある)。

・「文化の初世を去りしか、渠が存在の内つゞりし……」おいおい! 根岸殿! 平澤殿はまだ生きておられますぞ!(「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、平澤の没年は文化十年。戯作が禁じられてしまって以降、平澤の露出が巷で減ってしまい、根岸は既に亡くなったと錯覚していたのかも知れないし、平澤の文章の冒頭「涼しき國に世をさけし」に引っ掛けた根岸のブラック・ユーモアともとれる。平澤ならしかし、これを見たら、ニンマリして、あの世からなら幾らも幕政批判の戯作が書けるわ! と思ったかも?!

・「短册のゆゑよし」「故」なら「ゆゑ」が表記は正しい。「ゆゑよし」とは由緒という意味か? 後半の「かくよはひ」の詞を和歌に詠み込んだことを、結んだ、と言い換えるなら、「ゆへ」(結へ由)と読むことも可能である。

・「涼しき國に世をさけし」岩波版長谷川氏注に、『極楽に去った』とある。

・「妙慶」「金谷氏意啓」「意啓」は取り敢えず「よしのり」と訓じておいた。実在する人物のように書かれてはあるが、この話全体が戯作で、全くの架空人物の可能性もあろう。一見すると後の付けたりの落ちが如何にもな感じに見え、全体に嘘臭さがぷんぷんするのであるが……しかし……私はこの二人は実在し、この前半の話も実録であると考えている。後の最初の和歌の注を参照されたい。

・「明和のとし頃」西暦一七六四年から一七七一年まで。

・「花たんざく」染め色をしたり、絵を配してある豪華な短冊のことか。

・「澤村訥子」は歌舞伎役者の名跡。屋号は紀伊國屋。定紋は丸にいの字で、替紋は三羽鶴。名は「とっし」と読む。ここは初代助高屋高助で初代澤村宗十郎(貞享二(一六八五)年~宝暦六(一七五六)年)。底本鈴木氏注に、『本名は三木藤五郎、京の人、正徳四年染山喜十郎とて伊勢古市初舞台、享保二年元祖沢村長十郎宗慶門に入り、沢村善五郎と改、宗十郎と改、吉宗将軍の講を憚り一時惣十郎となる、延享三年改長十郎、宝暦三年助高屋高助、同六年正月三日、七十三歳にて沒す、法名高竜院月得日助信士、浅草新寺町長遠寺に葬る。(三村翁)出身は武士の三男。伊勢の芝居で腕をみがき江戸に出て活躍し二代市川団十郎と並んで宝暦期の江戸劇壇を代表する名優となった。和事と実事を得意とした』とある。ウィキの「助高屋高助(初代)」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『屋号は紀伊國屋、俳名訥子・高賀』と称し、『もとは武士三木某の子で、正徳五年(一七一五年)に染山喜十郎と名乗り伊勢古市の芝居に出る。享保元年(一七一六年)十一月、初代澤村長十郎の門人となって澤村善五郎と改名し大坂の大芝居に出た。その後、初代姉川新四郎の代役で『国性爺合戦』の和藤内を勤めたところ大好評を得、注目を浴びるようになる。享保三年(一七一八年)江戸に下り、森田座の顔見世』「前九年鎧競(ぜんくねんよろいくらべ)」に『出た折に澤村惣十郎と改名、その後さらに澤村宗十郎と名を改め、役者だけではなく狂言作者も兼ねた』。享保二一(一七三六)年、「遊君鎧曽我(ゆうくんよろいそが)」のピカレスク梅(うめ)の由兵衛(よしべえ)を『演じ大当りとなったが、このとき舞台で用いた用いた頭巾が大流行となった。これが今日でも鞍馬天狗などに見られる宗十郎頭巾である』。『延享四年(一七四七年)六月、京都中村粂太郎座で『大矢数四十七本』の大岸宮内を演じて大当りとなる。同年江戸に下って三代目澤村長十郎と改名し、十一月には中村座顔見世で『伊豆軍勢相撲錦』の河津三郎を勤める。このときに舞台を共にしたのが二代目市川團十郎の俣野五郎と初代瀬川菊之丞の実盛娘熊野で、この河津と俣野の相撲に熊野がからむ所作事を見せ、豪華な千両役者が揃う「三千両の顔見世」という評判をとった。寛延三年(一七五〇年)の夏には江戸三座で『仮名手本忠臣蔵』を競演し、初代山本京四郎や初代坂東彦三郎が各座で大星由良助を演ずる中、宗十郎は中村座で由良助を演じ「随一」と評される。宝暦二年(一七五二年)の評判記では真極上上吉にまで昇りつめ、翌年十一月には助高屋高助と名乗った』。『時代世話、和事、実事と女形以外の役なら何でもこなし、私生活では音曲や書画、俳諧、茶を嗜む風流人として知られた』とある。またこの歌舞伎名跡としての『「訥子」は初代澤村宗十郎(初代助高屋高助)の俳名に由来する。この初代と、続く二・三・四・五・六代目は、それぞれ「訥子」を俳名としては使ったが、実際にこれを名跡として襲名することはなかった。実際に「澤村訥子」を襲名したのは七代目が最初である』とある。

・「咲ものこらず」美しくぱっと咲いて美事に散るような如何にも粋で味な演技をいうか。若き色男のキレのある演技を、「風姿花伝」の「老いても花は残るべし」を逆手にとってパロったもののように私には読める。

・「かたみにうち出て」岩波版長谷川氏注に、『互いに言いあい』とある。

・「みやづかへ」仕えた貴人は明らかでない。大名格の武家と思しい。

・「かみつかた」岩波版長谷川氏注に、『主人筋』とある。

・「うけ納てより、はや四十とせばかりにもなりぬ」先に「明和のとし頃」とあったから、そこから四十年後は文化元・享和四(一八〇四)年から文化八年(一八一一)年ということになるが、後ろは取り敢えず「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年夏以前まで下げ得る。

・「曙山」底本鈴木氏注に、『二代目宗十郎。もと富沢門太郎の門弟。江戸へ下って後に初代宗十郎の養子となり、寛延二年襲名。明和七年没、五十八。若女方から立役に転じ、さらに実悪専門となった』とあるが、これでは後の「ひゝこ」と噛み合わないので、岩波版長谷川氏注にある四世澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化一〇(一八一三)年)が正しい(「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年からも自然である)。三代目澤村宗十郎の長男で、初代澤村源之助から四代目澤村宗十郎を名乗った(俳名も同じく訥子)。

・「此訥子がひゝこなれば」「ひゝこ」曾孫。ウィキの「澤村訥子」を見ると、二代目は初代の養子、三代目は二代目の次男、四代目は三代目の長男である。血縁のない初代であるが系図上は曾祖父ととっておかしくない。

・「遠つ親のわざをしたはば水莖のあとも絶えせず千年さかえむ」は、

 遠(とほ)つ親(おや)の伎(わざ)を慕はば水莖(みづくき)の跡(あと)も絶(た)えせず千年(ちとせ)さかえむ

で、歌舞伎名跡の言祝ぎである。まあ、この手の和歌にありがちな退屈な一首である。恐らく、そうした退屈さをわざとここに持って来て、ここを転回点にして、以下の意外な笑い話をカップリングすることこそが、平澤の真骨頂であったのではないか? とすれば、この前半の話は寧ろ、事実である必要性が高い虚実皮膜こそが歌舞伎の神髄だからである。

・「暑き日」この「短冊のゆえよし」という文章は、少なくとも夏の暑い盛りに書かれたものと分かる。とすれば、執筆推定下限である文化六(一八〇九)年夏の同時記載は考えにくいから、先の下限は文化五(一八〇八)年夏以前まで下げ得る。

・「出もの」ここは表面上、余計な部分、衍字の謂いであるが、実は辞書を引くと、「出物」には、できもの・おでき・屁(へ)を原義(これ以下の部分は、それこそ前の文脈からは「おでき」か「屁」のようなものだとも言えまいか?)として、芝居などの演目・出し物の意があり、また「出者」を見ると、厚かましい人・出しゃばり者を原義として、のけ者にされる人・特に遊里で冷遇される客の意、及び能で役柄のことを指す語とあるから、この歌舞伎役者絡みの話柄にはすこぶる相性のよい語であることが分かる。そこを平澤は意識しているものと私は考える。

・「桐生」群馬県の東部の現在の桐生市。以下、ウィキの「桐生市」より引く。『この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である』。『織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている』。「吾妻鏡」などに『よれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられて』いる。慶長五(一六〇〇)年、『関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進し石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという』。『現在の市街地が形成され始めたの』もその頃で、『徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった』。『桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めた』。この後の『天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。戦後は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている』とある。

・「酒田」山形県の北西の現在の酒田市。平安時代には出羽国国府として築いたと考えられる城輪の柵がある。酒田の街は袖の浦(現在の酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣三十六人が永正一八・大永元(一五二一)年頃に最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われる。袖の浦は中世には既に貿易の中継地で寛文一二(一六七二)年に河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、酒田はますます栄え、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」とも称されるようになり、北の秋田の外港土崎湊と並んで奥羽屈指の港町として発展した。「日本永代蔵」に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は「三十六人衆」という自治組織により運営されていた(以上はウィキの「酒田市」に拠る)。

・「きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない」まず、「きりふかくよはひさかたの」の二句に跨って、先の「かくよはひ」の衍字分が挿入されてある。底本鈴木氏注には、『霧深く夜は久方の月も見ず、と、桐生かくよはひ酒田の月も見ずと、両方へかけたるなり、岡持文才あり過ぐる恨あり。(三村翁)』とある(しかし、実は平澤は実は三村竹清氏のような批判を受けることを既に百も承知だったのではあるまいか? だからこそ『出者』たる者と自己認識する彼はこの『出物』(以上、前注参照)の話を確信犯的パロディとして添えたのだと私は思うのである。)「ひさかたの」は「月」の枕詞。下の句の「はれ」は「やれ・やあ・まあ」といった感動詞(歌謡の囃子言葉でもある点でも歌舞伎と相性が良い詞である)と、夜空の「晴れ」を掛ける。「やくたいもない」は「益体も無い」で役にたたない人物・物を言うと同時に、後に出るように初代澤村訥子の知らぬ者とてない名台詞でもあったとあって、これ、「やくたいもない」後半部の「やくたいもない」オチの切りの名調子となっているのである。これはやっぱり、「出者」平澤平格、確信犯の「やくたいもない」「出物」であると私は信ずる。

・「此文にある澤村訥子といへるは、始澤村宗十郎又長十郎といふ。後助高屋高助といふ歌舞伎役者なり。享保の末、元文寛保の頃より名高く、寶曆の始までありける」この解説は根岸によるものであろう。ここでの「沢村訥子」は前記の初代澤村宗十郎を指す。彼の芸名は厳密には、初代染山喜十郎→澤村善五郎→澤村惣十郎→初代澤村宗十郎(俳名:初代訥子)→三代目澤村長十郎→初代助高屋高助である(ウィキの「澤村訥子」記載)。「享保の末、元文・寛保の頃より名高く、寶曆の始」とあるのは、よく事実を記している。先に示した通り、彼が大当りをとって一躍有名になったのが享保二一(一七三六)年の「遊君鎧曽我』」の梅の由兵衛を演じた時で、享保の次が元文、次が寛保、その後に延享・寛延を挟んで宝暦となり、初代訥子は宝暦六(一七五六)年一月三日に享年七十二で亡くなっているからである(因みに二代目は養子で、初代の死に先立つ七年前の寛延二(一七四九)年に初代澤村宗十郎の養子となっており、訥子という号と、二代目澤村宗十郎を襲名した)。なお、根岸は元文二(一七三七)年生まれで、初代の没年には弱冠二十、彼が御家人株を買って末期養子として下級旗本根岸家の家督を嗣いだのはその翌年の宝暦八(一七五八)年であるから、貧乏武士の鎮衛は芝居どころの騒ぎではなかったとは思う。それでも彼の若き日の記憶に残る俳優の名ではあったに違いない。だからこそこの文末は「ありける」と間接体験の過去「けり」の連体中止法で余韻を残してあるのであろうと私は読んだ。

・「曙山といへるは其弟子筋也。血緣今はしらざれども、享保文化の頃、澤村宗十郎と名乘りしわざおぎ也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「享保文化」を『享和・文化』とする。そうでないと享保(一七一六年~一七三五年)から文化(一八〇四年から「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年)では実に九十三年間となってとんでもないことになる。現代語訳でも「享和」を採った。「曙山」はウィキの「澤村訥子」に記載によれば二世・三世が、岩波版長谷川氏注によれば『二世・四世が用いた号』とする。長谷川氏注は更に続けて、『二世は明和七年(一七七〇)、三世は享和元年(一八〇一)没。三・四世を混同するか』とする。これは「享和・文化の頃」とあるのを受けた疑義である。調べてみると、三代目は(リンク先は三代目のウィキ)明和八(一七七一)年十一月に成人を機に三代目澤村宗十郎を襲名したとあり、四世澤村宗十郎の没年は文化一〇(一八一三)年で、先の私の推定から、この短冊が「曙山」に渡されたのは文化元・享和四(一八〇四)年から文化六(一八〇九)年夏までの間であるから、この「享保(×→享和〇)文化」は長谷川氏のおっしゃるように、根岸が三世と四世を混同してしまっていると読むべきで、事実とすれば、これは四世の澤村宗十郎曙山しかあり得ない。「わざおぎ」は俳優。「わざをぎ」と書くが、古くはこの「わざおき」で正しい。漢字表記も「俳優」で、「神を招(お)ぐ態(わざ)」を原義とする記紀の時代からの古語。本来は、面白おかしい技を演じて歌い舞い,神や人の心を和らげ楽しませることを指し、その最初は、ご存じ天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神天宇受賣命(あめのうずめのみこと)である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 平澤平格(ひらさわへいかく)の滑稽(こっけい)の文章の事

 

 秋田佐竹殿の久保田藩藩中に、若かりし頃は江戸留守居役などを勤められた平澤平格と申す御仁がおる。

 多才・滑稽をこととさるる武士にして、その狂歌・狂文などは、広く人口に膾炙しておる。

 狂歌の狂名は「手柄岡持(てがらのおかもち)」と申さるる。

 文化の初め頃、すでに世を去られたものか、その平澤殿が存命のうちに綴ったと申す「短冊(たんざく)のゆえよし」と申す文章を、さる御仁が携えて参ったによって、それを以下に写しおくこととする。

   ――――――

 

   短冊のゆえよし

 

 今は既に、涼しき御国(みくに)へ世を避けて向われた――妙慶――と申された、名の知れたる尼君は、かの――金谷氏(かなやし)の意啓(よしのり)殿――の叔母で御座った。

 明和の頃、この尼君、意啓殿に対面(たいめ)なさった折り、一枚(ひとひら)の花短冊をとり出されて、

「……これは、かの名優初代澤村訥子(とっし)さまの水莖(みずくき)の痕(あと)にて御座います。……委細を語り申すも、これ、たいそう面はゆぅ、恥しきことなれど、この尼が、たいそう若かりし頃は、このお方……

――如何にも華やかにして雅びなる男子(おのこ)にて

――その芸もまた、大輪の花がぱあっと咲いて

――潔ぅぱっと美しく散ったように

――いいえ!

――咲いたままに散る気配ものぅ

――永遠(とわ)に咲き続くる極楽の常盤(ときわ)の美花のごとし

――とでも申すべき

――これ、若く美しき顔(かんばせ)と仕草で御座いました……

……そのお方を……妾(わらわ)……これ、こよのぅ、慕いわびて……まっこと……思慮分別ものぅなるほどに……あくがれておりました。……いえいえ、これは当時の妾(わらわ)のみに限ったことにては御座いませぬ。……そのようなる思慕、人が知ったらどう思われるかということ、これをも憚からず……女房同士、皆、互いに、かのお人のことをひっきりなしに噂し合おうては、誰彼(たれかれ)とのぅ、皆、慕い合あうと申すは、宮仕えの女房衆の、これ、習いで御座ったのです。……あのお方がことを思うことで、皆、辛き勤めの憂さを、これ、慰むる便(よすが)とも致いておったので御座います。……

……ところがちょうど、その頃のこと、お仕え申し上げておりましたる御主(ごしゅ)さまより、この訥(とつ)さまに、ちょっとしたものをお書かさせなすったこと、これあり、

『――これぞ! 千載一遇の折りじゃ!――』

と、その序でに、妾(わらわ)より御主(ごしゅ)さまへ、只管(ひたすら)に乞うて、この発句の花短冊を得たので御座いました。……

……その折りのうれしさというたら!……それはもう……千枚の小判を得たとしても……あの折りの……天にも昇る心地となるとは……これ、思いませぬ!……

……実は……我ら、尼ながら……その時の恍惚の思い……これ、今以って続いておるので御座います。……

……されば……これだけは、と執心致いて、かくも秘めおいて参りました。……

……されど……かく齢(よわい)傾ぶきかく齢傾ぶき……

……しかも……かく……尼の身にてさえあればこそ…………これより遠き御国(みくに)に赴くに際しては……この現世への思いを絶たねばと――

――いいえ!

――本心を申さば

――この愛しき人の水茎の痕を記したる短冊が

――妾(わらわ)亡き後

――どうなってしまうかと

――これ、気が気では御座らぬによって……そこ許(もと)へ……与えんとぞ思う。……」

とて、意啓(よしのり)殿に譲られたと申す。

 さても――意啓殿が畏まってこの花短冊を受け納めてより――早や、四十(しじゅう)年ばかりにもなる。

 今年のこと、意啓殿、はたと考えたと申す。

「……このようなる著名な御仁の筆の遊(すさ)びと申すものは、これ本来は、年を経(ふ)れば経るほどに、持て囃されて評判となるものなるに……かくもただ、このまま我が家にあったとしても、これ、末は如何にも無駄なものとなってしまうであろう。……さても、当代の澤村曙山(しょざん)は、この句を詠んだる初代訥子(とっし)の曾孫(ひまご)なれば――そうさ、かの者にこそ、これは譲り伝えんこととしよう!――正しき曾祖父の筆の痕(あと)ともなれば、これ、且つは喜び、且つは畏まって、永く、見ず知らずの他人の手に漏れ渡ってしまうと申すようなことも、これ、御座るまい。――さらば、叔母上、妙慶尼の御霊(みたま)も、必ずや、嬉しと、お感じにならるるに、これ、違いあるまい!」

と思うたによって、知る人がりを頼んで、曙山にその由を語ったところ、曙山も大きに悦び、是非に、とその短冊を乞うたによって、そのまま譲り渡され、今に紀伊國屋に伝わる元祖訥子の業物(わざもの)となって御座る。

 その折り、――以上のあらましをば、拙者に書き記して貰いたい、それをとり添えて曙山に贈ることと致しとぅ存ずる――と、金谷意啓(かなやよしのり)殿御自身からたって乞われたによって、乞われたままに、その曙山の志しの厚きことを愛でて、意啓殿に代わって、かくも認(したた)めた上、一首を捧ぐ。

 

  遠つ親のわざをしたはば水茎のあとも絶えせず千年さかえむ

 

〇附記。

 岡持、自ら、言う。

 右の文の内(うち)、「かく齢傾ぶき」と書くべきところを、うっかり「かく齢傾ぶきかく齢傾ぶき」と重ねて書いてしもうたは、暑き日にすっかり疲れ果てた上、少々、寝不足なれば、睡魔の襲うたによって書き損じてしもうたもので御座る。されば、後(あと)の方(ほう)の「かくよはひ」の文字(もんじ)はこれ、この文章にとっては屁の如き、余計なる、腫物(できもの)、厄介者、となってしもうた。

 かと申せど、花短冊に合わせて用意されたる特に誂えた高価なる紙に、我ら駄文の水茎も、これ、認(したた)めたて御座ったものなれば、今さらに、これを反故(ほご)にし、捨つること訳にも参らぬ仕儀と相い成ってしもうた。

 そこで、せめても、言霊(ことだま)として精抜(しょうぬ)きをせばやと思うて、

  かくよはひ

という「五字」を欲しがる人のあらば、少しは金を添えてでも、その魂(たましい)を人にやってしもうたい、なんどと切(せち)に思うて御座ったところが、いや! ほんに! この江戸と申すは! まっこと! 広き所じゃて! 何と!

「――その墨痕の――かくよはひ――の文々(もんもん)これ、不用ならば、申し請けとう存ずる。――」

と申し出てこられた方が、これ、御座った!

「……それは、一体、……その五文字を……何になさると申さるるか?」

と不審に思うて訊いてみたところ、その御仁の曰く、

「……我ら、今年の秋、上州より出羽まで用事のあって旅致いたので御座ったが、十五夜は桐生(きりゅう)――これ、書くなら「き」「り」「ふ」で御座るな――にて、十三夜は出羽の酒田(さかた)にて、これ、迎えましたるものの……二夜(ふたよ)ともに曇って月を、これ、見れず、御座った。そのくせ、孰れも、その翌日は、これ、晴天の夜(よ)で御座ったよって、少々癪に触りましてのぅ。その後(のち)、この恨みを狂歌の一首にも詠まずんばならず、と思い立って、捻(ひね)るうち、下の句は出来、上の句も十二文字(もじ)まではこれ、出来ましたものの、どうにも、あと五字、これ、不足にて、どうしても歌にならず、これ、はなはだ困って御座った。されば。その貴殿の不用の五字を足してじゃ。これ、三十一文字(みそひともじ)にせんと思うて、おるので御座る。その上の句は、の、

  桐生酒田の月も見ず

と申すばかりのもので御座れば、の。その「桐生」と「酒田」の間へ、その貴殿の不用の五字を使うつもりでおるのじゃ。」

と申した。

 それでも、その御仁の申さるることが、これ、今一つよう分からなんだによって、

「……その五文字を足したる和歌と申さるるは……これ、如何なるものとなって御座るか?」

と再び問うてみたところが、

 

  きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない

 

   ――――――

〇根岸附記。

 この文にある「澤村訥子」と申すは、初め、「澤村宗十郎」、また、「長十郎」と称し、後(のち)に「助高屋高助(すけだかやたかすけ)」と名乗ることとなった歌舞伎役者である。享保の末、元文・寛保の頃より名優として名高く、宝暦の始めまで、現役で活躍して御座ったように私もその名だけは記憶しておる。

 また「曙山」と申すはその弟子筋の役者である。初代「澤村訥子」と今の「澤村訥子曙山」との間に血縁、これ、あるや否やは存ぜねど、享和から文化の頃、やはり「澤村宗十郎」と名乗った名優である。

 また狂歌中にある、「はれやくたいもない」と申す一句は、これ、元租の初代「澤村訥子」が、歌舞伎狂言に於いて、ことあるごとに使い回した名口調の名台詞(めいぜりふ)で御座って、誰(たれ)一人として知らぬ者はない、十八番(おはこ)の言い回しである、とのことで御座る。

2015/02/04

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(9) 四 歌と踊り(Ⅱ)

 昆蟲の中で一番大きな聲で鳴くのは蟬であるが、雄の鳴いて居る處を眺めて居ると、どこからか雌が飛んで來てその傍に止まり、暫く上下に匍うたりして雄の來り接するのを待つて居る如くである。「すずむし」・「まつむし」なども雄が頻に鳴き續けて居ると、その間に必ず雌が近寄つて來る。昆蟲の中には蟬の如くに特に發聲だけの器官を具へたもの、「すずむし」・「まつむし」などの如くに翅を擦り合せて美音を發するものの外に、顎で物を打つて響を生ずるものが稀にある。靜かな古座敷の障子に塵の溜つて居るやうな處には、往々かやうな類の小蟲が居るが、雄が響を生じ始めると雌も響を生じてこれに答へ、次第次第に相近づく。但し音聲も香などと同じく、單に相手に自分の居處を知らしめるためではなく、主として相手の本能を呼び起し、先方より進んでその滿足を求めしむるに至るためである。鳥類でも獸類でも交尾期には鳴聲を巧に眞似すると、容易に捕へることの出來るものが多いのも、全くこれに原因する。鹿などもその頃になると、笛の如き優しい鳴聲を發するが、これに擬した笛を吹くと、雌雄ともに熱心に耳を傾け急に本能の力が猛烈に働き出すやうに見える。

[やぶちゃん注:「かやうな類の小蟲」昆虫綱咀顎目 Psocodea のコチャタテ亜目 Trogiomorpha・コナチャタテ亜目 Troctomorpha・チャタテ亜目 Psocomorpha に属するチャタテムシ類である。和名のチャタテムシ(茶立虫)とは、よく音を立てることで知られるチャタテ亜目スカシチャタテ科スカシチャタテ Hemipsocus chloroticus の出す音(鳴き声)が茶筌(ちゃせん)で茶をたてる時の音に似ているのに因む。丘先生は一律に顎で叩くとしておられるが、滋賀環境衛生株式会社公式サイトの安富和男氏監修「害虫辞典」のチャタテムシ」によれば、コチャタテ亜目コチャタテ科 Trogiidae やチャタテ亜目スカシチャタテ科 Hemipsocidae の『数種は交尾期に発音する習性を』持っており、『発音部位は口器、腹端、脚の』三つに大別されるとある。コチャタテ亜目コチャタテ科コチャタテ Trogium pulsatoriumや同科のツヤコチャタテ Lepinotus reticulatus は『口器で発音するという観察例が多く、大顎<おおあご>または小顎<こあご>ひげで紙を叩く、こすると表現されて』いるものの『腹端で壁面を叩く種類もあるようで』、スカシチャタテ Hemipsocus chloroticus は『後脚<うしろあし>の基部に発音器官を』持っており、『主にオスが発音してメスへのシグナルと』するとあって、『古くは「隠れ座頭」という妖怪が夜中に音を出すと考えられた時代もあ』ったとある。図入りの同氏による「スカシチャタテの発音器官」のページも必見で、そちらにも『チャタテムシには発音してその音を雌雄の交信に使う種類があります。コチャタテ類は口器の大顎<おおあご>や小顎ひげ、または腹端で障子などの紙を叩いて音を出します。スカシチャタテは後脚<うしろあし>の基節<きせつ>に発音器官をもっています』。『拡大すると、この器官はヤスリ状部と鏡胞<きょうほう>部から構成され、左右のこすり合わせで音を出すのです。人の耳にはギジギジ・・・・・・と聞こえます』と、まさに二様の発音法が分かり易く述べられてある。]

世尊寺に死人掘出事(世尊寺に死人掘り出だす事)――「宇治拾遺物語」第八十四話 附やぶちゃん注・現代語訳――

世尊寺に死人掘出事(世尊寺に死人掘り出だす事)――「宇治拾遺物語」第八十四話 附やぶちゃん注・現代語訳――

 

[やぶちゃん注:先に電子化訳注した「今昔物語集」巻第第二十七「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」(桃薗(ももぞの)の柱の穴より兒(ちご)の手を指し出だして人を招く語(こと)第三(さむ))の連関資料として電子化訳注する。

 底本は渡辺綱也校訂岩波文庫版「宇治拾遺物語 上巻」(一九五一年刊)を用いたが、読みは諸本を校合して私が必要と判断した箇所に歴史的仮名遣で附した。後に注と現代語訳を附した。「骨髮(ほねかみ)」は私の推測である。注では大島建彦校注新潮日本古典集成版「宇治拾遺物語」の注を一部参考にした。]

 

 世尊寺に死人(しにん)掘り出だす事

 

今は昔、世尊寺といふ所はもゝぞのゝ大納言住給(すみたまひ)けるが大將になる宣旨かうぶりに給(たまひ)にければ、大饗(だいきやう)はあるじのれうに修理(しゆり)し、まづはいはひし給(たまひ)し程に、あさてとて俄(にはか)に失せ給(たまひ)ぬ。つかはれ人(びと)みな出でちりて、北方(きたのかた)、若君ばかりなん、すごくてすみ給(たまひ)ける。其(その)わか君は、とのもりのかみちかみつといひしなり。此(この)家を一條攝政殿とり給(たまひ)て、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。ひつじさるのすみに塚のありける、築地(ついぢ)をつき出(いだ)して、そのすみは、したうづがたにぞありける。殿 「そこに堂を建てん、この塚をとりすてゝ、そのうへに堂たてん」とさだめられぬれば、人人も「つかのために、いみじう功德(くどく)になりぬべきことなり」と申(まうし)ければ、塚をほり崩すに、中に石の辛櫃あり。あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしくて、くちびるのいろなど露かはらで、えもいはずうつくしげなる、ねいりたるやうにて臥(ふし)たり。いみじうゝつくしき衣の、金(こがね)のつき、うるはしくてすへたりけり。いりたる物、なにもかうばしきことたぐひなし。あさましがりて、人々たちこみてみる程に、いぬいの方より風ふきければ、色々なるちりになんなりてうせにけり。かねのつきより外の物露とどまらず。「いみじきむかしの人也共(なりとも)、骨髮(ほねかみ)の散るべきにあらず、かく風の吹(ふく)に、ちりになりてふきちらされぬるは、けうの物なり」といひて、その比(ころ)人あさましがりける。攝政殿いくばくもなくてうせ給(たまひ)にければ 「此(この)祟りにや」と人うたがひけり。

 

□やぶちゃん注

・「世尊寺」「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」の私の注を参照。

・「もゝぞの」桃園。「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」の私の注を参照。

・「大納言」藤原師氏(もろうじ 延喜一三(九一三)年~天禄元(九七〇)年)。関白藤原忠平四男。邸宅名の桃園殿に因んで桃園大納言或いは枇杷大納言と称された。ウィキの「藤原師氏」によれば、延長六(九二八)年一月、十六歳で叙爵、翌年に侍従に任じられ、後、蔵人頭となり、天慶七(九四四)年三十二で参議として公卿に列した。しかし、翌天慶八年に弟師尹が二十六歳で同じく参議に任ぜられた上、天暦二(九四八)年に『弟師尹が師氏に先んじて権中納言に任官され、以降は常に師氏の方が官職が下位となった。更に、師氏が中納言の任にあった』康保四(九六七)年になると、本話の主人公である甥の伊尹(父は師氏の兄師輔)が『先んじて権大納言に任官されたことによって、甥よりも官職が下位』となり、『結局、兄実頼・師輔、弟師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。醍醐天皇の皇女、靖子内親王を降嫁された』ものの、『昇進にはつながらず、師氏は官位昇進については不遇であったことが窺える』。また、本話では近衛大将任官の饗宴の二日前に没したとあるが、「公卿補任」等の史料には、近衛大将任官の記載はない、とあって現在知られる事蹟とは齟齬がある。「空也誄」(くうやがるい)に空也と二世の契りがあったことや、同書や「古事談」などによれば、『師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えて』ある。また「蜻蛉日記」には『師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す』ともある。『和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集に』十一首は入集されており、また、『自身で編んだ私家集『海人手古良(あまのてこら)集(師氏集)』がある』とする。

・「大將」近衛大将。但し、事蹟にはない。前注及び次の注も参照のこと。

・「かうぶり」位階。なお、近衛大将は従三位で、師氏は天暦九(九五五)年に従三位に叙されて権中納言・右衛門督如元であるから、近衛大将叙任は位階上の問題はない。康保元(九六四)年には中納言左衛門督如元で正三位(これが最終位階)となり、その後、春宮大夫や按察使を兼任したまま、安和二(九六九)年には権大納言に任せられてはいる。

・「大饗」任官祝賀の饗宴。

・「あるじ」「あるじまうけ」自らがホストとなって客をもてなすこと。

・「れうに」「料に」で形容詞。ために。

・「修理」桃園邸を補修したことを指すか。

・「あさて」明後日。任官記念の饗応の宴の二日前。

・「つかはれ人」使用人。

・「すごくて」如何にももの寂しい感じで。

・「わか君は、とのもりのかみちかみつといひし」先のウィキの「藤原師氏」によれば親賢・保信・近信という子がいることが分かり、新潮日本古典集成注に、「とのもりのかみ」は『主殿寮の長官。主殿寮は、天皇の輿輦(よれん)』(乗り物)・『湯沐(とうもく)』(湯浴み)・『宮中の掃除・燈燭などをつかさどった』とあり、さらにこの人物を師氏の子の『近信か。近信は師氏の子。主殿頭、従四位上』と注する。しかし「賢」も「信」も一般には「みつ」とは読まない。ただ、父亡き後に独り母親と残っていたとすると、事情は不分明乍ら、末子の近信という説は肯んじられる。

・「一條攝政殿とり給て」「一條攝政殿」は藤原伊尹(これただ/これまさ 延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年)。師氏の長兄師輔の嫡男で師氏の甥。ウィキの「藤原伊尹」によれば、『妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた』ものの、『その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の』かの道長の父である兼家の家系に移ったとある。『父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を主導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる』。天慶四(九四一)年に従五位下に叙された後、『村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した』が、天徳四(九六〇)年に父が急死し、この時、『伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将で、弟の兼通・兼家もそれぞれ従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は衰退の危機を迎えた。しかし憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目では参議に進み』、康保四(九六七)年には従三位となって、次いで上臈四名を『飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功、村上天皇との関係を強化した』。『同年、村上天皇が崩じて安子所生の憲平親王が即位(冷泉天皇)。伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。その一方で伊尹は天皇の外伯父として権大納言に任じられ』、翌安和元(九六八)年には正三位に昇った。『伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている』。しかし、『冷泉天皇には狂気の病があったため長い在位は望めず、東宮にはとりあえず同母弟の為平親王か守平親王が立てられることになった。そして選ばれたのは年少の守平親王だったが、これは為平親王の妃が左大臣源高明の女子であり、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった』。翌安和二年、源満仲の誣告により高明は謀反の咎で突如、失脚、大宰府へ左遷されてしまう(安和の変)。『この陰謀の首謀者は諸説あるが伊尹が仕組んだという説もある。同年冷泉天皇は守平親王に譲位(円融天皇)。東宮には冷泉天皇の皇子で伊尹の外孫である師貞親王が立てられた』。天禄元(九七〇)年に右大臣を拝し、『同年摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去すると、天皇の外伯父である伊尹は藤氏長者となり摂政に任』ぜられた。翌天禄二年に太政大臣、正二位へと進んで、『ここに伊尹は名実ともに朝廷の第一人者となった』ものの、翌天禄三年、病いに倒れ、ほどなく死去した。『伊尹の後任の関白には兼家が有力だったが、中宮安子の遺言によってその兄の兼通が任じられ』、永観二(九八四)年に『円融天皇が譲位して師貞親王が即位した(花山天皇)。外伯父となった伊尹の子の中納言義懐が朝政を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって出家させられ一条天皇に譲位、外祖父の兼家が摂政となった(寛和の変)。絶望した義懐は出家遁世、これ以後の伊尹の系統は振るわなくなってしまった』とある。「人物」の項、『性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせた』。『父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹は』これを守らなかった。和歌に優れ、天暦五(九五一)年に『梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられて』、

後撰和歌集」の編纂に関与、「後撰和歌集」(二首)以下の勅撰和歌集に計三十八首が入首する。家集に「一条摂政御集」があり、「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で記した通り、この桃園殿を世尊寺とした、書家として名高い孫の藤原行成がいる。同「逸話」の項には、「大鏡』」に、『伊尹の若死についての以下の逸話がある』とし、『伊尹の父師輔は自らの葬送について、極めて簡略にするように遺言していたにもかかわらず、伊尹は通例通りの儀式を行った。師輔の遺言に背いたために伊尹は早逝したとの噂があったとされる』とあるから、彼は世間的な噂では本話のような事件がなくとも、祟りめいた風評はあったことが分かる。また、『伊尹が若年の頃の除目で藤原朝成とともに蔵人頭の候補になった。朝成は伊尹がまだ若く、家柄もよいのだから、これからも機会はあろうが、自分はこれが最後の機会だから譲ってくれと頼み込んだ。伊尹はこれを承知するが、結局、蔵人頭には伊尹がなった。朝成は生霊となって祟りをなし、摂政になって程ない伊尹を殺し、その子たちにも祟りをなしたという。なお、記録上両者が官職を競合したとする証拠は無く、伊尹は朝成よりも先に亡くなっている』ともあって、この男――祟られ易い男――という噂の持ち主であったらしい。さて問題はこの「とり給て」の部分で、この邸宅を取り上げた、奪って私有化したということを指しているとしか読めない。北の方と遺子がいるにも拘らず、という箇所が既にして気になるわけで、ここは「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で引いた山分美奈氏の「桃薗における怪異譚をめぐって」には、伊尹が甥のそれを横領したらしいと記してあり、これについて、『伊尹は代明親王の娘と結婚していることや、高明は師輔の娘と結婚していたことなど』から、彼が『その皇族とに強い親族関係を盾に、まだ若い甥(近信)から桃薗の邸宅を横領したのではないかと考えられる』と推論されておられ、同感出来る。これは――伊尹はそうした恨みも抱えていた――そうした権威を笠に着た専横悪評が実は巷に溢れていた――だからこそこうしたおぞましい風説が記されることともなった……というこの都市伝説発生の本当の根っこの辺りに辿りつくことも出来そうな気がするのである。

・「太政大臣」彼の太政大臣宣下(摂政如元)は天禄二(九七一)年十一月二日で、一年後の翌天禄三年十月二十三日には摂政と太政大臣を辞し、そのたった八日後(同年十月は大の月)の十一月一日に享年四十九で急逝している。やっぱ、祟りか? それとも誰かの官打ちか?

・「ひつじさる」未申。裏鬼門で不吉である。

・「築地をつき出して」邸宅を囲む泥土で盛り固めた土塀を突き破ったような形で、外へ突き出ていたという描写か。もしかすると、これは後文から見ても、非常に古い時代の古墳であった可能性が濃厚である。次の注も参照されたい。

・「したうづがた」新潮日本古典集成では『韈形』として同じルビを振り、同注に、『「したうづ」は、「したぐつ」の音便。束帯のときに、くつの下にはく絹製の足袋』とある。これは「大辞泉」を見ると、「したうづ(しとうず)」下沓・襪とし、古代以来、沓(くつ)を履く際に用いる布帛(ふはく)製の履物。礼服(らいふく)には錦(にしき)、朝服には平絹を用いたとある。これを画像検索で見るに、私はこれは所謂、前方後墳の形を形容したものではないかと強く感じる。まさにこの形から、それが古えの高貴な人物の墳墓、塚と伊尹は確かに感じた訳である。家来の反応もだからこそよく分かる。

・「辛櫃」唐櫃。石棺。

・「いみじうゝつくしき衣の」宮内省図書寮本では、この「衣の」以後が、

 衣の色々なるをなんきたりける。若かりける物のにはかに死(しに)たりけるにや

とあると底本に注し、他の本でもそれが確認出来る。現代語訳では、この部分のみ、図所寮本の叙述を特に生かした。

・「金のつき」黄金に輝く金属製の坏(つき)。古代の飲食物を盛る器で、碗よりも浅く、皿よりも深い。材質は土器・陶器や・木製など多様で、脚付きのものや蓋のあるものなどもある。

・「いぬい」乾。北西。新潮日本古典集成の頭注には、三谷栄一「日本文学の民俗学的研究」によればとして、『神霊の出現する神聖な方角とみられる』とする。私は桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で鬼門・裏鬼門ラインに準ずる禁忌のラインとしたが、これは別に矛盾しない。神霊の道は邪神や荒ぶる神にとっても同時に通路であるからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 世尊寺にて死人を掘り出した事

 

 今となっては昔のことで御座るが、世尊寺と申すところは、これ、本(もと)は桃園(ももぞの)の大納言師氏(もろうじ)様がお住まいになっておられたところである。

 近衛大将にならるるという宣旨をお受けになられたによって、大饗(だいきょう)の宴(えん)を主宰なさるということとなって、御邸(ぎょてい)をこれ、大きに修繕なされ、その修理の作業も終わったによって、まずは目出度いとお祝いなされ、さても、明後日(さって)はかの大饗の祝宴と申す、その日に、これ、俄かに身罷られてしもうたのじゃ。

 すると、みるみるうちに威勢は凋落、使用人らは皆、あっと言う間に散り散りとなってしまい、奥方様と若君独りばかりが、そこにもの淋しゅう住まいなさっておらるるようになってしもうた。

 その若君は、確か――主殿頭(とのものかみ)ちかみつ殿――と申された。

 その後(のち)、この屋敷は、御親族で権勢家として知られた、かの一条摂政伊尹(これまさ)殿がお取り上げになられた。

 その伊尹殿が、今度は太政大臣となられ、やはり大饗が催されて御座ったが、その折り、やはり邸内の改築をなされた。

 その御邸の敷地の、未申(ひつじさる)の角(すみ)に、これ、相当に古き塚が御座った。築地をも貫いて、屋敷mp外へも延びた大きなるもので、その塚の隅の方(かた)は、丁度、かの下沓(しとうず)の形を成したる、張り出しのようなる所が御座った。

 さても、殿は、

「――そこに御堂(みどう)を建つるがよかろう。この塚をすっかり取り払(はろ)うてしもうて、その上にしっかとしたる荘厳を施した御堂をうち建つるが、これ、よい。」

と定められたによって、御身内の方々も、

「塚の主(しゅう)がためにも、それはたいそう功徳(くどく)になることにて、これ、御座いましょう!」

としきりに誉めそやいた。

 さればとて、塚を掘り崩してみたところが、その塚の中には、一つの大きなる石の唐櫃(からびつ)があって……これを……開けて見れば……その葬られた主(しゅう)は、これ……

――尼

であった。年の頃、

――二十五、六ばかり

――見目麗しく

――その唇の色なども

――これ、生きておるかと紛(まご)うばかりに……少しも変わらず……

……えも言われぬ

――美しげなる尼の

――あたかも生きたまま

――寝入っておる……

……かのようにして横たわって御座った。……たいそう美しい煌びやかな……

――色々な襲(かさね)の衣を

――これ、着ておる尼

……若かった者が、急な病か何かで、儚くも俄かに死んだものででもあったか?……

――燦然と輝く

――金(こがね)の坏(つき)が

……これ、まっこと、美しく整然と、遺体のぐるりに……

――据えられて

――ある

……その坏(つき)の中(なか)に入って御座った物とても、これ、孰れも皆……

――香(かぐわ)しきこと

……類いなきものにして、皆々こぞって、驚き呆れつつ、その唐櫃の周囲に立ち寄っては見、さてもかく、込み合って御座った――その瞬間――

――戌亥(いぬい)の方(かた)より

一陣の風が吹いて参った……と……

――その美しき尼の遺骸

……これ

――細かな細かな

――塵となって

――一瞬にして

――失せてしもうた、ので御座った。…………

……金の坏(つき)より他の物は、これ、何一つ、残らなんだと申す。…………

「……たとえこれ、遙か昔々の人のそれであったとしても……骨や髪なんどまでも、これ、塵となって散り失すなどということは、これ、あろうはずも、ない。……かく、風のただ一陣、吹いたるのみにて、全き塵となって、吹き散らされてしもうたと申すは……これ、世にも稀れなることにて御座るよ。……」

と噂し合い、その頃の巷にては、これ皆、それを聴いて驚きもし、呆れもしたもので御座った。

 この伊尹(これまさ)殿、それより、幾許(いくばく)も経ずして、これ、お亡くなりになられたによって、世間にては専ら、この、祟りではなかろうか、と頻りに人の疑っておったことじゃった。

 

□補説

 この事件については「富家語」(ふけご:「富家語談」とも。富家殿と号した関白藤原忠実(承暦二(一〇七八)年~応保二(一一六二)年)の語録で高階仲行が筆記したもので有職故実・公事を中心とする)の一〇五話目に以下のように載る(前の部分はこの話柄との直接的関連はないが、伊尹の印象を語っているので入れ、後半は世尊寺関連で短いから序でに入れおいた)。底本は岩波新日本古典文学大系の山根對助・池上洵一校注「富家語」を用いたが、恣意的に正字化した〔 〕は割注で底本ではポイント落ち二行表記である。読みの一部は私が推定して附した。後の注は底本の脚注を一部参考にさせて貰った(無関係な後段は、時間が惜しいので概ねそのまま注を引かさせてもらった)。

 

 仰せて云はく、「世尊寺は一條攝政の家なり〔九條殿の一男。〕件の人、見目いみじく吉(よ)く御坐しけり。細殿(ほそどの)の局(つぼね)に夜行(やぎやう)して、朝ぼらけに出で給ふとて、冠を押入(おしい)れて出で給ひける、まことに吉く御坐(おはしま)しけり。隨身(ずいじん)切り音(こゑ)に先追(さきばらひ)はせて歸らしめ給ふ、めでたかりけり。

 件の家の南庭に墓のありけるを崩されたりければ、丈(たけ)八尺なる尼公(あまぎみ)の色々の衣(きぬ)着したるを掘り出だしたりけるを、人々見驚きけるほどに、風に隨ひて散り失せにけり。その後、攝政も衰へたち、家も褪(あ)せにけりとぞ。

 件の世尊寺の南の邊に妙法蓮華寺といふ所あり。慶圓座主(きやうゑんざす)の房なり。後一條院、親王の時に、發心地(おこりごこち)を煩はしめ給ひければ、御堂(みだう)具し奉りて件の房へ渡らしめ給ふに、件の日御平癒。賞を行はるべき由(よし)仰せありといへども、座主平(ひら)に辭退す。仍りて阿闍梨を寄せらる」と云々。

 

・「見目いみじく吉く」伊尹が好男子で、相当な漁色家であったことは、「大鏡」の「伊尹伝」や「宇治拾遺物語」五十一などにも出る。

・「細殿」細長い殿舎の廂(ひさし)の間(ま)。宮中では、ここに仕切りを施して女房などの居室として使用していた。同話を載せる「続古事談」二では「弘徽殿の細殿の壺」とある。

・「切り音」切り声。一節ずつ区切って明確に発音する、如何にも改まり畏まった発声法。これを、本来は静かに帰るべき後朝の別れ乍ら、宮中から罷ることなれば、かくしたものか。私には驕慢で滑稽にしか見えぬが。

・「八尺」二百四十二センチメートルで、トンデモない大女である。この異人性自体が、妖を呼び込む不吉な表象であるが、何故か「宇治拾遺物語」はこれを採用していない。風説の中での尾鰭の部分であったか、或いは寧ろ、「宇治」の筆者がそれを嘘臭いものと感じて排除したか、またはエンディングの方まで不吉さを抑制する意図が働いた可能性もあるように思われる。

・「色々の衣」多様な襲(かさね)の色目を重ねた豪華絢爛な着衣。

・「妙法蓮華寺」底本脚注に、『一条附近、即ち世尊寺の近くにあった寺。慶円の私房か』とある。

・「慶圓座主」底本脚注に、『延暦寺の僧。喜慶の弟子。天台座主』とある。

・「後一條院、親王の時」底本脚注に、『後一条天皇がまだ親王であった時。同帝は寛弘五年(一〇〇八)誕生、長和五年(一〇一六)践祚。即ち、同帝の幼少の頃』。

・「發」瘧。所謂、「わらはやみ(わらわやみ)」で、毎日或いは隔日に定期的な発熱症状を起こす病気をいう。現在のマラリアである。

・「御堂」藤原道長。後一条天皇の母であった中宮彰子は道長の女である。

・「仍りて阿闍梨を寄せらる」とあるが、底本脚注によれば、慶円の『任阿闍梨は後一條天王誕生以前の永祚元年(九八九)』とあり、この「富家語」の記載が必ずしも故実に実証的でないことが分かる。

2015/02/03

「今昔物語集」巻第第二十七 本朝付靈鬼 桃薗柱穴指出兒手招人語 第三

桃薗柱穴指出兒手招人語第三(桃薗の柱の穴より兒の手を指し出だして人を招く語第三)――「今昔物語集」巻第第二十七 三 附やぶちゃん注・現代語訳――

 

[やぶちゃん注:これは私が偏愛し、古典怪談の中でも最上級に上質な一篇として真っ先に挙げるものである。

 底本はいろいろ考えた末、数種所持する内より、池上洵一編岩波文庫版の片仮名を平仮名に代えた書き下し文化された本文を用いた。但し、他の注釈諸本と校合しつつ、漢字を正字化した。読み(底本は読みが現代仮名遣)は独自に(一部の訓みは底本に従わなかった)必要と思われる箇所にのみ歴史的仮名遣で附した。後に注(底本及び馬淵・国東・今野校注訳小学館古典全集等の注などを一部参考にさせて戴いた)とオリジナルな現代語訳、及び補説を附しておいた。]

 

 桃薗(ももぞの)の柱の穴より兒(ちご)の手を指し出でて人を招く語(こと)第三(だいさむ)

 

 今昔(いまはむかし)、桃薗と云(いふ)は今の世尊寺なり。本は寺にも無くて有りける時に、西の宮の左の大臣(おとど)なむ、住給(すみたまひ)ける。

 其の時に、寢殿の辰巳(たつみ)の母屋(もや)の柱に、木の節の穴開(あき)たりけり。夜(よる)に成れば、其の木の節の穴より小さき兒の手を指出(さしいで)て、人を招く事なむ有(あり)ける。大臣此れを聞給(ききたまひ)て、糸(いと)奇異(あさまし)く恠(あやし)び驚(おどろき)て、其の穴の上に經を結付奉(ゆふつけたてまつり)たりけれども、尚(なほ)招きければ、佛を懸(かけ)奉(たてつり)たりけれども、招く事尚(なほ)不止(やま)ざりけり。此(か)く樣(やう)にすれども敢て不止(とどま)らず。二夜三夜(ふたよみよ)を隔(へだて)て、夜半(やはん)許(ばかり)に人の皆寢ぬる程に必ず招く也けり。

 而る間、或る人亦(また)試(こころみ)むと思(おもひ)て、征箭(そや)を一筋(ひとすぢ)其の穴に指入(さしいれ)たりければ、其の征箭の有(あり)ける限(かぎり)は招く事無かりければ、其の後(のち)、箭柄(やがら)をば拔(ぬき)て征箭の身の限(かぎり)を穴に深く打(うち)入れたりければ、其れより後(のち)は招く事絶(たえ)にけり。

 此れを思ふに心得(こころえ)ぬ事也、定めて者の靈(りやう)などの爲(す)る事にこそは有(あり)けめ。其れに、征箭の驗(しるし)、當(まさ)に佛經(ぶつきやう)に增(まさ)り奉(たてまつり)て恐(おぢ)むやは。然れば、其の時の人皆此れを聞(きき)て、此(かく)なむ恠(あや)しび疑ひけるとなむ語り傳へたるとや。

 

□やぶちゃん注

・「桃薗」一条北・大宮西(現在の京都市上京区大宮通一条の世尊寺の近く。京外)にあった邸宅で、最も古くは清和天皇の第六皇子貞純親王の御所であった。これを後に源高明(たかあきら 延喜一四(九一四)年~天元五(九八三)年 後注参照)が邸宅としたが、後に関白藤原忠平四男の大納言藤原師氏(もろうじ 延喜一三(九一三)年~天禄元(九七〇)年)が住み(「尊卑分分脈」には彼が桃園大納言或いは枇杷大納言と称されたと載る)、その後には一条摂政藤原伊尹(これただ/これまさ 延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年)が占有した(最後の私の「補説」も参照のこと)。

・「世尊寺」「大辞泉」には、『京都一条の北、大宮の西にあった寺』とし、前注に示した通り、貞純親王の御所であった桃園殿を、長保三(一〇〇一)年に公卿で書家として知られた藤原行成が寺としたもの、とある。やはり京外。この藤原行成(天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)は先の注で示した桃園殿の最後の占有者藤原伊尹の孫に当たり、三蹟の一人として知られる和様書道の完成者にして書道世尊寺流の祖である。彼の詳細な日記「権記」は著名。

・「西の宮の左の大臣」源高明のこと。以下、ウィキの「源高明」によれば、醍醐天皇の第十皇子。正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、「西宮左大臣」と呼ばれた。延喜二〇(九二〇)年に七歳で臣籍降下し、天慶二(九三九)年参議に昇進、中納言・大納言を経て、康保三(九六七)年には右大臣兼左近衛大将となった。『朝廷の実力者でかつ高明と同じく故実に通じた藤原師輔の三女を妻とし、この妻が没すると五女の愛宮を娶って友好関係を結び、師輔は高明の後援者となっていた。また、妻の姉の安子は村上天皇の中宮であり、東宮(皇太子)憲平親王、為平親王、守平親王を産み、高明は安子に信任され中宮大夫を兼ねた。高明は自身の娘を為平親王の妃とした』。翌康保四年の『憲平親王(冷泉天皇)の即位に伴い左大臣に昇る。冷泉天皇は狂気の病があったため、早急に後嗣を立てる必要があり、同母弟であった為平親王は東宮の有力候補だった。だが、冷泉天皇の東宮には為平の弟・守平親王(のち円融天皇)が立てられる。高明は大いに失望した。これは高明が将来外戚となることを藤原氏が恐れた為とされ、この時には既に師輔も安子も薨去しており、高明は宮中で孤立していた』。安和二(九六九)年、『源満仲と藤原善時が橘繁延と源連の謀反を密告。右大臣藤原師尹は諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、密告文を関白藤原実頼に送り、検非違使を派遣して関係者を逮捕させた。その中には高明の従者の藤原千晴(藤原秀郷の子)も含まれていた。謀反の容疑は高明にも及び検非違使が邸を取り囲み、大宰権帥に左遷する詔を伝えた。これは事実上の流罪であり、高明は長男の忠賢ともども出家して京に留まることを願うが許されず、大宰府へ流された。これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の策謀であったとされる(安和の変)』。翌天禄二(九七一)年に罪を赦され、翌年四月に『帰京するも、政界に復帰することは無く葛野に隠棲』し、そのまま亡くなっている。この一連の謀略によって藤原氏の独占支配が確立することとなった。なお、底本の池上氏の注には、但し書きがあって、『高明の桃園邸は行成のそれ(世尊寺)とは別の邸宅である』とあって不審。これは位置が微妙にずれるということであろうか? 全くあさっての方角にあった別邸ということになると、辞書の記載や他の諸注が成り立たなくなってしまうと思うのだが?

・「辰巳」巽。南東。戌亥(乾。北西)とともに、丑寅(艮。鬼門の北東)及び裏鬼門の未申(坤。南西)に次ぐ禁忌の方角とされる。

・「母屋の柱」寝殿造の中央に位置する南向きの寝殿の、そのほぼ中央のメイン・ルームでぐるりは廂(ひさし)の間が配されてある。この柱はその廂の間との間の庭から向って左側の手前角の柱と考えられる。

・「佛を懸」当時はまだ懸仏(かけぼとけ:銅などの円板に仏神像の半肉彫の鋳像などをつけたもの。柱や壁にかけて礼拝したもので平安後期に本地垂迹の思想から生まれて鎌倉・室町に盛行した)は一般的ではなかったから、仏画か木製の牌に仏の絵像を描いたものを貼り付けたものであろう。小型の念持仏などを紐で括ったものかとも思ったが、ここは次の注の「二夜三夜を隔て」で、またぞろ手招きを始めるためには、実は紙や絹本に描かれた仏画である方が、それがぺろりとめくれて、手が伸び出て来るシーンが如何にもヴィジュアルにしっくりくるのである。

・「二夜三夜を隔て」ここは前に対偶する表現で、経や仏を懸けたりしたその初日は稚児の手が節穴から出てこないが、二晩か三晩するとまたぞろ、の謂いである。現代語訳は、そこを整序してある。

・「征箭」征矢。雁股(かりまた)や鏑矢(かぶらや)のような鈍体の先端ではなく、鋭い鏃(やじり)を装着した四枚羽根の戦闘用の尖った尖り矢。

・「箭柄をば拔て征箭の身の限を穴に深く打入れたりければ」「箭柄」は矢の鏃を除く幹の部分から尾羽までの総て。篦(の)。「征箭の身」は鏃の部分。この部隊である寝殿造の寝殿内の母屋は主人の居間であると同時にゲスト・ルームでもある。従って、その柱に丸一本の征矢がにょっきりと立っているのは如何にも落ち着かない。少なくとも高明の家を訪問する公卿連中らにとってはそれだけでも恐懼の対象となる代物である。ここで鏃だけにしたというのは、実はまことにリアリズムを感じさせる描写なのであって、それが取りも直さず、本話が創作ではなく、実録物であることを示す大きな証拠の一つなのだと私は考えている。因みに、「今昔物語集」の諸篇には先行する説話集や中国の伝承などの典拠があるものも多いが、本話の典拠は諸本ともに未詳とする。それでよい。それでこそ、よい。・「者の靈」「者の」は「ものの怪」で超自然の。そうした邪(よこしま)なる霊的なもの。

・「其れに」これ一語で逆接の接続詞である。それなのに。しかるに。物の怪ならば何よりも仏法の霊験あらたかな経典や図像こそ効験(こうげん)が、これあるはずなのに。

・「恐むやは」反語。(征矢なんぞを)恐れるであろうか? いや。そんなものを恐れるとは、何ともはや、納得がゆかない、と強い不満を述べているのである。小学館古典全集の解説に、『征矢の呪力が仏・経の験力に優越したことを不条理とした、作者を含む当代人の常識が思想史的に注目される』とある。……いや、違うね!――訳が分からない――だからこそ――この話――「コワい」のさ!――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 桃園殿(ももぞのどの)の柱の穴より稚児(ちご)の手のさし出だされて人を招く事(こと) 第三

 

 今となっては昔のことで御座るが、桃園と申すは、これ、今の世尊寺のことである。

 本(もと)は寺ではのぅて、その折りには、かの西の宮の左大臣源高明(みなもとのたかあき)様が、お住まいになっておられた。

 その時のことじゃ。

 寝殿の母屋(おもや)の巽(たつみ)の角の柱に、木の節の穴が一つ、開(あ)いて御座った。

 ところが、夜(よる)になると、その、木の節の穴より

――小(ちぃ)さなる

――稚児の

――手(てぇ)が

……これ

――すうーっと……

――さし出ださるる……

……と

――それがまた

――上下に

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……これ……

――動いて

――人を

――招く。…………

 左大臣様、このことをお聞き遊ばさるると、

「――それは、あまりにもけったいなことでおじゃる。……」

と、大いに怪しまれもし、驚かれもなさったじゃ。

 ともかくもと、すぐに、その穴の上に、紐を以って、これ、ありがたい御経を堅(かたー)く結いつけおき奉ったり、また、仏の貴(とうと)き絵図を懸け奉ったりして御座ったれど、経や絵図を据えたるその夜のほどは、取り敢えずは、手(てぇ)の伸び出ること、これ、なけれど、二晩か三晩もするうち……またぞろ

――手(てぇ)の招くこと……

これ、なお止まず、弦打(つるう)ちして廻れる宿直(とのい)の者の、ふと見てみれば、夜半も過ぎたる、人皆、寝静まって御座る頃合い、その闇の中に……

――可愛(かわ)ゆらしい小さなる

――白々(しろじろ)した

――手(てぇ)が

これ必ず、

――すうーっ……

と出でて

――ひょうい……ひょい……

――ひょうい……ひょい……

……と……招いておるので御座った。

 ところが、とある家臣の一人が、今一度、試みてみんと、ただの思いつき乍ら、征矢(そや)を一筋、その穴に刺し入れてみたと申す。

 すると、その征矢を差し込んでおる限りは、招くどころか、手(てぇ)の出ることさえ、これ、御座らなんだによって、それよりしばらく致いて、矢柄(やがら)をば抜き去り、征矢の鏃(やじり)ばかりを、その穴に深(ふこ)ぅうち込んでおいたによって、それより後(のち)は、これ、招く手の出ずること、絶たえて無(の)ぅなったと申す。

 さて、これを按ずるも、何ともはや、これ、納得のゆかぬことではないか? これ、定めし、物の怪や何か霊なんどの仕業(しわざ)にては御座ろうが、それだのに、征矢如きの霊験(れいげん)が、尊(たっと)き仏様の図像や御経のそれよりも勝っており、その下らぬ妖しのものが、かの鏃如きを恐れたと申すは、これ、どうにも納得がゆかぬことではないか?! さればこそ、その当時の人も皆、この話を聴いては、誰もがこの我ら同様、怪しみもし、疑いもした――と、かくこそ語り伝えておるということじゃて。

 

□補説

 私が何故、この話を偏愛するのか?

 それは怪談の恐怖の核心とは、まさに日常性との絶対の断絶にこそあると私は考えているからである。怨念なり復讐なり、その超常現象出来(しゅったい)の具体的理由が現世的に連絡し解説されてしまった瞬間、その霊や物の怪は、登場人物にとってだけではなく、読者にとっても、実は恐怖の対象足り得なくないものに変貌してしまうからである。それは結局、鮮やかに現世の利害の経済関係に還元されてしまい、心理的にも論理的にも、征服され調伏され、或いは供養され追福されるべき処理対象へとすっかり変質してしまうからである。

 最も恐ろしいイメージとは何か?

 それは、恨み言も表情も汲み取れない、ただただ泣く赤子の霊に代表されるような生(なま)に響いてくる原初的な叫喚の音声(おんじょう)であり、ここに出るような小さな稚児の手がただただ人を招くのみという、理屈なき戦慄、純粋に視覚的なリアリズムにこそあるものなのである。

 なお、本話について考証した山分美奈氏の「桃薗における怪異譚をめぐって」と言う論文をネット上で読むことが出来る。そこでは本話の次に、桃園邸が後に世尊寺となってからの怪異として、後の「宇治拾遺物語」第八十四話として載る「世尊寺に死人(しにん)掘り出す事」(当時の邸主であった藤原伊尹が堂を建てるために邸内の塚を掘り返えさせたところ、石棺が出、開けさせて見ると、生けるが如き美しい若き尼の遺骸が現われたものの、吹き初めた風に塵となって消え失せてしまったという怪異譚である)があることが示されてあって、その後、史実を細かく分析された上、この桃園邸の旧主源高明が安和の変で左遷されていること(但し、三男であった高明が桃園邸を出たのはその十年ほど前と考証しておられる)、次代の当主藤原師氏がその左遷の翌年に病死したこと、その死後にこの屋敷地を不当に横領したらしい藤原伊尹がやはりその三年後に没しており(先の「宇治拾遺」の話は末尾に伊尹の死はこの時の祟りによるのではないかと世間では噂していると結んであるのである。本話については後に電子化しようと思う)、この桃園邸が、ある種の宅妖であった可能性が示唆されている。だいたいが「今昔物語集」のこの冒頭はしばらく宅妖が続く。というより……実はこの前の「第二」は、かの知られた「川原の院の融(とほる)の左大臣の靈(りよう)を宇陀院見給へる事」なのである。但し――私にとって嬉しいことに――この論文ではこの稚児の手招きという怪異自体の具体的な謎解きは、一切なされていない。……それをされたんでは、私にとっては――せっかくの純粋なホラーが台なしになってしまう――からである。

耳嚢 巻之九 長收といへる地下人歌の事

 長收といへる地下人歌の事

 

 京都にて、地下(ぢげ)にて歌よみて名高き者の由。人のもとにて、扇に歌書(かき)しを見けるが、宗匠家(そうしやうけ)などにてはもちひもし玉(たま)はざらめ、餘りたくみなれど、面白しと思うふまゝ爰に記しぬ。

  田霜 露のいろも冬になるこの繩くちて結かへたるを田の朝霜

                           長 收

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。面白狂歌シリーズ。

・「長收」「ちやうしう(ちょうしゅう)」と読む。国学者有賀長収(あるが/ありが ちょうしゅう 寛延三(一七五〇)年~文政元(一八一八)年)。名は長因、号は生志斎・居貞斎。父は歌人有賀長因、祖父は京の国学者で二条派(同派についてはウィキ二条派を参照されたい)の流れを汲む有賀長伯(彼は父が医家であるが後を継がず、歌学の道を選んだ)。父に従って大坂に移住、国学者加藤景範に師事して和歌を学ぶ。家集に「雲樹集」。有賀家は長伯から連綿と続いた歌学の家系であった(以上は主にこちらの頁を参照した)。

・「地下人」「ぢげにん(じげにん)」で一般農民や庶民。

・「露のいろも冬になるこの繩くちて結かへたるを田の朝霜」は、「田霜(たのしも)」という歌題で、

 露(つゆ)のいろも冬(ふゆ)になるこの繩(なは)くちて結(むすび)かへたるを田(だ)の朝霜(あさしも)

である。以下、和歌嫌いの私乍ら、オリジナルに注してみたい。

「露」「結ぶ」「朝」「霜」は縁語。

「なるこ」は「冬になる」「此(こ)の繩」と「鳴子(なるこ)」の掛詞。鳴子は、秋の稔りの頃から田畑の害獣や害鳥を追い払う目的で設置する農具で、数本の竹筒を小板に並べてぶら下げたものを、縦横に張った繩や竹竿などに吊るしおいて、風に揺らせたり、人が縄の端を引くなどして鳴らすもの。

「色」は様態・景色であるが、ここは若く美しい人の容姿を暗示させる。

「繩」は盛者必衰(冬のイメージ)の「名は朽ちて」という風に、「露」から直ちに連想される儚い「命」の遠心を掛けているに違いない。

「結(むすび)かへたる」は「結び代(變)へたる」で、先の縁語とは別に「繩」の縁で「結ぶ」が多重的に引き出され、次に「霜」が降りることを「結ぶ」と表現するところから、それに冬になって朽ち落ちてしまった結わえた繩の景に引っ掛けて、「繩を結ぶ」を「霜を結ぶ」と洒落た。死後(「朽ちて」)の結縁を秘かに願う気持ちを含むか。

「を田」は「小田」で「を」は微小辞或いは美称辞。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 有賀長収(あるがちょうしゅう)と申す地下(じげ)の者の作れる歌の事

 

 京都に於いて、地下の者ながら、歌を詠ますれば、これ、佳句を吟ずと名高き者の由。

 ある人の本にて、扇に歌を認(したた)めたと申すものを実見致いたことのあったが、まあ、所謂、正統なる和歌の宗匠家(そうしょうけ)などに於いては、凡そお採り上げにはならるるまいと思わるる趣きにて――申さば、あまりに技巧に走り過ぎて御座れど、しかし、それでも、これ、なかなかに面白う感じたるままに、ここに記しおくことと致す。

 

  田霜 露のいろも冬になるこの繩くちて結かへたるを田の朝霜

                           長 収

2015/02/02

耳囊 卷之九 怪談其よる所ある事

 

 怪談其よる所ある事

 

 文化六卯年の夏なりしが、柳原土手に夜每に光り物出ると專ら風聞なせしが、去年の夏秋の頃、神田紺屋町(こんやちよう)嘉兵衞娘十四歲に成りし者、風雨の節往來なせしに、立置(たておき)候材木倒れ候に驚き死せし事ありければ、其妄執の陰火なりとて、近邊の者、夜中見屆(みとどけ)に出ると附怪なせしが、實否を糺させぬれば、同町三郎兵衞店(だな)に髮結(かみゆひ)渡世をなせる市兵衞といへるもの、二間四方の土藏ありしが、鼠漆喰(ねづみしつくひ)にて塗上(ぬりあげ)、油など强くありしや、右壁へ往來人(わうらいにん)提燈の火影(ほかげ)移り候得ば光り候ゆゑの由。右土藏鉢卷の所に塗(ぬり)むらにてもありしや、全(まつたく)右へ往來の提燈の火、與風(ふと)移り候を、事がましく申成(まうしなり)ける由。右故や、又は外に損じもあるや、此節修復に取かゝり足代(あししろ)莚(むしろ)張りなどなしけるに、右怪談たちまちにやめぬるとなり。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪談連関乍ら、こちらは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の真相解析物で、しかも非常に観察が細かく、内容もしっかりしている。ただの怪奇談コレクターではない、根岸の鋭い実証主義者としての一面を窺わせる好篇と言える。

・「文化六卯年」底本は「卯」の右に『(巳)』と訂正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『文化六巳年』とあるから書写した者の誤りであろう。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、ほやほやの都市伝説。それだけに迅速な推理による、論理的解明と怪異の否定が小気味よい。

・「柳原土手」下流の浅草御門(浅草橋)辺から筋違御門(万世橋)までの神田川左岸を言う。

・「神田紺屋町」現在の千代田区神田紺屋町。柳原土手にある柳森神社(稲荷)から南に五百メートルほどの位置にある。

・「附怪」底本では右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「附會」とある。しかし、これ、私はこの両方が合わさって正しい意味となるような気がした。――怪異を見届けよう(目に焼き「附」けて)と、血気盛んな若者らが肝試しに繰り出し、まさしく「怪」異に出くわしたと吹聴の上、昨年の娘の変死にこれを面白おかしく牽強「附會」成した――という謂いである。

・「與風(ふと)」は底本の編者によるルビ。

・「やめぬる」底本では右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では普通に「止(やみ)ける」とある。

・「二間四方」約三・六メートル四方。「髮結」とあるが、これだけの土蔵を持っていたおいことは、かなり繁昌していた相応の大型店舗を持った髪結いであったことが窺われる。

・「鼠漆喰」「漆喰」(「しっくい」は「石灰」の唐音で「漆喰」は当て字)は消石灰に海藻のフノリ(紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis )やツノマタ(スギノリ目スギノリ科ツノマタ属 Chondrus )などから作った糊状の粘着性物質と麻糸などの繊維を加え,水でよく練り合わせたもの。砂や粘土を加えることもある。壁や天井などを塗った。砂を加えた耐久力のある漆喰が用いられるようになったのは近世になってからで、社寺建築を始め城郭・民家などに広く用いられた。白色が普通であるが、これに灰墨を混ぜた鼠色のものを特に「鼠漆喰」と呼び、江戸以降の民家に好んで用いられた。因みに、江戸中期には色のついた漆喰を用いて外壁に紋所や文字・絵などの浮彫りをつくる鏝絵(こてえ)が流行、伊豆長八(いずのちょうはち)などの今に名を知られる名工が現われ、この贅沢な装飾は富家では家屋内部の壁にも及んだ(以上は「大辞林」及び平凡社「世界大百科事典」などに拠った)。グーグル画像検索「鼠漆喰」を参照。

・「油など强くありしや」上記注の混入物の内に粘土があるのでこれかとも思ったが、寧ろこれは、塗り終えた壁面のテカり方が、「油」を塗ったような「強」い感じであることを指しているのではないかと思い至った。それで訳した。

・「土藏鉢卷」土蔵建築で、屋根の軒の直下内側の部分を屋根に添って壁面より一段高く細長くぐるりと土を盛り塗った箇所を指す。ものによっては三段重ねとなっていたりする。中脇修身氏のもの凄いサイト「土佐漆喰」の「12.土蔵のデザイン」を参照されたい。漆喰を知るなら、まず、このサイト! 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 怪談にはその真相が必ずあるという事

 

 この文化六年巳年の夏のこと、柳原土手に、これ、夜毎に光り物が出ると専らの噂の立って御座る。

 これに就きて、去年の夏から秋頃のこと、まさにこの柳原土手直近の神田紺屋町(こんやちょう)の嘉兵衛なる者の娘、これ、十四歳で御座ったが、激しき風雨の折り、同町へ向けてこの柳原通りを歩いて御座ったところが、その通りの南側の往来に立て置かれてあった多量の材木が、これ、折からの暴風のために急に倒れ込んだによって、その下敷きとなったとか、はたまた、下敷きにはならなんだが、その大音に驚き、心の臓の止まってしもうたとかで、これ、亡くなったと申すことのあったればこそ、専ら、その妄執の陰火に違いないと、噂なんど致し、また、近辺の血気盛んなる跳ねっ帰りの若僧どもが、これまた、その真偽を見届けんと、夜中に柳原辺へと肝試しに繰り出し、そこで、まっこと、まさしく奇っ怪なる陰火に出くわしたと吹聴(ふいちょう)した上、昨年の娘の変死事件を持ち出し、これと面白おかしく牽強附会なした。

 ところが、これ、その実否を私の子飼いの者に特に糺させてみたところが、すこぶる腑に落ちる以下のような事実が判明した。この者は、実際に何度も夜間に柳原を歩き、幾つかの試みを実施致いた上、以下の結論に達したと申す。

 同紺屋町三郎兵衛店(さぶろべえだな)に髪結い渡世をなしおる市兵衛と申す者――相応の数の職人を抱え、なかなかに繁昌なして御座るが――この者が方には、二間四方の土蔵のこれあって――これがまた、柳原土手の方よりよう見える位置にある――それが、所謂、鼠漆喰(ねづみしっくい)の厚塗りに塗り上げて御座る代物にて、これがまた、油でも塗ったような強いテカりのある感じに仕上がっておったによるものか、この壁へ堤などを往来する人の提燈(ちょうちん)の火影(ほかげ)が映って、これがまた、驚くほど、光り輝くかのように反射致いておったのであった、と申す。

 また、この土蔵の鉢巻の部分には、鼠漆喰に微妙な塗りムラでもあるものか、こちらの往来を往く手元の提燈の火が、全く反映しておらぬ真っ暗闇の状態から、ある所まで来ると、これ突如――ふっと――夜(よる)の闇の中に妖しい火影(ほかげ)が、これ……ぼう~っと……浮かび上がる、と申すのである。

 こうした現象を、口喧しく、やれ、狐火だの、娘の怨念の陰火だのと、言いたてて居ったに過ぎぬこと、これを以って、明白となった。

 その後(のち)、こうした真相や妖しき火の起りの方について、巷(ちまた)の者は勿論、その土蔵の持ち主たる市兵衛も気づいたものか、或いはまた、土蔵の他に一部に、これ、欠け損じや不具合なんどのあったものか、近頃、この土蔵、修復にとりかかることと相い成り、そのために土蔵の周囲に足場を組んだ上、廻りを皆、莚(むしろ)張りなんどにして御座るそうな。そうしたところが――かの妖しき火の怪談――これ、たちまちのうちに、陰火の――ふっと――吹き消えたかの如く――ぱったり耳にせんようになったとのこので御座る。

 

甲子夜話卷之一 30 有德廟、老女衆願向有之とき老中方へ上意の事

30 有德廟、老女衆願向有之とき老中方へ上意の事

 德廟の御政務に御心を盡させられしことども多く聞し中に、大奧の老女、緣引の人出身のことを内願申上し時、善ほどに仰聞らるれども、女のことゆゑ時には迫りて申上ることも有れば、其時の仰には、總じてケ樣なることは我らの身分にも自由にならぬことあるものよ。老職の所存も聞かざれば協はずと上意ゆゑ、さらば老職え申聞候ても苦からずやと申上れば、少しも苦からずとの上意故、又申上るは、もし老職共異議申候はゞ、何如仕べきやと申上れば、其ときは、内々申上たれば、老職え申聞よと有しと申べしとの仰なり。その後老職召出のときの上意には、此ほど老女ども何々のことを内願したり。夫故ケ樣に答置たり。然ども件のことは然るべからず。其方共嚴正に挨拶すべし。假令上意と申とも承知いたすまじとの仰なり。果して老女衆より件の云云に及びし時、老職の答に、夫は然るべからずと有るとき、老女衆推かへし申さるゝには、内内言上に及たるに、上意にも左有らば、老職え申聞候へとの御旨なり、と言へば、老職衆答には、假令上意に候とも其ことは然べからずと強て申故、老女もせんすべなく、又々其ことを言上すれば、老職申旨は重きこと也と御諚有り、遂に其事停廢して行はれざりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」「德廟」徳川吉宗。

「緣引の人出身のことを内願申上し時」「内願」は「ないぐわん(ないがん)」と音読みしておく。大奥勤めの自分の、その縁故の者を特別に大奥奥女中として取り立てて戴くことを内々に将軍自身に願い出た時。本話から、こうした縁故採用の非公式の言上やそうした実際が、大奥では過去現在(静山の執筆当時)しばしばあったことがこの話柄から逆に窺える。後で「衆」と複数形となるから、大奥の老古参女房衆複数が関わっている事例であることが分かる。

「善ほどに仰聞らるれども」「よきほどにおほせきかせらるれども」。適当にあしらって聴き流しておられたけれども。

「迫りて」親しげに間近に寄ってきて、ことさらにしつこく何度も懇請する。

「老職」老中職の者ら。

「協はず」「かなはず」。叶はず。

「何如仕べきや」「いかがつかまつるべきや」。――「どう致しましたらよろしゅう御座いまするか?」――漢文の用法としては正確には正しくない。「何如」は「何のごとく」で状態・性質を問い、「如何」は「~のごとくするは何をかせん」で手段・方法を問う。本邦では慣用として早くから混同されて用いられた。

「共」「ども」敬意のない複数形。

「其ときは、内々申上たれば、老職え申聞よと有しと申べし」「老職へ申聞(まうしきこえ)よと有(あり)しと申(まうす)べし」で、吉宗の老女への再応。「申し聞こえ」は吉宗の自敬語。――「その時は、『これを将軍様に内々に申し上げたましたところ、「その件はまず老中職へ申せ」との仰せであられました』と申すがよい。」――

「何々」不適切な私的内容の記載を期した意識的伏字。ここは取り敢えず、前段の縁故採用の件ととってよい。具体的な人物が挙げられていたはずである。

「夫故ケ樣に答置たり」「夫(それ)故(ゆえ)ケ樣(かやう)に答置(こたへおき)たり」。

「然ども件のことは然るべからず」「件」は「くだん」。ここは前記の具体的な縁故採用の慫慂を指す。――「しかし私(話者の吉宗)は、この一件に関しては、実は正当にして妥当なる懇請とは思うておらぬ。」――

「假令上意と申とも承知いたすまじ」「假令」は「たとひ(たとい)」。たとえ。仮に。「承知いたすまじ」打消意志、というより禁止である。文脈としては分かるし、この個別事由に於いてはそのような対応をせよという個別事例過ぎないのであるが、しかそ、この驚くべき「上意」は、これ、一人歩きすれば吉宗個人を越えて将軍職にある総ての個人に及ぶ謂いとなってしまう発言でもあり、しかも「上意への絶対的服従を禁じた上意」に服従するかどうかというトートロジ的な論理矛盾をも孕む面白いものである。静山が記した意図には私はそうした面も含まれているのではないかと思っている。ともかくも、吉宗は自分が退屈で不快な遣り取りの表に立つのが馬鹿馬鹿しいと感じ、双方に、面白い一芝居を打ったという雰囲気が本話の眼目。直接話法の台詞(特に吉宗のそれ)が非常にリアルな吉宗の変幻自在の演技を感じさせて上手い。さらに言えば、大奥の老女パワーは将軍も辟易するほど、モーレツなものだったわけである。

「諚」「ぢやう(じょう)」で、貴人・主君の命令。仰せ。

「停廢」「ちやうはい(ちょうはい)」。「ていはい」と読んでもよい。予定していた事柄をとりやめること。

耳嚢 巻之九 蜘蛛の怪の事

 

 蜘蛛の怪の事

 水野の若州(ぢやくしふ)大阪勤(づとめ)の内、御役宅火の見の椽下(えんのした)に夜々(よよ)光りものありと、近習の者抔、代る代る心を附(つけ)て見しに、晝は左もなし、夜に入(いり)て兎角に光りありといゝしが、日數へて或時一束(ひとつか)の丸(まろ)き光りもの、右場所を放れて四五軒餘飛びて馬場へ落(おち)しを、近習の輩(ともがら)追駈(おひかけ)て見しに、馬場成(なる)石の上へ落てくだけ散(ちり)しが、其邊は不殘(のこらず)蜘(くも)なりし由。大小數千疋ともいふべき、何故光りあるや、飛ぶも又怪しと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。本格怪談物。岩波版長谷川氏注に、『蜘蛛が鏡のように光って人を捕ることが』寛文六(一六六六)年刊の浅井了意の「御伽婢子」(おとぎぼうこ)の巻之六「蛛の鏡」にあるとある。「御伽婢子」は私の好きな仮名草子であるが、少し長いので、訳の後に補注で示しておいた。

・「水野の若州」水野若狭守忠通(ただゆき)。既注。岩波版長谷川氏注によれば、彼は寛政一〇(一七九八)年三月より文化二(一八〇五)年八月まで大坂町奉行であったとある。大坂町奉行は東西にに分かれており、彼は東町奉行であった。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、また比較的近い都市伝説に戻っている。

・「四五軒餘」七~九メートルほど。

・「何故光りあるや」クモ類で生体発光する種というのは少なくとも私は本邦では聴いたことがない(洞窟内で発光バクテリアなどが付着していたとか、光沢が強くしかも草色の明るい色のクモ類を光っていると誤認したケースは別)。クモ類の殆んどは八個の単眼を持っており(種によっては六個或いは四個のものもいる)、これが薄暗い場所で光を集光して光るケースはまま見る。さらに言えば、これが縁の下暗がりで、そこの土壁部分や土台板にクモの大きな卵嚢(後注参照)が形成されていた場合、観察者の見えない位置から縁の下に差し込んでいる陽光を、この密集したクモの糸の塊が、それをたまたま鏡のように反射していた考えることは、決して非科学的なことではないと考える(但し、この手の卵嚢を作っている糸は必ずしも我々が戸外で普通に見るような、はっきりと陽に輝く蜘蛛の巣の構成糸とは異なるようには思われる)。

・「飛ぶも又怪し」クモ類の幼虫や一部の成虫が糸を使って空を飛ぶ「Ballooning」(バルーニング)は、現在ではかなり知られた現象であり、本話もその円形の物体(以下に述べる卵嚢の周囲に団居した形状に酷似する)実見印象に基づく可能性が非常に強い。以下、ウィキの「バルーニングから引く。『クモ類は一腹の卵を糸で包んで卵嚢を作る。卵が卵嚢内で孵化すると、一令幼虫は卵嚢内に止まり、もう一度脱皮して二令になって初めて出てくる。多くのクモ類ではしばらくの間はこの卵嚢の周囲に子グモが集まって過ごす。これを「まどい(団居)」と呼ぶ。その後、子グモは分散して行く訳であるが、この時、かなりのクモが飛行する。これをバルーニングと呼ぶ』。『バルーニングを行うクモでは、まどいの後の子グモは、それぞれに周囲の草や木の上に向かって上って行く。この先の行動は大きく二つに分かれる。原始的なジグモ』(クモ綱クモ目クモ亜目ジグモ科ジグモ属 Atypus )『などは子グモが糸を出してその先にぶら下がり、風に吹かれて糸が切れると、そのまま風に乗って飛んでいく。多くの高等なクモでは草や木の先端に出ると、体を持ち上げ、腹部を上に向け、糸疣から数本の細い糸を出し始める。糸は上昇気流に乗って吹き上がり、やがてクモが脚を離すと、そのまま空中へ吹き上げられる。ちょうどタンポポの種子のような格好である』『多くのクモではこの飛行はごく幼い時期のみに限られるが、小型である』サラグモ科コサラグモ亜科 Erigonidae のコサラグモ類、例えばアカムネグモ属セスジアカムネグモ Ummeliata insecticeps 『などは、成虫も飛行することがある』。これらの飛行は『時に長距離になり、航空機に網をつけるとクモが取れるとか、大洋の沖合で船にクモの糸が引っ掛かったといった報告が聞かれることもある。このことはこの方法がクモ類にとって分布拡大に大きな力になることの証拠と言ってよい。実際、生物がいない区域に真っ先に侵入する生物の一つは、まず間違いなくクモである。空中の生物を調べるために、高いところへ網をかける調査が行われた場合も、往々にしてクモが引っ掛かってくる』。『この空中飛行のため、バルーニングを行うクモ類は、非常に分布の範囲が広くなっている場合がある』ため、新種同定に躊躇する場合があるという。『例えば移動能力に乏しい陸産貝類であれば、せいぜい日本周辺の文献を当たって、そこで該当するものがなければおおよそ新種と判断できるが、クモの場合はアジア全域の文献を当たるくらいでないと危ない』とも言われるほど、こうしたバルーニングによる分布拡大が意想外に広いらしい。『実際、南西諸島で見つかった未知種が、やっとその正体が分かって見れば、インドで見つかっていたものだったなどという例がある』とある。『その結果として、このような長距離移動を行うクモでは、地域による変異を生じにくいようである。他方、バルーニングを行わないクモでは、地方変異が多く見られる例もある』。『クモの子が木に登る際の通り道になった部分は、白いリボンがかけられたかのように、糸の帯となって残る場合があり、人目を引くこともある。さらに、飛んで行ったクモの出した糸が吹き寄せられると、綿くずの固まりのようになり、多くの人を驚かすまでになる。たとえば、不審な綿くずのようなものがそこいらを飛んでいる、とか、木々や建物に引っ掛かっている、という目撃談を生じる』。『この現象は古くから人目を引き、西洋ではゴッサマー(英:gossamer)と呼ばれ』、十三世紀ころから既に伝えられており、『シェークスピア等にも言及した部分がある。これがクモの子であることが判明したのは』十七世紀以降で、中国では「遊糸」と呼ばれ、五世紀頃には漢詩などに現われ、十二世紀になってやっと『その正体がクモである旨の記載がある。日本では、東北地方の一部で雪迎え(秋のもの)、雪送り(春のもの)などと称する』が、これがこうした蜘蛛のバルーニングであることは、やっと昭和一四(一九三九)年に『東北大学の岡田要之助の発表で知られるようになった』ものである。『他に、空中を飛んでくる綿毛様のものとして伝えられているものにエンジェルヘアー、しろばんば、ケサランパサランなどがあり、それらの正体もこれではないかとの説もある。ただし、その一部は』有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻(ヨコバイ)亜目アブラムシ上科アブラムシ科 Aphis 属ワタアブラムシ Aphis gossypii などと混同されている傾向も見られる(所謂、「雪虫」である。これはアブラムシ上科 Aphidoidea の中で白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称で、体全体が綿で包まれたような状態で空中を流れるように飛翔する。「雪虫」という呼び方は主に北国での呼び名で、他に「綿虫」「オオワタ」「シーラッコ」「シロコババ」「オナツコジョロ」「オユキコジョロ」「ユキンコ」「しろばんば」といった俗称がある。体長は五ミリメートル前後。アブラムシ類は通常、羽のない姿で単為生殖によって多数が集まったコロニーを作るが、秋になって越冬する前などに羽を持つ成虫が出現し、交尾をして越冬卵を産む。この時の羽を持つ成虫が蝋物質を身に纏って飛び、その姿が雪を思わせるのである。アブラムシの飛ぶ力は弱く、風に靡いて流れるため、なおのこと、雪を思わせると言える。しかも北海道では初雪の降る少し前に出現するように感じられることが多いことから、冬の訪れを告げる風物詩ともなっている。この部分はウィキ雪虫に拠った)『日本では歌人としても業績を残したクモ研究家の錦三郎が、山形県南陽市をフィールドに、この地の泥炭湿地で観察される「雪迎え」現象について詳しい研究を行っている』とある。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 蜘蛛の怪の事

 水野若狭守忠通(だだゆき)殿が大坂東町奉行を勤めて御座った先頃のことで御座った由。

 

「……役宅に御座った火の見櫓の縁の下に、これ、夜な夜な、妖しき光り物のあると、これ、噂、しきりなれば、近習(きんじゅう)の者なんどが、代わる代わる、特に、その辺りを注意致いて警備して見廻って御座った。

 されど、これ、昼のうちは、どうということも御座らなんだ。

 ところが、夜になると、しきりに光っておる、との話。

 日数(ひかず)経たある日のこと、この縁の下から、一塊(ひとかたまり)の丸(まろ)き光り物が、これ、そこより突如、飛び出だいて参り、そうさ、四、五軒あまりも飛んで、邸内の馬場へと落ちた。

 されば、近習の者らが、すわ! っと、それを追い駈けて参って、これ、よく見てみたところ……その馬場にあった石の上へ……その光り物、これ、墜ちて御座って、散々に砕け散って御座った。

 ところが……これ……その辺り、一面……

――蜘蛛だらけ

であった。

 その数たるや、そうさ、

――大小合わせて

――数千匹もおった。…… 

 

「……何故(なにゆえ)、それが、光りを放って御座ったものか……またそれが、「飛ぶ」と申すも、これまた、如何にも妖しきことで、御座った、の。……」

と、水野殿の直談で御座る。 

 

[やぶちゃん補注:先に示した浅井了意「御伽婢子」巻之六「蛛(くも)の鏡」の全文を試みに引いておく(底本は松田修・渡辺守邦・花田富二夫校注になる新日本古典文学大系「伽婢子」に拠ったが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」は正字化した。一部の読みを省略し、一部に私が読みを歴史的遣に訂し、他にも読みをと読点を追加した)。【追記】二〇二一年に「伽婢子」の全篇の電子化注を終わっている。「伽婢子卷之六 蛛の鏡」を見られたい(挿絵あり)。

   *

 蛛(くも)の鏡

 永正(えいしやう)年中の事にや、越中の國砺並(となみ)山のあたりにすむものあり。常に柴をこり、山畑(やまばた)を作り、春は蠶(かひこ)をやしなふて、世を渡る業(わざ)とす。蠶する比は猶(なほ)山深く入(いり)て、桑の葉を買(かひ)もとめ、夏に至れば又山中の村里をたづねめぐり糸帛(いとわた)を買あつめ、諸方に出しあきなふて利分(りぶん)をもとむ。山より山をつたひて、ふかく分入(わけいる)ところ、谷ふかく水みなぎりて渡りがたき所おほし。或は藤かづらの大綱を引(ひき)わたし、苔の兩岸の岩ね・大木につなぎをく。道行(みちゆく)人、この綱にとりつき、水を渡る所もあり。しからざればみなぎる水、矢よりはやくしておしながされ、岩かどにあたりてくだけ死す。あるひは東の岸より西の岸まで葡萄蔓(ぶだうづる)の大綱を引はり、竹の籠(かご)をかけ、道行人をこれにのせ、向ひより、かごを引よする。その乘(のる)人もみづから綱(なは)をたぐりてつたひわたる。もし籠の緒(を)きれおつれば、谷のさかまく水にながれ、岩にあたりて死する所もあり。

 五月の中比(なかごろ)砺並(となみ)の商人(あきんど)、絲帛を買(かふ)ために山中ふかくおもきしに、さしも、けはしき谷にむかひ、岸は屛風をたてたるがごとく、水は藍(あゐ)をもむに似て、大木、はえしげり、日影もさだかならぬに、谷のかたはらに徑(わたり)三尺ばかりの鏡(かゞみ)一面(ひとおもて)あり。その光り、かゝやきて、水にうつりてみえたり。「かのもろこしにきこえし、楊貴妃帳中(ちやうちう)の明王鏡(みやうわうけい)、汴州(べんしう)張琦(ちやうき)が神恠鏡(しんくわいけう)といふともこれにはまさらじ。百練のかゞみこゝにあらはれしや。天上の鏡のおちくだれるや。いかさまにも靈鏡(れいけう)なるべし。岩間(いはま)をつたひてとりてかへり、德つかばや」と思ひ、そのあり所をよく見おほせて家に歸り、妻に物語りければ、妻のいふやう、「いかでかその谷かげに、さやうの鏡あるべきや。たとひありとても、身に替へて寶を求め、跡にのこして何にかせむ。もし足をあやまち、水におちいらば、くやむとも、かひなからん。たゞ思ひとまり給へ」といふ。商人いふやう、「更にあやまち、すべからず。いまだ人の見ざるあひだに、はやくとりをさめて德つかばや」とて、夜のあくるを、をそしと、刀をよこたへ、出(いで)て行(ゆく)。妻、こゝろもとながりて、めしつかふおとこ一人、わが子とゝもに三人、鐵垢鑓(さびやり)・鉞(まさかり)なんどもちて跡より追(おひ)て行(ゆく)。山ふかく入(いり)て谷にむかへば、白き光り、かゝやき、まろくあきらかなる大鏡あり。商人、谷の岩かどをつたひ、その光のあたりちかく行(ゆく)かと見れば、大音(だいをん)あげて、さけびよばふ事、たゞ一聲にて音もせず。妻と子とおどろきて谷にくだりければ、商人は蠶の繭のごとく、糸にまとひつゝれて、大なる蜘蛛(くも)の黑色なるが、とりつきてあり。三人のもの、立かゝりて、鑓(やり)にてつきおとし、鉞にて切(きり)たをし、刀をもつて糸を割(さき)やぶりしかば、商人は頭(かしら)の腦(なう)おちいり、血ながれて死す。その蜘蛛の大さ、足を伸べたるかたち、車の輪のごとし。妻子なくなく、柴をつみ、火を鑽(きり)て踟蜘を燒(やき)ければ、くさき事、山谷にみちたり。夫の尸(かばね)をば、とりてかへり、葬しけり。そのかみより、鏡に化(け)して、をりをり人をたぶろかしとりけるとぞ。

   *

 底本の注を参考に簡単に注しておく。底本注によれば、本話は『五朝小説の諾皐記「元和中蘇湛々」に基づき、明鏡を求めて山中に命を失った主人公蘇湛を田舎渡らいをする越中砺波の商人に置き換えて翻案』したものとある。原話は本邦のものではないということである。

●「永正年中」西暦一五〇四年~一五二〇年。

●「砺並山」倶利伽羅山のこと。

●「糸帛」絹糸と真綿。

●「徑三尺ばかり」直径九十一センチメートルほど。

●「楊貴妃帳中の明王鏡」『鍾馗(しょうき)の精霊が楊貴妃の病魔を退治するために、玄宗皇帝をして枕もとの几帳に立て添えさせたという鏡(謡曲・皇帝)』(底本注)。

●「汴州張琦が神恠鏡」「汴州」は北周時代の、現在の河南省東部にある開封市一帯の州名。「張琦が神恠鏡」は底本注に『未詳』とある。

●「百練のかゞみ」『白楽天が新楽府に歌った、天子のために幾度も錬り鍛えて作った鏡』(底本注)。

●「天上の鏡」『月を言うか。或いは、天道の鏡』(底本注)。

●「德つかばや」金儲けをしたいもんだ。動詞「得づく」は儲かる・利益を得る・裕福になるの意。

●「頭の腦おちいり」頭蓋骨が陥没して。大蜘蛛に噛み砕かれたのであろう。

●「火を鑽て」火鑽(ひきり)・燧(ひきり)、即ち、乾燥させた檜などの木口に棒を当てて激しく揉んで火を起こす道具を用いて火を起こして。

●「たぶろかし」迷わす・惑わす・騙すの意の「誑(たぶら)かす」の転訛。]

2015/02/01

お黙り!

このシークエンス――いっとう、好きさ――

耳嚢 巻之九 蟻を除る呪の事

底本ではここに先に公開した「執着にて惡名を得し事」が入る。

 

 

蟻を除る呪の事

 

 蟻の多く出る呪(まじなひ)とて人の咄しけるは、砂糖一斤(きん)半と札(ふだ)に書(かき)て其所に立(たつ)れば、蟻の出ざる事妙の由。誠に可笑(をかしき)事にて、何故一斤半と書(かく)やわからざる事ながら、奇妙の由、人の語りし。呪はわからざる事にも其妙有(ある)事故、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。定番の呪(まじな)いシリーズ。

・「除る」は「よける」。

・「出る呪」底本では右に『(出ざるカ)』と補正注がある。それに準じて補正して訳した。

・「一斤半」九百グラム。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蟻を除ける呪(まじな)いの事

 

 蟻が多く出でて困る折りの呪(まじな)いと称し、人の話してくれたもの。

――砂糖一斤半――

と札に書いて、蟻の多く徘徊しておる場所に立てれば、それで、蟻がいなくなってしまうこと、これ、奇々妙々の由。

 これ、考えて見れば、まことにおかしな話であって、何故に

――一斤半――

と書くのかは、これ、一向、分からぬことながら、確かに奇妙と思えるほどに、蟻が絶える由、人の語って御座った。

 まず、呪(まじな)いと申すものは、これ、理屈の上にてはわけのわからぬことの多くあり、しかも、その効果の妙は、これ、確かにあるもので御座るものゆえ、やはり、ここに記しおくことと致いた。

耳嚢 巻之九 吉川家先祖の事

 吉川家先祖の事

 

 神道家吉川源十郎先祖は、社務を職となせし者なり。壯年より神道に志し深く、神學に心を盡し、右道には其身も心を得たると思ひけれど、其奧儀を得んには、土御門家へ門入(もんにふ)なさんと思へども、素より貯ふる財も少(すくな)く、漸く彼(かの)家に至り取次の者へ對して、神道信仰の者なれば門入相願(あひねがふ)由申(まうし)ければ、門入の儀は人を以て御申込(おんまうしこみ)無之(これなく)候ては難成(なりがたき)旨申(まうす)故、我々は浪人にて殊に京地(けいち)に知音(ちいん)もあらざれば、兎角に二位殿へ申入(まうしいれ)給はるべしと望(のぞみ)けれども、土御門の法式なれば難成(なりがたし)とて其日は歸し、かゝる浪人者來りしと二位へも申ければ、さる不都合の願ひもあるものやと思われけるが、引續き三日來りて、何卒土御門へ目見(めみ)なしたきと申せども、法に背きては取計(とりはから)ひ難しとの事故、はるばる關東より來りし甲斐なき事を歎きて、最早關東へ歸るべし、さてさて是非なき事なりと、歌一首詠(よみ)て、右取次の者へ渡し立歸(たちかへ)りける。

  神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞

 右歌を土御門へ見せければ大きに驚き、かゝる志しの者ならば對面(たいめ)していさいを聞(きか)んと、早々呼戻(よびもど)すべき由申ける故、追々人を出し漸(やうやく)大津にて追付(おひつき)、引戻し對面(たいめ)して、いさいの學力を訊(きき)し其申(まうす)所を聞(きき)しに、誠に其碩學(せきがく)いふ斗(ばかり)なければ、直(ぢき)に神道皆(みな)傳(でん)ありしとなり。さりてより關東に歸り、其修行增長(ぞうちやう)なしけん、將軍家へ被召出(めしいだされ)、子孫連綿し、神道家と今以て相續(さうぞく)ありけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。こじつければ豚の信心伊勢参りから神道家の学究のための土御門家参りと言えるが、これは主人公吉川惟足(これたる)に無礼ではあるか。和歌技芸譚シリーズ。

・「神道家吉川源十郎先祖」底本鈴木氏注に、『三村翁「吉川五郎左衛門従時、即惟足の事なり、この話は、萩原兼従との事にて、少しく事実にたがへるに似たり、従時寛文七年七月廿八日召されて徳川家綱に謁し、天和二年十二月廿五日百俵を給ひ、神道方となる、元禄六年十二月六日致仕、同七年十一月六日、七十九歳にて歿、本所押上の宅地に葬るとあり。」』と引く。ウィキの「吉川惟足」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。神道家吉川惟足(これたる/これたり 元和二(一六一六)年~元禄七(一六九五)年)は尼崎屋五郎左衛門と称した吉川神道(官学であった朱子学の思想を取り入れて神儒一致とした上で神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。ここはウィキの「吉川神道」に拠る)の創始者で、『姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも読む』(神道名では「よしかわ」が一般的か)。『出生から後に江戸日本橋の魚商に養子に入り家業を継いだが、商いがうまくいかなかったことから鎌倉へ隠居した。一六五三年(承応二年)京都へ出て萩原兼従の門に入って吉田神道の口伝を伝授され、新しい流派を開いた。その後江戸に戻り将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、一六八二年(天和二年)幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した』とある(下線やぶちゃん)。師萩原兼従(はぎわらかねより 天正一六(一五八八)年~万治三(一六六〇)年)は吉田兼治の子で母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。慶長四(一五九九)年に祖父吉田兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任して萩原姓を名乗ったが、豊臣家が滅亡すると豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦され、その後は本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた(ここはウィキの「萩原兼従」に拠る)。この下線部からも、この話は神道家萩原兼従を土御門泰福と取り違えたトンデモ話であると分かる。なお、岩波版長谷川氏注には、『吉川源十郎は従門(よりかど)、寛政九年(一七九七)没、六十一歳』とあるのであるが(下線やぶちゃん)、とすると、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、このところ、情報入手や話柄内時間に於いてすこぶるアップ・トゥ・デイトなものが続いていた中にあっては、この書き出しは、十二年以上も前という設定になる。根岸先生、古いメモを引き出したものか? この辺も別な意味でやや不審なのである。前のトンデモ部分とともに、実は非常に気になるところなのである。

・「土御門家」土御門家(安倍氏嫡流)は室町時代の陰陽師安倍有世(あべのありよ:晴明の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によると、『安倍氏の長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様本姓ではなく家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』。『安倍晴明の子孫である土御門家は、明治維新後華族令により、子爵を授けられ』ているとある(他の土御門家は早い時期に二流とも廃絶している。同ウィキを参照されたい)。岩波版長谷川氏注には、『元禄頃には土御門泰福が土御門神道を唱えた』が、『吉川惟足の入門先ではない』とある(前注にある通り、吉川の入門先は萩原兼従である)。従って三村氏も述べている通り、これは事実とは齟齬するわけだが、以下、一応、ウィキの「土御門泰福」(やすとみ 明暦元(一六五五)年~享保二(一七一七)年)を引いておく。『公卿(非参議)・陰陽家。土御門泰広の子でその弟隆俊の養嗣子とされているが、実父を隆俊あるいは泰重(泰広・隆俊の父)とする異説もある。子に土御門泰誠・泰連・泰邦ら。一般には土御門神道の祖として知られている』。『泰広・隆俊の死により泰重の後継者となり』、寛文元(一六六一)年の『泰重の死によりその家督を継いだ』。『土御門家は、代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期に土御門泰重がその座を幸徳井家に譲渡、その後その陰陽師支配の権限を巡る争いから陰陽頭の返上を求める泰重とこれを拒む幸徳井家側との対立が長く続いた。泰福が元服して正六位下蔵人兼近衛将監に任じられた』寛文一〇(一六七〇)年にも『泰福と幸徳井友傳の間で陰陽頭を巡る相論が発生するも』、天和二(一六八二)年に友傳が三十五歳で急死し、『相論の仲裁にあたっていた江戸幕府は友傳の子は幼くて職務が行えないと裁定したため、当時従五位上兵部少輔であった泰福が陰陽頭に就任、継いで翌年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限が与えられた。その後春宮少進に進』み、貞享元(一六八四)年の『改暦に際しては大統暦の実施を主張するも、後には山崎闇斎のもとで同門であった渋川春海の貞享暦が優れていることを認めてこれを実施するように上奏し』、元禄二(一六九九)年には『幸徳井家に圧力をかけて土御門家を陰陽道宗家として仰ぐ事を約束させ、同家を支配下に置いた』。この功績によって元禄一一(一七〇八)年に従三位、正徳四(一七一四)年に従二位(本文で内での呼称はこれに基づく)にまで昇進している。『また、山崎闇斎から垂加神道を学び、前述の春海や一条冬経・野宮定縁らと結ぶ。また、その影響を受けて陰陽道と神道を組み合わせた独自の神道理論(土御門神道)を打ち立てた。だが、一方で改暦の実質上の中心であった渋川春海が江戸幕府に召されて天文方に入ったために改暦の中心が江戸に移る結果を招いた』とある。そこで土御門神道、現存する流派では天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)と称する、そのウィキを確認してみると、この泰福が陰陽頭になった天和三(一六八三)年五月、『諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉の朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」の開始と言われている』とあるのを見出した。そこで以上の事実を並べて見よう。

 

    吉川惟足の生年  元和二(一六一六)年

    惟足が京都へ出て、萩原兼従の門に入り、吉田神道の口伝を伝授される

             承応二(一六五三)年(惟足は三十七歳)

    土御門泰福の生年 明暦元(一六五五)年(惟足より三十九も年下)

 泰福が土御門家家督を相続する

 寛文元(一六六一)年

    惟足が幕府神道方になる(惟足は六十六歳/泰福は二十七歳

             天和二(一六八二)年

    泰福が土御門神道を開創する

             天和三(一六八三)年

    惟足の没年    元禄七(一六九五)年(七十九歳/泰福は四十歳)

    泰福が従二位に昇進する

             正徳四(一七一四)年

となる。後代になってからの叙述であるから、実際に当時はそうでなかった最高位「二位殿」を用いるのはおかしくはないものの、本文の惟足が未だ「壯年」で貧しい生活を送っていて(上記の事実はこれと完全に合致する、最後は「さりてより關東に歸り、其修行增長なしけん、將軍家へ被召出」れたというのであるから、惟足がもし本当に泰福に逢ったとすると、これ、泰福は未だ二十代前半より若い時、しかも土御門家を相続する前ということになってしまう。若き六十の老体の惟足が俊才泰福に教えを乞いに行ったという可能性が絶対にあり得ないとは言えないが、そもそも惟足が京都へ出て萩原兼従の門に入り、吉田神道の口伝を伝授されたという、本文の記載と酷似した「事実」を提示されれば、これはもう――この話柄全体が完全なあり得ないデッチアゲである――という断じてよいであろう。相手が萩原兼従であるよりも従二位の土御門泰福である方が箔がつく。これは所謂、宗教開祖伝承に纏わる如何にもありがちな「何だかな~」都市伝説の一つに過ぎないのである。さても、こんなことは識者の間では分かり切っている事柄なのではあろう。しかし、惟足や泰福など聴いたこともない凡愚の私には、鈴木氏の注も長谷川氏それも、こうした事実との多様な齟齬が判然とするような配慮がなされているとは、私には思われないのである。噓か誠か、これはこの件に関して言うなら、とても大切な考証であると私は思うし、それはやはり、それなりに納得出来る形で証明されていなければ、注としては不完全であると私は思うのである。

・「浪人」非職。定職を持たない者の意。

・「神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞」読みは、

 かみのみち/しるべばかりに/くれはとり/あやしとなどか/ひとのみるらむ

である(「舞」は「む」の変体仮名)。「しるべ」は「道標」を道を「知る」(知ろう)に掛ける。「くれはとり」は「あや」の枕詞。本来は「呉織」「呉服」と書き、元は「くれはたおり」の音変化で「くれはどり」とも書くことから、鳥と転訛したものか。原義は上代に漢織(あやはとり)とともに中国の呉の国から渡来したと伝えられる織工の呼称で、そこから彼等がもたらした技術で織った綾模様のある絹織物のことを指した。それが美しい綾を持つところから「あや」「あやに」「あやし」に掛かる枕詞となったものである。さらにここは、この「呉羽鳥」の「くれは」を「來れば」に掛けてあって、

……土御門殿を、神道の神髄への道標、導きとばかり思い慕ってはるばる江戸より来てみれば/参ってのに……何とまあ、何故か、その私を「怪し」(賤しいの謂いも含むであろう)き者と、そのお方はお思いになれれた……

として、下の句の恨みを含んだ感懐と響き合うように作られてある。

・「大津」東海道五十三次の五十三番目の宿。終着の京の三条大橋とは三里(十一・八キロメートル)を隔てる。

・「いさいの學力を訊し其申所を聞しに」何となくダブっていてよろしくない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(恣意的に正字化し読みも歴史的仮名遣で示した)、

 委細の學力を樣(ため)し其申(まうす)處を聞(きき)しに

で通りがよい。訳ではこちらを採用した。

・「增長」現代の用法では誤りであるが、古文では必ずしも、よくないことのみに用いるわけではない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吉川(よしかわ)家先祖の事

 

 神道家吉川源十郎殿の先祖は、社務を職となされた御仁であられた。

 

 壮年の頃より神道に志し深く、神道の学究に心を尽くし、その道には自身も、これ、少しくその心をつらまえ得たり、と感じはしておったものの、

「かの神道が奥義を得んためには、知られた神道家土御門家へ入門致すに、若くはない。」

と思うた。

 されども、もとより貯えておる財も少なく、懸命に質素倹約を本(もと)とし、ようやく相応の路銀その他を溜め得て、東海道を下って、京は、かの土御門家へと参り、取り次ぎの者へ対し、

「――神道信仰の者なれば――入門、これ、相い願いとう存じまする。」

由、言上致いた。

 ところが、

「……本家入門の儀は、これ、人を以って御(おん)申し込み、御座らねば、成り難し――」

との返答で御座ったによって、源十郎、

「――我らは浪人にして、殊に、この京地(けいち)には知音(ちいん)も御座らねば、兎も角も、二位殿へ、かくと、申し入れ、これ、給はらんことを切(せち)に乞うておりまする!」

としきりに望んで御座った。それでも、

「……これは、土御門の法式(ほうしき)なれば、再応申されても、成り難きものは成り難きものじゃて!」

と告げて、ともかくもその日は返した。

 その夜、取り次ぎの者が、

「かかる浪人者が、昼つ方、参りましたが……」

と、二位殿へも申し上げたところ、

『……そのような……常識はずれな願いも、これ、あるものか、の。』

と、ちょっとお思いになられたものの、そのまま聴き捨てにしておられた。

 ところが次の日より、引き続き両三日に亙って、源十郎殿、土御門邸へ日参致いては、

「――何卒!――土御門様へ御目見得(おめみえ)なしとう存ずる! 平に!」

と申せども、

「何度言うたら分からっしゃるんや! 法(ほう)に背いては、のぅ! 取り計ろうこと、これ、成らんものは成らんのどす!」

と、遂に最後は、けんもほろろに玄関払いを喰らわされたと申す。

 されば源十郎、その場にて、

「……はるばる関東より参った甲斐、これ、御座らなんだかッツ!……」

といたく歎き、

「……最早、関東へ帰るしか、あるまい。……さてさて、全く以って是非なきことと相い成ったものじゃ……」

と独り言を呟くと、歌一首を詠みて、その取り次ぎの者へと渡し、立ち去ったと申す。

 その歌に、

 

  神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞

 

 さて、その日の午後、少しばかり気になって御座った取り次ぎの者は、宮中より戻られた土御門殿へ、この歌をお見せ申し上げたところ、土御門殿、その一首をご覧にならるるや、大きに驚き、

「……か、かかる志しの者ならば、これ、対面(たいめ)なして委細を聴き及ぶが、礼儀でおじゃる!……早々に呼び戻しさっしゃれッツ!」

と厳しく仰せられた。

 されば、それより人を出だいて、後を追いかけ、ようやっと大津の宿にて源十郎に追いつき、そのままいろいろ慫慂なしては引き戻させて、土御門殿と目出度く対面(たいめ)をなした。

 その場にて、土御門殿、源十郎へ神道に就きての委細の学力を問い質して試し、また、その考えるところをとくと聴いてみたところが、これ、まっこと、その道の碩学(せきがく)にして、謂わん方なきほどの学才の持ち主であることが分かって御座った。

 されば直ちに、その一両日に、土御門家に伝わるところの神道の奥義、これ、皆、伝授なされたとのことで御座る。

 

 それより、源十郎殿は関東へ帰られ、その後、この伝授を受けたことを含め、はなはだし修行をなされたそのお蔭か、将軍家より召し出だされ、幕府神道方となられたので御座った。

 それより吉川家御子孫、これ、連綿と栄えられ、神道家として、今以って相続なされておらるるので御座る。

耳囊 卷之九 奇豕の事

 

 奇豕の事

 

 勢州山田奉行小林筑後守より、自筆にて留守宅へ申越(まうしこし)候由。文化六年豕(ぶた)壹疋、藝州より送り狀相添(あひそへ)、繼送(つぎおく)り來り候旨、右豕參宮致(いたし)候、送り狀、

  一豕 一疋 小判壹兩 小玉銀八ツ 銀札(ぎんさつ)四枚 南鐐(なんりやう)四片

        右四口白木狀箱へ入(いれ)

        柳箱(やないばこ)壹ツ 内錢七十四拾文〔但風呂敷包 外百五十文添(そへ)〕

        紙包少し書付類少々 木札五枚

  右の通(とほり)藝州廣島より參り候由にて
  宿々送り來り候に付繼送申(つぎおくりまう
  し)候。相改(あひあらため)御請取(うけ
  とり)可被下(くださるべく)候。

   巳三月廿九日   鳥羽郡小拶村

               役 人 中

      白髭大夫(しらひげたゆう)樣

  裏に 道中いたわり賴入(たのみいり)候。
  且又惡心(あくしん)の者出合(であひ)
  候はゞ、其所の名主座官中役人中御心添
  (こころぞへ)賴入申上(たのみいりまう
  しあげ)候。以上

右實事の由。犬に伊勢參宮の事每々(たびたび)聞及(ききおよび)しが、豕の參宮は珍しき事と、爰に記(しるす)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「奇豕」は「きし」と読み、奇なる豚の意。これ、なんかの冗談記事かと思ったら、大真面目な実録記事と知って吃驚した。俄には信じられなかったのだが、平凡社新書に仁科邦男氏の「犬の伊勢参り」という、これまた、まるごと一冊、このとんでもない事実について考証した本が出ているのも知った。興味のあられる方はそちらを参照されるとよいが(私は未読)、ネット上で極一部が読め、その「はじめに」は、まさに驚天動地、『江戸時代、将軍でいえば第十代徳川家治、幕府では田沼意次が実権を握っていたころ、犬が突然、伊勢参りを始めた。人が連れて行くわけではない。犬が単独で歩いて行く。お伽話ではない。実話である』と始まり、その『最初の犬の伊勢参りは明和八年(一七七一年)四月十六日昼ごろ、と日時まで判明している。伊勢神宮は二十年に一度、社殿や神宝を作り替え、御神体の鏡を新しい正殿に遷す。式年遷宮である。明和六年九月に式年遷宮が行われ、その一年八カ月後の出来事だった。それ以来、伊勢参りする犬がしばしば現れるようになった』と述べられているのである。安政年間には『信州北佐久郡の犬が単独で金毘羅参りと伊勢参りをすませ、飼主のもとに帰ってきた話』があるとし、筆者自身もかつてはこの話を半ば信じ難く思っていたところが、『事実は小説より奇なり、だった。いろいろ調べてみると、伊勢参りに向かう犬の目撃談がたくさん残ってい』て、私も電子化を始めた「甲子夜話」の作者平戸藩主松浦静山は、『日光からの帰り道、伊勢参りの犬と道連れになって旅をした』(これは「甲子夜話卷之第八十七」の「日光道之記」(これだけで一巻を成す「甲子夜話」中の特異点)に出る。現在の埼玉県東部の幸手の手前出の出来事で、赤毛の犬で首に紐に「參宮」と書いた札と多くの銭を附けていて、人に問うと、奥州白川から伊勢参りする犬だと聴いたことを記している)。『滝沢馬琴の息子は千住で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。単独で伊勢参りを終え、無事に戻って来た犬の話もいろいろある』とあって、その後にこの「耳嚢」の、『最初の犬の伊勢参りから三十八年後の』文化六(一八〇九)年に起った「豚の伊勢参り」の記載が載って、『さすがにこれは珍しい』として本文の末尾の根岸の添書をそのまま引き、しかも!『豚の伊勢参宮は、別の目撃談もあり、これも実事であることは疑いはない。そのことは本書の中で触れるとして、ここでは「犬に伊勢参宮の事、毎々聞き及びしが」という記述に注目しておきたい。根岸にとって犬の伊勢参りは、もはや珍談・奇談・怪談に属さず、『耳袋』に書き残すに値しなかったのである』と記す。その後、『日本の犬の単独旅行、最長距離記録も伊勢参りの犬によって樹立されている。幕末の嘉永年間に三年かけて青森・黒石と伊勢神宮を往復した。立派な目撃証言もある』と続いて、『だが、さほど珍しくもなかった犬の伊勢参りは、明治になって間もなく途絶えた。そういう事実があったことさえ人々の記憶から抜け去ってしまった。おそらく最後と思われる犬の伊勢参りは明治七年、東京日本橋・新和泉町の古道具屋渡世、角田嘉七の白犬によって記録されている』とする。その内、この本を読んだところで、また追加して書きたいと思っている。

 なお、指標を何に置くかで著しく異なった結果が出るので簡単に換算は出来ないのであるが、それでもこの豚さまの持ち分として所持していた金額(路用費用で支払金額を配慮して細かく分かれているものと思われる)の価値は気になる。そこでネット上の種々の資料を比較検討し、かなり禁欲的な平均よりもやや低い換算数値で、遊びで以下に試算して見た。なお、「七十四拾文」は誤記ではなく、所謂、現在の「壱弐参肆伍陸漆捌玖拾」と同様、誤読や書き変えを防ぐためのものであろう。

○小判1両  → 80,000換算(換算指標を替えると最大400,000円)。

○小玉銀8つ → 銀1匁を1,400円換算×(下記注の平均重量)5匁×856,000

○銀札4枚  → 多く見られる銀10匁の札で同上換算 14,000円×456,000

○南鐐4片  → 寛政南鐐二朱判の銀2.7匁で同上換算 1,400円×2.7×415,120

○740文  → 1文を20円換算×74014,800

○150文  → 同上換算 3,000

            総計額 224,920

恐らくは、事実上、これら総て纏めて一気に両替した場合はもっと換金率が良くなり、最低でも三十万以上(換算指標を変えると下手をすれば五十万円を超える)の相当換算額に達するのではないかとも思われる。

・「豕」音「シ」、訓「ゐ(い)」「ゐのこ(いのこ)」、豚類の総称。哺乳綱偶蹄(ウシ)目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus 。以下、本邦でのブタの飼育史をウィキブタより引く(注記号は省略、アラビア数字を漢数字に代えた)。『縄文時代にはシカ・イノシシ主体の狩猟が行われていたが、イノシシ骨では飼養段階の家畜利用を示す家畜化現象の骨が出土していることが指摘され、日本列島における家畜化の可能性も考えられているが、イノシシ飼養はいずれも限定的なもので疑問視する見解も見られる。弥生時代に入ると、大陸から移入されたブタの利用が行われていたと考えられている。大分県の下郡桑苗遺跡において一九八九年に行われた発掘調査によってイノシシ類頭蓋骨3点が確認されたことを一九九一年に西本豊弘が報告し、直良信夫も弥生時代におけるブタ利用を報告している。これを機に出土イノシシ類骨の再検討が行われ、現在では九州地方から関東地方にかけて弥生ブタの存在が確認され、弥生文化との関わりが論じられている』。『縄文時代にはシカ・イノシシ骨の出土割合は同等であったが弥生時代にはイノシシ骨の出土量が急増し、続く古墳時代の遺跡からもブタの骨は出土している。『日本書紀』、『万葉集』(萬葉集)、『古事記』に猪飼、猪甘、猪養などの言葉が見られるが、これらの「猪」はブタの意味であり、ブタが飼われていたことがわかる』。『天武天皇は六七五年に、ウシとウマ、イヌ、ニホンザル、ニワトリの肉食の禁止を定めた。だが、これは正確に言えば、肉食の全面禁止を目的としたのではなく、稲作を促進し安定した税収を確保する観点から出された、稲作に役立つ動物の保護を目的として出されたものであり、禁止期間は、稲作期間である四月から九月に限定されていた。しかも、当時の肉食の中心であったイノシシやシカをはじめとして、この勅令で指定されなかった動物の肉を食べることは一年を通して禁止されておらず、豚肉を食べることは禁止されてはいない。しかし、律令体制の確立の上で、米を税の中心(租)とする観点から、米の神聖さが強調されるようになった。当初は、稲作に役に立つウシやウマの肉を食べることが稲作の妨げになると考えられたが、時代が立つにつれて、ウシやウマに限らず、肉食そのものが稲作に害をもたらす穢れと見なされるようになり、ブタの飼育も途絶えてしまった。イノシシが採れる山間部では猪肉がぼたん鍋と称してわずかに食べられることもあった』。『中世に琉球王国に属した沖縄県や鹿児島県の奄美地方では、古来からブタの飼育や食用が行われており、沖縄料理は「豚に始まり豚に終わる」ともいわれる。一三八五年に渡来したという黒豚のアグー(島豚、シマウヮー)が有名で、現在の沖縄料理では最も重要な食材となっている。十七世紀以前は牛肉も同様の座を占めていたが、羽地朝秀の改革によりウシの食用が禁止され、その後冊封使節団を接待するため王府によりブタの大量生産が奨励されたことなども相まって、牛肉に代わる存在となっていった。しかし、昔は肉食はそれほど容易ではなく、「ハレの日」の料理として扱われていた。第二次世界大戦前の沖縄では、豚肉料理が食べられるのはせいぜい年に数回であり、普段はラードが豚肉の代用としてよく使われていたという。戦後、アメリカ合衆国に統治されると、ポーク・ランチョンミートの缶詰が広く利用されるようになり、現代の沖縄家庭料理に欠かせない素材となった』。『奄美地方を支配した薩摩地方でもブタを飼って食べており、佐藤信淵著『経済要録』(一八二七年)には薩摩藩江戸邸で豚を飼って豚肉を売っていたと記録されている。西郷隆盛も豚肉が大好物であったと伝わっている。江戸幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜は父徳川斉昭が島津斉彬から豚肉を送られていた(一八四五年五月二日(六月六日)の書簡)ためか、豚肉を好んで食べたので豚一様(豚好きの一橋様)と呼ばれた。新選組も西本願寺駐屯時に松本良順のすすめで神戸から子豚を持ち込み養豚していた。解体は木屋町の医者南部精一の弟子に頼んでいた』。『長崎においても、鎖国中の唯一の外交窓口であることから、駐在する中国人の食用として豚が飼育されていた。卓袱料理にも取り入れられて、一部は日本人の食用としても供給され、司馬江漢がこれを食べた記録がある。多くの日本人にとっては忌み嫌われ、中国人の豚好きを揶揄した「楊貴妃は きれいな顔で 豚を食い」という川柳がある』。『明治維新以後肉食は一般化していくこととなるが、普及したのは牛鍋などにみられるように牛が圧倒的であり、豚肉の需要はそれほど伸びなかった。豚の飼育は伸びていくものの、これは東京近郊の農家が肥料を得ることを目的としたものであり、食用ではなかった。しかし、大正元年(一九一二年)にコレラの流行が起きると、警視庁がコレラの流行を食い止めるために魚の生食を制限し、火を通すことが前提である肉食を奨励した。この際、上述のとおり豚が多く飼育されていた東京や関東圏において安価であった豚肉の使用が注目された。これによって、それまで牛肉が主であったカツレツが豚に置き換えられてトンカツが誕生するなど豚肉料理がこの時期に多く誕生し、豚肉の需要が急増して、ブタも日本各地で再び飼われるようになった。特に関東大震災後に関東地方で養豚ブームとなり供給量が増え安価になった。琉球の島豚は一九〇二年にバークシャー種、ハンプシャー種が入り純粋種はなくなったが名護市や奄美大島などで復元されている』とある。……長々引用したのは、私が小さな頃から豚を見るのが大好きな、豚フリークだからである……。

・「山田奉行」ウィキの「山田奉行」より引く。遠国奉行の一つで老中支配。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼・遷宮・門前町の支配・伊勢と志摩における訴訟・鳥羽港の警備及び船舶点検などを担当した。「伊勢奉行」「伊勢町奉行」「伊勢郡代」「伊勢山田奉行」「伊勢山田町奉行」とも称された。定員は一~二名、元禄九(一六九六)年より二名となり、江戸と現地で交代勤務となった。役高は千石で、役料千五百俵を支給された。配下は与力六騎・同心七十人・水主(かこ)四十人。『当初、奉行所は伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)に置かれ、のち伊勢国度会郡小林(現・伊勢市御薗町小林)に移転した』。慶長八(一六〇三)年、『幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。外宮・内宮両大神宮の警固はもちろん、伊勢湾・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の祭主が兼任していたが、「影流始祖愛洲久忠」の父であろう「愛洲伊予守忠行」が武家として初めて大神宮神領奉行職に文明年間』、『任じられた。(神領奉行所は岩出祭主館跡と思われる。)江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治維新まで一度も途切れず、源頼朝以上の「敬神敬祖」の範を示し神宮式年遷宮を行ってきた』とあり、『一説によると、山田奉行はかつて豊臣秀吉が設けたもので、それを江戸幕府が引き継いで』、慶長五(一六〇〇)年に設置された、という説も記されてある。同ウィキの「山田奉行就任者の一覧」の中に、

 小林正秘
文化三(一八〇六)年四月三日~文化八(一八一一)年三月八日

とあり、次の底本の注と一致する。この名正秘は「まさなみ」と読むと、岩波版長谷川氏注にある。

・「小林筑後守」底本鈴木氏注に、『初称弥兵衛。文化三年丙寅四月三日山田奉行、文化八年三月八日西丸御留守居に転役』とある。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「繼送り」宿駅ごとに人馬を替えつつ、貨客を送ること。

・「小玉銀」豆板銀。銀貨の一種。以下、ウィキの「豆板銀」より引く(当時の正式な名称は小玉銀)形状は小粒の銀塊で、重量は不定だが一匁(約三・七五グラム)から十匁(三十七・五グラム)ほどの秤量(しょうりょう/ひょうりょう)銀貨で、〇・一匁ほどの小粒のものも存在し、『露銀(つゆぎん)と呼ばれ、僅かな目方の調整に用いられた』。『表面には「常是」および「寳」に加えて年代を現す文字極印が打たれ、また片面ないし両面に大黒像の極印が丁寧に打たれたものが存在し、恩賞および贈答用とされる』。『それ自体を取引に利用するほか、丁銀に対する小額貨幣として補助的な役割をもつ。例えば、小型の丁銀に豆板銀を加えて重量を』四十三匁(約百六十一・二五グラム)に合わせて、『紙に包んで封印し、まとめて使用する事も行われた。これを包銀という。丁銀は包銀の形で大口取引に使用されることが多く日常生活で使用するには高額過ぎ、裸で使用されることはほとんどなかったが、豆板銀については持ち運び可能な銀秤(ぎんばかり)により随時秤量しての支払いが可能であり、また現金を銭緡(ぜにさし)で持ち歩くよりも携帯に便利で、適宜両替屋で銭に替えて使用するなど、重宝された』。元和六(一六二〇)年頃、『に鋳造された慶長豆板銀に始まり』、安政六(一八五九)年の『安政豆板銀まで常に丁銀と同じ銀品位で鋳造され、江戸時代を通じて発行された』とある。

・「銀札」銀貨を引替対象として発行された紙幣。幕府の統制も緩やかで、諸藩を始として旗本・寺社・組合・私人の発行した例もあるが、主として西国に於いて流通した。最古のものは元和六(一六二〇) 年頃、大坂商人が江戸堀開削のため発行したものであるが、藩札としての最古のものは寛文元(一六六一)年の福井藩のものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「南鐐」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、一両の八分の一。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は』九十八パーセントと『当時としては極めて高いものであった』。明和九(一七七二)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。

・「狀箱」書状を入れて使いに持たせた木製の箱。文箱(ふばこ)。

・「柳箱」柳の細枝を編んだ箱。また、柳の木を細長く三角に削って寄せ並べ、生糸や紙縒(こよ)りで編んだ蓋附きの箱。主に硯・墨・筆・短冊や冠などを納めた。後世、蓋の足を高くして台として用い、冠・経巻などを載せた。「やないば」とも読む。

・「鳥羽部小拶村」底本鈴木氏注に、『相差(アフサス)か。いま鳥羽市相差』町(おうさつまち:ここ。グーグル・マップ・データ)『ただし安芸国から出発して伊勢参宮をする場合としては、随分廻り道をしたことになる』とあり、岩波版長谷川氏注も、ここに同定しつつ、『但し山田より東に当る』と、やはり不審を記す。現行では「おうさつ」と読む。海女と漁師のまち 相差(おうさつ)町内会」公式ページによれば、相差は古くから海女と漁師の町として栄え、国内で最も海女の多い三重県、その中でも一番多い約百人の海女がいると書かれてある。確かに位置的におかしい気がするが、そもそもが豚が陸路を安芸から来ること自体、私は無理があるように思う。もしかすると、途中で海路を経て、紀伊半島を廻り、この小拶へ送られたものではなかったか? 恐らくそうした考証や、誰が、どうやって、豚の伊勢参宮を実現させたのかが、仁科氏のその「犬の伊勢参り」で明らかにされているのであろう――とここまで書いて「犬の伊勢参り」で検索をかけたところ――どうも私の読みは当たっていた。書籍レビュー・サイト「HONZ」の内藤順氏の『犬の伊勢参り』  色彩を持たない動物たちと、その巡礼の道に、『さらに本書では、犬だけではなく、豚や牛の伊勢参りについても言及されている。しかも豚にいたっては、広島から船で瀬戸内海を抜け、潮岬をまわり熊野灘に出ることによって、伊勢神宮へやってきたというから驚く。豚が伊勢参りをした年は式年遷宮の年。願主は豚に代参させてまでも伊勢参りをしたかったのかもしれない』とあったからである(リンク先は同書の梗概としてもよく書かれている)。ますますこの本、読みたくなった。

・「白鬚大夫」岩波版長谷川氏注に『御師(おし)の名か』とする。ここは伊勢のそれならば「おんし」と読みたい。既注であるが、再度記すと(ここではウィキの「御師」を使用する)、「御師」(おし/おんし)とは、『特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する』。『本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった』。『平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。当初は参詣のつど契約していたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代には農民まで檀那とするようになった』。『鎌倉時代から室町時代初期にかけては、特に有名な伊勢神宮や富士講の御師が活躍したほか、松尾・三嶋・白山・大山の御師も活躍した』。『江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達した。特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。例えば、伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。同様のことは各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続や譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まった。一方で熊野御師は熊野信仰の衰退とともに衰退した』。『明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退する』。明治二(一八六九)年、『明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。御師側はこうした動きに抗議したものの』、明治四(一八七一)年七月には『御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入された』。『御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して扶桑教を結成するなど、宗教的な活動を維持しようとする動きもあった』。例えば、ここに近いところでは江島神社にも御師(おし)がいて、盛んに活動していた。

・「巳」文化六年は正しく己巳(つちのとみ)。

・「座官」不詳。私は、ちょっと聴いたことがない。実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『庄官』とあり、これなら「しやうくわん(しょうかん)」で」村役人の長・庄屋の意で、腑に落ちる。これで訳した。

・「犬に伊勢參宮の事」底本鈴木氏注に、『譚海巻八、房州の犬伊勢参宮せし事参照』とある。「譚海」は、やはり私が電子化を欲求している津村正恭(淙庵)著になる怪奇譚集(寛政七(一七九五)年自序)である。以下に当該箇所を示す。読みは私が附した。

   *

○寛政二年の秋、安房國ある庄屋の許(もと)に飼(かひ)たる犬、伊勢參宮したきよし、主人の夢に見えけるとて、其犬を參宮にいだし立ける。村送りに人をつけてやりけるに、此犬恙なく參宮して歸(かへり)ける。勢州にて見たる人の物語せしは、他の犬と違(ちがつ)て呼(よび)てものをくはすれば、やがて人家の板敷(いたじき)のうへにのぼり、うづくまり居て物をくひはたし、最早いねといへば、其まゝ飛(とび)おりて行ける。はじめ主人より鳥目三百文犬の頸にかけて出しけるが、路次(ろし)にても鳥目五文三文づつあたふる人有(あり)て、歸路には三貫文にあまりたるほどに成(なり)て、犬のくびにかけてやりがたければ、村返りの者持返りて、やりたる事に成(なり)たりとぞ。

   *

この「三貫文」は三千文で、凡そ現在の一万五千円から二万円弱に相当する。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇なる豚の事

 

 伊勢国山田奉行小林筑後守正秘(まさなみ)殿より、自筆にて留守宅へと送られて参ったという文書を以下に紹介する。

 文化六年、豚一疋が、安芸国より送り状を相い添えられた上、継ぎ送り来って御座った旨。この豚、伊勢参宮へと赴かんとするに附き、その送り状の委細、以下の如し。

   ――――――

一、豚  疋  小判   両

         小玉銀  つ

         銀札   枚

         南鐐   片

          右口 白木状箱へ入る

         柳箱   つ 内には

          銭  漆百肆拾

           但し 風呂敷包み入り

           外に 百伍拾文相添え

         紙包  少し

         書付類 少々

         木札   枚

右の通り、豚、安芸国広島より伊勢参宮のために参りましたによって、宿駅毎に送り来たって参ったれば、それを確かに間違いなく、こちらより継ぎ送り致します。以上、相違なきこと、改められたる上は、間違いなく御(おん)請け取り方、下さいまするよう、お願い申し上げます。

 巳三月廿九日   鳥羽郡小拶(おうさつ)村

             役 人 方

    白髭大夫(しらひげたゆう)様

   ――――――

 なお、裏には以下の書き添えがある。

   ――――――

道中、当(とう)豚(ぶた)儀(ぎ)、その労わり方、これ、重々、お頼み申し上げ奉りまする。且つまた、その途次(とし)に於いて、当豚に危害を加えんとする輩(やから)などと遭遇致しましたる折りには、その所々の名主方・庄屋方、また、御当地のお役人の方々、どうかくれぐれも、十全なるお心添えを、これ、下さいまするよう、心よりお頼み申し上げます。以上。

   ――――――

 さても、これ、実事なる由。

 犬の伊勢参宮と申すは、たびたび耳にして御座れど、豚の伊勢参宮と申すは、これ、まっこと、珍しきことなれば、特にここに記しおくことと致す。

 

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