又
これは少し年も古き事の由にて、享和二戌年七月の事の由。中國方藩中の士〔龜井隱岐守分知(ぶんち)登之助家來德永幸右衞門。〕にて、石州(せきしう)を旅行、或寺院と出會(であひ)、心安(こころやすく)なせしが、右寺院に破壞なせし小堂ありしを、何の堂にやと尋(たづね)しに、柿本人麿の堂の由にて右像をも見せけるに、いかにも殊勝の古像なりけるに、かく零落なし置(おか)んも恐れありとて、歌道など心懸し事はなけれども、一體有德(うとく)なる仁(じん)故、同士の者抔勸進(くわんじん)して新規の堂を造りかへければ、住職の僧大(おほき)に怡(よろこび)、右謝禮とて右堂の古木を以(もつて)、人麿の像を刻(きざみ)て與へしと也。然るに彼(かの)士其後關東に下り御直勤(ぢつきん)の列にも加(くはは)り、妻子などもありしが、最愛の悴〔德永松次郎〕痢疾(りしつ)を患ひ、諸醫手を盡せども甚(はなはだ)難症にて醫療更にしるしなく、一人の子なれば其悲歎申(まうす)もおろかなれど、十計(じつけい)盡(つき)てせんかたなし。藥も諸醫を盡して驗しなければ、此上は神仙を祈るの外なし。然れども我等知らざる神仙を祈りしとて、俄(にはか)に賴(たより)ては人も聞(きか)ざれば、神も利益(りやく)の覺束なしと色々思案なせしに、先年かゝる事にて、人丸の堂を造立せし事あれば、人丸へ願ひて利益(りやく)を得んと、彼(かの)僧のあたへし人丸の像を取出(とりいだ)し、齋戒沐浴して一心に彼(かの)像を念じけるが、其夜の夢に、南の方へ遠く行(ゆき)て尚(なほ)神仁を祈るべしと、うつゝに覺へければ、翌日品川の方へ至りて神社を拜みまはり、右夢に右の邊の醫師を賴(たのま)ば療養奇特(きどく)あるべしといへる事故、よき醫師もあるや、茶店其外にて聞合(ききあひ)ぬれど、可然(しかるべし)と思ふ事もなし。八丁堀までうかうか歸りける道に、玄關由々敷(ゆゆしき)醫師〔二宮全文といふ。〕の宅有(あり)て、今出宅(しゆつたく)の體(てい)にて藥箱駕(かご)抔ならべありし故、右玄關へ至りて案内を乞(こひ)、御目に懸り度(たし)と申入(まうしいれ)ければ、彼(かの)醫師出懸(でかくる)と見へて程なく立出(たちいで)、何御用やと申(まうす)に付(つき)、しかじかの事にて御願申(まうす)なりと、一部始終を荒增(あらま)しに語り賴(たのみ)ければ、職分の事安き事なれど、格別の遠所(ゑんしよ)御見廻(おみまはり)も申兼(かね)候也(なり)、殊に今日も主家同樣の方へ召(めさ)れ、只今參り候得ば御見廻も難成(なりがたく)、折角賴み給ふ事と暫く思案なしけるが、痢病とあり、諸醫手を盡したる上は、爰にひとつの咄しあり、我等が只今罷越(まかりこす)諸侯の家より出る痢病の奇藥あり、我に隨ひ來り給へ、是を申乞(まうしこひ)て御身に與ふべしと申ける故、大きに悦(よろこ)び、右駕(かご)に付(つき)て彼(かの)諸侯の家に至りしに、醫は玄關より通り、右士は玄關の脇に控へ居(をり)しが、程なく彼(かの)醫二貼(にてふ)の藥を持出(もちいで)て彼(かの)士に與へける故、悦び持歸(もちかへ)りて是を見るに、石州濱田柿本庵と記しある故、大きに驚(おどろ)て彌(いよいよ)信心をこらし彼(かの)藥を倅に與へしに、薄紙をへぐ如く其病(やまひ)癒しと也。右諸侯は松平周防守(すはうのかみ)屋敷の由語りぬ。〔石見國戸田村の柿木社の由。右社地に昔人丸の筆柿(ふでがき)といふありしが、今は枯朽(かれくち)て土中に埋(うめ)ありしを、龜井隱岐守家老龜井一學、掘得(ほりえ)て神像を彫刻し、今は龜井愛之助屋敷に安置の由。〕
□やぶちゃん注
○前項連関:「誠心によつて神驗いちじるき事」二連発。また、祈誓霊験譚という酷似と同標題、医師が匙を投げる難病という設定、しかも途中に割注を挟む異例の形態と、その割注では具体な本名や事実を暴露的に明記するという考証学的書法の酷似からも、私はニュース・ソース自体も二連発で、前の話の話者若泉是雲であると確信するものである。
・「享和二戌年七月」享和二年壬戌(みずのえいぬ)は西暦一八〇二年。「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから十二年前のやや古い話ではある。
・「龜井隱岐守分知登之助」底本の鈴木氏注に、『亀井隠岐守は石見国津和野城主、四万三千石。登之助の諱名は玆求(コレモト)。同家は亀井政矩の長男経矩が庶子であったので家を嗣がず分家したもので、石見美濃郡のうちで三千石を分知された』とある(分知は武家の知行の一部を親族に分与すること。分地とも書く)。当時の主藩石見津和野藩は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 宝暦一一(一七六一)年或いは明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)の代で、ウィキの「亀井矩賢」を見ると、第七代藩主亀井矩貞の長男として津和野で生まれ、天明三(一七八三)年の父の隠居により家督を継ぎ、天明四(一七八四)年、従五位下・隠岐守に叙位・任官した。『しかし天明の大飢饉、さらに幕府の公役などにより財政難はさらに進んだ。このため財政整理や目安箱設置など改革を行なったが、父と同じく学問肌の藩主であり』、天明六(一七八六)年に『藩校・養老館を設置するなどして文学の発展に尽力したため、結局のところ財政再建はならなかった。ただし』、寛政一二(一八〇〇)年には『藩士から庶民にまで範囲を広げ、医学を志す者には学資を貸与するという、現在でいう留学制度を設けるなど、優れた政策があったことも確かである』(下線やぶちゃん)。文政二(一八一九)年隠居とあり、本話の登場人物の縁戚としては話柄の内容との親和性が強い印象を受ける。
・「石州を旅行、或寺院と出會、心安なせしが」これでも読めぬことはないが、恐らくは「或寺僧」の誤写であろう。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見るとここは、
石州へ旅行之節或寺院に至り、度々住僧共出會心易く爲せしに
とあり(恣意的に正字化した)、脱字の可能性も疑われる。ここの部分はバークレー校版で採ることにした。
・「柿本人麿」「人丸」歌聖柿本人麻呂(斉明天皇六(六六〇)年頃~
養老四(七二〇)年頃)は「人麿」とも表記され、平安時代からは寧ろ後に出る「人丸」と表記されることの方が多かった。西暦七〇〇年代の初め、この石見国国司として中央より赴任したとされる。彼は事蹟の殆んど分からない謎の人物であり、ウィキの「柿本人麻呂」にも、『その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている』とある。の江津(ごうつ)市観光協会公式サイトの「柿本人麻呂」や大阪調理士養成会公式サイト内の『「柿本人麻呂」浜田考』が当地での人麻呂の足跡を欲追跡していて必読である。
・「直勤」直参(旗本と御家人の総称)と同義であろう。この場合、「德永幸右衞門」の事蹟が不明(ネット検索では少なくとも不詳)なことから、時代的にもお目見え以下の御家人であろう。
・「痢疾」漢方では、下痢の中でも「しぶり腹」を主訴とするような感染性消化器疾患を主因とする下痢症状を指す。一方、「泄瀉(せっしゃ)」は非感染性消化不良及び消化機能低下を主因とした「下り腹」をいう。
・「神仁」底本ではここの右に原典そのものにママ注記があるように(通常の編者注の( )表記がない)書かれてある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『神佛』であるから、これは原本が元とした写本自体の誤写の可能性は濃厚ではあろう。しかし考えてみると、直後の台詞に「右夢に右の邊の醫師を賴ば療養奇特あるべしといへる事故」とあり、この後のシークエンスの展開は「南の方」の「神佛」ではなくして、医師と家伝の人の調したる薬によって快気を得る訳で、これはまさに「神」意の導いた「仁」術、医術を生業とする御「仁」(ひと)による平癒とも言えるわけで、私には全くの誤字とも言えぬようにも思えてくるのである。訳でもあえて謎めいた信託として、そのままで出した。
・「八丁堀」本来の八丁堀は神田と日本橋との境界となっていた堀で、竜閑橋(常盤橋西北)から城濠に分かれて、東方の馬喰町に達し、それから南の浜町堀となって隅田川に入る運河であった(名は堀の長さが約八町(約八百七十三メートル)あったことに由来)が、後にこの周辺の地名となった。現在の東京都中央区の地名として残る(以上はウィキの「八丁堀 (東京都中央区)」に拠った)。
・「二宮全文」不詳。
・「格別の遠所」御家人徳永幸右衛門の住居は品川を南方とするから無論、江戸御府内である。向島・小塚原(南千住)・田端・日暮里・巣鴨・板橋辺りか。
・「貼」(現代仮名遣では「ちょう」)接尾語で助数詞。調合して包んだ薬などを数えるのに用いる。
・「石州濱田」現在の島根県浜田市。旧石見国の中心地であった。
・「柿本庵」不詳。
・「松平周防守」石見国浜田藩藩主六万石。享和二年(一八〇二)年当時は第二代藩主松平康定(岩波の長谷川氏注は婿養子で第三代藩主松平康任(やすとう)とするが、これは本話執筆当時の藩主である)。浜田藩の江戸上屋敷は城山(虎の門)にあったから、八丁堀からは西南西へ直線で三キロメートル圏内である。
・「戸田村」底本の鈴木氏注に、『島根県益田市戸田。柿本社は同市高津。もと真福寺、人丸寺と呼ばれた。明和九年津和野侯が建てた石碑の文に「一柿樹尚在宅、其実繊而末黒、名為筆柿、無核」とある。なお戸田村には人麿に仕えたという者の家があって、そこから石棺を掘り出し、人麿の墓ではないかといわれた。(閑田耕筆)また戸田の綾部其の宅を人麿の誕生した所ともいった』とある。まず、ウィキの「高津柿本神社」を調べてみると(注記号を省略した)、この柿本社(現在は正式には戸田柿本神社と呼ぶ)の近くの島根県益田市高津町上市にある高津柿本神社(たかつかきのもとじんじゃ)は『歌聖柿本人麿を祀る神社で、正式名称は柿本神社。柿本人麿を祀る柿本神社は日本各地に存在するが、その本社を主張している。鎮座地は丸山の東に張り出した尾根筋の鴨山(高角山)山頂に位置』する。柿本人麿命(正一位柿本大明神)を祭神とし、『地元では「人麿神社」「人麿さん」とも呼ばれ、歌道を始めとする学問や農業の神、また石見産紙の祖神とされたことから殖産の神として崇敬されるほか、「人麿(ひとまる)」を「火止まる」や「人産まる」と解して、火防や安産の神としても崇敬されている』。『晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも
知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌を詠んで益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという』。人麿終焉伝承地は『安来市の仏島など島根県内だけでも各所にあって定説を見ないが、当神社の西方』四キロメートルほど『離れた益田市戸田町の戸田柿本神社には人麿が柿の木の下で生まれたという樹下誕生譚や遺髪塚があり、当地一帯が柿本氏と縁のあったことが想定できる。ちなみに高津町や戸田町は、古く石見国美濃郡小野郷に相当し、郷名は古代豪族小野氏の移住、開拓に由来するとされるが、柿本氏はその小野氏の支族である』。万寿三(一〇二六)年の『地震とそれに伴う大津波で鴨島とともに海中に没したが、神像は高津の松崎に流れ着いたため、その地に社殿と別当寺としての人丸寺が再建された。その後、後鳥羽天皇の時代には石見国司平隆和によって社殿の改築と』水田十町歩の『寄進が行われている』とあり、『江戸時代に石見銀山奉行の大久保長安による造営と金の灯籠が献納され、更に』天和元・延宝九(一六八一)年に『風水難を案じた津和野藩主亀井茲親によって高津城のあった現在地に移築された。同じ頃、都にあっては霊元上皇が古今伝授に際して祈祷を命じたり、後に宸筆の御製歌を奉納したりと和歌の神として崇敬し』、享保八(一七二三)年、『柿本人麿の一千年祭と称して「柿本大明神」の神号と正一位の神階が宣下された。また現地にあっても一千年祭を斎行するとともに、別当人丸寺を真福寺と改称している。以後歴代天皇を始め親王や公卿にあっては特別に法楽を営んで和歌を短冊に認めて奉納、歌道の上達を願う風が流行する一方、津和野藩では』享保一三(一七二八)年に社領十三石を『寄せ、石見産紙の祖神に位置づけて、藩内第一の神社と崇めた』。慶応元(一八六五)年に『真福寺を廃して社号を「柿本神社」に改め』たとある。鈴木氏の記載が正しいとすれば、このウィキの最後の神仏習合時代の二神社が孰れも真福寺を別当としていたと考えられる叙述から、どうもこの頃は高津柿本神社と戸田柿本神社は同経営であったものかとも推測される。なお、戸田柿本神社の公式サイトも参照されたい。その記載の各所は歴史的には高津柿本神社との近親性が窺われるからである。最後に伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)の「閑田耕筆」の当該箇所(巻之一天地の部)を引いておく。底本は吉川弘文館刊「日本随筆大成」(第一期第十八巻)所収のものを恣意的に正字化し、一部に私が歴史的仮名遣で読みを附した(カタカナは原典のルビ)。踊り字は正字化した。
*
《引用開始》
○石見の人いふ、柿本の神の旧跡、高角山(たっつのやま)は外浜千軒、内浜千軒有(あり)て、北海一の大湊なりしが、元龜年間の津浪にて、山崩れ家も人も亡びうせし後、半里計(ばかり)を去(さり)て、今の所にうつせり。此時神像も、松の枝に乘(のり)て、海に漂(タヾヨ)ひ給ひしを取(とり)あげたり。其岸を松が崎といふ。神靈たとむべし。今の社の木像即是なり。
〔割註〕座像にて常人よりも大なるほどなり。予も昔絵にうつしたるを拝みたり。」もとの社の有し寺は行基寺(ぎやうきでら)といひ、〔割註〕行基菩薩の開基なり。」後に、人麿寺ともいひしとぞ。今の寺は眞福寺と號(なづ)く。又今の社より三十丁計の所に、戸田といふ里あり。柿木うしに仕へし子孫家名(カタライ)氏とて住(すめ)り。〔割註〕此訓奇なり。定(さだめ)てゆゑ有べし、今も古風を存して總髮なりとぞ。」其著近來家富(とみ)て地を廣めし時、二間計の石棺を掘出(ほりいだし)たりしに、雷鳴頻(シキリ)なりしかば、畏れて領主津和野侯へ達せしにより、命(めい)有てもとの如く埋め、石の垣など嚴重に構(カマ)へられたり。此戸田は、うしのかくれ給へる所なりといひ傳(つたへ)しが、これを掘出て、いよく其葬送の所なりといふこともしられぬとぞ。又其近き地より朱(しゆ)の多く入りし壺を掘出しことあり。思ふにこれも、其族(ヤカラ)の人の骨を朱もて、斂(ヲサ)めたるにやあらん。此わたり辺鄙(へんぴ)にて、貴人はもとより世にしられたる人の住(すみ)しことは、此うしより外はきこえねば、紛るべくもあらずやとぞ。〔割註〕私曰、もし石見などの任(にん)の内に卒(しゆつし)て、其國に葬りし人も有べけれど、それはしられぬことなり。」
《引用終了》
「閑田耕筆」の語注を附しておく。今まで紹介した場所とは、また微妙に異なる島根の人麻呂伝承である。
●「高角山」は現在の島根県江津(ごうつ)市のほぼ中心に位置する標高四百七十メートルの「島の星山(しまのほしやま)」の別名。不思議な呼称は、その昔、隕石が落下したという伝承に由来する。人麻呂の「万葉集」巻之二百三十二番歌、人麻呂が石見の国に妻依羅娘子(よさみのおとめ)を残して上京した際の惜別の情を詠んだものとされる、
石見のや高角山の木の際(ま)よりわが振る袖を妹見つらむか
に詠まれる山で、中腹には隕石を祀った祠があり、山の西北西四・一キロメートルの江津市都野津町(つのづちょう)に、やはり人麻呂を祀った別な都野津柿本神社が存在する。ここは人麻呂が妻依羅娘子とともに暮らしていたと伝えられる場所で、境内には樹齢八百年と伝えられた人麻呂手植えの松があったが、惜しくも一九九七年に枯死している。
●「千軒」一・八二キロメートル。
●「元龜年間」西暦一五七〇年~一五七三年。但し、これはウィキの「万寿地震」に万寿三年五月二十三日亥の深夜(グレゴリオ暦一〇二六年六月十六日)に高津沖の石見潟が一大鳴動し、そこにあった鴨島が水中に没し、大津波が襲来したとあって、「石見八重葎」には江田(現在の江津市)付近の伝説として『万壽三年丙寅(ひのえとら)五月二十三日、古今の大變に長田千軒、此江津今の古江と申す所なり。民家五百軒餘、寺社共に打崩す云々』とあるとあって、松崎(現在の益田市高津町内)に『人麻呂の木像が流れ着いた』とあり、その松崎での津波の遡上高度は実に二十三メートルに達したとあるから、この方が本叙述にはピッタリくるが、地図上の位置が全く異なる。いろいろな事実(以下の別当寺等を見ても)が複数ある、位置の異なる柿本人麻呂祀る神社の伝承と、ごちゃごちゃになって結びついてしまっているものらしい。一応、以下との繋がりから的の枝に乗って漂着したのは遙か五十キロメートル南西の高津川河口であったと仮定する。
●「たとむ」「貴(たふと)む」の略形であろう。
●「三十丁計の所に、戸田といふ里あり」この叙述を逆に辿ると、実は冒頭の高角山西方の柿本神社の話ではなく、やはり益田市高津町上市にある高津柿本神社を指しているとしか読めない(但し、三十町=三・二七キロメートルばかりではなく、八キロメートル弱もあるのは不審だが)。実地検証していない錯誤によるものであろう。
●「柿本うし」柿本氏。後の「うしのかくれ給へる所」の「うし」も同じ。
●「家名(カタライ)氏」不詳。識者の御教授を乞う。
●「總髮」「そうがみ/そうがう(そうごう)/そうはつ」などと読み。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らずに伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世に於いては主に儒者・医師・山伏などの髪形として知られる。
●「二軒」約三メートル六十四センチメートル。古代の石棺としては三メートルを有に越えるというのは破格に長い。
●「朱」言わずもがなとは思うが、死者を葬る際し、縄文の昔から遺体や骨・石室内に辰砂(しんしゃ:水銀朱。硫化第二水銀。)を塗(まぶ)すことが好んで行われた。徳島県立博物館公式サイト内の高島芳弘氏の「辰砂の精製」に『西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室の中には』四十一キログラムもの『辰砂が使われていました。古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています』とある。
*
・「人丸の筆柿」初読時は人麻呂手植えの柿の木で、例えば、その柿の枝を以って筆を作ったということか? などと考え、ネットを調べると、別な地の人麻呂伝承に手植えの柿の木で茶道具を作ったともある(人麻呂時代に茶はないが、その材で幕末から明治初期に作らせたという香合らしい。こちらの「奈良大好き☆お勉強日記」のブログ記事をどうぞ)。別に「筆柿」は柿の品種でもあり、前掲の鈴木氏注にあるのもそれで、やはりネット上の他の地域の人麻呂伝説にも散見される。ツツジ目カキノキ科カキノキ(柿の木) Diospyros kaki の一品種であるフデガキ(筆柿)は別名を珍宝柿、地域によってはちんぽ柿とも呼称する。名の由来は形状が筆の穂先に似ていることに由る。不完全甘柿で、一本の木に甘い実と渋い実が同時に実る。早生の品種で富有柿や次郎柿などの一般的な柿よりも一ヶ月ほど早く市場に出回る。他の柿に比すと糖度が高く、非常に濃厚な甘みを持つ。また、皮が比較的薄く、そのまま丸かじりすることが可能。現在は愛知県額田郡幸田町が全国の生産量の九十五%を占める(以上のカキの品種筆柿についてはウィキの「筆柿」に拠った)。
・「龜井隱岐守家老龜井一學」割注にタイム・ラグがないものとすれば、第八代津和野藩主亀井矩賢の家老らしいが不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「家老」ではなく「家士」である。
・「石見國戸田村の柿木社の由。右社地に昔人丸の筆柿といふありしが、今は枯朽て土中に埋ありしを、龜井隱岐守家老龜井一學、掘得て神像を彫刻し、今は龜井愛之助屋敷に安置の由」この注、後半の箇所、本話と如何なる関係があるのか私にはよく呑み込めない。「龜井愛之助」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「老之助」だが、これは如何にもおかしな名である。不詳。藩主亀井矩賢の子孫か、家老亀井の子孫か、それともこの話柄の中心人物たる亀井玆求の方の子孫か? 亀井登之助という名と愛之助、また本話の筋との親和性を考えるとこれならこの割注もやや腑に落ちるが、しかし、主家の家老が作ったものが分家の者の家に伝わるというのもこれまたおかしい。最初に出る人麻呂像についての事実の事蹟を語ったものであろうか? それでも何か、妙に迂遠な注の感を免れぬ。何方か、この私の不審を晴らして下さると嬉しい。
■やぶちゃん現代語訳
誠心によって神験これ著しき事 その二
これは少し年月も経った古きこととて、享和二年戌年七月に御座ったことの由。
まずは前触れより、お話申そう。
中国地方の藩中の家士――実は亀井隠岐守殿分知(ぶんち)の亀井登之助殿御家来徳永幸右衛門なる人物――が、石見国を旅行致いた折り、とある寺院を訪れ、その住僧と心安くなったが、この寺院に、すっかりぼろぼろになったる小堂(しょうどう)の御座ったによって、
「……こちらは何の御堂(おどう)で御座る?」
と訊ねたところが、
「……これは、かの柿本人麻呂を祀れる御堂(みどう)で御座る。」
とのことにて、そこに辛うじて残って御座った人麻呂の像と申すものをも、これ、見せて呉れたと申す。
それはいかにも勝れた出来栄えの古き木像で御座ったによって、幸右衛門、
「……かくも零落致いた御堂(みどう)に曝し置かんも、これ、畏れ多きことにて御座る。……さても我ら、歌道なんどの心得も、これ、あるわけにては御座らねど――」
と、元来、誠心なる有徳(うとく)な御仁でも御座ったによって、一念発起致いて、その地にて即刻、同士の者なんどを慫慂勧進致いて、間ものぅ、そこに新しき御堂(みどう)を造り替えて建てたと申す。
かの住僧、これ、大きに悦び、その骨折りの謝礼として、かの破砕した旧堂の古木を以って、人麿の像を今一体、新たに刻み、幸右衛門へ授けたと申す。
さても、この幸右衛門、その後(ご)、関東に下り、御直勤(ごじっきん)の列にも加わり、妻子などももうけて御座った。
ところが、ある時、この最愛の悴――徳永松次郎と申す――重い痢疾(りしつ)を患い、諸医が手を尽くしたれども、はなはだ難症にて、医療の甲斐も一向に表われず、ただ一人の子(こぉ)なれば、その悲歎もこれ、言わん方なきほどにて御座ったれど、万策尽き、最早、手の施しようもない病態となって御座った。
「……薬をも諸医をも尽くしながら、一向に験(しる)しなきとならば……この上は、神仙を祈るの外、これ御座ない。……しかれども、我今般まで知りも致さず、信心もなさざるところの神仙を祈ったとて、これ、俄か仕立ての頼りとあっては……それが人であってさえも聴き届けては呉れまいものじゃに、神なれば猶更のこと、利益(りやく)、これ、覚束ぬは必定(ひつじょう)……」
とあれこれ思い悩んだところが、ふと、
「――そうじゃ! 先年、我らが信念より、人麻呂の御堂(みどう)を建立(こんりゅう)致いたことのあった!――されば、かの人麻呂の霊へ、これ、願いて利益(りやく)を得んに若くはない!』
と思いつき、かの住僧の授けて呉れた人麻呂の像を取り出だいて、斎戒沐浴致いた上、一心に、その神像を心に念じては、我が子の命を救い給え、と祈念致いた。
と、まさにその夜の夢に、
――南の方へ遠く行きて――なお「神仁(じんじん)」を祈るがよい――
と、現(うつつ)に霊言の響きて目覚めたと申す。
されば、翌日、江戸は南の品川の方へと至って、神社という神社を、これ、拝み廻った。
そうして、幸右衛門、ふと、
「……かの夢の……『神仁(じんじん)』……とは? はて? 如何なる意味で御座ろう?……もしや!?……この辺りの
――『神』がかった『仁』術の『人』――名医を頼んだならば療養の奇特(きどく)のある――
といった意味ではなかろうか?!……」
と思い至って、
「――この辺りに、名医と呼ばるるお医者はおられぬか?!」
と、茶店やその他の町屋にて、虱潰しに訊ね歩いてみたと申す。
しかし、これといって、ぴんとくるようなる者も、これ、見当たらなんだと申す。
そうこうして、気も落ち着かぬまま、八丁堀辺りまで帰ってきた、その道すがら、玄関も由々しく建ったる医師――二宮全文(にのみやぜんぶん)と申す――の宅のあって、今しも往診の体(てい)にて、薬箱や駕籠なんどが門内に並べて御座ったを見たによって、思わず、その玄関に入(い)って案内(あない)を乞い、
「――どうか! お目にかかりとう存ずる!」
と申し入れたところ、かの医師、やはりちょうど出かくるところと見えて、ほどのぅ、奥方より立ち出でて参り、
「何の御用で御座るか?」
と応じたによって、
「――しかじかの事にて! どうか、御診察の程! 御願い申し上げ奉りまする!」
と、息子の病態の一部始終をあらかた語り、切(せち)に頼んで御座った。
しかし、この全文なる医師、
「……職分のことなれば診察致すは、これ、安きことでは御座るが……しかし、御住まいにならるる所、これ、格別の遠所(えんしょ)なれば……これ、ちと往診致しかねる所にて御座る。……しかも殊に、折から今日は、拙者にとっては主家(しゅけ)同様の御方(おかた)の許へ召されて、これより参らねばなりませぬのじゃ。……その往診を終えてから、そちらへと往診致すとしても、これ、今の時刻からは成し難く御座る。……せっかくの御頼みでは御座るがのぅ……」
と暫く考えあぐんで御座った。ところが、全文、ふと思い当って、
「……さても!……先般の御話しによれば、御子息が病いは重き痢病と申されたな?……諸医の手を尽くして思わしくないとな。……ふむ!……かくなる上は、ここに一つの話、これ御座る。……我らが只今これより罷り越す諸侯より出ずるところの、家伝の痢病の奇薬の御座るのじゃ! 一つ、我らに随い、これよりその諸侯が御屋敷へと参られよ! そうして、その秘薬を拙者が直々に藩主様に申し乞うて頂戴致し、それを御身にお渡し申そうそうぞ!」
と提案なしたれば、幸右衛門、大きに悦び、医師全文が乗ったる駕籠につきしたがって、かの諸侯方の屋敷へと参ったと申す。
医師は玄関を通り、奥方へと向かい、幸右衛門は玄関の脇に控えて待って御座ったところ、ほどのぅ、かの医師、奥向きより二貼(にちょう)の薬袋(やくぶくろ)を持って参り、幸右衛門に与えた。
幸右衛門、小躍りして悦び、韋駄天の如く走り帰った。
帰っていざ、その薬袋を見れば、
――石州浜田柿本庵――
と記しあった。
されば、これ、大きに驚き、いよいよ信心を深くして、その薬を伜に服用させたと申す。
すると、これが薄紙を剥ぐが如く、かの執拗(しゅうね)き痢疾、これ、次第に軽快し、遂にはすっかり癒えて本復致いたと申す。
その秘薬を貰い受けた諸侯と申すは、松平周防守(すおうのかみ)御屋敷で御座った、と幸右衛門の語っておった由。――更に附言しておくと、その秘薬は石見国戸田村にある柿本人麻呂を祀る柿木社製の由。因みに、かの社地には昔、「人丸の筆柿(ふでがき)」と申す柿の木の御座ったが、今はすっかり枯れ朽ちてしもうたによって、土中に埋めおいてあった。後にそれを、亀井隠岐守家老亀井一学なる御仁が、掘り出だいて手に入れ、その材を以って柿本人麻呂の神像を彫刻致いたものの御座って、今はこれ、亀井愛之助殿の御屋敷に安置されて御座る由。――