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2015/02/01

耳嚢 巻之九 奇豕の事

 奇豕の事

 

 勢州山田奉行小林筑後守より、自筆にて留守宅へ申越(まうしこし)候由。文化六年豕(ぶた)壹疋、藝州より送り狀相添(あひそへ)、繼送(つぎおく)り來り候旨、右豕參宮致(いたし)候、送り狀、

  一豕 一疋 小判壹兩 小玉銀八ツ 銀札(ぎんさつ)四枚 南鐐(なんりやう)四片

        右四口白木狀箱へ入(いれ)

        柳箱(やないばこ)壹ツ 内錢七十四拾文〔但風呂敷包 外百五十文添(そへ)〕

        紙包少し書付類少々 木札五枚

  右の通(とほり)藝州廣島より參り候由にて

  宿々送り來り候に付繼送申(つぎおくりまう

  し)候。相改(あひあらため)御請取(うけ

  とり)可被下(くださるべく)候。

   巳三月廿九日   鳥羽郡小拶村

               役 人 中

      白髭大夫(しらひげたゆう)樣

  裏に 道中いたわり賴入(たのみいり)候。

  且又惡心(あくしん)の者出合(であひ)

  候はゞ、其所の名主座官中役人中御心添

  (こころぞへ)賴入申上(たのみいりまう

  しあげ)候。以上

右實事の由。犬に伊勢參宮の事毎々(まいまい)聞及(ききおよび)しが、豕の參宮は珍しき事と、爰に記(しるす)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「奇豕」は「きし」と読み、奇なる豚の意。これ、なんかの冗談記事かと思ったら、大真面目な実録記事と知って吃驚した。俄には信じられなかったのだが、平凡社新書に仁科邦男氏の「犬の伊勢参り」という、これまた、まるごと一冊、このとんでもない事実について考証した本が出ているのも知った。興味のあられる方はそちらを参照されるとよいが(私は未読)、ネット上で極一部が読め、その「はじめに」は、まさに驚天動地、『江戸時代、将軍でいえば第十代徳川家治、幕府では田沼意次が実権を握っていたころ、犬が突然、伊勢参りを始めた。人が連れて行くわけではない。犬が単独で歩いて行く。お伽話ではない。実話である』と始まり、その『最初の犬の伊勢参りは明和八年(一七七一年)四月十六日昼ごろ、と日時まで判明している。伊勢神宮は二十年に一度、社殿や神宝を作り替え、御神体の鏡を新しい正殿に遷す。式年遷宮である。明和六年九月に式年遷宮が行われ、その一年八カ月後の出来事だった。それ以来、伊勢参りする犬がしばしば現れるようになった』と述べられているのである。安政年間には『信州北佐久郡の犬が単独で金毘羅参りと伊勢参りをすませ、飼主のもとに帰ってきた話』があるとし、筆者自身もかつてはこの話を半ば信じ難く思っていたところが、『事実は小説より奇なり、だった。いろいろ調べてみると、伊勢参りに向かう犬の目撃談がたくさん残ってい』て、私も電子化を始めた「甲子夜話」の作者平戸藩主松浦静山は、『日光からの帰り道、伊勢参りの犬と道連れになって旅をした』(これは「甲子夜話卷之第八十七」の「日光道之記」(これだけで一巻を成すす「甲子夜話」中の特異点)に出る。現在の埼玉県東部の幸手の手前出の出来事で、赤毛の犬で首に紐に「參宮」と書いた札と多くの銭を附けていて、人に問うと、奥州白川から伊勢参りする犬だと聴いたことを記している)。『滝沢馬琴の息子は千住で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。単独で伊勢参りを終え、無事に戻って来た犬の話もいろいろある』とあって、その後にこの「耳嚢」の、『最初の犬の伊勢参りから三十八年後の』文化六(一八〇九)年に起った「豚の伊勢参り」の記載が載って、『さすがにこれは珍しい』として本文の末尾の根岸の添書をそのまま引き、しかも!『豚の伊勢参宮は、別の目撃談もあり、これも実事であることは疑いはない。そのことは本書の中で触れるとして、ここでは「犬に伊勢参宮の事、毎々聞き及びしが」という記述に注目しておきたい。根岸にとって犬の伊勢参りは、もはや珍談・奇談・怪談に属さず、『耳袋』に書き残すに値しなかったのである』と記す。その後、『日本の犬の単独旅行、最長距離記録も伊勢参りの犬によって樹立されている。幕末の嘉永年間に三年かけて青森・黒石と伊勢神宮を往復した。立派な目撃証言もある』と続いて、『だが、さほど珍しくもなかった犬の伊勢参りは、明治になって間もなく途絶えた。そういう事実があったことさえ人々の記憶から抜け去ってしまった。おそらく最後と思われる犬の伊勢参りは明治七年、東京日本橋・新和泉町の古道具屋渡世、角田嘉七の白犬によって記録されている』とする。その内、この本を読んだところで、また追加して書きたいと思っている。

 なお、指標を何に置くかで著しく異なった結果が出るので簡単に換算は出来ないのであるが、それでもこの豚さまの持ち分として所持していた金額(路用費用で支払金額を配慮して細かく分かれているものと思われる)の価値は気になる。そこでネット上の種々の資料を比較検討し、かなり禁欲的な平均よりもやや低い換算数値で、遊びで以下に試算して見た。なお、「七十四拾文」は誤記ではなく、所謂、現在の「壱弐参肆伍陸漆捌玖拾」と同様、誤読や書き変えを防ぐためのものであろう。

 

○小判1両  → 80,000換算(換算指標を替えると最大400,000円)。

○小玉銀8つ → 銀1匁を1,400円換算×(下記注の平均重量)5匁×856,000

○銀札4枚  → 多く見られる銀10匁の札で同上換算 14,000円×456,000

○南鐐4片  → 寛政南鐐二朱判の銀2.7匁で同上換算 1,400円×2.7×415,120

○740文  → 1文を20円換算×74014,800

○150文  → 同上換算 3,000

            総計額 224,920

 

恐らくは、事実上、これら総て纏めて一気に両替した場合はもっと換金率が良くなり、最低でも三十万以上(換算指標を変えると下手をすれば五十万円を超える)の相当換算額に達するのではないかとも思われる。

・「豕」音「シ」、訓「ゐ(い)」「ゐのこ(いのこ)」、豚類の総称。哺乳綱偶蹄(ウシ)目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus 。以下、本邦でのブタの飼育史をウィキブタより引く(注記号は省略、アラビア数字を漢数字に代えた)。『縄文時代にはシカ・イノシシ主体の狩猟が行われていたが、イノシシ骨では飼養段階の家畜利用を示す家畜化現象の骨が出土していることが指摘され、日本列島における家畜化の可能性も考えられているが、イノシシ飼養はいずれも限定的なもので疑問視する見解も見られる。弥生時代に入ると、大陸から移入されたブタの利用が行われていたと考えられている。大分県の下郡桑苗遺跡において一九八九年に行われた発掘調査によってイノシシ類頭蓋骨3点が確認されたことを一九九一年に西本豊弘が報告し、直良信夫も弥生時代におけるブタ利用を報告している。これを機に出土イノシシ類骨の再検討が行われ、現在では九州地方から関東地方にかけて弥生ブタの存在が確認され、弥生文化との関わりが論じられている』。『縄文時代にはシカ・イノシシ骨の出土割合は同等であったが弥生時代にはイノシシ骨の出土量が急増し、続く古墳時代の遺跡からもブタの骨は出土している。『日本書紀』、『万葉集』(萬葉集)、『古事記』に猪飼、猪甘、猪養などの言葉が見られるが、これらの「猪」はブタの意味であり、ブタが飼われていたことがわかる』。『天武天皇は六七五年に、ウシとウマ、イヌ、ニホンザル、ニワトリの肉食の禁止を定めた。だが、これは正確に言えば、肉食の全面禁止を目的としたのではなく、稲作を促進し安定した税収を確保する観点から出された、稲作に役立つ動物の保護を目的として出されたものであり、禁止期間は、稲作期間である四月から九月に限定されていた。しかも、当時の肉食の中心であったイノシシやシカをはじめとして、この勅令で指定されなかった動物の肉を食べることは一年を通して禁止されておらず、豚肉を食べることは禁止されてはいない。しかし、律令体制の確立の上で、米を税の中心(租)とする観点から、米の神聖さが強調されるようになった。当初は、稲作に役に立つウシやウマの肉を食べることが稲作の妨げになると考えられたが、時代が立つにつれて、ウシやウマに限らず、肉食そのものが稲作に害をもたらす穢れと見なされるようになり、ブタの飼育も途絶えてしまった。イノシシが採れる山間部では猪肉がぼたん鍋と称してわずかに食べられることもあった』。『中世に琉球王国に属した沖縄県や鹿児島県の奄美地方では、古来からブタの飼育や食用が行われており、沖縄料理は「豚に始まり豚に終わる」ともいわれる。一三八五年に渡来したという黒豚のアグー(島豚、シマウヮー)が有名で、現在の沖縄料理では最も重要な食材となっている。十七世紀以前は牛肉も同様の座を占めていたが、羽地朝秀の改革によりウシの食用が禁止され、その後冊封使節団を接待するため王府によりブタの大量生産が奨励されたことなども相まって、牛肉に代わる存在となっていった。しかし、昔は肉食はそれほど容易ではなく、「ハレの日」の料理として扱われていた。第二次世界大戦前の沖縄では、豚肉料理が食べられるのはせいぜい年に数回であり、普段はラードが豚肉の代用としてよく使われていたという。戦後、アメリカ合衆国に統治されると、ポーク・ランチョンミートの缶詰が広く利用されるようになり、現代の沖縄家庭料理に欠かせない素材となった』。『奄美地方を支配した薩摩地方でもブタを飼って食べており、佐藤信淵著『経済要録』(一八二七年)には薩摩藩江戸邸で豚を飼って豚肉を売っていたと記録されている。西郷隆盛も豚肉が大好物であったと伝わっている。江戸幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜は父徳川斉昭が島津斉彬から豚肉を送られていた(一八四五年五月二日(六月六日)の書簡)ためか、豚肉を好んで食べたので豚一様(豚好きの一橋様)と呼ばれた。新選組も西本願寺駐屯時に松本良順のすすめで神戸から子豚を持ち込み養豚していた。解体は木屋町の医者南部精一の弟子に頼んでいた』。『長崎においても、鎖国中の唯一の外交窓口であることから、駐在する中国人の食用として豚が飼育されていた。卓袱料理にも取り入れられて、一部は日本人の食用としても供給され、司馬江漢がこれを食べた記録がある。多くの日本人にとっては忌み嫌われ、中国人の豚好きを揶揄した「楊貴妃は きれいな顔で 豚を食い」という川柳がある』。『明治維新以後肉食は一般化していくこととなるが、普及したのは牛鍋などにみられるように牛が圧倒的であり、豚肉の需要はそれほど伸びなかった。豚の飼育は伸びていくものの、これは東京近郊の農家が肥料を得ることを目的としたものであり、食用ではなかった。しかし、大正元年(一九一二年)にコレラの流行が起きると、警視庁がコレラの流行を食い止めるために魚の生食を制限し、火を通すことが前提である肉食を奨励した。この際、上述のとおり豚が多く飼育されていた東京や関東圏において安価であった豚肉の使用が注目された。これによって、それまで牛肉が主であったカツレツが豚に置き換えられてトンカツが誕生するなど豚肉料理がこの時期に多く誕生し、豚肉の需要が急増して、ブタも日本各地で再び飼われるようになった。特に関東大震災後に関東地方で養豚ブームとなり供給量が増え安価になった。琉球の島豚は一九〇二年にバークシャー種、ハンプシャー種が入り純粋種はなくなったが名護市や奄美大島などで復元されている』とある。……長々引用したのは、私が小さな頃から豚を見るのが大好きな、豚フリークだからである……。

・「山田奉行」ウィキの「山田奉行」より引く。遠国奉行の一つで老中支配。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼・遷宮・門前町の支配・伊勢と志摩における訴訟・鳥羽港の警備及び船舶点検などを担当した。「伊勢奉行」「伊勢町奉行」「伊勢郡代」「伊勢山田奉行」「伊勢山田町奉行」とも称された。定員は一~二名、元禄九(一六九六)年より二名となり、江戸と現地で交代勤務となった。役高は千石で、役料千五百俵を支給された。配下は与力六騎・同心七十人・水主(かこ)四十人。『当初、奉行所は伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)に置かれ、のち伊勢国度会郡小林(現・伊勢市御薗町小林)に移転した』。慶長八(一六〇三)年、『幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。外宮・内宮両大神宮の警固はもちろん、伊勢湾・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の祭主が兼任していたが、「影流始祖愛洲久忠」の父であろう「愛洲伊予守忠行」が武家として初めて大神宮神領奉行職に文明年間任じられた。(神領奉行所は岩出祭主館跡と思われる。) 江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治維新まで一度も途切れず、源頼朝以上の「敬神敬祖」の範を示し神宮式年遷宮を行ってきた』とあり、『一説によると、山田奉行はかつて豊臣秀吉が設けたもので、それを江戸幕府が引き継いで』、慶長五(一六〇〇)年に設置された、という説も記されてある。同ウィキの「山田奉行就任者の一覧」の中に、

 小林正秘 文化三(一八〇六)年四月三日~文化八(一八一一)年三月八日

とあり、次の底本の注と一致する。この名正秘は「まさなみ」と読むと岩波版長谷川氏注にある。

・「小林筑後守」底本鈴木氏注に、『初称弥兵衛。文化三年丙寅四月三日山田奉行、文化八年三月八日西丸御留守居に転役』とある。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「繼送り」宿駅ごとに人馬を替えつつ、貨客を送ること。

・「小玉銀」豆板銀。銀貨の一種。以下、ウィキの「豆板銀」より引く(当時の正式な名称は小玉銀)形状は小粒の銀塊で、重量は不定だが一匁(約三・七五グラム)から十匁(三十七・五グラム)ほどの秤量(しょうりょう/ひょうりょう)銀貨で、〇・一匁ほどの小粒のものも存在し、『露銀(つゆぎん)と呼ばれ、僅かな目方の調整に用いられた』。『表面には「常是」および「寳」に加えて年代を現す文字極印が打たれ、また片面ないし両面に大黒像の極印が丁寧に打たれたものが存在し、恩賞および贈答用とされる』。『それ自体を取引に利用するほか、丁銀に対する小額貨幣として補助的な役割をもつ。例えば、小型の丁銀に豆板銀を加えて重量を』四十三匁(約百六十一・二五グラム)に合わせて、『紙に包んで封印し、まとめて使用する事も行われた。これを包銀という。丁銀は包銀の形で大口取引に使用されることが多く日常生活で使用するには高額過ぎ、裸で使用されることはほとんどなかったが、豆板銀については持ち運び可能な銀秤(ぎんばかり)により随時秤量しての支払いが可能であり、また現金を銭緡(ぜにさし)で持ち歩くよりも携帯に便利で、適宜両替屋で銭に替えて使用するなど、重宝された』。元和六(一六二〇)年頃、『に鋳造された慶長豆板銀に始まり』、安政六(一八五九)年の『安政豆板銀まで常に丁銀と同じ銀品位で鋳造され、江戸時代を通じて発行された』とある。

・「銀札」銀貨を引替対象として発行された紙幣。幕府の統制も緩やかで、諸藩を始として旗本・寺社・組合・私人の発行した例もあるが、主として西国に於いて流通した。最古のものは元和六 (一六二〇) 年頃、大坂商人が江戸堀開削のため発行したものであるが、藩札としての最古のものは寛文元(一六六一)年の福井藩のものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「南鐐」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、一両の八分の一。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は』九十八パーセントと『当時としては極めて高いものであった』。明和九(一七七二)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。

・「狀箱」書状を入れて使いに持たせた木製の箱。文箱(ふばこ)。

・「柳箱」柳の細枝を編んだ箱。また、柳の木を細長く三角に削って寄せ並べ、生糸や紙縒(こよ)りで編んだ蓋附きの箱。主に硯・墨・筆・短冊や冠などを納めた。後世、蓋の足を高くして台として用い、冠・経巻などを載せた。「やないば」とも読む。

・「鳥羽部小拶村」底本鈴木氏注に、『相差(アフサス)か。いま鳥羽市相差。ただし安芸国から出発して伊勢参宮をする場合としては、随分廻り道をしたことになる』とあり、岩波版長谷川氏注も、ここに同定しつつ、『但し山田より東に当る』とやはり不審を記す。現行では「おうさつ」と読む。海女と漁師のまち 相差(おうさつ)町内会」公式ページによれば、相差は古くから海女と漁師の町として栄え、国内で最も海女の多い三重県、その中でも一番多い約百人の海女がいると書かれてある。確かに位置的におかしい気がするが、そもそもが豚が陸路を安芸から来ること自体、私は無理があるように思う。もしかすると、途中で海路を経て、紀伊半島を廻り、この小拶へ送られたものではなかったか? 恐らくそうした考証や、誰が、どうやって、豚の伊勢参宮を実現させたのかが、仁科氏のその「犬の伊勢参り」で明らかにされているのであろう――とここまで書いて「犬の伊勢参り」で検索をかけたところ――どうも私の読みは当たっていた。書籍レビュー・サイト「HONZ」の内藤順氏の『犬の伊勢参り』  色彩を持たない動物たちと、その巡礼の道に、『さらに本書では、犬だけではなく、豚や牛の伊勢参りについても言及されている。しかも豚にいたっては、広島から船で瀬戸内海を抜け、潮岬をまわり熊野灘に出ることによって、伊勢神宮へやってきたというから驚く。豚が伊勢参りをした年は式年遷宮の年。願主は豚に代参させてまでも伊勢参りをしたかったのかもしれない』とあったからである(リンク先は同書の梗概としてもよく書かれている)。ますますこの本、読みたくなった。

・「白鬚大夫」岩波版長谷川氏注に『御師(おし)の名か』とする。ここは伊勢のそれならば「おんし」と読みたい。既注であるが、再度記すと(ここではウィキの「御師」を使用する)、「御師」(おし/おんし)とは、『特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する』。『本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった』。『平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。当初は参詣のつど契約していたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代には農民まで檀那とするようになった』。『鎌倉時代から室町時代初期にかけては、特に有名な伊勢神宮や富士講の御師が活躍したほか、松尾・三嶋・白山・大山の御師も活躍した』。『江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達した。特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。例えば、伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。同様のことは各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続や譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まった。一方で熊野御師は熊野信仰の衰退とともに衰退した』。

『明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退する』。明治二(一八六九)年、『明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。御師側はこうした動きに抗議したものの』、明治四(一八七一)年七月には『御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入された』。『御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して扶桑教を結成するなど、宗教的な活動を維持しようとする動きもあった』。例えば、ここに近いところでは江島神社にも御師(おし)がいて、盛んに活動していた。

・「巳」文化六年は正しく己巳(つちのとみ)。

・「座官」不詳。私は、ちょっと聴いたことがない。実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『庄官』とあり、これなら「しやうくわん(しょうかん)」で」村役人の長・庄屋の意で、腑に落ちる。これで訳した。

・「犬に伊勢參宮の事」底本鈴木氏注に、『譚海巻八、房州の犬伊勢参宮せし事参照』とある。「譚海」は、やはり私が電子化を欲求している津村正恭(淙庵)著になる怪奇譚集(寛政七(一七九五)年自序)である。以下に当該箇所を示す。読みは私が附した。

   *

○寛政二年の秋、安房國ある庄屋の許(もと)に飼(かひ)たる犬、伊勢參宮したきよし、主人の夢に見えけるとて、其犬を參宮にいだし立ける。村送りに人をつけてやりけるに、此犬恙なく參宮して歸(かへり)ける。勢州にて見たる人の物語せしは、他の犬と違(ちがつ)て呼(よび)てものをくはすれば、やがて人家の板敷(いたじき)のうへにのぼり、うづくまり居て物をくひはたし、最早いねといへば、其まゝ飛(とび)おりて行ける。はじめ主人より鳥目三百文犬の頸にかけて出しけるが、路次(ろし)にても鳥目五文三文づつあたふる人有(あり)て、歸路には三貫文にあまりたるほどに成(なり)て、犬のくびにかけてやりがたければ、村返りの者持返りて、やりたる事に成(なり)たりとぞ。

   *

この「三貫文」は三千文で、凡そ現在の一万五千円から二万円弱に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇なる豚の事

 

 伊勢国山田奉行小林筑後守正秘(まさなみ)殿より、自筆にて留守宅へと送られて参ったという文書を以下に紹介する。

 文化六年、豚一疋が、安芸国より送り状を相い添えられた上、継ぎ送り来って御座った旨。この豚、伊勢参宮へと赴かんとするに附き、その送り状の委細、以下の如し。

   ――――――

 

一、豚  疋  小判   両

         小玉銀  つ

         銀札   枚

         南鐐   片

          右口 白木状箱へ入る

         柳箱   つ 内には

          銭  漆百肆拾

           但し 風呂敷包み入り

           外に 百伍拾文相添え

         紙包  少し

         書付類 少々

         木札   枚

 

右の通り、豚、安芸国広島より伊勢参宮のために参りましたによって、宿駅毎に送り来たって参ったれば、それを確かに間違いなく、こちらより継ぎ送り致します。以上、相違なきこと、改められたる上は、間違いなく御(おん)請け取り方、下さいまするよう、お願い申し上げます。

 巳三月廿九日   鳥羽郡小拶(おうさつ)村

             役 人 方

    白髭大夫(しらひげたゆう)様

   ――――――

 なお、裏には以下の書き添えがある。

   ――――――

道中、当(とう)豚(ぶた)儀(ぎ)、その労わり方、これ、重々、お頼み申し上げ奉りまする。且つまた、その途次(とし)に於いて、当豚に危害を加えんとする輩(やから)などと遭遇致しましたる折りには、その所々の名主方・庄屋方、また、御当地のお役人の方々、どうかくれぐれも、十全なるお心添えを、これ、下さいまするよう、心よりお頼み申し上げます。以上。

   ――――――

 さても、これ、実事なる由。

 犬の伊勢参宮と申すは、たびたび耳にして御座れど、豚の伊勢参宮と申すは、これ、まっこと、珍しきことなれば、特にここに記しおくことと致す。

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