耳嚢 巻之十 滑稽才士の事
滑稽才士の事
尾州藩中に横井孫右衞門といへるは、學才ありて俳語などは名人のよし。彼(かの)地にて名高く、也有(やいう)といふて知らぬ者なき由。生涯滑稽の人にて、天明の頃故人となりしが、彼人の作の鍾馗(しようき)の贊(さん)を人の見せしを、爰に記しぬ。
鍾馗贊
豆をうたぬ家もなし、いづこに鬼を尋らん、
素人繪の幟にかゝれて、あやめふく軒にひらめく、
疫神除の板に押れて、ひゐらぎの門を守る、
其劍と摺小木とは、つゐにいまだ鞘を見ず、
右の通書(かき)し。かゝる事夥多(あまた)ありしと、人の語りし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「横井孫右衞門」横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)。既出。「耳嚢 巻之四 老人へ教訓の哥の事」の私の注を参照されたいが、ウィキの「横井也有」によれば、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡長男で、横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称するとあり、二十六歳で家督を継いだ後は『用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる。多芸多才の人物であったという』とある。
・「鍾馗」以下、主にウィキの「鍾馗」より引く(アラビア数字と記号の一部を変えた)。『主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする』。『鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけ』、具体に小鬼を摑み殺す姿で描かれる。『鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している』。ある時、唐の玄宗皇帝(謡曲「皇帝」では玄宗の寵姫楊貴妃とする)が瘧(おこり:マラリア。)に罹患して、床に臥し、高熱に魘(うな)される中、以下のような夢を見た。それは『宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(六一八年~六二六年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた』。『夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』。『この伝説はやがて一般に広まり、十七世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた』。『日本では、江戸時代末(十九世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった』。『京都市内の民家(京町家)など近畿~中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に十~二十センチメートル大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる』とある。也有の没年が天明三(一七八三)年であること、この讃が載る(次注参照)也有の「鶉衣」は大田南畝によって前編が天明七(一七八七)年に刊行されていること、「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年であることなどから、このウィキの叙述に照らすならば、この「讃」は鍾馗がかく厄除け神として大衆にもて囃されるようになって(鍾馗自体の画像は平安鎌倉期の絵図に既に出現している)じきの戯れ歌であったということが分かる。
・「鍾馗贊」也有の「鶉衣」の後編上に「鍾馗畫讚」として所収する。岩波文庫堀切実校注「鶉衣(上)」の「五三」(二五四~二五五頁)に載るものを参考に正字化して再掲(読みなしと底本の読みを参照しながら総てに私が歴史的仮名遣で読みをつけたものの二種)し、そこでの堀切氏の語注を参考に評釈する。
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鍾馗畫讚
豆をうたぬ家もなし いづこに鬼をたづぬらん
素人繪の幟にかゝれて あやめふく軒にひらめく
疫神除の板に押されて ひいらぎの門をまもる
其劍と摺小木とは つゐにいまだ鞘を見ず
鍾馗畫讚(しようきのがさん)
豆(まめ)をうたぬ家(いへ)もなし
いづこに鬼(おに)をたづぬらん
素人繪(しろとゑ)の幟(のぼり)にかゝれて
あやめふく軒(のき)にひらめく
疫神除(やくじんよけ)の板(はん)に押(おさ)れて
ひいらぎの門(もん)を守る
其(その)劍(けん)と摺小木(すりこぎ)とは
つゐにいまだ鞘(さや)を見ず
●「畫讚」堀切氏注に「ゑさん」という読みも提示されてある。
●「豆をうたぬ家もなし/いづこに鬼をたづぬらん」――節分の夕刻にはどの家も豆を打って鬼を打ち払うのだから、鍾馗さまはあのような厳めしい面でどこに鬼を捜し出そうというのであろう? どこにもおらへんがね?――と茶化して、さらに五月五日の端午の節句の鍾馗を描いた幟・軒菖蒲・分身の術の様に無数に貼られる鍾馗の御札(後注参照)・柊鰯(ひいらぎいわし。後注参照)といった鉄壁の厄除け各種をテッテ的に繰り出すことで――ほんにどこにも鬼のおる場はあらへんのにのぅ?――と駄目押しで茶ら化すのである。
●「疫神除の板に押されて」伝承にあるように流行り病い除けに鍾馗が絶大なる効果を持つと考えられたことから、疱瘡除けなどに鍾馗の画像が印刷された御札が飛ぶように売れた。
●「ひいらぎの門をまもる」シソ目モクセイ科
Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ(柊)Osmanthus heterophyllus
var. bibracteatus は古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に好んで使われた(家の庭には鬼門除けに鬼門(北東)には柊を、裏鬼門(南西)には南天の木を植えると良いとされる)が、特に節分の夕刻、柊の小枝と大豆の枝に焼いた鰯の頭を門戸に飾ると悪鬼を払うとされた。
●「鞘を見ず」鍾馗の画像では常に剣は抜き身である(グーグル画像検索「鍾馗」)。擂粉木を出すのは鞘がないことではなく――鬼もおらずば剣でのうても擂粉木でいいがね――といった諧謔を匂わせる。
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■やぶちゃん現代語訳
滑稽の才士の事
尾張藩藩中に横井孫右衛門と申す御仁のあって、学才のあって、特に俳諧に於いては当代の名人と称された。かの尾張の地にては名高き者にして、「也有」(やゆう)という俳号では、これ、知らぬ者とてなき由。生涯滑稽の御仁にて、天明の頃、故人となられたが、この人の作れる「鍾馗(しょうき)の讃(さん)」を人の見せ呉れたを、ここに記しおくことと致す。
鍾馗が讃
豆をうたぬ家もなし、いづこに鬼を尋ぬらん、
素人絵の幟りにかゝれて、あやめふく軒にひらめく、
疫神除けの板に押されて、ひいらぎの門を守る、
其の剣と摺小木とは、つゐにいまだ鞘を見ず、
右の通り、書かれて御座った。かかる戯文、数多(あまた)御座る由、人の語って御座った。
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