耳囊 卷之十 狐祟りの事
狐祟りの事
文化七年夏秋のころ、日本橋左内町(さないちやう)に一奇事ある由。人の語りしは、右町に最(も)なか饅頭を商ふ菓子屋有(あり)しが、娘はいまだ十二三歲にて外より聟(むこ)を取(とり)、いまだ取合(とりあひ)はいたさざりし由。しかるに彼(かの)聟も甚(はなはだ)實體(じつてい)にて、一間にひとり寢させしが、夜更候へば其一間において咄合(はなしあひ)候聲聞へしを、追々聞付(ききつけ)候ものも有之(これあり)。右寢床へ立入(たちいり)しものもなく、母も疑ひて彼(かの)聟に尋(たづね)しに、一向不覺(おぼえざる)由を答ふ。然るに彼(かの)聟に狐付(つき)ていへるは、我等は實は女狐(めぎつね)にて、此息子とちなむべき緣ありて來りしなり、隨分可立退(たちのくべき)なれども、吾(われ)懷妊なせし間、子をうみ候はゞ早速はなれ去(さる)べし、其子を何卒そだて可給(たまふべし)、我等影身(かげみ)に隨ひて養育なすべき間、强(しい)て世話も有(ある)まじ、不承知にては、我も(いき)て居(を)る事ならざれば、息子も命なかるべし、偏(ひとへ)に賴む由口ばしりければ、人々も不思議の事に思ひしに、彼(かの)母一人、何條(なんでふ)狐の子を育(いく)せんいはれなし、外聞(がいぶん)あしき間、たとひ如何樣(いかさま)の事あるとも難
成(なりがたき)由、烈しく斷(ことわり)し。其後聟母とも煩ひ出し、母はまつさきに身まかりし由。跡は如何(いかが)なりしやと、彼家の向ふの藥屋、我(わが)しれる醫の元に來りかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。怪異譚。この話、何か妙にべたつく怪談である。単純な入り聟で未だ娘との性交渉がないという点がポイントである。この聟なる男に別に愛人のあって、家を出るための狂言としては如何にも狐の話の中身が込み入り過ぎている。問題はこの「母一人」が、この奇妙な憑依した狐の子を養育することを頑なに拒絶し(そもそもその狐の子なるものが人間の形をしているのか、はたまた狐の姿なのか、そもそもが見えるのか見えないのかさえ定かでない。同一の伝承では多分見え、人型ではある)、次第に聟だけでなく、この母も精神状態がおかしくなり、聟よりも重篤で、いち早く狂い死にしたというのが、怪しい。この実直実体(じってい)な聟は、実はこの母親に誘惑されたのではなかったか? 母親は父親は勿論、娘の目をも巧みに盗んで、この義理の息子と肉体関係を持っていたのではあるまいか? 実体なればこそ娘には勿論、恩義ある義理の父に対しても申し訳が立たないが、この事実が表沙汰になれば、悪くすれば父の身代も危うい。されば精神に変調をきたし、かく狐憑きを無意識的に演じたのではあるまいか? 所謂、聟の詐術ではなく、無意識的詐欺としての擬憑依現象という解釈である。そうした精神疾患(統合失調症の比較的重い状態か)であったとするなら、私は母親の死後もこの聟の病態は必ずしも好転しなかったものと思う。これこそが、私がこの話に感じる粘つきの核心にあるような気がする。終わり方も不満が残る。
・「文化七年夏秋」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月。
・「日本橋左内町」佐内町。中央区日本橋一丁目及び二丁目(旧江戸橋)。
・「取合」実際の夫婦としての肉体関係を指す語。皓星社の「隠語大辞典」に『交合。「淫書開交記」に「互に酒氣滿つるに乘じすでに交合(とりあひ)初めけるに」とあり。又「鎌倉花いくさ」に「唐紙のすき間より覗き見ればコハ如何に春義公と侍女朝顏今交合の最中なれば」とあり』とある(漢字を恣意的に正字化した)。
・「息子」これは狐の息子ともとれるし(その場合、妖狐は妊娠しているこの性別を出産以前に知り得る能力があることになる)、義母から見た娘の婿=義理の息子の謂いともとれる。後文で「母は」婿に先だって「まつさきに身まかりし」といった表現が現われるので、一応、後者で訳しておいた。
■やぶちゃん現代語訳
狐の祟(たた)りの事
文化七年夏秋の頃、日本橋左内町(さないちょう)に一奇事のあった由。さる御仁の語ったことによれば……
……この町に最中・饅頭を商(あきの)う菓子屋が御座ったが、娘は未だ十二、三歳にて外(そと)より婿(むこ)を取ったもので、娘はこれ、まだ年若なれば、いまだ正式の夫婦には、これ、なっておらなんだと申す。
この婿もはなはだ実体(じってい)なる人物にて御座って、店(たな)の一間(ま)に独り寝をさせて御座ったと申す。
しかるに、夜の更けて御座ると、これ、その婿の一間より、何やらん、人が二人して話し合(お)うておるような声が聴こえ、また、店(たな)内の使用人らも、これ、だんだんに、このことを聴きつける者も、出て参るようになって御座った。
しかし、かの婿の寝所(ねどころ)へ立ち入った者は、これ一人としてなく、かの娘の母も、ひどく疑い、かの婿を呼びつけて質してみたものの、婿はと申さば、
「――いえ! そのようなことは、これ、一向に存じませぬ。」
と答え、その様子に不審なところは全く以って御座らなんだと申す。
ところが、それからすぐのことで御座った。
かの婿に――狐が――憑いた。……
そうして如何にも女のようなる声を出だいて、憑依したそれが語り出したので御座る。……
「……我等ハ實ハ女狐(メギツネ)ニテ……コノ息子ト……深ク因(チナ)ミアル縁(エニシ)ノアリテ……来タッタ者ジャ――必ズヤコノ男(オノコ)ノ身ヨリ立チ退(ノ)カントセント思ウテ居レドモ……吾レ……今……コノ男(オノコ)ノ子(コォ)ヲ懐妊成シテオルニヨッテ……子ヲ産ミ終エテ御座ッタナラバ……コレ……早速ニ男(オノコ)ガ身ヨリ離レ去ラントゾ思ウ――サレド……ソノ我等ノ産ンダル子(コォ)ヲバ……何卒……育テ給エカシ――我等……影身(カゲミ)トナッテ……ソノ子(コォ)ニ陰日向(カゲヒナタ)ノゥ随イテ養育ナサントスルニ依ッテ……強イテソチラノ……オ掛ケニナラネバナラヌ世話モ……コレ……大シテ有ロウトモ思ワレヌニヨッテ――サレド……コノコト……不承知トナラバ……我モ生キテ居(オ)ル事ナラザレバ……ココニ我等ノ恋慕(シト)ウテ御座ル……コノ……ソナタラノ義理ノ息子ガ命モ……結果……ナキモノトナルト思ワルルガヨイ!――ドウカ……偏エニ我等ガ子(コォ)ノ養育……コレ……頼ミ申ス――」
といった驚天動地のことを口走ったによって、父母娘は勿論、お店(たな)の人々も皆、不思議なことと思うて茫然と致すばかりで御座ったと申す。
その中でしかし、かの娘の母一人が口火を切って狐に返答致いた。
「……何条(なんじょう)、我ら! 狐の子を育(はぐく)まねばならぬ謂われ、これ、あろうはずもないッ!……何ともまがまがしくも外聞の悪しきことよッ!……たとい、如何なることのあろうとも、そのような理不尽なる儀は、これ、成り難きことじゃッツ!!」
と、彼女の方が寧ろ、狐の如く、両目を引き攣らせ、激しく女狐に断ったと、申す。
ところが、その直後より、かの婿は勿論のこと、かの母ともにひどく患いだし、母なる者は、それより幾許(いくばく)ものぅ、身罷ったと、申す。……
「……さても……それより後は――婿は――狐の子と申す妖しき者は――はたまた、かの若き娘は――一体これ、どうなって御座ったか?……それはそれ……また後日(ごにち)のお話と致そうず……」
とは、その菓子屋が家の向いに店(たな)を開く薬屋が、我が主治医の許に来たって語って御座ったとのことで御座る。