柳田國男「蝸牛考」電子化始動
カテゴリ「柳田國男」を創始し、まず、柳田國男の代表的著作「蝸牛考」の電子化を始動する。
高校時代に「遠野物語」に感銘したものの、他の著作は読んでいなかった私は大学一年の春、坪井洋文先生の「民俗学」の講義で「蝸牛考」と方言周圏論を知り、貪るように読んだ思い出の論考である。
底本は国立国会図書館蔵の刀江(とうこう)書院昭和五(一九三〇)年七月十日刊の初版を同「近代デジタルラブラリー」のそれで視認して起こした。踊り字「〱」「〲」は正字化、「〻」は「ゞ」に代えた。一部、読解に難のある箇所や地誌的に理解し難いと私が判断した地名(私は社会科選択を地理でし、高校三年間、世界地誌までみっちりやった稀有の人間であるので、一般人よりは地理認識の程度が有意に高いと思うが、私が疑問なく位置想起出来る地名には注を全く附していないので悪しからず)等については注を原則、当該部分を含む段落末に注した。その関係上、読み易さを考えて各段落の間は一行空けた。但し、注が著しく離れる場合などは本文中や例示の直後に行を開けずに挿入してある。柳田自身による改訂版(昭和一八(一九四三)年創元社版)と比較した部分があるが、対照に用いたのは、ちくま文庫版「柳田國男全集19」(新字体現代仮名遣)で、引用の際には底本の初版の漢字その他の表記を尊重優先し、概ね、恣意的に正字化して歴史的仮名遣に直してある。割注(文中に丸括弧表記で挿入されてある)は底本では、ややポイント落ちで右寄りであるが、本文と同ポイントとした。底本は童謡の前の改行箇所の末尾などに読点の脱落が甚だしいが、いちいち指示していると面倒なので、これについては改訂版と校合して、本文に読点を追加してある。
柳 田 國 男 著 (言語誌叢刊)
蝸 牛 考 [やぶちゃん注:(柳田國男落款)]
刀 江 書 院
小 序
前年東條氏の試みられた靜岡縣各村の方言調べ、又は近頃岡山縣に於て、島村知章君、佐藤淸明君等の集めて居られる霸植物名彙などを見ると、言葉が相隣する村と村との間にも、なお著しい異同を示す例が、日本では決して珍らしくないといふことがわかる。府縣を一つの採集區域とした方言集が、よほど氣を付けぬと正確を保ち得ないのは勿論、親切なる各郡々誌の記述でさへも、果してよく隅々の變化までを代表して居るかどうか。時としては稍心もと無い場合がある。我邦が世界の何れの部分にも越えて、殊に言語の調査を綿密にする必要があり、又その大いなる價値があると思ふ理由は、獨り人口の夙に溢れたゞよひ、土著の順序が甚だしく入り組んで居るといふだけでは無い。海には何百という小島が、古い新らしい色々の村を形づくり、一方にはまた小國五箇山中津川といふ類の奧在所が、嶺に取圍まれて幾つと無く、異なる里人を定住せしめて居るのである。岬の端々に孤立する多くの部落などは、今まで何人も心付かなかつたけれども、實際はこの島と山里と、二つの生活の特質を兼ね備へて居るのであつた。さういふ土地の方言報告は、遲れて到達するにきまつて居る。故に若し國語の調査を周到ならしめんとすれば、進んで我々の方から指定しなければならぬ區域が、實は日本には非常に多かつたのである。
それが少なくとも今日までは、まだ一つとして指定せられたものが無い。方言採錄の事業は既に過去四十年に亙り、その編述も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ有用なるものが餘りに豐富なる爲であつた。私は自身數年の實際よつて、誰よりも痛切にこの不備を認めて居る。從つて言語誌叢刊の將來の收獲に向つて、最も大いなる期待を繫けて居る。それがこの現在のような乏しい智識を基にして、歸納の方法を試みようとすることは、或は自己の危險を省みざる所業あらう。し併し新たなる次の發見の爲に、覆へるかも知れぬのは粗忽なる私の假定だけであつて、私が處理し整頓しておいた事實のばかりは、たとへ追々に其重みを加へぬまでも、兎に角にそれ自身の意義を失ふことはないと信ずる。此方法は今後の資料の累積と比例して、歩一歩完成の域に進むべき希望あるものであるが、假に不幸にして尚當分の間、日本の採集事業が今の狀態に放置されることになろらうとも、少なくとも各地に散在する同志の人々を、糾合し又慰留するの效果だけはある。我々はいわゆる方言の理論、方言が國語の眞實を開明する爲に、如何に大切であるかを既に聽き知つて居る。それが一二の進んだ國に於て、最近どれ程の成績を擧げたかといふことも、賴めば講説してくれる人が必ず有るであらう。獨り欠けて居るかと思ふのは學問の興味、斯ういふ切れ切れの小さな事實を集めて行くことが、末にはどういう風に世の中の智慧となるか。それを眼の前の生活に就いて例示することであつた。是にも方式があり又準備が無けれはならぬが、私には徒然草の説教僧のやうに、乘馬の稽古の爲に費すべき若い日が無いので、其支度の調ふのを待ちきれずに、忍んでこの未熟の初物を摘み來つて、やがて大きな御馳走の出るまでの、話の種にしようとするのである。我々俗衆の學問に對する手前勝手な要求は、第一には之に由つて伯樂を得、又安息を得んとすることである。それには萬人の幼なき日の友であり、氣輕で物靜かで又澤山の歌を知つて居るデデムシなどが、ちやうど似合はしい題目では無かつたかと思ふ。
[やぶちゃん注:「方言採錄の事業はすでに過去四十年に亙り、その編述も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ有用なるものが餘りに豐富なる爲であつた」の部分は改訂版では、『方言採錄の事業は既に過去四十年に亙り、その編集も亦數百の多きを見たけれども、尚我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ未知の事實が餘りに豐富なる爲であつた』となっている。]
我々は田舍の生活に遠ざかつて居る爲に、既に久しい間この蟲が角を立てゝ、遊んであるく樣子を見たことが無い。其進歩の痕の幽かなる銀色をしたものが、眼に付くことも段々に稀である。都府の庭園が日照り耀いて、餘りに潤ひの足らぬといふことも、蝸牛の靜かなる逍遙を妨げて居るか知らぬが、一つには我々の心があはたゞしく、常に物影の動きを省みようとしなかつた故に、是も多くの過ぎ行くものと同じく、知らぬ間に無くてもよいものになつてしまつたのである。我々はこの小さな自然の存在の爲、もう一度以前の注意と愛情とを蘇らせ、之に由つて新たなる繁榮を現實にしてみたいと思ふ。所謂蝸牛角上の爭鬪は、物知らぬ人たちの外部の空想であつた。彼等の角の先にあるものは眼であつた。角を出さなければ前途を見ることも出來ず、從つて亦進み榮えることが出來なかつたのである。昔我々が角出よ出よと囃して居たのは、即ちその祈念であり又待望でもあつた。角は出すべきものである。さうして學問が又是とよく似て居る。
かたつむりやゝ其殼を立ち出でよあたらつのつのめづる子のため
昭和五年六月初六 柳 田 國 男
[やぶちゃん注:ここに底本では目次が入るが、ブログ版では省略する。]

