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2015/02/28

耳嚢 巻之十 狐蟇目を恐るゝ事

 狐蟇目を恐るゝ事

 

 去る婦女に狐付(つき)し故、種々かぢ祈禱なせ共(ども)不落(おちず)。其親族に弓術の師範せし本間某へ蟇目(ひきめ)の儀賴みける故、しからば例の通(とほり)潔齋(けつさい)をもせざれば難成(なしがたし)、用事くり合(あひ)、來る幾日頃に執行可成(なすべし)と及挨拶(あいさつにおよび)、其日は立歸(たちかへ)りけるが、其夜の夢に彼(かの)狐付(つき)の親なる者來りて、我等は實は狐なり、御身引目(ひきめ)し給ふ事兩三日待(まち)て給はるべし、我等右婦人に恨(うらみ)あるにもあらず、家内に遺恨等もなし、我等事は遠國(ゑんごく)の者にて、無據(よんどころなき)願(ねがひ)ありて御當地へ千辛萬苦(せんしんばんく)をなして出けるが、右願ひも兩三日の内にて叶ひ候べし、今蟇目にかけられては、我身をもあやまち、つき候息女の命も危し、何卒願(ねがひ)の通(とほり)まちたまへといひしが、何れ夢の儀信用も難成(なしがたし)、何共(なんとも)合點ゆかざる事故、有無の答(こたへ)もせずありしに、又あくる夜も右狐付し女來りて、くれぐれも右願ひ聞屆(ききとどけ)たまはるべし、此御禮には此家大難等あらば、天災まぬがれざる事は是非なけれども、兩三日前には其しるしをしらせ可申(まうすべし)、且(かつ)御息女の緣談、明日頃可申來(まうしきたるべし)、是は先方をも御心に不足有(ある)べけれども、曲(まげ)て取組(とりくみ)しかるべし、行末(ゆくすゑ)目出度(めでたく)さかへたまふべし、といひける故、左程(さほど)に申(まうす)事ならば、兩三日の事ならば延(のば)し可遣(つかはすべし)と答ふるを見て、夢覺(さめ)ぬ。不思議なる事もあるものと母へかたりければ、母は大(おほき)に信仰して、ひらに延(のべ)よといゝける故、先方へも潔齋の事に付、少々差合(さしあはせ)あれば、幾日の蟇目は延(のば)し候由、しかし蟇目せずとも無程(ほどなく)落可申(おちまうすべし)と申遣(まうしつかは)しけるに、不思議成哉(なるかな)、翌日多喜(たき)氏といへる御醫師の方(かた)より、緣談の儀申來(まうしきた)り、兩三日過(すぎ)て彼(かの)狐付のもとよりも、狐落(おち)て本心に立歸(たちかへり)しと、厚く禮を申來りし由。彼本間なる親族の物語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「蟇目」既出(「耳嚢 巻之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び「耳嚢 巻之九 剛勇伏狐祟事」といった本話の類型話をも参照されたい)であるが再注しておく。朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。

・「多喜氏」底本の鈴木氏注に、『文政六年武鑑は寄合御医師の中に多紀安元法眼がある。文化六年武鑑には同じく寄合に多紀安長法眼がある』とするから、岩波版長谷川氏も注されるように、『幕府抱えの医師多紀氏関係の者』と思われる。ウィキの「多喜氏」には、『渡来系氏族であり、多紀氏はいろいろな系統がある。ひとつは丹波康頼を始めとする丹波氏に行きつく家柄。もうひとつは豊後国の豪族大蔵氏の庶家で』、『江戸時代には、江戸幕府に代々仕え、徳川将軍家の奥医師として初代徳川家康から』最後の将軍第十五代『徳川慶喜まで将軍家に近習した。僧位を持ち、法眼、法印の位を授けられた。菩提寺は東京都北区上中里にある城官寺で、多紀一族の墓がある』。『江戸時代の末期には、江戸幕府の医学校である医学館総裁をつとめた。主に、内科を担当し、幕末に西洋医学が輸入されると外科の桂川氏とともに両雄と称されることがあるが、桂川氏は江戸時代後期に将軍家の奥医師になったのに対して、多紀氏は江戸幕府が開かれた時からの将軍家奥医師であり、多紀氏のほうが内科を担当しており家柄としても格上であり、位も上であった』とある。このように江戸時代の医師は僧侶と階層的には同一視され、正統な武家階級から見れば、格下の認識は強かった。さればこその狐の謂いとは言えよう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が蟇目(ひきめ)を恐るるという事

 

 さる婦女に狐の憑いて御座った。

 種々の加持祈禱なんどをなせども、この狐、いっかな、落ちぬ。

 されば、その親族に、弓術の師範をなせる本間某(ぼう)殿の御座ったによって、蟇目(ひきめ)の儀を懇ろに頼んで御座った。

 本間殿は、

「――しからば例の通り、精進潔斎をも致さざれば、蟇目の儀は、これ、成し難く御座れば、我らが用事をもやりくり致いて、そうさ、来たる〇〇日頃に執り行(おこの)うことと致しましょうぞ。」

と受諾致いて、その依頼を受けた日は立ち帰ったと申す。

 ところが、その夜の夢に、かの狐憑きの親なる者が現われ、

「……我ラハ実ハ狐ニテ御座ル……御身……蟇目ヲシ給ウコト……コレ……三日ホドオ待チ給ハリトウ存ズル……我ラ……カノ婦人ニ……コレ……恨ミアルニモアラズ……又……カノ家内ニ遺恨ナンドモ御座ラヌ……我ラコト……遙カ遠国ノ者ニシテ……ヨンドコロナキ願イノアッテ……御当地ヘト千辛萬苦ナシテ……ヨウヨウ参ッタル者……ソウシテ……ソノ願イモ……コノ三日ノ内ニハ叶イマスルニヨッテ……今……蟇目ニカケラレテハ……我身ヲモ命ヲ落トシ……ヒイテハ憑イテ御座ルカノ息女ノ命モ……コレ……危キモノトナリ申ス……サレバコソ何卒……願イノ通リ……ドウカ……オ待チ下サリマスルヨウ……」

と言うたが、

「……所詮、夢中の儀なれば、これ、信用もなし難い!……そもそもが、その謂い、これ、なんとも訳も分からず、合点もゆかざるものじゃ!」

と応じて、有無の答えもせず、そのまま目(めぇ)が醒めた。

 ところが、これまた、そのあくる夜も、今度は、かの狐の憑いた娘が夢に出て参り、

「……クレグレモ……先夜ノ願イ……コレ……オ聞キ届ケ下サイマシ……コノ御礼ニハ……ソウサ……コチラノ家ニテ何カ大難等ノアラバ……天災免レザル事ハ仕方ノナキコトナレドモ……変事ノ起ランズル三日前ニハ……ソノ事ニツキ必ズヤ……ソノ兆シ……コレ……オ知ラセ致ス御シルシ……コレ……オ伝エ申シマスレバコソ……サテモ……マズ近キ事ニテハ……ソウサ……御息女ノ縁談……コレ……明日頃……オ話ノ必ズ参リマスルガ……コレハ先方ニ就キテハ……アナタ様ノ御心ニ少々不足ノアラルル御方ニテハ御座イマスル……ガ……コレハ一ツ曲ゲテ縁組ナサルルガ宜シュウ御座ル……行ク末エ……コレ目出度ク……オ栄エナサルコト……確カニ請ケガッテ御座イマスル……」

などと、驚くべき予知なんどまで申したによって、

「……さほどに申すとあらば……よし。三日ほどのことならば、これ、蟇目の儀、延引して遣わそうぞ。……」

と答えた――と見て――夢の醒めた。

「……全く以って……不思議なこともあるものじゃ。」

と、取り敢えず、母者人(ははじゃびと)へ二夜(ふたよ)の夢に就きて語ったところが、母者人は、この夢告を大きに信じ、

「そ、それは! 必ず! ひらに! 延びて遣わさっしゃれ!」

と訴えたによって、本間も夢の内にて、約束も交わしたることなれば、かの蟇目を頼まれた親族が方へも、

「……潔斎の事につき、少々、日取りやら方角やら……ともかくも、これ、差し障りのあれば……〇〇日の蟇目の儀、これ、暫くの間、延引致すことと致いて御座る。……されど先般、娘子を拝見致いた折りの、我らが見立てにては……これ、恐らくは蟇目、致さずとも、ほどのぅ狐は、これ、落ち申すように、我ら、拝察致いて御座った。……いや、無論、 万一、落ちざるとならば、必ずや蟇目は致しますれば、ご安心の程。」

と申し遣わしておいた。

 ところが、不思議なるかな!

 まず、その翌日のこと、幕医として知られた、かの多喜(たき)氏と申す御医者方(がた)の一人より、

「――本間殿の娘子、これ、是非とも多喜家の嫁として、これ、迎えとう存ずる。――」

と申す縁談の儀、これ、申し来って御座った。

 しかも、それより三日過ぎて、今度は、かの狐憑きの親許より、

「――仰せの通り! 娘の狐、これ、落ちて、すっかり正気に戻って御座いまする!」

との報知とともに、厚き礼の品々、これ、贈られて参ったと申す。……

 これは、かの本間殿の御親族が直接に物語って呉れた話にて御座る。

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