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2015/02/04

世尊寺に死人掘出事(世尊寺に死人掘り出だす事)――「宇治拾遺物語」第八十四話 附やぶちゃん注・現代語訳――

世尊寺に死人掘出事(世尊寺に死人掘り出だす事)――「宇治拾遺物語」第八十四話 附やぶちゃん注・現代語訳――

 

[やぶちゃん注:先に電子化訳注した「今昔物語集」巻第第二十七「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」(桃薗(ももぞの)の柱の穴より兒(ちご)の手を指し出だして人を招く語(こと)第三(さむ))の連関資料として電子化訳注する。

 底本は渡辺綱也校訂岩波文庫版「宇治拾遺物語 上巻」(一九五一年刊)を用いたが、読みは諸本を校合して私が必要と判断した箇所に歴史的仮名遣で附した。後に注と現代語訳を附した。「骨髮(ほねかみ)」は私の推測である。注では大島建彦校注新潮日本古典集成版「宇治拾遺物語」の注を一部参考にした。]

 

 世尊寺に死人(しにん)掘り出だす事

 

今は昔、世尊寺といふ所はもゝぞのゝ大納言住給(すみたまひ)けるが大將になる宣旨かうぶりに給(たまひ)にければ、大饗(だいきやう)はあるじのれうに修理(しゆり)し、まづはいはひし給(たまひ)し程に、あさてとて俄(にはか)に失せ給(たまひ)ぬ。つかはれ人(びと)みな出でちりて、北方(きたのかた)、若君ばかりなん、すごくてすみ給(たまひ)ける。其(その)わか君は、とのもりのかみちかみつといひしなり。此(この)家を一條攝政殿とり給(たまひ)て、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。ひつじさるのすみに塚のありける、築地(ついぢ)をつき出(いだ)して、そのすみは、したうづがたにぞありける。殿 「そこに堂を建てん、この塚をとりすてゝ、そのうへに堂たてん」とさだめられぬれば、人人も「つかのために、いみじう功德(くどく)になりぬべきことなり」と申(まうし)ければ、塚をほり崩すに、中に石の辛櫃あり。あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしくて、くちびるのいろなど露かはらで、えもいはずうつくしげなる、ねいりたるやうにて臥(ふし)たり。いみじうゝつくしき衣の、金(こがね)のつき、うるはしくてすへたりけり。いりたる物、なにもかうばしきことたぐひなし。あさましがりて、人々たちこみてみる程に、いぬいの方より風ふきければ、色々なるちりになんなりてうせにけり。かねのつきより外の物露とどまらず。「いみじきむかしの人也共(なりとも)、骨髮(ほねかみ)の散るべきにあらず、かく風の吹(ふく)に、ちりになりてふきちらされぬるは、けうの物なり」といひて、その比(ころ)人あさましがりける。攝政殿いくばくもなくてうせ給(たまひ)にければ 「此(この)祟りにや」と人うたがひけり。

 

□やぶちゃん注

・「世尊寺」「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」の私の注を参照。

・「もゝぞの」桃園。「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」の私の注を参照。

・「大納言」藤原師氏(もろうじ 延喜一三(九一三)年~天禄元(九七〇)年)。関白藤原忠平四男。邸宅名の桃園殿に因んで桃園大納言或いは枇杷大納言と称された。ウィキの「藤原師氏」によれば、延長六(九二八)年一月、十六歳で叙爵、翌年に侍従に任じられ、後、蔵人頭となり、天慶七(九四四)年三十二で参議として公卿に列した。しかし、翌天慶八年に弟師尹が二十六歳で同じく参議に任ぜられた上、天暦二(九四八)年に『弟師尹が師氏に先んじて権中納言に任官され、以降は常に師氏の方が官職が下位となった。更に、師氏が中納言の任にあった』康保四(九六七)年になると、本話の主人公である甥の伊尹(父は師氏の兄師輔)が『先んじて権大納言に任官されたことによって、甥よりも官職が下位』となり、『結局、兄実頼・師輔、弟師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。醍醐天皇の皇女、靖子内親王を降嫁された』ものの、『昇進にはつながらず、師氏は官位昇進については不遇であったことが窺える』。また、本話では近衛大将任官の饗宴の二日前に没したとあるが、「公卿補任」等の史料には、近衛大将任官の記載はない、とあって現在知られる事蹟とは齟齬がある。「空也誄」(くうやがるい)に空也と二世の契りがあったことや、同書や「古事談」などによれば、『師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えて』ある。また「蜻蛉日記」には『師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す』ともある。『和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集に』十一首は入集されており、また、『自身で編んだ私家集『海人手古良(あまのてこら)集(師氏集)』がある』とする。

・「大將」近衛大将。但し、事蹟にはない。前注及び次の注も参照のこと。

・「かうぶり」位階。なお、近衛大将は従三位で、師氏は天暦九(九五五)年に従三位に叙されて権中納言・右衛門督如元であるから、近衛大将叙任は位階上の問題はない。康保元(九六四)年には中納言左衛門督如元で正三位(これが最終位階)となり、その後、春宮大夫や按察使を兼任したまま、安和二(九六九)年には権大納言に任せられてはいる。

・「大饗」任官祝賀の饗宴。

・「あるじ」「あるじまうけ」自らがホストとなって客をもてなすこと。

・「れうに」「料に」で形容詞。ために。

・「修理」桃園邸を補修したことを指すか。

・「あさて」明後日。任官記念の饗応の宴の二日前。

・「つかはれ人」使用人。

・「すごくて」如何にももの寂しい感じで。

・「わか君は、とのもりのかみちかみつといひし」先のウィキの「藤原師氏」によれば親賢・保信・近信という子がいることが分かり、新潮日本古典集成注に、「とのもりのかみ」は『主殿寮の長官。主殿寮は、天皇の輿輦(よれん)』(乗り物)・『湯沐(とうもく)』(湯浴み)・『宮中の掃除・燈燭などをつかさどった』とあり、さらにこの人物を師氏の子の『近信か。近信は師氏の子。主殿頭、従四位上』と注する。しかし「賢」も「信」も一般には「みつ」とは読まない。ただ、父亡き後に独り母親と残っていたとすると、事情は不分明乍ら、末子の近信という説は肯んじられる。

・「一條攝政殿とり給て」「一條攝政殿」は藤原伊尹(これただ/これまさ 延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年)。師氏の長兄師輔の嫡男で師氏の甥。ウィキの「藤原伊尹」によれば、『妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた』ものの、『その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の』かの道長の父である兼家の家系に移ったとある。『父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を主導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる』。天慶四(九四一)年に従五位下に叙された後、『村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した』が、天徳四(九六〇)年に父が急死し、この時、『伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将で、弟の兼通・兼家もそれぞれ従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は衰退の危機を迎えた。しかし憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目では参議に進み』、康保四(九六七)年には従三位となって、次いで上臈四名を『飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功、村上天皇との関係を強化した』。『同年、村上天皇が崩じて安子所生の憲平親王が即位(冷泉天皇)。伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。その一方で伊尹は天皇の外伯父として権大納言に任じられ』、翌安和元(九六八)年には正三位に昇った。『伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている』。しかし、『冷泉天皇には狂気の病があったため長い在位は望めず、東宮にはとりあえず同母弟の為平親王か守平親王が立てられることになった。そして選ばれたのは年少の守平親王だったが、これは為平親王の妃が左大臣源高明の女子であり、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった』。翌安和二年、源満仲の誣告により高明は謀反の咎で突如、失脚、大宰府へ左遷されてしまう(安和の変)。『この陰謀の首謀者は諸説あるが伊尹が仕組んだという説もある。同年冷泉天皇は守平親王に譲位(円融天皇)。東宮には冷泉天皇の皇子で伊尹の外孫である師貞親王が立てられた』。天禄元(九七〇)年に右大臣を拝し、『同年摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去すると、天皇の外伯父である伊尹は藤氏長者となり摂政に任』ぜられた。翌天禄二年に太政大臣、正二位へと進んで、『ここに伊尹は名実ともに朝廷の第一人者となった』ものの、翌天禄三年、病いに倒れ、ほどなく死去した。『伊尹の後任の関白には兼家が有力だったが、中宮安子の遺言によってその兄の兼通が任じられ』、永観二(九八四)年に『円融天皇が譲位して師貞親王が即位した(花山天皇)。外伯父となった伊尹の子の中納言義懐が朝政を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって出家させられ一条天皇に譲位、外祖父の兼家が摂政となった(寛和の変)。絶望した義懐は出家遁世、これ以後の伊尹の系統は振るわなくなってしまった』とある。「人物」の項、『性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせた』。『父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹は』これを守らなかった。和歌に優れ、天暦五(九五一)年に『梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられて』、

後撰和歌集」の編纂に関与、「後撰和歌集」(二首)以下の勅撰和歌集に計三十八首が入首する。家集に「一条摂政御集」があり、「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で記した通り、この桃園殿を世尊寺とした、書家として名高い孫の藤原行成がいる。同「逸話」の項には、「大鏡』」に、『伊尹の若死についての以下の逸話がある』とし、『伊尹の父師輔は自らの葬送について、極めて簡略にするように遺言していたにもかかわらず、伊尹は通例通りの儀式を行った。師輔の遺言に背いたために伊尹は早逝したとの噂があったとされる』とあるから、彼は世間的な噂では本話のような事件がなくとも、祟りめいた風評はあったことが分かる。また、『伊尹が若年の頃の除目で藤原朝成とともに蔵人頭の候補になった。朝成は伊尹がまだ若く、家柄もよいのだから、これからも機会はあろうが、自分はこれが最後の機会だから譲ってくれと頼み込んだ。伊尹はこれを承知するが、結局、蔵人頭には伊尹がなった。朝成は生霊となって祟りをなし、摂政になって程ない伊尹を殺し、その子たちにも祟りをなしたという。なお、記録上両者が官職を競合したとする証拠は無く、伊尹は朝成よりも先に亡くなっている』ともあって、この男――祟られ易い男――という噂の持ち主であったらしい。さて問題はこの「とり給て」の部分で、この邸宅を取り上げた、奪って私有化したということを指しているとしか読めない。北の方と遺子がいるにも拘らず、という箇所が既にして気になるわけで、ここは「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で引いた山分美奈氏の「桃薗における怪異譚をめぐって」には、伊尹が甥のそれを横領したらしいと記してあり、これについて、『伊尹は代明親王の娘と結婚していることや、高明は師輔の娘と結婚していたことなど』から、彼が『その皇族とに強い親族関係を盾に、まだ若い甥(近信)から桃薗の邸宅を横領したのではないかと考えられる』と推論されておられ、同感出来る。これは――伊尹はそうした恨みも抱えていた――そうした権威を笠に着た専横悪評が実は巷に溢れていた――だからこそこうしたおぞましい風説が記されることともなった……というこの都市伝説発生の本当の根っこの辺りに辿りつくことも出来そうな気がするのである。

・「太政大臣」彼の太政大臣宣下(摂政如元)は天禄二(九七一)年十一月二日で、一年後の翌天禄三年十月二十三日には摂政と太政大臣を辞し、そのたった八日後(同年十月は大の月)の十一月一日に享年四十九で急逝している。やっぱ、祟りか? それとも誰かの官打ちか?

・「ひつじさる」未申。裏鬼門で不吉である。

・「築地をつき出して」邸宅を囲む泥土で盛り固めた土塀を突き破ったような形で、外へ突き出ていたという描写か。もしかすると、これは後文から見ても、非常に古い時代の古墳であった可能性が濃厚である。次の注も参照されたい。

・「したうづがた」新潮日本古典集成では『韈形』として同じルビを振り、同注に、『「したうづ」は、「したぐつ」の音便。束帯のときに、くつの下にはく絹製の足袋』とある。これは「大辞泉」を見ると、「したうづ(しとうず)」下沓・襪とし、古代以来、沓(くつ)を履く際に用いる布帛(ふはく)製の履物。礼服(らいふく)には錦(にしき)、朝服には平絹を用いたとある。これを画像検索で見るに、私はこれは所謂、前方後墳の形を形容したものではないかと強く感じる。まさにこの形から、それが古えの高貴な人物の墳墓、塚と伊尹は確かに感じた訳である。家来の反応もだからこそよく分かる。

・「辛櫃」唐櫃。石棺。

・「いみじうゝつくしき衣の」宮内省図書寮本では、この「衣の」以後が、

 衣の色々なるをなんきたりける。若かりける物のにはかに死(しに)たりけるにや

とあると底本に注し、他の本でもそれが確認出来る。現代語訳では、この部分のみ、図所寮本の叙述を特に生かした。

・「金のつき」黄金に輝く金属製の坏(つき)。古代の飲食物を盛る器で、碗よりも浅く、皿よりも深い。材質は土器・陶器や・木製など多様で、脚付きのものや蓋のあるものなどもある。

・「いぬい」乾。北西。新潮日本古典集成の頭注には、三谷栄一「日本文学の民俗学的研究」によればとして、『神霊の出現する神聖な方角とみられる』とする。私は桃薗柱穴指出兒手招人語第三」で鬼門・裏鬼門ラインに準ずる禁忌のラインとしたが、これは別に矛盾しない。神霊の道は邪神や荒ぶる神にとっても同時に通路であるからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 世尊寺にて死人を掘り出した事

 

 今となっては昔のことで御座るが、世尊寺と申すところは、これ、本(もと)は桃園(ももぞの)の大納言師氏(もろうじ)様がお住まいになっておられたところである。

 近衛大将にならるるという宣旨をお受けになられたによって、大饗(だいきょう)の宴(えん)を主宰なさるということとなって、御邸(ぎょてい)をこれ、大きに修繕なされ、その修理の作業も終わったによって、まずは目出度いとお祝いなされ、さても、明後日(さって)はかの大饗の祝宴と申す、その日に、これ、俄かに身罷られてしもうたのじゃ。

 すると、みるみるうちに威勢は凋落、使用人らは皆、あっと言う間に散り散りとなってしまい、奥方様と若君独りばかりが、そこにもの淋しゅう住まいなさっておらるるようになってしもうた。

 その若君は、確か――主殿頭(とのものかみ)ちかみつ殿――と申された。

 その後(のち)、この屋敷は、御親族で権勢家として知られた、かの一条摂政伊尹(これまさ)殿がお取り上げになられた。

 その伊尹殿が、今度は太政大臣となられ、やはり大饗が催されて御座ったが、その折り、やはり邸内の改築をなされた。

 その御邸の敷地の、未申(ひつじさる)の角(すみ)に、これ、相当に古き塚が御座った。築地をも貫いて、屋敷mp外へも延びた大きなるもので、その塚の隅の方(かた)は、丁度、かの下沓(しとうず)の形を成したる、張り出しのようなる所が御座った。

 さても、殿は、

「――そこに御堂(みどう)を建つるがよかろう。この塚をすっかり取り払(はろ)うてしもうて、その上にしっかとしたる荘厳を施した御堂をうち建つるが、これ、よい。」

と定められたによって、御身内の方々も、

「塚の主(しゅう)がためにも、それはたいそう功徳(くどく)になることにて、これ、御座いましょう!」

としきりに誉めそやいた。

 さればとて、塚を掘り崩してみたところが、その塚の中には、一つの大きなる石の唐櫃(からびつ)があって……これを……開けて見れば……その葬られた主(しゅう)は、これ……

――尼

であった。年の頃、

――二十五、六ばかり

――見目麗しく

――その唇の色なども

――これ、生きておるかと紛(まご)うばかりに……少しも変わらず……

……えも言われぬ

――美しげなる尼の

――あたかも生きたまま

――寝入っておる……

……かのようにして横たわって御座った。……たいそう美しい煌びやかな……

――色々な襲(かさね)の衣を

――これ、着ておる尼

……若かった者が、急な病か何かで、儚くも俄かに死んだものででもあったか?……

――燦然と輝く

――金(こがね)の坏(つき)が

……これ、まっこと、美しく整然と、遺体のぐるりに……

――据えられて

――ある

……その坏(つき)の中(なか)に入って御座った物とても、これ、孰れも皆……

――香(かぐわ)しきこと

……類いなきものにして、皆々こぞって、驚き呆れつつ、その唐櫃の周囲に立ち寄っては見、さてもかく、込み合って御座った――その瞬間――

――戌亥(いぬい)の方(かた)より

一陣の風が吹いて参った……と……

――その美しき尼の遺骸

……これ

――細かな細かな

――塵となって

――一瞬にして

――失せてしもうた、ので御座った。…………

……金の坏(つき)より他の物は、これ、何一つ、残らなんだと申す。…………

「……たとえこれ、遙か昔々の人のそれであったとしても……骨や髪なんどまでも、これ、塵となって散り失すなどということは、これ、あろうはずも、ない。……かく、風のただ一陣、吹いたるのみにて、全き塵となって、吹き散らされてしもうたと申すは……これ、世にも稀れなることにて御座るよ。……」

と噂し合い、その頃の巷にては、これ皆、それを聴いて驚きもし、呆れもしたもので御座った。

 この伊尹(これまさ)殿、それより、幾許(いくばく)も経ずして、これ、お亡くなりになられたによって、世間にては専ら、この、祟りではなかろうか、と頻りに人の疑っておったことじゃった。

 

□補説

 この事件については「富家語」(ふけご:「富家語談」とも。富家殿と号した関白藤原忠実(承暦二(一〇七八)年~応保二(一一六二)年)の語録で高階仲行が筆記したもので有職故実・公事を中心とする)の一〇五話目に以下のように載る(前の部分はこの話柄との直接的関連はないが、伊尹の印象を語っているので入れ、後半は世尊寺関連で短いから序でに入れおいた)。底本は岩波新日本古典文学大系の山根對助・池上洵一校注「富家語」を用いたが、恣意的に正字化した〔 〕は割注で底本ではポイント落ち二行表記である。読みの一部は私が推定して附した。後の注は底本の脚注を一部参考にさせて貰った(無関係な後段は、時間が惜しいので概ねそのまま注を引かさせてもらった)。

 

 仰せて云はく、「世尊寺は一條攝政の家なり〔九條殿の一男。〕件の人、見目いみじく吉(よ)く御坐しけり。細殿(ほそどの)の局(つぼね)に夜行(やぎやう)して、朝ぼらけに出で給ふとて、冠を押入(おしい)れて出で給ひける、まことに吉く御坐(おはしま)しけり。隨身(ずいじん)切り音(こゑ)に先追(さきばらひ)はせて歸らしめ給ふ、めでたかりけり。

 件の家の南庭に墓のありけるを崩されたりければ、丈(たけ)八尺なる尼公(あまぎみ)の色々の衣(きぬ)着したるを掘り出だしたりけるを、人々見驚きけるほどに、風に隨ひて散り失せにけり。その後、攝政も衰へたち、家も褪(あ)せにけりとぞ。

 件の世尊寺の南の邊に妙法蓮華寺といふ所あり。慶圓座主(きやうゑんざす)の房なり。後一條院、親王の時に、發心地(おこりごこち)を煩はしめ給ひければ、御堂(みだう)具し奉りて件の房へ渡らしめ給ふに、件の日御平癒。賞を行はるべき由(よし)仰せありといへども、座主平(ひら)に辭退す。仍りて阿闍梨を寄せらる」と云々。

 

・「見目いみじく吉く」伊尹が好男子で、相当な漁色家であったことは、「大鏡」の「伊尹伝」や「宇治拾遺物語」五十一などにも出る。

・「細殿」細長い殿舎の廂(ひさし)の間(ま)。宮中では、ここに仕切りを施して女房などの居室として使用していた。同話を載せる「続古事談」二では「弘徽殿の細殿の壺」とある。

・「切り音」切り声。一節ずつ区切って明確に発音する、如何にも改まり畏まった発声法。これを、本来は静かに帰るべき後朝の別れ乍ら、宮中から罷ることなれば、かくしたものか。私には驕慢で滑稽にしか見えぬが。

・「八尺」二百四十二センチメートルで、トンデモない大女である。この異人性自体が、妖を呼び込む不吉な表象であるが、何故か「宇治拾遺物語」はこれを採用していない。風説の中での尾鰭の部分であったか、或いは寧ろ、「宇治」の筆者がそれを嘘臭いものと感じて排除したか、またはエンディングの方まで不吉さを抑制する意図が働いた可能性もあるように思われる。

・「色々の衣」多様な襲(かさね)の色目を重ねた豪華絢爛な着衣。

・「妙法蓮華寺」底本脚注に、『一条附近、即ち世尊寺の近くにあった寺。慶円の私房か』とある。

・「慶圓座主」底本脚注に、『延暦寺の僧。喜慶の弟子。天台座主』とある。

・「後一條院、親王の時」底本脚注に、『後一条天皇がまだ親王であった時。同帝は寛弘五年(一〇〇八)誕生、長和五年(一〇一六)践祚。即ち、同帝の幼少の頃』。

・「發」瘧。所謂、「わらはやみ(わらわやみ)」で、毎日或いは隔日に定期的な発熱症状を起こす病気をいう。現在のマラリアである。

・「御堂」藤原道長。後一条天皇の母であった中宮彰子は道長の女である。

・「仍りて阿闍梨を寄せらる」とあるが、底本脚注によれば、慶円の『任阿闍梨は後一條天王誕生以前の永祚元年(九八九)』とあり、この「富家語」の記載が必ずしも故実に実証的でないことが分かる。

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