譚海 卷之一 泉州めしからね居宅の事
泉州めしからね居宅の事
○和泉國にメシ・カラカネと云豪富(がうふ)のもの兩人有。數百人を扶助し世にしられたる者也。メシが家には黄金にて造たる膳椀を所持せりとぞ。二階迄荷を付(つけ)たる馬を牽上(ひきあぐ)るやうに造(つくり)たる家也。家内を流水の通るやうに溝をほり、食事の時溝の左右に坐して食し、食し終れば膳椀をそのまゝ溝へ投入(なげい)る、水下(みづしも)にてとりあげてあらひ收(をさめ)る事也とぞ。
[やぶちゃん注:まず、ウィキの「食野家」(めしのけ)から引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。江戸『中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業も行い、巨財を築いた。
屋号は和泉屋。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『食野家の出自は、楠木正成の子孫の大饗(おおあえ)氏。初代正久のときに武士から廻船業に乗り出したとされている』。『『食野家系譜』などの資料によると、食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する十七世紀後半には、百隻近い船を所有して全国市場に進出するなど大いに発展した。大坂から出航するときは木綿、綿実や菜種油などを運び、奥州からの帰りには米やニシンや干鰯(ほしか)などを運ぶなどして、廻船業や大名貸しなどで巨財を築き、大豪商となった』。『大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有したほか、本拠である佐野では豪壮な邸宅と海岸沿いの道路の両側に「いろは四十八蔵」と呼ばれた大小数十の倉庫群が建てられるなど、現在の泉佐野駅から浜側一帯が「佐野町場(さのまちば)」として城下町さながらに栄える中心となった。岸和田藩では藩札の札元に任命されるなど、唐金家とともに同藩の財政を支える上で重要な役割を果していた』宝暦一一(一七六一)年には『鴻池家、三井家、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け』文化三(一八〇六)年には『三井家とともに本家が三万石、分家が一万石の買米を命じられた。大名貸しでは岸和田藩はもちろん尾張徳川家・紀州徳川家など全国の約三十藩に四百万両ともいわれる多額の資金を用立てた』。『その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより一気に没落に至り、同家は同地に現存していない』。屋敷跡は『現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。またいろは四十八蔵も海岸筋に八棟が現存している』とある。『食野家の当時の発展ぶりを示すエピソードが多数残されている』として、伊かのように記す。『地元の盆踊り(佐野くどき)では「加賀国の銭屋五兵衛か和泉のメシか」と唄われている』。『大名貸しをしていた紀州藩では、参勤交代の往復に紀州公が食野家に立ち寄ったといわれ、ざれ歌で「紀州の殿さんなんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」と唄われた』。『食野の当主(佐太郎を世襲)が、にわか雨で雨宿りした紀州公の家来千人をとりあえずヒツに残っていた冷や飯でまかなったことから、「佐太郎」は冷や飯の代名詞とされ、川柳に「佐太郎を三度いただく居候」や「佐太郎は茶金の上に腰を掛け」など唄われた』。『井原西鶴の日本永代蔵に、唐金家とともにモデルとなったといわれている。(同作品中に食野家の所有する千石船「大通丸」をもじった「神通丸」が登場する。)『上方落語「莨(たばこ)の火」に、気前のいいお大尽「食(めし)の旦那」として実名登場する』。次にウィキの「唐金家」(からかねけ)も引いておく。同じく江戸『中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)を拠点として栄えた豪商の一族。北前船や朱印船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金などの金融業や両替商も行い、巨財を築いた。
屋号は橘屋。同じく同地で栄えた食野家(めしのけ)とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている』。『井原西鶴の日本永代蔵に、「このごろ泉州に唐かね屋とて、金銀に有徳なる人出来ぬ。」と、実名で記されている』。『唐金家の家屋倉庫等が多数あった現在の大阪市西区堀江の家具屋が立ち並ぶ通りでは、唐金家の屋号「橘屋」にちなんで「立花通り」、これが転じて現在は「オレンジストリート」と名づけられている』。『また同地の汐見橋は唐金家が架けたといわれており、「唐金橋(とうがねばし)」の別名がある』とある。]