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2015/02/11

耳嚢 巻之九 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事

 

 淸水谷實業卿狂歌奇瑞の事

 淸水谷實業(しみづだにさねなり)卿は元祿享保の頃の人なりとや。禁中宿直(とのゐ)の翌日朝(あした)、相(あひ)宿直の公卿寢置(ねおき)に、與風(ふと)着服を左りまへになし甚(はなはだ)心に懸(かけ)給ふを、實業それは心にかくる事にあらず、目出度(めでたき)事なりと申されしを、彼(かの)公卿いかなれば斯(かく)宣ふとありし時、實業の狂歌に、

  左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拜舞の稽古やがて昇進

よみてあたへしに、其あけの年、彼公卿果して昇進ありしとや。 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。和歌技芸譚。

・「淸水谷實業」西園寺家一門の公家・歌人であった清水谷実業(慶安元(一六四八)年~宝永六(一七〇九)年)。信濃飯田藩初代藩主堀親昌(ちかまさ)の子で元は武士であったが、母方の叔父三条西公勝(さんじょうにしきんかつ)の養子として三条西家で育った。二十五の時、公勝次男で清水谷家を継いだ従兄の公栄(きんひさ)の養嗣子となった。陽明学者熊沢蕃山に学び、元禄元(一六八八)年には霊元院(第百十二代天皇)から古今伝授の初段階とされる『和歌「てにをは」口伝』を受け、中院通茂(なかのいんみちしげ)・武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ)とともに霊元院歌壇の中心的歌人の一人として活躍した。作品・著書としては元禄一五(一七〇二)年の「百首歌」、宝永二(一七〇五)年の「到着百首歌」、寛文一二(一六七二)年の「高雄紀行」などがある(以上は主にウィキの「清水谷実業」に拠った)。本文には『元祿享保の頃の人なりとや』とするが、享保元(一七一六)年(しかもその前に正徳が入る)には既に亡くなっている。

・「寢置」底本には「置」の右に『(起)』と訂正注がある。

・「左りまへ」岩波版の長谷川氏注に、『着物の右衽(おくみ)』(袍(ほう)や狩衣・直衣(のうし)などの前襟の重なる部分や小袖の前に付く布を指す「大領」=「おほくび(おおくび)」が「おくび」となり更に音変化したもので、着物の左右の前身頃(まえみごろ:衣服の胴を包む部分(身頃)の内、胴体の前の部分をおおうもの。)に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布のこと)『を左の衽に重ねて着る、普通と逆の着方をすること。死者に経帷子を着せる際にそうするので、気に掛けた』とある。但し、ネットの
Iori Hayasaka 氏の「左前(ひだりまえ)とは?」という素晴らしい記載には(行空けを詰めさせて戴き、アラビア数字を漢数字に代えた)、

   《引用開始》

着物は洋服と異なり、男女ともワンピース形状の衣服を、前を左右に打ち合わせ、帯を締めて止めるという形式で着用します。洋服の前合わせは男女で左右が違いますが、着物は男女とも右前に着ます。着物は確かに左右対称の構造ですが、右前に着るデザインの衣服として、私たちは遠く祖先の代から着用してきました。

そもそも、右前・左前が意味する「前」とは「手前」のことです。これは、左右どちら側の布地を先に自分の肌に密着させるかをいう言葉です。鏡を見ながら覚えたり、「襟が左前」などという言い方をしますので、誤認しないように覚えましょう。

ではなぜ右前に着物を着るようになったのかというと、これには諸説ありますが、歴史的には、奈良時代の養老三年(七一九年)に出された「衣服令(えぶくりょう)」という法令の中にある「初令天下百姓右襟」という一文がその起源であるとされています。要するにこの時から「庶民は右前に着なさい」とされ、これ以降、着物を右前に着ることが定着したものと考えられています。

この背景には中国の思想の影響から、左の方が右より上位であったことから、位の高い高貴な人にだけ左前は許され、庶民は右前に着ていたという経緯があり、それに倣って聖徳太子がこれを日本でも普及させたのだとする一説があります。
当時の高貴な人々は、労働的な動作は必要がなかったため、左前でも支障がなかったものと推測されますが、実は左前に着ると動きにくいという事実があり、庶民は労働の必要性からも自然と右前でなければ不合理であったため、庶民には右前を推奨したのでしょう。これは、実際に着比べてみるとわかりますが、左前に着ると、非常に動きにくく、衣服としての役目をある意味果たさないのです。着慣れるほどにこの事実は理解できると思います。

なお、別の説では、右前・左前は古代中国で西方の蛮族との区別をするために、蛮族の着装法であった左前を右に変えたのが始まりというものもあります。当時の彼らは右手で弓を射る時に邪魔にならない左前に着ていたとする説ですが、信憑性のほどはわかりません。

ちなみに、いたって単純な理由である「ほとんどの人が右利きだから」という説については、いささか疑問が残ります。確かに「右前」に着れば利き手をすぐに懐に入れられますから、これだと手拭いなどをすぐに出し入れできるので非常に合理的というわけですが、もしそうであるならば、左利きの人は、左前に着たほうが都合がいいわけで、多数決で右前が定着したとは考えにくい気がします。

左前に着物を着た所。

う~ん、どうにも違和感が・・・

衣服の前合わせでよく説明される話について補足しますと、奈良時代以前の古墳時代には確かに右前と左前が混在していました。しかしながら、これは埴輪に見られるような上半身だけの衣服の場合は、長着状の着物と異なり、動作上の問題は生じにくかったことが理由と考えられます。

一方、「左前は死人の装束だから」という解釈もありますが、これには少々誤解があります。もともとこれは死者を生者と区別するための風習で、人は死ぬと平等なのだという思想から、誰でも死ぬと位が上がって神や仏に近づくとして、貴人と同じ左前に着せたという風習が起こったのです。死者が左前に着物を着るから、縁起が悪いので左前に着ないというわけではないのです。

いずれにせよ、着物を右前に着るのは、理屈ではなく日本人が受け入れてきた事実でもあり、千二百年以上もそれを受け入れて定着している事実は、良し悪しの理屈を超えて、民族としての証であるともいえるでしょう。

今でも時折、テレビの若い女性アナウンサーなどが、温泉旅館の浴衣を左前に着ていたり、ポスターの着物のイラストが左前だったりと、何かと気になる左前ですが、着物を普通に着るなら右前に着るとだけ、覚えておけばいいだけのことなのです。

  《引用終了》

とある。

・「左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拜舞の稽古やがて昇進」底本では「ゆふ」の右に『(右)』と注する。これは、

 左前(ひだりまへ)砌(みぎ)りは後(あと)に左右(さゆふ)左(さ)の拜舞(はいぶ)の稽古(けいこ)やがて昇進(しやうしん)

と読み、「みぎり」は正式なことの行われるところのその場面の意、「左右」の「左」は、各地位の「左」が上位であることに加え、「さの」に「その」を掛け、「拜舞」(叙位・任官・賜禄の際などの感謝の意を表す礼で、左右左(さゆうさ:叙位・叙官・賜禄などの際の拝礼の際のマナーで、再拝して笏を置いた後に立って左、右、左の順に身を捻った上、さらに地に座って同様に行って後、笏を取って少し拝礼し、更にまた立って再拝する、あたかも舞踏のような礼拝を指す)の「稽古」、即ち予兆・吉兆である、と洒落れて詠み込んであるのである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 清水谷実業卿狂歌の奇瑞の事

 清水谷実業(しみずだにさねなり)卿――これ、元禄か、享保の頃の御仁である由、聴いて御座る――この御仁、禁中宿直(とのい)の御座った、その翌朝のこと、ともに宿直致いて御座った公卿が、これ、寝起きなれば、少しばかり寝惚けて御座ったものか、ふと、着服を左前になして着てしもうて御座った。

 さればこれ、死穢(しえ)に触るることでおじゃる! とはなはだ、心配致いておったところ、かの実業殿が、

「……いや――それはこれ、少しも御心配にならるること、あらっしゃいませぬ。――全く以って少しも、心にかけらるることにては、あらっしゃいませぬ。――いや、それどころか、却ってこれ、めでたきことにて、あらっしゃいます。……」

と、頻りに申されたによって、当の左前の公卿、

「……い、如何(いか)なればこそ、かように宣わるるか?……」

と反問なされた。

 すると、実業殿、徐ろに、

  左りまへみぎりはあとに左ゆふ左の拝舞の稽古やがて昇進

と狂歌を詠まれ、それを、かの意気消沈なしておられた朋輩の公卿に、これ、贈られたと申す。

 さても、その翌年のこと――この公卿――果して、これ、昇進なさられたとか申すことにて御座った。

 

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