生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(9) 四 歌と踊り(Ⅱ)
昆蟲の中で一番大きな聲で鳴くのは蟬であるが、雄の鳴いて居る處を眺めて居ると、どこからか雌が飛んで來てその傍に止まり、暫く上下に匍うたりして雄の來り接するのを待つて居る如くである。「すずむし」・「まつむし」なども雄が頻に鳴き續けて居ると、その間に必ず雌が近寄つて來る。昆蟲の中には蟬の如くに特に發聲だけの器官を具へたもの、「すずむし」・「まつむし」などの如くに翅を擦り合せて美音を發するものの外に、顎で物を打つて響を生ずるものが稀にある。靜かな古座敷の障子に塵の溜つて居るやうな處には、往々かやうな類の小蟲が居るが、雄が響を生じ始めると雌も響を生じてこれに答へ、次第次第に相近づく。但し音聲も香などと同じく、單に相手に自分の居處を知らしめるためではなく、主として相手の本能を呼び起し、先方より進んでその滿足を求めしむるに至るためである。鳥類でも獸類でも交尾期には鳴聲を巧に眞似すると、容易に捕へることの出來るものが多いのも、全くこれに原因する。鹿などもその頃になると、笛の如き優しい鳴聲を發するが、これに擬した笛を吹くと、雌雄ともに熱心に耳を傾け急に本能の力が猛烈に働き出すやうに見える。
[やぶちゃん注:「かやうな類の小蟲」昆虫綱咀顎目 Psocodea のコチャタテ亜目 Trogiomorpha・コナチャタテ亜目 Troctomorpha・チャタテ亜目 Psocomorpha に属するチャタテムシ類である。和名のチャタテムシ(茶立虫)とは、よく音を立てることで知られるチャタテ亜目スカシチャタテ科スカシチャタテ
Hemipsocus chloroticus の出す音(鳴き声)が茶筌(ちゃせん)で茶をたてる時の音に似ているのに因む。丘先生は一律に顎で叩くとしておられるが、滋賀環境衛生株式会社公式サイトの安富和男氏監修「害虫辞典」の「チャタテムシ」によれば、コチャタテ亜目コチャタテ科
Trogiidae やチャタテ亜目スカシチャタテ科 Hemipsocidae
の『数種は交尾期に発音する習性を』持っており、『発音部位は口器、腹端、脚の』三つに大別されるとある。コチャタテ亜目コチャタテ科コチャタテ Trogium pulsatoriumや同科のツヤコチャタテ
Lepinotus reticulatus は『口器で発音するという観察例が多く、大顎<おおあご>または小顎<こあご>ひげで紙を叩く、こすると表現されて』いるものの『腹端で壁面を叩く種類もあるようで』、スカシチャタテ
Hemipsocus chloroticus は『後脚<うしろあし>の基部に発音器官を』持っており、『主にオスが発音してメスへのシグナルと』するとあって、『古くは「隠れ座頭」という妖怪が夜中に音を出すと考えられた時代もあ』ったとある。図入りの同氏による「スカシチャタテの発音器官」のページも必見で、そちらにも『チャタテムシには発音してその音を雌雄の交信に使う種類があります。コチャタテ類は口器の大顎<おおあご>や小顎ひげ、または腹端で障子などの紙を叩いて音を出します。スカシチャタテは後脚<うしろあし>の基節<きせつ>に発音器官をもっています』。『拡大すると、この器官はヤスリ状部と鏡胞<きょうほう>部から構成され、左右のこすり合わせで音を出すのです。人の耳にはギジギジ・・・・・・と聞こえます』と、まさに二様の発音法が分かり易く述べられてある。]
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