譚海 卷之一 武藏國菅生にて土中より茶壺掘出の事
武藏國菅生にて土中より茶壺掘出の事
○武藏國菅生(すがお)に田澤某なる者あり。居所の岡をほりたるに、茶壺のやうなる物をえたり。又天鷲絨(びらうど)の金入(きんいり)に織(おり)まぜたるを一卷えたり。又左文字の刀壹腰得たり。彼(かの)邊地をほるに、時々穴藏の樣なるものに掘あたる事有。皆地の底に人の住居する樣に構へたる物也。書院墓所など迄備りて有。戰國のとき亂を避て隱れ居たる處成べしといへり。掘あてたる時は、みなもとの如く埋みて置事なりとぞ。
[やぶちゃん注:……何だか、どこぞの旧石器時代の掘り出し名人の神の手みたようやなぁ……。
「菅生」現在の神奈川県川崎市宮前区菅生(すがお)。
「左文字」日本刀の名品とされる宗三左文字(そうざさもんじ 義元左文字とも)を騙った刀であろう。参照したウィキの「宗三左文字」より引いておく。『元々は戦国時代、畿内を支配していた三好氏の三好政長(三好宗三)から甲斐・武田信玄の父である甲斐国主武田信虎に贈られた刀であり、刀匠の名は明らかとなっていない。その後、武田信虎が抗争を繰り広げていた駿河の今川氏とに間に和睦を結んだが、その一環として娘の定恵院を今川義元に嫁がせることなった際にこの刀を持たせ、駿河今川氏に伝播した。信虎の婿となった今川義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたと伝わる』。『その後、今川義元は上洛(京洛制圧すなわち天下掌握)の軍を起こ』したが、永禄三(一五六〇)年の『桶狭間の戦いにおいて義元はこの刀を持って出陣していたため、義元を敗死させた尾張の織田信長が戦利品としてこの刀を取得した。信長はこの刀に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」と刻印し、自分の愛刀とした。これは信長が日本の中枢を実質的に支配したのち、本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった』。『本能寺の変の後は、信長の家臣であった豊臣秀吉の手に渡った。のち天下を統一して日本第一の権力者に登り詰めた関白秀吉の死去後は、その子の豊臣秀頼の手に渡り、さらに、江戸幕府を開府した征夷大将軍徳川家康の手に渡った。これ以降、徳川将軍家の所有物として代々受け継がれていくこととなった。この経歴により、この刀は常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると言われてきた』。『その後、天明の大火にて被害に遭ったが、再刃され』、『明治維新後、明治天皇が織田信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、京都市北区の船岡山に建勲神社が創建された際、徳川家から信長所縁のこの刀(「義元左文字」)が同神社に奉納され』、『現在、同神社所有として重要文化財登録されている』。]