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2015/02/12

耳嚢 巻之十 白髮明神社の事

 白髮明神社の事

 

 東海道の裏通(うらどほり)に白髮明神あり。いかにも古き社堂にて、しらひげ明神の舊跡等、其邊に名を殘す事あり。然るに中(なかむかし)昔の事なる由、時の領主や、また其土地の義民の好事(かうず)にや、かゝる舊地の額は、天下萬代に名ある名筆の書(かか)ん事を求めしが、餘りに右の心の甚しき故に、行成卿の筆の舊物を搜し合(あひ)て、白大明神の四字は、彼(かの)卿の眞筆を模寫しぬ。髭の一字を多年求め搜せども得ず。或彫工(てうこう)にや、求め得しとて受合(うけあひ)、彫刻せしに、白髮の二字、髭を髮と誤りしを其儘に今用ひて、土俗は白髮明神とも尊稱なす由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一見、トンデモ故実であるが、面白い。面白いが、そこで笑って終わらせる私ではない。ちゃんと以下で考証した。その結果、意外な事実が見えて来た! 実に面白い!

・「東海道の裏通に白髮明神あり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「裏通」は『裏道』となっており、しかも題名自体が『白髭明神社社號の事』、ここも『東海道の裏道に白髭の社あり』となっている。この方がネタばらしがなくてずっとよい。現代語訳は標題とこの冒頭部分のみ、敢えてバークレー校版で訳した。地名を出していないのは意識的確信犯と思われ、「東海道の裏通」で事実譚を匂わせておき乍ら、しかも当該対象を名指しすることによる他者の捏造批判や抗議を避けるという都市伝説にありがちな記載法であるとは言える。ここでは特に、一読すると、その神社と氏子及びその村落全体、ひいては土地の有力者やそこを信心した領主・豪族らが悉くどこか間抜けな印象を拭えず、話者の軽蔑・嘲笑の口吻がはっきりと含まれているように見え、特定するのはかえって憚られれると考えるのも自然ではある。

 但し、この叙述からは少なくとも「東海道の裏通」であること、「古き社」であること、「しらひげ明神」が正式名称であることからモデル(あくまで明神の位置的なモデルであって事実と言うのではないので注意されたい)を仮定することは可能である。そこでまずは考証を試みてみたい。

 現在、全国の白髭神社の根本社とされる近江琵琶湖西岸の白髭明神(比良明神)なら格式からは申し分ないものの、「東海道の裏通」ではないから除外される。東海道で幾つかの「しらひげ」明神を見てゆくと、一番これらの表現にしっくりくるのは、私にとっては、現在、東海道本線二宮駅の西北二・七キロメートル、小田原厚木道路と東海道新幹線の間の中間点(これは「東海道の裏通」と言える)にある、神奈川県小田原市小船の白髭神社であった。旧社格は郷社(村社)で、祭神は猿田彦(別名・白髭明神)である。ウィキの「白髭神社 (小田原市)によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『奈良時代、行基菩薩が東国行脚の際、当地小竹山頂に地蔵堂を建立したという。平安時代、伊勢神宮の神官広瀬入道実応がその地蔵堂に信宿し、白鬚の神の霊夢を感じて九寸五分の御神像を奉彫し社殿を造営、元慶元年(八七七年)九月九日に鎮座祭を行なったのが当社の起源とされて』おり、「古き社」という条件をしっかり満たしている。また、『その後鎌倉時代の初め、現宮司の祖嵯峨源氏松浦四郎入道綱泰が、近江国滋賀郡にて白鬚の神夢をさとった。そして相模国中村郷の当社をたずね、時の豪族中村公を本願として、社殿、楼門、本地堂等を再建し、中村社の社号と郡中惣社の称号を受けたとされる。建久元年(一一九〇年)源頼朝より神領六町歩を寄進され、以後足利尊氏・北条早雲など武将の尊信が篤かった』とあって、これも「時の領主や」「土地の義民」が「かゝる舊地の額は、天下萬代に名ある名筆の書ん事を求め」たという叙述としっくりくる(繰り返すが、そのように附合して読めると言っているのであって本話を事実と断じているのではない)。以下、『応永二十三年(一四一六年)兵火に罹り社殿を焼失、塔の山に遷ったが、天正十八年(一五九〇年)再度兵火に罹り現在地に三遷した』。なお、ここに『三遷』とあるものの、旧地である相模国中村郷というのは現在の神奈川県小田原市東端部から足柄上郡中井町西部に及ぶ広域である。但し、この経緯から見ても、そんなに恐ろしく遠くかけ離れた場所から遷することは考え難い。寧ろ、旧二地はより江戸時代の東海道からは内陸に入った地であった――村落の拡充と有力者の信仰対象となって行くことによって東海道に近い位置に動いてきた――と考えて不自然ではない。されば、旧二地はより「東海道の裏通」的位置にあったと考えてよいのではなかろうか? さらに言えば、本話の「しらひげ明神の舊跡等、其邊に名を殘す事あり」というのはまさに、現在の社の近くにある、この旧二地の旧跡を指すと考えると如何にも自然に読めるではないか!)『明治六年(一八七三年)郷社に列し』た。『なお、当社で毎年一月七日の日の出とともに行われる奉射祭』(ほうしゃさい:年頭にあたって邪気や陰気を祓い陽気を迎える神事。)『は、五穀豊穣を祈る新年の行事として近郷に広く知られており、古式を伝える神事として小田原市の無形民俗文化財に指定されている』とあって格式に於いても申し分ない旧社である(笑いの要素は格式が高いほど高まる。この話の捏造者はそこをちゃんと考えている節が濃厚とも言える)。

 ところが、なのである。

 実は「しらひげ明神」の「しらひげ」は「白髭」「白鬚」は勿論、本文で笑い飛ばしているところの「白髮」とも書くのである。歴史探求社公式サイト「古代史探究館」の高麗若光氏の「白ひげさんの伝説」は、埼玉県下の日高市を中心に、その周縁の川越市・狭山市・入間市・飯能市などには実に約三十社もの「白ひげ」と呼ばれる神社が点在しており、それを考察した素晴らしい論であるが、そこに『白鬚神社は、白鬚、白髭、そして白髪と書いて、全て地元では「しらひげ」と呼ばれています。字は後から充てられたものだと思いますが、隣接する神社を区別するために字で分けたのではないでしょうか』(下線やぶちゃん)とあって、付図を見ると、確かに「白髪」神社が二箇所存在していることが分かるのである。

 さらに検索をかけると、出るわ、出るわ、地名で「白髪(しらひげ)」(宮城県仙台市青葉区大倉字横川の大倉川の雨量観測所の正式名)愛媛県大洲市喜多山にある猿田彦を祀る「白髪(しらひげ)神社」……。だいたいからして、ちょっと考えれば、「髭を髮と誤りしを其儘に今用ひて」いるなどということ自体が、ありえない。そもそも領主や富農なら、大枚かかっても彫り直しさせるに決まってるんである。

 この話柄も実はそうした「白髭」を「白髮」とも書いた故実を知らぬ馬鹿者が(私も実はそうであった)、凡夫の浅知恵で軽率に笑い話として広めた、というのが真相のような気がしてきたのである。――他者をことさらに侮って笑う話をしたがる輩は――実は自身が笑われる存在に堕しているということを全く理解していない――SNSにはそういう輩が雲霞の如くいる……

・「義民」民衆社会の正義と幸福のために一身を犠牲にした者。特に江戸時代に於いての謂い。但し、ここは直後に「好事」(ここでは風流を表に、裏では物好きな、といという謂いをも批判的に込めている)とあって、単なる土地の富農のニュアンスである。

・「行成」公卿で書家としてしられた藤原行成(ゆきなり/こうぜい 天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)。正二位権大納言。小野道風・王羲之を学んで、和様書道を完成、彼の書道は後に世尊寺流と呼ばれて和様の主流を成すに至った。その筆蹟を権蹟(ごんせき)という。小野道風・藤原佐理(すけまさ)と並ぶ三蹟の一人。遺墨に「白氏詩巻」他、多数。因みに、彼の日記「権記」は当時の宮中を知る貴重な一次史料である。

 

■やぶちゃん現代語訳(標題と冒頭部は注を参照のこと)

 

 白髭(しらひげ)明神社の事

 

 東海道の裏通りに白髭明神と申す祠(やしろ)が御座る。

 いかにも古き社堂にて、ここに移って参る前の「しらひげ明神」の旧跡と称する古き地所なども、これ、その辺りに幾つか残しおる古き祠で御座った。

 しかるに、一(ひと)時代前のこととか、時の領主であったか、または、その土地の豪家(ごうけ)の物好きの風流人ででもあったか、

「――かかる古き由緒の祠の額は、これ、天(あめ)の下万代(よろずよ)に名のある名筆の書かれんこそ、よろし!――」

とこれを求めん致いたが、あまりにその心のはなはだしかったがゆえに、遂に、かの藤原行成(ゆきなり)卿の水茎(みずくき)の古き痕(あと)を捜し当てて、

――「白」「大」「明」「神」

の四字は、これ、かの行成卿の真筆を模写さすること、これ、出来て御座った。

 ところが、

――「髭」

の一字、これ、多年求め捜せども、得られぬ。

 そんな折り、とある彫工(ちょうこう)で御座ったか、

「――かの『髭』の権跡(ごんせき)、これ、求め得て――御座る。――」

と請け合(お)うたによって、かの額を造らんと致いて御座った者、殊の外に喜悦なして、即座に字をも検(あらた)むることもせずに、直ちに彫刻させた。……ところが……出来上がった豪華な扁額を、これ、見てみたところが……

――「白髭」

の二字、

――「白髮」

とあって……何とまあ……「髭」を「髮」と誤って――金粉を用いたる高価なる額の――すっかり出来上がって、しもうて御座った、と申す。……

 

「……されば、仕方のぅ、それをそのまま今に用いて、その在(ざい)の辺りにては、「白髭明神」とは別に、これ「白髪明神」とも尊称なしておる、との由にて御座った。……」

と、さる御仁の語って御座った。

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