津村淙庵「譚海」始動 / 譚海 卷之一 相州大山不動堂除夜の事
「譚海」の電子化を始動する。
譚海 津村淙庵 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。底本では目録に一括して示されてある標題を各話の冒頭に配した。一部、読みにくいと私が判断した箇所に禁欲的に私の推定する読みを歴史的仮名遣で振った。現在、私は他に複数の電子化注釈を手掛けているため、これは本文電子化を旨とし、注は最小限に留めた。各話は繋がっているが行空けを施した。
津村正恭(まさゆき)淙庵(そうあん)の著わした江戸後期の随筆。寛政七(一七九五)年自序。全十五巻。津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)は町人で歌人・国学者。名は教定。正恭は字で、号は他に三郎兵衛・藍川など。「津村」の代わりに「員」「圓」と記した。京都生。後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達を勤めたが、細かい経歴は伝わらない。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもので、内容は公家・武家の逸事から政治・文学・名所・地誌・物産・社寺・天災・医学・珍物・衣服・諸道具・民俗・怪異など広範囲に及び,雑纂的に記述されてある。平賀源内・池大雅・石田梅岩・英一蝶・本阿弥光悦・尾形光琳などの人物についての記述も見える。多くの文人と交流のあった彼の本領は雅文和歌であったが、今、彼の名は専らこの「譚海」のみで残る(以上は、ウィキの「津村淙庵」及び平凡社「世界大百科事典」と底本解説を参照した)。
本電子化は、私をよく可愛がってくれた大先輩の体育教師の大先輩が、この津村の「譚海」を、若い頃に面白く読んだと述懐しておられたのを思い出した。いつか、それにお応えして電子化をしようと思っていた。ここにやっとそれを叶えられる。但し、膨大なため、何年かかるか、判らない。]
譚 海 卷の一
藍川 員 正 恭 著
相州大山不動堂除夜の事
○相模國大山不動堂に、每年除日(ぢよにち)、相模一國の人登山して煎豆をまく事也。それを年番の坊より人を出して掃集め、俵に造り、一山の坊々へわかち送りて、一年中の味噌豆にする事也。每年五十俵ほど集るといへり、人々二合三合づつ持登りてまきちらす事なれども、大勢の事故かくの如し。尤(もつとも)富(ふ)なる者は、二三升或は其餘も每年例に隨てまく事也。除日に近き四五日已前より登山してまく事也。又同山石尊權現の寶物に小石あり、靑色なり。先年安部友之進採藥御用にて廻國のとき、この石を拜見せしに、綴耕錄にいへる鮓荅(さたう)といふ石なるよし。折節旱損(かんそん)にて雨乞しけるに、此石を友之進乞出(こひいだ)して綴耕錄にあるごとく水にひたし雨乞せしに、雨降て土民大によろこべりといへり。又駿河國三保の松原に靑白色にて小判がたの石あり。是は山谷集に堶石(だせき)といふ物にて、水甕へ入置ばよく水を澄(ちやう)す石也。又河内國膽駒山(いこまやま)にかなつほ石といふあり。是は大乙餘糧(だいいつよりやう)也と云り。
[やぶちゃん注:「除日」大晦日。
「綴耕錄」元末明初の学者陶宗儀(九成)撰になる優れた考証雑記。なお、この本はその「想肉」の項で人肉調理法を記すものとして、その方面では知られた奇書でもある。底本編者注に、本邦では承応年間(一六五二年~一六五四年)に刊行されているとある。
「安部友之進」本草家阿部将翁(しょうおう ?~宝暦三(一七五三)年)。名は照任又は輝任、通称は友之進。ウィキの「阿部将翁」によれば、本草学の実際的知識に秀でていたが、著作があまり残さていないことからその事蹟には諸説あり、一説に盛岡藩閉伊通豊間根村(現在の岩手県山田町)の出身とし、延宝年間(一六七三年~一六八一年)に『大坂に向かう船が台風で難破し、清国に流れつき清国で医術、本草学を学んで帰国したとされる説(東条琴臺の『先哲叢談続編』)や、密航して清国に渡った説、長崎で清国人、オランダ人に本草学を学んだする説などがある』。享保六(一七二一)年、『幕府に雇われて採薬使となり、野呂元丈らと各地に採薬旅行を行』い、享保一二(一七二七)年には『陸奥国釜石の仙人峠で磁鉄鉱を発見したとされ、釜石鉱山が開かれるもととなった。「採薬使記」「御薬草御用勤書覚」などの記録を残した。幕府の命により薬園を開き、将翁が監督した。対馬藩から献上された朝鮮人参の生根、種子から栽培に成功した。弟子に田村藍水がいる』(ここから本話の呪的なものとは別に科学的な鉱物学の知識にも長けていたことが分かる)。享年は八十八とも一〇四歳ともされるとある。
「鮓荅」「さとう」と読む。「耳嚢 巻之四 牛の玉の事」の「牛の玉」の注に詳述しておいた、一般には家畜動物の腸内結石と信じられた石様の物質(そうでない物や捏造物も多数含まれるので注意)。また、そこでも引いた私のサイトの電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」の「猨(えんこう)」の注で引用した、ブログ版「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」のテクスト及び私の注も参照されたい。
「旱損」旱(ひで)りの害。
「山谷集」北宋(ほくそう)の詩人で書家の黄庭堅の詩集。
「堶石」「廣漢和辭典」に「堶」(音タ・ダ)とし、『つぶて遊び。塼(セン/かわら)を飛ばし投げる一種の遊戯、打瓦』と記す。「塼」は中国の建築材の一つで後の煉瓦やタイルなどに類したもので、粘土を型に入れて成形し、そのまま乾燥させたり焼いたりしたブロックや瓦様の素材で、周代に始まって漢代に発達、本邦には奈良時代に伝わっている。微小な孔を構造的に持つから当然、これには濁った水を澄ませる効果が望まれるものと思われる。
「膽駒山」底本には「胆」の右に『(生)』と訂正注がある。
「かなつほ石」金壺石或いは鉄漿壺(かなつぼ)石か。幾つかの伝承を確認すると、その中でもやや現実的なものとしては、那須高原に那須与一の妻が鉄漿(おはぐろ)を採った石と称する石があり、墓石会社「松島産業株式会社」の社長のコラムのこちらに、これは花崗岩系或いは閃緑岩系の石で、『ちょうど上部に雨水が流れてきて溜まるようなくぼみがあり、石本来が含む鉄分や周辺の土壌に含まれる酸化鉄が溶け出して、鉄漿のような色になったものと思われ』るとある(但し、『厳密にはこのまま使用してもお歯黒用には使えない』と注記がある)。
「大乙餘糧」前の「かなつほ石」の別称。「大乙」は恐らく、紀元前千六百年頃に夏の暴君桀を追放して夏王朝を滅ぼした商の創始者である初代の王、湯王のことを指す。名は天乙(てんいつ)の他に大乙・太乙・成湯・成唐などとも称した。夏の禹・周の文王・武王と並ぶ聖王として後世に崇められた聖王で、中国の伝説にありがちな、聖君子が食したりして残した残飯(餘糧)が変じ、希有の形状の生物や奇石となったという博物誌上の呼称と思われる。]