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2015/02/27

耳嚢 巻之十 親子年を經て廻り逢ふ奇談の事

 親子年を經て廻り逢ふ奇談の事

 

 或諸侯の醫師田中某と云(いふ)有(あり)しが、療治のいとまには俳諧を好みけり。病用にてたまたま吉原町へも行(ゆく)事有しが、或五月雨(さみだれ)の頃、吉原町へ行(ゆき)しに病用多く、日まさに折からの雨ふり降りまさりて、宿處麻布へ歸(かへら)んにも遙々その道の遠きうへ、翌日は淺草邊の病家へいかざれば難成(なりがたき)故、遊興の心はなかりしが、俳友などにも行合(ゆきあひ)いざなはれて、扇(あふぎ)やといへる遊女屋に一夜をあかさんと足をとゞめ、酒宴の興に新造(しんぞ)成(なる)篁(たかむら)といへる遊女をあげけるに、かのたかむら、田中が持(もち)し扇に、朝涼し懸物かけてかしこまり如蘭と書(かき)てありしを見て、此扇の發句(ほつく)は何人(なんぴと)にや、御身御心安き人にやと尋(たづぬ)る故、成程俳諧の友にて心安き人成(なり)と答へければ、江戸の人にや上方の人にやと尋る故、大阪の人なり、何故問(とひ)たまふやと尋しに、にが笑(わらひ)して外事(ほかのこと)にまぎらして其座を立去りて、禿(かむろ)を使(つかひ)にて田中を外の座敷へ招きて、彼(かの)發句云(いひ)し大阪人は、御心安きとの事、年比(としごろ)名を尋けるまゝ、此發句のぬしは、大阪の人にて木屋榮治と云(いふ)なりといひければ、たかむら涙にくれてさしうつむき、是には長き御咄もあれども、今宵は客もあり、いさいにも申(まうし)がたし、今宵私新造をあげたまひ、重(かさね)て御あげなきとも不苦(くるしからず)、幾日なりとも御くり合(あひ)有(あり)て、一兩日の内、我身を御あげ御(お)こしを願ふ也、いかゞの申(まうす)事なれども、少しも御世話はかけ申間敷(まうすまじき)間、是非々々此儀を御願ひ申(まうす)なり、なみだにむせび心切(しんせつ)表(おもて)にあらはれける故いなみもなりかね、さらば幾日には來るべしと約束して、其夜は別れぬ。扨約束の日に至り扇屋へ至り、かの篁をあげて一通りの座敷もすみて後(のち)禿をも退けて言樣(いふやう)は、御はづかしき事ながら、我身は其木屋榮治が娘袖と申すものゝなれる果(はて)にて候也、八ケ年以前、江戸店(だな)の手代(てだい)用事ありて登り、半年程父の鄽(みせ)に有(あり)しが、若年の至り不斗(ふと)密通致し、手代は江戸へ下り候に、別れかね金子百兩持(もち)て右の者と欠落(かけおち)致し、何といふ處やらん、こゝかしこ田舍を半年程うかれ歩行(ありき)、其後半年程もくらしけれど、彼(かの)男心だてよからず身持も不埒にて、朝夕の煙(けぶり)も立(たち)かね、かゝる流れの身に身を沈(しづめ)、うきつとめも親のばちと先ぴをくやみ候へども甲斐なし、いとけなきころより父のかたはらにて俳諧生花碁將棊(しやうぎ)琴なんどならひ覺(おぼえ)し故、日夜にかわる客ながら、さまで心なき客も來らず、せめての苦もかろく勤(つとむ)る、是迚(これとて)も親の恩にて候ふに、兩親はさぞ憎しとも、かなしともおぼさん、せめて一度は便(たより)を聞(きき)たきと、明暮神佛にいのりし甲斐ありて、おもひも寄らず、扇の發句より父上の息才(そくさい)にましますを承り、御身を神とも佛とも思ひはべるなり、此上は御情(おなさけ)に、對面とてはかなふまじけれど、母までの文(ふみ)は、御とゞけ被下(くだされ)なば、御恩は忘れ申(まうす)まじと、さめざめと泣(なき)けるにぞ、素より親は相應のくらしにて、其娘のかゝる勤(つとめ)、外聞の程もいか計(ばか)りくるしからん、夢(ゆめ)もらし給ふなと申(まうし)ける故、願(ねがひ)の趣聞屆(とどけ)ぬ、よきに計(はから)ひ得させんと、翌朝別れて歸りぬ。此木屋榮治といへるは、大阪にても餘程の商人(あきんど)にて、伊丹にも酒造の株(かぶ)も有(あり)、江戸も手代持(てだいもち)の店(たな)五六ケ所も有(ある)由。六年以前より隱居せし由にて、年毎(としごと)に貮百金餘(あまり)の遣ひ用を携(たづさへ)て江戸に出、月花遊興を事とし俳諧を樂しみけるに、與風(ふと)出食(でくはし)て心安くなりける事故、田中は榮次の旅宿に至り密(ひそか)に人を拂ひ、御身はかねがね子はなくて養子に家を讓り、今は隱居せしと承る、女子(をなご)一人は儲け給ふ事有(ある)べしと云(いひ)ければ、いな子といふもの決してなき由を答ふ。田中いふ、八ケ年以前、十九歳の女子そでといへるが家出せし事あるべしといふに、榮次膽を消し、いかにして知り給へるや。田中云ふ、さて其息女今在所しれば、そこは如何(いかが)取計(とりはから)ひ給へるやと尋(たづね)ければ、榮次涙をはらはらと流し、されば此上は何をか包申(つつみまうす)べき、唯一人の娘にて、聟を取(とり)家を讓り申(まうさ)んと、彼是(かれこれ)世話いたし候處、緣遠く年月を送る内、江戸店(だな)の手代大阪逗留の中(うち)、通じやしけむ、手代は江戸へ歸り日數(ひかず)過(すぎ)そで家出なせし故、いろいろと手を分(わけ)尋(たづね)、占(うらなひ)の祈禱のと百計盡せど、神かくしといふものやと母は狂氣の如くなれど、其行衞(ゆくゑ)知れねば奉行所へ訴(うつたへ)帳付(ちやうづけ)なし、金子も百兩持出(もちだし)候間、男とつれて立退(たちのき)しか、無程(ほどなく)江戸店(だな)より右手代は江戸へも不歸(かへらざる)由故、右の者と申合(まうしあは)せけるにやと思へども詮儀の手立(てだて)もなく、外聞をいとゐ神隱しと申(まうす)に極め、家出の日を忌日と極め、外に子なければ養子して引續(ひきつぎ)、嫁をむかへ家督を讓り、我身は別宅に暮し候、妻は娘の事而已(のみ)今に言暮(いひくら)し、神佛參りの外、何の樂しみもなし、我身は年々江戸へ下り、月花の詠(えい)に心を紛(まぎらは)し侍れば、いま代(よ)に有(ある)事、誠のことに候はゞ、母も蘇生の心にやあらん、何國(なんのくに)如何成(いかなる)所にいかなるさまにやありしと、涙を流尋(ながしたづぬ)る故、さらば御怒りもなく對面もあるべきやと、念比(ねんごろ)にさとして、有(あり)し次第、有(あり)の儘に物語(ものがたり)ければ、心がらながら淺間敷(あさましき)身とはなり候、何とぞ此上の御厚志に御世話を以(もつて)、身ぬけの儀賴入(たのみい)る也(なり)、外聞も有之(これあれ)ば、國元へ遣し候儀は難成(なりがたく)、江戸にて片付(かたづけ)候、迚も親子に申(まうし)て有付(つけあり)候、面(をも)てぶせなれば、江戸店(だな)の内(うち)相應なる手代に遣し、所帶を持(もた)せ、母をも呼下(よびくだ)し對面いたさせ申度(まうしたし)と、切に賴(たのみ)ける故、扇屋方へ行(ゆき)て相談に及びしに、たかむら事、年季も來年は明(あ)くとの事、彼是談合の上、金子百兩にてうけ出し、榮次へ渡しけると也。彼(かの)身請(みうけ)の相談に付、榮次方へ行(ゆき)、かれ是たかむら方へ、しばらく音(おと)ずれせざりし時、たかむら方より文(ふみ)こしけるに、

  啼止し蟲をあんじて待夜かな

といふ句を書(かき)てこしたる由。右は

  いたづらに打とけはせぬ氷室守

と言(いふ)句に白扇樓(はくせんらう)篁(たかむら)と書(かき)し扇を、田中持(もち)ける故、うるはしき扇なりと言(いひ)ければ、これはかくかくの女なりと田中語りしを、かいつけぬと或人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。「木屋榮治」の名が途中から「榮次」となっているのはママ(因みにカリフォルニア大学バークレー校版でも同様。訳では「栄治」で統一した)。かなりの長尺版の世話物であるが、発句を各所に配して弛みがちな部分を上手く引き締めてある。悪くない話柄である。五月雨の頃合いと三つの句は季詞が合わないが、私は守旧派ではないので全く気にならない。斯くも好きな話なれば、訳にはそこそこに仕掛けをしてある。お楽しみあれかし。

・「雨降り降りまさりて」底本では二番目の「降り」の右に原本ママ注記であるが、衍字とする必要を私は認めない。

・「扇や」底本の鈴木氏注に、『三村翁「扇屋は江戸町一丁目扇屋宇右衛門が本家なるべし、こゝには、安永より文化年間、篁なる娼婦は見えぬやうなり、江戸町二丁目あふぎや与三郎、同藤右衛門、角町扇屋徳兵衛、京町一丁目扇屋八郎兵衛、などあり、或はこれらの家なりや、草々一観したる故検出せず。」』と引く。岩波の長谷川氏注は本家扇屋宇右衛門のみを示され、『ただし後出の白扇楼とはいわず五明楼という』と注されておられ、三村翁も長谷川氏も、これ、なかなかの通人振りをお示しになっておらるる。

・「新造」女郎の一階級。振袖新造・留袖新造(禿から上級遊女になれない妓や十代で吉原に売られたために禿の時代を経なかった妓がなる新造。振袖新造は客を取らないのに対し、この留袖新造は既に客を取った)・太鼓新造(女郎としては人気がないものの芸が立つことから主に宴会での芸の披露をした新造)・番頭新造(年季が明けて身寄りのない遊女がなることの多い花魁の世話役)があるが、普通は振袖新造を指す。女郎屋では七歳位から奉公に上がり、禿から十六~十七歳で初めて客をとるが、新造はその前段階で、若過ぎるために未だ水揚げの済んでいない見習い女郎のこと。姉さん女郎の付き人として、身の回りの世話をし、姉さん女郎のところに複数の客が登楼している際などに、待たせる方の客の話相手をするのも大切な仕事で、美人で器量がいいと、引込新造(振袖新造の中でも禿時代から花魁に付いて通人の接客を学んできた、謂わば花魁の候補生を指す)となることが出来た。但し、この篁はこの時点で満二十六にはなっており、振袖新造というのはちょっと無理があるように思われはする(そもそも来年年季明けとある)。でも、ま、いいか――

・「朝涼し懸物かけてかしこまり如蘭」は、

 あさすずしかけものかけてかしこまり

で俳号は「ぢよらん(じょらん)」であろう。町人らしいが退屈な月並句である。

・「今宵私新造をあげたまひ」「私新造」は未詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが『今宵は名代(みやうだい)の新造にて御遊有(おあそびある)べし』となっており、長谷川氏はこの「名代」に注して、『揚げた女郎に他の客などのある時、一時代りに客の相手をする女郎』とあって非常に分かり易い。ここの現代語訳はこの「名代」を使うこととした。

・「先ぴ」底本では「ぴ」の右に『(非)』と補助注。

・「伊丹」現在の兵庫県伊丹市。岩波版長谷川氏注に、『酒造業者が多いが株を持たぬと酒を醸造できな』かったとある。ウィキの「酒株」(さけかぶ)によれば、『江戸幕府が酒造統制の基本政策として行った、醸造業の免許制の』一つで「酒造株」とも称した。『酒株そのものは、将棋の駒の形をした木製の鑑札である。表に酒造人の名前と住所、そして酒造石高が書かれ、裏には「御勘定所」と書かれ、焼印が押してあった。 これが、酒株または酒造株と呼ばれるものであるが、日本史の中で「酒株」というときには、この酒株をとりまく制度全般を酒株もしくは酒株制度と呼ぶようになった』。明暦三(一六五七)年、『幕府は初めて酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、それぞれの酒造人が酒造で消費できる米の量の上限を定めた。これを以て酒株制度の始まりとする』とあり、『原料の米は日本人にとって欠くことのできない主食であり、また原則的には収穫量が決まっていたため、その「限りある資源」である米をどのように配分するかが、つねに江戸幕府の重要な経済課題となっていた』。『酒造りを自由経済原理に任せてしまうと、小さな酒蔵が原料米を確保できなかったり、大きな酒屋が食糧米を酒に加工して囲い込んでしまうといった事態が恐れられた』。『そこで幕府は、それぞれの酒蔵が規模や生産能力に見合った原料米を、その年々の米の収穫量や作柄と比例して公平に仕入れることができるように、酒株を発行し、醸造業を今でいうところの免許制にしたのである』とある。『酒株は、同一国内であれば譲渡や貸借も許されたので、酒屋が経営不振になったり、相続人がいない場合、近くの有力酒屋がその酒株を買い集めて、経営規模を拡大することがよくあった。 一時的に酒造業から離れる場合も、株を持っているのに使わない休株(やすみかぶ)や、一時的に他の酒造人に使わせておく貸株(かしかぶ)といったことも行われた』としるす。但し、本話が記された前後の『文化文政年間は豊作の年が続き、米の在庫がだぶついてきた。米価は下落し、農民は豊作ゆえに困窮するという時代になった。そこで幕府は、米を酒に加工しておけば良質な形での貯蔵となり、また他藩や江戸表へ輸送する際も米より便利であるとして、おおいに酒造りを奨励した。その典型的なものが』文化三(一八〇六)年に幕府が出した文化の勝手造り令で、これによって、『まったく酒株を所有しない者でも、新規に届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度』が有名無実化した時期でもあったことが分かる(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月である)。

・「手代持の店」主人から全権を委任された手代に管理を任せた支店。

・「帳付」岩波版長谷川氏注に、『正式に届け出たこと』とある。

・「迚も親子に申て有付候、面てぶせなれば」よく意味が分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが『とても親子と申(まう)しては面(をもて)ぶせなれば』となっており(「面ぶせ」は「面伏せ」で顔が上げられぬほど面目(めんぼく)ないこと、不名誉の謂い)、これならよく意味が通る。ここもこれで訳した。

・「啼止し蟲をあんじて待夜かな」は、

 なきやみしむしをあんじてまつよかな

で、その後、音沙汰のない田中に対して、恋文の体(てい)を装って到来を慫慂したもの。「啼止し」には、かの折りに篁が思わず落涙したことを思い出させる効果があり、「蟲」には「無視」も掛けてあるか。

・「いたづらに打とけはせぬ氷室守」は、

 いたづらにうちとけはせぬひむろもり

で、これは既に身請けの話も万端整って後、徐ろに田中が篁に以上の首尾を語りに行った際に篁が挨拶句として書き贈ったものであろう。「氷室守」夏に貴人に献上する氷室の氷の番人で、表面上の少しも「うちとけぬ」お堅い殿方の意から、氷が「溶けぬ」の縁として組ませた。「いたずらにうちとけぬ」は、容易にはなびいて下さらないの意が恋の恨みの表であるが、実はそうではなくて、裏に「いたずらになる」、無駄になる、駄目になる、いい加減にするの意が掛けられていて、「いたずらにうちとけ」て軽薄に私を弄ぶことも出来たのにそれを少しもなさろうとせぬばかりか、かくも私を氷室「守」の如く、大切に、お「守」り下さった貴方さま、と言う深い感謝の情が含ませてある句である。……それにしても、この才媛の篁、私が嫁にしたかった気がしてきた……。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 親子が年を経て巡り逢うという奇談の事

 

 ある諸侯に目を掛けられて御座った医師田中某(ぼう)と申す御仁のあって、療治の暇(いと)まには、よう、俳諧をも嗜んでおらるる由。

   *

 かの者、往診にて、たまたま吉原町へも行くこともよう御座ったと申す。

 ある五月雨(さみだれ)の頃のこと、例によって吉原町へ往診参ったところが、殊の外、患者や調子の悪い者の多く御座って、えらく時間がかかってしもうたと申す。

 その日はまさに折から、五月雨の時期に相応しき降りの日に御座って、降りに降って一向止まず、屋敷のある麻布へ帰ろうにも、時も時、その道のりも遙かに遠く御座ったに加え、その翌日は、この吉原に近い浅草辺りの、よんどころなき病者のおらるる屋敷へ往診致さねばならぬ決まりとなって御座ったによって――遊興の心は、これ、全く御座らなんだが――上がりそうもない雨を待っておるうち、知れる俳友なんどの吉原通いにも行き逢(お)うてしもうて、かの者に頻りに誘われ、仕方のぅ「扇屋」と申す遊女屋に一夜(ひとよ)を明かすこととなって草鞋を脱いだ。

 さても、酒宴の興に新造(しんぞ)の「篁(たかむら)」と申す遊女を揚げて御座ったが、この篁、その宴席にて田中が持って御座った扇に、

 

  朝涼し懸け物かけてかしこまり   如蘭

 

と書いて御座るを垣間見、

「……のぅ、この扇の発句(ほっく)は……何方(どなた)のお作りになったものでありんすか?……御身の御心安きお人で、これ、ありんすか?……」

と訊ねたによって、

「……ああ、これか。これは拙者の俳諧の友にして。そうさ、心安き御仁で御座る。」

と答えたところ、

「……そのお人は、これ、お江戸のお人でありんすか?……それとも……上方のお人で、ありんすか?……」

と重ねて問うたによって、

「……ああ、そのお方は、大阪の人じゃ。……しかし、なにゆえ、そのようなことを訊くんじゃ?」

と問い返したところが、黙って俯くと、幽かに妙な苦笑いをしたかと思うと、如何にも田中殿の問いを紛らかそうとするかの如(ごと)、まるで関係のないことをおちゃらけて呟いたかと思うたら、その座をふいと立ち去ってしもうたと申す。

 ところが暫くすると、禿(かむろ)が一人、篁の使いと申しやって参り、田中を他の座敷へと招じ入れて、またしても徐ろに、

「……貴方さまは……かの発句を読まれた大阪のお人と申さるる御仁とは、これ……お心安き仲とのこと。……どうか、そのお人の年頃や、お名前など……お聞かせ下さいませぬか?……」

と、何か妙に切羽詰った趣きにて切(せち)に訊ねて御座ったによって、乞わるるまま、

「……この発句の主(ぬし)は、大阪の人にて木屋栄治(きやえいじ)と申す者じゃが?……」

と答えた。

 すると――篁――体を震わせて――涙にくれ――ぐっとさし俯き、

「……これには……長きお話しも御座います。……御座いまするが……今宵は別に客も御座いますれば……委細を申し上ぐること、これ、叶いませぬによって……今宵は名代(みょうだい)をお揚げ遊ばされませ。……いえ、その、直ぐに重ねて妾(わらわ)をお揚げ下さらずとも宜しゅう御座いまするが……何時でも結構にて御座いますればこそ……何とかどうか!……その……御遣り繰りをなさられて……何としても……御都合をお付け遊ばされ……いいえ!……済みませぬ!……どうかやっぱり! ここ一両日がうちに!……きっと妾(わらわ)が身(みぃ)を……これ! 今一度! お揚げいただくため! どうか! お越し下さいませ!……きっと必ず!……お越し下さいましよ!……ほんに!……不躾にして失礼なこととは存じますれど……決して……少しも、ご迷惑は、これ、お掛け申しませぬによって――どうか! 是非、是非!――この我儘なる儀、これ、御願い申し上げ奉りまするッ!…………」

と、訳の分からぬ意味深長の謎の詞を立て続けに述べ立てたかと思うと、そのまま、

「――うわぁーッツ!――」

と涙に噎(むせ)んでしもうたと申す。

 しかし、田中殿、その篁が謎めいた言葉の、その端々にも――何やらん、深き誠心の表に表われておるを――これ、感じたによって、すげのぅ否むことも憚られ、

「……さらば……そうさ……二日後の夜半には来訪致そうぞ。――きっとじゃ。」

と約束なして、その夜は別れたと申す。

   *

 さて、約束の日に至り、扇屋へと参り、かの篁を揚げて、一通りの宴も済みて後(のち)、篁は禿なんどをも退ぞけ、徐ろに言うようは、

「……お恥ずかしきことながら……妾(わらわ)が身は……その――木屋栄治が娘――袖――と申す者の……なれの果てにて……御座いまする。……今より八年以前、父の江戸店(だな)の手代(てだい)が、これ、用事のあって大阪へと登り、半年ほど父の店にて働いて御座いましたが……若げの至り……ふと心得違いより、この手代と密通致しまして。……その後(のち)、手代は江戸へ戻り下ることと相い成りましたれど……別れかねて……家より……金子百両も持ち出し……かの者と途中にて落ち逢って……手に手をとって駆け落ち致しましたので御座います。……何と申すところで御座いましたか……もう今は忘れてしもうた……ここかしこの田舍を、これ、半年ばかりも二人して浮かれ歩き……その後(のち)半年ほどもともに暮らしましたれど……かの男……心立て、これ、実は良からぬ悪者(あくしゃ)にして……身持ちも不埒なれば……朝夕の煙りも立ちかぬるまでに困窮致す仕儀とあいなって御座いました。……そうして遂には……捨てられ……かかる苦界(くがい)に……身を沈めらるることと……相い成って御座いました。……かくも憂き勤めに身を堕としたも、これ、親を裏切ったる罰(ばち)と先非(せんぴ)を悔やみましたれど……それとてももう……甲斐もなし。……稚(いとけな)き頃より、父の傍らにて俳諧・生け花・囲碁・将棋・琴なんどを、これ、見よう見真似に習い覚えておりましたによって……日夜に変わる客ながら……さまで――かの憎き男ほどには――心ない客の来たることも、のぅ……せめての、この苦も、かくなれば軽(かろ)く勤めて御座いまする。……これとても、考えてみれば親の恩なりと身に染みて感じ入るばかり。……されど、両親はさぞ、妾(わらわ)がこと、今も――憎しとも、悲しいとも――お思いになっておられましょう。……せめて一度は、これ、その便りなんどをば聴きたきものと、明け暮れ、神仏に祈って参りましたが、その甲斐のあって、思いも寄らず、貴方さまの扇の発句より、父上の息災(そくさい)にましますことを承りましたれば、御身を――神とも、仏とも――思うて御座いまするればこそ! この上は! どうか、お情けに! 対面(たいめ)とては叶うまじいことにては御座いますれば、せめて!――母に宛てての文(ふみ)ばかりは――これ……お届け下されたとならば、御恩、これ、一生、忘れ申しませぬゆえ……どうか!……」

と、さめざめと泣く。

「……もとより親は相応の暮らしの者なれば……その娘の……かかる勤め……これ、知れれば……外聞のほども、如何ばかりか苦しゅうお思いにならるることと存じますれば……どうか一つ、ゆめ、妾(わらわ)が境涯に就きては、決してお洩らし下さいまするな。……」

と言い添えて御座った。

 されば、これを聴き終えた田中殿、

「……願いの趣き――これ、確かに聞き届けた。――良いように――我ら――計い致そうぞ。」

と請けがって、翌朝、別れて、吉原を後にした。

   *

 さても、この木屋栄治と申すは、大阪にてもよほどの大商人(おおあきんど)にして、伊丹には酒造の株(かぶ)さえも持って御座って、江戸にも手代持ちの店(たな)が五、六ヶ所もあると申す、お大尽で御座った。

 六年以前より隠居の身となったとか申し、毎年毎年、二百金あまりの金子を携えては江戸表へ出でて、月花遊興をこととし、俳諧を楽しんで御座る風流人でも御座った。

 そんな男に、何故か、この堅物の田中殿、ふとした縁にて出逢い、心安うなって御座ったと申す。

   *

 さても田中殿、吉原から帰った数日後のこと、やっと時を割くことの出来たによって、栄治が旅宿へと至り、秘かに人払いなど致いた上、

「……さて。……御身はかねがね、子はなくして養子に家を譲り、今は隠居なさっておらるると承って御座ったが。これ――女子(をなご)を一人――儲けなすったこと――御座るのでは、あるまいか?……」

と質いた。

 すると、栄治、

「……な、何を申さるるかと思えば!……いんや! 子なんちゅうもん、わ、わては、決して持ったことは、御座ない!――」

と妙にいきり立って応じた。

 されば、田中の言う。

「――八ヶ年以前――十九歳の女子(おなご)――袖――と申すそなたが娘――家出致いたこと――これ、御座ろう。……」

と静かに、しかしきっぱりと申したところが、栄治、胆を潰し、

「……い、い、いったい……どないして……そ、そないなこと……知らはったんや!?……」

 田中の言う。

「……さて――その息女――今、その在所の知れればこそ。――さても――そうとなったれば――貴殿――かの娘――これ、如何(いかが)取り計らいなさるるお積もりか?」

と逆に質いた。

 と――栄治――これ、涙をはらはらと流し、

「……されば、この上は何をか包み隠しましょうや!……唯一人の娘にて……聟を取り、家を譲ったろうと、あれやこれや、大事大事に世話致い参りました娘……何故か、良き縁の遠く、手ものぅ年月を送るうち……江戸のお店(たな)の手代が、これ、大阪に逗留致いておりましたるうち……この娘と密通致いたものか……手代が江戸へ帰ってより数日を経ずして、娘袖、これ、家出してしもうたによって……それよりいろいろと、手分けして尋ね捜し……占いの祈禱のと百計を尽くしましたれど……いっかな、見つかりませなんだ。……母親は、これ、『神隠しに逢(お)うたんではありゃしまへんかッツ?!』なんどと狂気の如くなって御座いましたれど……その行方(ゆくえ)、これ、一向に知れねばこそ……奉行所へも行方知れずとなったる旨の届け出を済ませ……なに……金子も百両持ち出して御座いましたも知れておりましたによって……その頃にゃ、もう、これはてっきり、男と連れ立って駈け落ち致いたに違いなきと、どこかで思うてはおりましたが……ほどのぅ江戸のお店(たな)より、かの手代は江戸へも帰って来ず、やはり行方知れずの由、申し越して参りましたによって……こりゃもう、かの者と申し合わせた上の憎っくき仕儀ならんと思い至りまして御座いました。……されど、かくなっては最早、詮儀せんとする手立てものぅ……外聞の悪しきを厭い……『神隠しに逢(お)うた』と致すことと極(きわ)め……家出の日を忌日と決め……外に子(こぉ)もなければ、養子を貰(もろ)うて、店を引き継がせて、外より嫁をも迎えた上、家督をもすっかり譲り……我が身は、妻と別宅に暮すことと相い成って御座います。……妻は今も……娘のことのみ言い暮らす毎日……娘の還るを、ただただ祈る神仏参りの他はこれ、何の楽しみもない様(ざま)にて御座います。……我が身は年々江戸へと下り、かくも月花の詠(えい)に心を紛わすという体たらく。……それが!――今も袖が世に在ること――これ、誠のことにて御座いまするならば!――これは!母なる妻も生き返ったる心地となるに相違御座いませぬ!――さっ! さても! 何処(いずこ)の国! 如何なる所! 如何なる有様にて、これ、存命致いておりまするので御座いまするかッツ?!……」

と、これもまた、涙を流して乞い願(ねご)うて、縋るように訊ねたによって、

「――さらば――お怒りもなく、対面(たいめ)して戴けまするな?!」

と、田中殿、念を入れて諭した上、見たまま聴いたままを隠すことのぅ、ありのままに、物語り致いたと申す。

 それを聴き終るや、栄治は涙を流しつつ、

「……自業自得、とは申せ……浅ましき身とは、なり果てて御座いまするなぁ。――どうか一つ、何卒! この上の御厚志(ごこうし)に御世話(おせわ)を以って……あんじょう――吉原より身抜けの儀――これ! お頼(たの)申しまする!……養子に嫁も貰(もろ)うて家業も既にして継がせてしまいましたによって、外聞も大きに御座いますれば、凡そ、国元へ連れ戻すと申す儀は、これ、どうにも成し難く、江戸にても誰(たれ)か適当なる婿を見つけて片付けんと存じまする。……親子と申したかて、これ、とてものこと、不名誉極まりなきことなれば。尋常に親子の縁を戻さんとするは、これ、難しゅう存じます。……されば、そうさ……江戸のお店(たな)のうちの、相応なる手代に、向後(こうご)の暖簾(のれん)分けなんどの因果をも含めた上、嫁として宛てがい、所帯を持たせようかとは思うておりますれば。……かく成して、やや落ち着いたとならば……これ、母なる者をも大阪より呼び下らせ、晴れて三人、対面(たいめ)なんどをも致しとぅ存じてはおりますれば……はい……」

と、切(せち)に頼んだ。

   *

 されば田中殿、数日の後、扇屋主人が方へ参り、人払いをさせた上、ここだけの話と、釘を刺しつつも有体(ありてい)に、あらまし、まことを語って、率直に相談に及んだところが、扇屋の主(あるじ)の曰く、

「……へぇ。……そうで御座したか。……いや。かの、篁がことならば、年季も来年には明くることと相い成って御座いますれば。……」

とのことなれば、後は、かれこれ談合の上、一年の前倒しとして金子百両にて――木屋の江戸遊興の小遣いの半値なればと田中殿の独断の即決にて――請け出だすことと相い成る。

 その日のうちに栄治が旅宿を訪ね、首尾を伝えたところが、栄治も大きに悦び、その夜のうちに、江戸の店(みせ)より即金百両を取り寄せ、田中殿に手渡したによって、次の日の夜、田中殿、ようやっと扇屋へと出向き、主へ件(くだん)の百両、確かに手渡した上、篁を揚げて、徐ろに、かの顛末を語ったと申す。

 明けて翌朝、田中殿は篁――基い――晴れて袖へと戻った女子(おなご)を伴(ともの)うて吉原を出でると、父栄治が旅宿へと連れ行き、無事、引き渡いたと申す。

   *

 さて。

 この間、田中殿、かの身請けの相談につきて栄治方へ相談に行き、また秘かに扇屋主(あるじ)と談合致すなんど、それをまた皆、多忙なる医業の合間合間に成して御座ったれば、かれこれ、篁が方へは、暫く訪れることも出来なんだ――結局、篁へ請け出しを告げに、かの者を揚げに参ったは、篁の告白を聴いたる日より、凡そ一週日余りも経った後(のち)のことにて御座った由――によって、その間、再来のなきに心痛めて御座ったかの篁が方より、文(ふみ)の参って御座ったと申す。その消息には、

 

  啼き止みし虫をあんじて待つ夜かな

 

という句を認(したた)めて寄越したと申す。

   *

……さてもこの話、

 

  いたづらに打ちとけはせぬ氷室守

 

という句に

 

―― 白扇楼 篁 ――

 

と書い御座る扇を、この堅物医師田中殿の持って御座ったによって、

「……田中殿も隅に置けませぬなあ!……いやいや! 何とも麗しき扇をお持ちじゃて!……」

と茶化したところが、

「――いや! これは。……さても貴殿は口の堅い御方なれば……他言無用にてお願い申す!……実はの、この篁と申すは――かくかくしかじか――の縁の女子(おなご)にて御座って、の。……その折りの礼として、この扇を貰(もろ)うた。そうしたものじゃによって、決して廓(くるわ)遊びの戦利品にては、これ、御座らぬ!……」

と田中殿の語って御座ったを、書きつけおいた、それを、時日も相応に経ったによって、そろそろ、かくなる話柄のお好きなる根岸さまへ、こっそり、ご披露……

 

とて、とある御仁の、私だけに語って下されたものにて、御座る。いやいや、さればこそ、このお袖が生きておる以上は、これを読まれたあなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞って置いて下されよ。

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