耳嚢 巻之九 吉川家先祖の事
吉川家先祖の事
神道家吉川源十郎先祖は、社務を職となせし者なり。壯年より神道に志し深く、神學に心を盡し、右道には其身も心を得たると思ひけれど、其奧儀を得んには、土御門家へ門入(もんにふ)なさんと思へども、素より貯ふる財も少(すくな)く、漸く彼(かの)家に至り取次の者へ對して、神道信仰の者なれば門入相願(あひねがふ)由申(まうし)ければ、門入の儀は人を以て御申込(おんまうしこみ)無之(これなく)候ては難成(なりがたき)旨申(まうす)故、我々は浪人にて殊に京地(けいち)に知音(ちいん)もあらざれば、兎角に二位殿へ申入(まうしいれ)給はるべしと望(のぞみ)けれども、土御門の法式なれば難成(なりがたし)とて其日は歸し、かゝる浪人者來りしと二位へも申ければ、さる不都合の願ひもあるものやと思われけるが、引續き三日來りて、何卒土御門へ目見(めみ)なしたきと申せども、法に背きては取計(とりはから)ひ難しとの事故、はるばる關東より來りし甲斐なき事を歎きて、最早關東へ歸るべし、さてさて是非なき事なりと、歌一首詠(よみ)て、右取次の者へ渡し立歸(たちかへ)りける。
神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞
右歌を土御門へ見せければ大きに驚き、かゝる志しの者ならば對面(たいめ)していさいを聞(きか)んと、早々呼戻(よびもど)すべき由申ける故、追々人を出し漸(やうやく)大津にて追付(おひつき)、引戻し對面(たいめ)して、いさいの學力を訊(きき)し其申(まうす)所を聞(きき)しに、誠に其碩學(せきがく)いふ斗(ばかり)なければ、直(ぢき)に神道皆(みな)傳(でん)ありしとなり。さりてより關東に歸り、其修行增長(ぞうちやう)なしけん、將軍家へ被召出(めしいだされ)、子孫連綿し、神道家と今以て相續(さうぞく)ありけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。こじつければ豚の信心伊勢参りから神道家の学究のための土御門家参りと言えるが、これは主人公吉川惟足(これたる)に無礼ではあるか。和歌技芸譚シリーズ。
・「神道家吉川源十郎先祖」底本鈴木氏注に、『三村翁「吉川五郎左衛門従時、即惟足の事なり、この話は、萩原兼従との事にて、少しく事実にたがへるに似たり、従時寛文七年七月廿八日召されて徳川家綱に謁し、天和二年十二月廿五日百俵を給ひ、神道方となる、元禄六年十二月六日致仕、同七年十一月六日、七十九歳にて歿、本所押上の宅地に葬るとあり。」』と引く。ウィキの「吉川惟足」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。神道家吉川惟足(これたる/これたり 元和二(一六一六)年~元禄七(一六九五)年)は尼崎屋五郎左衛門と称した吉川神道(官学であった朱子学の思想を取り入れて神儒一致とした上で神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。ここはウィキの「吉川神道」に拠る)の創始者で、『姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも読む』(神道名では「よしかわ」が一般的か)。『出生から後に江戸日本橋の魚商に養子に入り家業を継いだが、商いがうまくいかなかったことから鎌倉へ隠居した。一六五三年(承応二年)京都へ出て萩原兼従の門に入って吉田神道の口伝を伝授され、新しい流派を開いた。その後江戸に戻り将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、一六八二年(天和二年)幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した』とある(下線やぶちゃん)。師萩原兼従(はぎわらかねより 天正一六(一五八八)年~万治三(一六六〇)年)は吉田兼治の子で母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。慶長四(一五九九)年に祖父吉田兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任して萩原姓を名乗ったが、豊臣家が滅亡すると豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦され、その後は本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた(ここはウィキの「萩原兼従」に拠る)。この下線部からも、この話は神道家萩原兼従を土御門泰福と取り違えたトンデモ話であると分かる。なお、岩波版長谷川氏注には、『吉川源十郎は従門(よりかど)、寛政九年(一七九七)没、六十一歳』とあるのであるが(下線やぶちゃん)、とすると、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、このところ、情報入手や話柄内時間に於いてすこぶるアップ・トゥ・デイトなものが続いていた中にあっては、この書き出しは、十二年以上も前という設定になる。根岸先生、古いメモを引き出したものか? この辺も別な意味でやや不審なのである。前のトンデモ部分とともに、実は非常に気になるところなのである。
・「土御門家」土御門家(安倍氏嫡流)は室町時代の陰陽師安倍有世(あべのありよ:晴明の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によると、『安倍氏の長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様本姓ではなく家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』。『安倍晴明の子孫である土御門家は、明治維新後華族令により、子爵を授けられ』ているとある(他の土御門家は早い時期に二流とも廃絶している。同ウィキを参照されたい)。岩波版長谷川氏注には、『元禄頃には土御門泰福が土御門神道を唱えた』が、『吉川惟足の入門先ではない』とある(前注にある通り、吉川の入門先は萩原兼従である)。従って三村氏も述べている通り、これは事実とは齟齬するわけだが、以下、一応、ウィキの「土御門泰福」(やすとみ 明暦元(一六五五)年~享保二(一七一七)年)を引いておく。『公卿(非参議)・陰陽家。土御門泰広の子でその弟隆俊の養嗣子とされているが、実父を隆俊あるいは泰重(泰広・隆俊の父)とする異説もある。子に土御門泰誠・泰連・泰邦ら。一般には土御門神道の祖として知られている』。『泰広・隆俊の死により泰重の後継者となり』、寛文元(一六六一)年の『泰重の死によりその家督を継いだ』。『土御門家は、代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期に土御門泰重がその座を幸徳井家に譲渡、その後その陰陽師支配の権限を巡る争いから陰陽頭の返上を求める泰重とこれを拒む幸徳井家側との対立が長く続いた。泰福が元服して正六位下蔵人兼近衛将監に任じられた』寛文一〇(一六七〇)年にも『泰福と幸徳井友傳の間で陰陽頭を巡る相論が発生するも』、天和二(一六八二)年に友傳が三十五歳で急死し、『相論の仲裁にあたっていた江戸幕府は友傳の子は幼くて職務が行えないと裁定したため、当時従五位上兵部少輔であった泰福が陰陽頭に就任、継いで翌年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限が与えられた。その後春宮少進に進』み、貞享元(一六八四)年の『改暦に際しては大統暦の実施を主張するも、後には山崎闇斎のもとで同門であった渋川春海の貞享暦が優れていることを認めてこれを実施するように上奏し』、元禄二(一六九九)年には『幸徳井家に圧力をかけて土御門家を陰陽道宗家として仰ぐ事を約束させ、同家を支配下に置いた』。この功績によって元禄一一(一七〇八)年に従三位、正徳四(一七一四)年に従二位(本文で内での呼称はこれに基づく)にまで昇進している。『また、山崎闇斎から垂加神道を学び、前述の春海や一条冬経・野宮定縁らと結ぶ。また、その影響を受けて陰陽道と神道を組み合わせた独自の神道理論(土御門神道)を打ち立てた。だが、一方で改暦の実質上の中心であった渋川春海が江戸幕府に召されて天文方に入ったために改暦の中心が江戸に移る結果を招いた』とある。そこで土御門神道、現存する流派では天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)と称する、そのウィキを確認してみると、この泰福が陰陽頭になった天和三(一六八三)年五月、『諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉の朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」の開始と言われている』とあるのを見出した。そこで以上の事実を並べて見よう。
吉川惟足の生年 元和二(一六一六)年
惟足が京都へ出て、萩原兼従の門に入り、吉田神道の口伝を伝授される
承応二(一六五三)年(惟足は三十七歳)
土御門泰福の生年 明暦元(一六五五)年(惟足より三十九も年下)
泰福が土御門家家督を相続する
寛文元(一六六一)年
惟足が幕府神道方になる(惟足は六十六歳/泰福は二十七歳)
天和二(一六八二)年
泰福が土御門神道を開創する
天和三(一六八三)年
惟足の没年 元禄七(一六九五)年(七十九歳/泰福は四十歳)
泰福が従二位に昇進する
正徳四(一七一四)年
となる。後代になってからの叙述であるから、実際に当時はそうでなかった最高位「二位殿」を用いるのはおかしくはないものの、本文の惟足が未だ「壯年」で貧しい生活を送っていて(上記の事実はこれと完全に合致する)、最後は「さりてより關東に歸り、其修行增長なしけん、將軍家へ被召出」れたというのであるから、惟足がもし本当に泰福に逢ったとすると、これ、泰福は未だ二十代前半より若い時、しかも土御門家を相続する前ということになってしまう。若き六十の老体の惟足が俊才泰福に教えを乞いに行ったという可能性が絶対にあり得ないとは言えないが、そもそも惟足が京都へ出て萩原兼従の門に入り、吉田神道の口伝を伝授されたという、本文の記載と酷似した「事実」を提示されれば、これはもう――この話柄全体が完全なあり得ないデッチアゲである――という断じてよいであろう。相手が萩原兼従であるよりも従二位の土御門泰福である方が箔がつく。これは所謂、宗教開祖伝承に纏わる如何にもありがちな「何だかな~」都市伝説の一つに過ぎないのである。さても、こんなことは識者の間では分かり切っている事柄なのではあろう。しかし、惟足や泰福など聴いたこともない凡愚の私には、鈴木氏の注も長谷川氏それも、こうした事実との多様な齟齬が判然とするような配慮がなされているとは、私には思われないのである。噓か誠か、これはこの件に関して言うなら、とても大切な考証であると私は思うし、それはやはり、それなりに納得出来る形で証明されていなければ、注としては不完全であると私は思うのである。
・「浪人」非職。定職を持たない者の意。
・「神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞」読みは、
かみのみち/しるべばかりに/くれはとり/あやしとなどか/ひとのみるらむ
である(「舞」は「む」の変体仮名)。「しるべ」は「道標」を道を「知る」(知ろう)に掛ける。「くれはとり」は「あや」の枕詞。本来は「呉織」「呉服」と書き、元は「くれはたおり」の音変化で「くれはどり」とも書くことから、鳥と転訛したものか。原義は上代に漢織(あやはとり)とともに中国の呉の国から渡来したと伝えられる織工の呼称で、そこから彼等がもたらした技術で織った綾模様のある絹織物のことを指した。それが美しい綾を持つところから「あや」「あやに」「あやし」に掛かる枕詞となったものである。さらにここは、この「呉羽鳥」の「くれは」を「來れば」に掛けてあって、
……土御門殿を、神道の神髄への道標、導きとばかり思い慕ってはるばる江戸より来てみれば/参ってのに……何とまあ、何故か、その私を「怪し」(賤しいの謂いも含むであろう)き者と、そのお方はお思いになれれた……
として、下の句の恨みを含んだ感懐と響き合うように作られてある。
・「大津」東海道五十三次の五十三番目の宿。終着の京の三条大橋とは三里(十一・八キロメートル)を隔てる。
・「いさいの學力を訊し其申所を聞しに」何となくダブっていてよろしくない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(恣意的に正字化し読みも歴史的仮名遣で示した)、
委細の學力を樣(ため)し其申(まうす)處を聞(きき)しに
で通りがよい。訳ではこちらを採用した。
・「增長」現代の用法では誤りであるが、古文では必ずしも、よくないことのみに用いるわけではない。
■やぶちゃん現代語訳
吉川(よしかわ)家先祖の事
神道家吉川源十郎殿の先祖は、社務を職となされた御仁であられた。
壮年の頃より神道に志し深く、神道の学究に心を尽くし、その道には自身も、これ、少しくその心をつらまえ得たり、と感じはしておったものの、
「かの神道が奥義を得んためには、知られた神道家土御門家へ入門致すに、若くはない。」
と思うた。
されども、もとより貯えておる財も少なく、懸命に質素倹約を本(もと)とし、ようやく相応の路銀その他を溜め得て、東海道を下って、京は、かの土御門家へと参り、取り次ぎの者へ対し、
「――神道信仰の者なれば――入門、これ、相い願いとう存じまする。」
由、言上致いた。
ところが、
「……本家入門の儀は、これ、人を以って御(おん)申し込み、御座らねば、成り難し――」
との返答で御座ったによって、源十郎、
「――我らは浪人にして、殊に、この京地(けいち)には知音(ちいん)も御座らねば、兎も角も、二位殿へ、かくと、申し入れ、これ、給はらんことを切(せち)に乞うておりまする!」
としきりに望んで御座った。それでも、
「……これは、土御門の法式(ほうしき)なれば、再応申されても、成り難きものは成り難きものじゃて!」
と告げて、ともかくもその日は返した。
その夜、取り次ぎの者が、
「かかる浪人者が、昼つ方、参りましたが……」
と、二位殿へも申し上げたところ、
『……そのような……常識はずれな願いも、これ、あるものか、の。』
と、ちょっとお思いになられたものの、そのまま聴き捨てにしておられた。
ところが次の日より、引き続き両三日に亙って、源十郎殿、土御門邸へ日参致いては、
「――何卒!――土御門様へ御目見得(おめみえ)なしとう存ずる! 平に!」
と申せども、
「何度言うたら分からっしゃるんや! 法(ほう)に背いては、のぅ! 取り計ろうこと、これ、成らんものは成らんのどす!」
と、遂に最後は、けんもほろろに玄関払いを喰らわされたと申す。
されば源十郎、その場にて、
「……はるばる関東より参った甲斐、これ、御座らなんだかッツ!……」
といたく歎き、
「……最早、関東へ帰るしか、あるまい。……さてさて、全く以って是非なきことと相い成ったものじゃ……」
と独り言を呟くと、歌一首を詠みて、その取り次ぎの者へと渡し、立ち去ったと申す。
その歌に、
神の道しるべばかりに呉羽鳥あやしとなどか人のみるら舞
さて、その日の午後、少しばかり気になって御座った取り次ぎの者は、宮中より戻られた土御門殿へ、この歌をお見せ申し上げたところ、土御門殿、その一首をご覧にならるるや、大きに驚き、
「……か、かかる志しの者ならば、これ、対面(たいめ)なして委細を聴き及ぶが、礼儀でおじゃる!……早々に呼び戻しさっしゃれッツ!」
と厳しく仰せられた。
されば、それより人を出だいて、後を追いかけ、ようやっと大津の宿にて源十郎に追いつき、そのままいろいろ慫慂なしては引き戻させて、土御門殿と目出度く対面(たいめ)をなした。
その場にて、土御門殿、源十郎へ神道に就きての委細の学力を問い質して試し、また、その考えるところをとくと聴いてみたところが、これ、まっこと、その道の碩学(せきがく)にして、謂わん方なきほどの学才の持ち主であることが分かって御座った。
されば直ちに、その一両日に、土御門家に伝わるところの神道の奥義、これ、皆、伝授なされたとのことで御座る。
それより、源十郎殿は関東へ帰られ、その後、この伝授を受けたことを含め、はなはだし修行をなされたそのお蔭か、将軍家より召し出だされ、幕府神道方となられたので御座った。
それより吉川家御子孫、これ、連綿と栄えられ、神道家として、今以って相続なされておらるるので御座る。