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2015/02/05

耳嚢 巻之九 平澤滑稽文章の事

[やぶちゃん前注:以下の本文は一部、私が恣意的にいじってあるので注意されたい。後注参照。]

 

 平澤滑稽文章の事

 

 佐竹の藩中に、若かりしころは留守居など勤(つとめ)し平澤平格といふ者有。多才滑稽のおのこにて、狂歌狂文など專ら人口に鱠炙(くわいしや)せり。狂名は手柄(てがら)の岡持(をかもち)といひし。文化の初(はじめ)世を去りしか、渠(かれ)が存在の内つゞりし、短册のゆゑよしといへる文を、人の携へ來りしを寫置(うつしおき)ぬ。

   短册のゆへよし

 今は涼しき國に世をさけし妙慶と聞へし尼君は、金谷氏意啓(かなやしいけい)の叔母にして、明和のとし頃、意啓に對面の折から、一ひらの花たんざくをとり出て、こは澤村訥子(さはむらとつし)が水莖(みづくき)のあと也。つばらにかたり出んも、いとおもはゆう恥しきわざにしあれど、此尼がいと若かりし時は、調子も花やぎたるみやびをにて、藝もまた、咲(さく)ものこらず、散りもはじめずとなん、いはん頃にしあれば、こよなふしたひわびて、しづ心なきまでにおぼえし。こは我のみに限らず、人の思(おもは)んことをも憚からず、かたみにうち出(いで)て、たれかれと、したひあえるは、みやづかへのをみなの習ひにして、つかへのうさを、慰(なぐさむ)るたよりともなす事にぞありける。其頃かみつかたより、物かゝせ給ふついでありけるを、よき折(おり)なりとて、ひたすらにこひて、此發句を得たり。其時のうれしさは、千ひらのこがねをえたりとも、かうこそはと思ふばかりにてひめ置(おき)つれど、かくよはひかくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば、遠き國に趣きては、此短册もいかに成(なり)ゆきなんと思ふからに、そこにあたへんとて、意啓にゆづられしなり。意啓かしこまりて、うけ納(をさめ)てより、はや四十とせばかりにもなりぬ。かゝる名におへる人の筆のすさびは、年をふるに隨ひて、もてはやすべきものなるを、我家にありても、末はいたづらにや成行(なりゆき)なん。今の曙山(しよざん)は、此訥子がひゝこなれば、かれにこそ讓り傳へめ。正しくおほおほぢの筆のあとにしあれば、かつよろこび、かつかしこみて、長くよそ人の手にはもれまじうなん。さらば妙慶尼のみたまも、うれしとやおぼさんと思ふからに、曙山に其よしをかたりぬれば、よろこびて乞ふまゝに、ゆづりつたふるわざにはなりぬ。其あらましをば、おのれにかきしるしてよ、とりそへて曙山におくらんと、意啓がこふ儘に、志の厚き事をめでゝ、意啓に代り、しるすになん、

  遠つ親のわざをしたはゞ水莖のあとも絶せず千年さかえむ

岡持いふ、右文の内、かくよはひ傾(かたぶ)きと書(かく)べきを、かくよはひかくよはひ傾きとかきたるは、暑き日のつかれに、ねぶけつきての書損(かきそんじ)也。さればあとのかくよはひは出ものになりたれども、今さら捨られもせず。かくよはひといふ五字をほしがる人あらば、少しは金をつけても、人にやつて仕廻(しまはし)たい事と思ふに、江戸は廣き所にて、其あとのかくよはひ不用(ふよう)ならば、申(まうし)うけたしといふ人有(あり)。それは何する事よと問へば、其人いふ、我は年の秋、上州より出羽まで用の事ありて行(ゆき)けるに、十五夜は桐生(きりふ)、十三夜は出羽の酒田なりしが、二夜ともに曇りて月を見ず、其癖翌日は晴天なれば、其後其歌を詠(よま)んと思ひ考(かんがへ)て、下の句は出來、上の句も十二字迄は出來たれども、五字不足にて歌にならず。其不用の五字をたして、三十一文字にせんと思ふなり。其の上の句は、桐生酒田の月も見ずと計(ばかり)なれば、桐生と酒田の間へ、其不用の五字をつかふつもりといふ。其歌はと問へば、

  きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない

此文にある澤村訥子といへるは、始(はじめ)澤村宗十郎又長十郎といふ。後(のち)助高屋高助(すけだかやたかすけ)といふ歌舞伎役者なり。享保の末、元文寛保の頃より名高く、寶曆の始(はじめ)までありける。曙山といへるは其弟子筋也。血緣今はしらざれども、享保文化の頃、澤村宗十郎と名乘りしわざおぎ也。はれやくたいもないとは、元租訥子が狂言の時、ひたといひし言葉にて、誰(たれ)しらぬものもなかりしことなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸というか、技巧走りの狂歌シリーズで連関。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、以下の引用文の筆者平澤平格(後注参照)なる人物は文化十年没であるから、未だ満七十四で存命であった。

★なお、実は底本では(下線部やぶちゃん)、

 

かくよはひかくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば、

 

の箇所は実は底本では、

 

かくよはひかたぶき、尼の身にてさへなれば

 

とあって後に記すようには重出表記となっていない。また、その後の、

 

右文の内、かくよはひ傾きと書べきを、かくよはひかくよはひ傾きとかきたるは、

 

の箇所も底本では、

 

右文の内、かくよはひ傾きと書べきを、かくよはひかく傾きとかきたるは、

 

と「よはひ」が入っていない。しかし、この底本のままでは読解が如何にもし辛い(事実、私は若き日にこの底本で初読した際、この章のこの辺りの意味が実はよく分からなかった記憶があるのである)ので、敢えて例外的に底本をいじったので注意されたい

・「佐竹」出羽国秋田久保田藩二十万五千八百石。当時の藩主は第九代佐竹義和(よしまさ)。

・「平澤平格」久保田藩定府藩士で江戸留守居役であった平沢常富(享保二〇(一七三五)年~文化一〇(一八一三)年)。戯作者としてのペン・ネームを朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)と言い、狂歌師として手柄岡持(てがらのおかもち)の狂名でも知られる。底本鈴木氏注に、『「てがら岡持、平沢常富、通称平格、薙髪して平荷といふ、初号浅黄裏成、喜三二、亀山人、朋誠堂、道陀楼麻阿、虎耳崛とも号す、又俳に月成、狂詩に韓長齢天寿などといへり、文化十年五月廿日、七十九歳にて歿す、寺は深川浄心寺中二乗院にて、浄心寺墓地に墓ありしが、無縁と見えて、台石も埋りゐたり、震後将た如何なりしか。」(三村翁)。秋田藩の留守居役。安永六年以後、黄表紙の著作が多い。天明八年「文武二道万石通」を作り幕政を諷刺したので、藩主は戯作を厳禁した。狂歌人としては蜀山人などと深く交わった』とある(ここでは戯作執筆を藩主が厳禁したと断定しているが、以下のウィキでは推定となっているが、諸記載は概ね断定している)。以下、ウィキの「平沢常富」からも引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『通称は平角(平格とも)、字は知足、号は愛洲。隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける』。『江戸の武士、西村久義(平六)の三男に生まれ、十四歳で母方の縁戚にあたる久保田藩士・平沢家の養子になった。天明の頃は藩の江戸留守居役筆頭で、百二十石取りであった。当時の江戸留守居役は、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や他藩との交渉を行う、一種の外交官に相当した』。『若い頃から「宝暦の色男」と自称して吉原通いを続け(吉原も一種の社交サロンであった)、勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。また、田沼時代は武士・町人の間に「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こり、数多くの連(サークル)が作られた。常富も手柄岡持や楽貧王という名で狂歌の連に参加していた』。『しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙「文武二道万石通」』(ぶんぶにどうまんごくどうし)『を執筆し天明八年(一七八八年)に上梓したことから藩主・佐竹義和より叱りを受けたらしく、黄表紙からは手を引き、以降はもっぱら狂歌作りに没頭した』。『墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。子の平沢為八や孫の平沢左膳(初め重蔵)も江戸留守居を勤め、用人にも就任した』。代表作は「文武二道万石通」の他、「親敵討腹鞁」(おやのかたきうてやはらつづみ:安永六(一七七七)年刊。「かちかち山」の後日譚という体裁で、子狸に親の敵と狙われた兎が義理に迫られて切腹、狸の方は猟人を導いて討たせた狐の子狐に猟人とともに討たれるという筋。)「案内手本通人蔵」(あなでほんつうじんぐら:(安永八(一七七九)年刊「仮名手本忠臣蔵」のパロディで、登場人物が総て通人という設定。)「見徳一炊夢」(みるがとくいっすいのゆめ:安永一〇・天明元(一七八一)年刊。彼の最初のヒット作とされる。)等がある。因みに、その問題作黄表紙「文武二道万石通」は喜多川行麿画で三冊、天明八(一七八八)年刊で、文武どちらにも優れない放蕩怠惰で不真面目なぬらくら武士らが源頼朝の命を受けた畠山重忠によって、富士山の人穴潜りや箱根七湯で湯治をさせられ、重忠がそれを隠密裏に観察評価し、文武孰れかに振り分けようとする話で、同奨励策の実相を捉えて痛烈に風刺した作である。これは主に日向ぼっ子氏のブログ「日向ぼっ子の大江戸散歩」の「江戸の町から武士が消えちゃった?!」の記載にお世話になったが、そこにはこの作が定信の家臣であった『水野為長が幕臣の人物評・風評を書いた「よしの冊子」』(よしのぞうし)を下敷きに、『松平定信の寛政の改革である質素倹約と文武奨励を、武士である身で批判している』ともある。ただ、この「よしの冊子」はウィキの「よしの冊子」によると門外不出で、文政三(一八二〇)年頃に発見された、とあり、少し齟齬があるように思われる。しかしこれは、当時から既にその冊子の存在自体はよく知られていたということを指すか(以下、参考までに「よしの冊子」について同ウィキ記載を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『寛政の改革で知られる松平定信の家臣・水野為長が、世情を定信に伝えるために記録した』、『官界やそれらを取り巻く世間の内幕情報をまとめたもの』で、『書かれている内容は噂話であるため必ずしも史実とは限らないが、当時の世相を知る貴重な資料として多くの著作に利用されている。原本は無題だが、一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する「よし(由)」とあったことから、「よしの冊子」と呼ばれるようになった』。『賄賂が横行した田沼意次の時代が終わり、一七八七年に松平定信が三十歳という若さで老中に抜擢されたが、経験の浅い定信は政府の内部事情に疎かったため、側近の水野為長が隠密を使って情報を集め、要旨をまとめて定信に渡していた。その原本は、天明初年―寛政中期(十八世紀後半)に書かれ、全部で百六十九から二百冊あったと言われるが、所在はわかっていない。一八三〇年(文政十三年)に田内親輔が定信の遺箱の中から為長筆の原本を発見し、藩友以外に見せないよう明記の上、後世に定信の施政を伝える資料として抄出した。現存する写本はこの親輔の抄本を基にしており、桑名市立中央図書館、国立国会図書館、慶応大学に所蔵されている』。『内容は、個人の風聞・評判や人事が中心で、そのほか、定信邸内の事柄、都市や農村の情報、対外政策、思想まで多岐に渡る』とある)。

・「文化の初世を去りしか、渠が存在の内つゞりし……」おいおい! 根岸殿! 平澤殿はまだ生きておられますぞ!(「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、平澤の没年は文化十年。戯作が禁じられてしまって以降、平澤の露出が巷で減ってしまい、根岸は既に亡くなったと錯覚していたのかも知れないし、平澤の文章の冒頭「涼しき國に世をさけし」に引っ掛けた根岸のブラック・ユーモアともとれる。平澤ならしかし、これを見たら、ニンマリして、あの世からなら幾らも幕政批判の戯作が書けるわ! と思ったかも?!

・「短册のゆゑよし」「故」なら「ゆゑ」が表記は正しい。「ゆゑよし」とは由緒という意味か? 後半の「かくよはひ」の詞を和歌に詠み込んだことを、結んだ、と言い換えるなら、「ゆへ」(結へ由)と読むことも可能である。

・「涼しき國に世をさけし」岩波版長谷川氏注に、『極楽に去った』とある。

・「妙慶」「金谷氏意啓」「意啓」は取り敢えず「よしのり」と訓じておいた。実在する人物のように書かれてはあるが、この話全体が戯作で、全くの架空人物の可能性もあろう。一見すると後の付けたりの落ちが如何にもな感じに見え、全体に嘘臭さがぷんぷんするのであるが……しかし……私はこの二人は実在し、この前半の話も実録であると考えている。後の最初の和歌の注を参照されたい。

・「明和のとし頃」西暦一七六四年から一七七一年まで。

・「花たんざく」染め色をしたり、絵を配してある豪華な短冊のことか。

・「澤村訥子」は歌舞伎役者の名跡。屋号は紀伊國屋。定紋は丸にいの字で、替紋は三羽鶴。名は「とっし」と読む。ここは初代助高屋高助で初代澤村宗十郎(貞享二(一六八五)年~宝暦六(一七五六)年)。底本鈴木氏注に、『本名は三木藤五郎、京の人、正徳四年染山喜十郎とて伊勢古市初舞台、享保二年元祖沢村長十郎宗慶門に入り、沢村善五郎と改、宗十郎と改、吉宗将軍の講を憚り一時惣十郎となる、延享三年改長十郎、宝暦三年助高屋高助、同六年正月三日、七十三歳にて沒す、法名高竜院月得日助信士、浅草新寺町長遠寺に葬る。(三村翁)出身は武士の三男。伊勢の芝居で腕をみがき江戸に出て活躍し二代市川団十郎と並んで宝暦期の江戸劇壇を代表する名優となった。和事と実事を得意とした』とある。ウィキの「助高屋高助(初代)」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『屋号は紀伊國屋、俳名訥子・高賀』と称し、『もとは武士三木某の子で、正徳五年(一七一五年)に染山喜十郎と名乗り伊勢古市の芝居に出る。享保元年(一七一六年)十一月、初代澤村長十郎の門人となって澤村善五郎と改名し大坂の大芝居に出た。その後、初代姉川新四郎の代役で『国性爺合戦』の和藤内を勤めたところ大好評を得、注目を浴びるようになる。享保三年(一七一八年)江戸に下り、森田座の顔見世』「前九年鎧競(ぜんくねんよろいくらべ)」に『出た折に澤村惣十郎と改名、その後さらに澤村宗十郎と名を改め、役者だけではなく狂言作者も兼ねた』。享保二一(一七三六)年、「遊君鎧曽我(ゆうくんよろいそが)」のピカレスク梅(うめ)の由兵衛(よしべえ)を『演じ大当りとなったが、このとき舞台で用いた用いた頭巾が大流行となった。これが今日でも鞍馬天狗などに見られる宗十郎頭巾である』。『延享四年(一七四七年)六月、京都中村粂太郎座で『大矢数四十七本』の大岸宮内を演じて大当りとなる。同年江戸に下って三代目澤村長十郎と改名し、十一月には中村座顔見世で『伊豆軍勢相撲錦』の河津三郎を勤める。このときに舞台を共にしたのが二代目市川團十郎の俣野五郎と初代瀬川菊之丞の実盛娘熊野で、この河津と俣野の相撲に熊野がからむ所作事を見せ、豪華な千両役者が揃う「三千両の顔見世」という評判をとった。寛延三年(一七五〇年)の夏には江戸三座で『仮名手本忠臣蔵』を競演し、初代山本京四郎や初代坂東彦三郎が各座で大星由良助を演ずる中、宗十郎は中村座で由良助を演じ「随一」と評される。宝暦二年(一七五二年)の評判記では真極上上吉にまで昇りつめ、翌年十一月には助高屋高助と名乗った』。『時代世話、和事、実事と女形以外の役なら何でもこなし、私生活では音曲や書画、俳諧、茶を嗜む風流人として知られた』とある。またこの歌舞伎名跡としての『「訥子」は初代澤村宗十郎(初代助高屋高助)の俳名に由来する。この初代と、続く二・三・四・五・六代目は、それぞれ「訥子」を俳名としては使ったが、実際にこれを名跡として襲名することはなかった。実際に「澤村訥子」を襲名したのは七代目が最初である』とある。

・「咲ものこらず」美しくぱっと咲いて美事に散るような如何にも粋で味な演技をいうか。若き色男のキレのある演技を、「風姿花伝」の「老いても花は残るべし」を逆手にとってパロったもののように私には読める。

・「かたみにうち出て」岩波版長谷川氏注に、『互いに言いあい』とある。

・「みやづかへ」仕えた貴人は明らかでない。大名格の武家と思しい。

・「かみつかた」岩波版長谷川氏注に、『主人筋』とある。

・「うけ納てより、はや四十とせばかりにもなりぬ」先に「明和のとし頃」とあったから、そこから四十年後は文化元・享和四(一八〇四)年から文化八年(一八一一)年ということになるが、後ろは取り敢えず「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年夏以前まで下げ得る。

・「曙山」底本鈴木氏注に、『二代目宗十郎。もと富沢門太郎の門弟。江戸へ下って後に初代宗十郎の養子となり、寛延二年襲名。明和七年没、五十八。若女方から立役に転じ、さらに実悪専門となった』とあるが、これでは後の「ひゝこ」と噛み合わないので、岩波版長谷川氏注にある四世澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化一〇(一八一三)年)が正しい(「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年からも自然である)。三代目澤村宗十郎の長男で、初代澤村源之助から四代目澤村宗十郎を名乗った(俳名も同じく訥子)。

・「此訥子がひゝこなれば」「ひゝこ」曾孫。ウィキの「澤村訥子」を見ると、二代目は初代の養子、三代目は二代目の次男、四代目は三代目の長男である。血縁のない初代であるが系図上は曾祖父ととっておかしくない。

・「遠つ親のわざをしたはば水莖のあとも絶えせず千年さかえむ」は、

 遠(とほ)つ親(おや)の伎(わざ)を慕はば水莖(みづくき)の跡(あと)も絶(た)えせず千年(ちとせ)さかえむ

で、歌舞伎名跡の言祝ぎである。まあ、この手の和歌にありがちな退屈な一首である。恐らく、そうした退屈さをわざとここに持って来て、ここを転回点にして、以下の意外な笑い話をカップリングすることこそが、平澤の真骨頂であったのではないか? とすれば、この前半の話は寧ろ、事実である必要性が高い虚実皮膜こそが歌舞伎の神髄だからである。

・「暑き日」この「短冊のゆえよし」という文章は、少なくとも夏の暑い盛りに書かれたものと分かる。とすれば、執筆推定下限である文化六(一八〇九)年夏の同時記載は考えにくいから、先の下限は文化五(一八〇八)年夏以前まで下げ得る。

・「出もの」ここは表面上、余計な部分、衍字の謂いであるが、実は辞書を引くと、「出物」には、できもの・おでき・屁(へ)を原義(これ以下の部分は、それこそ前の文脈からは「おでき」か「屁」のようなものだとも言えまいか?)として、芝居などの演目・出し物の意があり、また「出者」を見ると、厚かましい人・出しゃばり者を原義として、のけ者にされる人・特に遊里で冷遇される客の意、及び能で役柄のことを指す語とあるから、この歌舞伎役者絡みの話柄にはすこぶる相性のよい語であることが分かる。そこを平澤は意識しているものと私は考える。

・「桐生」群馬県の東部の現在の桐生市。以下、ウィキの「桐生市」より引く。『この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である』。『織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている』。「吾妻鏡」などに『よれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられて』いる。慶長五(一六〇〇)年、『関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進し石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという』。『現在の市街地が形成され始めたの』もその頃で、『徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった』。『桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めた』。この後の『天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。戦後は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている』とある。

・「酒田」山形県の北西の現在の酒田市。平安時代には出羽国国府として築いたと考えられる城輪の柵がある。酒田の街は袖の浦(現在の酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣三十六人が永正一八・大永元(一五二一)年頃に最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われる。袖の浦は中世には既に貿易の中継地で寛文一二(一六七二)年に河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、酒田はますます栄え、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」とも称されるようになり、北の秋田の外港土崎湊と並んで奥羽屈指の港町として発展した。「日本永代蔵」に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は「三十六人衆」という自治組織により運営されていた(以上はウィキの「酒田市」に拠る)。

・「きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない」まず、「きりふかくよはひさかたの」の二句に跨って、先の「かくよはひ」の衍字分が挿入されてある。底本鈴木氏注には、『霧深く夜は久方の月も見ず、と、桐生かくよはひ酒田の月も見ずと、両方へかけたるなり、岡持文才あり過ぐる恨あり。(三村翁)』とある(しかし、実は平澤は実は三村竹清氏のような批判を受けることを既に百も承知だったのではあるまいか? だからこそ『出者』たる者と自己認識する彼はこの『出物』(以上、前注参照)の話を確信犯的パロディとして添えたのだと私は思うのである。)「ひさかたの」は「月」の枕詞。下の句の「はれ」は「やれ・やあ・まあ」といった感動詞(歌謡の囃子言葉でもある点でも歌舞伎と相性が良い詞である)と、夜空の「晴れ」を掛ける。「やくたいもない」は「益体も無い」で役にたたない人物・物を言うと同時に、後に出るように初代澤村訥子の知らぬ者とてない名台詞でもあったとあって、これ、「やくたいもない」後半部の「やくたいもない」オチの切りの名調子となっているのである。これはやっぱり、「出者」平澤平格、確信犯の「やくたいもない」「出物」であると私は信ずる。

・「此文にある澤村訥子といへるは、始澤村宗十郎又長十郎といふ。後助高屋高助といふ歌舞伎役者なり。享保の末、元文寛保の頃より名高く、寶曆の始までありける」この解説は根岸によるものであろう。ここでの「沢村訥子」は前記の初代澤村宗十郎を指す。彼の芸名は厳密には、初代染山喜十郎→澤村善五郎→澤村惣十郎→初代澤村宗十郎(俳名:初代訥子)→三代目澤村長十郎→初代助高屋高助である(ウィキの「澤村訥子」記載)。「享保の末、元文・寛保の頃より名高く、寶曆の始」とあるのは、よく事実を記している。先に示した通り、彼が大当りをとって一躍有名になったのが享保二一(一七三六)年の「遊君鎧曽我』」の梅の由兵衛を演じた時で、享保の次が元文、次が寛保、その後に延享・寛延を挟んで宝暦となり、初代訥子は宝暦六(一七五六)年一月三日に享年七十二で亡くなっているからである(因みに二代目は養子で、初代の死に先立つ七年前の寛延二(一七四九)年に初代澤村宗十郎の養子となっており、訥子という号と、二代目澤村宗十郎を襲名した)。なお、根岸は元文二(一七三七)年生まれで、初代の没年には弱冠二十、彼が御家人株を買って末期養子として下級旗本根岸家の家督を嗣いだのはその翌年の宝暦八(一七五八)年であるから、貧乏武士の鎮衛は芝居どころの騒ぎではなかったとは思う。それでも彼の若き日の記憶に残る俳優の名ではあったに違いない。だからこそこの文末は「ありける」と間接体験の過去「けり」の連体中止法で余韻を残してあるのであろうと私は読んだ。

・「曙山といへるは其弟子筋也。血緣今はしらざれども、享保文化の頃、澤村宗十郎と名乘りしわざおぎ也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「享保文化」を『享和・文化』とする。そうでないと享保(一七一六年~一七三五年)から文化(一八〇四年から「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年)では実に九十三年間となってとんでもないことになる。現代語訳でも「享和」を採った。「曙山」はウィキの「澤村訥子」に記載によれば二世・三世が、岩波版長谷川氏注によれば『二世・四世が用いた号』とする。長谷川氏注は更に続けて、『二世は明和七年(一七七〇)、三世は享和元年(一八〇一)没。三・四世を混同するか』とする。これは「享和・文化の頃」とあるのを受けた疑義である。調べてみると、三代目は(リンク先は三代目のウィキ)明和八(一七七一)年十一月に成人を機に三代目澤村宗十郎を襲名したとあり、四世澤村宗十郎の没年は文化一〇(一八一三)年で、先の私の推定から、この短冊が「曙山」に渡されたのは文化元・享和四(一八〇四)年から文化六(一八〇九)年夏までの間であるから、この「享保(×→享和〇)文化」は長谷川氏のおっしゃるように、根岸が三世と四世を混同してしまっていると読むべきで、事実とすれば、これは四世の澤村宗十郎曙山しかあり得ない。「わざおぎ」は俳優。「わざをぎ」と書くが、古くはこの「わざおき」で正しい。漢字表記も「俳優」で、「神を招(お)ぐ態(わざ)」を原義とする記紀の時代からの古語。本来は、面白おかしい技を演じて歌い舞い,神や人の心を和らげ楽しませることを指し、その最初は、ご存じ天の岩戸の前でストリップを演じた日本最古の踊り子にして芸能の女神天宇受賣命(あめのうずめのみこと)である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 平澤平格(ひらさわへいかく)の滑稽(こっけい)の文章の事

 

 秋田佐竹殿の久保田藩藩中に、若かりし頃は江戸留守居役などを勤められた平澤平格と申す御仁がおる。

 多才・滑稽をこととさるる武士にして、その狂歌・狂文などは、広く人口に膾炙しておる。

 狂歌の狂名は「手柄岡持(てがらのおかもち)」と申さるる。

 文化の初め頃、すでに世を去られたものか、その平澤殿が存命のうちに綴ったと申す「短冊(たんざく)のゆえよし」と申す文章を、さる御仁が携えて参ったによって、それを以下に写しおくこととする。

   ――――――

 

   短冊のゆえよし

 

 今は既に、涼しき御国(みくに)へ世を避けて向われた――妙慶――と申された、名の知れたる尼君は、かの――金谷氏(かなやし)の意啓(よしのり)殿――の叔母で御座った。

 明和の頃、この尼君、意啓殿に対面(たいめ)なさった折り、一枚(ひとひら)の花短冊をとり出されて、

「……これは、かの名優初代澤村訥子(とっし)さまの水莖(みずくき)の痕(あと)にて御座います。……委細を語り申すも、これ、たいそう面はゆぅ、恥しきことなれど、この尼が、たいそう若かりし頃は、このお方……

――如何にも華やかにして雅びなる男子(おのこ)にて

――その芸もまた、大輪の花がぱあっと咲いて

――潔ぅぱっと美しく散ったように

――いいえ!

――咲いたままに散る気配ものぅ

――永遠(とわ)に咲き続くる極楽の常盤(ときわ)の美花のごとし

――とでも申すべき

――これ、若く美しき顔(かんばせ)と仕草で御座いました……

……そのお方を……妾(わらわ)……これ、こよのぅ、慕いわびて……まっこと……思慮分別ものぅなるほどに……あくがれておりました。……いえいえ、これは当時の妾(わらわ)のみに限ったことにては御座いませぬ。……そのようなる思慕、人が知ったらどう思われるかということ、これをも憚からず……女房同士、皆、互いに、かのお人のことをひっきりなしに噂し合おうては、誰彼(たれかれ)とのぅ、皆、慕い合あうと申すは、宮仕えの女房衆の、これ、習いで御座ったのです。……あのお方がことを思うことで、皆、辛き勤めの憂さを、これ、慰むる便(よすが)とも致いておったので御座います。……

……ところがちょうど、その頃のこと、お仕え申し上げておりましたる御主(ごしゅ)さまより、この訥(とつ)さまに、ちょっとしたものをお書かさせなすったこと、これあり、

『――これぞ! 千載一遇の折りじゃ!――』

と、その序でに、妾(わらわ)より御主(ごしゅ)さまへ、只管(ひたすら)に乞うて、この発句の花短冊を得たので御座いました。……

……その折りのうれしさというたら!……それはもう……千枚の小判を得たとしても……あの折りの……天にも昇る心地となるとは……これ、思いませぬ!……

……実は……我ら、尼ながら……その時の恍惚の思い……これ、今以って続いておるので御座います。……

……されば……これだけは、と執心致いて、かくも秘めおいて参りました。……

……されど……かく齢(よわい)傾ぶきかく齢傾ぶき……

……しかも……かく……尼の身にてさえあればこそ…………これより遠き御国(みくに)に赴くに際しては……この現世への思いを絶たねばと――

――いいえ!

――本心を申さば

――この愛しき人の水茎の痕を記したる短冊が

――妾(わらわ)亡き後

――どうなってしまうかと

――これ、気が気では御座らぬによって……そこ許(もと)へ……与えんとぞ思う。……」

とて、意啓(よしのり)殿に譲られたと申す。

 さても――意啓殿が畏まってこの花短冊を受け納めてより――早や、四十(しじゅう)年ばかりにもなる。

 今年のこと、意啓殿、はたと考えたと申す。

「……このようなる著名な御仁の筆の遊(すさ)びと申すものは、これ本来は、年を経(ふ)れば経るほどに、持て囃されて評判となるものなるに……かくもただ、このまま我が家にあったとしても、これ、末は如何にも無駄なものとなってしまうであろう。……さても、当代の澤村曙山(しょざん)は、この句を詠んだる初代訥子(とっし)の曾孫(ひまご)なれば――そうさ、かの者にこそ、これは譲り伝えんこととしよう!――正しき曾祖父の筆の痕(あと)ともなれば、これ、且つは喜び、且つは畏まって、永く、見ず知らずの他人の手に漏れ渡ってしまうと申すようなことも、これ、御座るまい。――さらば、叔母上、妙慶尼の御霊(みたま)も、必ずや、嬉しと、お感じにならるるに、これ、違いあるまい!」

と思うたによって、知る人がりを頼んで、曙山にその由を語ったところ、曙山も大きに悦び、是非に、とその短冊を乞うたによって、そのまま譲り渡され、今に紀伊國屋に伝わる元祖訥子の業物(わざもの)となって御座る。

 その折り、――以上のあらましをば、拙者に書き記して貰いたい、それをとり添えて曙山に贈ることと致しとぅ存ずる――と、金谷意啓(かなやよしのり)殿御自身からたって乞われたによって、乞われたままに、その曙山の志しの厚きことを愛でて、意啓殿に代わって、かくも認(したた)めた上、一首を捧ぐ。

 

  遠つ親のわざをしたはば水茎のあとも絶えせず千年さかえむ

 

〇附記。

 岡持、自ら、言う。

 右の文の内(うち)、「かく齢傾ぶき」と書くべきところを、うっかり「かく齢傾ぶきかく齢傾ぶき」と重ねて書いてしもうたは、暑き日にすっかり疲れ果てた上、少々、寝不足なれば、睡魔の襲うたによって書き損じてしもうたもので御座る。されば、後(あと)の方(ほう)の「かくよはひ」の文字(もんじ)はこれ、この文章にとっては屁の如き、余計なる、腫物(できもの)、厄介者、となってしもうた。

 かと申せど、花短冊に合わせて用意されたる特に誂えた高価なる紙に、我ら駄文の水茎も、これ、認(したた)めたて御座ったものなれば、今さらに、これを反故(ほご)にし、捨つること訳にも参らぬ仕儀と相い成ってしもうた。

 そこで、せめても、言霊(ことだま)として精抜(しょうぬ)きをせばやと思うて、

  かくよはひ

という「五字」を欲しがる人のあらば、少しは金を添えてでも、その魂(たましい)を人にやってしもうたい、なんどと切(せち)に思うて御座ったところが、いや! ほんに! この江戸と申すは! まっこと! 広き所じゃて! 何と!

「――その墨痕の――かくよはひ――の文々(もんもん)これ、不用ならば、申し請けとう存ずる。――」

と申し出てこられた方が、これ、御座った!

「……それは、一体、……その五文字を……何になさると申さるるか?」

と不審に思うて訊いてみたところ、その御仁の曰く、

「……我ら、今年の秋、上州より出羽まで用事のあって旅致いたので御座ったが、十五夜は桐生(きりゅう)――これ、書くなら「き」「り」「ふ」で御座るな――にて、十三夜は出羽の酒田(さかた)にて、これ、迎えましたるものの……二夜(ふたよ)ともに曇って月を、これ、見れず、御座った。そのくせ、孰れも、その翌日は、これ、晴天の夜(よ)で御座ったよって、少々癪に触りましてのぅ。その後(のち)、この恨みを狂歌の一首にも詠まずんばならず、と思い立って、捻(ひね)るうち、下の句は出来、上の句も十二文字(もじ)まではこれ、出来ましたものの、どうにも、あと五字、これ、不足にて、どうしても歌にならず、これ、はなはだ困って御座った。されば。その貴殿の不用の五字を足してじゃ。これ、三十一文字(みそひともじ)にせんと思うて、おるので御座る。その上の句は、の、

  桐生酒田の月も見ず

と申すばかりのもので御座れば、の。その「桐生」と「酒田」の間へ、その貴殿の不用の五字を使うつもりでおるのじゃ。」

と申した。

 それでも、その御仁の申さるることが、これ、今一つよう分からなんだによって、

「……その五文字を足したる和歌と申さるるは……これ、如何なるものとなって御座るか?」

と再び問うてみたところが、

 

  きりふかくよはひさかたの月も見ず明けてのちはれやくたいもない

 

   ――――――

〇根岸附記。

 この文にある「澤村訥子」と申すは、初め、「澤村宗十郎」、また、「長十郎」と称し、後(のち)に「助高屋高助(すけだかやたかすけ)」と名乗ることとなった歌舞伎役者である。享保の末、元文・寛保の頃より名優として名高く、宝暦の始めまで、現役で活躍して御座ったように私もその名だけは記憶しておる。

 また「曙山」と申すはその弟子筋の役者である。初代「澤村訥子」と今の「澤村訥子曙山」との間に血縁、これ、あるや否やは存ぜねど、享和から文化の頃、やはり「澤村宗十郎」と名乗った名優である。

 また狂歌中にある、「はれやくたいもない」と申す一句は、これ、元租の初代「澤村訥子」が、歌舞伎狂言に於いて、ことあるごとに使い回した名口調の名台詞(めいぜりふ)で御座って、誰(たれ)一人として知らぬ者はない、十八番(おはこ)の言い回しである、とのことで御座る。

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