堀辰雄 十月 正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅵ)
十月十九日、戒壇院の松林にて
けふはまたすばらしい秋日和だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を讀んだ。
數年まへの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤獨な氣もちで讀んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何處かあかるい空の下で、讀んでみたくて携へてきた本だが、やつとそれを讀むのにいい日が來たわけだ。
雪の中で、いまよりかずつと若かつた僕は、この戲曲を手にしながら、そこに描かれてゐる一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといつたやうなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知圖を愛するように、素朴に愛してゐることができた。いまも、この戲曲のさういふ抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは讀んでゐるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を與える餘りの純眞さ、さうしてゐるうちに自分でも知しらず識しらず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の葛藤、――さういつたものに何か胸をいつぱいにさせ出してゐた。
三時ごろ讀了。そのまま、僕は何かぢつとしてゐられなくなつて、外に出た。
博物館の前も素どほりして、どこへ往くといふこともなしに、なるべく人けのない方へ方へと歩いてゐた。かういふときには鹿なんぞもまつぴらだ。
戒壇院(かいだんゐん)をとり圍んだ松林の中に、誰もいないのを見すますと、漸つと其處に落ちついて、僕は歩きながらいま讀んできたクロオデルの戲曲のことを再び心に浮かべた。さうしてこのカトリックの詩人には、ああいふ無垢な處女を神へのいけにへにするために、ああも彼女を孤獨にし、ああも完全に人間性から超絶せしめ、それまで彼女をとりまいてゐた平和な田園生活から引き離すことがどうあつても必然だつたのであらうかと考へて見た。さうしてこの戲曲の根本思想をなしてゐるカトリック的なもの、ことにその結末における神への讃美のやうなものが、この靜かな松林の中で、僕にはだんだん何か異樣(ことざま)なものにおもへて來てならなかつた。
[やぶちゃん注:『クロオデルの「マリアへのお告げ」』フランスの外交官で劇作家・詩人のポール=ルイ=シャルル・クローデル(Paul-Louis-Charles Claudel Claudel 一八六八年~一九五五年)が一八九二年に発表した戯曲「乙女ヴィオレーヌ」(La Jeune Fille Violaine 初演(二校版による)は一九五九年)を一九一二年に改作した「マリアへのお告げ」(L'Annonce faite à Marie 同年初演)。私は未読であるが、こちらに登場人物と簡単な梗概が出る。
「戒壇院」東大寺戒壇堂。天平勝宝六(七五四)年に聖武上皇が光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真和上から戒を授かったが、翌年、日本初の正式な授戒の場としてここに戒壇院を建立した。当時は戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興されている(以上は東大寺公式サイトに拠る)。現在の建物は享保一八(一七三三)年の再建で、内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔が安置され、その周囲を塑造四天王立像(国宝)が守る。ウィキの「東大寺」によれば、この四天王像は『法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである』とある。私は教え子に連れられて初めてここに行き、その教え子の好きだという広目天像に親しく接し、痛く魅入られたことが忘れられない。]
三月堂の金堂にて
月光(がつくわう)菩薩像。そのまへにぢつと立つてゐると、いましがたまで木の葉のやうに散らばつてゐたさまざまな思念ごとそつくり、その白みがかつた光の中に吸ひこまれてゆくやうな氣もちがせられてくる。何んといふ慈(いつく)しみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしてゐる無心さうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のやうなものが漂つており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだといふ氣のするのは、僕だけの感じであらうか。……
一日ぢゆう、たえず人間性への神性のいどみのやうなものに苦しませられてゐただけ、いま、この柔かな感じの像のまへにかうして立つてゐると、さういふことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。
[やぶちゃん注:個人サイト「タツノオトシゴ」の「年譜」によれば、本パートの原形と思われる多恵子夫人への手紙は、実際には三月堂(東大寺法華堂の通称)ではなく、そこから七百メートルほど南下した万葉植物園で認(したた)められたものらしい。
「月光菩薩像」当時は東大寺法華堂に安置されていたもので、現在は同寺の東大寺総合文化センター内に展示されている奈良時代の国宝塑造日光・月光菩薩立像の一体。元は法華堂本尊不空羂索観音の両脇であった。参照したウィキの「東大寺」によれば、『天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられたもので、本来は、薬師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、製作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天・帝釈天だった、とする説もある』とある。ウィキの「東大寺法華堂」にある同月光菩薩立像の画像をリンクしておく。]
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